This is my essay.

立山の夏



中央右の立山から左端の剣岳に向かう

 今年の夏、上越新幹線で越後湯沢でほくほく線の特急に乗り、富山県が誇る霊峰、立山のそばを通った。ゴトン・ゴトンと軽やかな電車の音に乗って直江津あたりを走っていると、海岸べりは、日本海の荒波が押し寄せてくる荒涼たる風景である。ところがトンネルを抜けて富山県に入ると、全く別世界のような富山平野となる。というのは、ほどなくして視界の左手側に、真っ青な空を背景として、白い屏風のように連なっている高い山々が目に飛び込んでくるからである。立山連峰である。特に目立つ剣岳は3000メートルを越す。立山自体は、高さが剣岳にわずかに満たない山ではあるが、加賀の白山と並んでこの地方の霊峰として、昔から信仰の対象になっている。

 何しろこの地方のこれほど高低差のある地形は、世界でも稀なのではなかろうか。富山平野といっても、まさに猫の額と言ってしまうと失礼であるが、そんな言葉もおかしくないくらいに幅が狭い。ところがその背には、日本でも有数の3000メートル級の連峰が屏風のようにそそり立っていて、それからすぐに海に繋がっているのが富山平野である。しかも、その海はといえば、暖流と寒流が混じり合っていろいろな魚が獲れるだけでなく、海底の地形を調べると1000メートルに近い深海へと急激に落ち込んでいる。立山連峰の頂上から計算すると、その高低差は、何と4000メートルということになる。かくして富山地方は、海と山の幸に恵まれ、絶景を愛で、温泉がそこここに湧き出し、とりわけ、お魚もおいしいということになる。たとえば、古くからの漁港で有名な氷見市で食べる寿司の味は、格別である。

 ところで立山といえば、山岳アルペン・ルートが通じていることでも有名である。これは、長野県大町市から地下のトンネル経由で立山室堂という2500メートル地点まで上がり、そこから富山市まで降りてくることができる。雪に閉ざされる季節は毎年5月にやっと開通するが、道路の両脇には、除雪した雪がバス道の両側に山のように連なる。その真っ白い塀の間をバスがそろそろと通っていく風景は、なかなかの圧巻である。

 それはともかく、立山を見上げるたびに思い出すことがある。約四半世紀以上前のことになってしまうが、命が危うかったあのような危機的な場面に遭遇すると、やはり、なかなか忘れないものである。

 私が大学生のときのことである。私には親しい友人がいて、彼とは中学、高校そして今度の夏休みには、立山から剣岳に登ろう!」ということになり、早速それを実行に移した。8月のはじめ、二人で富山駅に降り立ち、そこから立山に向かう富山地方鉄道の電車に乗ったのである。快晴であるが、とても暑い日であった。緑が深い渓谷を抜け、終点で高原バスに乗り換えた。うねうねと続く弥陀が原という溶岩台地を走り、窓から入ってくる冷たい風を頬に受けた。高山植物の群落を抜け、地をはうような松の木を横目に、われわれは浮き浮きするようなピクニック気分で、本当に楽しかった。もちろんそのときには、天気のことなど、全然気にしなかったのである。ところがその頃、実は、大きな低気圧が刻々と近づいてくるところだった。そんなことも知らずに、バスの終点の室堂からリュックをしょって、楽しく歩き始めたのである。

 私のその友人は、高校時代に山岳部で活躍していた。だから、雪渓だろうが瓦礫のように足場の悪い場所であろうが、ともかくさっさと早足で歩いていく。私は遅れないように付いて行くだけで大変で、辺りの様子を眺める余裕も全然なかった。最初は、我ながらリズミカルに足が動くと思っていられたものの、すぐに呼吸は乱れ、足取りが重くなった。

 木など一本も生えていない岩屑だらけの、道ともいえない道を歩きながら、私は、二〜三年前のことを思い出した。「そういえばこのM君とは、確か大学の一年生のときに一緒に健康診断を受けたっけ。だけど驚いたなぁ。本当に。肺活量の検査にときに列を作っていて、M君は僕の目の前にいたけれど、彼が大きく息を吸い込んで、それを器械のホースに向かってブーッと吐き出した。すると、肺活量を測るドラムが大きく回転していって、普通なら途中で止まるのに、M君の場合はどんどん回っていき、ついにドラムがひっくり返った状態になり、それでもなお回転しようとしてゴンゴンという音を立てていたっけ。看護婦さんが目を丸くして、『もうーっ、この人ったら、計れないけど7000cc以上はあるわね。』などといってたなぁ。そのとき、僕は4500ccくらいしかなかった。これじゃ、体のエンジンの容量が違うのだから、彼にはかなうわけがない。」

 休みなしに歩いて、剣岳に向かう道の途中の、剣沢というところにさしかかった。その名のとおりにちょっとした渓谷のような趣があり、斜面は緑の芝生のような草で覆われている。確かに、ふと休みたくなるところで、先客の登山者がそのあちこちにカラフルなテントを設えていて、その数も10以上あっただろう。「よし、時間も遅くなったし、ま、ここらでテントを立てるか」と相棒が言ってくれたので、私はほっとした。普段からの運動不足のうえにこの高度では、本当に体にこたえる。

 周りの地面にちょっとした溝をぐるりと掘った。短い棒を継ぎ足して二本の長い棒をつくり、それを心棒にしてテントを立てた。そしてナイロンの紐でその棒を引っ張って支え、その紐の端を地面に打ち込んだペグに繋いで、さあテントは出来上がり。それから火を起こし、飯ごうでご飯、鍋でカレーを作って食べ終わったのが、夜の8時頃であっただろうか。ランプの灯りのもとでラジオをちょっと聞いて、さあ、寝ようかという、まさにそのときである。

 突然、トドォーンという大音響とともに豪雨が襲ってきた。何しろサザァーという音がしたと思ったら、その雨がテントの布をそのまま通過して、中に降り込んでくるのである。加えて強い風がテントに当たるから、テントごと吹き飛ばされそうになる。そうはさせじと、命の綱ともいえるテントのその心棒を、二人でそれぞれ一本ずつ、力一杯支える始末である。そうこうしているうちに、雨と風がどんどん強まっていった。真夜中頃だっただろうか、雨と風だけでなく、テントが浸水しはじめた。周りに浅い溝を掘ってあるのであるが、そんなものは何の役にも立たなくなった。どんどんと水位が上がってきて、あれよあれよという間に、腰のところにまで水が来てしまった。こうなったら、情けないというのを通り越して、全く泣きたくなってしまう。自然の猛威というのはこれかと、つくづく思い知らされたのである。

 暗くて、寒くて、水に浸かった腰が冷たい中で、M君といろいろ話をし、眠気ざましに歌を歌ったりした。一人だと、全くどうしていいか、わからなかっただろう。ところがそれだけでは済まなかった。そうこうしているうちに、周りで稲妻が光りはじめ、雷がゴロゴロ・ドッドーンと落ちはじめたのである。これは実に怖かった。地上にいると、雷は空から落ちるもので、自分の位置からは相当離れている。ところが、3000メートルに近いこの場所では、雷はわれわれと同じ高さで発生して転げ回るのである。最初は、「ランプなんかいらない」と負け惜しみを言っていたのだが、ガラガッ・ドッドンと周りで雷が落ちるようなると、それどころではなくなった。身につけているバックルや鍵、それに登山用具の金属をなるべく遠ざけ、ただただ、震えているばかりである。ごく近くでガゴォーンという音とともに爆弾のような閃光がひらめいたときは、「ああ、これで終わりか」と思ったほどだった。

 さらに時間が経ち、午前5時を過ぎて辺りが明るくなり始めた。すると、雨風と雷が弱まったときがあった。これらも、のべつまくなしに襲ってくるのでなく、一息つくときがある。そんなときを狙ってM君が「このままだと危ないから、小屋まで走るか」と言い出した。私は、かえって危ないんじゃないかと思ったが、山の経験者のいうことだし、他にいい考えもないので、「よし、行こう」と賛成した。それから、テントや荷物を一切捨てて、腰を低くして谷間を走り出した。あれだけ冷たい水に浸かっていたのに、まだ走る体力はあったのは驚きである。ただ、走るすぐそばで閃光が渦巻き、ゴロゴロと音がするのには参った。雷の巣に入り込んでしまったようで、雷を避けようとしても、どしてよいかわからない、ただただ腰を低くして、小走りに駆け抜けるしかない。

 15分ほどそうして走っていたのだろうか。遠くに小屋の灯が見えたので、心からほっとした。100メートル競走よろしく、その小屋に夢中で走り込み、これで命が助かったと思った。体は濡れ鼠、体力も使い果たして、気力だけでもっていたようなものであった。そんな中、M君が何を言うかと思ったら、「テントや荷物を放棄したのは初めてだ」と嘆く。ともあれ、無事だったので贅沢はいっておられない。小屋に入って見渡すと、われわれと同じ様にテントから避難してきた人たちでいっぱいだった。あのせっぱ詰まった状況で、小屋に行こうというM君の判断は正しかったのである。ほっとし、それから呆然として、さらには眠たくなった。

 うとうとして午前9時を回った頃、天候は回復してきた。M君が荷物を取りに行こうといい出した。トコトコ歩いてわれわれのテントに戻ってみると、幸い流されていなかった。整理して荷造りし、重い足取りで小屋に戻った。そこで、これからどうしようかという段になって、私が「もう、このまま続けるのも疲れるし、降りないか」といった。単に嫌気がさしただけであるが、M君も「そうだね」と賛成してくれて、下山することにした。私がびっくりしたのは、M君は、荷物を軽くするんだといって、残りの食料をその小屋の経営者に買い取ってもらった。普段はおっとりしているM君だったが、こんな腕前を見せてくれるとは思いがけず、「いや、彼は大人だなぁ」と、いたく感心したのを覚えている。

 雨が小やみになったので、その小屋を午前9時頃に出発した。それから、二人で転げるように雪渓を駆け抜けた。途中では、川が増水していて、昨日の登りに通った丸木橋が今にも押し流されようとしているではないか。あわててそれを綱渡りのようにしてやっとのことで渡った。そして室堂で下りのバスに飛び乗ることができた。すいすいとバスは快調に走り、高原を降りたところで富山地方鉄道に乗り替えた。それから電車は渓谷を走り抜けて、お昼ころには、もう富山駅辺りに着いたのである。

 そして、ふとテレビのニュースが目に飛び込んできた。何と、川が増水して、われわれがたった今、渡ってきた鉄道橋が流されたというのである。心臓がドックンと脈打ち、M君と思わず、互いに顔を見合わせ、またそのテレビの落ちた鉄道橋にじっと見入ったのである。

(平成13年 8月26日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)



ライン

トップ

趣 味

エッセイ


土曜散歩

ライン