京都への旅


  月はおぼろに 東山
  霞む夜毎の  篝火に
  夢もいざよう 紅桜・・・

                           


 同窓会が久しぶりに行われた。それも、場所は京都だというので、家内と一緒に東京から出かけた。「のぞみ」に乗っていると、ともかく早い。車内で弁当を広げて食べ終わり、お茶を飲んでさあ一服しようとしたところで、もう京都に着いてしまった。昭和30年代に確か「つばめ」という特急があり、6〜7時間かかったという記憶があるが、それに比べれば隔世の感がある。

 またこれも古い話であるが、東京オリンピックのあった昭和36年頃に新幹線が初めて東京大阪間を走った頃のことである。その当時は新幹線に乗るときに、誰もが一張羅で着飾って乗ったものである。父と母はそれぞれにおめかしをしているのに、まだ中学生だった私は学生服しかなくて、その後をとぼとぼ付いていったことを覚えている。今から考えると、これはいったい何だったのかと思うのである。外出のときには着飾るということが習慣だったのか、それとも新幹線に乗ること自体が一種のステイタス・シンボルであったのであろうか。今では、そんなことをわざわざする人はいない。もしかすると手持ちの衣服の水準が上がって、どれを来ても昔の一張羅の外出着に相当する程度の質のものになっているせいなのかもしれない。

 それにしても、最近は、家の「外」と「内」を区別しなくなった。私が一番驚いたのは、3年前にニューヨーク行きのJALに乗ったときのことである。旅行エージェントの世話でファースト・クラスのチケットを入手して、ジャンボに乗り込んだ。ちょうどそのとき、フル・フラット・シートが導入されて、要するに完全に寝て行けるのである。隣との間の仕切りがどうなっているのか気になったが、機内に入ってみると、席が立ててあるときは普通のシートと変わりがなく、隣の人の様子がよく見えた。

 どういう人が隣に来るのかと思っていたら、スチュワーデス(正式ではフライト・アテンダントというらしい)が案内してきた人を見てびっくりした。端的にいうと、上下がスウェット・スタイルだったからである。そう、学校の先生の体育着というのか、あるいは家のこたつでひっくり返っている時のような、あの締まらない格好である。その60がらみの紳士は、何の臆することもなくどっかとシートに腰を降ろしてこちらを見、アゴでしゃくったような仕草で挨拶をした。

 私は、「変なおじさんが来てしまった。どういう筋かな・・・」と気になった。しかし、よくよく考えると、どこかでお見かけことがあるようだが、どうも思い出せない。「そうだ、よくクイズ番組の司会をやっているタレントだ」と気が付いたのは、成田を出てしばらくしてからである。「それにしても、よれよれでしわしわのこんな格好をしなくてもよいのに」と思ったが、司会の駄洒落の餌食になるのも困るので、我慢することとした。昭和30年代であれば、絶対に日本ではあり得なかった格好である。家の内外の区別がなくなった証拠であろう。

 そういえば、先日、たまたま朝方に電車に乗っていたところ、前に座っているOL風の女性がハンドバックからいきなりお化粧道具を取り出した。どうするのかと思ったら、それでお顔を直し始めたのである。まず鏡を穴の空くほど覗き、しかるのちに挟み状の道具を取り出して睫毛をいじり、顔を左右に曲げながらパックでパタパタとやり、口紅のラインを引き直すという念の入れようである。そういう行為を衆人の前でするなど、一昔前には絶対になかったことである。「そんな、はしたないことをしなさんな」という母親はいなかったのだろうか。これも、家の内と外の区別がなくなった例である。

 話が飛んでしまったが、私は家内と新幹線で京都駅に到着したところで脱線してしまったようである。話の筋を元に戻そう。京都駅に着いたところ、その同窓会の会合までにまだ十分に時間があるので、金閣寺方面に行ってみようと思った。ちょうど京都の地下鉄に乗ったことがなかったことでもあり、これで行ってみることとした。ところが地図を見ると、地下鉄はどこへ行くにも非常に不便なのである。市内を十字形に走っているが、そのどこにも観光名所などは何にもない。しかも十字形の中心は京都市役所で、これについては地元の運転手さんなどは「あれは、市役所の人の便宜のためだけに作りはったのですわ」などと悪口を言っているほどである。

 仕方がないので、それでとりあえず北大路まで一気に北上した。それでタクシーでもつかまえようとしたところ、地下で道を聞こうとしたのがたまたま市営バス案内所で、そこでバスで行けと勧誘されてしまった。役所にしては商売がうまい。ちょうどそこには地下式のバスターミナルがあり、金閣寺行きが出ていたのである。すぐにバスが来た。山肌にある大文字焼きの「大」の字を眺めているうちに、10分もしないで着いてしまった。

金閣寺の紅葉 11月最後の休みとあって、金閣寺はものすごい人出である。ここでは、紅葉が目に鮮やかである。東京都内は銀杏が多いのでどうしても黄色の方の紅葉ばかりであるが、こちらはもみじの紅葉で真っ赤な世界である。自然と口に出たのは、

   秋深し 古都のもみぢの 紅をめで

 ジャリッ、ジャリッと玉砂利を踏みしめて歩いていくと発券場があり、そこで「金閣舎利殿御守護」というお札をいただき、それが入園券代わりである。隣にいた若い女の子が「こんなのをもらったら、捨てられないよねぇ」と言っているのが可笑しかった。少しは宗教心があるらしい。園内に入ってすぐに鏡湖池があり、その向こうに金閣がその偉容を現している。水に映ったその黄金色が実物より建物を大きく見せていて、周りの松や紅葉とよく調和している。撮影ポイントには黒山の人だかりである。黄金で飾られている金閣は、外国人にもわかりやすいとみえて、周囲にはスペイン語や英語が飛び交っていた。

金閣 このお寺は正式には鹿苑寺といい、禅宗である臨済宗相国寺派に属する。金閣は仏舎利を収めておく舎利殿だという。足利幕府三代将軍の義満が1397年にこの地を西園寺家から譲り受けて北山殿を作ったのが始まりとか。金閣は漆の上から純金箔が張り付けてあり、屋根はこけら葺きで鳳凰が飾られてている。一層部分は寝殿造り、二層部分は武家造り、三層部分は禅宗仏殿作りである。鏡湖池を中心とする庭園には、当時の大名が競って寄進した石が置いてあり、畠山石、赤松石、細川石といわれているというのは、可笑しかった。いつの時代も権力者に媚びる人たちが多い。

 家内がおみくじを引いた。この人は、どこの神社やお寺でも、必ずお賽銭をあげて礼拝をする律儀な性格である。またそれだけでなく、お参りのあとではかなりの確率でおみくじを引くのである。今回は中吉だといって喜んで、それを木の枝に結びつけた。このおみくじの習慣を真似たのかどうかは定かではないが、アメリカの西海岸当たりの中華レストランに行くと、英語のおみくじ風の紙の小片が入っている小さな「もなか」状のお菓子が出されることがある。なかなかしゃれた文句が書かれていて、楽しい。一度このルーツを調べたいものである。

 そんなことを考えながら歩いていくと、もう金閣寺を出てしまった。日の暮れないうちに、龍安寺に行こうとして、タクシーに乗った。そこからほど近いところにある。到着してみると、こちらは観光客の数が比較的少ない。地味なのかもしれない。私は、ここの石庭もさることながら、「口」を共通に使っている「吾唯足ヲ知ル」のつくばいが好きなのである。その好きな理由といっても、自分でもよくわからないが、ともかく私好みなのである。徳川光圀の寄進といわれる。

 石庭は、いつもの通りである。その置かれた石と石の造形のおもしろさと掃かれた砂の跡の対比が美しい。塀の自然な模様も何やら神秘的である。季節柄か、苔の緑の色に勢いがある。観光客の皆さんは、老いも若きも、ただ黙って石庭を眺めていた。「わー、すごい」とか「これ、何だろう」などと言う人はいない。驚くほど良くもなく、がっかりするほど理解不能ではないという意味で、誠に良くできた庭ではないか。さすがは臨済宗妙心寺の禅の名刹だけのことはある。お寺の文章によれば、「石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、信条によって多岐に解されている」とある。しかし、これでは何が何だかさっぱりわからない。日本語は論理的ではないという証左のようなものである。そこで、同時に書かれていた英語の解説を掲げよう。


The Rock Garden

This simple garden yet remarkable garden measures only thirty meters from east to west and ten meters from south to north. The rectangular Zen garden is completely different from the gorgeous gardens of court nobles constructed in the Middle Ages. No trees are to be seen; only fifteen rocks and white gravel are used in the garden. It is up to each visitor to find our for himself what this unique garden signifies. The longer you gaze at it, the more varied your imagination becomes. This rock garden surrounded by low earthen walls may be thought of as the quintessence of Zen art.
This wall are made of clay boiled in oil. As time went by, the peculiar design was made of itself by the oil that seeped out.
This garden of worldwide fame is said to have been laid out by Soami, a painter and gardener who died in 1525.


龍安寺の石庭 何だ、こちらの方がよほどわかりやすいし、情報量も多いではないか。どれどれ、庭を見つめれば見つめるほど、ますますわれわれの空想はあちらこちらに飛ぶようになるって? そんなものかなぁと思って庭を見つめると、「あの石は亀さん、こちらの石は水中から顔を出した魚みたいだ、あちらは、近所の猫か」いやはや我ながら発想が乏しい。具体的なものにたとえるのは、あまり高尚とはいえない。それでは、抽象化路線でいこう。「これを人生にたとえればどうなるか、私は小さい頃は蒲柳の質だったので、あちらの小さい石の辺がそうかな。それで、高校入試と大学入試を乗り越えてと・・・社会人となったのはどこか、ああ、あれね。でもそれまで離れすぎているな・・・」どうも、うまくいかない。「それにしても、油がにじみ出てきているという塀の模様もいいな・・・。人工的に描いても、こうはならない・・・。」というわけで、辺りが暗くなり、どうやら石庭の呪縛にあってしまったようである。

つくばい 石庭を離れ、つくばいのところに行った。しかし残念なことに、庭の下の方にひっそりと置かれているので、夕暮れで暗くなったからあまりよく見えないのである。『秀吉が賞賛したと今も伝えられる侘助の老樹が枯淡で景趣をそえている』とある老樹も暗闇に紛れてしまい、がっかりしてしまった。写真に撮っても、うまく写らない。しかしパンフレットの写真が非常にうまく写っているのには感心した。さすがはプロの仕事である。

 同窓会の一次会は、円山公園の「いもぼう」である。この公園は、春はしだれ桜で有名であり、その季節になると必ず写真や映像が日本全国に流される。私はそれを見て、ああ今年も花をつけてくれたと安心するのである。その桜の横を通って、会場の料亭へと急いだ。皆が三々五々に集まってきて、なつかしい顔が並ぶ。今回は奥さん連れなので、また一段と華やかである。同窓会といっても今回のものは、われわれの仲間が京都の地で出世したので、そのお祝いが本旨である。いや、楽しい。こういう同窓会は、年齢を重ねるほど心から楽しくなるから、不思議なものである。私は、前日に買ってきたデジカメで、皆さんの写真を撮らせてもらった。皆さんの顔は最初の頃こそ白かったが、杯を重ねるごとに真っ赤になっていくのが面白い。

 がやがやと話しに話しをしていくと、その内容は当然、昔の行状に戻り、あいつはこうだった、こっちはああだったといい、ああそういうこともあったと思い当たる。こういうときに損なのは集まりに出てこなかった人たちで、過去の悪行の暴露合戦である。「ほら、君は酔っぱらって市バスの停留所の標識を寮まで持ってきたではないか、俺は翌朝それを返しに行ったぞ」、「いや、そういうおまえはその標識をパートナーと間違えてダンスの練習をしていただろうが」などと、酒が入っているので、何をいわれようが、何をいおうが、恬として恥じないところが酔っぱらいの特権である。しかも、酔いが醒めたらすっかりあらかた忘れているのである。いずれにせよ、貴重な人生の最も多感な時期をこれらの猛者と4年間も共有したことの意味は実に大きい。また次回も来て、皆さんの元気な顔を見ようという気になる。

 さて、今回の趣向は、祇園に繰り出すことである。幹事のTさんのお骨折りで、お茶屋さんに行けるという。私は、舞妓さんの入った席など、人生でほとんど数えるほどしか出たことはない。これが確か、3回目である。しかも、前回は大勢の中にわずか二人の舞妓さんしかいなかったので、本格的な宴席とはいえない。そういうことで、どうなることかと、内心わくわくしていた。

祇園小唄 古い日本家屋に入り、座席に通された。舞妓さんがひとり両手を立てて指先だけ付いて、「おおきに、お越しやす」と挨拶し、座った。雅びた京都弁に聞き惚れていると、次から次へと新手の舞妓さんが来て、都合3人。そのうえ、しっかりした顔つきの美人のお姉さんもやって来た。この人は話も容姿も誠に魅力的である。その言葉遣いもまた見事で、「そうやおへんで」などといわれると、頭の中までくらくらと来るのである。どうも私はこのような世界には免疫がないらしい。東京に住んでいてよかったのかもしれない。そのうちに、全員で京踊りを披露してくれることとなった。祇園小唄である。全員、聞き惚れてしまった。心の中がとろけるようである。舞い終えて退出していく姿を見て、


  帯ゆらり 京の舞妓の あでやかさ

 翌朝は、東山の銀閣寺(東山慈照寺)に行くことにした。足利幕府三代将軍義満の造営した鹿苑寺北山殿金閣に対して、こちらは八代将軍義政が作った観音殿である。1482年の建立という。お寺側のパンフレットによれば、『この観音殿(銀閣)は、北山殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲しており、二層から成る。一層の心空殿は書院風、二層の潮音閣は板壁に花頭窓をしつらえて桟唐戸を設けた唐様仏殿様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を絶えず守り続けている』という。相変わらず、何のことやら要領を得ない。その英語の説明も似たりよったりである。

銀閣寺の観音殿と向月台 私は、龍安寺でつくばいが好きだったように、この銀閣寺では、向月台がお気に入りである。これは白砂の富士山型のもので、銀沙灘という波紋を表現した庭に立っている。これは、月の光を反射して観音殿から見ると美しいというが、もちろん見たことはない。ただ、その造型を愛でるのである。私は今回初めて、銀閣寺の山側を回った。以前はなかったコースである。途中には、緑の苔の上に赤い紅葉が散っていて、きれいでたまらない。家内は、それに加えて空気が東京とは違うという。確かに、かすかに苔のにおいがするし、木の香りもする。上にのぼっていったかと思うと、視界が一挙に開けて、銀閣寺を一望の下に見下ろせる位置に出た。山々がつらなり、その後ろには京都の遠景がある。ああ、まるで別世界を見てしまった。


  目にしみる 苔じゅうたんに 散るもみぢ

銀閣寺の苔 それから、街の中心部に出て、家内はホテルで旧友と再会した。四半世紀ほど経っていたが、この人は昔のイメージそのものであった。楽しくおしゃべりするのを横で聞いていて、私もときどき余計な言葉をはさませてもらった。人は、いくつになっても成長するもののようである。この方も、昔得意であった分野をそのまま生かし、現在もそういう方面のお仕事をこなしておられた。ただ、人間は変わらない部分もあり、この人の話し方、それにときどき見せる手で口を覆う仕草などは、昔のままであった。



 というわけで、いろいろと思い出を残し、後ろ髪を引かれる気持ちで京都をあとにした。最後に、宿に掲示してあった京の童歌を載せておこう。


 
 丸、竹、夷、二、押、御池
  姉、三、六角、蛸、錦
  四、綾、佛、高、松、萬、五条


 知らないと何が何だかわからないが、これは京の町の通りの名前を示している。たとえば一行目は、丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池の通り名をいうのである。

(平成12年11月27日著)
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