私がコンピューターに最初に触れたのは、今を去ること38年前という大昔の大学一年のことである。教養学部でコンピューターをさわってみないかという催しがあり、大学の大型コンピューターを使って何やらそれらしきことをさせてくれるというものであった。しかし、フォートランとかコボルとかいうプログラム言語がともかく大げさで、しかも機械的に同じ事を繰り返さないと、直線も書けないという代物だった。このため、「いやもうコンピューターなんて、幼稚園児レベルじゃないか。これではアホらしくてやっておられない。」と思ったぐらいで、何をやったかすら、ほとんど記憶にも残っていない。 次に、コンピューターに触れる機会となったのは、社会に出て三年目に、とある経済関係機関に勤めていたときである。たまたま、経済予測を担当することとなったが、そのときは計量経済計算が花盛りの時代であり、何でもコンピューターにぶち込めば、予測ができるはずだという楽観的な見方が大方を占めていた。そこで、どの機関も競って経済予測四半期モデルの開発をして、正確な予測の比較競争を繰り広げていたものである。 私の属していた機関も、これに負けじとばかりに、いろいろな予測モデルを作っていた。当時のコンピューターは、富士通のFACOM−230で、常時摂氏20度に保たれた大きな部屋に入っていた。隣の部屋には、大勢の若い女性がいて、日がなパチパチとやっていた。この人たちはキーパンチャーであった。つまりその当時のコンピューターは、インターフェイスに数多くのカードを使って動く仕組みだった。われわれの書いたプログラムを彼女たちにカードへパンチ、つまり穴を空けてもらい、そのカードの束を読み取り機にかけて計算するのである。フロッピーディスクすらなかった時代の話である。 経済予測四半期モデルとして、GNPを構成する項目である個人消費支出、企業投資支出、在庫投資、政府支出、輸出入等の相互関係を研究し、それに雇用者所得などの個別の推計関数を組み合わせたものを作り、それらの収束計算を1万回ほど繰り返し、それを次の四半期に延ばして予測するという仕組みのものである。その仕組みや手法は、他の経済予測機関でも大差なかったと思う。私もそれを研究をしてみたものの、外生変数として、金利や政府支出をちょっと変えると、たちまち予測結果がガラリと変わるということにすぐに気が付き、とたんにバカらしくなったことを覚えている。要するに、鉛筆を舐めて作るのとさして大差がないのである。それをコンピューターのアウトプットとして出すから、一見もっともらしく思えるのである。それより、各種の経済統計を駆使して予測を積み上げていった方が、はるかに正しい予測ができるではないか。 というわけで、こうしたモデル作成に熱を上げる周囲とは裏腹に、私自身はコンピューターを使った予測はもうほどほどにして、もっぱら各種の経済統計を踏まえて、鉛筆を舐めつつ自分の仕事をしていた。しかし、ここでコンピューターに親しんだことは、その後の私の人生にとって大きな財産となった。私の年代の人の中には、パソコンやコンピューターを苦手とする人たちが多いが、私にはそういうアレルギーのようなものは全くなく、それどころか今やパソコンがなければ、仕事や趣味が成り立たないというほどである。 それはともかく、驚くことは、この40年あまりのコンピューター技術の急速な発達である。かつてのFACOM−230は、建物の一室を占め、しかも常時20度に保たないと動かない前時代的な代物であった。またそのインターフェイスは、手帳サイズを更に縦に引き延ばしたようなカードとその読み取り装置であり、プログラムによってはこれを一万枚以上も使ってガッチャンコ、ガッチャンコと音を立てて読み込ませていた。ところが現在のラップトップつまり膝の上に載せられるパソコンは、その何十何百倍もの能力がある。また、今どきの入力装置のUSBインターフェイスの容量は、おそらくかつてのそれの何百何千万倍以上にも相当する。ただ、それだけのコンピューターのハードの能力を、社会がソフト的に生かしきれてきたかが問題である。私自身がパソコンを使ってきた経験を踏まえて、その歩みを振り返ってみたい。 1975年のFACOM−230は、千本程度の推計式から成る経済モデルがやっと動く程度の能力であったし、計算結果は、紙でアウトプットされるものであった。私がこれを使い出して二年目に、初めてブラウン管のモニターが納入された。当時はかなり貴重なものであったらしい。ソニー製であり、まるでソナーのような緑一色の画面に明るい緑色の光の点で計算結果が表示される機械である。仲間の誰かが、それでゲームをプログラムした。夜などに、そのプログラムをモニターに呼び出し、仲間と遊んだものである。モニターの両端に大砲を置き、中央の山を越えて撃ちあうという趣向で、山の形、風向と風の強さがランダムに決まる。そこで、二人でそれぞれの大砲の打ち出し角度を決めて交互に撃ち、相手の大砲に当たればそれでおしまいというシンプルなものである。あるとき、それで遊んでいると、偉い人が後ろに突然立ち、「それは何かね。」と聞かれたことがある。われわれはあわてて、「これは、最新のモニターで、この画面はそれを利用したプログラムの習作です。」などといって難を逃れたことがある。まあ、われわれは、日本でも最初のゲーマーではなかったろうか。 それからしばらく、私はコンピューターからは遠ざかっていた。そして10年ほど経った1984年頃に、MSXコンピューターというものが市販されはじめたので、それを買った。いまでいうパソコンの原型のようなものであり、本体とキーボードから成っていて、これをモニター代わりのテレビにつなぐことで利用するものである。プログラムをしようと思ったが、これも昔のフォートラン同様、丸を書くのにも面倒な記述をする必要があり、そんな暇もなかったので、いつの間にか子供と遊ぶゲームマシンと化してしまった。それにしてもこのゲーム、名前は忘れたが、面白かった。ピョコピョコっと音がして、かわいい子供のキャラクターがテレビ画面の左から右へと歩いていくのだが、地上には落とし穴があるし、空からはタンポポの綿帽子やらが降ってきて、それらに当たらないようにしなければならない。やっと右端にたどり着いたら次の画面はまた別の趣があるといった調子である。画面が変わるごとにクリアーするのがますます難しくなるということで、気が付いたら私より小学生になったばかりの息子の方が巧くなっていた。このマシンは、そういう調子で一年余りは使っていたものの、どうやらあまり普及しなかったみたいで、ブームはたちまち下火となった。 更に時が流れて1991年になった。その数年前から私は主として法律を職業とするようになり、仕事が集中するときとそうでないときとの繁閑の差が大きかった。季節労働者のようなものである。そこでその「農閑期」に何かすることがないかと思っていたところ、NECが最初のカラー・パソコンを発売したという記事を目にした。PC9821Neという(CPU:i486、メモリ16M、HDD:340MB)。今の用語では、モニターはTFTの9.5インチというところであるが、何しろTFTカラー液晶を最初に搭載したモデルである。いやもう、そのきらびやかなこと……、たまらずに、ついに買ってしまった。定価は90万円ほどだったと記憶しているが、それを70万円に値引いてもらったものの、別売のソフトが合計20万円ほどもかかった。優に軽自動車が買えたほどの値段で、非常に高い買い物ではあった。しかし、このモデルとの出会いが、その後の私の豊かなパソコンライフの幕開けとなったという意味で、私のとっての記念碑的な存在のパソコンである。 ただし、このパソコンのハードはNEC特有の98シリーズで、汎用といわれたIBM−DOS仕様ではなかった。他方、OSはマイクロソフトのMS−DOSである。これは無名時代のビル・ゲイツが作ってIBMが採用し、当時のパソコンに使われはじめていた。しかし、当時のパソコンのメモリーがわずか1メガなのにそのうち640Kつまり64%がこのMS−DOSで占められていたことから、残る36%で利用するソフトを読み込んで使わなければならなかった。加えて、次世代のウィンドウズ3.1が出るまでは、同時に二つ以上のソフトを動かすことができなかったのも大きな制約であった。しかしそれでも、自分の思い通りにソフトを使い、またDOSベースのコマンドとバッチファイルを利用して自分でもある程度はプログラムができ、それがちゃんと動いたときの喜びはまた格別のものがあったのである。立ち上げたときは黒い画面であるが、ソフトを動かした瞬間、それが美しいカラーで埋め尽くされ、そして文章、図表などの作成ができるということは、実に嬉しかった。ワープロソフトの一太郎(ジャストシステム)、データベースソフトの桐(管理工学研究所)、通信ソフトの秀ターム(斉藤秀夫氏)などは、とても懐かしい。この最後の秀タームを使って、電話回線経由でパソコン通信によりニフティ(日商岩井・富士通)のフォーラムに参加したりした。いわゆるオタクの集まりだったが、いろいろな意見に触れることができて、世の中が広がったような気がしたものである。 MS−DOSのバッチファイルの作成にも慣れた頃、次世代のウィンドウズ3.1が発売された。これは、マルチタスク、つまり同時に二つ以上のソフトを動かすことができるもので、当時のアップルのマッキントッシュの模倣といわれながら、それまでのシングルタスクに慣れた私にとっては、非常に魅力的なOSであった。画面の左側にランチャーというそのパソコンに格納しているいくつかのソフトをすぐ動かすことができるソフトを置き、その下には時計ソフトを設置するなどして、現在の私のパソコンの画面の原型ができたのである。これ以降、仕事の文章はできるだけパソコンで書き、それをデータとして保存しておくというスタイルとなった。パソコン通信では、Rayフォーラムによく出入りして、皆さんの書いたRayのパラパラ漫画のような動画を見せていただいた。法律のフォーラムでは参考資料として判例リストを入手した。これは現在のようにオンラインで判例を見ることができなかった当時、リストだけとはいえ、非常に参考になった。それから教育フォーラムでは、自分の子供の教育についてのヒントをいろいろいただいた。公私ともにお世話になったといえる。 さて、こうして毎日使い続けているうちに、さしものPC9821Neも動かなくなり、引退してもらうこととして、1997年、シャープのMN−5500を購入した。MMX Pentium 150HZ、メモリ64MB、画面11.3インチのSVGATFTで800X600の1677万色、ハードディスクは1.6GBだったが3GB程度に自分で拡張した。当時は黒いボディが新鮮だった。OSはウィンドウズ95である。音も、私が気に入った理由である。それまでのパソコンのいわゆるビープ音と違って、Sound Blaster準拠のステレオ・スピーカーなので、音質が非常によかったからである。調子よく3年ほど使い続けていたが、あるとき画面が立ち上がらなくなり、都内のシャープの修理拠点に持って行くと内蔵電池のせいだと言って、それを新しく買わされた。それ以外は特段の問題もなく、仕事に趣味にと、多方面に活用をしていた。 それからしばらくしたある日、このシャープのパソコンから突然シューッと音がして、焦げくさい臭いが部屋中に立ちこめた。炎こそ出なかったものの、燃えたのかと思って裏返してみたところ、電源ケースのあたりで溶けている箇所が見つかった。これはひどいと思い、シャープの修理拠点に持っていったら、何もいわないで無料で修理をしてくれた。ごく最近、ソニーなどのリチウム電池が発火のおそれありということで回収騒ぎを引き起こしたが、その問題の走りかもしれない。それからしばらくしてこのパソコンは、理解しがたいことに、内蔵電池のストックがなくなって、ついに使えなくなってしまった。外部電源があるから良いではないかと思っていたが、だめだった。つまり、内蔵電池がないと動かない設計だったのである。なぜこうなっているのかはよくわからないが、設計で無理をしているのかもしれない。 それからしばらくして、世は大型ノートの時代となり、ボディもカラフルなものになってきた。OSも新しくなったということで、2001年に同じシャープのPC−MJ720Mを購入した。グレーのボディに青いマークのついた、なかなかスタイリッシュな設計である。OSはウィンドウズ98の時代を通り越してウィンドウズMeの時代となっていた。CPUはPentium III 800MHz、メモリは128MB(SDRAM)を256MBに拡張した。パネルは14.1型 XGA対応 低反射ブラックTFT液晶、ハードディスクは20GBを内蔵のところ自分で30GBに置き換えた。ハードとしては、非常に良いパソコンだったが、最大の泣き所はウィンドウズMeで、いくつかソフトを同時に動かすと、たちまちフリーズして、にっちもさっちもいかないということがしょっちゅう起こった。システム・リソースの制約が強すぎたのである。特に困るのが内蔵モデムで、内蔵といってもハードではなくて実はソフトなのである。それがMeで動くものだから、通信を始めた瞬間、パソコンのシステムリソースの相当部分を消費してしまい、他のソフトが全然使えなくなってしまう。まるで恐竜の体にノミの頭を載せたのではないかと思うほどの失敗作である。事実、基本構造はMS−DOS時代とそう変わっていなかったのではなかろうか。 そうしたわけで、このMeについては、常にフラストレーションを抱きながら使い続けてきた。そういう中、2001年11月16日、ウィンドウズXPが発売された。その私はその発売となった当日に買いに行って、MeからXPへのアップグレードを行ったのである。しかし、このアップグレードの結果、いくつかの重要ななソフトが動かなくなるという一大事が起こった。特に困ったのがCDの焼き付けに使うEasy Createrと、ウィルスチェックのMacAfee、そして内蔵モデムである。結局、それぞれメーカーのサイトで修正ソフトを入手し、他のウィルス対策ソフトに乗り換え、後日シャープから対策ソフトが配布された。これらで何とか対策を済ませ、PC−MJ720M上でウィンドウズXPが快調に動き出した。これでやっと、快適なパソコン・ライフを楽しめるようになったのである。 それから、私の家内もパソコンに興味を持つようになったので、このシャープのPC−MJ720Mは家内に譲り、私は2003年に新たに富士通のFMV−BIBLO NB16を購入した。定価は25万円で、主要なスペックはCPUにPentium4、鮮やかな画面表示を実現する15インチのスーパーファイン液晶を搭載し、メモリは514メガ、ハードディスクは40ギガである。日本のパソコンらしく、いろいろなソフトが付属していて、ホームページ・ビルダーV6.5、家庭の医学、広辞苑第五版などは重宝した。特にこのスーパーファイン液晶は、非常に美しく、最初にパソコンショップでこれを見たときには思わず感激をしたほどである。もちろんOSはウィンドウズXPなので、いくつかソフトを同時に立ち上げてもサクサク動いてくれるので、この点は大助かりである。 さてそれではこの間に、私が使ってきたこれら5台のパソコンで行ってきたことは何かというと、それは大別すれば、書物の著述と、そして「悠々人生」のサイト構築である。これまでにパソコンで書いて出版した私の本は、重版を含めて合計11冊(うち8冊は私の単著、残る3冊は共著)である。合計すると、3,800ページほどになる計算である。パソコンのワープロで良いことは、表現の統一を一瞬にして行うことができることと、読み返して校正するのが簡単なこと、そしてそのまま印刷ができることである。 しかし、こんな失敗もあった。経済書を執筆したときに、「流通センター」のことを最初は「DC」つまりディストリビューション・センターと書いていたのであるが、途中で気が変わってやはり「流通センター」と書いていくこととした。そこで、ワープロの一括変換機能を使って、「DC」→「流通センター」の一括変換を行った。そしてあっという間に十数ヶ所変換され、うまくいったと思っていたのである。ところが、印刷所からの校正をチェックしていて、「ワシントン流通センター」とあるのに気がついた。「おかしいな、そんなこと書いた覚えがないのに」と思った瞬間に気がついた。これはもともと、アメリカの首都を表す「ワシントンDC(The District of Columbia)」だったなのに、こんなものまで間違えて機械的に一括変換してしまったのであった。 ともかく、そういう失敗を繰り返しながら、2007年2月までに、これだけの書物の著述を行うことができたのは、まさにパソコン抜きにしては考えられない。とりわけ、それまでは調べものをするのに図書館に行かなければならなかったが、インターネット時代の到来で、いつどこにいても、パソコンを使って簡単に行えるようになったのは、「智の普及」という意味では、本当にすばらしいことである。私も、自分が著述した内容を確認をするのに、よくインターネットや内蔵辞書類で調べさせていただいている。 また、著述のほか、この「悠々人生」のサイトの構築も、2000年の開設以来、これまでで6年半が経過した。アクセスカウンターは2万件弱を示していて、決して多くはない。しかしながら、親類や友人の皆さんに楽しんでいただければそれでいいと始めた割には、最近いろいろと欲が出てきて、サイト内容の充実に努めている。2007年2月現在では、123本のエッセイ、65ヶ所の写真、45本のビデオ、46本の動く芸術を合わせて840メガバイト、それにブログもある。質と量ともに他を圧倒するこれほどのこれほどのサイトを個人で抱えている人は、あまりいないと思う。レンタルサーバーを借りて840メガバイトを提供するのに多少の費用はかかるが、それでも一年分の費用を合わせても銀座に一晩飲みに行ったときの代金のわずか数分の一であるから、大したことではない。それどころか、エッセイで頭の体操をし、写真とビデオで芸術的感性の切磋琢磨をし、動く芸術でプログラムの訓練をしていると思えば、実に多面的かつ実用的なな趣味といえる。パソコン時代に壮年期を迎えられて、私は本当に幸せだと思っている今日この頃である。 (平成19年 2月 8日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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