This is my essay.








 3月に入って日経新聞の夕刊を見ていたら、「アンリ・シャルパンティエ」創業者の蟻田尚邦さんの記事が載っていた。だいたい、これは何の店かと思ったら、関西の芦屋を創業の地とする洋菓子メーカーだという。家内に聞いたら、「あちこちのデパートの地下にありますよ。銀座にも店がね」とのこと。よく知っている。オフィスで秘書の女の子に聞いても、「あっあーー。あれ、高いけれど、おいしいんですよ」という。

 ところでその記事によると、この蟻田さんは、「誰にでも人生を決める瞬間があるとよくいわれます。私の場合は40年前、コック修業のため勤めていたレストランで青い炎を見た一瞬がそうでした。店内が暗くなり、お客さんが座るテーブルの傍らでデザートを作るシェフの鍋から突然、青い炎がゆらゆらと浮かび上がった。その幻想的な美しさに足の震えが止まらなくなりました。後でクレープ・シュゼットというデザートだと教えてもらいました。オレンジジュースで煮たクレープにリキュールを加え火を付ける料理です。それを口にしたお客さんは何とも幸せそうな顔をしていた。この時、デザート作りを天職にしようと思ったのです。」というわけである。

 ははぁ、なるほど、むかしパリに行ったときに、ホテルのレストランで私も食べたことのあるあれかな? そういえば、レストランの店内で青い炎が上がって、『おおっ、燃えてる。さすがパリだ』と思ったものの、別に足が震えるほど感動したりしなかったな。これが私とこの人との決定的な違いかもしれない。心の感度が違ったのは、なぜだろう」と思った。それではもう一度、クレープ・シュゼットなるものをそのアンリ・シャルパンティエで食べてみようと思いついた。ネットで調べたら、銀座二丁目に関東の旗艦店があるらしい。家内に、「今度の土曜日のデザートは、銀座のアンリ・シャルパンティエのクレープ・シュゼットだよ」と言った。それからほどなくして、娘からかかってきた電話に出た家内は、「土曜日は、お父さんと銀座のアンリ・シャルパンティエに行くの」とうれしそうである。女性陣には、すでに先刻承知のお店らしい。

 土曜日の2時頃、銀座二丁目で探し当てたそのお店は、何だか古くさい建物の一階と地下一階にあった。まず一階に入ると、ショーケースに綺麗なデザインのケーキが、ちまちまと並んでいる。「これはもう、アクセサリー感覚だなぁ」と思うと、いつの間にか傍からいなくなった家内が、そのショーケースに一心に見入っている。「なるほど、女性の心をとらえている」。そして、丸いソファが何個か置いてあって、そこに二組のお客が待っているのである。そこに、黒ずくめの店員というか、案内人がいて、「お客さま、何人ですか、おたばこは?」などとてきぱき整理をしている。ここは銀座だから、近くにはルイヴィトン、カルティエ、ティファニーなどのブランド店が集まっているが、その入口にいる案内人と印象は同じようなものである。

 しばし待ったあと、地下に案内されて奥手に座った。周りを見渡すと、中年の奥様方、若いカップルなどが多くて、熟年のカップルなど私たち以外には、いない。ま、そんなことで怯んでいては何もできない。やがて案内されて、一面本箱のような壁の前にしつらえた螺旋階段を下りて行ったが、変わったデザインだとしか言いようがない。なかなか奇抜で、かつ手の込んだ装飾である。席に着くと、私は早速そのクレープ・シュゼットを、家内は別のものをというわけで、サンドウィッチの類を頼んだ。そこで手洗いに行った家内がいうには、「ここのお手洗い、面白いわよ。どこが入口かすぐにはわからないから。」とのこと。どれどれと思って私も見に行ったところ、その一面本箱のような壁はあるが、確かに入口の在りかがわからない。ところがよく見ると、その本棚の壁の一部を押して、入っていくようになっていた。

 この銀座店について、やはりその日経新聞の記事が書いている。「入居したのは、東京都の歴史的建造物に選定されているビルの一階と地下一階で、3億円かけて改装しました。一階はケーキ作りが見学できる工房と販売コーナーで、地下は喫茶室です。雰囲気のある古いビルなので、内装はパリの空気を再現しようとフランスの新進デザイナーに任せました」とのこと。うむ、確かに変わっているわけである。トイレは、まるで隠しトイレである。遊び心もいいかげんにしてほしいと思いつつ、内心では笑えてきた。なるほどねぇ、これがデザイナーの狙いかもしれない。

 さて、いよいよクレープ・シュゼットがやってきた。黒ずくめの女性がワゴンを運んできた。我々から見てそのワゴンの左手にリキュールの瓶、右手にコンロがあって、その中にある黒い平たい鍋にオレンジジュースが煮えたぎっている。まず、ブランデーグラスにリキュールを少々とって、それを火にかざして暖め、これを数回繰り返す。白いお皿に原料のクレープがあって、これを4分の1に折りたたんで鍋のオレンジジュース中に放り込む。そして、リキュールをかけると、香ばしい香りとともに青白い炎が立った。お見事、拍手したい心境である。確かにすばらしい。創業者はこれを見てお菓子専門のコックになろうと決心したというが、やはりどうも、そういうのは私には付いていけない発想である。まあしかし、人生、何がきっかけで目標を作り、それに一途に精力をかけていくことになるかわからないという例だろう。

 え? 肝心のクレープ・シュゼットのお味はって? うーーん。甘く漂う濃厚なオレンジの香りの中で、甘酸っぱい初恋の味というか、何というか……。いずれにせよこれは、舌と頭とで味わうべきもので、決してお腹の足しにはならない代物である。

(平成19年3月20日著)
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クレープ・シュゼットの出来上がり








(令和4年4月17日著)
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悠々人生のエッセイ

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