This is my essay.








 六本木に先月末、開業したばかりの東京ミッドタウンに行ってきた。そこに入っているリッツカールトンの45階のレストランに予約を入れ、その下見に行ってきたわけだ。さすがにこれほどの高さになると眺めは抜群……といいたいところであるが、何しろ春だから、中国から飛んでくる黄砂で何もかもぼやけていて、近くの東京タワーですら、ぼけた蝋燭のように見える始末である。ホテルのうたい文句によれば、富士山も見えますということだけれども、そんなのは冬の晴れた日でもなければ実現しないだろう。それはともかく、黒い服を着たリッツカールトンのスタッフの皆さん、男も女も噂にたがわず、みな親切だった。

 下に降りてみると、ブティックやレストラン街などがあり、何しろ開業当初の頃だから、どこもたくさんの人が並んでいて、ともかくどこをみても、人、人、人の大混雑である。これでは何ともならないので、落ち着いた頃にまた日を改めて来てみることとした。レストランの中で入ってみたいと思ったのは、HAL Yamamshitaと、ROTI American Wine Bar & Brasserieである。前者は、別に2001年宇宙の旅のコンピューターとは関係なく、山下春幸さんという神戸系シェフのお店である。後者は、カリフォルニアのナパバレーのワインが飲めるという宣伝文句に惹かれた。

 少し昔話になるが、私は若い頃、アメリカの東海岸から西海岸まで、5週間にわたって旅をしたことがある。ビジネス・トリップなので、一流ホテルに泊まり、それなりにちゃんとしたところで食事をしたつもりであるが、食事がおいしいと思ったのは、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスといった大都会に限られていた。それ以外は、中西部にしても南部にしても、まあ何というか、味がおそろしく単調なのである。早い話、ケチャップ、マスタード、バター、塩、マヨネーズの5種類しかない。それにどういうわけか、ブルドックのような日本風ソースもないし、むろんその頃は醤油も普及していなかった………というわけで、私はもう、飽き飽きしてしまった。

 ところがどうだ、アメリカ人は、これで十分に満足しているようなのである。そればかりか、逆にこれらのいずれかの味でないと、食欲がわかないらしい。ある日、旅の途中にシカゴで郊外生活を味わってみようと、都心部からやや離れた地域に泊まらせてもらったことがある。見渡す限り地平線まで小麦畑が続き、その中を一本道の道路がまっすぐに伸びているという風景が広がる。そこに赤々と夕日が落ちていくのを見ると、ガンマンでも出てきそうな気すらした。

 その道に沿って、これまた西部劇の映画の一シーンのような町があり、その中のとある家に、宿泊させてもらった。その家の女主人は、私が日本人だということで、スーパーで魚を買ってきた。それは白身魚で、何だろうと思ったら、「A Catfish」という。つまり、養殖のナマズだった。内心こんなものを食べるのかと思ったが、好意を無にするわけにいかないので、あとでおそるおそる口にしてみた。すると、意外にも、味は淡白で何とか食べられたので、ほっとした。

 それに加えて、そのおばさんは、ご親切にもお米を買ってきてくれた。それも、カルロースというジャポニカ米なので、ぱさつかず、日本米と同じ種類である。私はもう一ヶ月ほど日本米を口にしてなかったから、思わず、「私が炊きます」と言ってしまった。そこで、おばさんに鍋を貸してもらって、米をとぎ、水の量をはかり、火加減に気を配って炊いた。はじめチョロチョロ、なかパッパなどと小さい頃に母に仕込まれた技が、何十年も経って、思いかけず役に立ったというわけである。やがて台所中に、お米が炊ける良い匂いが広がった。私はそれをかいで、何とも幸福な気分にひたったのである。そこでちょうど良い頃合いで火を止めて、おばさんに「10分くらい、そのままにしておいて」と頼み、台所を出た。

 そして、10分後に戻ってみると、何とそのおばさんは、せっかく炊き上がったお米の中に大量のバターを入れて、かき回しているではないか。私は、もうがっかりした。私が「お米というのはね、炊き上がってそのままの状態で食べると、食材の地の味が楽しめておいしいよ」というと、おばさんは「そんなの、味がしないから食べた気がしない」と言い張るのである。私は、「そうか、アメリカ人って、小さい頃からバターだのマヨネーズだのという人工的な味に慣れさせられてきたので、ひょっとして、いわゆる味オンチなのかもしれない」と思った次第である。

 しかし、その後、アメリカ人でも、食材の素の味がわかる人が増えたらしい。というのは、最近では、アメリカのどの地方に行っても、寿司屋のない都市を見つけることができないほど、日本の寿司が普及したからである。寿司というのは、生の魚と、酢飯と、わさびの混合味である。だから、ケチャップ、マスタード、バター、塩、マヨネーズの5種類の味しかわからないような程度の人には、味がしないのではないかと思うからである。

 寿司にせよ、中華にせよ、フレンチやイタリアンにせよ、料理というものは、文化の伝播が相手の国を豊かにするという典型例ではないかと考える。だから寿司と中華がこれほど普及し、また醤油も受け入れられた昨今のアメリカを見るにつけ、今や私は、アメリカ人が味オンチなどとは、決して考えなくなった。





(平成19年4月 7日著)
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