外国と日本での生活を比べると、これが一番違うところだなぁと実感するのは、メイドつまりお手伝いさんの有無である。昭和30年代、私が少年の頃は、日本でも「女中さん」と称し、裕福な家庭や仕事を持つ家庭に住み込んで家事や身の回りの世話一切をしてくれる女の人をよく見かけたものである。炊事、洗濯、掃除はもちろん、乳児の世話や学校への送り迎えなどもしていた。出身は農村地域の娘さんが多かったように思う。町を歩くと、女中さん紹介所なるものの看板も、しばしば見かけることがあった。それが、昭和40年代に入り、経済の高度成長の過程でいつの間にか、消えてなくなってしまった。その途中、「女中さん」ではイメージが悪かろうから、「お手伝いさん」にしようという議論が新聞紙上を賑わしたこともあった。今から思うと、これも人権意識の高まりというよりは女中不足への姑息な対処手段だったのかもしれないが、しかし、それも一時のことであった。何よりも日本経済全体が高度成長路線をひた走ることで、低学歴の女性にも、条件の良い就職先が大幅に増えたことから、そんな3Kの仕事に就く人がいなくなってしまった。かくして、今や日本で、家庭にお手伝いさんを抱えているような家は、よほどの大金持ちしか、いないのではあるまいか。要するに、職業としてのお手伝いさん業は、きれいさっぱり、消えてしまったというわけである。 ところが、たとえば香港の目抜き通りやシンガポールのハーバー・ウォークを日曜日に歩くと、若い女性の大群がそこここにたむろしているのに気付くであろう。最初は、これについて私も、「あぁ、若い人が多いな」という程度にしか見ておらず、あまり気にしていなかった。ところが、よく見ると、仲間で散歩しているというよりは、群れておしゃべりに夢中だったり、何には手作りのお菓子のようなものを売っている人もいるではないか。これはちょっと違うと思って現地の人に聞いてみると、「ああ、あれはメイドさんたちですよ。たまの休みに、ああやって同じ境遇の同国人としゃべって、気をまぎらわせているんですよ」との答えだった。それにしても、たくさんいる。ざっと見渡しても、千人は超えている。いったい誰が、こんなに大勢のメイドを雇っているのかと、思ったものである。その頃、アメリカの司法省の高官が、メイドとして、不法滞在のメキシコ人女性を雇っていたということが判明して、辞職したということが報ぜられた。しかし、こういう人が、香港やシンガポールに、そうたくさんいるはずもない。 ところがその疑問も、自分が東南アジアに住み始めて、たちどころに氷解した。そもそも、中流以上の家には、メイド・ルームというものがあるのである。要するに、一定以上の所得のある家では、家事は奥さんではなく、メイド(広東語の地域では「アマー」)さんが、やるべきものなのである。メイドには、出身によっていろいろあって、中国人(現地国籍)→中国人(中国本土出身)→フィリピン人→インドネシア人という順に、給料が安くなる。もう最近では、中国人(現地国籍)は、かつての日本のように給料の高騰で、住み込みではほとんど雇えなくなり、普通の家庭では、専らインドネシア人を雇うことになる。その給料の1.5倍くらいがフィリピン人で、発音に訛りがあるものの、いちおう英語を話すことから、子供に英語を話させたい人は、給料が高くともこちらを雇う。 ところが、家庭にいわば他人が入るものだから、様々な問題が起こる。第1は、メイドによる子供の虐待である。これはアメリカでも問題となっているが、ホームシックにかられたメイドが、何の罪もない乳児や子供に八つ当たりして、投げ飛ばしたり、傷つけたり殺したりするという事件が頻発している。第2はその逆で、家の主人によるレイプである。特に中東諸国でよくあると報道されている。第3はその逆で、とりわけ中国人(中国本土出身)を中国人家庭が雇うと、主人は奥さんよりも、メイドさんの方がよくなって、離婚に至るというものである。確かに、中国本土で食うや食わずでいた身からすれば、東南アジアの中流家庭の生活レベルは素晴らしいものに写るだろう。だからといって、せっせとご主人に奉仕し、挙げ句の果てその家庭を崩壊させるというのは、大いに問題である。第4は、逃亡である。そもそもこういうメイドは、もちろん当局のビザをとって正式に雇うのであるが、そこは人間だから、家庭での単調な労働が嫌になって、逃げ出して行方不明になってしまうことが、しばしばある。第5に、強盗の手引きである。メイドは、家庭に入ってその事情をよく知っているものだから、知り合いの強盗を呼び寄せてしまうというものである。ただしこれは、人づてに聞いたことであり、実例を知っているわけではないが、大いに有り得ることである。 ということで、メイドのおかげで家事は楽になるものの、それに伴っていろいろと副作用がある。ただ、メイドがいないと、暑い気候の中、あんな大きな家を掃除して回るなど、とても大変なことなので、これひとつをとっただけでも、メイドはいた方がよい。しかし、メイドを雇ったら雇ったで、これを指導管理するのは、なかなか骨が折れることなのである。 私の家は、まず最初は、中年の中国人女性がメイドでいてくれた。ライさんという。「来」という字が名字である。既に日本人家庭にいた人だったから、一応の日本料理ができて、性格は真面目である。ところが細かくいうと、どうも先方の生活習慣と違うところがいくつかある。たとえば、日本料理では、料理を各人ごとに取り分けるために、たくさんの数の食器を使う。数だけでなく、陶器だから割れやすい。ライさんは、これに不満で、「何で料理を一緒に盛らないんだ」と、うるさい。現地の家では、各人ごとではなく料理ごとに大きな皿に盛り、しかもその皿はプラスチックだから、落としても割れないし、洗うのも早い。だから日本式は、無駄で不合理に感ずるらしい。それから、食器を拭く布と、食卓を拭く雑巾とを区別しないので、この二つは分けてやってくれと言うのであるが、これが最後まで理由が腑に落ちなかったようだ。 まあ、そんなこともあったのだが、真面目で努力家だったものだから、家内ともうまくやっていて、天ぷらやら茶碗蒸しやら、お寿司やらを仕込むと、ちゃんと作ってくれた。われわれとの意思疎通は、ブロークンな英語である。どうやら、中国語と英語とでは、主語→述語→目的語という文章の語順が同じらしくて、ライさんがその単語を英語に帰るだけで、そこそこのレベルで英語らしく聞こえるのである。そうやって身の上話を聞いてみると、自慢の息子がいて、アメリカに留学中だということで、お給料にほとんどが息子への仕送りに消えていたらしい。自分は無学だと言っていたが、ちゃんと自分の子供は、インテリの仲間入りをさせていたわけであるから、なかなか偉いと思う。 ところがそのライさんも、一年間ほどしか続かなかった。ある日、ライさんは、「来月、止めさせていただきます」と宣言した。なんでも、日本の建設会社の飯場の賄い婦になるのだという。給料は二倍になるというので、引き留めることができなかった。しかし、これには後日談があり、後からよく聞いてみると、「私は、日本料理が何でもできます」といって、自分を売り込んだというから、ちゃっかりしているというか、何というか。これが中国人のたくましさである。ダシに使われた我々もびっくりするほどである。 ライさんが去った後、何人かの中国人メイドを住み込みで雇おうとしたが、なかなか定着しなかった。レコード店員だった若いお姉ちゃんは、子供とよく遊んでくれたが、家事の能力はさっぱりだった。また別の若いお姉ちゃんは、家事はまあまあだったが、我々家族が小旅行に出て帰ってみると、冷蔵庫に山盛りにあった食料が一切合切、きれいさっぱり消えていたなんてこともあった。まるで、親類を全員呼んで、山盛りの宴会をやったかのごとくである。この人も短かった。そして、一軒家から、安全の観点でコンドミニアムつまりマンションに引っ越したことを契機に、通いのメイドに変えたのである。現地の事情をいちいちメイドに聞かなくとも、何かあったらコンドミニアムの管理事務所に言えば、対処してくれるので、その点は、非常に楽だった。 一般に、メイドを雇う外国人家庭をみると、イギリス人家庭が、一番しっかりしていたように思う。というのは、「私は雇い主、あなたはメイド」ということを常に意識させ、ビジネス・ライクな関係を築くのである。仕事は、ちゃんとはかどるし、頑張れば、それなりに報酬を与えるので、うまく行く。ところが、メイドの使い方が一番下手なのは、日本人家庭で、まずもって、奥さんには、そもそも人を使った経験がない。そんなものだから、メイドとベタベタの関係になり、どうかすると立場が逆になって、メイドにこき使われるのではないかと思われる奥さんもいたほどである。私の家内は、最初のメイドが性格の良い経験豊富なライさんだったことが幸いし、次第に使う立場に慣れ、その過程ではいろいろと彼女から知識経験を吸収してベテラン・マダムとなっていったのは幸運だったといえる。 ところで、なぜ今、こんなことを思い出しているのかというと、日本も少子高齢化の時代に入り、人口が減る、先細りだと騒いでいるからである。私にいわせれば、もう外国人メイドを解禁する時代に来ているのではないだろうか。小さな子供の託児所を作るのもいいが、こういう外国人メイドを活用することにより、共稼ぎの主婦の負担を減らすことができる。それは結局、安心して子育てができることに繋がり、少子化にも歯止めがかかると思う。しかも、子育てだけでなく、介護の分野でも、外国人メイドの力を借りることができる。まさに、少子高齢化の時代のニーズにぴったり合うものだといえよう。もっとも、これに伴うマイナス面も、前述のごとくたちどころに5つほど挙げられるわけだが、同時にこれらの弊害を防ぐ方策も、考えなければならないだろう。それから強いていえば、今の日本の家は小さくて、とてもメイド・ルームを作るようにはなっていない。このあたりも、実は問題なのである。 (平成19年8月23日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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