This is my essay.








知人「(私に向って)よく、本を書いておられますよね。」
 「まあ、ほどほどに書いています。」

知人「法律の本ばかりですか。」
 「今は法律の本がほとんどですが、昔はITにも関心があって、そちらの方も書いたことがあります。」

知人「そんなに、どうやって書くんですか。」
 「どうやって、といわれても‥‥‥。まあ強いて言えば、普段から専門意識を持っていて、それが頭の中にたくさん貯まってきてそれを世の中に伝えたい、あるいは後世に是非残しておきたいと思ったら、書くんですよ。」

知人「書くときのコツのようなものは、あるんですか。」
 「ありますよ。一言でいえば、『知っていることを全部書こうとしない。』ということですかね。」

知人「どういうことですか。」
 「つまりね。本というものは、一定の思想を相手に伝えるわけですね。その場合に思想を研ぎ澄まして整理し、これを端的に伝えることが必要不可欠なんです。ところが、そういう文章を書いた経験があまりない人は、得てして読み手の興味や都合を無視して、自分の知っていることを何でもかんでも書き込もうとしがちなんです。そうすると、実に読みにくくなって、訳のわからない本になってしまうのです。だから、私の経験でいえば、知っていることの半分くらいを整理しつつ、順序良く書いていくということで、ちょうど良いと思います。」

知人「ところで、出版社とは、どうやって話をするんですか。」
 「そりゃあ、出版社としては、売れない本を出したら困りますし、こちらとしても、売れそうにないものをお願いすることはできませんよね。」

知人「はあ、それで。」
 「それだけですよ。まあ、自分ですばらしいものを書いたと思っても、世間で認められないと、出版社としても商売になりませんから、そりゃあ、担当者としては真剣になりますよね。」

知人「ははぁ。」
 「だから、私と担当者との真剣勝負というか、何というか・・・。世の中に通じる良い本を作りたいという意識は共通しています。つまりは、その社会的価値の値踏みをされてしまうというわけです。でも、実績があれば、話は早いですよ。」

知人「出版社としては、どれくらい売れればいいんですか。」
 「それは、本の値段の設定との逆相関ですね。専門書なら値付けを高くして、たとえば4〜5000円の本にするなら、3000冊ほど売れれば、出版社には絶対に迷惑をかけないと思います。十分にお釣りがくるのではないですか。もっとも、著者としてはたくさんの人に読んでもらいたいから、定価をなるべく安くするようにとお願いしていますけれど、なかなか認められなくて。」

知人「よく、ベスト・セラーは100万冊といいますよね。あれ、著者はどれくらい儲かるのですか。」
 「普通、印税は10%ですから、それが1200円の定価とすると、1億2000万円ということになります。」

知人「で、あなたは。」
 「ちょっと、それ、冗談でしょ。私の書くような専門書は、せいぜい3000冊も刷ってくれればよい方ですから、4000円の定価だと120万円、それに源泉徴収15%ですから、結局のところ手元に来るのは102万円というわけです。ところが、この専門書を書くというのは、他の本を山ほど買わなくてはならないことを意味します。そういう専門書というのは数千円以上と実に高いのですよ。それを200冊も買えば、それだけで100万円、加えて判例などのコピー費用も20〜30万円というときもありました。だから、こういう必要経費を差し引くと、そのわずかの収入を上回ることも稀ではありません。かてて加えて税務署で必要経費として一般的に認められるのは三割ですからね、本によっては相当の持ち出しです。
 それに加えて、ひどい場合は、なけなしのその印税10%というのも出版社によっては5%程度に値切ろうとするところもあるんです。考えてみれば、だいたい、著者がいないと本など成り立たないのに、その肝心の著者への分配はわずか10%というのは、怪しからんことですよね。印刷代よりはるかに安いのではないかと思います。ただ、昔、書いたITの本は、出版社が販売力があったので、なんと1万部も刷ってくれたのですが、みな売れたそうです。ただし、一般のビジネスマン向けという扱いだったので、定価を安く設定されてしまったから、結局のところ収入は専門書と変わらなかったですけどもね。」

知人「でも、ちょっとした収入じゃないですか。」
 「いやいや、とんでもない。一冊の本を書くのに、頭を痺れるほど使うし、あらゆる文献を調べないといけないし、少なくとも半年は、土日がすべてつぶれることを覚悟しないとね。それにさきほど述べたように、必要経費が印税を上回ることもよくあります。そんなわけで、終わったときには、目はしょぼしょぼになって、肩は凝って、体はぼろぼろになり、悲しいことにお金もなくなります。それだけ、本を書くというのは正真正銘の重労働で、とても割に合わない仕事です。社会奉仕の一種と思わないと、やる気が出ないですよ。」

知人「はあ、そんなに大変ですか。」
 「書くことそのものも難行苦行の連続といってもいいけれど、実はそれだけではないんです。書いた本に間違いがあっては大変なので、特に校正時にはミスがないかどうか、しらみつぶしにチェックします。これがまた、大変というか何というか、すごいわけですよ。目を皿にして、原稿を土日の朝から晩まで使って徹底的にチェックするわけ。」

知人「それだけやると、出来上がったらうれしいでしょうね。」
 「その通り。ほっとして全身の力が抜けます。しかしね。書いた後でも、放っておくと、いろんなことが起こるんですよね。たとえば著作権を侵害されちゃうとか。」

知人「そんなこと、あるんですか。」
「私も、びっくりしました。あるとき、本屋で私の書いたものと同じようなテーマの本があったので、それを手にして読んでいたら、私が書いたのとまったく同じような表現があちこちにあるんですよ。それを買って帰って私の本と対比してみると、やはりそうでした。これについては、対比表を作ってその出版社に抗議したら、さすがに相手は謝罪に来ましたけどね。」

知人「自分の権利は自分で守れというわけですね。」
 「そうそう、民法の原則そのままの世界です。」

知人「そんなことがねぇ。」
 「いやいや、いろんなことがありますよ。これは私が経験したことではありませんが、変な出版社だと、印刷した本の部数をごまかしちゃうこともあるんですよ。たとえば、4000冊を刷ったのに、著者には2000冊と報告して、その分の印税しか払わないとかね。」

知人「そりゃまた、ひどい。詐欺じゃないですか。」
 「そうそう。だから、私の出版社が、私の書いた売れそうもない本の印税を値切ろうとするのは、まだ正直な方かもしれませんね。(大笑い)」

知人「そういうことで、昔の本の最後のページには、著者が印鑑を押していたんですか。」
 「うむ、その通りですね。あれはもともと、著者検印といって、出版社が発行する部数を確認するために、本の奥付に朱印を押したものなのですが、本の発行部数が千部単位ならともかく万部単位にもなると、そんなことをいちいちやっておられなくなったのでしょうね。そこで、合理化と出版社を信用するということで、なくなってしまった慣行です。私などは、奥付を見ること自体が楽しみだったから、まあ、残しておいてもよかったのでしょうが、確かに何千部も朱印を押すというのは、大変ですよね。でも、実際に悪用する出版社が出てくるとは思わなかった。これをやったのは、官庁関係の書物を出しているところだったのですが、公務員は人を信用しやすいからそこを突かれたんでしょうね。」

知人「ははぁ、そんなものですかね。」
 「案外、そうなんですよ。もっとも、検察関係の人は違うでしょうけれど。(笑い)」

知人「さっき、本を書くのは社会奉仕の一種とおっしゃったけれど、それだけではなく、自分の名前を世間に発信するというメリットがあるでしょ。」
「そうなんですけれど、それだけなら、最近はインターネットのブログという手段もありますしね。そっちの方が、もっと有名になるかもしれない。
 そうそう、大学で教える場合には、そのテーマの専門書を少なくとも二冊は、書いておく必要があります。これがないと、ちゃんとした大学の教授にはなかなかなれないので、そういう面では、著作は、教授になりたい人の必要条件になっていると思います。」

知人「それには、どんな意味が?」
 「まあ、学識がある、世間の知的好奇心を満たすことができるという点について、出版社が事実上、教員の資格審査の一翼を担っていてくれていると思えばいいのではないですか。」

知人「私なんかも、趣味の延長で何か本が書けるといいなあと思っています。」
 「趣味が本になるというのは、理想ですが、なかなか現実はそう甘くなくて、最近は本の種類だけ増える一方で、出版金額全体は、毎年、漸減しているようです。活字情報より、インターネット情報へと流れていっているのではないかと思いますが、このままでいくと、遅かれ早かれ、出版界が悲鳴を上げると思いますね。」

知人「たとえば、週刊誌が大きく減っていると聞きますね。」
 「そうらしいですね。発行部数が一時の何分の一などといっていますね。しかしねぇ、問題はそんなところではなく、事は活字文化がインターネット文化に負けつつあるという現実ではないでしょうかねぇ。」

知人「というと?」
 「世間で超一流ということになっている、私の教えている大学院ですら、どうやら学生の少なくとも三分の一は、新聞を毎日、読んでいるわけではないようです。理由は、新聞をとると、お金がかかるという以外に、インターネットで情報がいつでも簡単に手に入るというんですよね。ところが、インターネットの情報といっても、単に見出しのようなものにとどまるのが多いし、その時々の社会全体に何が起こっているかということを一覧できる手段としては、新聞しかないと思うのですが、学生にいわせれば、検索でもなんでも、今やインターネット時代だというのです。」

知人「ははぁ、活字文化がデジタル文化に負けると‥‥‥。」
 「そうです。今は出版界の危機にどとまっていますが、あと10年もすれば新聞界が危なくなり、さらにその先では、もう本を書いても買ってくれる人すらいなくなって、書きたいことがあればインターネットで公開して、それをグーグルで検索しておしまいという世界になっているかもしれません。」

知人「そうなってしまうんですか。」
 「そう思います。物書きの危機であり、ひょっとすると知性の危機といってもいいかもしれない。もうそうなると、専門知識ではなく、一般の人の持つ情報が世間を動かしていく世界になるのではないかと思いますね。つまり、徹底的なポピュリズムが支配する社会といいますかね。そしてさらにその先には、グーグルなどの検索屋が世界の知を独占するのかもしれない。今でも、その片鱗が現れていますよね。インターネットに情報があふれているせいで、遂に伝統的なブリタニカ百科事典の出版を断念したり、皆で作るフリーの百科事典のウィキペディアが実は非常に間違いが少ないとか、レベルが上がってきているのは、よくご承知のところです。それに、グーグルは、今や何かを調べるには必要不可欠だし、単に検索をするだけではなくて、世界地図や、宇宙の銀河や星雲などまで、検索できるようにしていますね。世界のあらゆる情報を検索できるようにするんだと言っています。この怒涛のようなデジタル化は、もう後戻りはしないでしょう。」

知人「私みたいにデジタルデバイドのこちら側にとどまっている人間には、住みにくくなってきましたなぁ。」
 「そうですね。そのデジタルデバイドも、最近はレベルが上がってきて、単にメールができたり、ワード文書が書ける程度では、ダメみたいですよ。」

知人「へへへっ、そうですか。」





(平成19年10月 1日著)
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