This is my essay.








 もうかなりの日にちが経ってしまったが、実は今年の五月の連休に、家内とふたりで山形市へ「ちょっと旅」に出かけたので、忘れないうちに、書き残しておきたい。

 縁もゆかりもない土地なのに、なぜ山形かといわれても、なんとも答えようがないところであるが、強いていえば、まだ泊まったことがない県に行こうと思ったからである。全国47都道府県のうち、この旅行の後には、私がまだ宿泊したことがない県は、佐賀県、高知県、それに徳島県だけとなった。それに、山形といえば、庄内蕎麦、山形牛、さくらんぼも食べたい気もした。まあ要するに、二人とも、食べ物に目がないというわけだ。

連結された「つばさ車両」

 東京駅から、その名も「つばさ」という、山形新幹線に乗って出かけた。まるで親亀に引っ張られる子亀のような形の新幹線のような在来の特急のような形の電車である。途中、福島で東北新幹線と切り離されてからは、これでも新幹線の線路かという感じの、山間の狭隘な線路をゴトゴトと走り、米沢を経て、山形市に着いた。

 到着したのが夕刻6時頃だったので、そのまま宿泊先のグランド・ホテルに直行した。なぜここを選んだかというと、仮に雨が降って観光ができないような場合でも、この建物内に彫刻がいくつも置いてあるということなので、それなりに時間がつぶせると思ったからである。しかし、いざ着いて見てみると、それらの彫刻というのは案外と貧弱であった。それに、残念ながら一昔前に繁盛したホテルという印象で、東京のホテルと比べれば、誠にうら寂しい限り。こんなところで食べるのもなぁと思って、外で食べようと出てみると、まだまだ早い時間なのに、レストランやお店はもう閉まっているではないか。あれー・・・。地方は、夜が早すぎる。

三津屋の大板そば

三津屋の天麩羅
 
 しかし、その中で、蕎麦屋を何とか見つけて、そこに入った。お客さんは、われわれ以外には、わずか一組だけ。これでは、店を開けようとするインセンティブは働かないわけだ。山形の蕎麦屋といえば、翌日にでも、東京にも支店がある老舗「庄司屋」に行くつもりだったが、われわれが入ったこの三津屋という蕎麦屋は、伝統はその庄司屋には及ばないものの、それでも創業80周年というから、なかなかのものではないか。そこで、お勧めの大板そばを注文したところ、うーん・・・これはよい・・・、天麩羅も、それなりにおいしかった。というわけで、二人ともいたく満足して、店を出たのである。

消防団員さんたちの整列

 翌日、ホテル前の道路の方が騒がしい。出てみると、消防車が何台も連なっている。あれあれ、火事なのかと思ったが、火や煙などは見えないし、緊張感どころか、どこかのんびりしている。その道路は、8月はじめの花笠踊りのパレード会場となるという目抜き通りである。ここをどんどん歩いていくと、一連の消防車の次には、紺色の制服を着た大勢の消防隊員が何百人も、ずらーりと道の片方に一列になっている。これは行事かと思って近くの人に聞いてみると、きょうは山形市長による消防の観閲式ということだ。市長さんは、この道路の先にある山形市庁舎から歩いて来るという。私たちはその市庁舎に向かってそのまま道を歩いていくと、その一列に並んでいる消防隊員さんたちから向かい合って見られる形となり、いささか妙な気分であった。

最上義光記念館

 その後、ワシントン・ホテルあたりで道を左に曲がり、山形城の跡地である、霞城公園へと向かった。途中、最上義光記念館というところに入り、郷土の英雄のこの人の歴史に触れた。伊達政宗の伯父にあたり、関ヶ原の戦いでは徳川方につき、最上家を57万石の大大名に成長させ、その全盛期を築き上げたという。ただ、その過程ではいろいろなことがあったようで、義光の三女「駒姫」はたぐいまれなき美貌の持ち主であったために豊臣秀次から目をつけられて側室に差し出すよう迫られ、渋々差し出したところ、その豊臣秀次が謀叛の疑いで切腹させられたとき、同時にその駒姫までもが切腹となったという。わずか一ヵ月間の出来事だったそうな。最上義光は落胆し、同時に自身までもが秀次への荷担を疑われ謹慎処分を受けたりして・・・、こういうことが関ヶ原の戦いで東軍の一員となった要因といわれているようだ。

霞城公園 枝垂れ桜と灯篭

 最上義光記念館を出て、東大手門から霞城公園へ入ると、まあ、何もなくてさっぱりしたところだった。でも、幸い五月も初めであったので、公園の中の最上義光の銅像の横には枝垂れ桜が堂々と咲いていて、これがまたその傍らにあった灯篭ともよく調和し、なかなか美しい風景であった。これは、私たちのその時の心持ちとちょうど合っていたのかもしれない。一生忘れない景色である。

霞城公園 最上義光の銅像

旧済生館本館の庭のチューリップ

 公園からさらに左手奥の方に行ってみると、山形市郷土館となっている旧済生館本館に出た。明治11年に御雇外国人アルブレヒト・フォン・ローレツを迎えて文明開化を象徴する病院として建てられたもので、当時の初代県令である三島通庸の命によるものらしい。日本の大工が西洋建築物を模して、わずか9ヶ月で建ててしまったものらしい。なるほど、塔は三層になっているし、建物は円ともいえる14角形、きれいな中庭はあるし、ステンドグラスすらあるという不思議な代物で、なるほどこれはモダンな印象を与えたのだろうなと思う。明治維新からほどなく、草深い彼の地にいきなりこんな病院が出現したら、まさに時代が変わったという印象を、人々に植え付けたことだろう。

山形市郷土館 旧済生館本館

 再び東大手門に戻り、山形駅の方に向かって歩きながらタクシーを拾おうとしたのだが、何とまあ、たまに自家用車・・・それもたいていは軽自動車・・・がビューン通るだけで、タクシーなどぜんぜん来ない。そうか、つい東京のように思ってしまうが、流しのタクシーなぞないのかと思いつつ、駅の方に向かってそのまま歩いていくと、そもそも商店街には人っ子ひとりいないではないか。駅に近い繁華街であるはずなのに、どの店も、シャッターが下りている。なるほど、これがうわさに聞くシャッター通りか、衰退しているなぁと思った次第である。ただまあ、そうはいっても、山形牛を味わうちゃんとしたお昼ごはんをとりたいので、仕方がないので駅に行くかと思っていたところ、何という幸運か、わき道からたまたまタクシーが出てきた。

千 歳 館

 そのタクシーを停めると、その女性運転手もびっくりして、「こんなところで乗るお客さんって、いませんよ」とのたまう。何でもいいから乗せてくれといって飛び乗った。そして、あらかじめ予約しておいた「千歳館」とやらに連れて行ってもらったのである。ここが、何というか、昔の料亭風のところで、さっそく山形牛のしゃぶしゃぶをいただいた。なかなかうまいが、正直言って、東京の木曽路あたりの味と、さほど変わらなかった。値段は、むしろこちらの方が高くて、東京の倍くらいである。美味しいものは、東京で味わえということかもしれない。

山形県郷土館 文翔館

 それから、流しのタクシーがあれば拾おうとトコトコ歩いていたところ、タクシーが見つからないまま、山形県郷土館の文翔館というところに着いた。大正5年6月に建てられた県庁舎と県会議事堂が合わさった建物で、イギリス・ルネサンス様式のモダンな形をしている。先程の旧済生館本館といい、この文翔館といい、よほど当時の為政者は、西洋式の建物で県民をびっくりさせたかったらしい。知事室や客間はロココ風でものすごく豪華だし、正庁という長テーブルと多くの椅子がある部屋は、当時の幹部会議が行われた部屋だろうか。なるほど、こんな部屋で物事が決められたら、多少変な内容のものでも、何でも決まってしまいそうである。政治はまず、形からというわけか。

文翔館 客間

文翔館 正庁

文翔館 庭のチューリップ

>  「そろそろ駅に向けて行こうか、いやいやまだ少し時間があるなぁ」ということで、市庁舎近くの「伝統こけし館」というところに入った。ここ半世紀の間に作られた山形のこけしが、ずらりと並んでいるのを見て満足し、さあ出ようと思っているところに、館内の女性から声を掛けられた。「こけしを書いていきませんか。先生もいますよ」 もともと、好奇心の旺盛なわれわれ、それではひとつ、というわけで、こけし書きに挑戦してみた。

 その場におられたのは、「会田栄治」先生(昭和4年生まれ、天童市大字山元2416)という、こけしで内閣総理大臣賞を受賞された方、「その辺のお手本を参考にして、好きにやってみて」といわれ、まずお手本を並べてみたのだが、まあいろいろあって、どれが適当かもよくわからないが、単純な花柄を選んだ。轆轤で胴体に赤と緑の線を入れるという作業は、これは簡単。線が重ならないように注意するだけ。次にさあ、顔を書けといわれてもねぇ・・・。まず鼻をと思ったが、お手本は「入」の字の鼻である。これを細く書けばいいかと思って筆を入れたところ、ああっ、最初から失敗だ。ずーっと細くするつもりが、すごく太くなってしまった。しかも、曲がっちゃった。これじゃ、鼻が目立ってかなわない。

 しょうがないなあ、ほかの部分で補うように頑張るかと思って、目、眉と書いていったのだが、これらもできるだけ細くしたいのに、なかなかそうならない。そればかりか、直そうとすると、ますます太くなる。そしてまた、とんでもないことに、手を入れればいれるほど左右対称からどんどん外れていく。頬紅を入れる頃には、とんでもない不美人となってしまった。あーあっ。先生は、まあ、気にしないで、それなりに良い顔だと、言ってはくれるが・・・。だれが見ても、おさんどん風の田舎っぽい顔になってしまった。小学校低学年の頃の美術の作品のレベルより、まだ悪い。

 隣の家内はというと、こちらも「ああっ。線が太くなってしまったわ。」なんて、やっている。ふと見ると、確かに眉は太くてゲジゲシ風ながら、全体として、それなりにかわいい。私の方がおさんどんなら、こちらは「駒姫」とはいわないまでも、庄屋さんとこのお嬢さんといった感じで、これなら嫁に出せる器量だ。会田先生も「おおっ、これはかわいらしい」と、本気で褒めている。ううーん、くやしい。帰りの新幹線内で、さくらんぼをやけ食いしてしまった。

 この二つのこけしは、我が家の居間の飾り棚に収まっている。家内が両手を腰に当てるいつものポーズで、たまにそれを眺めているので困る。私が「君の、よく出来ているね。お嫁に出せる顔だ。」というと、「あなたのも、なかなか味があるわよ。こういうのは、書いた人に似るっていうから・・・」 な、な、何をおっしゃる。褒め言葉に全くなっていないじゃないか・・・。名誉挽回するために、また今度、あそこに行って書いてこなければいけないのか・・・、ちと遠いなぁ。
 
山形こけしの作品。もちろん、左の上手な方が家内の作。

山形こけしの作品。もちろん、左の上手な方が家内の作。


山形ちょっと旅( 写 真 )は、こちらから。






(平成20年4月28日著)
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