1.大和ミュージアム(戦艦大和) 9月はまだ夏休みの範囲内ということで、家内と二泊三日のツアーに出かけた。添乗員付きで、ユネスコの世界文化遺産の地を三つ回るという、少し盛りだくさんの内容のツアーである。羽田空港から広島空港へと飛び、まず着いたのは、呉の「大和ミュージアム」(呉市海事歴史科学館)である。一階にある戦艦大和の10分の1模型が、そのメインの展示である。当時の戦艦の構造は軍事秘密であったし、その大半が終戦のどさくさで失われているが、戦艦大和の場合はたまたま設計図が残っていたようで、それに写真、潜水調査の水中映像などを元に、約2億円をかけて造船所で作ったものが、全長26.3メートルもあるこの10分の1模型とのこと。 戦艦大和といえば、私が小学生から中学生にかけての頃、飛行機のゼロ戦とともに、同世代の子供の間では憧れの的だった。日本の科学技術の粋を集めた最新鋭の戦艦として雑誌などでもよく取り上げられたし、沖縄への特攻出撃で伊藤整一艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下3000人近い乗組員とともに海の藻屑となるという悲劇的な結末と併せて、脳裏に刻み込まれている。この大和ミュージアムのパンフレットによれば、「呉が生んだ世界最大の戦艦『大和』を中心に、明治以降における日本の近代化の歴史そのものである『呉の歴史』その礎となった造船・科学技術を紹介しています」としているから、基本的には、そのような私の世代に属する人々の感覚で作られているものと思われる。 もっとも、戦艦大和のそんな最先端かつ悲劇的というイメージは、後に松本なにがしという漫画家がうまく使って宇宙戦艦ヤマトというマンガを描いてしまったので、本来の姿とは少しズレが生じてしまったのは、誠に残念である。まあしかし、マンガのおかげで戦艦大和というものが後世にまで語り継がれるということは、そう悪いことではない。だいたい、最近の若い日本人は、我々の青少年時代と比べて元気がなく、意気消沈しているように思える。そうした中で、当時世界最先端の戦艦である大和を作り上げたという、日本人の矜持に思いを馳せることは、決して無意味なことではない。そればかりか、現在の日本の繁栄は、こうした尊いたくさんの戦死者の犠牲の上にあるということを改めて認識するきっかけになるのみならず、当時の日本の科学技術・工業水準はこれほど高かったということも自覚ができると考えるからである。 さて、その戦艦大和の10分の1模型を実際に目にすると、模型とは思えないほど威風堂々としている。正面には菊のご紋と日章旗が翻り、その下の艦首真下の形が美しい。甲板上の1番と2番の主砲は思いのほか大きく、それぞれに3本の砲がついていたとは、知らなかった。艦橋は高く、耳の辺りにレーダーのようなものが左右に広がって付いていて、これが人の顔のように見える。ぐるりと一周して艦後部に回ると、最後部には艦載機すら搭載しているし、艦尾のスクリューは4本である。 諸元は次の通りであり、まさに、世界最大の戦艦だった。もっとも、航空戦法が主流となった戦争後半では、出撃しようにも出られなかったようだが、これほどの巨体が動くための燃料を考えると、やむを得なかったということらしい。現に、大和の最後となった沖縄特攻時には、片道の燃料しか積んでいなかった。まさに、あわれとしか言いようがない。最先端技術も、ほんの数年で時代遅れのものになるということだ。 満載排水量:72,808トン 基準排水量:65,000トン 全 長 :263メートル 最大幅 :38.9メートル 最大速力 :27.46ノット 軸馬力 :153,553馬力 乗員数 :3,332名 起 工 : 昭和12年11月 4日 進 水 : 昭和15年 8月 8日 就 役 : 昭和16年12月16日 沈 没 : 昭和20年 4月 7日 そのほか、大和ミュージアム館内には、墜落した琵琶湖から引き揚げたゼロ戦(零式艦上戦闘機62型)、それに、人間魚雷「回天」10型、特殊潜航艇「海龍」などの現物が展示してある。 ミュージアム・ショップに「海軍さんのカレー」というのがあって、何かと思っていたら、ガイドさんによると、次のようなことだったらしい。何日も海の上にいると、曜日がわからなくなる。そこで日本海軍では、毎週金曜日をカレーの日と決めて、カレーを水兵にふるまったそうな。そうすると明日は週末だとわかるし、水兵たちも好物のカレーを食べられる。まさに一石二鳥というわけである。この毎週金曜日のカレーの日は、現在も海上自衛隊に引き継がれている。また、このカレーは、もともと英国海軍の「カレーシチュー」を採用したものだが、日本海軍の炊事班は、日本人の趣向に合うようにと、それに小麦粉を加え、とろみをつけてご飯にかけて食べるようにした。実はこれが、現在の日本の家庭で食べられているカレーライスのルーツだという。 また、この大和ミュージアムと道を隔てて「てつのくじら館」つまり、本物の潜水艦を展示してある海上自衛隊の建物がある。もう集合時間に遅れるとハラハラしながら、そちらも駆け足で見学をしてきた。艦内の司令室まで公開されていて、驚いた。潜望鏡も、触ることができる。ちなみに、男性陣がこうして、大和や潜水艦の見学をしている間、奥様方はどうしていたかというと、面白くなさそうに手持無沙汰で時間を持て余している風であった。それは、そうだろうなぁ。 2.広島平和祈念資料館 ツアーの最初の日、最初の立ち寄り先として、このように呉で大和ミュージアムを見学した後、バスで広島に向かった。市内に着き、元安川の橋を渡る前後に、原爆ドームを見た。ああ、これだった・・・。40年前と少しも変わらない姿だ。昔と違うのは、ユネスコの世界文化遺産という国際的な制度ができたことで、既にそれに登録されているそうだ。人類が受けた恐怖と悲惨を表す世界的な遺産として、長く守っていくべきものである。広島平和記念資料館前で降りて、まず入口で平和の鐘を見た。そして、広島への最初の原爆投下の日と最後の核実験の日から、それぞれ何日が経っているかを数えている平和監視時計を見る。これで、最後の核実験の日から、わずか2年なのかと知る。北朝鮮かパキスタンなのだろうか。 広島平和記念資料館の中に入る。かつて私は、高校の修学旅行でここに来ていて、原爆による熱光線で焼き付いた人影の石や、折り鶴を作りはじめた佐々木禎子(さだこ) さんの話を知って、たいへん衝撃を受けたことがある。今回もやはり、同じ展示があって、そのときに受けた悄然とした思いが、改めて心に蘇った次第である。 近年、その青春を太平洋戦争期に過ごした年代の方が、次第にお年を召されてきた。かつて、こういう人たちにかかると、軍事的なるものには、何でもすべて徹底的に反対ということだった。しかし、北朝鮮のように核兵器を開発してそれを外交の道具として弄ぶ国家が隣にあると、それへの備えが必要となる。日本国を運営する上で、軍事的なるものに一切合切何でも反対されてしまうと、これはこれで少し困ったものである。しかし最近のように、戦争を経験していない世代が増えてきて、国論の中心を担うようになってくると、風は全くの逆向きに吹いてくるようになった。つまり、政界のみならず言論界でも、軍事面で「勇ましい意見」が強まるようになってきたと思う。 私などは、戦後生まれの世代に属しているが、それでも小さいながら、空襲で廃墟となった大都市の姿をまだ覚えているし、戦争未亡人だった貧しい家庭も知っている。繁華街に行けば、白衣を着た本物の傷痍軍人さんたちをよく見かけたものである(先般、おばあちゃんの原宿、つまり巣鴨の商店街で、このスタイルをした傷痍軍人もどきの物乞いの人がいて、心底びっくりした)。それにこの、広島長崎の原爆の話も学校で繰り返し教わったし、「原爆を許すまじ」の歌も、小中学校で歌わされた記憶がある。そういうわけだから、最近のそういう「勇ましい意見」の人たちは、その結果どうなるのか、本当にわかっているのかと思ったりする。 もっとも、外交や軍事は、国と国とのやりとりなので、いろいろな手練手管をすべて繰り出すには、多少は勇ましくても、それは許容される範囲であろう。しかし、その先まで深く考えないままに、単に勇ましいだけなのではないかと、一抹の疑念がある。それでは済まないのではないかと思う。ただし、現に、どうにも困った隣人がいたりすると、きれい事ばかり言っておれないのも事実である。苦しくともそれを力に頼らないで、外交で解決するというのが理想であるし、それが戦後日本の目指してきたところではないだろうか。そうこう考えているうち、私自身も、そのうちリタイヤの時期を迎えそうだが、国を運営する上での最重要課題として、次世代の人々には、よくよく心に留めておいてほしいものである 資料館を出て、平和公園内にある原爆慰霊碑に歩いて行った。ここには、被爆者の過去帳を納めてあり、古代の埴輪の馬の鞍をモデルにしている。ほんの数日前、アメリカのペロシ下院議長(民主党・女性)がやって来られて、ユリなどの花束を捧げてくれたようで、それが残っていた。お参りをしてふと左の方を見ると、青空にへんぽんとはためく美しい日章旗が、目にとまった。空の青さと日章旗の白と赤の色が、どことなく空虚になっていた私の心に沁みた。 帰りのバスで、ガイドさんが偶然にも、「原爆を許すまじ」を歌ってくれた。今ではこの歌は、公式の場ではあまり歌われなくなって、専ら三代目の歌が有名らしいが、私たちの世代には、この歌の方がなじみ深いし、世代を超えて語り継いでいってもらいたいものである。 「原爆を許すまじ」(浅田石二作詞・木下航二作曲) ふるさとの街やかれ 身よりの骨うめし焼土(やけつち)に 今は白い花咲く ああ許すまじ原爆を 三度(みたび)許すまじ原爆を われらの街(まち)に (二番以下 略) 3.宮島厳島神社参拝 ツアーのコースに、宮島の厳島神社が組み込まれていた。こちらも、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。家内とともに、神社へのお参りと、鹿の見物をとっても楽しみにしていた。パンフレットには「正式参拝します」とあったのは、何だろうと思っていたが、おそらく、本殿で参拝することだろうと気軽に受け止めていた。宮島に向かうフェリー乗り場に着いた。そこから向こう岸の方向に目を凝らすと、厳島神社の赤い鳥居が見える。ああ、これだこれだ。昔と全く同じ雰囲気で、とても懐かい気がする。約40年ほど前のことになるが、私が高校の修学旅行にここへ来たときと、そっくりそのまま変わらない風景ではないか・・・。私の高校は、進学校だったが、戦前のナンバー・スクールの流れも受け継いでいて、バンカラな風潮も色濃く残っていた。そうだ・・・あのときは、元気なというか、馬鹿なヤツがいて、夜中にウイスキーを飲んで酔っぱらいながら大鳥居まで泳いでいった生徒が2〜3人いたっけ(私ではないので念のため)・・・。それはともかく、恐れ多くも宮島というところは、神聖な神様の島ということで、住む上でいろいろと決まり事があり、加えて島の大半は太古そのままに保存されているために、変わりようがないとのことである。 さて、本土側の桟橋から宮島行きのフェリーに乗り込んだとき、どちら側に座るかという段になった。写真を撮りたいので逆光になってはいけないからだ。家内いわく、「船というのは、進行方向にそのまま着岸するから、これからバックしてそして反対側を向くので、右側に座るといいわよ」と、のたまう。「ははぁ、そんなものかな」と思い、「ウチの奥さん、いつも賢いなぁ」とまで感心してその言葉に従ったら、違っていた。なんとその船は、前後に運転席があって、桟橋に着いたその姿勢を保って方向転換する必要なしに、そのまま逆方向に出て行った。対岸まで近すぎるので、そうでもしなければ交通に支障があるのだろう。 対岸の宮島の写真をズームやら光の具合を気にしながら撮っていたら、あっという間にもう宮島に着いてしまった。宮島の桟橋に着いてみると、すぐ目の前に宮島名物の原生林がある。そこに一筋の路が見え、そこから毎日、野生の鹿がぞろぞろと降りてきて、街中へと「通勤」しているらしい。ガイドさんが、「宮島では気を付けてくださいよ。鹿の糞があちこちにあるし、この鹿は紙でも何でも食べちゃいますから。特に好物は一万円札なんですぅ・・・ホントに食べられちゃった人がいるんですから」という。これらの鹿は、もちろん野生の鹿である。宮島では500頭近くいて、そのうち200頭弱が朝晩人間の近くに降りてくるとのこと。誰か暇な人が鹿の数を数えたらしい。確かに、あちこちで鹿が気だるそうに歩いていたり、寝ころんでいたりする。中には、立ち上がって鹿よけの柵越しに葉っぱを食べようとしている輩もいる。なるほど、勝手に好き放題やっているようだ。誰からも危害を加えられないから、インドのデリーにいる野良牛のようなもので、やけに堂々としている。 厳島神社は、1400年の歴史をもち、1168年に平清盛によって現在の社殿が造営されたそうな。それ以来、毛利元就、豊臣秀吉など時の権力者によって保護され、今日に至っている。その背景の弥山原生林、海中の大鳥居、寝殿造の優雅な社殿、高舞台、能舞台、五重塔などから、ユネスコの世界文化遺産として登録されている。 というのが公式な能書きなのだが、いやもう、訪ねたときはまだ9月の初めなので、とても暑い日だった。その中を宮島桟橋から海岸の松並木に沿って厳島神社の本殿に向かう。有名な海中の赤鳥居が目に飛び込んでくる。そのときは、干潮まであと30分という時だったから、潮が引いていて、鳥居は緑色の海草だらけの中に直立していた。それに、太陽が逆光なので、残念なことに、いい写真は撮れなかった。 そのまま、皆で本殿に上がっていき、エアコンの効いている部屋に通された。最初は天国のように感じたが、すぐに寒くてこごえそうになった。うまくいかないものである。ほどなくして、本殿へと呼ばれた。ほっとして、ぞろぞろと巫女さんに付いて行くと、そこはお賽銭箱の内側の空間。ほかの人たちがわれわれ目がけてお賽銭を投げ入れて拝んでくれている気がする・・・全く笑い話のようだが、実際にそうなのだから面白い。暑さの後の寒さでぼんやりしていると、板の間に敷かれたゴザの上に座るように促された。 来る前に、ガイドさんが、「厳島神社には、ボーイフレンドや夫と一緒に行かない方がいいですよーっ。あまり親しくしていると、神様が焼きもちを焼いて、仲を裂こうとするから。私も若い頃、ボーイフレンドと行ったのですが、今の夫とは違う人です」なんて言うものだから、一行の中で夫婦ものは、わざわざ離れて参拝することにした。ホントかいなと思いつつ、われわれも、そのようにしたわけである。 その結果、家内は二列目の端のやや内側という目立たないところに座ったのに、私は間の悪いことに最前列の真ん中で、当然、正座しないと目立ってしまう場所だった。振り返ってみると、この何十年間ほど私は、両膝をそろえた正座など、したことがない。案の定、座ってみたものの、そもそもお尻の下に両方の親指が揃って来ない。そこを無理矢理、正座しようというものだから、どうしても、どちらかの足先が上下の関係になる。ゴザが引いてあると行っても、下は板敷きなので、痛くてしようがない。これでも、学生時代は裏千家のお手前をやっていたのに・・・と思いながら、気が付いた。学生時代と比べて、そもそも体重が20キロ近く増えてしまったからだ。これでは、まともに座れないのも、無理はない。 仕方がないので、そのまま正座らしき姿勢で、時折、足の組み方を変えつつ凌ぐことにした。その痛いこと、痛いこと。我慢ができないときは、両手を一時的に支えとして、何とか耐え凌いだ。その一方、われわれの参拝のために神職が動き出した。まずメガネをかけた神官さんが祓詞を奏上し、「・・・かしこみ、かしこみ、申し上げそうーろうー」などと唱え、それからわれわれ一行の頭の上で白い祓串を左右に恭しく振って御祓いをしてくれた。私は内心、有り難いけれども・・・うーっ足が痛い・・・ああ、やっとこれで終わったと思ったのだが、それは甘かった。 今度は別の神官さんが、また別の祓詞を唱えた後、今度は本殿の奥へと向かった。何事ならんと思っていると、金色の御幣を持ち出してきて、「さあ、これから御幣で御祓いをしたします。終わった方は、そのままお出になって結構です」という。見ていると、その金箔の御幣を、参拝者ひとりひとりの頭めがけて、ゴツン、ゴツンとぶつけている。私も、頭に軽い衝撃を受けて、それで終わりとなった。心配は、足が萎えて立った瞬間にひっくり返ることだったが、幸いなことに、奇跡的に立てた。立った瞬間、両足にじーんとした痺れはあったものの、自分の足で何とか歩くことができた。いやはや、たいへんな参拝であった。あとで家内が、「普通なら最初の御祓いで終わりなのに、二度目にあんな奥から御幣を持ち出してくるなんて、有り難いことよー」と述べていたが、私には一回で十分だった。 さて、そのような難行苦行はあったものの、無事に正式参拝と御祓いを終えた後、寝殿造りの本殿などを見て廻った。改めて見ると、寝殿造りというのは、とても優雅なものである。とりわけ建物の朱色と木々の緑、それに群青色の海がお互いに映えている。戦国時代の武将ならずとも、信仰心をくすぐられることは、間違いないと思う。しばし、中世の世界を堪能させていただいた。 帰りの船に乗り、着いたのが、安芸グランドホテルで、ちょうど宮島の対岸に位置する。ガイドさんから、ここのナイト・クルーズは幻想的で、お勧めだと聞いていたので、それに参加してみることにした。ホテルの裏の小さな桟橋に行ってみると、これがまた狭い船で、20人ほどの参加者が乗り込んだら、それで定員いっぱいとなってしまうような代物だ。それに乗り込むと、暗い海をそろそろと進んでいく。すると、海中の大鳥居が近づいてきた。なんと、ライト・アップがされていて、確かに幻想的な風景である。案内のお兄さんがいう。「これから、半分のお客さんが上に登ってもらいます。なぜ半分かというと、こんな細いパイプ数本で支えているので、それが限界なんです」ということで、われわれは次の組となった。 船はエンジンの音を静かに響かせながら、暗い海中をどんどん進んでいって、大鳥居の前まで来た。止まるのかと思いきや、なんと船はそのまま、大鳥居の間を抜けていくではないか。天を仰ぐと、大鳥居のてっぺんの扁額の字まで読み取れる。「皆が、あっあーあー」と声を出す。そうしたら、今度は、「お客さん、交代してください」ということで、われわれの番となる。上に登ると扁額と大鳥居の朱色がますます近くなり、次第に後方へと通り過ぎた。その辺りでゆらゆらと揺れながら、夜の海中をしばし漂い、鼻には磯の香りがつーんとする。これにおつまみと白ワインでもあれば、最高なのだが・・・、そういう贅沢はいわないことにして、このままでも、けっこう夢見心地にひたることができ、大きな声で「いやこれは絶景かな、絶景かな」とでも叫びたい気分である。確かに、他にはない味わいがある。来てよかった。大鳥居をぐるりと回って帰る途中、あることに気が付いた。鳥居って、まっすぐ伸びていると思っていたのに、こちらの場合は海中にあるからだろうか、根元だけ意外と太くてびっくりした。 さて、ホテル前の桟橋に帰る途中のこと、船の案内役のお兄さんが語る。「えー、この船のご神体は、船の名前にちなんで白龍さんで、船の前方に付いています。ところが、先の台風で、これが吹き飛ばされて、なくなってしまいました。海中から陸上やら、いろいろと探したのですが、どうにも見つけられなくって、どうやら昇天されたようです。そこで船長が2ヶ月ほど頑張って、発泡スチロールで新しい白龍さんを作りました。ひげは、その辺の海中に漂っていた木っ端です。まあ、見てやってください。ただし、あまり近くから見ると、アラが目立ちますから、離れてね」・・・全員、大爆笑だった。 4.石見銀山と昔の町並み ツアーの二日目となり、この日は去年7月に、ユネスコの世界文化遺産に登録されたという石見銀山を訪ねた。この地区は、江戸時代に開発され、一時は世界の銀生産の3分の1も産出したという。とても暑い夏の日差しの中を山道やら坑内やらを延々と歩き、疲れて閉口した。ついでにはっきりいうと、我ながら、まあモノ好きにも、なんでこんなところに来たのだろうというのが見学後の感想である。 この地区では、これまでに600もの坑道が掘られた。そのうち現在見学できるのは、龍源寺間歩(「間歩=まぶ」とは坑道をいう)を含む3つのみ。その龍源寺間歩は、1715年の開発で、代官所直営の五山のひとつ。江戸時代にはすでに600メートルも掘られて、良質の銀鉱石が採れた。ここを閉じたのは昭和18年(1943年)というから、実に228年もの長きにわたって開発されてきた歴史がある。坑道の内部は、高さが1.6メートルからせいぜい2メートル、幅が0.9ないし1.5メートルというもので、ノミによる手掘りの後が生々しく残っている。こんなところをよく掘り進んだものだという感じで、当時の坑内労働の厳しさを物語っている。ガイドさんによれば、たとえば「萎え」といって、酸欠で坑夫がよく倒れたそうで、30歳まで生き残っていたら、それだけで祝福されたという。そんな坑夫たちを中心に、一時は20万人もの人口が、この地にいたというのである。 鉱山に至る川筋には、当時の面影を今に残す家々・・・武家、商家、それに社寺などが立ち並んでいる。川の上流に行くほど空家が多いが、中下流にはもちろんまだ人が住んでいたり、商売をしている。清水寺前というところで降りて、山道をしばらく歩く。そうすると、古色蒼然とした「史跡 石見銀山遺跡 龍源寺間歩」という石碑が出現し、その奥手にひっそりと坑道の入口がある。そこから、中に入って行くのだが、私の背にとっては坑道の天井が低すぎて、身をかがめなければ前へ進めない。あちらこちらに、枝道のようなところがあり、そこからも掘って行ったようだ。当時の灯りは、サザエの殻に油を満たして芯に火をともしたものだったらしい。坑道が深くなると、空気も当然通らなくなるので、手で空気を送る仕掛けもあったという。それにしても大変な環境である。 その龍源寺間歩をほうほうの体でやっと抜け、再び地上に出た、太陽がまぶしかったが、その時ばかりは救いの神のような気がしたものである。それからは、銀山川に沿って下りの一途となる。川の左岸には比較的人家が多いが、カンカン照りである。しかし、右岸は遊歩道となっていて、森林の中を歩けるようであるが、文化的価値のある場所はあまり見当たらない。家内とどちらにしようかと話し合ったが、涼しい方を歩こうと意見が一致して、遊歩道をとった。結果的にこれは正解で、摂氏31度にもなった夏の日差しを避けつつ、順調に下りて来られた。左岸をとった人のなかには、暑さでやられた人もいたらしい。途中、左岸コースと右岸コースとは合体するが、銀精錬遺跡、身代わり地蔵を安置するお寺、武家屋敷、大店の商家、代官所など、江戸時代を思わす町並みがそのまま保存されていた。 地元の方々が実に熱心で、町並みの保存やユネスコの世界文化遺産の登録運動などを繰り広げられたことが実を結び、登録された。誠に慶賀の至りである。現在では地元の方たちが、無料ガイドを引き受けてくださっているなど、頭が下がる思いではある。しかし、たった数時間の滞在では、その良さというか素晴らしさがどうもよくわからなかった。こんなことを言ったら地元の方たちに叱られるかもしれないが、この何が良いのだろう???と、今だに疑問のままである。誰かご教示いただければ幸いである。 5.秋吉台の秋芳洞 さて、ツアーも三日目となり、この日は朝から秋吉台と秋吉洞に行く。秋吉台はよく知られたカルスト地形で、3億年前に形成された石灰岩でできている。その石灰岩が雨水で溶かされ、地上では石の塊が並び(もっとも、その大半は草に覆われてしまっている)、地下では大鍾乳洞を形成している。実は私は、広島や宮島に次いで、ここ秋吉台にも高校時代の修学旅行で来たことがある。バスで秋吉台に近づくと、地上の草原の風景は、当時そのままであった。確かこの当たりで皆の青春が爆発し、「丘を超え行こうよぅ〜〜」なんて、歌っていたなぁと、ひとり感激にひたる。 この草原の真下の地下100メートルに位置する秋吉洞(あきよしどう)は、私がかつて来た頃から既に天然記念物として著名であった。展望台のある黒谷口、ここは傾斜のある洞の坂の上に相当するが、そこから坂の下に相当する出口に向かって、洞の内部を下って降りられることになっている。その順に内部の景観を述べていくと、次のようになる。 黒谷口 → 五月雨御殿 → クラゲの滝登り → 岩窟王 → 黄金柱 → 千畳敷 → 石荀坂 → 千町田 → 南瓜岩 → 洞内富士 → 百枚皿 → 青天井 → 出口 確かに、奇観であり、それなりに見ごたえがあった。特に、黄金柱、千町田、洞内富士、百枚皿というのは、思わず見とれてしまうほどである。しかし、それにしても、付けられた名前が、何ともはや、生活感があふれすぎていて、いささか恥ずかしい気がする。たとえば、クラゲの滝登り、岩窟王、それに南瓜岩や千町田などというのは、学識はもちろん詩情のかけらもないではないか・・・こういうネーミングひとつでも、その人の知性と教養が現れるから・・・。たとえば、ここに最初に分け入った探検隊の一行の中に、詩情豊かな発想ができる人がひとりでもいれば、また違った名前になっていたと思うのだが、いかがであろうか。もっとも、そういう私にも、特にそんな才能があるわけではないので、とりあえず言っているだけである。 秋吉台の出口、というか本来の入り口は、この写真のように水の色は真っ青で非常に美しい。そこから流れ出る清流に洗われる岩の表面には、緑色の苔がびっしりと生えていて、これもまた見事である。しばし、見とれていたら、ツアーの一行が、家内を含めてさっさと前に進んでいってしまったようで、ふと気が付くと誰もいない。あわてて小走りに追いかける羽目に相なった。この手のツアーの、いやまあ、そのあわただしいことよ。ゆっくりと、美しい景色を愛でている暇すらない。おーい、お母さん! ちょっと待ってくれーっ。 6.萩の雁島別荘に滞在 旅行の二日目の晩、山陰海岸をバスで延々と走った果てに、萩に着いた。泊まったところは、雁島別荘(がんじまべっそう)といって、どうやら萩焼きの窯元のようなところが経営しているようである。一言で感想をいうと、たいへん良かった。窓を開ければ松本川と、その川岸に係留している漁船群やカモメが見える。ベランダや風呂からそれを眺めると、心からのんびりした気分になる。 ここは本来は料亭で、4年前に20室の客室棟を建設したという。われわれの泊まった部屋はもちろんその中にあるが、そこから本来の料亭部分に行ってみると、内部はアール・デコ調で、なかなかシックな味わいがある。いつも流れているバック・ミュージックを聴きながら、ソファーに座って新聞を読むと、なるほど、これは別荘そのものだという感じがするのである。 それに、本来は料亭だっただけに、食事がとてもおいしかったことを一言、申し添えておきたい。今度、萩に行ったときは、同じ経営の北門屋敷というところがあるので、ここに長逗留してみたいと思っている。 7.萩の武家屋敷 萩といえば、長州藩があったところである。この地で、明治維新の英雄たちが生まれて育った。毛利家の居城である萩城は、残念なことに明治の初期に取り壊されて今はもうなくなってしまったが、その跡地は城下町のはずれの指月山の麓にある。指月「山」といっても、わずかに標高143メートル、おわんを伏せたような美しい形をしている。本来は半島のようになっていたようであるが、その首に当たるところにお掘のようなものが作られていて、町域とは切り離されている。こうして出島のようになったその指月山一帯にほど近い城下町地域に、武家の居住区がある。萩城に近いところほど家老などの高位の家来の屋敷があり、外れになって商家に近くなるほど、身分の低い家来の家がある。その当たりには、高杉晋作生誕地、木戸考允旧宅、田中義一誕生地などがあるし、その地にあるの冒頭の写真の円政寺には、「高杉晋作・伊藤博文両公幼年勉学の地」とある。また、毛利家の藩医であった青木周弼の養子である明治の外交官、青木周蔵の家も、そのすぐ近くにあった。 この地区は、全体的に、旧武家地区の雰囲気そのままで、あちこち歩き回ると、そういう明治維新やその後に活躍した勤王の志士や明治の元勲たちの旧居や生誕地が思いがけず眼前に現れてきて、歴史好きには実に楽しいところである。また、藩内経済を一手に握っていたという、菊屋の宏大な住宅も入って見ることができる。今回は行けなかったが、吉田松陰の記念館もあるようだ。また、木々の間に車窓からちょっと見えただけだが、郊外に韮山にあるのと同じような反射炉もあった。これはすごい、歴史が息づいていると、ひとりで感激に浸っていたら、萩博物館というところでバスを下ろされた。 萩博物館に入ってみたところ、奇兵隊を作った高杉晋作のコーナーが特に面白かった。長州征伐のときに農民町民も含む奇兵隊を組織して見事に勝利を収めたり、英仏米欄などとの馬関戦争のときには講話使節となって植民地化を防いだり八面六臂の活躍をした人である、幕末の最重要人物である。結核にかかって、残念ながら29歳の若さで亡くなるわけであるが、その妻の肉声の録音が残っている。解説によると、7年間の結婚生活で、一緒にいたのはわずか2年間ほどで、年に1〜2回しか家にいなかった年もあったという。そして妻は語る。「東行(晋作のこと)との間には、東一が生まれましたが、ほんのわずかの期間しかいなかったので、何も思い出すことはございません」・・・そうなんだろうなぁ。今でいえば、家庭をとるか仕事をとるかといわれて、仕事を目茶苦茶にとったからこそ、あんな大それた業績を上げられたということかもしれない。やはり、二者択一となってしまったようだ。 博物館に入る前、木戸考允旧宅という家に入ってみた。ここでいただいたパンフレットに、木戸考允(桂小五郎)の年譜があった。それによると次のようなものであるが、木戸考允は、京都を中心に活躍して国事に奔走した。とりわけ薩長同盟で維新の実現に力を尽くし、維新後は明治政府において、五箇条のご誓文、版籍奉還、廃藩置県という実績を残した。西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑といわれた。6尺つまり180センチ近い大男で、写真をみると、現代に見かけてもおかしくないようなモダンで聡明な顔をしている。また、その横は京都の芸妓上がりの幾松夫人で、新撰組が跋扈する京都で、幾多の危難から桂小五郎を身を挺して守ったことで名高い。鹿鳴館の華だった。こちらも、非常に近代的な顔をしていると思った次第である。 1833年 1歳 6月26日、藩医の和田昌景の子として出生 1840年 8歳 桂家の養子となり、家督を継ぐ。 1849年 17歳 吉田松陰に師事 1852年 20歳 江戸の斉藤弥九郎道場に入門し翌年塾頭になる。 1853年 22歳 江川太郎左衛門に洋式兵術を学ぶ。 1855年 23歳 造船術と蘭学を学ぶ。 1859年 27歳 江戸藩邸の有備館用掛に任ぜられる。 1862年 30歳 奉勅攘夷の藩論に転換 1863年 31歳 京都神戸で勝海舟に出会う。 1864年 32歳 京都留守居役。池田屋事件を免れるが禁門の変に敗北 1865年 33歳 下関で坂本龍馬と出会う。 1866年 34歳 薩長同盟 1867年 35歳 薩長が出兵を盟約 1868年 36歳 明治維新。太政官の徴士、総裁局顧問・外国事務掛 1871年 39歳 参議。全権副使として渡米し、2年後帰朝。 1874年 42歳 文部卿を兼任するが、辞職して帰郷。 1877年 45歳 京都で死去。5月26日没 こんな調子で、維新の志士をそれぞれひとりずつ、調べていきたいところであるが、残念ながら今回は、あまり時間がなかった。ところで、この萩には、幕末そのままの武家屋敷の町並みが、なぜこれほど残っているのだろうかと不思議に思っていた。ガイドさんによると、それは、明治維新のときに、この萩にいては不便だということで、幕府の許可を受けて毛利家の居城を山口に移したからだという。そのときに、武家の大半が山口に転居してしまったために、その旧居が昔のまま残されたのだという。発展から取り残された形だが、それが今となっては、幸運だったのかもしれない。 また、武家屋敷の庭のあちこちに、どういうわけか夏みかんの木が生えていて、実が成っている。これについてガイドさんは、維新の後、武家が窮乏していたことから、明治9年に小幡高政によって夏ミカンの木の苗が1万本も配られて、家計の足しにするよう工夫がされたとのこと。高値で取引されたことから、昭和40年代半ば頃まで萩の経済を支え、一方で萩の景観も形作ってきたとされる。ちなみにこの人は、第百十国立銀行の創立に加わって2代目頭取となっている。明治39年に享年90歳で没したという。 8.下関と門司レトロ地区 その翌日、慌ただしくバスで下関を抜けて福岡空港から帰京した。そんなことで、下関に行ったことになるのかと言われそうだが、昼食を春帆楼で食べ、その隣の赤間神宮に参った後に門司へと向かったから、まあ行ったうちに入るのではないかと思っている。春帆楼は、いわずと知れた日清戦争の講話条約交渉が行われた地であり、我が国のフグ料理免許第1号の料亭でもある。それに、春帆楼のマッチ箱には、昭和33年と38年に、天皇皇后両陛下がおいでになったとある。 行ってみると、建物が結構な坂の上にあるだけでなく、その坂の両脇には駐めてある車がたくさんあって、何か落ち着かないところである。店からは関門海峡が展望できるはずのところ、なんとまあ、正面に変な安っぽいビルができていて、景観が台無しになっている。そのビルの両脇に目をやると、行き交う船がやっと見えるという情けない有り様である。 これでは、ダメだ。しかも、出てきた料理には、確かにフグ刺しがあったものの、少しも、うまくない。団体扱いだったせいかもしれないし、おいしいものは、東京に集まっているのかもしれない。それとも、夜の最低25,000円以上という料理のためにとっているのかも。まあともかく、行ってがっかり、見てがっかり、食べてまたがっかりという料亭である。 老舗ということで、何もしないまま胡座をかいていると、そのうちどんどん周囲が変わっていって、いつの間にか最後尾に位置するようになる。そして、伝統というむなしい誇りだけが残るということになりかねない。景観を損ねるような向かいの変なビルを建てた人も人だが、そういうことをあらかじめ予想して、事前に手を打てなかったのかと思う。これなどは、今となっては直ちに解決することはできないだろうが、その代わり現在すぐにできることは、たとえば建物の周囲に駐車させないとか、いくらでもあると思う。特に料理は、経営者が自ら食べてみれば、どんな味なのか少しはわかるはずである。いささか、残念である。なお、その建物の隣には、日清講和記念館という黄色の建物があって、その中に、実際に条約交渉で使われたテーブルと椅子がそのままの形で置いてある。これは、一見の価値があると思う。 その春帆楼の隣が、赤間神宮である。そのホームページには、とても難解にその由来が書かれてあるが、要は、約800年前の壇ノ浦の合戦で平家一門と共に入水された安徳天皇(当時8歳)を弔うために建てられたもので、御影堂を称されていたものを、明治維新以降、社号を赤間宮、そして赤間神宮と改められた。ガイドさんによれば、入水するとき、安徳天皇からどこに行くのかと聞かれた平二位の尼前が「今ぞしる みもすそ川のおんながれ 波の下にも 都ありとは」と詠んだことにちなみ、水中の都、つまり竜宮城のような形の門(水天門)にしたという。壇ノ浦とはどこかと思えば、この目の前の海峡だという。そうか、こんなところだったのかと初めて知った。それにまた、赤間神宮の境内には平家一門を祀る塚もあるし、「耳なし芳一」の物語の舞台であることでも有名である。実際に、耳なし芳一を祀る祠も、その平家の塚の脇にある。 さて、そこから中国自動車道路の関門橋を渡って、対岸の門司に向かった。すぐに門司港に着き、レトロ地区を散歩してくださいとのこと。何だそれはと思ったが、行ってみてわかった。あちこちを、昭和初期のような雰囲気で統一している。たとえば、門司駅は、木製で、待合室やら食堂まで、昔の雰囲気なのである。だいたい、横方向に書かれた「待合室」という文字が、左からではなく、右から書かれている。じーっと眺めていると、私のような年代の人間には、懐かしく思えてくるから、不思議である。 海岸地区をぶらぶらと歩くと、門司駅のみならず、旧門司税関、旧三井倶楽部も、これはなかなかのレトロ調である。これは面白いと思い、もっと見たくなって、家内と近くの展望台に登った。こちらは、黒川紀章のデザインの30階を超えるマンションだが、その最上階をレトロ展望室として開放している。この展望室からは、今通ってきたばかりの関門橋、関門海峡を行き交う船、門司レトロ地区、対岸の下関の春帆楼と赤間神宮などが一望できた。そして、視野の一番の端には、剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎が対戦した巌流島があったので、こんなところだったのかと、これまた驚いた次第である。慶長17年(1612年)4月13日のことで、当時の名称は舟島。現在は下関市に属しているという。 さて、そこからバスで福岡空港に向かい、2泊3日の全日程を終了した。午後7時30分発の飛行機で、東京の自宅に帰り着いたのは、午後11時を回っていた。たいそう疲れたが、面白いことも多く、家内ともども大いに満足できる旅をした。 (平成20年9月7〜12日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
(c) Yama san 2008, All rights reserved