1.プロローグ 10月で仕事の区切りがつき、家内と二人で、11月の文化の日の連休に、どこか紅葉を見に行こうかと話をしていた。紅葉といえば京都の嵐山や東福寺の紅葉の美しさが頭に浮かぶ。しかし、最近は温暖化のせいかその最盛期が11月下旬となってしまっているので、時期は早すぎる。そこで、「そうだ。十和田湖あたりはどうだろう。奥入瀬には夏に行ったことはあるが、秋には行ったことがない」ということになった。 旅行会社に聞くと、前回、宮島や下関に行ったときのような添乗員付きのツアーは、もう締切が過ぎている。あとは、2名以上で運行してくれるJRのびゅうバスしかないといわれた。自分で宿の手配や現地の交通を考えるのも面倒だと思って、それを申し込んだのである。題して、「八幡平、十和田、八甲田コース」というわけである。パンフレットには、そのほか色々なコースがあったものの、さして気にも留めなかった。しかし、この旅行のパンフレットの謳い文句には、実は深い意味があったのだと、行ってみてから初めて気がついたのである。 2.盛岡と小岩井農場 2日間のコースのうち、まず最初の日は、朝が早くて午前6時頃に起きて、7時半の東北新幹線はやて号に乗り込んだ。そうすると、もう10時には、盛岡駅頭に立っていた。たった2時間半で、はるばるこんなところまで来てしまった。東北って、こんなに近かったんだと、思わず二人で同じことを言い合った。残念なことに、天候が良くなくて、雨が少しばかり降っていた。 その中を、真っ赤な「びゅうバス八幡平号」というのに乗って、まず盛岡城跡公園へ。同乗の皆さんは、我々と同じような年代の方を中心に、15名ほどで、親子連れも3組ほどいた。ガイドさんは城跡公園を「じょうあと公園」と発音し、そういう看板もかかっていた。しかし、他の土地ならこれを「じょうし公園」というはずなのになぁ・・・と頭に浮かび、我ながらつまらないことを考えると思いながらも、どうも最後まで納得できなかった。そんなことで、ガイドさんの説明が頭に入らなかったものの、雨の中の公園を皆さんと歩き、苔むした石垣と、真っ赤、真っ黄色の紅葉を楽しんだ。紅葉は、雨のせいで、しっとりとした色づきに仕上がっていて、かえって雨もよいものである。ちなみに公園内には、石川啄木や新渡戸稲造の石碑もあった。 次に向かったのは、小岩井農場である。行く途中で具合よく雨は上がった。現地に着いてみると、見渡す限りの草地が広がり、その奥に林が続き、さらにバックには、山々が見えるという気持ちのよい農場である。本当は、岩手山が背景の中心であるはずだが、残念ながら、その日は雲が一面を覆っていて、山裾しか見えなかった。 総面積は、3000ヘクタールというこの農場は、かつては火山灰土の荒れ果てた原野であったが、それを明治24年(1891年)に、3人の創業者、小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助(三菱社社長)、井上勝(鉄道庁長官)が開墾に着手したという。したがって、その頭文字をとって、小岩井農場と命名したとのこと。その後、117年にわたって事業を拡張し、今では、酪農、種鶏、卵、山林、環境緑化、農場商品、観光などを行っているという。 子供連れで時間があるなら、原っぱで遊ぶところであるが、家内と二人だけであり、たった1時間しかないといわれて、レストランで食事し、何か買い物をしたら、それで終わってしまう。いやまあ、あわただしいが、どうやらこれがこのツアーの特徴らしい。そんなわけで、のんびりジンギスカン料理を食べている暇もなく、100円卵を使ったというオムライスを食べてみたが、とりたてて、おいしいというわけでもなかった。もっとも、デザートのチーズ・ケーキは、いやこれは、確かに違うという感じのこってりした味で、おいしかった。でも、我々中年には、あまり健康にはよろしくなかったかもしれない。 それで次に、何か乳製品でも買って帰ろうということで、家内と二手に分かれて店内を見て歩き、私は、3種類のジャムを買った。ところが家内は、それを一見したとたん「あら、それは近くのスーパーで売っているわよ」と、一言。買う前に、早く言ってほしかった。そのジャムは、かさ張るだけでなく、3個もそろっているので、トランクを重くしただけだった。でも、家に帰ってきて、テーブルの上に並べると、小岩井農場を思い出す品として、それはそれで、なかなか良いものである。 ちなみに、小岩井農場で買ってきたこの3個のジャムは、眺めているだけではなくて、さっそく翌朝に食べてみたが、うーーん。おいしかった。いやいや、別に負け惜しみではない。 3.盛岡手づくり村 さて、今回の旅行の目玉は、八幡平であったはずなのだが、前々日に雪が降って、そこまで行く道路のアスピーテ・ラインが閉鎖となった。そしていったん除雪作業が成功して昨日は開通していたというのに、残念なことに、きょうはまた雪で閉鎖されたとのこと。 そういうわけで、致し方なく、進路を変更して「盛岡手づくり村」に立ち寄った。ここは、いわゆる体験型施設で、いろいろな製品を見学者に作らせてくれる。おせんべい、げんこつ飴、お団子、ラーメンといった食べるもののほか、陶器やら家具やら、それにご当地の南部鉄瓶である。前々回の山形旅行でこけしを作って以来であるから、捲土重来で、陶器の模様付けでも試してみたかったが、時間がなく、あえなく撤退するほかなかった。かわりに、お団子を何本かいただいた。 4.十和田までの道中 それから、十和田湖を目指してふたたびバスに乗ったのであるが、北上する途中で、秋田県を通った。尾去沢鉱山、小坂鉱山など、中学校の地理の時間に習った懐かしい鉱山名が出てくるが、鉱山業の衰退とともに、尾去沢などは史跡尾去沢鉱山というテーマパークとなっているらしい。道中、鹿角市(かづの市)あたりで、ガイドさんが「ここには大湯環状列石というものがありますが、今通っているこの道路の両脇にも、別の環状列石があり、その近くには、三角形をした山があります。大湯環状列石の北東には黒又山という小山がありまして、大湯環状列石からはきれいな三角形に見えます。」という説明をしていた。その環状列石の名は忘れたが、その近くには、確かに三角形の山があった。 大湯環状列石は、イギリスのストーン・サークルと似ているということで、すでに私の学生時代には話題となっていた。私が大学4年生の夏の頃、東北地方を旅した途中に、実際に見に行ったことがある。まあ、その頃からもう物好きの虫がうずいていたのかもしれないが、その時分には、三角形の山についての知見など一切なかったと記憶しているから、この40年ほどで、考古学も少しは進歩したという証なのかもしれない。 5.十和田湖畔 さて、午後5時近く、もうかなり暗くなってから発荷峠に着き、そこから下って、湖畔の休屋(やすみや)にある宿まで行った。泊まったのは、ホテル十和田荘で、フロントの右手にある弁慶と義経のねぶたを見て、はっと思い出した。ここは5年前に泊まったホテルである。前回も、このねぶたを見て感心し、写真に撮った記憶がある。お風呂の前で、ダァーダァーと大きな音をたてて流れ落ちている滝も、そのまま健在である。裏を返せば、この間、改修のための設備投資はなんらしていないこととなるが、それでもまた、こうして引き寄せられて来るお客がいるから、仕方がないのであるが・・・、食事は相変わらず並み以下であった。 翌朝、休屋の船着場に回りを散歩した。紅葉が真っ赤に色づいていたし、ナナカマドも赤い実を重そうに付けて、やはり葉は真っ赤である。時折、団体客が通り過ぎるが、かなりの確率で中国語を話している。こんな東北の鄙びた山の中にも、中国からのツアーが来ているのかと感心した。暑い地域の人には、こうした紅葉などは、物珍しいのかもしれない。 6.奥入瀬の渓流 さて、バスは奥入瀬の渓流を下っていく。前回来たときは、八戸から山を上がって下流の石ヶ戸で降り、そこから十和田湖畔の子の口(ねのくち)までトコトコと歩いたものだが、今回は逆に下る方向である。しかも、途中は飛ばして、石ヶ戸まで直接行き、そこで20分間だけ時間をくれるというもので、あわただしくって仕方がない。それでも途中でバスガイドが、あれは姉妹の滝、これは玉簾の滝、派手な銚子大滝、次は雲井の滝だの、何の滝だのと、車中から滝の説明だけはしてくれる。前回は、自分たちだけで黙々とルートを歩いていて何が何やらわからなかったのに比べれば、少なくともこれは、前よりも進歩したところである。ちょうど、葉っぱがかなり落ちていて、滝を見通しやすくなっていた。しかし、「ああっ、あれは絶好の撮影ポイント」だと思っても、バスは無情にもさっさと通り過ぎる。なるほど、これがこの種のツアーの欠点かと思い知った。 幸い前夜からの雨は上がって、なんとか渓流沿いを歩くことができる。雨のせいで下がぬかるんではいるものの、なるべく道の端っこを飛び石伝いのように、とび跳ねて歩いた。湿気が高いせいか、石の表面についた苔がしっとりとしている。周囲の紅葉も美しい。絶好の撮影ができるはずで、ガイドさんは、流れの上流に向いて写真を撮るときれいだという。ところが、朝なので、その方向では逆光になってしまう。そこでやむなく、下流に向かってシャッターを切った。それでも、日の光が差し込んでくると、ジャージャーと流れる渓流の色が、薄い緑色から一気に青色に変わったりして、思わずこれはきれいだとつぶやいた。 その合間には、渓流沿いの道から空を見上げると、ナナカマドの真っ赤な紅葉、ダケカンバの黄葉、ミズナラらしき薄茶の紅葉が、青い空と白い雲に映えて、これまた絶景を織りなしている。渓流もよいが、この季節は周りの紅葉もすばらしい・・・。そんなことを思っていたところ、もう出発の時間となり、再びバスに戻った。 7.八甲田の山々 次の舞台は、八甲田の山々である。確かに日程を見ると、八甲田山脈を突っ切って、青森に出ることになっている。バスのガイドさんによると、この道はもう、明日から閉鎖されるということになっているらしくて、本当のシーズン・オフになるようである。 国道103号という青い標識に沿って、バスは本当に、山の中をどんどんと走っていく。いやまあ、これはすごい。ホントに山の中そのものだ。奥入瀬の石ヶ戸から、蔦温泉に出たと思ったら、すぐに紅葉の林となり、その間から、蔦沼がちらりと見えた。そこを過ぎてトンネルをくぐったら、風景は一変してしまった。紅葉どころか、葉をすっかり落として白骨のようになったブナの木ばかりが続く。やや不気味な感じである。やがて、猿倉温泉を抜けて傘松峠へ。ここは標高1040メートルとのこと。行き交う車などなく、我々のバスだけだ。ホントに大丈夫かいなと、心配になってくる。右手には、八甲田の山々の一部が見えてきて、高田大岳、硫黄岳、小岳などと続く。それがブナの白骨林の切れ目から、見えたり見えなかったりする。あたりに人家の気配など全くない。ひたすら走り続ける。天候も、雨がザアーッと降ってきたかと思うと、青空となったり、くるくると変わる。 地獄沼というところに至り、酸ヶ湯温泉という前を通り、八甲田ロープウェイの間近に来たようだが、ガスでよくみえない。日露戦争直前の1902年(明治35年)に、この辺りの山の向こう側で、日本陸軍の雪中行軍による遭難があったところである。210名中199名が死亡したという。私も昔、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」でその顛末を知った記憶がある。例のとおり、旧陸軍の無謀で無計画で非合理的な性格が表れた事件として描かれていた。その実情はともかく、今となってはただ、合掌するのみである。 さてそこから、バスは再びどんどんと走って、雲谷温泉のホテル・ヴィラシティに至った。ここで、ホテルの前を一望して、その絶景に息をのむ思いである。眼下には、青森の市街地が広がっている。あまつさえ、その向こうには、北海道が見えるではないか。本当に雄大な風景であり、この旅行中で一番、忘れ難いところである。 8.青森ねぶたの里 雲谷温泉の景勝にびっくりしたところで、あっという間に、青森に着いた。向かったのは、ねぶたの里である。まあ、驚くような、大型ねぶた8台と弘前ねぶた1台、それに大きな仏様が一つ鎮座している。ひとつひとつ見ていくと、何というか、棟方志功のような力強さをひしひしと感じる。ねぶたは、そのお祭りの数日間が終われば解体されるが、それではもったいないので、知事賞や市長賞をとった優秀作品をこうやって展示しているとのこと。結構なことである。それにしても、こんな巨大なもの、どうやって作るのかと思ったが、基本的には、針金と和紙だけというから、これまた驚いた。 うれしいことに、ねぶたに触らせてくれる・・・といっても、皆でねぶた台の下に潜り込んで、えいやーっと、押したりするだけである。いざやってみたところ、御神輿を考えると、意外のほか軽かったというのが正直なところだが、実際には、これに発電機を載せたりするので、もっと重くなるらしい。 それが終わると、ねぶた囃子を演奏してくれた。そのあまりの音の大きさに、家内はびっくりしていたが、すぐにその太鼓と笛の音に慣れてきた。出発するときとか、引き回すときとか、少し調子が異なるらしい。確かに、出発するときのものは、さあ行くぞという感じ、ねぶたを引きまわすときは、しっかり力を入れろよーっと言っているみたいに聞こえるから、面白い。 そして次に、派手な格好をしたハネトという踊り手に扮して、皆が輪になって踊る。2回ぴょんぴょんと片足を跳ねて反対側の足を蹴る仕草をするという単純な動きなのだけれど、本番ではこれを2時間あまりもやるので、それは大変なようだ。そうして踊っていると、そのバックでは、先ほど皆で押し出したねぶたが、左右に動いくれて本番の雰囲気を出している。いやいやこれは、アイデア賞ものである。面白かった。最後に、そのねぶたを元の位置に戻して、おしまいである。 9.三内丸山遺跡 次にバスは、三内丸山遺跡に着いた。平成に入ってから、ここが発見されたときには、大センセーションを巻き起こしたことを覚えている。一考古学ファンとしては、以前から来てみたかったところである。平成12年11月には国の特別史跡に指定された。ここが発見されたときに大センセーションを巻き起こしたことを覚えている一考古学ファンとしては、以前から来てみたかったところである。 ここは今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡で、竪穴住居跡、大人や子どもの墓、掘立柱建物跡、貯蔵穴、ごみ捨て場、大きな道路跡が見つかっている。とりわけ、数年前には、クリの人工的栽培が行われていることが、クリのDNA分析でわかって、縄文文化は採集文化だったというそれまでの縄文観を一挙に覆した。クリだけでなく、ヒョウタン、ゴボウ、マメなども栽培していたらしい。それに、ごみを調べると、いろいろな種類の魚やクジラ、うさぎの骨なども出てきているらしい。食生活は、とても豊かだったようである。 この遺跡が発見されるまでは、縄文人というのは、あたかもアフリカのブッシュマンのごとく山野を駆け巡る原始的な狩猟民で、定住や栽培などをしているはずがないというのが常識だった。私などは、中学校で、弥生時代になってようやく農耕が始ったと習ったものだが、そういう考古学的常識は、とんでもない誤りだったことがわかった。ここのごみ捨て場からは、そうした食生活に関する考古資料のほか、ヒスイなどの装身具も出土しているが、なんとそれらは、はるか遠くの新潟県糸魚川の姫川の産物であるから、間接的にせよ、あれだけ遠い土地とも交易があったことになる。 現在、三内丸山遺跡は小高い丘の上にある。こんなところになぜ遺跡があったのかと思うところだが、縄文時代の海は、もっと高いところまで来ていたらしい。近くの川までつながっている広い道路があるのは、船着場までの道だったようである。鐘楼のような建物は、見張り台だったようで、ロシアから持ってきた大きなクリの木で復元されている。 巨大な大型竪穴住居跡に入ってみた。思ったより大きくて、皆さんとともに「わあ、大きい!」と言ったほどである。ただ、生活は厳しかったようで、大人の墓250ほどに対して、子どもの墓は800余りと、とりわけ、子どもの生存には厳しい環境だったようだ。子どもは、小さな土器に入れて埋葬されている。その中には、こぶし大の石がひとつふたつ、入っていたという。これで遊びなさいという、おもちゃを入れるような感覚だったのだろうか。早くに亡くなった子を思う親心の現れだと解したい。この寒い中、地元のボランティアのおじいさんに案内をしていただいた。青森弁を聞かせてもらい、青森県住宅供給公社職員の男とアニータ嬢の話など、ちょっと脱線したものの、なかなか面白かった。深く感謝したい。寒い中、本当にありがとうと申し上げた。 10.エピローグ さて、三内丸山遺跡から青森駅までは、すぐ近くて、電車の時間まで、小一時間以上もあった。駅の近くの港の方をふと見ると、懐かしい青函連絡船が繋留されている。その名も、八甲田号ではないか。実は私、今から40年以上前の学生時代に、この青函連絡船に乗ったことがある。それを見て、寒い冬の夜、青森に列車が着いたとたん、皆が走りだしたことにびっくりしたことを思い出した。そのときは私もつられて走って連絡船に乗り込んだが、どうやら皆は、ゆっくり寝る場所を確保したかったようだ。日本全体が貧しく、生き残り競争が激しかった時代のことである。 そんなことを思い出しつつ、それを家内に話しながら、その繋留されている連絡船を眺め下ろす展望台に上がり、港内を見渡そうとした。ところが、低すぎてあまり見えない。そこで、港を横切るベイ・ブリッジの根元にある歩道橋に上がる階段を上がっていって、見た。確かに、見晴らしはよくなったが、やっぱり寒い。早々に降りて、駅に戻っていった。 まだ時間はたっぷりあるので、時間は少々早いが、食事をしようということになり、駅近くのビルで、地下に海産物を売っている建物に入り、その中にあった寿司屋のようなところに入った。メニューのお勧めは、一番高い2600円の海鮮丼。うむ、これはいいと、頼んでみた。しばく経って、出された海鮮丼と蟹の味噌汁は、本当においしかった。海鮮丼の中に剥きエビがあり、それをおいしく食べて、頭と足を皿の上にそっと置いたところ、それがぞろぞろと動き出したのには、たまげた。まだ、生きているエビを食べたらしい。新鮮も、いいところだ。 満腹状態で、青森駅を午後5時16分に立ち、八戸駅で新幹線に乗り換えて、東京駅に9時30分、我が家に10時すぎに戻ってきた。わずか5時間で、本州最北端から我が家に帰ることができたということになる。これは早い。本当に便利な世の中になったものである。 それにしても、あわただしい旅行だった。確かに、著名な観光地と施設はすべて回ったが、ゆっくり見る時間がなかった・・・などと考えながら、旅行のパンフレットを見た。すると、その最初のところに「コースはどれも見どころがぎゅっと詰まったものばかりです」という文句が目に飛び込んできた。そして、今回の旅行の次のページには「奥入瀬ゆったりコース」というものがあるではないか。つまり今回の旅は、いわば雑誌の目次のようなもので、じっくり味わいたいなら、あとからそのところだけをまたいらっしゃいということだと思い知った・・・うまくなっている。ところで、我々が帰って来た翌日の4日には、青森は吹雪で、初雪だったという。一日違いで、助かった。しかし、地元の方は、これから毎日が、これなんだろうなぁ・・・大変そうだ。 最後に、余談をひとつ ええっ、何ですと? 「世の中、アメリカ発のサブプライムローンに端を発した株価の急落と大幅な円高の進行、それに景気の後退で世間は大騒ぎなのに、のんびり旅行などしている場合か」だって? 家内の話によると、ウチは日本がバブルだったときもまったく関係なくつましい生活をしていたし、たとえ不景気となっても、そういった低空飛行の生活は相変わらずということらしい。 (平成20年11月 5日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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