悠々人生のエッセイ







大内宿の写真


 5月の連休中、まだ行ったことのない地域に行こうということになって、会津地方を選んだ。まず第一日は、東京から新幹線で郡山に行って磐越西線に乗り換え、会津若松駅に着き、そこから会津西街道を車で「大内宿」に到着した。問題はその途中で、芦の牧温泉からの道と合流する辺りから、自家用車で道は大渋滞していた。単に連休中というだけでなく、高速道路料金が一律千円へと引き下げられたせいもあったらしくて、運転手さんも「こんなこと、初めてです」というくらいにびっくりしていた。そんなわけで、大内宿には午後4時頃の遅い到着となってしまったのである。

大内宿駐車場から木の橋を渡る

 大内宿にたどり着くまで、文字通り見渡す限りの山また山が連なっている。まさに、「分け入っても、分け入っても、蒼い山」という表現がしっくりするほどの山間の僻地である。そういうところの一角に大内宿駐車場があった。八重桜が二本ほど咲いていて、なかなか美しい。そこから、観光客が山の方に向かっていく。いったん沢のようなところに下りて、木の橋を渡った後、また相当急な山道を上がっていくのであるが、そこには見上げるような階段があり、階段の板代わりに丸太が積みあがっている。こんなところを通って行くのかとげんなりしつつ、そこを上がっていくと、右手には何やら古い古い庚申塚があった。その先には、これまた古い階段と、その登りきった所には祠のようなものがある。階段の両脇には、「五穀豊穣」「天下太平」「風雨順次」「村中安全」という文字が並んでいる。素朴そのものだ。私は都会育ちなので、こんな風景は、初めてである。

「五穀豊穣」「天下太平」「風雨順次」「村中安全」

 そこを過ぎると、萱葺きの大きな家が見えてきた。この家がいわば「T」の字の横棒の位置にあり、そこから縦棒の方を見ると、真ん中には未舗装で土が剥き出しの道があり、その両脇には、昔の民家のような萱葺きの家々が、整然と立ち並ぶ風景が現出した。ああ、これは江戸時代の街道ではないか。ひと目見て、これはすごいと思った。まるで、七人の侍の映画のセットに出てくる村のようである。両脇に連なる濃い茶色の家々と、真ん中に走る土の道路と、あちこちに咲く花、それにちょうど五月なので、空高くはためいている鯉幟が、この宿場町に躍動感と季節感を与えている。その中心の通りには、土埃を立てて大勢の観光客がゾロゾロとそぞろ歩きをしている。

大内宿

 この大内宿というのは、江戸時代には会津若松と今市を結ぶ会津西街道の宿場町として栄えたらしい。会津西街道というのは、鶴ヶ城下から南下し、祇園信仰で有名な会津田島を経て下野国(しもつけのくに)今市(いまいち)に至る道で、下野街道ともいわれる。ここを通って下野国から日光街道に入ると江戸への最短路となることから、藩主の参勤交代や会津産米など物資の輸送に使われたという。古くは、豊臣秀吉が白河街道を経由して会津入りをし、京へ帰るときに使ったのが、この下野街道だそうだ。ちなみに秀吉は、天正18年に小田原攻めを行い北条氏を滅亡させた後、その天下統一の最終段階で、奥羽仕置きを行った。それは、伊達政宗の減封、最上義光らの所領安堵、白河義親らの改易を行うとともに、奥州の抑えとして腹心の部下の蒲生氏郷を会津に置いたというものである。

 旅の途中のどこかで見かけた説明によると、たぶん17世紀だったと思うが、下野街道は、下野国に至る途中の山が崩れてしまったために、長期間、通行止めとなった。それ以降はこの地域から下野国へ行くには、専ら白河街道が使われるようになった。やがて、下野街道に新しく道が作られて再び通ることができるようになったが、昔のような往来の賑やかさは二度と戻らなかったという。そういうわけで、大内宿は長い眠りについたようになったようだ。幸か不幸かそれによって往事の町並みや建造物が残されており、昭和56年から重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。私は、かなり前のことになるが、馬籠や奈良井宿に行ったことがあるが、この大内宿の方が、当時の街道の風情をはるかによく残しているものと思う。また、合掌作りの白川村と比べても、あちらは確かに立派な民家であるが、それは村内に点在している。それに比べてこちらは、街道に沿って整然と民家が並んでいるところが、まさに宿場という雰囲気を醸し出している。

大内宿の全景

 さて、大内宿の「T」の字の横棒と縦棒が交差する地点で、そういう宿場町の威容と大勢の観光客の流れにしばし見とれていたが、後ろの山の上の方に登って行く人並みに気がついた。村の鎮守様の祠があるようだ。そこなら、この大内宿の全体の姿が眺められそうだ。では、行ってみようということになり、家内と二人でその急な階段を登って行った。着いたところにある祠の脇から小さな道があり、そこから宿場町の方を見ると、皆さん異口同音に「わあ、すごい」と叫ぶ。いやいや、宿場町全体が一望の下に見渡せるではないか・・・これは。パンフレットでよく見かける写真のスポットである。

 ひとしきり宿場の眺望を楽しんだ後、その急な階段を下りていき、いよいよ通りに出た。左手には、子どもの日なので、大きな鯉幟がひるがえる。中央の通りには、人がいっぱいで、左右の側溝には清水が流れている。その側溝から両脇の民家との間には数メートルの間隔が開いているが、昔はこのスペースで馬からの荷降ろしをしたという。なるほどと納得した。それにしても、大内宿を貫くこの街道は、真っ直ぐで、その向こうには、斜めにゆるやかに傾いている山の稜線が見えて、誠に美しい。なるほど、江戸時代の旅も、悪くはないナと思ったのである。

 さて、家族連れで混雑するその街道に飛び込んで、左右をキョロキョロしながら、見て回ることにした。一軒一軒が、都会育ちの私としては見たことのない萱葺きの民家ばかりである。縁側があるし、写真によれば、中にはもちろん囲炉裏が切ってあるという。側溝に植えてある花がきれいだ。特に可憐な水仙が何ともいえない。その脇の立札の説明によると、宿場町として整備されて今の形となったのが17世紀半ばで、参勤交代に用いられたので、本陣と脇本陣が置かれた。今の民家の大部分は、江戸時代末期から明治にかけて造られたもののようだ。

大内宿の水仙

 おやおや、蕎麦処「本家 玉屋」とある。囲炉裏端でゆっくり焼き上げた岩魚やねぎを箸代わりにして食べる「ねぎ蕎麦」が有名らしいが、この時間に食べてしまうと、ホテルの食事が食べられないので、我慢するしかない。手焼きせんべい・手打ち実演十一そば「山形屋」というのは、雑誌に載っていたお店だ。泊まれるし、泊まると何と96歳のお婆さんが、ヤマメを焼いてくれるらしい。そういえば、ここの手焼きせんべいは、人気である。大きなせんべいで、それをまた大きな海苔でくるんであって、道行く人たちがかぶりついている。いかにも、日本的だなぁ・・・。これが名古屋だと、みたらし団子というわけだ。

手焼きせんべい・手打ち実演十一そば「山形屋」

 参勤交代で殿様が宿泊した本陣が復元してある。1643年に会津藩に封ぜられた初代藩主の保科正之、二代藩主の保科正経の参勤交代時には、行列の人数は600人で、たいへんな賑わいだったという。その後、時代をはるかに下って明治維新時には、この辺りは戊辰戦争の舞台となったことから、本陣に関する資料はすべて焼失して記録も残っていなかったので、同じ街道の宿場町である糸沢宿や川島宿の本陣を参考にして復元したとある。

 そのそばに、昔なつかしい火の見櫓があった。ただし、これは鋼鉄製である。ここはちょっと、現代的ではあるが、いまどきこんな櫓がある町なんて、なかなか見当たらないだろう。その近くには「本家 えびす屋」か・・・、「ゑびす屋」とすべきでは・・・。その向かいには、「自家製つきたて餅あります」という家があり、ここでトチ餅を買ってしまった。さらに歩くと、「手づくり しそ巻」、金太郎そば「山本屋」があり、脇本陣「富屋」の前の黄色い花は見事である。

 またぶらぶらと民家の軒先をひやかし、両手を広げてニコニコしている猫の置物を見て、家内が、「あっ、うちの孫がいる」と言ったりしているそばで、私は「そば大福」という文字に抗しきれずにそれを買い求めた。手打ちそば「味処 みなとや」などというのもある。ううむ、おいしそうだなぁ・・・。

両手を広げてニコニコしている猫の置物

 ということで、ブラブラしているうちに、江戸時代へのタイムスリップはタイムアップとなり、帰りの車に乗り込んだ。その名も大内湖という湖の周囲のくねくねと曲がりくねった道を通って、来るときにかかった時間の半分で会津の町に着き、本日の宿の東山温泉へと向かったのである。





(平成21年5月 4日著)
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