悠々人生のエッセイ







会津若松の写真


 5月の連休に、会津へ小旅行に行ってみた。最初の日に大内宿に行った後、会津若松に戻って東山温泉のホテルに泊まった。こんな山の中だというのに、夕食には、蟹、蝦、鮑、刺身などの海の幸が次々に出てきたかと思うと、山菜、筍、鯉こく、山形牛など、山の幸もいっぱい出てきた。それらをひとつひとつ平らげていく・・・。こうなると、日頃のダイエットなど、どこ吹く風というところである。最初、家内は「とっても食べられないわ」と降参していたが、私が食べ終わってふと見ると、おいしかったのかもう9割方は平らげていて、しばらくしてとうとう二人とも完全制覇と相成った。家内の休養の意味もあったので、めでたいことである。
磐梯西線快速あいづ号


 その日の夕方には、ホテルの余興で、白虎隊のひとり踊りを見た。ホントの余興ではあるが、題材が題材だけに、いささか悄然とした気分になった。まるでその沈滞ムードを吹き払うように、引き続き会津音頭の即席講習会があり、家内と一緒にちょっとやってみた。最初、どうも踊りがうまくいかないと思っていたら、途中で足を右左ではなく、右右と連続して動かす箇所があると気づき、それを意識してからは、スムーズに踊れるようになった。何でも、やってみるものだ。

会津藩家老西郷頼母邸で藩主が通された御成り御殿


 翌日、少し早く起きてホテルを出て、まず武家屋敷に行った。ここは、会津藩家老西郷頼母邸を復元したもので、38部屋、328畳のお屋敷という。おもな部屋としては、藩主が通された御成り御殿、使者の間、奥一の間、奥二の間などがある。ちなみに西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた1700石取りの家柄である。幕末期の当主は、西郷頼母で、戊辰戦争に際しては恭順論や藩主の京都守護職辞退を進言したものの、藩主松平容保の入れるところとならなかった。その後、薩長の官軍に攻め込まれた際には、足手まといになるまいと、妻子など21人がこの屋敷で自刃したという。頼母本人は敗戦前に若松を離れ、日光東照宮の神職などを経て、晩年に戻ってきて、74歳の波乱に満ちた生涯を閉じたようだ。

 ちなみに、会津藩は、維新の動乱期に幕府から京都守護職を引き受けるよう強く頼まれた。受けるべきかどうか藩内で大議論があったようだが、最終的には、「仕方なかろう」という藩主松平容保の決断で引き受けた。それというのも、第三代将軍家光の異母弟である初代藩主保科正之が、寛文八年(1668年)定めた『会津家訓十五箇条』に影響されたといわれている。その第一条には、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である。仮にも藩主が将軍家を裏切るようなことがあれば、家臣は従ってはならない」と記してあり、それ以降、藩主と藩士は共にこれを忠実に守ったからだという。

 藩主松平容保はこの遺訓を守り、京都守護職を引き受けて佐幕派の中心的存在となった。しかしながらその結果、薩長から大いに恨みを買うこととなった。鳥羽伏見の戦いで徳川方が薩長に敗れると、徳川慶喜とともに江戸へと逃げ帰った。ところが、慶喜はそのまま謹慎蟄居し、松平容保には使者を出して「府外へ去れ」と伝えただけだったという。松平容保が納得できないまま7年ぶりに会津に帰還したが、そうこうしているうちに、慶喜のように講和ができないまま、攻め入ってきた官軍と戦闘に入り、白虎隊などに象徴される多大な犠牲を生んだというのである。

 会津藩には、武士道の殿堂である会津藩校日新館があったが、ここでは、「忠孝」を基礎に、朱子学の「理論を尽くし、しかる後に実践せよ」が教えられたらしい。その結果、武士のみならず商人の間でも、「ならぬことはなりませぬ」「士魂商才」「真、善、美」という哲学が植え付けられたと、会津復古会の資料にはある。

 素人ながら思うに、こういう忠孝の思想と家訓第一条をそのまま信じて、その信ずるところに従って、散っていったのが戊辰戦争時の会津武士だったのだろう。東北人らしく純粋素朴そのものの姿だ。これが仮に大阪人だったりしたら「そんなアホらしいこと、止めまひょ」などとすぐに日和見するところである。これでは西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視など、維新前後に権謀術数の限りを尽くした薩長の知恵者(会津びいきの早乙女貢氏にいわせれば「奸悪な連中」)とは、比べものにならず、即刻やられてしまうわけだ。それにしても、忠節を尽くした徳川慶喜にすら裏切られてしまったのは、これは相当ひどい。本当に可哀そうではないか。

 要するに、東北という片田舎にあって会津人は、世の政治の動きとか、時代の流れの行く末を読むとか、功利功名とか、外交とか、打算とか、妥協などの概念とは全く無縁で、一言でいうと「仁徳信義智を重んじ、忠君一筋」だったのである。早乙女貢氏の言葉を借りると、こういうことになる。「明治政府の功臣たち薩長の奸悪な連中には、この仁も徳もなく、会津藩と新撰組に仮借なき斧鉞を下した。士道に生き、誠意を尽くした人々が敗者の苦難に呻吟ことになった。武士は勝敗に岐れるとも相見互いというのは私心なく誠忠なるがゆえである。成り上がり者は、その士道すら知らずにたけり狂った。その妄念が軍国主義に突っ走り、侵略者の汚名に今日、なお国民が苦しめられている。」(会津復古会瓦版、「士道遥かなり」より)

 いやいや、ものすごい言われようであるが、結局のところ、会津人が浸っていた論語や朱子学から成る純潔の世界は、特に近代国家の弱肉強食の世界とはまったく合わなかったのだろう。それこそ、薩長の「奸悪」さでなければ、明治期の列強の進出には対抗できなかったと思う。それが早乙女貢氏の言うようにやがては太平洋戦争の惨禍につながったのかどうかはわからないが、少なくとも現代の日本や日本を取り巻く諸外国の現状は、仁、義、礼、智、信の五行などの理想の社会からは、未だに遠くかけ離れていることは、確かである。

鶴ヶ城


 話が長くなったが、その武家屋敷を離れて、いよいよ本日の目玉である鶴ヶ城に向かった。三の丸口から城域に入り、テニスコートの脇を通ってお濠のあるところに出た。目の前には、赤く塗られた「廊下橋」があった。これは、敵が来たら簡単に落とせる構造になっている。そこを渡ると、五層の天守閣が見えた。本物の鶴ヶ城は戊申戦争で大いに傷つき、陸軍省の命令で明治7年に取り壊されたが、昭和40年に昔の姿そのままに再建されたようだ。天守閣の中を観光客で混雑する階段を上がり、天守閣に出た。見晴らしのよい四方が眺められる。殿様はこんな風景を目にしていたのか、なるほどと納得した。白虎隊士の墓がある飯盛山が眼前にあり、これはもちろんすぐにわかったが、磐梯山や猪苗代湖を見ることができるかと思って見渡したものの、よくわからなかった。

 天守閣を出て、城内をぶらつくと、「荒城の月碑」があり、土井晩翠がこの鶴ヶ城と青葉城をモチーフに、名曲荒城の月を作詞したと書いてあった。そうか、てっきり青葉城だけかと思っていた・・・。さらに行くと、「麟閣」という茶室があった。なんでも、千利休が太閤秀吉の怒りをかって死罪となったとき、時の会津藩主だった蒲生氏郷は、利休の子の小庵を会津に匿った。そのうち秀吉の怒りが解けて、千家は再興されたが、小庵がその恩に報いるために建てたのが、この「麟閣」とのこと。ちなみに小庵の孫から武者小路千家、裏千家、表千家が分かれたが、その三家の扁額がここに掲げられているという。お庭で抹茶をいただいたが、お茶はともかく、茶菓子がおいしかった。家内も同意見で、餅々っとしていたのが不思議である。

茶室「麟閣」の庭


 そこを出て歩いて行くと、テントがあって、そこで二人の会津のお婆さんが、会津弁でお話をしてくれた。ズーズー弁ではあるが、それほど訛りが強くないので、標準語の私たちにも比較的わかりやすい。東北地方でも、南の方だからであろう。少し覚えた会津弁は、こんなところである。

 あいばんしょ → 行きましょう
 あがっしゃえ → 食べなさい
 きっとしてろ  → 動くな
 ずねいな   → 大きな
 そべーる   → 甘える
 めげーぇ    → 可愛い


 さて、お昼になったので、会津若松駅に行き、どこで食べようかと迷ったので、観光案内所のお姉さんに訪ねた。そうすると、こういうところがあると、蕎麦屋のパンフレットを渡されたのであるが、そのとき、その近くに「迎賓館」というのがあるとメモしてくれた。どこかといえば、駅から出て右手にある大町通りの入口近くにある。そこへ行ってみたところ、いやまあ、アール・デコ調の派手派手しい内装で、ちょっとこれは大丈夫かなというお店であったが、実際に入ってみると、リーズナブルな値段でなかなかおいしかった。これは、当たりである。その隣に、五郎兵衛飴総本舗というたいそうな名前の小さな門構えの店があった。家内が入ってみると、創業800年とのことで、その37代目というお爺さんが座っていて、何やら平らでやわらかい飴を売っていた。これまた、けっこうそれなりに食べられたので、なるほど800年間これで食ってきたのかと、思わず納得した。

会津の赤ベコ


 そこから少し先に行くと、右手に羽金家住宅という立派な家があり、その先に会津町方伝承館というのがあった。会津漆器、会津天神、赤ベコ、会津木綿、絵ロウソク、会津唐人凧などがあった。ちなみに、絵ロウソクには、花の絵が描いてあったが、花の少ない冬に、生花の代わりにしたそうな。でも、一本800円と、かなりのお値段である。温めた蝋に何度もつけて乾かすという昔ながらの製法で、1本作るのに2週間とのこと。ははぁ・・・根気のいることである。

 もっと南にある七日町通りに行きたかったので、まず野口英世青春通りの南端へ行き、そこから徐々に北上することにした。まず、旧黒河内胃腸科病院という雰囲気のよい大正風の建物があった。次に、野口英世青春広場というものがあって、博士の銅像が建っていた。その台座には「忍耐」とあったので、家内と二人で「やっぱり」と笑ってしまった。勉学に忍耐が必要なのは、今も昔も変わらない。博士は、この先の今は「会津壱番館」となっている旧會陽病院で勉学をしたようである。伝記にあるように博士は小さい頃、火傷で左手の指がくっついてしまう怪我を負ったのであるが、大きくなってそれを手術して直してくれたのがアメリカ帰りのこの會陽病院の渡部鼎先生であった。そのとき、英世少年は、大きくなったら医者になろうと決心したという。そして15歳から19歳にかけての3年間、この病院で書生をしていた。貧しく、高等小学校卒の英世少年にとっては、独学で勉強して医師免許試験に合格するしかなかった。そこで、この3年間、猛勉強をしたとのことである。

今は「会津壱番館」となっている旧會陽病院。英世少年は3年間、この病院で書生をしていた。


 英世は、その3年間の独学の成果があって、明治29年に上京して医術開業前期試験に19歳で合格し、翌年には後期試験にも合格したのである。そして、順天堂病院を経て伝染病研究所の助手となって、細菌学者としての道を歩み出した。以後、ロックフェラー医学研究所の所員となり、アフリカのアクラで黄熱病に倒れるまで、多くの成果を上げた。なるほど、いわゆる「たたき上げ」で偉くなった人なんだ・・・。昨年ノーベル賞を受賞した下村脩博士のような人というわけか。これぞ、日本人の底力ということだろう。こういう、ガッツがあって、どんなところからも這い上がるというタイプの人間は、今ではあまりいないのではないだろうか。これも、明治という時代の熱気のなせるわざかもしれない。

 さらに行くと、大町通りと七日町通りの交差点である札の辻に至る。ここは、道が直線で交わっていなくて、少しずらしてあるが、これは城下町の防御のために、道が見通せないようにしたからだとのことである。七日町通りというのは、昔の会津五街道のうち、越後街道、米沢街道、会津西街道が交わる西の玄関口だったらしい。そこを行くと、目立った建物として遠藤米穀店というのがあり、古美術とも書いてある。主人の趣味で、こちらにも手を出しているようだ・・・おやおや・・・。次に山新商店というのがあって、なめこ缶詰を売っているらしい。福西漆器店というのがある。その先には蔵造りの白木屋資料館があり、漆器を並べてあった。ただ、残念ながらどの建物も古びてしまっていて、まるで骨董品みたいである。この通りは、昔はにぎわっていたのかもしれないが、今日では、見る影もなく寂れてしまっている。

 さらに進む途中、特にこれという建物もなかったが、左手に渋川問屋という建物を見つけた。説明によると、「会津に入る海産物は越後街道を通ってこの渋川問屋に着き、ここから会津一円へと運ばれた。当時の海産物は塩物と乾物が主で、それが棒タラ煮、ニシンの山椒漬けなどの郷土料理を生んだ」という。今では、渋川問屋は観光客向けのレストランに変身を遂げていた。観光バスから、どんどんお客が吸い込まれていく。ああ、つまらない。その先の阿弥陀寺の先が七日町駅である。阿弥陀寺は、かつて木戸があり、ここから各地へ旅人が出発していったらしい。

 さて、また札の辻に戻って大町通りに行こうとしたが、たまたま子供の日だったので、通りの交通を遮断して子供のためのイベントをしていた。本当に石炭で動く蒸気機関車があり、それがたくさんの子供を乗せて実際に走っていたので、びっくりした。こんな小さいのに、どこにそんな力があるのか、蒸気機関というのは、侮れないと思ったのである。まあ、家内と二人、のどかな一日だった。

七日町通りにあった招き猫


 帰りは、再び磐梯西線で郡山に出て、そこからMaxやまびこ号に乗って帰京したわけであるが、その帰りの車中、こんなことを思ったのである。会津若松の市の中心部は、明らかに衰退している。会津若松駅から南下している大町通りや、札の辻でそれと交差している七日町通りは、かつては市の繁華街で、漆器店、米屋、酒屋、問屋などが立ち並び、だからその証左として、往時の豪勢な建物が軒を連ねている。しかし、今やどの家も、観光客以外は、地元のお客さんを見かけることは、ほとんどなかった。これが連休ではなく単なる平日であったら、客を見かけることは、まずないのではと心配するほどである。

 その反面、大内宿の帰りなどに見かけたのは、大きな通りに面し、大駐車場を有する大規模店である。GMSスーパー、カー用品、紳士衣料、電器チェーン店、レストラン・チェーンなどが道の両脇に立ち並んでいて、街の商業の中心は、こういう場所に移っているようだ。郊外の道は整備され、そこを主に軽自動車が縦横無尽に走りまわっている。ははぁ、これが街の中心部で廃業する商店が増える原因となり、いわゆるシャッター通りを生んでいるというわけか・・・。明治以前は「人の足」→七日町通り、昭和年間は「鉄道」→大町通り、平成年間は「軽自動車」→郊外の大道路・・・というのが、時代の流れに合わせて繁栄してきた場所なのだろう。とすると、郊外の大規模スーパーの立地を制限したとしても、こうした時代の趨勢を止めることはできないものと思われる。

 そうであるならば、会津若松も、従来の戊辰戦争関係の史跡とともに、あたかも大内宿のようにこうした昔の街並みをせいぜい保存し、街の中心部を歴史とレトロの建物として売り出すほか、生き残る道はないのではないか。そうした観点からすれば、会津若松観光物産協会からいただいた「あいばせ(さあ、いきましょう)」というパンフレットは、意図しているかは別として、そんな方向を示している。目次を見ると、史跡を訪ねよう、会津ゆかりの人物、歴史的景観建造物などが、ちゃんと載っている。まちなか周遊バスとして「ハイカラさん」「あかべえ」というのも用意して、観光客の便宜を図っている。それはそれでよいのであるが、このままで推移していくと、特に、歴史的景観建造物がどんどん消えていってしまいそうである。会津の方たちは、鶴ヶ城や白虎隊も大事ではあるが、それらに加え、子子孫孫のため、こういう建造物こそ重点的に保存すべきものと思われる。





(平成21年5月 5日著)
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