いよいよ、山に紅葉が映える秋の到来である。たまの土曜日、どこかの山に紅葉を見に行こうということになったが、家内が、日光はどうかという。そういえば、この十数年、行った覚えがないなぁと思い、そこにしようと決めた。この時期、日光でも麓の東照宮近辺は紅葉には早すぎるかもしれないが、中禅寺湖あたりは今が紅葉の真っ盛りだという。いろは坂で渋滞に巻き込まれるのではないかと心配だが、ともかく現地に行ってみるのが先決と、JTBで東武鉄道の特急スペーシアの切符を買った。
北千住まで千代田線で行き、そこから東武鉄道に乗った。沿線の様子であるが、埼玉県内は大きなマンションや小さな家々でいっぱいだけれども、栃木県内からは沿線の風景はのどかな田園風景と化す。東京への通勤圏とそうでないところとの差だろう。そうして景色を眺めているうちに、わずか1時間20分で日光に着いた。東武日光駅で中禅寺湖方面の渋滞状況を聞いたら、びっくりした。いろは坂の渋滞を抜けるのに3時間以上かかるという。これでは泊まりがけになってしまう。しかし、そこまでの元気はないので、そのまま東照宮方面の観光に切り替えた。1日パスを買って、まず神橋(しんきょう)の前を通り、西参道へと行った。 そこから、杉並木をぶらぶらと進んで、徳川三代将軍家光を祀る日光廟大猷院(たいゆういん)に着いた。境内の地図を見ると、仁王門(におうもん)、二天門(にてんもん)、夜叉門(やしゃもん)と、三つも門がある。まず仁王門に向かうと、その左手にある紅葉がすっかり赤くなっていて、実に美しい。その手前の法華堂を紅葉とともに、手持ちのカメラ、オリンパス・ペンE−P1の「アート・モード」で撮ったところ、まるで創建当時のような鮮やかさで写った。ああ、日光はこれでなければと思って、この日はこれ以降、このモードで撮ることにした。 仁王門から二天門に向かう途中、針葉樹のような尖った細めの葉の間に、赤い実をつけている木があった。これが、一位の木である。高校の教科書では、「イチイ」と書かれていて、何のことだかわざわざわからなくしている。しかしこれは、「昔、貴族の持つ『笏(しゃく)』を 飛騨の位山(くらいやま)にあるこの木で作り、朝廷から官位の『一位』を賜ったことから『一位』の名になった」という(「季節の花300」より)由緒ある木なのである。 二天門は、その正面に持国天と広目天の二天を安置していることからこう呼ばれているそうであるが、その背面に回ると、風神、雷神が安置されていて、これはなかなか見ごたえがある。俵屋宗達の絵もなかなか迫力あるが、この極彩色の像も、一度これを目にしたら、忘れないほどである。特に雷神は、赤っぽくて、じっと見ていると愛嬌すら感じられるから不思議だ・・・出来の良い彫刻や塑像は、多面的に人の心に語りかけるものだと思う。 階段をさらに登り、夜叉門を見上げる。こちらの門にも、正面と裏手に、「毘陀羅(びだら)」「阿跋摩羅(あばつまら)」「鍵陀羅(けんだら)」「烏摩勒伽(うまろきゃ)」の「四夜叉」を納めて、霊廟の鎮護に当たっているのだという。それだけでなく、門をよく見ると、その欄間や扉の羽目板部分や壁面など一面に流麗な牡丹唐草彫刻が施されていることから、牡丹門とも呼ばれている(大猷院HPより)とのこと。牡丹の彫刻、は見ていて美しいのであるが、四夜叉は今のセンスでは、豪華絢爛すぎて、かえって見ていられないほどである。ははあ、ひょっとしてこれが、霊廟鎮護の役割そのものなのかもしれない。 説明によれば、このうち青い色をした烏摩勒伽は、破魔矢発祥の仏様であるそうな。 いよいよ、大猷院廟に入れていただく。建物全体が純金の金箔に包まれていることから、金閣殿というそうだが、その拝殿の内部は、まさに豪華そのものである。ここは、歴代将軍が参拝したところで、向かって右手には狩野探幽の唐獅子図、家光公着用の鎧などがあり、左手には探幽と同じ狩野派の絵師が描いた唐獅子がある。上を見上げると、格子天井から天蓋が吊り下げられていて、昔は将軍がこの直下に坐して参拝したそうな・・・。ふと我に返って、今誰が天蓋の直下に坐っているかと見たところ、何とまあ、わが女房ではないか・・・さもありなん。 その現代将軍わが女房殿は、出口で家光の名の入ったお香を買いになった。これが誠に強力な香りで、くるまないでそのまま部屋に置いておくと、思わずむせび返るほどの香りを放つ代物であるが、それよりも、それにオマケのように付いていた色紙の方が面白かった。「天海大僧正御遺訓」と題し、 気は長く 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ その解説には、このように書かれていた。「徳川家康公に南光坊天海あり、と云われた高僧で、日光山の第五十三代座主。家康公亡き後も、二代秀忠公、三代家光公と、三人の将軍により崇敬され、人生わずか五十年といわれた時代にありながら、百八歳(寛永二十年没)の天寿を全うした。寂後、時の皇より慈眼大師の号を賜った。この御遺訓は、大僧正が、長寿の秘訣を聞かれた際に詠んだものである。 日光山輪王寺」 なるほど、百歳の大台を超えるわけがわかった。これだけでも、今日ここに来た甲斐があったと思った次第である。 大猷院に別れを告げ、隣の二荒山神社に向かう。すぐに着いたが、こちらは日光の氏神様で、もともと男体山を御神体としているので、その山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮祠、そして日光市内にこの御本社があるという構成であるという。それで・・・というと難しそうな神様のようだが、さにあらず。主祭神は大国主命(だいこく様)で、福の神縁結びの神様だから、あらゆる縁を結んでくださる神様ということで、意外と軽いノリなのである。たとえば境内に入ってすぐに「良い縁笹の輪くぐり」というものがあって、カップルが一緒に仲良くそれをくぐっている。夫婦で写真を撮るようなところもあるし、神前結婚もお勧めしていて、どうも縁結び神社の面目躍如たるものがある。昨今の少子化時代を考えると、こういう神社の機能も、大切なことかもしれない。 ひととおり、お参りをした後、苔むす石垣と日光杉の道を通って、日光東照宮へと歩いて行った。昔は大名行列がしずしずと通った道である。途中の石垣に生えている大木の日光杉のみならず、苔や羊歯の葉の緑が目にしみるようだ。350年間ほど、変わらなかった歴史の重みを感ずる。ちなみに日光の杉は、「松平正綱が日光東照宮創建元和2〜3年(1616〜17)と、その遷宮を記念して杉並木を植えたのが始まり」で、「三代将軍家光による日光東照宮大改修を挟み、寛永2年(1625)頃から20年余りの歳月を費し植栽された杉は約20万本」という(日光杉並木街道HPより)。 さて、すぐに日光東照宮に着いた。ここはいうまでもなく、元和3年(1617)に創建された、徳川初代将軍徳川家康公を御祭神に祭る神社であり、それを三代将軍家光のときに大改修したものである。要するに各大名に対して、徳川将軍家への忠誠を誓わせ、併せて造営や改修で大散財をさせてその力を削ごうとしたといわれている。その結果、この日本の風景には似つかわしくない豪華絢爛の金と原色尽くしの世界になってしまった。これを見ていると、なるほどそうか、そういう意図があったのかと納得するしかない。ちなみに、最近のNHKテレビでも放映されていたとおり、東照宮は6年計画で第一次改修の最中で、いまは3年目ということらしい。改修の様子を見ていたところ、金箔の使用はもちろんのこと、岩絵の具なども昔と同じ技法で使われていた。あの鮮やかな青、赤、緑は、文字通り、岩を砕いて細かな砂にして使うとは、知らなかった。これでは、単なる改修でも、莫大な費用がかかるわけだ。 左右に仁王像を見ながら表門(おもてもん)に入り、三神庫(さんじんこ)の横を過ぎる。ここには、春と秋の千人武者行列で使用される馬具や装束類が収められているという。そて、その横には、神厩舎(しんきゅうしゃ)の建物がある。これは要するに、馬屋であるが、これを有名にしているものが、ここの長押に描かれた三猿(さんざる)、つまり「見ざる・言わざる・聞かざる」の彫り物である。 さてそれから、いよいよ国宝の陽明門(ようめいもん)に向かう。左右には、立派な衛士の像があり、その上を見上げると、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人などの彫刻があり、何と500近くにものぼるという。なかなか、愛嬌のある像もあって、ひとつひとつ、そのいわれを聞きたいものである。その周囲の廻廊にも、極彩色の透かし彫りの彫刻があり、これでもかという感じである。陽明門の中には、唐門(からもん)があり、ここが修復中であった。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされていると説明されていた。
さて、これで本日の目的はほぼ達成したと心が軽くなり、家内と二人で、参道を下って行った。東照宮の五重塔の脇を過ぎ、石鳥居をくぐり、左右の参道を飾る紅葉の木々を愛でながら行くと、家内がこの辺りに有名なレストランがあると言い出した。それで、駐車場の方へと行ってみたところ、そのお目当ての明治の館「日光倶楽部」があった。中でも、「閑静な日光不動苑に建つ『明治の館』は、そんな素晴らしい時代の息吹を今に伝える石造りの洋館レストランです。蓄音機を日本に初めて紹介したアメリカの貿易商F.W.ホーンの別荘として建造されたこの館では、気品あふれるエレガントなムードの中、明治の時代が育んだ豊かな西洋料理がご賞味いただけます」というわけなのだが、残念なことに、こちらは満員状態だった。 ところが、同じ敷地内に、「仏蘭西懐石ふじもと」というレストランがあり、幸いあまりお客が入っていなかった。HPによると「地元日光の湯波及び県内で採れた旬の食材を用いて作る日本料理の技法を取り入れているにもかかわらず、味はフランス料理に仕上げている。出される料理は、全て和食器に盛り付けており、ナイフとフォークの変わりに箸で頂く本格的な仏蘭西懐石。 東照宮にほど近い森の中に佇むそんな日光不動苑の中にあるこのお店の特徴は、太い木のはりとステンドグラスが白壁に映え、店内は落ち着いた雰囲気に包まれている。外観は、アールヌーボー調の田舎家といった風情。店内に足を踏み入れると、落ち着いたくつろぎの空間が広がっている」というわけで、こちらでピノ・ノワールの赤ワインを飲みながら、仏蘭西懐石コースを楽しんだ。確かに、ヨーロッパの古い民家で食事しているような雰囲気だった。驚いたのは、食後の紅茶の選択肢の中に、マルコ・ポーロがあったことで、こんなところでこの香り麗しい紅茶が飲めるとは思わなかった。食事は量も手頃で味もサービスもよく、心から満足した。 それから日光輪王寺三仏堂に向かい、その脇の樹齢500年の金剛桜をしげしげと見て、お堂の前に立った。三仏堂の内陣には、日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)が安置されている。その三体を見学させていただいた後、その裏手にある大護摩堂にて、思いがけず、お坊さんから数珠の使い方を習った。普段は左手で持つが、お焼香の場などには、いわゆる眼に当たる玉を親指と人差し指の分かれるところに挟んで臨むという。ははぁ・・・魔除けなのか、どうも密教的のような気がする。もっとも、数珠の持ち方と使い方は、宗派によって異なるそうだ。しかしながら、左手は仏さまの清浄な世界、右手は信仰つまり私たちの世界という思想は、いずれの宗派でも同じとのこと。 三仏堂を出て、輪王寺参道の紅葉を愛で、参道脇の川の中に紅葉のひとひら、落ちているのを家内が見つけた。「これを撮るといいわよ」とのお言葉に従って写真を撮ってみたら、なるほど、なかなか良い写真となった。それから、日光杉を両脇に見つつさらに下っていき、神橋(しんきょう)に至った。いや、この橋とその下の日光川の美しいこと、とても素晴らしい景色だった・・・。というわけで、再び特急スペーシアの車中に体をうずめて、北千住まで、ほとんど意識がなかったほどである。観光という意味ではたいした距離ではなかったが、それにしても疲れた。おそらく、階段が多かったせいだと思う。 (平成21年10月25日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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