悠々人生のエッセイ







芝離宮庭園の春( 写 真 )は、こちらから。

 これまで私たちは、浜離宮庭園については、しばしば行ってその景色を楽しんでいる。しかし、その近くにありながら、芝離宮庭園については、たまたま羽田行きのモノレールに乗ったときに車窓から眺め降ろすことはあっても、入ったことはなかった。今回、竹芝桟橋から御座船安宅丸に乗ったので、そこから浜松町へ抜ける帰り道に、初めて訪ねてみたのである。

満開の八重桜


 ここは、江戸のはじめの頃は、芝浜とよばれる景色の美しい海浜だったらしい。それが、明暦の頃(1655〜1658年)に埋め立てられ、延宝6年(1678年)に時の老中であった大久保忠朝の屋敷地となった。大久保は小田原の殿様だったので、その小田原から庭師を連れて来て8年かけて作庭し、「楽壽園」と命名した。これが現在の芝離宮庭園の起こりである。その後、いろいろな大名の手を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり、明治4年(1871年)には有栖川宮家のものとなった。その4年後にこれを宮内省が買い上げ、その翌年に芝離宮と命名された。ところが大正12年(1923年)の関東大震災で、建物も樹木も含めてほとんどが焼失してしまった。その翌13年に昭和天皇のご成婚記念として東京市に下賜され、庭園の復旧と整備を施して同年4月から一般に公開されるようになったとある。

池に映える空の青と周囲の緑


 入園券の裏面に印刷してあった説明によると、「本園は、江戸庭園の典型である潮入りの回遊式築山泉水庭で、潮の干満を利用して水辺に変化をもたせた池を中心に作庭され、品川の鵜もが見られるようになっていました。また、池中にある西湖の堤は、中国浙江省のそれを模したもので、園景の中心である中島(蓬莱島)の石組す州浜などとともに、見所のひとつとなっています。現在は、前面の海岸埋立により眺望を失い、東海道本線の拡幅や新幹線の敷設などで園地が狭められましたが、地割の妙などに往事をしのぶことができる名園」とある。

はなかいどう


 そういうわけで、元は白砂青松の砂浜だったものが、小田原の殿様の屋敷の庭となり、宮家の持ち物になり、関東大震災に遭い、東京市に下賜され、鉄道用地に削られ・・・などと文字通り散々な目に遭って、庭だけが残り、今日に至っているようだ。今では、東芝を始め周辺に立ち並ぶビルの内庭のようになっているから、いささか悲しくなる。


 園内を歩いてみると、もうほとんどが池とその周囲しか残っていないというもので、自然とその池の周りを巡ることになる。入口に藤棚があったが、かなりの古木が3本ほど植えられていて、もうすぐ藤の花が満開となれば、さぞかし美しいものと思われる。そこを過ぎると、満開の八重桜が咲き誇っている。ピンク色の花びらがこれでもかと重なり合っている。その前には、池に突き出たところがあり、そこに古びた灯籠が立っている。雪見灯籠というそうで、やや無骨な感じがするが、よく眺めると、なかなか均整のとれた姿をしている。中央の池は、青空と周囲のビルが水面に映り込んでいて、色が綺麗だ。これで、ビルがなくて目の前が砂浜だったら、確かに名所となるだろう。

池の中の緋鯉


 ふと背中の方を見ると、「大山」といわれる小高い丘があり、そこにピンク色の花が咲いている。近づくと「はなかいどう」とある。背が余り高くない灌木の一面に花が咲いていて、それも、2〜3の花が正面を向き、残りの10いくつかの花が下を向くという咲き方をしている。その意味では、写真を撮りやすい花である。歩いていくと、また八重桜があり、山吹の花もあったし、石楠花や白いラッパ水仙も咲いていた。

池


 また池の方に戻ると、緋鯉たちがエサを求めて近づいてくる。池の真ん中には、蓬莱島こと中島があり、そこに至る橋が西湖の堤というそうだ。蓬莱島には、その名が推察されるとおり、不老長寿の薬でもあるかもしれないと思って行ってみた。すると、石組みと松があるだけであった。しかし、この島がこの池のシンボルというか、アクセントになっている。




(平成23年4月17日著)
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