悠々人生のエッセイ








 父が突然、亡くなってしまった。いつかはこの日が来るとは思って、ある程度は覚悟していたつもりだが、いざその日が来てしまうと、やはり悲しみにうちひしがれてしまう。その急な知らせは、7月の3連休の前の金曜日のことだった。お昼の時間に開かれた大事な会議に出ていたところ、携帯電話に妹から掛かってきているという表示が出たが、会議中のために出られなかった。そして、午後1時を少し回ったとき、やっと会議が終わったので、帰りの車の中から電話をして留守番電話を聞くと「お兄ちゃん、お父さんが・・・お父さんが・・・危篤なのよ」という。驚いてすぐに妹の携帯電話に掛けたところ、「今しがた、亡くなったわ。あまりにも急で、お姉さんも間に合わなかったくらいなの」という。「わかった。お母さんに代わって」と言い、母が電話口に出たが「お父さんが・・・お父さんが・・・早く来て」と言うだけで、あとは言葉にならない。「すぐ行くから」と大きな声で言い、慌てて自宅に戻った。そして、喪服のほか着替えをボストンバックに詰め込み、故郷へ向かう新幹線に飛び乗った。

 両親の自宅がある田舎までの道中、脈絡なく次から次へと考えが浮かんで、止まらない。「おかしい。医者の言葉によると胃がんだが、あと半年は持つといっていたのに、一体どうしたことだ」、「苦しまなかったのなら良いのだけど」、「86歳と半年の命だったが、やさしい父だったな」、「3年前に、皆で揃って、昔々に住んでいた神戸に行ったときは、まだ元気で町を歩けたのに」、「銀行の支店長だったときが、一番輝いていたな」、「私が東京で地位が上がるたびに、喜んでくれたな」、「うちの子供たちや曾孫をかわいがってくれたな」、「よく釣りに連れていかれたけれど、あんなに釣りが好きな人はめったにいないだろうな」、「体が弱って釣りが出来なくなったら、今度は歴史小説に凝っていたな。それを読み終えたら姉のところに持っていって・・・その姉も90歳を過ぎているというのに、その持ってきてくれた小説をよく読んでくれていたのだから・・・」などと、とめどもなく思い出が浮かんでくる。中には何十年も私の頭の隅に沈殿していたのに、この場面で急に意識の表面に出てきたようなものもある。

 私が小学校の高学年のときのことである。父と二人で湖に釣りに行ったとき、私がよそ見をしているうちに、釣竿が流れてしまった。すると父は、さっと服を脱ぎ、泳いでそれを取りに行ってくれた。それで、私をしかるわけでもなく、そのまま笑って釣竿を私の手に握らせてくれた。ははぁ、そういうこともあったな・・・温厚で優しい人だった。そうかと思うと、私の大学入試の合格発表のときに、二人でそれを見に行った。すると父は、私より早く私の名前を見つけて、「よくやったなぁ」といって、私の背中を軽くたたきながら、実にうれしそうな顔を見せてくれた。これには私も、本当にうれしいという気になった。さらにそれから30年後、私が昇進してあと一歩というときに、実家に帰った。すると、父のベッドの脇の窓の上に、テルテル坊主が下がっていて、父の字で「今度は○○になるように!」などと書いてくれていた。父という人は、実にありがたいものだと、涙が出た。このような父との接点になった瞬間のことは絶対に忘れないが、逆に今回のような何らかのきっかけがないと、なかなか思い出すこともかなわないものである。

 新幹線から在来線に乗り換え、山深いところを延々と通り過ぎると、急に目の前が広がって平地が開け、海が見えてくる。ああ、もうすぐだと思ってしばらくしたところで、故郷の駅に着いた。この駅にも、帰省のたびに必ず、父と母がそろってよく出迎えと見送りに来てくれたなと、ホロリとした心境になる。それを振り払うかのように、駅からタクシーに乗り、実家へと向かう。行先を確認するタクシー運転手の訛りが、故郷に帰ってきたと感ずる瞬間である。

 家に入り、「お母さん」と叫ぶ。母が仏間から出てきて「ああ、やっと帰って来てくれたね。お父さんは、こっちだよ」と、私を手招きする。部屋に入ると、父の遺体が仏壇の前に横たえられている。それを見て、目頭が熱くなるが、まずはお焼香を差し上げ、それから父の顔を覆っている白い布をうやうやしく取り除く。痩せて、顔色が白くなっているが、確かに父である。「お父さん、間に合わなくて、申し訳ありません」と言い、母の方を向き直って、同じことを言った。すると母は、「本当に急だったのよ。先週、入院してからというもの、午前と午後の2回は必ず病院に行って、お父さんを見舞っていたのだけれど、昨日はたまたま親戚の葬儀に行ったから疲れてね、午後は行かなかったのよ。すると、たまたまその日の晩から息が苦しくなったらしくて、今朝方、顔に酸素マスクを当てられたと思うと、そのまま逝ってしまわれたのよ」と、目頭を押さえながら答える。

 「それで、今後のことだけれど」と言った瞬間、回りの人たちに居間へと連れて行かれた。そこに、葬儀屋さんが待ち構えていて、「あれをどうする。これをどうする」と質問責めに合う。「ちょっと待って、喪主は?」と聞くと、「長男のあなたに決まっている」と言われる。いやはや、それからは悲しんでいるどころではなく、目の前の仕事に追われる怒涛の日々が続いた。まずは、生花、盛篭、果物、灯篭、菓子を出してくれる人の名前と順番を決めてほしいという。いきなりそう言われてもと思ったが、何しろ葬儀屋さんがぴったり私の傍にくっついて離れない。母に聞いて出してくれそうな親類の名前を並べ、その場にいた親戚の人にお願いし、それぞれ電話をしてもらって決着した。連絡のとれない人には、私の方でとりあえず名前を書かせてもらって、翌日の日中にひとつひとつ了解をもらった。私の方の親類には、いちいちそんな連絡はしておれないので、とりあえず私が支払うことにしてどんどん名前を書いていった。

 びっくりしたことが色々とあった。たとえば、菓子盛で、どら焼き100個、饅頭100個がれぞれ大きな篭に山盛りとなっているものを出すというのが、こちらの慣習らしい。こんなものをどうするのかと思ったが、葬儀が終わったときに果物と一緒に分けて、会葬者に持ち帰ってもらうという。そういえば私の父は、甘い物好きで、どら焼きに目がなかったから、まあそれも良いなと思った。しかし、あとで知ったのだが、会葬者の中でどら焼きを10個も持ち帰り、家族3人で2時間で食べてしまったという強者揃いの家族がいた。暑い日が続いているので、お腹をこわさなかったかと思ったのだが、大丈夫だったので、ほっとした。田舎の人は、本当に逞しい。

 それから、会葬礼状の文面のブランクのところに私の名前を入れさせられて、これを何枚用意するかと聞かれた。そんなこと、たった今着いたばかりで、わかるはずがない。すると葬儀屋さんは、「ま、250枚くらい用意しますか」と言って、持参したパソコンに打ち込む。「それで、会葬返礼品はどれでしょう」とまた聞く。すると妹たちがやってきて、「最近は、あちこちの葬儀で、タオルやら海苔やらいっぱいもらって閉口するから、もっと別のものがいいね」と言いながら、カタログをめくっていく。そして「ああ、これにしよう。若者向けかもね」と、いとも簡単に、大きなコーヒーセットの箱を選ぶ。「ちょっと待て、来ていただける人にはお年寄りが多いのでは」と言いたくなったが、こういう場合は選んだ人の感覚で決まめてしまうのが楽なので、そのまま決めてしまった。これだけで、何十万円だ。このあたりから、いったいいくらかかるのだろうと、値段が気になり始めた。

 次に「祭壇とお柩はどれにします?」とカタログを見せられる。何にも知らないから、そもそもどんなものがあるのだろうと思ってそれをぼんやり眺めていると、横から親戚の従兄が「そりゃあ、これさ」と5段階の4番目を指さす。花の置き方が優雅で、なかなか洒落ている。葬儀屋さんは「そうですね。それだと、これだけ沢山ある生花や盛篭などを置くスペースが十分にありますね。いいかもしれません」と言う。値段を見ると、これだけでなんだかんだとあわせて40万円を超える。それに対して一番安いのは、10万円台だ。なるほど、こうなっているのか・・・あ、いやそれだけではない、祭壇用の切り花はまた別で、こちらはそれだけで22万円だ。さらに、会場使用料というのも、別料金で15万円だ。そのあたりから次第に金銭感覚がマヒしてきて、掛かる費用の額はもうどうでもよくなり、どんどん決めていった。最後に〆てみると、互助会の会員特典57万円分(これは、これまで延々と月掛け金を払ってきたものの合計らしくて、これによる新たな支出はない)のほか、260万円近くの請求が来るらしい。まあこれは、後日、振り込めばいい話で、それよりもこの二日間をしのぐだけの現金がいる。私は、帰省途中に銀行ATMで、とりあえず50万円の現金をおろしてきたが。これでお通夜とお葬式は何とかなるだろうと高をくくっていた。ところが甘かった。この持参した現金は、お寺さんへのお礼、生花、立替え、チップなどにどんどん出て行ってしまった。だから、まあ少なくとも300万円はかかる計算だ。それくらいは、帰京した後で母の口座に振り込めばいいと思っていた。ところが、父はもっと周到に準備していて、母によれば、既に自分の身に何かあったときの葬式代として、数百万円を預かっているという。なるほど、堅実な父らしいと思った。

 私がこうやって葬儀屋さんと話を詰めているときに、妹たちと手伝いに来てくれた従兄たちは、手分けして親類や父の勤めていた銀行や会社関係の方、それに近所の方々に連絡をしている。そして、銀行のOB会を代表し、銀行の役員の方に弔辞を読んでいただけることになった。よしよし、これで形になりそうだ。ありがたいことである。その合間には、いくつかの新聞社から訃報について問い合わせが来る。これは別に、私の父が偉いからというわけではなくて、子供が誕生したときのお祝い、誰かが亡くなったときの訃報を新聞の地域欄に載せるのがこの辺りの慣習であるらしい。人口の多い東京では、考えられないことだ。確かにその翌日の新聞には、私の家の住所と、父の名前、葬祭場、通夜と葬儀の開始時間、それに喪主たる私の名が載っていた。ところが、こういうふうに個人情報を天下にさらすのも善し悪しで、この記事を見て、仏壇店、墓石屋、法要の会場を売り込むホテル・料亭のたぐいが来るは来るは・・・言葉は悪いが、まるで蟻のように行列をなして我が家にたくさんやって来た。遺族としては、個人を偲んでそっとしてほしいし、ただでさえ葬儀の算段でばたばたしている時なのに、この商魂の逞しさには呆れるばかりである。

 それやこれやで人の応対や電話や事務作業をしていたところ、もう夜もとっぷりと更けた。妹たちが夕食を作ってくれた。私を始め誰もまるきり食欲がないが、ともあれ料理に手を付け、味を感じないままに胃へと流し込んだ。その合間、父についての思い出話に花を咲かせる。気は沈んでいるが、無理して笑顔を作らなければならない。夜遅くになり、手伝いに来てくれた親類がひとりひとり帰り始め、午前零時を過ぎて翌日となったところで、母や妹たちだけとなった。仏間に安置されている父のところに行き、そこで思い思いの楽なスタイルをとって、とりとめない話をした。私は座布団の上に座っていたはずが、いつの間にか横たわり、午前2時を回ったところまでは覚えているが、その辺りから意識が遠くなり、気がついたら朝の6時になっていた。


2.通夜の日

父の祭壇


 きょうはもう、通夜の日である。実は、「通夜」、「葬式」、「喪主」といっても、私は何をするべきなのか全く知らない。私が生まれてからこの方、わずかに私の祖母が亡くなった時に葬儀に出席したことがあるだけで、それ以来、過去40年余りで直系の親族が亡くなったことが全くない。だから、そもそも葬儀というのは、どういう手順で、何が起こって、喪主というのはいかなる仕事をすべきなのかということについて、知識が全然ないのである。わずかに東京での葬儀への出席の経験から、そういうものを垣間見たことがあるだけである。加えて、葬式というものは、土地それぞれに風習が違う。故郷といっても、実は私はこちらの土地に住んだことが全くないし、地元の方言もいまひとつ理解できない。正確には、父の故郷なのである。加えて私自身が大学進学のために両親と別れて既に40年以上も経つ。だから、今の私というのは、こちらの地元の風習など一切知らない、まるで外国人のようなものである。疑問に思ったことを一から聞いて回らないと、さっぱりわからないのである。たとえば、「なぜ葬式の日なのに初七日の法要などというものをやるのか」と聞いたり、「お焼香は、線香を摘んだまま額辺りまで手を上げて2〜3回上下させてからするのではないか」というと、「それは真言宗で、ウチの浄土真宗はただ、1回だけとってそのまま横に移動するだけでよい」と言われたり、あるいは近くの古寺が何時の間にか自分の菩提寺になっていたりで、いちいち説明を受けないと、まるで納得のいかないことばかりである。

 特に、私の家が檀家になっている寺は、もっとずっと離れたところにあって、あそこに頼まずに、この近くの寺に頼んでよいのかと気になった。すると、「いやいやお墓はもうこちらに持ってきて、そのときに十分に御礼をして縁が切れているので、これでよい」などといわれた。そういうことを聞くと、そもそも檀家制度というのは、現代でどうなっているのだろう、それに、そんなに簡単に縁というのを切ってしまってよいものか、また逆に、この新しいお寺のご住職、いとも気軽に引き受けてくれたところをみると、そんなことは日常茶飯事なのか、などと疑問は尽きない。しかし、何しろそういうことをいちいち詰めている暇もないほどたくさんの事柄を処理しなければならず、ともかく忙しい。

 朝から、親類一同が助けにやってきてくれて、各人てんでに電話を掛けまくったり、家中を整理したり、母や妹の仕事を手伝ってくれる。電話といっても、大抵は、親戚あてなのであるが、中には私が何十年も会っていない人もいる。こんなに手分けをして電話をすると、同じ人に対して電話が重ならないのかと思うほど、家中のあちこちで電話する声が聞こえる。私自身は、父が長年勤めていた銀行の秘書課に電話して事情を話すと、先方はさすがに察しが良くて、こちらからお願いする前に、「頭取名の生花と役員が弔辞を読むように手配します」という有り難いお言葉をいただいた。葬式にそれなりの方からの弔辞がなければ、やはり格好がつかない。これで、何とか式の骨組みが整った。銀行を退職して30年近く経つというのに、まだこうして配慮していただけるというのは、嬉しい限りではないか。

 一段落したとき、葬儀屋さんからいただいたカタログの冊子を改めて眺めてみた。祭壇、お棺、生花、盛篭、菓子、香典返しなどについて、写真と値段が並んでいて、その中から選択させるようになっている。その冊子の最後には、葬式というものの知識の説明があった。これで初めて、お焼香のやり方が宗派によって全然違うこと、初七日の意味、その後四十九日法要が大事なことなどについて、理解したというわけである。まあ、そういうものに何の意味があるのかと言いたいところもあるが、郷に入っては郷に従えというわけで、少なくとも父と母は、こういう世界に住んでいるわけであるから、そのようにして差し上げようと思っている。

 私の従兄弟がやって来て、「亡くなってから7日の間は、毎日、お坊さんに自宅に来てもらって、お経を上げてもらわなければならんよ」などと話しかけてくる。そもそも、何も知らない外国人の私としては、「そりゃ、一体どういうことですか」と尋ねる。すると「いやいや、金曜日に亡くなってから1週間だから、お葬式までの間を除いて、水曜から金曜までだよ」などという。「そりゃまた、念の入っているというか、やり過ぎですな」というと、むきになって「いやいや、それがこの辺の慣習なんよ」と答える。「この辺って、どこですか」と聞くと「この町さ」というので「では隣の町ではどうですか」と畳みかけると、「よく知らないな、そこまではしていないかも」と、頼りない返事がかえってくる。そこで、直接、そのお坊さんに聞いたところ、そこまで丁寧にやる必要はなく、四十九日の法要までは、週に1回、木曜日に来てお経を読んで差し上げようということになった。

 この類のことが何回かあって、私の親類は親切なんだか、お節介なんだか、あるいは単に知ったかぶりで断片的な法事の知識を振り回しているのか、よくわからなくなった。もちろん、おおむねは善意に基づく忠告であることはわかっているが、事細かな正直言ってどうでもよさそうなことをさも針小棒大にこれは大事なことだから守るようにと言ってくるし、そういう一方で言い寄ってくる相手によって微妙に話すことが違うのは、どうしたものか・・・。とりわけ、この町ではこうだが、自分の町ではこうだというローカル・ルールらしきものがあまりにも多くて、閉口する。しかし、こういうことがあって、それから私がこののどかな田園地帯を見る目が変わった。一見何事もなく誠に平和そうに見える町なのであるが、実はそういう目に見えない慣習や、極端にいえば因習や陋習とさえいえるようなもので、がんじがらめになっている・・・。しかも、町の境をもって、それがガラリと変わるとは・・・一体何というところだ。ここでは、言葉の壁以上に慣習の壁というものが、あちこちに立ちはだかっているのである。そう思った瞬間、父の故郷がとたんに異邦に思えた。やはりここでは、私は外国人そのものであることを思い知った。<

 そこで、私の長男には、こう言ったのである。「ちょうどこれは、イギリスとアメリカの関係のようなものだよ。つまり、旧世界のイギリスの社会的束縛や因習のようなものを嫌って、そういうものが一切ない新大陸のアメリカに上陸し、そこで旧来の考えにとらわれずに一旗揚げようと自由に振る舞ったからこそ、社会があれほどの発展を遂げることが出来たし、個人も豊かになった。その例にならえば、ちょうど、イギリスがこの故郷の地方都市で、アメリカが東京に相当する。東京ではそんな日本の各地の旧来の束縛などに一切とらわれずに合理性のみで判断してどんどん前進しているからこそ、世界を相手にあれだけの経済的技術的競争で優位に立てているのだと思うよ。だから、あなたも、いわば東京に移住してしまった人間の子の世代なのだから、こんな地方の風習、社会的束縛その他もろもろなんかを全く気にしないで、好きなようにやればよい。このような世界は、私の父と母の年代と、せいぜい私の従兄弟の世代の人々が亡くなってしまうと、もうすっかり消えてしまうと思う。あなたの従兄弟たちを見ていると、こんな慣習を受け継ぐとはとても思えない。だから、少なくとも私については、葬式も、お墓も、こんな風習とは全く無縁で、あなたの思ったとおりにやってください」。すると、息子は、「全く同感です」と答えた。うむ、親子で同じ思いである。これなら、息子も東京で十分に生き残っていけると思った次第である。

 もうひとつ、驚いたことがある。それは、この地方都市のご近所との距離の近さである。東京でマンション暮らしなどをしていると、ご近所とは挨拶を交わす程度で、特に親しくなった場合を除いて、どういう職業か、家族関係はどうか、何に関心があるのかなど、ほとんど何も知らない。それではどんな人間が隣にいるのかもわからず、危なくないのかと思うところであるが、実はそうではない。マンションを販売するときに、その販売会社が大企業でしっかりしているところであれば、その買い手のバックグラウンドをある程度は審査しているので、そう変な職業の人はいない。だから、そういう程度の薄い付き合い方で、まあ許されるのだろう。ところが、私の父母が住むこの地区は、約40年ほど前に開発された全部で100軒余りの一戸建て住宅から成る団地である。私の家はそのうち10軒ずつを束ねた第七班に属しているということになっている。私がむかし子供たちを連れて帰省した頃には、自治会の夏祭りをやっていたりして、なかなか活発だったが、ここ数年は高齢化が進み、それも下火になったと聞く。それでも昔からの付き合いで、人間関係が都会よりはるかに濃密なのだろう。第七班の皆さんだけでなく、隣の第六班も含めて、住民全員が香典をもってお悔やみに来てくれたし、受付の人を出してくれた。

 それだけでなく、びっくりしたのは、町内から斎場まで送り迎えのバスを仕立てて、通夜も葬式の両方に来てくれたのである。こんなことは、東京ではありえない。当然、私の母とは友人のような人ばかりで、手をとって共に泣いてくれたりしている。私自身はというと、両親がこの家に建てて他の地からこちらの団地に移住してきたときには、もう大学に進んでいた。だから、年に2〜3回帰省するくらいで、この家に住んだことはないので、顔見知りはひとりもいない。ちなみに、ここでも高齢化の進み方は激しい。とりわけ第七班ではこの数年のうちにバタバタと亡くなって、10軒のうち、夫婦ともに健在なのは、たったの2軒だけである。あとの6軒は、夫婦のいずれか一方だけとなり、残りの2軒は、いずれも亡くなって空き家となっている。庭の草木が伸び放題となっているのを見るのは、侘びしい限りである。この団地は、駅にも、中心部にも、バイパスにも近くて便利が良いというのに、それでもこの有り様である。よく聞くと、あの家もこの家も、私のように都会に転出していって帰らないという子供ばかりなのである。

 お昼近くとなり、とりあえず食事をして、午後3時からの納棺の儀に備える。本来はお坊さんが読経しつつの納棺になるらしいのだけれど、お坊さんはその時間は前々から予定していた都合があるというので、やむなく事前に来ていただいて、読経だけは先に済ませていただいた。そうこうしているうちに、納棺の時間となった。葬儀屋さんがやって来て、白い服に着替えた。名刺には、一級葬祭ディレクターとあった。私たち一家と親類一同が、仏間の仏壇の前に横たわる父の遺骸の手前に集まった。葬祭ディレクター氏は、まずうやうやうしく一礼をする。すべて白い上掛けの下での見えないところでの作業となるが、アルコールで体を拭い、病院の浴衣を白装束に着替えさせてくれる。父の口が開いてしまっていたが、そこにうまく脱脂綿を詰めて、ちゃんと閉じてくれた。私はこの一部始終を見て、葬儀屋さん、とりわけ葬祭ディレクターという仕事は、尊敬に値すると思った。だって、赤の他人のお爺さんの遺体を拭い、服を着せ替え、顔の形を整えるなんて、私にはとても出来ないと思ったからである。3年前に「おくりびと(Departures)」という映画があったが、実物を見て、映画以上に感動した。なるほど、あれだけのお金を持っていくだけのことはあると、思った次第である。ちなみにこの人には、後から篤く御礼を申し上げて、チップをはずんだ。

 それから、納棺ということになり、私、私の長男、それに甥や従兄弟たちが父の体を持ち上げ、棺内に収めた。一時は体重が80キロ近かった父の体が、ごくごく軽くなっていたので、思わず涙が出た。かの葬祭ディレクター氏が、「お顔の辺りを中心に、花を飾って差し上げてください」というので、私はランの花を持ち、父の顔の脇に置いた。それを手始めに皆が花を手向け、全員が一巡した頃には、顔の周りが色とりどりの花で埋まった。花が好きだった父にふさわしいと思ったのである。それから、お棺の中に、父の好みのものとして釣り竿と歴史小説、それにいつも使っていたものとしてステッキを収めた。そして棺の上蓋が閉じられ、カタンという乾いた音が部屋に響いた。それを再び、私をはじめとする男性が支え持って持ち上げ、仏間から玄関へと出し、玄関から霊柩車へと運んだ。私たちはそれから喪服に着替えて、用意された車で葬儀場へと向かった。

 葬儀場は、鄙には稀なというと怒られるかもしれないが、まるでホテルのような立派な式場だった。入ってみると、既に父のお棺が祭壇の真ん中に据えられていた。祭壇はなるほど、立派なものである。これは良いものを選んだと思った。やはり、こういうものもお金次第なのだ・・・。父のお棺の回りを覆う祭壇用の切り花は、それだけで22万円という値段が一瞬頭をよぎるが、優雅で上品なカーブを描き、しかも中心に紫、端に行くにつれて白が多くなるように配置されて、誠に素晴らしい。父の遺影も、生前の父の優しくて威厳のある表情をよく捉えていて、これまた素晴らしく良い。あとから妹に、「あの写真はいつのものだ」と聞いたら、私の娘の結婚式のときにそのホテルの写真室で母と一緒についでに撮ってもらったものだという。「でもこれほど大きな写真ではなかったよね」と聞くと、「そう。二人が式服で並んで立っている普通の写真屋さんの記念写真だけれど、それを葬儀屋さんが顔だけをデジタルで撮って拡大したのよ」などという。かくして、私の親指くらいの大きさの顔が、縦40センチ、横30センチくらいに拡大されてしまったようだ。いずれにせよ、父の晩年の最も良い写真で、これも葬儀を成功させた大きな要素だったように思う。

 お通夜と葬儀当日の準備で、特に心配なのは、香典の処理である。いわば現金が積み上がっていく一方で、手伝いに来てくれるのは、ご近所の方も含めてあちこちからの混成部隊である。こういうときを狙って、盗人が持ち去ってしまってもわからない。そういう事件が起こると、粛々と荘厳に行われるべきせっかくの葬儀に傷がつく。だから、それを束ねる役割は、妹のご亭主にお願いした。銀行の支店長だから、人の指揮やお金の管理には慣れている。

 母が少し疲れ気味で、椅子に座ってウトウトとしている。そうだろう・・・父の入院までは寝ずの看病をしていたし、入院中は一日に2回も自分で車を運転して行って見舞っていたから。相当に疲れがたまっているはずだ。母には、少し休んでもらおうと思ったけれど、あちらこちらで皆さんがそれぞれに忙しく立ち働いている中で、なかなかそれも叶わなかった。

 そうこうしているうちに、午後7時から始まる葬儀の一時間前となった。通夜の会場の入り口で、弔問客を迎えるレシービング・ラインを作る。その先頭は喪主たる私である。その次は、私の感覚では私の母ではないかと思ったが、この地方では私の家内だという。それから三番目が母なのである。母は、父の看病の疲れやその後の葬儀の準備でほとほと疲れている。そこで、椅子を用意して、それに座ってもらってた。でも、弔問客が来ると、いちいち立ち上がって会釈をしていたから、かえって体の負担になったかもしれないと心配になった。そのうち、どんどん人がやって来る。向こうの方から、年配の女性が母の方を見ているそして、母が「○○ちゃん?」と呼び掛けると「ああ、やっぱり、姉さん!」といって、駆け寄ってきて手を取り合っている。20年ぶりに再会したそうな。

 弔問客には、色々な方がおられる。そのうち、どういう方なのかがおよそ見当がつくようになった。たとえば、比較的若い女性が落ち着いた足取りで入ってきた。ああ、これは妹の同僚の学校の先生だなと思ったら、やはりそうだった。職業は、顔つきは言うに及ばずその歩き方まで変えてしまうものなのかもしれない。それから、父と同年代の年配の男性が入ってくる。その人に向かって母が「ああ、○○さんではないですか」というと、「あらら、奥さん、このたびはご愁傷様です」と答える。何でも、40年前に父と同じ銀行の支店にいて、仲が良かった人らしい。そういう方が、ほかに何人も来てくれた。表にバスが止まって、大勢の人たちが降りてきた。町内のご近所の方々である。どの人も、母に深く一礼して、会場に入っていった。こうして、広い会場の8割方の椅子が埋まっていった。

 定刻の5分前となり、我々も一列でゆっくりと歩き、親族席に着いた。家内が母の腕を支えて、椅子に座ってもらった。お坊さんたちが入場してきた。しかしそのスタイルたるや、こういっては何だが都会ではめったにお目にかからないような質素な墨衣(すみごろも)であった。大丈夫かなと一瞬思っているうちに、すぐに読経が始まった。二人の合奏のようなもので、意味はわからないが、時々入るチーンという鐘の音とともに流れるようなテンポで続いていく。ああ、お経読みはちゃんとしていると、ほっとする。それが20分ほどで終わったと思うと、ただちに焼香になった。これで終わるのかと思ったらそうではなくて、その後お坊さんによる法話があるではないか・・・それを一同静かに拝聴し、お坊さんたちは退席した。それを私が追いかけて、休憩場所に入ったお二人に、また明日もよろしくとお伝えし、ただちに引き返して会場の親族席に戻った。それで、司会者が喪主の挨拶をせよというので、次のような話をした。

(何分にも突然のことで心の整理がつかないので、取り止めのない話になるがと断り)、父は、大正13年に生を受け、戦中の動乱期を経て銀行に入行して全国各地に勤務し、母とともに我々兄妹3人を育ててくれました。大学卒業後、私は東京で勤務する道を選び、上の妹は教員の道を歩み、下の妹はスペシャリストとしての職業を得ています。それぞれ2人ずつ計6人の孫と最近できた1人のひ孫を、父はとても可愛がってくれました。子煩悩で温厚な父だったと思います。銀行を退職後の父は、会社にお世話になり、その後は引退生活を送りました。親類の皆様との交流、趣味の釣りに行き、好きな歴史小説を読み、母と温泉巡りを楽しみ、ご近所の皆さんと親しく交わり、静かで平穏な86年と6ヶ月の生涯でした。この間に父が皆様から受けた数々のご厚情に対し、本人に代わりまして、厚くお礼申し上げます。本日は、弔問においでいただきまして、誠にありがとうございました。

 このような趣旨のことをしゃべったのだが、時折、思いがこみ上げてきて、スムーズにしゃべることが出来なかったのは、仕方がないところである。でも、この通夜のあとで妹が、「普通は紋切り型の挨拶が多い中で、お兄ちゃんの挨拶は、来てくれた人の皆に呼び掛け、お父さんの人柄もわかってとてもよかったよ」言ってくれたのには、嬉しい気がした。私としては、せっかく遠路はるばる弔問に来てくれた皆さんのすべてをカバーするように、そして父の人柄を少しでも皆さんに伝えたいために工夫して話をしたつもりだったので、その含意をわかってくれたようだ。さて、通夜が終わり、われわれは再び出口で一列に並んで、弔問に来ていただいた皆さんを見送った。それから、葬儀場の二階に準備された部屋で、父との最後の一夜を過ごしたのである。

 やれやれ、お通夜も無事に終わったと思い、部屋のソファに座って、やっとひと息ついたところに、葬祭ディレクター氏がやってきた。そして、1枚の紙を差し出し、これを今すぐ書いて埋めてくれという。それは、明日の葬儀後の初七日の法要の席順である。いやまあ、これは困った。だいたい、父の兄弟の親類の数は多いし、そのおじさんおばさんたちが既に鬼籍に入っている今では、もう長年会っていない義理の伯母や従兄弟もいる。その名前すら記憶が怪しいというのに、それに順位を付けて並べてみせよとは・・・。外交上のプロトコールなら知らないわけではないが、この地方でそれが通じるとは思えないしと、困ってしまった。そこで、親類の中で最近ご両親が立て続けに亡くなった従兄に聞いた。そしてわかったことは、まず一族の中の本家の長男夫婦が第一で、それから親の年の巡に各家の長男夫婦を並べていき、夫婦がいなければその子となり、次男夫婦はその次のグループだろうだ・・・いやはや、長子優先も甚だしい順番である。それで、どうにかこうにかそれを書き上げたのが真夜中過ぎで、それれからようやく床に着くことが出来た。


3.葬儀の日

蓮の花


 朝早く、テレビの音が騒がしい。一緒に泊まっている甥っ子たちがテレビを付けているようだ。こんな通夜の日に何ということだと思ったら、どうやら、FIFA女子ワールドカップの決勝戦で日本女子サッカーの「なでしこジャパン」がアメリカを破って優勝したそうだ。過去の対戦成績3分け21敗と一度も勝てなかったアメリカを、この大一番で破るとは本当に素晴らしい。白人女性に比べて体格に劣る日本女性が勝つという史上稀にみる快挙であり、日本中が歓喜の声に包まれている。日本女性が団体競技で世界一になるなんて、素晴らしいことだ。鬼の大松監督に率いられて東京オリンピックの女子バレーで優勝したとき以来ではないか。父も、もう少し長く生きていたら、これを見られたのにと思うのであるが、こればかりは仕方がない。いずれにしろ、後になって、「ああ、あの時に父の通夜をしていたな」などと父を思い出す縁になるかもしれない。

 さて、のんびりしてはおられない。午前11時から葬儀である。身支度をし、昨日と同じく一時間前に並んで会葬者の皆さんを迎えた。会葬者は、昨日の通夜の6割くらいである。それがひとしきり終わったとき、式の少し前になって我々も着席した。お坊さんが、昨日とは見違えるような立派な袈裟を着て、入場してきた。読経があり、続いて焼香タイムに移る。そして、父が長年勤めた銀行のOB会の代表者の弔辞を役員が代読してくれた。

 「(父の名を読んだ後)逝去せられ、ここに哀悼の情を禁じ得ません。貴方は、身を金融界に捧げられ、その間長きにわたっり至誠をもって業務に精励せられ当銀行の発展に寄与されたのであります。銀行を円満に退職後も旧友会会員として行員をあたたかくご指導いただきました。私共時折その温容に接していたのでありますが、にわか訃報に接し我らの身辺とみに粛條たるものがあり、まことに痛恨の情に堪えません。本日ここに葬送の執り行われるにあたり、当行旧友会を代表して心よりご冥福をお祈りし、弔辞といたします。」

 これを聞きながら、私は胸に迫るものがあり、なかなか顔を上げられなかったが、終わった後、その朗読していただいた役員に、深々と一礼をした。それから、弔電が読み上げられている中で、私は退出されたお坊さんたちを追いかける形で再び挨拶に出向き、そこで封筒に入れた御礼を差し上げた。再び引き返して会場に戻り、喪主の挨拶を行って、葬儀の儀式は終了となった。会葬に来ていただいた皆さんを見送った後、霊柩車に父の棺を乗せ、親族一同で火葬場に向かった。

 ほどなくして火葬場に着いた。霊柩車から降ろされた柩は、女性係員が操作する電動の台に乗せられて告別室に向かった。そこでは、位牌と遺影を置いた焼香台が用意されていた。そこには、僧形の導師の女性がおられて読経をしていただいた。その後、柩の小窓を開けて最後の対面をし、全員が焼香を行った。すると、扉が開き、その向こうには、床も壁も扉も、大理石の世界が広がっている。そこを柩は電動の台に乗って移動し、扉がしずしずと開いて、火葬炉へ納められ、一同がこれを合掌で見送った。 炉の番号札が私に渡された。それを持って一時間後にこの場所にまた集合せよとのこと。それまでは、二階に設けられた席で、軽く食事をしながら、思い思いに時間を過ごすという算段になった。実は、これまで私は、火葬場というところには全く来たことがなくて、どんなところか想像もつかなかった。ところがここは、別に臭いもするわけでなく、大理石風の床材と壁材が敷き詰められたホテルのような快適な空間になっている。火葬場といえば場末のわびしいものと事前に思い描いていたが、そうした姿とこれほど違っているとは思いもしなかった。

 さて、母と私は主にその待合室で待ち、皆は建物の外に三々五々散って行った。やがて時間となり、皆が再び待合室に集合し、一階の火葬炉の前に再び戻った。炉の番号を確認し、扉が開いた。すると、ほとんどが焼けてしまった父の遺体の骨や灰がそこにあった。それが再び電動の台に載せられて小部屋に運ばれ、そこで骨や灰を骨壺に入れることになった。若い女性なら、気絶しそうになるのではないかという風景である。その場には息子のお嫁さんもいたので、ショックを受けるのではないかと私はとても心配し、「もしよければ外に出ていていいよ。若い女性の見るものではないからね」と伝えたが、とても気丈な人で、「大丈夫です。ここにいます」とのことだった。さて、それからの光景は、なるほどこれが話に聞くお骨拾いかというもので、親族が思い思いに箸を持って、父の遺骨を骨壺に入れて行く。その合間には、係員の女性が、小さな箒とちり取りを持って遺灰を集めて、その骨壺を埋めていった。わずか15分ほどで、ほとんどすべてが、その中に収められてしまった。それを金色の布で包み、私が持って出た。まだ暖かくて、持っていると熱が伝わってくる。かくして、私が遺骨、母が位牌、家内が遺影を持ち、あと親類一同が一列をなして進み、それぞれ車に乗って火葬場を後にした。

 葬儀の会場に戻り、初七日法要を行う手筈となっていた。昨晩、苦労して作った席順に従って座ってもらった。別に文句は出ないので、ほっとする。緊張が解けた親類一同は、そこでようやく我に帰ったように、てんでに色々な話をし、運転しない人はビールを飲み、歓談の場となった。私と母、妹たちは、ひとりひとりを回ってお礼を申し上げた。お坊さんは、阿弥陀如来の掛け軸を、四十九日まで貸してくださるそうだ。まるで外国人の私には、その意味がさっぱりわからないものの、格別のご厚意だそうだ。皆の断片的な説明を繋げていくと、この阿弥陀如来が父の魂を浄土へと導いてくれる有り難い存在らしい。小一時間ほどで法要の会食が終わり、皆さんに御礼の挨拶をして、これで葬儀が終わった。

 我々は再び、遺骨、位牌、遺影を持って、自宅に帰った。それを葬儀屋さんが持ってきた御骨置き台に飾り、皆でお参りしてひと息ついた。喪服を普段着に着替えて休む暇もなく、残りの仕事にとりかかる。私は明日の一日だけここに留まって出来る限りの始末をつけるため、母と妹とともに必要な作戦を立て、それをパソコンに入れる。その横では、香典係の義理の弟と妹が、香典を開けて現金の計算と記帳を始めた。驚いたのは、香典に一連番号が付けられて、しかも個々の袋が縫い糸で繋がれていたことである。なるほど、これでは誰かが途中で抜き取るのはなかなか難しい。生活の知恵というものである。義理の弟が数えた現金を読み上げ、妹がそれを記帳する。そのための専用の帳面があり、ちゃんと葬儀屋さんが届けてくれてある。私が母や妹と相談して明日の手順ができあがった頃に、その香典の整理も終わった。これほど多くの皆さんに、かくも沢山の香典をいただいて誠に有り難く、心から感謝申し上げる次第である。まあこれは、一種の社会的な頼母子講のようなものかもしれないが、それにしても父や私たち一家のことをこれほど思ってくださった人たちがいることに感激する。

 その頃、午前零時を回って、もう翌日となった。妹たちは、それぞれ自分の家に帰らなければならない。この多額の現金をどうしようかということになった。今晩は私が寝床の脇に置いて寝ることとし、明日以降は家にそのまま置いておくのも物騒なので、翌朝一番にて母の銀行口座に入れることにして、母に通帳と印鑑とを出してもらうことにした。ところが、どの通帳にどの印鑑を使っているのか、最近の通帳には印影が押されていないので、通帳を見ただけではわからない。母に聞くと、いつもはキャッシュ・カードで引き出しているので、どの印鑑か忘れたという。家の中には、父のを合わせるとたくさんの印鑑がある。いずれにせよこの口座から葬儀屋さんに何百万円も振り込まなければならないのに、そのためにいちいちキャッシュ・カードで上限の50万円ずつ引き出すのは面倒である。仕方がないので、その印鑑全部を銀行に持って行って、どの印鑑かを銀行に見てもらうことにした。


4.手続に駆け回る日

蓮の花


 翌朝になり、妹のひとりが現金を抱えて銀行の支店に行った。最初に一番目立つ印鑑を選んでそれを紙に捺印して比べたところ、たまたまその印鑑だったというから、誠に勘が良かった。私と別の妹は、まず市役所に行って、父の戸籍をもらおうとしたが、亡くなったばかりだから、まだ出来ていないという。そこで、別の手続きをしようと思って、後期高齢者保険の係に行き、父が亡くなって・・・と言ったとたんに、新聞の死亡欄のコピーを見せられて、「ああ、○○さんですね」と言われたのには、参った。あの訃報記事は、まるで指名手配書のようなものである。ここで、4枚の書類を書かされた。次に介護保険係でもまた、同じような手続きをした。ついでに住民票も入手したが、父の欄には大きく×印が付けられていた。

 私は昨晩、父の遺品の中から、銀行の通帳、郵便貯金の通帳、それに証券会社の預かり証、それにこの家の権利証を見つけた。市役所の次に、父の取引銀行の支店に行って残高をチェックすることにした。妙なことに、同じ銀行の別々の支店にそれぞれの通帳がいくつもあるものだから、最悪の場合には、遠くの支店まで出向かなければならない。これでは、おそろしく面倒である。そこで、その地区で一番大きな支店に行き、他の支店との連絡をしていただけるか、併せて提出書類の原本は一つでよいかを聞いた。すると、何とかやっていただけそうで、これは安心した。次いで、相続の手続きを聞いた。まずは、「ハラ」戸籍が必要だという。「ハラ」って何ですかと聞くと、「巨人の原監督の原ですよ」とのたまう。ますますわからなくなってきた。要するにこれは、生まれたときから結婚し、そして現在に至るまでの戸籍のすべてを揃えることを意味するらしい。それを「ゲン」戸籍と音読みをすると「現」戸籍と間違うから、そのように不思議な発音するようになった「業界用語」らしい。これは、相続人を確定するためには必須だとのことである。ではその「原戸籍」をどうやって入手するかというと、出生地と婚姻地の市役所に小為替を添えて送ればよいらしい。一件750円だから、4件で3000円を郵便局に行って組んだ。それにこちらの市役所で貰った請求内容を書いた書式を添えて、先方の市役所に送付した。

 その次は、法務局に行って、自宅の土地と建物の登記簿を確認した。驚いたことに、抵当権がある。ところがその日付をよく見ると、どうもこれは家を建てたときの住宅ローンで、抹消し忘れていたものらしい。その貸し主は、たまたま先ほど訪ねた銀行の支店なので、再び行って、抹消のための書類の交付をお願いした。さらに、社会保険事務所に行って母の遺族年金を確定したかったが、困ったことに、年金手帳が見つからなかったので、こちらには本日中には行かず、翌日にでも、妹に頼むことにした。

 家に帰り、営業時間中に電気・ガス・水道の名義変更をお願いする電話を各社にした。母に面倒をかけないために、いずれも、妹に変更用紙が送られてくるようにした。ところが、NTTについては、どうやらホームページから変更用紙をダウンロードする必要があるらしいが、母のような年齢の人にはそもそも無理だと思う。「加入承継・改称届書」に死亡診断書、戸籍謄本、印鑑等を用意して申し込むようだ。ああ、それから父の乗っていた車の処分があった。これも相続人が揃って手続きする必要がありそうで、面倒至極であるから、また後日にしよう。父のクレジット・カードとETCカードの解約があった。これも電話をしたところ、退会届を送るので、それにハサミで切ったカードを添えて送ってほしいというので、これらは私の家に送ってもらうことにした。NHKがあったが、これは年末だし、放っておいても料金を取りに来るからとりあえず何もしないことにした。

 外資系生命保険会社に対して毎月何がしかのお金を支払っているので、保険に入っているらしいが、その保険証書が見つからない。妹が、死亡の届け出をしようと何回も電話するが、いつも話し中で繋がらないという。「これは、ひょっとして支払いたくないという意味ではないか」と、冗談のひとつも言いたくなる。

 そのほか、郵便貯金に若干あるし、自分の勤めていた銀行の株も少し持っているようだ。そのほか、これといった財産や負債はないのだろうか。父の遺言はないし、父には負債もないと、母は断言している。ならば、簡単に片付くかもしれないが、何事も初めての経験だから、よく調査してから判断しないと・・・。

 そんなことをしているうちに、もう1日が暮れようとしている。今日中にできなかった大事なものとして、母の年金について社会保険事務所に行って整理してくる手続きが残ってしまった。営業時間中に電話をしたところ、@二人の年金手帳と証書、A母名義の銀行口座の現物、B認め印、C死亡診断書のコピー、D母の戸籍謄本、E世帯全員の住民票、F母の非課税証明書というものが必要だといわれた。これについては、翌日、母を連れて妹が社会保険事務所に出向いて、整理してくれた。すると、一人暮らしでまあまあやっていける額の年金がいただけることが判明したので、安心した。

 いやはや、この日も東奔西走して、たいへん忙しかった。これから、銀行その他の財産関係の調査結果を待って、遺産分割協議書 を作り、相続の手続きをしなければならない。暑い夏になりそうだ。それだけでなく、突然、パートナーが居なくなった母が精神的に落胆するようなことがあれば、これは大変なことで、絶対に避けなければならない。今のところ、妹たちが母の様子を見るために毎日立ち寄ってくれているが、私も、毎日電話をかけるようにしよう。

 かくして、父の葬儀は終わった。母は、暇があれば父の遺影の前で、なにやら話しかけている。これが父を偲ぶ母のやり方である。私は私で、昔からの家族写真を眺めて、父の姿を追い求めている。温厚で、子供にあれこれ指図をするようなことは一切しなかった父だが、それでも私や妹たちがステップアップするたびに、心から喜んでくれた。私たちも、人生の岐路に立ったとき、これが父ならどうするかなといつも考えつつやってきたような気がする。父とはもう話をする機会は持てないが、それでも、父がいつも後ろで見守ってくれる気がして、心強く感ずるのである。


5.後日談

蓮の花


 父が亡くなった日から、はや10日余りが過ぎようとしている。ひとりになると、父のことが思い出されてならない。それだけでなく、とりわけ母は、あの広い家にひとり取り残されて、寂しいだろうと心配がつのるばかりだ。今のところは毎日、二人の妹が訪ねていろいろと世話をしているが、そのうち、そう手厚くはしていられないという時が来るだろう。そのとき、どうするか、今から考えておかなければならない。とりあえずは、東京に用事もあるだろうしから呼ぶことにして、そのほか全国各地に一緒に旅行に行こうと言おうかと思っている。

 母の年金については、葬儀の翌日に、妹が母を連れて社会保険事務所に出向き、実に手際よく整理してくれた。加えて、家の登記に見つかった抵当権についても、住宅ローン完済後の抹消し忘れということがわかって、妹が銀行にお願いして書類をもらい、法務局に行って抹消してきた。これも非常に手早くやってくれた。私は、これまで妹と一緒に仕事をしたことがないが、いや本当に有能であると感心した。加えてもう一人の妹とその旦那さんによる香典の処理のうまさには感激した。あれだけの香典の山をほんの3時間ほどで綺麗に記帳し、現金を数えてくれたのである。正確さと速さと美しさを兼ね備えている。この二人がいなかったら、私はここでこれほどノホホンとはしておられなかっただろうと思って、深く感謝する次第である。

 また、葬儀の途中で、親類から色々と言われて、いささか閉口したこともあったが、それはそれとして、親戚全員がお通夜から葬儀、そして火葬場から初七日の法要まで、忍耐強く付き合っていただいた。父が親類とのお付き合いを大事にしていてくれたからこそである。親類の皆さんに、深く感謝申し上げる次第である。また、身内ではあるが、私の娘はあれほど多忙な手術のスケジュールの合間を縫って、とんぼ返りで駆けつけてくれた。私の長男も多忙な業務の合間に時間を作って通夜と葬式のすべてに付き合ってくれた。父の納棺を見守り、柩を担ぎ、通夜と葬式の親族席に着き、火葬場でお骨を拾ってくれた。そのお嫁さんも、多忙なスケジュールの中を飛行機を使って日帰りで来てくれた。家内はいうに及ばないが、いずれも亡くなった父を深く敬愛してくれていたからだろうと、心から感謝している。

 ところで、相続手続きのために、妹が原戸籍を集めてくれているが、とりあえず私が調べた限りでは、父の遺産は実にシンプルで、手続きはそれほど難しくはない。要するに、相続税が掛かるべくもない金額である。すなわち、さほど多くはないが、まあそれは、これまでの父の生き方であり、我々3人を遠隔地の大学に進学させてくれたのだから、それだけでも有難いと考えなければならないと思っている。だから、自分で言うのもなんだが、結果的に我々3人の子供たちが揃ってそれぞれ社会的に認められているということになったのであるから、それが何よりの父からの贈り物だといえる。

 ところで、これが仮にあちこちにたくさんの不動産を持っている家だったとすると、その評価や何やらで、これは大変な仕事になることが、よくわかった。そのようなときのマニュアルとして、三菱信託銀行のパンフレットを見てみたが、実によくできている。こういうものを活用するか、あるいは信託銀行や事務一切をお願いするというのも手だろうと思う。

 母が、四十九日の法要の件について会場を決めるべく悩んでいた。これについても、妹たちがさっさと結論を出し、私がそれに乗って電話をして決着したが、まあ3人の連携プレーというところである。生まれて何十年経っても、妹たちとこうやって息の合ったところが見受けられて、嬉しい限りである。二人の妹たちとは、一緒に仕事はしたことがないが、しかしその様子を見ていると、目の前に懸案があれば、さっさと片付けるという習慣があるようで、これは私とまったく変わらない。これも、父の残してくれた貴重な遺産なのかもしれない。

 父の銀行通帳を眺めていると、毎月の電気代が4万5000円にもなっている。この家は2階建てなのに、老人二人でこれほど電気代がかかるというのは、どうもおかしい。つらつら考えてみたところ、24時間風呂のせいではないかと思い当たった。これは、1日中いつ入ってもよいという風呂で、父が大好きだったものだが、母や私にはお湯が熱すぎて困ったものだ。それが電気で動いているというのである。どうせ母は、1日のうちで何回も入るということはしないので、これを切って普通のガス風呂にしてしまおうと考えた。そのためには、外にあるタンクとの水の出入り口を遮断してしまう必要があるので、今度帰ったときに、栓をしようと思っている。それやこれやで、家の仕様を、母の生活の身の丈に合さなければならない。

 シンガポール人の友人から電話が掛かってきたので、私が「父が亡くなって大変だった。悲しむ暇もなく葬儀をしなければいけなかった。それがやっと終わったと思ったら、今度は相続の手続きなのだから」などとつぶやいたら、「相続って何?」というので、「日本の民法によれば、母と我々3人の子供が相続人となる。それで遺産を計算して、9千万円の基礎控除を超す財産を持つお金持ちだと、かなりの相続税を払わなければいけないんだ。ウチは全く関係ないけれど」としゃべったところ、思わぬことを言われた。「そんなの、おかしい。だいたい、自分が一生かかって稼いだお金を、なんで政府にとられるんだ」などという。私はびっくりして「シンガポールには、相続税って、ないのか?」と聞くと、「もちろん」と自信をもっていう。本当かなぁ・・・。

 ついでにその人が私に聞く。「日本では、相続人というのが決まっているのかい?」、私が答える。「ああ、もちろんさ。日本の民法(Civil Law)では、私の家のようなケースでは、母が50%、我々3人が残りを3分の1で分けるんだ。仮に遺言書が出てきて、そのうちひとりに相続させないって書かれてあっても、遺留分といって、少しは必ず相続できると規定されている」というと、その人は、「それも、おかしい。シンガポールでは、だれに相続させるかは、亡くなった人の勝手さ。家族の誰にも相続させずに、すべて別の人に相続させるというケースもある」などという。いやはや、私などは日本の大学で日本の法律を学んだものだから、こんな発想があるとは思いもしなかった。こういう制度の下では、いわゆる大金持ち(Tycoon)のファミリーが出るわけだ。それに比べて日本の税制は、金持ちに過酷である。いくら財産があるといっても、三代も続けばすっからかんになるではないか・・・。まあ、私の家にはまるで無関係のことだけれど・・・。





(平成23年7月25日著・28日追加)
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