悠々人生のエッセイ



金滉植首相



韓国を訪問( 写 真 )は、こちらから。

 お隣の国、韓国で法律関係の国際フォーラムがあり、珍しいことに私に声が掛かったので、出席してきた。外国出張など、ここしばらく全くなくて、おそらく10数年ぶりである。かつては国際派を自認していたつもりなのだけれど、もうすっかり国内派となってしまった。それで、その国際派だった頃には、数えてみるとこれまで、28ヶ国に行った・・・これは滞在したことがある国の数だが・・・残念ながら韓国には行ったことは一度もなかった。そこで、今回の訪問でここが29ヶ国目ということになる。それでは将来30ヶ国目をどうしようかと、鬼が笑いそうなことを考えているのだが、暇になったら家内とゆっくりオーストラリアにでも旅をしようかと、今から楽しみにしている。まあ、そんな先の話はともかくとして、韓国の印象はどうかといわれれば・・・わずか3泊4日でしかも会議場で缶詰になっていたり行事に縛られていたりしたことからすると、そんなことを言う資格がないのかもしれないが、それを大目に見ていただくとすると・・・街中にハングル文字があふれている以外は、おおむね日本とさほど変わらない国だった。それもそうで、人種からして顔つきも身体つきも似ているし、そもそも日本と韓国は古事記や日本書紀の時代から交流があり、今では韓流ドラマが流行っている。だいたい羽田からわずか2時間余りで行ける国なのだから、当たり前か・・・。

 ところで、街中どこを見ても目に入ってくるそのハングル文字のことだけれど、聞くところによると、これは1446年に李氏朝鮮第4代国王であった世宗が、朝鮮語を表記するため「訓民正音」として定めた表音文字だそうな。それまで朝鮮民族は、朝鮮語を表記する固有の文字を持たなかった。支配階級の両班はもちろん漢字を駆使していたが、その他民衆はいわば、万葉仮名のように漢字の音を借りてこれを表記していたらしい。そこで、朝鮮民族にも固有の文字をということになったようだが、驚くことに保守派からは猛反発を受けた。ウィキペディアによれば、「蒙古族、女真族、日本などは固有の文字を持つが、そんなものは未開人のやることだ」などと言って反対したという。どこの国にも、またいつの時代にも、どうしようもなく頭の固い人種がいるものだ。まあ、そういうことで、ハングルは支配階級の間には広まらず、もっぱら民衆の間で便利に使われていたようだが、日本の明治維新以降に当たる開花期頃からやっとハングルが公式に使われ出したという。

 そんなことで、今や韓国内では、新聞、街中の看板や高速道路標記などはハングルばかりで、漢字はおろかローマ字表記もほとんどないため、外国人には何が書いてあるのかさっぱりわからず、いささか旅行しにくい国である。たとえばこれが中国の新聞のように漢字ばかりだと、漢字仮名まじりに慣れている日本人にはやや頭が痛くなるかもしれないが、それでも6〜7割は意味がわかる。これが漢字圏の良いところだ。ところが韓国ではすべてハングルのため、そういう便法がまったく通用しないから、困ってしまうのである。それでもシンガポールのように街中に英語の表記があり、英語が通じるならよいのだけれど、韓国の一般の人は日本人と同じく英語が苦手ときている。観光業ではむしろ日本語の方が通じるくらいだ。こういうところだけ似ていても、よろしくないと思うのだが・・・。今回、Songdo cityというところで会議をしたのだけれど、韓国語の通訳さんに、ここは漢字ではどう書くのと聞くと、「ええっと・・・宋島か・・・松島ですかね」と言って、サムソンのギャラクシーで検索すると、松島が正解だとわかる。なるほど、こういう同音異義語のようなときには、困ってしまうのだ・・・。その点、日本語は同音異義語の塊のような言葉だから、とてもハングル方式はダメだなと思ったりする。

 こんなことでは、表意文字としての漢字の良いところがなくなって、肝心の韓国伝統文化が消えてしまうのではと、ついつい心配する。話は飛ぶが、シンガポールでは住民の9割を占める中国人に専ら英語教育をしてきたために、自分の名前すら漢字でまともに書けなくなってしまった人ばかりになってしまった。私も、シンガポール人の知り合いにその人自身の名前を漢字で書いてもらったが、ミミズがのたくっているような漢字らしきものを書いていたのには、びっくりしたことがある。これには、さすがにシンガポール政府も反省して、軌道修正をしているほどである。もっとも、韓国では私がこの短い滞在の間に接した知識階級の間では、まだまだ漢字の知識が残っているようで、しかもそれは侮れないレベルである。今回ご一緒した韓国のある国会議員さんは、そのウェルカム・スピーチで「Our friends, who stay some remote areas, kindly come and see us. How wonderful it is!」などと言うので、テーブルに戻ってきたときに、それは孔子の「朋あり遠方より来る。亦た楽しからずや」ではないですかと言って、やや怪しげな日本風の漢文を書いて渡したところ、その横に「有朋自遠訪来 不亦説乎 論語」と正しく書き返してきたのには、参ってしまった。専門家でもないのに、生兵法は怪我の元だ。よく覚えておこう。



泊まったホテルからの眺め


 2日目のシッティング・スタイルのディナーの席で、たまたま私の隣に、「Chief Prosecutor」という肩書きの紳士が座っていた。日本でいえば検事総長さんかもしれないその人と、最近の日本と韓国の立法事情をあれこれ話していたときに、私が、今度の国会に刑法改正案が提出されているということを「The Cabinet has already submitted the amendment of Penalty Law, which introduces to suspend execution of sentence partly.」といって説明したが、何を言っているのか全くわからない模様。そこで、「Partly suspending jail term」などというと、やっとわかったようで、手元の箸の包み紙に「執行猶予」と漢字を書いた。そこに私が「一部」を付け加えて「一部執行猶予」としたので、「ああ、やはりそうか・・・そんなことよく考え付くな」という顔をした。内容を詳しく聞きたがったので、いろいろと背景を解説しておいた。特に薬物犯罪の再犯防止などには効果的だろうというと、深く頷いた。来年あたり、韓国で同じ刑法改正案が出てくるかもしれないが、そのきっかけがこの漢字談義だったとしたら、予期しないところでこの会議が役に立ったということになる。



泊まったホテルの前に日の丸がはためく。国際会議が終わってこれを見ると、ほっとした気分になる。


 会議が行われた仁川近くのSongdo cityには、高層建築が立ち並んでいて、一見すると近未来都市のようである。私の泊まったホテルは22階建で、その横にまるで日本の幕張の国際会議場を彷彿とするような、とてつもなく大きな国際会議場があり、さらにその脇には、50〜60階建ではないかと思われるほどの超高層建築物があった。後者はまだ建設途中だが既に外観は完成していて、内装の仕上げ段階のようである。韓国政府の人に「これは高い建物ですね。建築にかなり時間がかかったでしょう」というと、「いやいや、これなどは、1年です」などと平然と言うので、びっくりしてしまった。後で聞くと、韓国には地震というものがないそうだが、それにしても極端な・・・。iPhoneのマップでこの場所の地図(これもハングルだから、さっぱり分からない)を見ると、確かにこれらの建物の形が描かれている。ところがそのマップと航空写真の組み合わせを見ると、この位置には単なる荒れ地が広がっている写真があるだけだった。つまり、ここは元々は埋立地で、それから急ごしらえで超高層建築物を建てたらしいことが、よくわかる。たとえは悪いかもしれないが、はるか昔の出来上がったばかりの頃の幕張コンベンション・センターを思い出す。高層ビルと幅の広い道路以外、本当に何にもないのだから・・・韓国政府の人が嘆いていた。「ソウルからここまで、1時間半もかかるから、困ってしまう。来年はソウルでやりたい」と。



泊まったホテルの隣にある国際会議場


 これには、私も大賛成だ。もっとも、来年また行くとは限らないけれど・・・。そういうこともあって、このSongdo cityは、滞在していて全く面白みがないのである。何しろだだっ広い道路が縦横に走っていて、その間のブロックにはこれまた高層建築物が建ち並ぶだけで、ちょっと買い物をしたり食べ物を求めたりなどという楽しみがほとんど味わえないのである。日本でも、かつて出来たばかりの頃の筑波センターも、そんな風だったと聞いたことがある。会議に来た韓国の人に、「ここは周りに何にもないから、本当に会議の内容に集中できるところですね」と言ったら、苦笑していた。それでも、ほかの国の人は逞しい。同じ会議に来ていたフィリピンの人は、ここから約3キロメートル離れた仁川市内中心部に出かけて、ちょっと一杯やったらしい。私などは、明日の会議で15分ほどスピーチをしなければならなかったし、この会議全体に関して日本ではあまり情報がなく、こちらに来てから知った内容もあってそれをどう取り入れるかなどと戦略を考える必要があったので、残念ながらホテルから遠出することなど考え付きもしかった。



泊まったホテルと国際会議場と高層建築



国際会議場を出て眺める


 その夜は、シッティング・ディナー形式で歓迎のレセプションがあり、私の隣には、ある有名大学の法科大学院長さんが座った。小柄な女性である。名刺には、Dr.とあったので、呼び掛けるときにはこれを忘れてはいけない。まあ、私もたまたま法科大学院の先生をしているから、これはちょうど良いということで、日本の法科大学院との比較の話をした。彼女がいうには、韓国の法科大学院の数は25校で、1学年の定員は2000人、首都圏に15校と地方に10校あり、国立と私立のバランスもよいとのこと。私が、「日本では文部当局に設立や定員の総数を管理する発想がなく、雨後の筍のごとくにどんどんと増えていって、いまでは74校も乱立し、定員は約5800名にもなっています。その上、当初は司法試験の合格者数として3000人を予定していたのですが、合格者の質がいまひとつ評価されていないという問題と需要が伸びないこともあって、実際の合格者は2000人。しかも5年間以内に3回という受験制限がかかっているからどんどん溜まっていって、今年の合格率はとうとう23%になってしまったのです。3回目でも合格できなかった学生さんから残念なメールをいただいたりしたが、可哀想で仕方がありません」というと、「ああ、こちらでも同じで、2000人の定員に対して1400人しか受からないから、その分また翌年に受けるので、合格率は下がる一方。ちなみに韓国では、受験制限の5年間は同じだけれど、毎年受けられるんですよ」と語っていた。韓国も日本の司法制度改革を見て自国の改革を試みたようだが、まだまだ試行錯誤の過程のようであるが、法科大学院の数を絞ったというのは、さすがである。

国際会議場で催された民族舞踊


 そんな話をしていたところ、これから民族舞踊があるという。各国代表団に対する韓国側の歓迎の意である。何があるのだろうと前のステージの方を見ていたところ、いよいよ始まりそうなのでちょっと失礼といって、バックからカメラを取り出したときのことだった。雅びな音楽とともに、韓流ドラマの宣伝に出てくるような優雅な衣装を身に着けた踊り子さんたちが出てきた。この衣装、どこかで見たことがあると思ったら、竜宮城の乙姫さんたちだ・・・と思った瞬間、我ながら歳を感じてしまった。今なら、韓流ドラマの女優さんの名前でも上げるべきだろう・・・ま、ともかく、とても雅びたスタイルである。それはよいのだが、その踊りたるや、もう・・・まだるっこくなるほどゆっくりなのである。ああ、これは日本の雅楽のテンポそのものだ・・・いわゆる宮廷の踊りというわけか・・・。それをしばし見ていたところ、しずしずと去って行き、今度はずっと早いテンポの音楽とともに、ポン・ポンという音がして、小さな太鼓を手に持ち、きびきびした動きの女性が出てきた。ああ、前の踊りと全く違う、いかにも農村風のバイタリティあふれる激しく動き回る踊りであった。静と動を組み合わせた、なかなか センスの良い演目の選択である。テーブルの上に踊りの解説があったが、周りとしゃべっているのに忙しく、じっくりと読む時間がなかったのは残念である。

 翌日、朝の10時から会議が始まった。首から、名前と国名とその属性を書いたカード(冗談のようだが、私には、首に「Head」と書かれたもの)を吊り下げられて、まず控室に案内された。そこには、今回出席の30ヶ国・地域のうち、主な8ヶ国からHeadが呼ばれて集まり、立ちながら自己紹介と談笑をしていたところ、急に警備の人が入ってきた。何かと思ったら、金滉植首相がわざわざ立ち寄っていただけるのだという。首相はすぐに入って来られて、何と私のすぐ横に立った。韓国側のカウンターパートが、私を紹介してくれる。「イルボン」と言っていたのが聞こえたので、そうとわかった。私が「Nice to meet Your Excellency!」というと、英語でいいのかと思われたのか、立て続けに東日本大震災のお悔やみを言われ、福島の原子力事故のことを尋ねられた。そこで、「大震災時には韓国から本当に暖かいご支援をいただいて深く感謝申し上げます。それから福島の事故につきましては原子炉からの放射能漏れの心配はもうなくなりましたが、原子炉周辺の地域から避難を余儀なくされた方々は本当にご苦労されていて、政府も放射能の除染に手を付け始めていますが、相当な時間がかかるかもしれませんが、着実に進めています」とありのままを申し上げたところ、眉をひそめられて、「それは大変なことです。深くお見舞いを申し上げます」と述べられた。誠に、心のこもった言葉で、非常にありがたく思った次第である。その他、首相はよく各国のことをご存じで、フィリピンの前大統領訴追の動きのこと、ベトナムの産業開発のこと、サウジアラビアのプラントのことなどをそれぞれの国の人に聞いていた。

 会議の基調講演が始まった。まずはその金滉植首相が、歓迎のスピーチをされた。私は、これは地味な法律のセミナーであるだけに、まさか首相に来ていただけるとは思っていなかったし、ましてやその首相と隣り合って直接お話をさせていただけることなど想像もしていなかったから、正直なところ、誠に光栄な経験をさせていただいたと思う。さて、会議では、私も参加国として基調講演を行うひとりなので、何番目かとスケジュール表を見てびっくりした。事前に聞いていたのは確か1時間で4人、ひとり15分のはずだったのに、いつの間にか6人になっている。このいい加減さが、アジアでの国際会議の特徴である。こんなことに驚いてはいけないが、これではひとり10分ではないか・・・でも、こういう場合は長引くのが常だから、8分くらいになるのではないかと思い、せっかく用意した冗談をいくつかカットすることにした。英語の冗談を思いつくのはなかなか骨が折れることなのだけれど、もったいないが、仕方がない。

 さて、自分の番がやってきて、名前が呼ばれた。実は立ち上がる前に、自分の英語をチェックしようとiPhoneの録音をセットしたのだけれど、急に呼ばれたのであわてて出てしまい、肝心の録音ボタンが押せなかった・・・まあ、ともかく壇上に向かうときには、胸を張って背筋を伸ばし、大きなスライドで歩くようにした。人間、外形が肝心である。うまいことに、演説台は、比較的高くなっていて、原稿が非常に読みやすい。これなら、なるべく顔を上げて話すことが出来る。こういう時の心構えを昔、先輩に聞いたことがある。それは、「なるべく原稿を見ず、会場全体を『Z』字になるように順番に見渡し、数字や固有名詞を語るときは、特に強調して言うこと、必要に応じて両手を動かしたり身振りも取り入れるべし」というものである。つまり、まずは原稿を見るではなく、なるだけ聴衆全員の顔を見るようにせよということである。そのためには、『Z』字、つまり顔を動かす方向として、右手前の聴衆から始まりそのまま左へと平行に見ていき、左の端に付いたら今度は会場を斜めに右端の奥に動かし、そして奥のラインを今度は左に平行に動かすと良いという。そうすると、聴衆は自分に目を向けてくれているという意識が持てて、話も聞いてくれるというのである。

 それを思い出して、なるべくそうしようと思っていたのだが、あまりうまくいかなかった。というのは、予定より時間が短くなったことから、話を多少短くするためにあちこちを省略することを余儀なくされた。そうしたところ、パワーポイントを操作する私のアシスタントくんが私の話に付いて来れなくなって、私の話とスライドが前後したりしてしまったのである。そのスライドが追いついてきたり、行き過ぎたのを戻すのを調整したりするなど、そちらのカバーするのに気がとられて、先輩の教えを完全に実践することは出来なかった。なかなか、難しいものである。そのアシスタントくんには、事前にそのパソコンを見に行ってもらって試してもらったはずなのに、この有り様。ひょっとして私に代わって緊張して上がってしまったのかもしれない。まあしかし、スピーチの後、向こうの政府の人が、私の話はなかなか目新しいことで、参考になり、英語もわかりやすかったと言ってくれたのは、社交辞令だとしても、それなりに良い気分がした。

 私の後、壇上では韓国の人が二人ほど続いて、韓国語でスピーチをし、それを英語に直したものを通訳が読み上げていた。でもやっぱりこの方式は、時間が半分になるし、現地語を長く聞いているのは一聴衆としても飽きる。そのほかの各国の人たちは大体がお国なまりの強い英語でスピーチをしていたが、まあおおよその意味は分かった。しかし中には、ミャンマーの人の英語のようにいささか聞きづらい例もあった。ウズベキスタンの人は、何とロシア語で話をし、それを大使館員らしい人が英語に訳していた。驚いたことに、後ほどのパーティで、ベトナムの人がこの人に対してロシア語で流暢に話しをしていた。この人、ロシアに留学したのか・・・歳を聞くとまだ48歳と若いのに・・・。

 メイン会場のスピーカーとして、日本のある国立大学の教授が出てきた。この人は、文字通りのカタカナ読みで英語をしゃべっておられた。日本人の私としては誠に分かりやすかったが、聞いているうちにだんだん恥ずかしくなってきた。内容は自分の大学は法律関係を勉強する留学生を受け入れているし、英語の授業もありますよということらしい。もちろんいたずらに他人の悪口は言うものではないということは重々わかってはいるものの、この先生には悪いが、これではまるで逆効果ではないかと思った。もっとも、私の英語も、他人が聞くとこういう調子なのかもしれないので、人の振り見て我が振り直せとは、まさにこのことではないかと思ったりもしたのである。話は飛ぶが、私が兼職している大学でも、なるべく国際化を進めるようにしており、留学生にはすべて英語で単位がとれますよと宣伝をしている。ところが、留学生によくよく話を聞くと、英語の授業といっても日本人の先生の話すことは、よく聞き取れないとぶつぶつ言っているし、逆に日本人学生は、授業が英語で行われるというと、誰も受講してくれないのである。

 さて、再び会場に話を戻そう。私がメイン会場で他の国の人の講演を聴いている間、サブ会場で、グリーン法制、災害対策法制、産業発展法制などの討議が行われたようだ。何でも、韓国は排出権取引法案を国会に提出中のようで、それで大いに自信を深めているそうだ。それにしても、産業発展法制というのは、何だろう。法律は規制をもってその本来の役割があるが、それが振興といかに結びつけるかが課題である。お土産に韓国の産業振興法制という分厚い本をいただいてきたので、時間のあるときに読ませてもらおうと楽しみにしている。ところで、面白いことがひとつあった。この会議の第1日目に、会場の正面に参加国一覧表が大きく掲げられていて、その最も下の行に「Taiwan」とあった。ところが翌日、その一覧表の前を通ったところ、最下行には、白い紙が貼られて、そこだけ隠されていたのである。もしかすると、中国代表から本件についてクレームがあったのではないかと想像を逞しくしたが、さて、真相はどうなのだろうか。韓国側には、敢えて聞かなかった。

 お昼休みに入った頃、「各国の代表者は、お集まりください」という声がかかり、主要8ヶ国のひとりとして皆と一緒に記者会見室に入った。記者がたくさんいたが、何とその中に、頭にターバンを巻いたシーク教徒のインド人がいた。一般にインド人の英語は日本人には聞きにくいので、そうだとすると質問を聞き直した方が安全だろうなどと思っていたら、その記者から、グリーン法制、災害対策、都市計画について各国ひとりひとり順番に質問があった。まあまともに理解できる英語だったので、一安心。最初に答えたベトナムの人は「いやいや、われわれはまだその討議をしていなくて、それは午後のセッションなのですよ」などと辟易しつつ答えていた。それはそうなのだが、私は知っていることを話そうと、マイクのスイッチを入れて、こんなことを語った。

 「とりわけ災害対策は、今回の3月11日の東日本大震災と大津波には既存の一般法制だけでは対応できなかったので、新たに20本の法律と71本の政令が作られ、まずは救援と生活再建、そしてこれからは復興段階に入っている。しかし、いろいろと問題がある。たとえば都市計画の観点からすると、津波で流された住民は、一般には元住んでいた場所に戻りたいという意識がある。特に漁師さんなどは海の近くで潮風を感じて住みたいという方々が多いと思う。しかし、地方自治体としては、再び津波の被害を受けないように住宅は高い所に移したいと計画することが多い。そうすると、なかなか話がまとまらない」。すると、記者さんは理解したらしく、うんうんと頷いていた。これ以上の追加質問はないようだ。さあ、私の隣のサウジアラビアの人の番だと、私は左を向いた。するとびっくりしたことに、確かに私の隣にいたはずの大柄のサウジ人が、いつの間にか煙のごとく、消え去っていたからである。何たる早業か・・・それとも中東で暮らすために必要な知恵か。

 その日のランチもまたシッティング形式で、ひとり置いてその先には、日本でいえば経団連会長さんという方が座った。その会長さんが私を日本人と知って曰く「韓国では一人の大統領なのに、その間に日本では首相が6人も代わっている。官僚組織がしっかりしているから良いようなものだが、これが他の国なら国が不安定になるところだ。特に政権交代があってからというもの、全く非現実的なことばかり言っているように聞こえてくる」と少々キツイことをいう。これに対して、「いやいや、それを言われると、誠に恥ずかしくなります。ただ、民主党も、3人目の首相ということでだんだん現実的になってきたという評判なので、少し長い目で見てあげてください」と弁解するしかなかった。会長さんが、「戦後60年以上となるが、あなたの公平な目でみて、どの首相がベストと思うか」と尋ねるので、「私より少し歳上の人は、吉田首相というかもしれませんが、年代が異なるから私はもちろん直接会ったこともないので、判断のしようがありません。私が直接お会いした中では、中曽根首相がベストだと思います。90歳を越した今でも、なお矍鑠としておらまして、今の野田首相も会いに行って大所高所からの助言をいただいたようです」と答えた。会長、深くうなづく。その他もろもろの話をし、帰り際、「今日は面白いお話がいろいろとできて、本当によかった。ありがとう」といわれた。私も、少し話せばその人がどの程度の方がすぐにわかる方だが、この会長さんは非常に博学で様々なことに興味と関心をお持ちであり、ほとほと感心した次第である。それにしても、日本の経団連の最近のお偉いさんたちには、私はまだ会ったこともないが、果たしてどの程度の方たちなのだろうか、こういう竹林の清談が出来る人たちなのだろうかと、ついつい思ってしまった次第である。

 その翌日、産業ツアーと称して、参加国全員が、韓国が誇る世界的企業であるサムソンを訪れたというか、より有り体にいうと、連れていかれた。細かいことは省略するが、液晶テレビにしても、ギャラクシーにしても、いやまあ、ハードは素晴らしい水準だと認めざるを得ない。特に今回、気に入ったのは、ギャラクシー・スマートフォンとギャラクシー・タブの中間に位置する・・・確か画面の大きさが7インチと言われたように思うが・・・大きめのスマートフォンのような新製品である。アップルの製品でいえば、iPhoneとiPadの中間サイズのものだ。入力ペン付きで、しかもそのペンを本体中に格納することが出来る。私のように、いささか視力が弱くなってきた者や、指が大きくてタッチパネルの押し間違いをよくしてしまう者には、とっても魅力的な製品である。これは韓国では既に9月から売り出していて、世界各国には来年から売り出すといっていた。消費者の需要を先取りし、なかなか良いところを衝いている。

 それにつけても思うのだが、こんな製品は、日本企業の独壇場であったはずである。たとえばソニーであればウォークマンを生み出した盛田さんなどの創業者が健在であったなら、作ることが出来たはずのものだ。ところがトップに迎えているのは、ハリウッド業界の英国人で、どう見てもITの世界とは縁遠いように思える。この人に、果たしてiPhoneやiTunesの価値がわかるものだろうか。もちろんかつてのような単なる格好付けだけの軽薄なトップはいらない。物作りにこだわりがあり、しかもソフトに土地勘のあるセンスのよい経営者でなければ、このスマートフォン大競争時代を生き抜けないのではなかろうか。いや、ソニーのほか、最近のパナソニックにシャープも、まったく生彩がない。円高やデジタル特需の反動の影響もあるのかもしれないが、このサムソンの元気の良さと比較して、これは何ということだと、ついつい溜息が出てしまった。日本の企業には、もっと頑張ってもらいたい。

 前夜の歓迎ディナーのとき、韓国側の要人のスピーチの通訳として、演説台の脇に美人の若い女性がついて、見事な英語で訳していた。ネイティブの発音ではなく、後から勉強したものと思われる発音と抑揚であるが、それがかえって我々アジア人にはわかりやすい。その要人がスピーチを終わって私の隣に座り、私との間に椅子をもって来させてその通訳さんに座ってもらい、私との間の英語と韓国語の会話を通訳させた。そうこうしているうち、その要人は忙しい人で、ちょっと失礼といって各テーブルの政府要人や経済界の人に挨拶をしに、しばらく席を空けた。私とその美人の通訳さんがそのまま取り残されたので、この際とばかりにいろいろと韓国の通訳事情を聞いてみた。若いと思ったらそのはずで、まだ大学院生だという。「もうこんな実践(プラクティス)をしているの」と聞くと、「そうなんです。大学を出て、語学専門の大学院に行っています。ここは、入るのも出るのも難しいんですよ」と、いささか誇らしげにいう。そうだろう。彼女は場慣れしているから、実践で相当の経験を積み重ねていると見える。

 この通訳さんが、韓国の学歴社会でのスーパー・エリートに属しているとすれば、他方で会場で私たちの案内をしてくれたRくんは、言葉は悪いが、落ちこぼれ寸前の様子である。サムソン見学の帰りの車内で、私が無邪気に「サムソンに就職するには、どうするの」と聞くと、「そんな方法があったら、私が教えてほしいです」と投げやりにいう。何でも、ソウル大学、建国大学、高麗大学などの一流校をトップの成績で出て、英語試験TOEICで満点近い成績をとり、たぶん強力なコネも必要で・・・などと延々と聞かされ・・・それでもダメなことはしょっちゅうあることらしい。私が、「そんな一流志向は止めて、最近よく日本で話題になっているような伸び盛りの中小企業に行ったらどう?」と気楽に言ったのだが、韓国では大企業と中小企業の待遇の差がまるで天と地のようなものだから、そういう選択肢はあり得ないようなのである。その結果、韓国では大学新卒の就職率が48%となってしまっているとのことである。

 さらに聞くと、1997年のアジア通貨危機から、こんな厳しいことになってしまったとのこと。その頃、国家財政がIMFの管理下に置かれ、公務員や会社員の給料が50%もカットされるなどの塗炭の苦しみを味わったようだ。それ以来、韓国の企業は好況になっても正社員の数は増やさず、要するに派遣社員で対応している。日本でも、小泉竹中路線で規制緩和が進められた結果、製造業にも派遣が可能となったことから、正社員の数は増やさずに派遣社員の数を増やして対応していった。そうすると、不況期になると契約の期限が切れたら職そのものだけでなく住む場所もなくしてしまい、2008年末にはホームレス状態の人が集まる派遣村が出現して社会問題になった。それと同じようなことが、韓国では既に10年近く前に起こっていたのである。

 そういう経済の荒波に揉まれているせいか、今回、韓国の要人と話をしていて、韓国というところはアメリカのように、文字通り強い者を優遇する国だと強く感じた。私が「日本では数年前に派遣社員切りが大きな問題になったし、今は生活保護の人がどんどん増えている」といっても、全くといってよいほど同情されない。それどころか、あからさまに言ってしまえば「努力しない者が不利益を被るのは仕方がないし、強い者をますます強くしないと国や企業は強くなれない」とおっしゃる。私が「日本では、ミクロでいえば生活保護の額が年金の額より多いと問題になっているし、マクロで見ても国家財政中で社会保障の占める割合はとうとう3割を越した。防衛予算は5%くらいだけど」というと、なんて馬鹿ことをしているという表情をする。もちろん、北朝鮮と常に対峙しているという韓国の特殊事情はあるにせよ、こういう国と世界中で経済戦争を争っていくには、今の我が国は、いささかひ弱すぎるのではないかという気がしたのである。


韓国民俗村のアクロバット的な舞踊


 サムソンへの道すがら、皆とともに韓国民俗村という昔の農村生活を彷彿とさせるところを見学した。農家の前にたくさんの壺が置かれ、牛がモーと鳴き、野菜畑が広がる。郡代というか村長さんの屋敷では結婚式がとり行われ、男女別の区画がある。そういう風景である。なかでも、男性陣によるアクロバット的な舞踊が忘れられない。レバノン、ウズベキスタン、ミャンマーから来た代表団の一行が特に興味をそそられたらしく、あちこちで立ち止まってしきりに覗き込んでいた。

昌徳宮秘苑


 帰国のため金浦空港に行く途中、飛行機の時間待ちを兼ねてソウルに立ち寄り、景福宮や昌徳宮を駆け足で見させてもらった。ほとんど時間がなく、慌ただしくて走るように一周したが、なるほど、これが韓国の文化かとその一端を味わったような気がしたのである。ちなみに、お土産は、韓国民俗村で購入した民族衣装を着た結婚式の二人の人形と、朝鮮人参のお茶にした。もう少し買いたかったが、今回の国際会議でたくさんの書類や資料や本をもらい、これで大きなトランクの半分近くが占められてしまったから、大きめのお土産は買えなかった。ところでこれらの膨大な書類、帰って、一応その全部を読まなければと思うと、いささか気が重い。日本語なら斜め読みが出来るのだが、英語ではそれが出来ないのが、私の弱点である。 

景福宮の衛兵

 また別の話題であるが、私は韓国に着いたときに金浦空港で現金2万円を両替したところ、27万6000ウォンをもらった。すごく得をした気分になったが、慣れていないと計算が面倒である。ソウル市内でタクシーに乗ったら、2400ウォンといわれた。一瞬それは高そうだという気がしたものの、このレートでいけば、わずか170円となる。今度は、そんなに安くていいのかと思った。どうも物価は、生活感覚が合わないと、なかなかその高い安いがピンと来ないようである。しかしこれで、韓国という国の一端に触れることが出来た。次の機会があれば、今度は家内とともに済州島あたりにプライベートで行ってみたいものである。


家内へのお土産の韓国人形






(平成23年11月12日著)
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