悠々人生のエッセイ








 今まで、「センチメンタル・ジャーニー」などと聞くと、そんなことは暇な年寄りのやることだと馬鹿にしていたが、自分自身が歳をとっていざやってみると、なかなか良いものである。なぜそのような気になったかというと、私は、父親が全国を股にかけて動く転勤族だったために、子供の頃は、関西から北海道にかけて引越しと転校を繰り返した。だから、故郷といえる地は、もう住んで40年となる東京をおいて他にはないのであるが、それでも中学・高校という多感な年頃を名古屋で過ごしたことから、人に出身地を聞かれれば、愛知県名古屋市と答えることにしている。

 その名古屋の地で、ごく近所に住んでいて毎朝一緒に中学校に通い、共に難関の高校入試を突破して同じ進学校に通って同一クラスとなった友がいる。別に図った訳ではないが、気が付いてみると大学も一緒で、そして東京での勤め先まで交差点のはす向かいにあるという有り様。これはまた、お互いよほど縁があるなあということで、お人柄もほのぼのとしているということもあり、人生の節目節目で親しくお付き合いをさせていただいている。

 彼は私と同様に東京圏でマンションを購入し、長年そこに住んでいたが、定年近くになって退職したと思ったら、故郷の名古屋で私立大学の学長さんになって、いわば里帰りの形で帰っていった。折にふれて元気にしているかなあと思っていたところ、たまたま今回、大事な用で名古屋に帰る機会があった。そこで、入試で多忙な時期だろうけれど、会えないかなと思いながら連絡をとった。すると、「その日は大丈夫、通った中学校や高校のルートを辿る二人だけの同窓会をやろう」というありがたい返事をもらったのである。


徳川園の牡丹


 そういう経緯で、新幹線で名古屋に向かった。実は2年ほど前にJR東海のEXーICカードを作ったのだけれど、それ以来あまり使う機会がなかった。だから、ちょうど良いから使ってみようという気になり、iPhoneで新幹線を予約した。行き帰りとも直ぐに予約できて、カードの使い方を調べた。要するに、SuicaとEXーICカードを重ねて新幹線の改札機にタッチし、その改札機から出て来る座席指定券を受け取り、車内の検札のときにそれを見せればよいらしい。切符のお値段はというと、早割りといって、確か330円ほど安い。この仕組みの良いところは、乗る新幹線の電車を直前までスマートフォンで変えられることである。帰る時間が定まらないような出張には最適である。もっとも、「帰りの時間が迫っていますから」などという言い訳が通らなくなったから、ビジネスマンは困るかもしれない。

 泊まったホテルは名古屋ヒルトンで、名古屋駅から地下鉄東山線で一つ目の伏見駅にある。構造やら装幀、設備、アーケードなどは、当たり前だが新宿ヒルトンによく似ている。当日朝10時に車で迎えに来てくれるというのでホテルの玄関で待っていると、来た来た。まあ何ともはや・・・可愛いらしいというほかないライトスカイブルー色の新型プリウスでやって来た。「やあ、しばらく」という簡単な挨拶をして乗り込んだ。

 最初に中学校の通学路に行こうということになり、千種区に向かう。そして通学の途中でよく出会った坂の下の女子学園前に行き、車を停めた。そこは、道の真ん中の中州のようなところで、松の木に囲まれて石碑があり、銅板に長文の漢文が書かれている。我々が中学生の悪童だった頃はそんなものに見向きもしなかったが、それから半世紀も経ち、読んでみる気になった。すると、石碑には創立50周年記念と書いてあり、その後ろの銅板は紀元2,600年に関係するものだった。

 はあ、そうだったのかと言いながら中学校に向かって歩き出した。両側の家々はそのほとんどが建て替えられているが、それでも道の佇まいは昔とそっくり同じで、懐かしい。脇道から今にも同級生が飛び出して来そうだ。歩きながら、「くんはどうしてる?」、「ああ、彼は元気だよ。全く変わりがない。それから、元々、家が豆腐屋だったくんは、後を継いでまだ豆腐屋をやっているよ」などとたわいのない話をしていたら、彼も私も、頭の毛は薄くなったり後退しているとはいえ、心と記憶は半世紀の時を飛び越えて、一気に中学生に戻ってしまった。それからというもの、自分でも驚くくらいに昔の記憶が次から次へと甦り、自分の頭のどこにこんな記憶が眠っていたのかと思うほどだ。

 私が「ここは坂を下ったところだが、近くに電柱があって、そこには伊勢湾台風浸水位置という赤い線が引いてあったのだけれど、それが中学生だった自分の目の高さだったから驚いた」というと、彼は、「それは知らなかったが、あの台風は酷かった。近くの家では屋根が全部飛ばされていたよ。自分の家でもトタン部分が飛んでしまった。それでも翌朝、母から学校に行きなさいと言われて仕方なくランドセル背負って外に出てみたら、もう辺り一面が水浸しでいろんな物が転がっている。近所のおばさんから、『こんなときは学校は休みだよ』といわれたりした」。「へえー、それは厳しいお母さんだったね。でも、あのときは一晩で6,000人近くが犠牲になったから、今から思うと阪神大震災並みの大災害だったんだよね。」

 細い通りから大通りに出るところの道角に来た。「確かここに、剣道部のくんの和風の家があったはずだね。玄関の格子戸が風情があって良かった。10年くらい前にはまだあって、くんの表札が掛かっていたけど、まだあるかね」と言いながら見てみると、その家は既になくなっていて、とある会社の無機質なコンクリートの建物に変わっていた。彼の家は母子家庭だったが、そんなことを振り切るように一心不乱に剣道に打ち込んでいた彼の姿が、まざまざと目に浮かんできた。


母校の中学校正門脇の石碑


 大通りを横切るとすぐその先が母校の中学校だ。何しろ我々は団塊の世代に属しているから、子供の数が半端ではなかった。正規の教室には全生徒を収容出来なかったものだから、脇の公園に急遽プレハブの教室が建てられた。ところが、そこに教室が当たった人はもう悲惨なもので、夏は燃えるように暑くて、冬は凍えるように寒かった。1クラスの人数は55人もいたし、まあ、よくあんな時代を生きのびたものだと言って、友とお互いの顔を見合った。

母校の中学校脇の暗渠となった川と桜の木


 いよいよ母校の中学校の正門に向かう。あった、あった。昔の面影そのものの門が目の前にあるが、何か違っている。よく見ると、正門の左手に流れていた小川がない。暗渠にされて、道路の地下に潜っている。そのくせ、正門前に交差している道路を渡ると、そこからまた川が続いているから妙だ。そういえば、この川の脇には桜の木があって、春になると美しかったのになと思い出して眼をまた暗渠の方に戻すと、桜の木は残っていた。ほっとした気分になった。

母校の中学校の中


 正門から、校内にちょっと入らせてもらった。本当は誰かに断わるべきなのだろうけど、入るといっても学校の玄関まで行って直ぐに引き返した程度だから、休みの日でもあるし、まあ許してもらおう。3年生のときの私の教室は、この正門の左手脇にあり、17組あった中での16番目、そう、3年16組という恐ろしいクラス名だ。しかも一つのクラスの定員が55人ということは、1学年に935人もいて、3学年だからこの中学校に同時に最大で2,800人も在席していたとは・・・。マンモス校を通り越してゴジラ校だ。ところが、そんなことで驚いてはいけないようだ。グラフを見ると、私の時代の生徒数は約2,500人と、この計算とだいたい合っているが、その2年前は何と4,200人だった。こんな膨大な数の生徒を一体どうやって収容したのか、謎である。ちなみに今の生徒数は500人とのこと。安心した。

母校の中学校在籍生徒数の推移


 それでは、次は高校だということで、彼の車で向かう。直ぐに着いたが、母校の周りにはマンションが立ち並んでいて、往時を偲ぶものは残念ながらあまりない。ところが幸い、正門は、昔の面影を色濃く残している。彼にいわせれば、建て替えのときに今の市長が文化財を残せなどと運動したからではないかということだが、それはともかく、なるべく昔のままで残っているのは、我々卒業生のノスタルジーを満足させるには、都合が良い。もっとも、現に校舎を使う人が優先されるべきだろうけれど・・・。

母校の高校校の正面


 またそこでひとしきり二人で、同級生の消息で知っている限りのことを話す。二人だけの情報交換でこれだけわかるのであるから、もっと集まれば同級生のことは完璧に分かるのではないかと思うくらいである。そこで得た結論は、歳をとっても、人間の性格というものは、ほとんど変わらないということだ。

 ここでも、正門から入れてもらったが、校舎に入ってすぐ左手にたくさんの優勝旗などが飾ってある。よく見るとどこか見覚えがある。覗き込んで眼をこらすと、その大半は一中時代のものだ。ということは、私たちの時代にもこれがそのまま飾ってあったのかと気がついたら、何だか愉快になってきた。校舎のあちこちに美術作品が飾ってあったのは、美術部の作品だろうか。そうそう、我々の同級生くんがこの母校の校長になって、大いに活躍したそうな。結構なことだ。


徳川園の庭園


 それでは、センチメンタル・ジャーニーの最後の目的地である徳川園に行く。ここは、我々の間では普通の公園で、美術の授業で訪れたり、散歩したり、口角泡を飛ばして議論したり、人によってはデートしたりと、まるで聖地のようなものだった。ところが今回、入ってみてびっくりした。特に庭園の方が大きく変わっていた。黒門と牡丹園があるのは昔通りだが、共通するのはそれくらいで、後は何から何まで全く違っている。池などは、今は龍仙湖というらしいが、何だかだだっ広い感じがして、昔の面影は全くない。聞いてみると、2004年に都市公園から日本庭園へと整備されたそうだ。でもまあ、それもよし。気を取り直して池を一周し、脇の宝善亭というレストランに入った。彼が予約していてくれていたから無事に席に座り、宗春御膳なるものをいただいた。尾張の徳川宗春からとった名前らし、「宗春が、尾張七代藩主を務めた享保・元文年間の食文化を再現したもので、名古屋の味20種が詰められたお弁当です。」とのこと。この写真のほか、鮎の塩焼きやお吸い物までついていて、特に鮎の塩焼きは久しぶりだったから、美味しかった。

宝善亭の宗春御膳


 本日は実に良き友と、有意義な一日を過ごしたものだ。それにしても、彼のように、中学高校大学と一緒の友達とは、何を話してもお互いに通じる共通の話題があるから、ただそれだけで嬉しくなる。人生で持つべきものは、良き伴侶と良き友である。





(平成26年 1月26日著)
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