悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



秋の落ち葉と苔






 家内が通う美容院のお客さんに、心理カウンセラーの女性がいて、その人がこのように語っていたという。「最近では、カウンセリングに来るお客さんの傾向が急に変わってきて、一番多いのが『うちの子が、何かおかしい。まるで能面みたいに、ぜんぜん表情がない。』というのです。症例を集めて、研究しているところです。」

 私は、これを聞いてピンときた。思い出したのは、旧ソヴィエト連邦のコルホーズ(国営集団農場)において、集団保育をされている子供達の写真である。何人もいるというのに、揃いも揃って無表情で、笑うことも、じゃれ合うこともなく、ただ黙って突っ立っているだけだった。昔、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」というアニメがあり、そこに出てくるカオナシそのものだ。まさに、能面のようなのである。

 先に私の見解を言えば、これは子供に対する保育園と親の接し方に原因がある。特に、保育園では、おそらくテレビをつけっぱなしにして、単に赤ちゃんを部屋に転がしているだけなのだろう。ましてや、赤ちゃんを抱き上げたり、顔を見てあやしたり、外出して公園で遊ばせたりするようなことは、全くしていないのだと思う。親も、働いて帰ってきて疲れている中、夕食の支度をしたりお風呂に入れたりするのに忙しくて、じっくり子供の顔を見て、話してあげることができないのだろう。

 赤ちゃんにとっては、ミルクと同じく、大人、特に母親との接触は、何にも増して大事な「精神的な」栄養である。たとえ忙しくても、寝る前に絵本を読んであげるとか、親子が触れ合う時間を大切にしなければならない。能面と言われた子供たちはそういう触れ合いがなく育ったものだから、喜怒哀楽の表現が全くできない、話し掛けても答えられないなどという表情の乏しい子供になるのは、ある意味では当たり前なのである。

 それどころか、先日の栃木県宇都宮市の認可外保育施設の虐待には驚いた。この保育所では、病児を放置して死亡させただけでなく、赤ちゃんが動き回らないように、何とまあ、毛布でくるんで縛っていたというのである。一般に赤ちゃんというのは、まず手足をバタバタさせてその動かす筋肉や神経を育てる。次に幼児となって動き回り、自らの運動神経と手足の筋肉を成長させるものだ。それを縛ってしまうと、そもそも運動どころか歩行もできない子供になってしまうのではないか。こんな非人道的なことがあってよいものかと、思ってしまった。

 日本は人口減少期に入っており、政府は労働力の確保の一環として、女性の社会進出に力を入れている。その結果、働くママが増え、その分、保育所が足りないと、各地方公共団体は大忙しで保育所の整備を進めている。その一方で、こんな悪辣な保育所が見逃されているのでは、次世代の子供を育てるどころではない。保育所の質も、しっかり確保する必要がある。

 ところで我々夫婦が、娘の子つまり我々にとっては初孫のお世話を引き受けて、もう3年近くになるが、我が家に来たばかりの、4歳の頃の初孫くんの様子を思い出す。それまで通っていたのが、日中は原則として外で遊ばせるタイプの英語系保育園だったためか、いやもうワイルドそのものの元気良さだった。能面どころか、喜怒哀楽の塊のような子だ。それは良いとしても、その反面、両親があまりに忙し過ぎて、生活習慣や礼儀を身に付けさせる躾が十分でなかった。それを高い料金を払ってベビーシッターにしてもらおうとしたのだが、子供の元気良さについて行くのが精一杯だったし、所詮は他人なので、親身になって躾などしてくれなかった。

 だから、我々の前に現れた初孫くんは、よく言えばダイヤモンドの原石のような存在、悪く言えばワイルドなモンキーのような状態であった。これを人間社会に適応させるために、家内とともに本当に大変な思いをした。そのときの方針は、危険なときや、本当にけしからぬときを除いて、ガミガミ言わない、叱らない。でも、同じことを繰り返し話し聞かせて、出来るようになるまで忍耐強く待つ。テレビ番組は、良いものだけを厳選して見せる。人並みの勉強はさせるが、その日の調子次第で、無理強いはしないなど、家内が実に上手くやってくれた。かくして、石の上にも3年というわけで、小学校1年生も半ばを過ぎた今では、めでたく人間社会の仲間入りをしてくれている。それどころか、いろいろと教えられたり、人情細やかに気を遣ってくれるようになった。

 我々は、初孫くんが可愛いし、将来まともな人間になってほしいし、また娘にも医者の仕事を続けてほしいから、子育てを手伝ってきた。問題は、そういう信頼できる子供の預け先がない場合である。都内や近郊に親がいないときなどは、公立や私立の保育園に頼らざるを得ない。いやその前に、保育園そのものに入れないというのが現実である。運良く保育園に入れたとしても、所詮は他人に我が子という大切な宝物を預けるわけであるから、特に認可外保育所などについては、事前にどんな保育をしているのか、よくよくその内容を確かめて、自衛するしかないのかもしれない。

 女性の社会進出は、大いに結構なことであるし、またそうしないと、これからの日本は衰退の一途をたどってしまう。それは、社会全体のことだけではなく、個人の幸福にも直結している。だから重要なのであるが、女性が働く職業がアルバイト程度のことではなく、会社の正社員や専門職になるにつれ、男性と同じ労働条件となる。そうすると、当然に疲労も蓄積するし、労働時間も延びる。午後5時に終わって保育園に迎えにいくなどということができなくなるから、子育てどころではない。

 そこを何とかできたとしたとしても、子供が熱でも出したら、どこも引き受けてもらえない。では、どうするかという話になってしまって、やむなく母親が退職を余儀なくされるというのが、世間でよくあることだ。これは、女性本人だけでなく、社会的な損失なのではないだろうか。もっとも、ちゃんとした職業を維持してキャリアを積み重ね、同時に子育てをしっかりと行うということは、気力と体力が伴わないとできない。実に大変なことである。世の中でキャリアウーマンと言われる女性たちは、いずれもこのような厳しい道をたどってきたのだろう。

 これからは、妻が職業を持つなら、夫も「我が事」として、妻以上に積極的に子育てをしないといけない時代である。そうでないと、我が子が能面になってしまう。でも、重要な仕事を任されている婿さんたちには、時間的にも体力的にも、それがなかなかできないのも、また現実である。その兼ね合いが難しい。初孫くんのお世話をして、つくづくそう思った。


【後日談】

 このように書いていたところ、最近の雑誌の記事が目に留まった。それによると、表情の乏しい子供が多くなった原因は、親がiPhoneなどのスマートフォンに夢中になり、子供の顔など見なくなったからだという。現に、そうした子供の出現は、スマートフォンが世の中に広まった時期と一致するというのである。いずれにせよ、幼児期の子供にとって、親や保育者と笑顔を交わして心と心のコミュニケーションを図ることは、何にも増して重要な精神的な栄養である。スマートフォンのせいか、あるいは共稼ぎで多忙なせいかどうかはともかくとして、今やそれすら与えられない世の中になっているとは、何とも嘆かわしいとしか言いようがない。昔のような大家族の方が、色々な大人が子供の面倒をみる余裕があるので、子供にとっては幸せであることは、間違いない。









(平成27年11月28日著、12月19日追記)
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