邯鄲の夢エッセイ



名古屋城




 名古屋城の本丸御殿( 写 真 )


 名古屋城の本丸御殿は、天守閣とともに昭和20年5月14日の空襲で焼失してしまった。国宝第1号だったのに、本当に惜しいことをした。このうち天守閣は、昭和34年10月に鉄筋コンクリート製で再建された。かつてのように金の鯱が置かれて、名古屋を代表する建築物として今に至ってい.る。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」の次に「尾張名古屋は城でもつ」といわれるゆえんだ。

 ところが、天守閣の足元にあった本丸御殿は、焼失して70年間も手付かずであった。しかし、ようやく最近になって復元が進められ、その第1期工事(玄関と表書院)が一昨年(2013年)6月に完成し、その部分が公開された。次いで第2期工事(対面所と上台所)が来年(2016年)6月に完成と聞いて、これは今のうちに是非とも見てこなければ、地元に帰ってからの話題に欠けると思い、東京から足を運んだのである。ちなみに第3期工事(上洛殿と黒木書院)は、2018年の完成予定である。

 いただいたパンフレットによると「かつて名古屋城の本丸には、天守閣とともに本丸御殿がありました。この本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作として、現在、国宝となっている京都二条城の二の丸御殿と並び、武家風書院造の双璧と言われた建物で、1930年(昭和5年)に城郭建築として国宝第1号に指定されました。しかし、大変残念なことに1945年(昭和20年)に空襲により天守閣とともに焼失してしまいました。戦後の復興に伴い、天守閣は1959年(昭和35年)に多くの市民の皆様の熱意に支えられ再建されましたが、本丸御殿は長年の間、その復元が待ち望まれていました。

 2009年(平成21年)1月、ようやく復元工事に着手しました。江戸時代文献や焼失前の正確な実測図、多くの古写真をもとに、御殿の入り口部分から工事を進めており、全体の完成は2018年(平成30年)の予定です。2013年(平成25年)5月、玄関と表書院の完成に伴い、第1期公開を開始しました。」
とのこと。

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 なお、建物は木造平屋建てこけら葺きである。復元時期は、将軍の上洛殿として使用され書院造りの意匠を持つ寛永期(1624年から1644年にかけて)とされている。実際には、その後、防火が考慮されて瓦葺きとなった。昭和になって撮られた写真とは異なるのは、そういう事情だそうだ。ところで、「こけら(柿)葺きの「こけら」というのは、杉などの木材を3mm程度の厚さに割った板です。これを1枚ずつ竹釘で打ち付け、屋根の下から上へ向かって少しずつ重ねます。薄い板を使うことで、独特の造形美を作り出すことができます。」という。

 この建物は書院造だそうだ。そもそも「書院造は、接客や儀式のための書院(居間)が建物の中心にあって、住む部屋とは別に設けられたものです。書院には、中国からの輸入品である陶磁器などの唐物や掛け軸を飾るため、床(とこ)、違棚、付書院などの『座敷飾』が付けられ、主人の座る部屋は他の部屋より一段高くなっている『上段之間』をつくるなど、格式や権威などを視覚的に表現しました。」とのこと。


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 建物正面のてっぺんには、瓦製の「獅子口」なるものがある。これは「屋根の棟飾りのひとつで、鬼瓦の一種です。本丸御殿の屋根のほとんどは『こけら葺き』ですが、棟の部分だけは瓦を使います。この棟の両端に獅子口を設置します。大きいもので100kg以上の重さ」があるそうだ。

 その下には唐草模様の「破風金具」がある。これは「八双(はっそう)と三つ葉葵紋、懸魚(げぎょ)などがあります。漆を塗った上に金箔を貼っています。」という。そのうちの懸魚(げぎょ)は「元は、建物の火除けの意味があったと言われています。最初に木を彫り形を作り、その後、漆塗りされ、周囲を金物で覆います。懸魚(げぎょ)の中心にあるものを『六葉(ろくよう)』という」そうだ。いずれも細かい手作業で、熱田神宮や伊勢神宮の修理や遷宮を引き受ける技能集団が名古屋にはあるから、出来る仕事である。


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 玄関は「本丸御殿を訪れた人がまず通され、取り次ぎを待つ建物です。玄関といえども、一之間、二之間の2部屋からなっており、一之間には床(とこ)もあります。四周の壁や襖には、来訪者を威圧するように、勇猛な虎や豹が描かれています。」。特に、正面の虎が尻尾を立てているのが、躍動感があるし、なるほど来訪者への威圧になるだろう。また、表書院の部屋では「雉子や花などの花鳥図で迎えます。」という。

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 ところで、本丸御殿の障壁画には、虎と豹の図柄が多い。しかも共存している。それどころか、まるで「つがい」のようだ。何か変だなと思ってお聞きすると「江戸時代の絵師は生きた虎を見たことがなくて、毛皮を見て想像して描いたに違いない。そして、虎と豹の区別がつかず、多分、豹を雌の虎と間違えたのではないか。」ということだった。

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 こうした絢爛豪華な障壁画は、狩野派の絵師によって描かれた。「1945年(昭和20年)の戦災で建物は焼失してしまいましたが、襖や杉戸など、取り外せるものは全て外して疎開していたため、貴重な財産は戦禍を免れることができました。」という。これを模写したのが、加藤純子氏及び愛知県立芸術大学日本画保存模写研究会の皆さんである。

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 「本丸御殿の復元にあたっては、狩野派の絵師たちが全身全霊を注いで描いた障壁画を400年前の鮮やかな色に蘇らせるため、1992年(平成4年)より、本格的な復元作業を実施しています。復元模写とは、描かれた当時の状態を再現するものです。原作を忠実に復元するため、当時に絵師たちが用いた技法や素材の分析を重ね、江戸時代の伝統的な画法を明らかにし、当時の絵師たちの感性や流麗な技の再生に挑戦しています。復元された本丸御殿には、復元模写した障壁画を取り付けます。」とされている。

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 障壁画を眺めていて、不思議なことに気がついた。隣の部屋との境に、何にも描かれていない金箔の襖が混じっているのだ。聞いてみると、名古屋城の本丸御殿には、戦時中、陸軍の参謀本部が置かれたことがある。その時に使い勝手が悪いということで、襖の一部が取り払われてしまった。だからそれがどういう意匠のものだったかわからなくなり、復元ができないので、取り敢えず金箔を貼っただけにしてあるそうだ。

 表書院は、正規の謁見に用いられた大広間に入る。上段之間、一之間、二之間、三之間、納戸之間の5部屋からなる。廊下の天井を見上げると、一見すると、長い棒が通っている変わった天井である。解説によると「本丸御殿の室内は、相手より自分の方が偉い人であることを示すために、様々なもので格の違いを見えるようにしています。天井もその一つです。玄関や廊下の天井は、竿縁(さおぶち)と呼ばれる部材の上に天井板をのせたものです。」という。ところが、表書院に入ると、天井は、もっと格の高い格天井(ごうてんじょう)である。これは「格式を重んじる部屋に使われるもので、格縁(ごうぶち)と呼ばれる部材で格子を作ったもの」という。


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 しかしこれで驚くのはまだ早い。表書院一之間はもっと格が上がって、格天井の格間(ごうま)の中にさらに細かく組んだ格子を入れた小組格天井となっていた。そして、将軍が座った表書院上段之間は、壁との間の接続部分を直角ではなくて折り上げた、もっと上の折上げ小組格天井となっていた。ちなみに京都の二条城の大広間は、二重折上格天井となっているらしい。

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 障壁画に近づいて写真を撮ることができる部屋があった。フラッシュや三脚を使わなけれは幾らでも撮ってよいそうだ。ちなみに、このように障壁画に近づける部屋は、定期的に変更しているという。ちなみにこの日は、玄関二之間だったが、玄関上段之間や一之間を近づいで見たかった。

 外に出てみると、二期工事部分が来年(2016年)6月の公開を目指して完成間近で、建物を覆う工事用の建物がクレーンで取り払われている最中だった。また、工事用の建物の中に入って、職人さん達の仕事振りを見せていただける構造になっている。入り口には、大工仕事で出た木っ端を持ち帰ることも出来るから面白い。


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 天守閣に登る。階段でもエレベーターでも上がれるようになっていて便利だが、味気ない。5階に上がって更に階段を上ると、そこが眺望階で、尾張平野が一望の下にある。名古屋駅、テレビ塔、名古屋ドーム、栄方面がわかる。それにしても、駅以外で高層ビルが増えたものだ。下の階に降りると、刀剣、甲冑、火縄銃の類いが展示してある。面白かったのは金の鯱で、それに跨ったりして写真を撮れるようにしてあるコーナーがあり、中国人観光客の人気を呼んでいた。彼らの感性にぴったり合っているようだ。


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 今の天守閣は、建てられてちょうど50年ほどだが、コンクリートの割れ目から進入した雨や空気でコンクリートの中性化が進む。そうすると鉄筋コンクリートの鉄筋が錆びてきて最後は爆裂し、周辺のコンクリート片を押し出す。そして建物に影響を及ぼすという経過をたどる。このまま行けば、あと40年しか持たないという。加えて、耐震診断をしたところ非常に脆弱で、震度6で倒壊の危険があるそうだ。そういうわけで、今の河村たかし市長が音頭をとって、この際、天守閣を本丸御殿のように昔通りに木造で復元してはどうかという話が持ち上がっているそうだ。

 天守閣を離れて外に出た。石垣の一つ一つには、これを持ってきて積んだ藩の紋章が入っている。空襲の時の石垣そのものを使っているから、熱で傷んでいて、ところどころにまだ黒い煤の痕がある。今の天守閣を鉄筋コンクリートで再建した時に、この石垣には荷重を掛けられないので、コンクリート製のパイルを打ち込み、その上に天守閣を載せている。ただ、この石垣はもう限界に来ており、天守閣を取り巻く石垣は、本来なら下向きの優雅な曲線を描くところ、その逆に途中で膨らんでいる部分が出てきた。だから、いつまで持つか、心配だそうだ。

 本丸部分には幾つか櫓がある。そのうちの一つの清洲櫓は、清洲城の木材をそのまま持ってきたものだそうだ。100年おきくらいに改修しているとのこと。櫓には、もちろん徳川家の葵の紋が付けられている。ところが、名古屋城は戦前の一時、宮内省の管轄になった時があり、その時に改修された櫓には、皇室の菊の紋章が付けられているそうな。

 ということで、本丸御殿から始まって、色々、トレビア的な知識を教えていただいた。こういう文化財は、長い目で見て、次代に伝えていかなければならないものだと考えつつ、名古屋城をあとにした。今晩は、櫃まぶしでも食べて、帰京しよう。





(平成27年12月23日著)
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