悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



徳川園の龍仙湖中の亀




1.私は、父が全国を股にかけた転勤族だったものだから、小学校は、神戸 → 敦賀 → 福井と、中学校は、福井 → 名古屋と、そして高校だけは父は途中で転勤したものの私は引き続き名古屋に残るという道を選んだ。かくして、親子で全国をあちこち転々とする生活を送った。ちなみに、父はその後、北海道や北陸で仕事をし、ようやくそこで終の住処を構えた。ご苦労様なことだが、これが高度成長期を支えた企業戦士の姿であった。その後、私は、全国を転々とする生活にはこりごりだったので、京都を経てからは、それ以来、東京にほぼ定住する生活となった。「ほぼ」というのは、外国に行っていた期間もあったためであるが、それはさておき、東京での生活は40年にも及ぶ。そうしてはじめて、いささか大袈裟かもしれないが、東京が自分の故郷だと思って、ようやく心の拠り所のようなものを得たというわけである。

 そうは言っても、東京に定住する生活になる前、とりわけ幼少青年期に、2ないし3年ずつぐらいのコマ切れの人生を過ごした全国各地の土地も、最近はこれまた心から「なつかしい」と思うようになった。これらの土地は、文字通り、色々な意味で私を育ててくれた。私の人生が始まったばかりの時に過ごした神戸、と同時に、ここは大病をして健康を害した地でもある。それから標準語を話すというので悪童たちにいじめられもした敦賀、やっと健康を取り戻した福井、私が体も心も成長し体力と知力に自信をつけて青雲の志を抱いた名古屋など、それぞれに思い出がある。これまで、神戸なつかしの旅北陸なつかしの旅に行ったので、今回は、高校の同期会のついでに、名古屋の旧居跡や母校がどうなっているのかと駆け足で見て来た。いわば、名古屋なつかしの旅である。

2.まずは、中学校から高校にかけて住んでいた千種区菊坂町の旧居である。そこは、池下駅と覚王山駅との中間にある。わずかに池下駅の方が近いので、そこで地下鉄東山線を降りて広小路通りを東に歩き、今は消防団詰所の敷地になっている所を南に入っていく。通りから斜めに伸びる小道だが、その小道が始まる所には、昔、甘い物を売っていた雑貨屋さんがあったと思ったら、それらしき場所に今でも古い建物が建っていた。その外観は、私のいた50数年前の記憶と、そう変わらない。ああ、まさにここなんだと懐かしくなる。そうすると、私が元住んでいた一軒家は、この小道を入って右手に分かれる更に小さい道の、数軒目の右手にあったっけ・・・と思ってその道を入って行ったところ、そこには、その名も「きくさかマンション」という建物があった。たぶん、ここに違いないと確信した。今や人様のものとなっているマンションを覗き込むこともできないので、外見だけを写真に収めて、すぐにその場を離れた。次に私の通学路は、細いながらもかなりの急坂を下っていくものだったと思い出した。すると、やはりその道が現存していた。そこを下って行くと、椙山女学園があったから、間違いない。毎朝、家を出てここを右手に曲がって、私の中学校に向かったものだ。


昔、甘い物を売っていた雑貨屋さん


私が元住んでいた一軒家があったと思われる場所


私の通学路が始まるかなりの急坂


 それは、城山中学校というが、団塊の世代の最盛期には、全校生徒数が4,200人という日本一のマンモス校だった。ところが、私の入学したときには、分校して生徒の一部が別の中学校に行ったこともあって、生徒数はかなり減った。それでも、一学級が55人、それが17クラスもあったから、一学年が900人を越す混雑ぶりであった。休み時間になると、あの狭い校庭に、黒い詰襟やセーラー服の制服を着た男女の生徒がそこら中にいたものだ。あの頃は、白いゴムボールを使ったハンドテニスが流行っていた。そういうことを思い出しながら歩いていくうちに、中学校前に着いた。

城山中学校


かつてそこにあったはずの川は、今や埋められて暗渠になってしまった


 記憶の中では校門のすぐ左手に川があり、校舎がその川沿いに建っていた。現在の校舎の建物の配置は昔と同じだし、その脇には、校舎に沿って桜並木があるから、これも昔のままだ。ところが、かつてそこにあったはずの川は、今や埋められて暗渠になってしまっている。あの川のせせらぎの音が良かったのに、これには、がっかりだ。でも、校舎を眺めていると、国語の渡辺先生、社会の神田先生など恩師の顔が目に浮かぶ。同級生の顔も何人か思い出すが、何しろ50年以上も前のことで、東京で付き合いのある友達のほかは、かなりあやふやなのが残念である。これというのも、卒業以来、私は、糸の切れた凧のようになっているからだろう。

 一度、この城山中学にメールを送り、同窓会の幹事さん役の方の名前を問い合わせたことがある。ところが、同窓会がしっかりしている私の高校の場合と違って、中学は幹事の名前しか知らないようで、連絡するすべがなかった。ただ、中学校時代に私が書いた修学旅行の写真と文章の記録が手元にあるので、僅かにそれを見ながら過ぎし日のことを思い、同級生の皆さんの無事を祈るのみである。

3.中学のある覚王山から、タクシーを拾って、旭丘高校に向かった。広小路通りを今池に出て、そこから北に進む。この間を歩いたりすると45分は優にかかると思うので、これが正解だ。高校の正門に降ろしてもらった。高校の外観は、50年前に私が通っていた頃と、あまり変わっていない。聞くところによると、旧校舎を建て替えるときに、名古屋市の現在の河村たかし市長などOBによる強力な反対運動が起こり、結局、旧校舎の雰囲気を残しつつ、建て替えられたそうだ。その辺りの経緯は、私は名古屋に住んでいなかったので、コメントするほどの知識がない。


旭丘高校


かつての徳川美術館の入り口


徳川美術館の昔ながらの塀


 さて、高校から、かつて美術の時間によく行って牡丹の花を描いた徳川美術館に向かった。途中、立派な白い高層マンションがある。それを過ぎて鉄道を渡ると、そこが美術館である。塀の感じは、昔と同じだが、入り口が異なって、ずーっと向こうに回らなければならない。結局、半周して西の黒門口から入って行った。こちらには、2年前の再整備による開園直後に友人と来たことがあるが、その時と比べて、木々がそれなりに育ち、池の水も風景に馴染んできた。龍仙湖、西湖堤、虎の尾、虎仙橋、大曽根の瀧、観仙楼など、どこをとっても美しく仕上がっている。中でも、龍仙湖の中にある松を背負った亀の島が気に入った。その辺りでちょうど、結婚式の新郎新婦が記念写真を撮っていた。その日は秋晴れだったから、良い日を選んだものだ。2人の一生の記念になるだろう。

徳川美術館の黒門口


徳川美術館の徳川園


徳川美術館の徳川園


徳川美術館の徳川園


徳川美術館の徳川園


徳川美術館の徳川園


徳川美術館の徳川園


徳川美術館の徳川園


徳川美術館の徳川園


3.その日の夕方から、名古屋駅前のホテルで、高校の私の期の同期会が開かれた。一学年の生徒定数550人中、約100人が集まった。配られた紙に書かれたキャッチフレーズは、「旭丘高校時代から50年、輝けるシニア人生を謳歌しよう」というものだ。もう全員が60歳代の後半なので、仕事を辞めてしまった人も多い、だから、「シニア人生を謳歌」という言葉になったのだろう。卒業時のクラス順に別れて、テーブルに座る。東京在住組はよく知っているが、名古屋在住組は、50年ぶりに会う人ばかりだ。特に男性は髪の毛が後退したり禿頭になってしまっている人が多くて、最初は判別ができない。しかし、入るときにもらったカードに、名前と卒業写真からとったその人の50年前の写真が貼り付けてあるので、ああ、あの人かとわかる。それから、話しだすと、昔の癖や笑い顔がそのまま現れて、すっかり気分は50年前に戻る。

 さて、同期会が始まった。最初に今日までの30人の物故者に黙祷を捧げる。参加していただいた2人の先生による挨拶と乾杯の後、全員が一人一人、持ち時間30秒ということで挨拶をする。医者の人、法曹の人、県庁や市役所に勤めていた人、地元のトヨタ自動車関係でもう退職した人、母校の校長や教頭になった人、東京で商社や銀行に就職して退職し今は第二の人生を楽しんでいる人たちなど、様々である。確かに、皆それなりの経歴を築き上げ、充実した人生を送ってきたようだ。だから、30秒ではとても足りず、時には数分も喋る人がいて、司会進行役は大変だが、それもご愛嬌だ。私などはそう思うのだけど、挨拶をする人の中にはただ一人だけだったが変わり者がいて、「もう、こんな話はやめましょうよ」などと言う人がいたから、違和感を感じた。案の定、あちこちから「あいつは昔から全く変わらないなぁ」という声が聞こえてくる。確かに、同窓会で参加者各人に喋らせなくなったら、一体、何をするんだという気がする。

 とりわけ卒業同期の同期会というのは、皆、卒業時という出発点は同じだったのに、人生の色々な局面で選択を繰り返すうちに、それぞれ全く異なる道を歩んできたという特徴がある。そういう意味では、良きにつけ悪きにつけ、人生の「IF」、つまり「もし自分があの人のような道を歩んでいたならば、ああいう風になっていたのだろう」ということを、他人の人生を通じて疑似体験ができる場なのである。家内に言わせれば、「同級生は、皆さんがまるで自分の分身のようなものだから、限りなく愛おしい。」ということになるが、まさにその通りだと思う。なお、名古屋在住の同級生のかなりの数の人が、東京での私の仕事ぶりや身の処し方などについて、よくご存じだったのにはびっくりした。もう50年間も会っていないのに、それでも私の名前や顔を覚えていてくれている。のみならず、新聞やテレビの報道を通じて個々のエピソードまでよく知っていて、しかも大いに励ましてくれたのには、ひたすら感激した。

 同級生のおじさんバンドの演奏の後、B女史の指揮の下に全員で校歌を歌い、お開きとなった。校歌は、私は50年ぶりだったが、未だに歌えたから、我ながら、いささか驚いたほどである。高校の教育の力というものは、誠にすごいものだ。かくして一次会はお開きになり、隣の部屋で二次会になった。友達が入れ替わり立ち代りやってきたり、こちらから行ったりと、長い間のブランクを埋めるように、近況の話となる。そうすると、いつの間にか実年齢を忘れて、心は50年前の高校生に戻って談笑しているから、不思議なものだ。だから、同級生は皆、まさに自分の分身なのである。次回は、東京オリンピックの年、つまり4年後に集まろうということになっている。それまで、お互いに、「まずは健康でいよう。次に、人生を謳歌しよう。」といって、名残を惜しみながら、お開きとなった。





(平成28年11月6日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)





悠々人生・邯鄲の夢





邯鄲の夢エッセイ

(c) Yama san 2016, All rights reserved