悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



飛騨の里




 白川郷と飛騨への旅( 写 真 )は、こちらから。


 お正月の三が日を過ぎた今、岐阜県の白川郷に来ている。名古屋駅や富山県新高岡駅からだと2時間半程度で着く。そのついでに高山と馬籠宿にも立ち寄りたいが、そのための公共交通機関の乗り継ぎや宿の予約を考えたりすると面倒なので、冬景色を売り物にするツアーで行くことにした。しかしいざ現地に着いてみたら、白い雪の帽子を被った合掌造りの白川郷をイメージして行ったのに、雪はほとんどなく、それどころか春日和のようにポカポカして暖かい。わざわざ二重になったダウンコートを着て行ったのに、まあその暑いことといったらない。結局、コートを手に持ち、カメラを首に掛け、シャツ1枚で歩き回った。

白川郷荻町地区の観光協会地図


 ここ白川郷の萩町地区は、五箇山とともにユネスコの世界遺産に登録されている合掌造りの集落で、今も現に住民の方々が住んで生活しておられるところに、その言うに言われぬ価値がある。実は、私は平成14年7月29日に、富山県側から両親とともに訪れている。それからもう、15年近くも経った。父は既に亡くなったが、当時一緒に、この集落を汗をかきながら見て回ったし、近くの「ゆー楽」という眺めの良い温泉に入って寛いだのは、今でも懐かしい思い出である。

岐阜県の白川郷


 それはともかく、ツアーバスがこちらに着いて、「ここでの時間は75分」と言われたのには、参った。そんな短い時間では、ゆっくり写真を撮るどころではない。地図をもらったので、それを元に行程を考えた。すると、合掌造り民家園という野外博物館がある。15棟の建物があり、うち9棟が岐阜県重要文化財指定建造物である。これらを全て回ると、30分はかかるというので、それだと時間がない。民家園内の見学は、一つ、二つにとどめよう。それが終わったら直ぐに出て、国の重要文化財である和田家を見、明禅寺を見学し、その間にある長瀬家と神田家には、時間があったら立ち寄ろうと思った。

岐阜県の白川郷


 合掌造り民家園は、都合の良いことに、バスが停まった駐車場のすぐ右手にあるから、そこへ入った。ところが庄屋さんだった中野義盛家を見て、「これは生活感がないなぁ」と感じ、「それならやはりまだ生活しておられる家を見学させてもらった方がいい。」と思い、早々に退出して和田家に向かった。庄川にかかる吊り橋もどきの「であい橋」を渡り、対岸に着いて本通りを左に曲がる。両脇には土産物屋その他のお店があるが、目をくれずにともかく先を急ぎ、やがて和田家に着いた。白川郷観光協会によれば、「荻町合掌集落で最大規模を誇る合掌造りです。江戸期に名主や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝の取引によって栄えました。現在も住居として活用しつつ、1階と2階部分を公開しています。」という。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


 どんな家なのだろうと楽しみにしながら入場する。まず太くて黒光りする板壁の見事さに感心した。部屋の中心にある囲炉裡は、これを使って合掌造り全体を「燻」さないと、虫がつくらしい。その大事な囲炉裡の一辺が案外短かったので、意外だった。階段は急坂だったが、登って行って2階に着くと、部屋は、非常に広い。そこには蚕棚、繭かき、繰り糸器などが並んでいて、養蚕が盛んだった昔の時代が偲ばれる。壁は、合掌造りだからもちろん斜めで、太く黒光りする見事な柱に、縄が巻き付けてある。更に階段を登って3階を覗かせてもらったら、そこは当然、三角形の天井の部屋になっていた。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷。道端の溝に大きな鯉


岐阜県の白川郷。こちこちに凍った立ち木


 時間がないので、のんびりとしておられない。和田家を出て、その前のスイレン池を見て、神田家と長瀬家を外から見学した。その辺りの道端の溝に大きな鯉がいて、また、水を吹き掛けてコチコチに凍らせた木があった。ツララが垂れ下がっている。雪の塊も置いてあって、中国語を話す一行がそれに触って喜んでいる。通り過ぎて、明禅寺に至った。庫裏が合掌造りで、本堂と鐘楼門も同じような茅葺きだ。それらを撮っていたら、タイムアップとなり、駐車場に戻らざるを得なかった。なお、時間があれば、集落全体を眺められる小高い展望台に行きたかったが、冬季は閉鎖されているとのこと。桜の季節には、良さそうだ。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷。道端の溝に大きな鯉


岐阜県の白川郷。こちこちに凍った立ち木


 さて、次に連れて行かれたのは、「飛騨の里&民族村」である。そのHPによれば、「飛騨高山の集落博物館『飛騨の里』には合掌造りをはじめとした飛騨の古い貴重な民家が移築復元され、なつかしい農山村の暮らしや昔から飛騨に伝わる季節の行事を再現し、未来へ伝えています。」とのことである。もう、こんなに暗くなってきているのにと思ったが、ライトアップがされると、風景が一変した。池の手前に観光客がいて、甘酒などをいただいている。その手前には、篝火が焚かれ、対岸の合掌造りの家屋にグリーンのライトが当たって、実に綺麗だ。その光景が手前の池にまた映り、しかもそれに林の木々が視界の中へと入って、誠に素晴らしい。なるほど、これだけを目当てに観光客が来るわけだと、よくわかった。

飛騨の里


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飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


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高山まつりの森


 それから、「高山まつりの森」に移動して、飛騨の和牛のすき焼きを食べた。なかなか美味しかったが、それにしても和牛のお肉がお代わり自由で、野菜と卵のお代わりは有料というのは、理解しがたいものだった。東京だと逆なのにと思ったりもしたが、こちらでは、野菜より肉の方が余っているのかもしれない。その晩は、近くの「ホテルアソシア高山リゾート」というところに泊まった。建物や浴室は古いが、清潔だし、何よりも、日本のホテルにしては客室が少し広いのがいい。大浴場は、それなりに普通で、可もなし不可もなし。ただし、部屋に使い捨てスリッパがないのは、気に入らない。温泉に浸かって温まり、気持ち良く寝たと思ったら、明け方、寒くて目が覚めた。なんと、暖房が止まっている。寝るときには、点いているかどうかちゃんと確認して寝たのに、これはどうしたことかと思いつつ、再び点けて、朝寝をした。後刻、バスのお客さん仲間に聞いてみたら、自分の部屋の暖房は大丈夫だったというので、ホテル側が意図的に消したのではなく、どうやら機械の不具合らしい。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 翌朝はバスで高山市内に入り、まず向かったのは、国の史跡「高山陣屋」である。高山は江戸期には天領だったので、要はその代官屋敷というわけだ。いただいたパンフレット等によれば、「元禄5年(1692)、江戸幕府は飛騨を幕府直轄領としました。その理由は、豊富な山林資源(木材)と地下資源(金(きん)・銀・銅・鉛)であったと言われています。それ以来、明治維新に至るまでの177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代(代官)役宅・御蔵等を総称して陣屋と呼びます。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。現在の姿は、岐阜県教育委員会が、江戸時代の高山陣屋の姿がほぼ再現されるよう、修復・復元したもの」で、「幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で、当時の建物が残っているのはこの高山陣屋だけです。」とのこと。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 早速、高山陣屋内を見学する。天保3年に建てられた表門をくぐって玄関之間に入ると、その壁いある青海波の模様が目にとまる。文化13年(1816)の改築以来、変わっていないそうだ。廊下を歩いて大広間に行くと、書院造りで、「義」と「孝」の掛け軸が下がっている。なかなか良い。これはもう、論語の世界だ。「忠」は見当たらなかったが、別に取っておいてあるのかもしれない。そこから眺める庭には、松の木、サツキ、飛び石がバランスよく並んでいる。簡素をもって、旨としているようだ。吟味所・お白州には、罪人を入れた籠が置かれていて、生々しい。台所では、竃に大きな釜が3つ、デンと置かれていて、なかなか迫力があったし、蔵には、年貢米の俵が、山と積まれていた。総じて、私には全く違和感なく、すぐにでもここに住み、執務ができそうである。200〜300年の時の違いはあれ、やっていることは、案外同じなのかもしれない。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 高山では、たった60分しか時間が与えられていないので、あまりゆっくりはしておられない。陣屋を出て、三町伝統的建造物群保存地区を散策し、手当たり次第に写真を撮りまくる。道は狭く、家々は京都のような黒い細い格子を基調にして、両脇に並んでいる。なるほど、江戸時代は、こういう雰囲気だったのかと思う。そうやって上三之町と上二之町を行ったり来たりしているうちに、タイムアップとなってしまった。高山祭りの山車会館に行きたかったが、とんでもない。テレビによると、高山祭りの山車では、人形をたくさんの糸で操る妙技が見られるので、次回の楽しみとしよう。それにしても、昨日の白川郷と違って高山は寒い。毛糸の帽子を被っていても、頭の芯まで寒くてたまらない。手には手袋をしないと、かじかんでくるから困る。気温は、0度だから、当然か。暖かいバスに戻って、ホッとした。

雪のない「雪見ローカル列車」


 次に高山駅から「雪見ローカル列車」に乗るという。高山本線(と言っても、単線だが)、北は富山、南は岐阜駅経由で名古屋に繋がっている。路線図を眺めていると、下呂温泉があるから「下呂駅」というのはわかるが、「上呂駅」というのがあるとは知らなかった。今回は、そちらに向かう岐阜方面に2駅走った久々野駅(くぐの)まで乗るだけだ。電車は出発した。ところが悲しいかな、「雪見」とはほど遠く、雪が全くない。何とも間の抜けた企画だった。

 久々野駅から、舞台峠というところでお昼の休憩となった。「炊きたての日本一の米 銀の朏(みかずき)」を食べる」ということだったが、このお米は本当に美味しかった。ついお土産に、新米・特別栽培米(つまり、農薬使用量が半分)の「銀の朏」を1キロ、1,050円を買ってしまった。私は普段から、お米を買うようなことはまずないので、これが高いのかどうなのかは、よくわからない。そこを出て、これから「明治座」に行くという。東京の日本橋にある明治座が、こんな鄙びたところにあるなんて、あり得ない。よくよく聞いてみると、「かしも明治座」というらしい。


加子母(かしも)明治座


加子母(かしも)明治座


 不得要領のまま、バスはますます田園風景そのものの中に分け入っていく。こんな山の中に、お芝居の建物があるとは思えないと考えていたところに、バスが止まった。そこで見たものは、幟が1本立つ、要するに芝居小屋である。とは、岐阜県中津川市にあって江戸時代から明治時代にかけ、ここ美濃や飛騨では、地元の人々による地芝居が盛んに行われていたそうな。そのために、数多くの芝居小屋が建てられ、この加子母(かしも)明治座もその一つだそうだ。岐阜県の観光HPによると、「今から100年以上も前に加子母の人々によって作られ、今も脈々と守られている劇場です。間口約20m、奥行き約25m。建設当時のままの姿を保つこの劇場は、今もなお現役。毎年9月、加子母歌舞伎保存会による公演会をはじめ、クラシックコンサート、落語会など、様々な催しを行っています。明治27年に建てられた芝居小屋は、常時開館、回り舞台や奈落の見学も自由。案内人が常駐して、館内の説明もしてもらえます。」とのこと。

加子母(かしも)明治座


加子母(かしも)明治座


 中に入ると、地元のおじさんが、それこそ一生懸命に説明してくれた。「村の人が総出でこれを作り、維持してきた。加子母村は檜の産地で、伊勢の神宮備林がある。姫路城改築の際は、ここから樹齢800年の檜を切り出したが、途中で落として折れてしまったのをそのまま運んで、接木して使っている。この明治座の屋根は板葺きであるが、あと20年もすればまた葺き替えの時期が来る。しかし、そのときまで我々が生きているとは限らないので、少しでも費用の足しに1枚500円を出してもらって、屋根を葺くためにとっておきたい。」というので、私も寄付して、自分の住所と名前を書いてきた。また、おじさんの説明が終わってから、舞台裏を見学させていただいた。役者の楽屋、そこに描かれた役者の「落し書き」、小道具部屋(素朴な手作りの小道具)、舞台真下の廻り舞台の仕掛けなど、こんなところまで見せてくれるのというところまで見て、花道に開いた穴(スッポン)から出て来た。いやあ、実に面白かった。村の皆さんが、大切にしている理由がわかったような気がした。なお、中村勘三郎さんが、こちらを贔屓にしてくれるようだ。四国の金比羅さんの金丸座を思い出した。

 思うに、この芝居小屋ができた明治時代には、もちろん今のようにテレビがあるわけではない。その一方で自然環境は実に厳しい。唯一の娯楽といえば、年に一度のお祭りと、地元の人たちによる地芝居や巡業によって回ってくる買芝居だった。村の人々は、それをさぞかし楽しみにしていたのだろう。だからこそ、皆で力を合わせて、この芝居小屋を作ったに違いない。天井にはこの地、加子母の特産である大きな檜木が使われている。そのおかげで、柱がないから客席には死角がなく、末席からでも舞台を隅から隅まで見られる。舞台の娘引き幕(緞帳)に目をやると、なんと近在の主婦の手縫いだという。よくよく見れば、模様は、各家の屋号の模様と主婦の名前ではないか。小道具部屋にあった素人作成の生首といい、手作り感が満載の芝居小屋である。感激した。この先も末永く、地域の皆さんの手で、この芝居小屋を守って行っていただきたいものである。


馬籠宿


馬籠宿


 次は、馬籠宿だという。私は、大学4年生のときに日本縦断旅行をしたが、そのとき以来だから、ほぼ半世紀ぶりの再訪となる。登り坂の登り口には水車があり、その近くの旅館に泊まった。そのときの写真も残っている。果たして同じ旅館は、まだそこにあるのだろうかと期待が高まる。バスは、その坂の上に止まった。そこから下りていくらしい。間の悪いことに、雨が降ってきた。加えて風も、かなり強く吹いてくる。折り畳み傘を開いて、風に抗おうとしたが、なんと、風に負けて、キノコ状になってしまった。「骨組みが結構しっかりしたものなのに、これはどうしたことか、こんな筈はない。」と思って無理に開いたところ、開くには開いたものの、元々壊れかけていた部分が、完全に駄目になった。しかし、閉まらないだけで、とりあえずはそれで雨を凌げるから、そのままバスの一行とともに馬籠宿の坂を下りて行った。次は馬籠観光協会の散策マップの一部であるが、(1)がバスを降りたところで、石畳の下り坂は、ここから始まる。

馬籠宿散策マップ


 降りしきる雨風の中、ツアーガイドさんを先頭に皆でこの坂を降りていったが、私は写真を撮るのに夢中で、バス一行を見失ってしまった。それが(2)地点だ。これは困った。バスとの待ち合わせ場所を聞いていなかったではないかと思ったが、そのまま急ぎ足で下って行って坂下の土産物屋でバスを発見して事なきを得た。それが、(5)地点である。後からガイドさんに、「何処にいたの。」と聞くと、皆で(3)のうさぎやに入ったらしい。私は坂をどんどん下って行ったので、のんびり見ている暇はなかったが、学生時代に宿泊した宿屋は、まだ覚えている。それが、(4)地点の「坂の家」である(ただ、今は食事の提供だけで、民宿は営んでいないようだ)。隣の水車小屋とともに、実に懐かしい。それにしても、強い雨風の中、下り坂ですべって転ばなくてよかった。

大雪の中央自動車道


 さて、馬籠宿を出るとき、雨が雪に変わった。それが結構な降りになり、あれよあれよという間に一面が雪景色となった。飯田で最後の土産物屋さんに立ち寄ったときには、5センチほどの積雪だ。バスの運転手さんが、中央自動車道が通行止めにならなければいいがと気を揉む。もう午後5時近くで、まだこんなところにいるようでは、いつ東京にたどり着くかもわからない。ともあれ、中央道をひたすら走った。途中、諏訪湖インターで、夕食のお弁当を積み込んだ。来るときは雪が全くなかった諏訪湖の周囲が真っ白だ。雪が全くなかったのが、つい昨日のこととは思えない。その辺りから、笹子トンネルを抜けるまで、最高速度が50キロに制限され、しかもかなりの渋滞だ。途中で2件の事故を見た。いずれも軽乗用車で、雪の塊に突っ込んで、身動きが取れない。なるほど、車体が軽くて小さいとこうなるのか。その一方、渋滞の中で時間は刻々と経っていく。大月を過ぎた辺りから、やっと走り出した。ようやく、新宿に到着したのは、午後10時を回っていた。最後は、いささか疲れたが、あちこちを見て回ることができたので、今回のツアーはとても面白かった。





(平成29年1月8日著)
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