悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



吉田神社の手筒花火




目 
愛知県の東三河
二川宿本陣資料館・ひな祭り
豊橋カレーうどん
安久美神戸神明社の奇祭「鬼祭り」
豊橋聖ハリトリス教会
豊橋市役所展望室・豊橋公会堂
吉田神社の手筒花火
御油の松並木
豊川稲荷
10 ヤマサのちくわ
11 終わりに当たって


 東三河への旅( 写 真 )は、こちらから。


.愛知県の東三河

 2月11日、東京駅八重洲北口に朝早く集まって、いよいよ「東三河いいじゃんツアー」が始まった。午前8時33分のひかりに乗ると、新横浜駅を出たらもう次の停車駅は豊橋駅だ。途中で見た富士山には雪が被り、非常に美しかった。1時間23分で、もう豊橋駅に到着し、バスに乗り込む。すると、愛知県庁東三河総局(東三河県庁)の課長さんたちが待っておられて、趣旨を説明された。何とこれは、ふるさと創生事業の一環として行っているそうだ。内容が実に盛りだくさんだったことから、旅行を終えてこうして振り返ってみると、我々が拠出した旅行費用は私の見るところおそらく3分の1程度で、残りは国と愛知県が折半したという。思わぬところで、税金を使わせてしまった。


新幹線車中から見た富士山


 東三河の人口は、2008年の77万人をピークに緩やかに減少しつつある。今ではたぶん75万人を切っており、2040年にはおそらく66万人程度になると推計されている。そういう中、東京圏在住の人に東三河を旅してその良さを知ってもらい、ひいては自分で来て定住してもらうという心づもりだそうだ。

 実は私も名古屋、つまり尾張の出身である。ところが、同じ愛知県とはいえ、西の尾張と東の三河とは全く違う。とりわけ東三河には、学生時代に登った鳳来寺山を除いて、来たことがなかった。こちらに来て分かったのだが、だいたい言葉が尾張とは全然違っている。尾張弁は、河村たかし市長のような「ニャー」とか「キャー」とかいう発音が耳に残る話し方だが、この三河は、むしろ静岡弁に近い喋り方をする。


2.二川宿本陣資料館とひな祭り

 最初に訪れたのが、豊橋市・二川宿本陣資料館である。その主任学芸員である和田実さんからご案内いただいた。先の東京での「東三河いいじゃんセミナー」で講演をされたので、我々も大体の知識はあるから、今日はその確認のようなものだ。東海道53次の中、江戸から数えて33番目の二川宿は、本陣が一つしかない小さな宿場である。「本陣(大名の宿)、旅籠屋(庶民の宿)、商家の3ヶ所を同時に見学できる日本で唯一の宿場町」とのことで、今はちょうど、ひな祭りが行われていた。


本陣の殿さまの部屋


 和田さんの細かい話が記憶に残る。たとえば、大名行列は1日40キロメートルという強行軍も珍しくないそうで、真夜中に着いて早朝に出立するということもあり、そういう場合は宿の人は寝ずにお世話をしたという。中には宿代や特に食事代を支払わずに行ってしまう大名行列があって、不足の分につき追加の請求書を作って、次の宿場まで追いかけて支払ってもらったそうだ。あるいは、支払いの悪い大名がいて、宿屋側がその宿帳に文句を書き連ねているとのこと。いつの時代も人間くさいものだと、笑ってしまった。

御殿飾りの雛人形


つるし飾り


 二川宿のひな祭りは、江戸時代からのものも含めて、二川宿の旧家に伝来した内裏雛や御殿飾り、つるし飾りなどを展示するもので、実に豪華で素晴らしい。特に驚いたのが、「御殿飾り」で、お雛様とお内裏様が御殿の中に入っている。この御殿というのは、まるでタイのお寺の派手派手しい装飾を思い起こさせるような豪華絢爛たるものであるが、そのほかは普通の段飾りとなっている。庶民の子供が遊んだ土人形のお雛様があったし、それに男の子も、学問の神様である天神様を祭って、3月に女の子と一緒にひな祭りを祝い、加えて5月にも端午の節句を祝ったそうだ。

つるし飾り


旅籠屋(庶民の宿)


 また、様々な端切れで作った「つるし飾り」も、いつまでも見ていたい気がするほど魅力的である。ただし、写真を撮るには苦労する。全体を撮ってもただ様々な色彩だけが目立つだけで、個々のつるし飾りの造形の美しさがわからない。その反面、一つ一つを撮ろうとすると、全体の美のバランスが撮れないというジレンマがある。

土蔵を覆う板塀にピンが刺さっている


 「商家 駒屋」では、妙なことに感心してしまった。それは、土蔵を覆う板塀に、ピンが刺さっていることである。その理由を聞くと、これは、土蔵を覆う漆喰を守るためのもので、漆喰壁は火事があっても、中のものが焼けないように守る。しかし、雨風に弱いことから、普段は板塀で守らなければならない。ところが火事のときは、板塀だと燃えてしまう。それだと防火壁の役割を果たさないので、このピンを取り付け、いざ火事が迫ってきたときは、ピンを外すと板塀はバラバラと落ちるという仕掛けになっているそうだ。


3.豊橋カレーうどん

 ご当地グルメで、豊橋カレーうどんを味わってほしいというので、ありがたくいただいた。ざっと見たところ、カシワ入りの普通のカレーうどんで、ウズラ玉子が3個も入っている以外は何の変哲もないカレーうどんである。同時に配られた食べ方の第1条では、「器の底へ箸をさして混ぜないように」とされている。ネギを掛けて普通に食べ始めた。うどんがしっかりして少し歯応えがあるから、私の好みだ。


豊橋カレーうどん


 パクパク食べていく。すり鉢状の器にたっぷりとあったカレーのいわば「水面」がどんどん下がっていった。何も出て来ないと思っていたところに、やっと鉱脈を探し当てた。ご飯だ。カレーの層との間に何か入っていると思ったら、とろろである。なるほど、これがカレーとご飯が混ざるのを防ぐ役割を果たしているらしい。さて、これも食べてと・・・ああ、お腹がいっぱいになった。美味しかったが、ダイエット中の身には、いささかよろしくなかったかもしれない。

豊橋カレーうどんの食べ方


 豊橋カレーうどんは、10年ほど前に豊橋観光協会の方が発案されて、これまでに約140万食が出たという。その発案したご本人に「どうやって考えついたのですか。」とお聞きしたら、「カレーうどんを食べていて、カレーが残るともったいないと思っていたので、ある日、突然、思い付いたのよ。」ということだった。なるほど、良いアイデアというものは、何でもないときに考え付くものらしい。


4.安久美神戸神明社の奇祭「鬼祭り」

 安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)の宗教行事「鬼祭り」は、およそ1,000年前から続く神事だそうだ。赤鬼と天狗の「からかい」と称して、ゆったりとした動きで1時間以上ものんびりとやっていると思ったら、突然、赤鬼が走り出し、同時にあちこちで叫び声がしたかと思うと見物人目掛けて物体が空中を飛び、白い粉が一面に投げつけられて、場面が急転回した。参道全体に白煙が立ち、ひどい人は髪の毛から爪先まで真っ白になってしまった。地元の人たちは先を争うようにして袋を拾い、進んで粉を浴びて白くなろうとするが、何も知らない我々観光客は、ただひたすら逃げ惑うだけだった。ああ、びっくりした。「これこそ、天下の奇祭なり」といわれるだけのことはある。


社殿の前に集まる見物人


参道全体に白煙が立つ


 豊橋観光コンベンション協会のHPをそのまま引用させていただくと、「毎年2月10日・11日には、安久美神戸神明社の祭礼、天下の奇祭『鬼祭』が行われます。このお祭りは、国重要無形民俗文化財のお祭りで、日本建国神話の田楽の舞で豊年と厄除けの祭として約1000年前から毎年行われた尊い神事です。荒ぶる神の赤鬼が悪戯(いたずら)をするので、武神天狗が懲らしめようと神の前で秘術を尽くし戦い、最後に和解して赤鬼が罪の償いに厄除けのタンキリ飴を撒きながら嵐のごとく境外へ飛び去ります。多くの神事が行われるが、祭りのクライマックスとなるのは『赤鬼と天狗のからかい』です。暴れる赤鬼を天狗が退治する無言劇は天狗の勝利となるが、敗北した赤鬼は若衆等と共に、白い粉とタンキリ飴をまき散らし境外に走り出して行きます。この粉を浴び、タンキリ飴を食べると厄除となり夏病みしないと言われ名物となっています。」とのこと。

赤鬼(荒ぶる神)


天狗(武神 猿田彦)


 そういうことだったのか。するとあの1時間近くやっていたパントマイムは「赤鬼(荒ぶる神)と天狗(武神 猿田彦)のからかい」で、宙を飛んだ物体はタンキリ飴で、白い粉の正体はうどん粉(飴粉)だったようだ。それにしても、白い粉は鳥居よりも高く空を飛び、見物人の最前列にでも居ようものなら、もろに直撃を受ける。同じツアーの参加者のご夫婦が、二人ともその直撃弾を浴びて、髪の毛、顔、コートまで、体中、真っ白の粉まみれとなってしまった。これは、堪らない。思い出に残るどころか、一生忘れないだろう。しかし、翌日には白い粉をすっかり洗い落とされて、ご機嫌で旅行を続けられていたから、心配は杞憂だったかもしれない。

白い粉は鳥居よりも高く空を飛ぶ


体中、真っ白の粉まみれとなってしまった


 ちなみに、私も背中に多少、白い粉を浴びた。前を向いてカメラを抱えていた姿勢から、事が起こったのでとっさにカメラを守りつつ後ろを向いたので、それほどの被害はなかったようだ。ついでにタンキリ飴も口に出来たので、今年の夏は大丈夫だと信じよう。なお、白い粉は、1トン以上も用意されるらしい。

 それにしても、赤鬼と天狗のからかいが、この行事の肝のようだ。赤鬼のスタイルが面白い。胸に2つ突き出ているのは、あれはもしかして乳首か?どうもそうらしい。なぜ、白い紐で縛られているのか?それも難しい結び方でと思ったら、毛鬘といって、隆々たる筋骨を表すそうだ。髪の毛はベージュ色で重そうだと思ったら、麻製で、5キロ近くあるという。雨に濡れでもしたら大変だ。背中に榊と蜜柑が刺してあるが、これは御幣に刺した橙で、子孫繁栄のシンボルだという。腰巻きは、鬼らしく虎模様だ。紅白の棒を持っているが、これは撞木で、赤鬼の武器だという。歩き方は独特で、高足取といって、足を交互に後ろに跳ね上げて飛び跳ねるようにする。これで真夜中まで演技するのだから、さぞかし疲れるだろうと同情する。


赤鬼(荒ぶる神)


天狗(武神 猿田彦)


 天狗の方は、普通の武士の格好で、重さ20キロもの鎧を着て、太刀を背中に付け、薙刀を武器とする。赤鬼と間合いを詰めたり離れたり、鳥居の近くまで行ったと思ったら社殿前に戻ってくるというのを繰り返す。途中で雪が降ってきて、それが止んでもまた同じようにのんびりとやっている。私の位置からは、残念ながらよく見えなかったが、赤鬼が手を変え品を変え天狗を挑発しているらしい。時代劇のような立ち回りを想像していたが、全く違ってこれはパントマイムだ。よくよく見ていれば、赤鬼が日の丸の扇子に合わせてそちらの方へとジグザグに動いたり、撞木を使ったりし、これに対して天狗が馬鹿にしたように上を向いたりと、何やら面白い所作がある。

 天狗に追い詰められた赤鬼は、堪えきれずに、警固衆の「アーカーイ」という声とともに二の鳥居まで逃げて行き、これと同時に天狗は社殿前の八角台に上がる。赤鬼は社務所に好物のタンキリ飴を納めて境内から逃げ出す。これと同時に改心した赤鬼が置き土産として、飴と粉が撒かれるという次第である。


子供の頭を撫でる黒鬼


御的の神事


 出演者として、赤鬼、天狗のほか、黒鬼、青鬼、司天師、小鬼がいるようだが、私が見たのは黒鬼である。黒鬼は、からかいの神事が行われているそばで、大榊の傍に立ち、子供の頭を撫でていた。そうすると、病気にならないという。なお、私は、からかいの神事の前に行われた弓を射る「御的の神事」も見物させていただいたが、あれだけの見物人が参道の両脇に迫っている中で、事故が起こらないように、よく練習されていると感じた。


5.豊橋聖ハリトリス教会

 約100年前に建築されたロシア正教の聖堂で、木造であるが、奇跡的に戦禍を免れて現存していて、国重要文化財に指定されている。神父さんのご厚意で、建物の中を見学させていただいたが、著名な聖像画家山下りんの聖像画や、日露戦争で捕虜になったロシア兵が描いた画がある。正面の祭壇にはイコンが多く飾られ、非常に立派なものだった。


豊橋聖ハリトリス教会


 神父さんが冗談めかしておっしゃるには、「昔、ロシアの皇帝が、宗教を取り入れようとして部下を世界各地に派遣した。部下は、カソリックについてはあまり良い印象を受けなかったので、ギリシャ正教とイスラムを勧めた。皇帝はイスラムに傾きかけたが、部下が耳元で『ムスリムになると、酒は飲めませんよ』と囁いたので思い直し、ギリシャ正教になった」という。

 私が「なぜ、この豊橋の地にロシア正教の聖堂があるのですか」と聞いたところ、神父さんは、「実は明治の頃、ロシア政府が布教をしようと、日本に使節団を派遣し、200の主要都市にこうした建物を作ったんですよ。そのうち現存するのは70で、ここもその一つです。御茶ノ水にもニコライ堂がありますが、残念ながら関東大震災で大きな被害を受け、再建されたものです。」とおっしゃる。知らなかった。また、「日露戦争のとき、松山と並んでここ豊橋にもロシア兵の捕虜収容所があり、ロシア兵たちは、ここで祈ることを許されて、精神的に非常に救われたといわれています。」とのこと。


6.豊橋市役所展望室と豊橋公会堂

 豊橋市役所13階に展望ロビーがある。そこへ上がって、市内を見渡した。目の前を流れる大きな河川は豊川「(とよがわ;濁音)」、豊橋市の北にある豊川市は、「(とよかわ;清音)」だそうだ。豊橋の主要産業は、戦前は養蚕業、戦中は軍都だったが、軍部解体の後は、大規模農業と自動車輸出港、輸入港だという。


豊橋市役所


 大規模農業というのは、たとえば電照菊のように、他の産地と比較して、安価で大量に供給するのを得意としているらしい。それが功を奏して、年収3,000万円程度の農家が結構あるという。

豊橋市内の眺め


 自動車の輸出は、近くにトヨタの田原工場やスズキの浜松の工場があるから理解できる。しかし、輸入港とは意外だと思っていたら、日本のフォルクスワーゲン車は、全てこの豊橋で陸揚げされているそうだ。そういえば、この豊橋は東に行くにも西に行くにも、大消費地の中間に当たる。

豊橋公会堂の鷲の彫刻


豊橋公会堂


 豊橋公会堂は、1931年に竣工したロマネスク様式の建物で、イスラム建築を思わせるドームに実に凝った鷲の彫刻が飾られている洒落た公会堂である。1945年の空襲では、占領行政を考えて意図的に爆撃目標から外されたらしく、破壊を免れた。ステンドグラスが印象的だった。訪れたその日は建国記念の日だからと、奉賛会によってカラオケ大会が行われていた。なぜ建国記念の日にカラオケ大会をするのか、その意味がよくわからなかったが、ステージで歌っていた人は、本当にお上手だった。


7.吉田神社の手筒花火

 東三河の手筒花火は、文献に出てくる最初の記録が永禄8年(1558年)で、今川義元の家臣の吉田城代だった大岡肥前守が吉田神社に奉納したとある。それ以来、この地方で脈々と続けられている伝統芸能だそうだ。つまり、鬼祭りが1,000年の歴史があるように、こちら手筒花火は、500年の伝統があるようだ。


東三河の手筒花火


手筒花火の現物


 吉田神社の手筒花火は、本来なら9月の行事だが、特にこの2月に特別サービスとして、2本だけ実演していただけることになった。その前に、豊橋祇園祭奉賛会の副会長さんから懇切丁寧に説明をしていただいた。12センチの太さの孟宗竹を切り出し、荒縄でぐるぐる巻きにした中に火薬を詰める。空の筒を持たせてもらったが、腰を十分に落として、筒を身体の右側に抱えるようにする。その際、左手を胸の前を横切らせて筒の上の支え紐を持ち、右手で筒の下の支え紐を持って、その姿勢で筒を顔の右横で保持する。この筒の口から1,600度もの高温の火花が噴き上げてくるらしい。ちょっと間違えば、大やけどの危険なものだ。

手筒花火に点火


手筒花火を起こして身体の右側に保持する


手筒花火の現物


 さて、暗くなってきた。いよいよ始まる。火薬の入った筒を、先ずは地面に横たえて介添え人が点火する。地面を這うように火花が迸る。ゴーっと音がして、すごい迫力だ。その筒を持ち上げなければならない。右足を前にして筒の先を上になるように起こし、火を噴く筒を顔の右横で保持する。その間、火花が10メートルほど上方に勢いよく吹き上げられて、火の粉が頭、顔、身体にどんどんとかかる。ものすごい迫力だ。見ていて火傷しないかとハラハラするほどだ。時間にして30秒ほど経ったところで、ボンッと大きな音がして、急に火が消えて辺りがまた暗闇に戻る。いやまあ、その蛮勇ぶりというか、威勢の良さに驚いてしまった。最後にボンと弾けるのでびっくりした。

手筒花火が盛んに燃える


手筒花火がそろそろ終わりかけ


 吉田神社で聞かせていただいた説明によれば、手筒花火は、一家の大黒柱がお祓いのために上げるもので、打ち上げ花火は、天空の魔物を退散させるためのものだという。火薬を作るのは、炭と硫黄と硝石で、手が汚れるので、武士はやらなかった。そこで、職人の技になる。どういう風に調合して火薬を作るかは、門外不出の技術だったが、それでは腕がなまるので、年に1回は実際に打ち上げをやって、技術を維持し、磨くようになったそうな。手筒花火は、元々は合戦の合図だった。長野県の方にある龍勢(流星)もその一つで、それを打ち上げないで手元に置くのがこの手筒花火だという。

 手筒花火は、別名、羊羹花火ともいうらしい。昔の羊羹は、竹筒に入っていたからだそうだ。なるほどと納得したが、現在の羊羹の包装しか知らない人には、わからないかもしれない。山に入り、自生して3年以上の厚めの孟宗竹を選ぶ。長さは、90cmほどで、中に黒色火薬を詰める。赤い色を発するために、鉄粉が入るそうだ。1回につき、所要時間は30秒。その間、火の粉を浴び続けるが、そうすると無病息災だという。なお、平成31年に靖国の150周年記念があり、上京して、御魂を慰めるために、100本ほど上げて奉納するとのこと。


8.御油の松並木

 小笠原さんというボランティア・ガイドで江戸時代の旅人の格好をした方に案内していただいた。御油(ごゆ)の松並木は慶長9年(1604年)に、徳川家康の命を受けた奉行大久保長安によって植樹されたという。その目的は、(1) 旅人のために夏は日陰を作り、冬は北風や雪から守ること、(2) 戦いに臨んで切り倒して敵の進行を妨げることにあった。御油の600メートルの道の両側に90センチの盛り土をし、650本の松の木を植えた。松並木台帳を作って、厳しく管理したそうだ。


ボランティア・ガイド小笠原さん


御油の松並木


 戦時中に伐採されて百数十本まで減少したこともあったが、昭和19年11月に天然記念物に指定されて保護された。その後、愛護会の活動によって、除草や害虫駆除、植樹が行われた結果、今では300本を上回るようになったという。ただし、昔からの樹齢300年から400年の木は、僅か5本だとのこと。


9.豊川稲荷

 一般に、お寺の縁起は、難解なものが多い。それも当然で、それなりの信心がないと、読み切れるものではないからだ。しかし、中でも豊川稲荷は格別で、実は曹洞宗のお寺なのに、稲荷つまり狐を祀った神社という姿をとって、しかもそちらの方が全国的に名が通っていることに加えて、お寺の境内に一の鳥居と二の鳥居まであるから、ますますややこしいことになる。神仏混淆が極まっている。いずれにせよ、日本には伝統的な神々がたくさんおられる中に、異国の仏教が入って来たものだから、色々とあったと思う。しかし、それにしても1,000年以上もかけて、ここまで「共存」するに至るのは、いかにも日本らしいという気がする。


豊川稲荷


豊川稲荷の狐


 豊川稲荷のHP中の縁起によれば、「豐川稲荷は正式名を『宗教法人 豐川閣妙嚴寺』と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。当寺でお祀りしておりますのは鎮守・『豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)』で、稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。」という。

 まあ、細かいところはどうでもよいのではないかと思われそうで、確かにその通りなのだけれども、私は、いま少しこだわりたい。というのは、私はこの歳に至るまで、全国にたくさんある稲荷神社というものが、どんな存在なのかを考えてみたことがなかったからである。それが、この豊川稲荷が調べるきっかけを与えてくれた。

 そもそも稲荷は、稲生り(いねなり)が転じたもので、古来から農業神だった。狐の黄金色と尻尾の形からして古来からたわわに実った稲穂が連想され、しかも狐は害獣のネズミを取ってくれるので、稲荷神の使いと目されるようになった。それが、江戸時代には商業の神となり、やがて各人の屋敷を守ってくれる屋敷神となったりして、全国津々浦々に広がったそうだ。そのうち、仏教の「荼枳尼天」が日本では白狐に乗ると考えられ、ここに仏教と稲荷神とが習合するようになった。ちなみに,稲荷神社の前に狛犬代わりにある狐の像は、宝玉、鍵、巻物、稲をくわえている。それぞれ、霊力、それを引き出すカギ、神様のお言葉、富貴を表すという。

 稲荷神社には神社系と寺院系があり、前者の総本社が京都の伏見稲荷で、数が圧倒的に多い。赤い鳥居と白い狐が特徴だそうだ。後者は、ここ豊川稲荷と最上稲荷妙教寺(岡山市)で、お寺の稲荷だから、鳥居は赤くないし、旗やのぼりも白が多いという。豊川稲荷の門の扉は樹齢1,000年ものの欅の木で作ったものである。山門は今川義元の寄進で、向かって左手には260年の金木犀、右手には160年の銀木犀がある。金木犀の花は反り繰り返るようで、匂いがきつい。それに対して銀木犀の花は丸まって、匂いもかすかである。


豊川稲荷の精進料理


 豊川稲荷の祈祷の時間となった。東京別院でも経験したが、この祈祷がまた独特で、神社とはかなり違うし、真言密教のような護摩焚きもしない。祈祷太鼓がリズミカルに叩かれる中、大般若経の力強い読経(転読)があり、途中でそれが一通り終わると、蛇腹型の御経をこれで読み終わったとばかりに、南京玉すだれのような形で左右に振る。最後は参加者の名前一人一人と祈願の趣旨を読んでいただいて、祈祷が終わった。各人の願い事と読経が直結している。なるほど、これは庶民を引き付けるわけだと、よくわかった。それが終わり、廊下を渡って部屋に戻り、精進料理をいただいた。下世話な話だが、HPによればこの食事つきの宗教行事は4,000円で、十分に我々が支払った金額の範囲内である。

豊川稲荷


豊川稲荷の霊狐塚


 ただ、まだそれは可愛いもので、霊狐塚に案内してもらって、ああ、そういうことなのかと分かった。こちらは、お稲荷様にお祈りして、願い事が成就したときにお礼に狐の像を置いていくところだそうだ。小さな狐像は、6万円、大きな狐像は15万円だという。ついでに、ここに来るまでに布の旗が立っている、これらは、2日に一回、取り換えられるが、2,000円だそうだ。


10.ヤマサのちくわ


ヤマサのちくわ


 豊川稲荷の門前にある商店街をぶらぶらとして時間を過ごし、夕食に稲荷弁当を買った。その隣の「竹の和」では、ヤマサ印のちくわを売っている。そこでちくわ焼き体験をさせていただいた。本来なら包丁で魚のすり身をまず平らにし、それから竹の棒に巻き付けていく。しかしながら本日は、簡略化のため、魚のすり身のボールをもらってそれを手で巻き付け、最後に水を付けて表面を平らにし、それを炭火で焼くのである。竹の棒をぐるぐるとしばらく回しているとやっと茶色くなって、これで焼き上がり。棒をはずして、熱々のちくわを食べ、その美味しさに感激した。

ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


ちくわ焼き体験


 その途中で聞いたちくわの話が面白かった。神功皇后が三韓渡航の途中、九州生田の杜で、鉾の先に魚肉をつぶしたものを塗りつけ、焼いて食べたという伝説があり、この食べ物が蒲の穂によく似ているところから「蒲穂子」と呼ばれ、「蒲鉾(かまぼこ)」に転じたといわれているそうだ。ところが江戸時代の終わり、武士が窮乏して魚など滅多に食べられなくなった。そこで、蒲鉾を食べている町民に対して武士が、「武士の魂である鉾を食べるとは何事だ」と言われたため、武士にわからないように、その断面から「竹輪(ちくわ)」という隠語にし、それが広まったということだ。まあ、与太話の類かもしれないが、もっともらしくて面白い。


11.終わりに当たって

 何はともあれ、充実した1泊2日の旅であった。企画して当日ご一緒していただいた東三河県庁、名鉄旅行、朝日新聞関係、その他ご案内いただいた皆さまに、厚く御礼を申し上げたい。

 果たしてその全部を見に行けるかどうかはわからないが、今後、見てみたい東三河のお祭りを心覚えのために記録しておくと、次の通りである。

(1)三 谷 祭・・・江戸時代から伝わるお祭りで、絢爛豪華な山車が、海に曳きいれられる。蒲郡市の八劔神社・若宮神社で、10月第3又は第4土曜・日曜日。

(2)花 祭 り・・・掛け声とともに40種類の舞が夜を徹して行われる。国指定重要無形文化財。設楽町、東栄町、豊根村。11月上旬から3月下旬。

(3)参 候 祭・・・神々が軽妙で愉快な舞を繰り広げる。400年以上の伝統がある。設楽町の津島神社。11月第2土曜。

(4)凧 祭 り・・・江戸時代からの伝統行事で、男の子の誕生を祝う初凧と空中戦のけんか凧がある。田原市はなのき広場。5月第4土曜・日曜日。

(5)手筒花火・・・豊橋祇園祭は豊橋市吉田神社境内で7月第3金曜日。豊川手筒祭りは8月第4土曜日。炎の祭典は豊橋球場で9月第2土曜日。





(平成29年2月12日著)
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