悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



犬山城の天守



番号      目  次 
1    国立劇場前の桜
  皇居大手門の桜
  不忍池の鳥と桜
  千鳥ヶ淵の昼桜
  愛知犬山城の桜
  日立風流物と桜

 桜の季節 2017年( 写 真 )は、こちらから。


1.国立劇場前の桜


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 国立劇場(千代田区隼町)前の3本の桜が、満開を迎えた。普通の染井吉野よりも数日早く満開となる。その中でも一番早く咲き始めるのは、南にある「小松乙女」で、花はやや小ぶりながら密集して咲くから、薄いピンクの手毬がいっぱいあるように見える。三分咲きの頃は、「白とピンク色の絶妙なバランスやその儚げな姿から、いつまでも見ていたくなるような」と描いたが、もうこうなると、「白とピンク色の洪水のような」とでも評したい。この木の原木が、上野公園の小松宮彰仁親王の銅像近くにあるから、「小松」というらしい。

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 国立劇場の正面に近いところにあって、白っぽくて花びらが大き目の桜の木が「駿河桜」である。これは、三島市に生えていた染井吉野から生まれたものだという。染井吉野にしては、花びらが大きくて白っぽい。でも、白い花と緑の花の組み合わせが美しいと感じる。

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 国立劇場の南にあるピンク色の濃い美しい花を咲かせる「神代曙」は、私が一番好きな桜である。物知りの人によれば、この桜の源流は、元々、日本からワシントンのポトマック川に送られた染井吉野にあるという。それが、アメリカの在来種と交雑して、新種が生まれた。昭和30年ごろ、日本に逆輸入されて神代植物公園で接ぎ木して育てたところ、どの木とも違う特色ある新種ができ、神代曙として品種登録されたそうだ。そして興味深いことに、今や染井吉野の後継として、この花が推奨されているという。理由は、江戸末期から明治初めに生まれた染井吉野がもう品種としての限界を迎えているし、「てんぐ巣病」に弱いので、いったんこれが発生すると、桜並木が全滅するおそれがあるからだ。それに比べれば、神代曙は生まれたばかりだし、てんぐ巣病にも強いという。そういうわけで、あと10年か20年もすれば、染井吉野にとって代わっているかもしれない。


2.皇居大手門の桜



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 私は毎日、通勤途中に大手町を通りかかる。そのときに皇居大手門に数本ある江戸彼岸の枝垂れ桜が咲くのを、今か今かと楽しみにしている。この枝垂れ桜は、染井吉野よりも少し早く咲くので、ああ、春が来たなという気がするし、何よりもその濃いピンク色がぶら下って風にゆらゆら揺れているのが、何ともいえずに優雅な気持ちになる。休日の朝、9時頃に行ったのだが、人だかりがしているし、それだけでなく、皇居ランナーがビュンビュン飛ばして走って来るから、ゆっくり写真を撮る暇もない。目当ての枝垂れ桜の前に見物人がいなくなったと思うと、死角のところからランナーたちが急に現れて、また初めから仕切り直しだ。お濠に白鳥が飼われていて、それと枝垂れ桜が重なる写真が撮りたかったが、そういう事情で余り良い写真は撮れなかった。ちなみに、見物人の8割は外国人観光客で、中国語、英語、ロシア語、スペイン語が飛び交い、非常にインターナショナル空間であった。

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 ついでに、北の丸公園の桜を見にいこうとして、皇居東御苑の中に歩いていった。大手門から入ると、同心番所、百人番所がある。百人の方は、江戸城を守るために、伊賀者や甲賀者が常に詰めていたそうだ。中に入ると、広々とした芝生の空間が広がり、その周りに白い大きな桜の木が花をたくさん付けている。染井吉野は、まだ全く咲いていないから、これは別品種である。表示を見ると、「天城吉野」とある。その横を通り、天守閣跡の石垣に登る。確かに、眺めはよい。これが、もし残っていたならと、誠に残念な気がする。帰りは奇抜なスタイルの「桃華楽堂」横目に見ながら、再び大手門から退出した。

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3.不忍池の鳥と桜



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 日曜日に、上野松坂屋まで行き、その帰りに不忍池の周りを巡って帰ってきた。このときはまだ、染井吉野がまだ、ちらほらとしか開花していなくて、大島桜が満開に咲いている程度である。池の真ん中の弁天堂も、染井吉野が満開のときはピンク色っぽい白で覆われるが、まだそうなっていない。代わりに、すっかり枯れた蓮池にゆりかもめが乱舞している。それをカメラで追いかける。三脚がないので、ちゃんと写せるかどうかは、運次第のようなところがあるが、何枚かは、見られるものがあった。来週には染井吉野が、その次の週にはピンク色が強い関山が咲くはずだ。朝早くの散歩が楽しみである。

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 さて、それから10日も経った4月23日には、不忍池の周りには、遅咲きの桜の関山が真っ盛りの開花を迎えている。八重桜だからその分、美しいし、何よりも青空に濃いピンク色が映えている。その花びらが地面に落ちて、ピンクの絨毯を作っているのもまた良い。私などは、これは見事な桜だと思うのだけれど、行き交う人々を見ていると、不思議なことに染井吉野のときのような熱狂はなく、その下で宴会という人たちはほとんどいない。だから、静かに理想的なお花見ができるというわけだ。

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4.千鳥ヶ淵の昼桜



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 今年も、千鳥ヶ淵の桜を楽しんできた。家からも職場からも近いので、私は、ほとんど毎年、この桜を鑑賞している。染井吉野に限ってではあるが、その規模と多彩な桜の見せ方では、まさにここ千鳥ヶ淵が日本一ではないかと考えている。なぜ、こちらの染井吉野が良いかというと、まず自分の歩く上を桜の木が覆っていて、まるで桜のトンネルになっていることだ。これは、上野公園でも同じだから特徴でも何でもないが、千鳥ヶ淵はそれに加えて、お濠にたくさんの染井吉野の枝が突き出すように伸びていて、まるで桜の花が紺碧の水面を埋め尽くしているかのように見えることだ。その桜の花の合間に、ボートが顔を出してくるし、お濠の対岸に何本もある大きな桜の木も、桜の花をいっぱいつけているから、いやその見事なことといったらない。それがボート乗り場まで何十メートルも続く。そしてボート乗り場上の展望台から今来た方向を振り返ると、青い空、緑の水面、両脇の満開の桜、ぽっかり浮かぶボートが、まるで一幅の絵画のようなのである。

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 この見事な桜は、そもそも昭和30年ごろに、皇居の周りに彩りを添えようと、当時の千代田区長が職員に植えさせたのが始まりという。その後、近くの高級料亭の福田家が桜の苗木を100本寄贈したり、あるいは近所にある跡見学園の女子学生が若くして亡くなった時にそのご両親が娘の生きた証しにと苗木250本を寄贈したりというように、多くの人の善意や思いにに支えられながら増えてきたのだそうだ(岡村仁都美著「千鳥ヶ淵のさくらたち」より)。

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 今日は、千代田線を大手町駅で半蔵門線に乗り換えて、九段下駅で降りた。そこから皇居のお濠に沿って桜の花を見ながら、田安門に至った。今日は平日なので、武道館で私立大学の入学式をするらしく、人混みでごった返していた。その中をお濠の方を向いて桜とお濠の水面の写真を撮り、大山巌大将の銅像の脇を通って、千鳥ヶ淵に向かった。逆L字型の横棒の方から角を曲がり、直ぐに九段方面を眺めると、これが一番の写真スポットである。それから、人の流れに沿って南下する。左手にはお濠とそこに突き出している桜の枝があり、構図が良ければ、枝にたくさん咲いている桜の花とお濠の水面、それから向こう岸の桜の木を撮るという具合である。やがて、先ほど述べたボート乗り場上の展望台に着く。

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 もちろん、桜に飽きれば、道端に咲いているシャガの花が可憐な姿を見せているから、それを眺めても良し。あるいは、木蓮の花が咲いていて、紫色で高貴な感じもする。そうこうしているうちに、千鳥ヶ淵エリアを抜ける。そのまま進んで半蔵門の方へ行くのも一案だし、道路を渡って英国大使館前の染井吉野を見に行くのもいい。更に歩いて行くと、国立劇場前の桜を楽しむことができる。なお、千鳥ヶ淵ではライトアップをしていて、私も通りかかったことがあり、夜桜も美しい。しかし、人混みの中だから三脚が使えないので、写真を撮るのは難しいと思って、未だにチャレンジはしていない。


5.愛知犬山城の桜



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 名古屋の北方で木曽川のほとりの小山の上にある犬山城、別名:白帝城に行ってきた。運良く桜の真っ盛りのときで、染井吉野が咲き乱れる中に、犬山城がスックと立っている姿は、「これぞまさに日本の城」という気がする。天守の中に入ると、急勾配の階段が続く。4階分ほど登った末に、ようやく天守に着いた。西洋風に言えば「ベランダ」に出て回りを見渡すと、これがまた絶景である。この日は風が強くて、南方面には出られなかったものの、北から出ると、正面には木曽川が滔々と流れている。右手すなわち東方向には木曽川にかかる犬山橋(ツインブリッジ)があり、その左手先には、晴れていれば御嶽山が見えるそうだ。今度は西つまり木曽川の下流方面に行くと、ライン大橋に、美しい形の伊木山が見える。この絶景を堪能して、再び急な階段を下っていった。登るときより、下るときの方が危ない気がするので、滑らないように慎重に下りていった。

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 いただいたパンフレットによると「犬山城は織田信長の叔父である織田信康が、天文6年(1537年)に木之下城を移して築城したと伝えられています。天文12年(1584年)の小牧長久手の戦いの際には、羽柴秀吉は大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を敷いた徳川家康と戦いました。江戸時代になり、元和3年(1617年)に尾張藩付家老の成瀬正成が城主となってからは、成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊されて公園となりました。」とのこと。その後のことを端折って書くと、明治24年の濃尾地震では大きな被害に遭ったり、28年には県から元城主の成瀬さんに譲渡されたり、昭和34年の伊勢湾台風では大きく破損したりと、色々な経緯を経て、現在は犬山城は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有で、犬山市が管理しているようだ。

下から桜越しに天守閣を見上げると、周りを巡っている人の姿が見える。私も、こんな風にして見物していたらしい。


 犬山城を出て、お昼は、近くのフレンチ創作料理で食べた。こちらは、国の登録文化財に指定されている旧家を利用して開設されたレストランということで、町の食堂ではないから、久しぶりに会った友達とゆっくり話せると、それなりに期待して行ったものである。確かに、裕福だった旧商家を利用していて、お庭もそこそこ立派だった。ランチのコースを注文した。料理は、作り置きのものではないかと思うのも多かったが、見た目は綺麗に作ってあるから、それなりに凝っていた。給仕してくれる人がそれを説明してくれる。一生懸命に説明してくれるその態度には好感がもてる。ところが、こちらが仲間内で楽しく話しているところに、わざわざ割り込んできて会話を止めて料理の説明をする。

 運ばれてくる料理には色々と薀蓄があるようなのはわかるし、創作料理ということで工夫の内容をお客に知ってもらいたいのだろうと思う。しかし、友達どうしのせっかくの楽しい雰囲気を壊してしまうほどのことではないはずで、東京あたりだと、お客の会話が弾んでいるときにはそんな無粋な説明はせずに、阿吽の呼吸で対応してくれるのにと、いささか残念な気がした。時と場合とお客の様子に応じて、臨機応変に対応するのが、客商売の要諦であると思うのだが、いかがであろうか。


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 それはともかく、料理の後で、江戸時代の豪商だったと思われるこの家の庭などを見せてもらい、こういう雰囲気だったのかと往時を偲ぶことができたから、とてもためになった。願わくば、この文化財を大切にして、後世まで伝えていってほしいものである。その意味で、このレストランを応援する価値は十分にあると思う。

 昼食後、有楽苑(うらくえん)に行った。こちらも、パンフレットによれば「織田有楽斎(1547ー1621)は信長の実弟で、茶の湯の創成期に尾張国が生んだ大茶匠であり、その生涯は波瀾に富んでいた。晩年、武家を棄て京都建仁寺の正伝院を隠棲の地とした。如庵はその境内に元和4年(1618年)ころ建てた茶室であり、現存する国宝三名跡の一つ」という。たまたま食事中だったお昼の時間に雨が降り、それが良かったようで、緑の苔が美しかった。心が洗われるようである。また、桜と三葉躑躅の対比が一幅の絵画のようで、しばらく無心で眺めていた。



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6.日立風流物と桜


 日立市に、国指定重要有形・無形文化財で、ユネスコの無形文化遺産に登録されている「日立風流物」という山車があり、それが桜の季節に演じられるということを聞いた。そこで、4月8日、東京駅からスーパーひたちに乗って、日立市に行ってみた。上野東京ラインが2年前の3月に出来てから、私は今日初めて、東京駅より常磐方面に乗る。行ってみると、同じ8番線から東海道方面の列車が出ていたりして、少し戸惑った。これがもう少し歳をとったりしたら、うっかりすると、逆方向へ乗るかもしれないので、気を付けよう。

 さて、約1時間半の電車による快適な旅が終わり、日立駅に到着した。ここも、最近の地方都市のご多聞にもれず、駅前はすっきりと整備されているが、建物は鉄パイプとガラスでできているから、地方の駅の個性がなくなってしまっているのは残念だ。ただ唯一、駅前ロータリーに大きな歯車のモニュメントがあったのが特徴といえば特徴で、これは、日立製作所の企業城下町らしくて、とても良い。駅の出口で、さくら祭りや、日立市の由来に関するパンフレットを配布中だ。「日立風流物の仕組みがわかるものは、ありませんか。」と聞くと、わざわざ探してくれて、それをいただいた。よしよしと、これで少しは足しになると思ったら、それどころか、後述するように、とても参考になった。

 それによると「日本各地に残る山車カラクリの系統は、大きく2つの方向に発展してきました。1つは飛騨高山の高山祭に象徴される方向です。専門の人形師の手による人形カラクリを配し、山車の装飾に贅を尽くして山車を豪華絢爛な美術品まで昇華させました。一方で氏子たち自らが道具を握り仕掛けの技を工夫してカラクリを操る楽しさを見出した日立の風流物があります。優れた匠や豪商がいなくても、観てくれる人たちの喜びを糧として素人技ながら創意工夫をしてきたのです。その意気込みが人形カラクリの技を磨かせるとともに山車を大型化させる原動力となったのです。」ということだそうだ。それにしても、この説明は、簡にして要を得ている名文である。感心した。


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 駅前ロータリーからクランク状に折れて進むと、そこが平和通りで、広い道の両側に樹齢30年から60年の染井吉野の並木があり、空も覆うほどの桜のトンネルになっている。数百メートルを進むと、大きな交差点に、山車が見えてきた。家のような形が五層にもなっている。非常に高くて、驚くほどだ。15メートル、重さ5トンだという。それにしても、幅が狭くて細長い。写真で見たのとは、かなり違う。この疑問は、演技が始まって、やっと分かった。それは後で説明することにして、どこで写真を撮ろうか、真正面だと道の真ん中に山車があり、両脇に桜の木が配置されるから、構図としては理想的だ。しかし、真正面にはもう多くのカメラマンがいて、立錐の余地もない。仕方がないので、脇に回ろうと思って適当な場所を探し、斜め横から撮ることにした。この方が近いし、細長い山車を撮るには良い。気が付いてみると、三脚を担いだビデオカメラマンが隣にいた。なぜこの位置を選んだのかと聞いたら、「人形の表情が良く撮れるから」という答えだった。

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 さて、山車の前でお囃子が演奏され、それが終わると、山車の中から聞こえてくる。それが最高潮に達した頃、いよいよ山車の舞台が始まった。まず、山車の前の部分が前方へ倒れ、棚のようになる。人形の顔が見える。すると、家のような形が左右に割れて、それが舞台になる。つまり、元の舞台の幅が3倍になる。それが、一番下の層から始まって順次上の層に伝わり、最後の5層目が開き終わると、鳥が羽を広げたようになる。なるほど、この写真は、見たことがある。その舞台は、忠臣蔵を演じていて、下の層には大石内蔵助が討ち入りの太鼓を叩いている。あちこちで赤穂浪士と吉良邸の武士たちの死闘が繰り広げられている。層の最上部では、吉良上野介らしき寝間着姿のお殿様が、自ら刃を振るって赤穂浪士と渡り合っている。

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 なぜ、こんな5層もの「開き」ができたかというと、こういうことらしい。複数の人形を使った物語性のある演目をするには、ある程度の舞台の幅が必要なのだが、当時の狭い道路では、山車としてはこの幅が限界だった。そこで舞台で演ずるときには、開いて大きな舞台にしようとした。それと同時に、もっと大きな舞台がほしいということになり、高層化に進み、ついに大正時代になって今の5層の「開き」のスタイルになった。それと同時に、山車の内部では人形の操作者もエレベーターのように上部にせり上がるようになっていて、その機構を「カグラサン」という。もちろんこれは人力である。

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 さて、人形の舞台を見ていたところ、吉良上野介の人形がひっくり返ったと思ったら、あっという間に御殿女中になってしまった。顔まで若い女性になったのには、驚いた。これは「早変わり」というもので、先に演じている役のところにあるフックを引っ張ると、くるりを別の顔と衣装になる。見ると、15体の人形が一斉にひっくり返って、数分で全員が女性になってしまった。しかも、それまで持っていた刀が、いつの間にか蛇の目傘になっていて、それがぐるぐると回されている。どうなっているのだろう。

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 それを眺めていると、舞台はどうやら終わったみたいで、皆さんが一息ついている。そこで、20人ほどが、山車の土台を動かそうとし始めた。でも、なかなか動かない。何回かやって、ようやく動き、山車の前後が逆になった。すると、正面の観客に向けられた崖のようになっている部分の真ん中が前方へ倒れ、また棚のようになった。崖の中から2人の武士たちが現れ、矢をつがえて空に撃ち始めた。棚の上には、農民夫婦が出てきて鍬を振るったり、仙人のような老人が出てくる。大蛇まで出てきて、棚の上に移動した。そこに大きなガマガエルが出現して、争っている。どうも、筋が分からないので隔靴掻痒の感があるが、表の舞台がいわばお能のようなものだとすると、こちらは狂言のようなものらしい。

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 パンフレットによれば「山車の大型化に伴い、山車の裏側の利用価値が高まる。『まだ人形を載せる余地がある。しかし、大観客を裏側に移動させるわけにはいかない。』この矛盾は、土台を上下2層化し、上部のみを観客に向けて回転させることで解決した。」という。それまで演じていたのが表山(おもてやま)で、「物語は忠臣蔵や源平争乱など歴史物、武者物が多い。」。これに対してひっくり返った裏山(うしろやま)は、「八岐の大蛇や加藤清正虎退治など、動物版勧善懲悪ものが多い」という。

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 この日立風流物の沿革は、パンフレットでは「昔は宮田風流物といわれ、その起源は定かではありませんが、元禄8年(1695年)徳川光圀公の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが作った山車を祭礼に繰り出したのがはじまりだといわれています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(1716ー1735)からと伝えられています。壮大な山車とともに日立風流物の特徴を成すからくり人形の由来も確かな記録は残っていませんが、風流物が起こった江戸中期は人形浄瑠璃が一世を風靡した時代であり、その影響を受けた村人達が農作業の傍ら工夫を重ね、人形作りの技術を自分達のものとしていったと考えられます。4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人達の大きな娯楽となり、町内の競い合いもあいまって、明治中期から大正初期にかけて改造を重ね大型化されました。その風流物も昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼1台が半焼、また人形の首も約7割を焼失してしまいました。しかし、郷土有志の努力により、昭和33年5月には1台だけながら念願の復元を果たしました・・・昭和41年5月までには残りの3台も復元された」とのことで、かなりの苦難の道を歩んだようで、その結果の国指定重要有形・無形文化財、ユネスコの無形文化遺産への登録だったというから、地元関係者のご努力に、頭が下がる思いである。

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 なお、この日立さくら祭りに花を添えるものとして、相馬の馬追いから、10騎の騎馬武者が駆けつけて、桜並木を闊歩した。それぞれの旗指物が全く違うと思ったら、一つとして同じものはないそうだ。7月に本物があるようなので、今度、是非とも現地に行って見てきたいものである。





(平成29年4月9日著)
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