悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



上野の不忍池の蓮




 家内の母、つまり私の義理の母が、とうとう亡くなってしまった。享年92歳だし、「人生、もう思い残すことはない。」とおっしゃっていたから、いわゆる大往生というところである。今は初夏だが、数ヶ月前の初春の頃、約1ヶ月にわたって、一度危ない時期があった。しかしそれをどうにかこうにか乗り越えて、ようやく回復したばかりであるから、今から振り返えれば、本人にも周りにもあれが心の覚悟をする一種の予行演習となったのかもしれない。

 それが、今年の2月から3月にかけてのことであるが、そうやって1週間ほど食べられない、水も飲めないという状態が続いた。ところがその後に、いつの間にか、家内がお見舞いに持って行った好きなお菓子やフルーツを食べ始め、日を追っていつもの量の食事が食べられるようになって危機を脱した。体重は少し落ちたが、バイタルの数値、つまり呼吸、心拍、血圧も正常に戻り、ほっとしたものである。同じ老人ホームに、心臓が3回止まったけれども、そのたびに何とか生きかえって、車椅子生活だがゲームに興じている女性もいるから、「それに比べれば、こちらは第1回目の生還だね。まだまだ行ける。」と、楽天的に話していたくらいである。ところが、今月に入って老人ホームから、「お母さんが、また食べられなくなりました。」という連絡が入った。そこで家内は、東京から静岡まで、新幹線で駆けつけた。すると、固形物だけでなく、水も飲めなくなって、口に高カロリーの液体を少し含ませるのがせいぜいという程度になっていた。

 こういう場合に、病院に運び込んで、補水液を点滴したり、極端な場合は胃瘻をこしらえて身体に栄養分を人工的に送り込んだりするというのも一案である。しかし、生前に本人とよく話し合って、「それはしない。自分の力で最期まで行きたい。」ということになっていた。今回も、本人に確認すると、延命治療は、強く断られた。ということで、本人の自然の体力だけで、この2週間近くを生き抜いてきた。本人は、「どうなっても、老人用おむつは付けない、トイレは必ず自分で行く。」という強い意志、つまり「こだわり」を持っていて、亡くなる数日前、全く動けなくなるまで、それを実行していたから、老人ホームの施設長さんをはじめ皆さんは、驚くやら、あきれるやら、感心するやらで、「最期まで、頭脳明晰だし、誇り高く生きるというこだわりがある。我々もたくさんの人を看取って来たけれども、こんな人は、初めてです。」と語っていた。

 今回、家内が駅前のホテルに泊まりつつ、老人ホームの母の居室で、母の脇に添い寝したりして、よく頑張った。前回はそれが2ヶ月余りに及んだが、今回は1週間ほどいたところ、老人ホームでの見舞いを終えていったんホテルに戻った。それでホテルのベッドで休み始めたばかりの午前零時頃に老人ホームから電話があり、「呼吸が乱れてきました。いよいよかもしれないので、すぐに来て下さい。」とのこと。それから直ぐに駆け付けて、また添い寝したそうだ。そのまま、何事もなく朝を迎えた。そのとき、母が「どうか、この人を早く楽にしてやって下さい。」とつぶやいたという。一瞬、家内は母が自らのことを言っているのかと思ったそうだが、「この人」というのは、娘の自分のことを言っているのだと気が付き、此の期に及んでまだ娘の私の身を案じてくれていると、心から感動したそうだ。


不忍池の蓮


 一方、私は、自分の父の七周忌を終えて帰京したばかりだったが、昼過ぎの新幹線で、静岡の老人ホームに駆け付けた。義理のお母さんに対面したら、もう話すことはできなくなっていたものの、私が話し掛けると微笑んでくれたように思えたし、話しつつベッドの反対側へと移動すると、私を目で追ってくれていたから、十分に理解していたのだと思う。そういえば前回、母から「この子(つまり家内)をよろしくお願いします。」と言われたので、「もちろん。大丈夫ですよ。」と話したことを覚えているが、今回、また同じことを言うと、安心したような顔をされた。そのようなやり取りをしていたときに、老人ホームの方が、「では、簡単にお風呂に入りましょうね。」とやってこられたので、私と家内は、部屋の外へ出て、リビングルームの水槽の前のソファーに腰掛けて「お母さん、あなたのことが気になっているのだよ。最後まで、親なんだね。有り難いね。」などと、家内と話していた。すると、老人ホームの看護師さんが小走りにやって来て、こう言った。「心臓が止まっています。」。こちらこそ、心臓が止まりそうになりながら、家内と2人で駆けつけると、母はもう、息をしていなかった。時に、午後2時35分である。家内も私も、ベッドの傍らで、ただ頭を下げるだけだった。

 老人ホームの職員の皆さんが次々にやってこられて、両手を合わせて故人に弔意を表してくれた。そのたびに家内が頭を下げて、感謝の意を伝える。両目をはじめ顔が真っ赤になり、涙声になるのは、やむを得ない。母は最期まで、頭脳明晰だったし、入居してもう5年半という古株になっていたから、個々の職員さんたちと、色々な交流があったようだ。だから、その死をそれぞれの言葉で悼んでくれる。たとえば、まだ30歳代の半ばの人なのだけれど、理学療法士さんが来た、その方は、亡くなったと聞いて真っ先に飛んできてくれた。身体が硬直する前にと、亡骸の姿勢を整えながら、顔をクシャクシャにしつつ、涙声で「お母さん(つまり義理の母)と、『3年後の東京オリンピックを一緒に見ようね』と約束していたのですけれどねえ。もう亡くなられてしまって。」と言う。また、「お母さんは計算が速かった。3桁の繰り上がり計算を含むプリントも、1枚をやるのに他の入居者の皆さんの中には1日がかりの人もいるのにね、それをたった10分もしないでやるんですよね。いや、すごかった。それに、漢字もよくご存じで、私などは辞書を引きながら、やっと採点できた有り様です。」とも語る。

 また。母は、今年の4月に入ったばかりのお兄さんに、「ハンサム・ボーイ」という渾名を付けて、「そこのハンサム・ボーイさん、湿布を取って来て。」などとやっていたそうだ。そのハンサム・ボーイさんも、枕元にやってきて、理学療法士さんとともに、母の亡骸に向かって、両手を合わせて「どうか、安らかに」と言いつつ、自然に合掌してくれている。そこへ、老人ホームが呼んでくれたようで、地元にいる義理の妹夫婦が駆けつけて来て、妹が泣き崩れる。いやもう、涙なしにはいられない。次に、かかりつけ医がやって来てくれた。これまで、月2回の定期健康診断をしてくれていた人だ。まず聴診器を母の胸に当て、次にライトペンで母の両眼を診てから時計に目をやり、「死亡を確認しました。午後3時12分です。」と事務的に言った。そして事務室に行って、死亡診断書を書いてくれた。それが1枚の大きな紙の右側である。左側は死亡届で、葬儀社を通じて市役所に提出するものだ。

 葬儀社に連絡をして、母の遺体を運んでくれるように手配をした。それからが驚いたことなのであるが、どこからともなく職員の方から、「そうだ。最後のお風呂に入ってもらおう。」という声が上がり、もう亡くなっているというのに、生前と同じようにして、お風呂に入れてくれた。こういうところは、心がこもっているというか、本当に親切だ。母に敬意を払ってくれていないと、できないことだ。お風呂から上がって身体を拭き終わった頃に葬儀社の車が到着して、母の亡骸を斎場まで運んでくれた。それにしても、この老人ホームは良いです。

 他のホームから移ってきた職員によると、そこでは 「例えば事務室ではスタッフが書類の上に目を落とすばかりで何もしないので、入居者との会話もなく、入居者もリビングルームではただ突っ伏しているしかない。ただ、設備はこの老人ホームよりもずーっと豪華です。その点、ここは設備そのものは大したことはないかもしれませんけれど、入居者とスタッフとの交流があるし、入居者相互もお互い知りあっています。また、スタッフの間もミーテングをよく開いて、改善の提案をしているから、風通しが非常に良いんです。」という。なるほど、設備がいくらよくても、運営するノウハウがなければ、無茶苦茶になるわけだ。乳幼児の保育園もこれと同じで、設備はそれなりにあっても、個々の子供に話し掛けもせずに、テレビを付けっ放しにして、ただ転がしているという、ひどいところもある。それと同じだなと思った。


母の葬儀


 それから数日後、母の通夜と葬儀を執り行った。通夜には、老人ホームの施設長さんほか4人の職員も来てくださり、家内と抱き合って悲しみをともにしてくれた。有り難いことである。葬儀が終わり、火葬場での骨あげの後、お寺さんに納骨をした。家内の家とこのお寺さんとは三代にわたる付き合いがあるそうだから、ご住職さんも、心臓の大手術直後で体調が悪い中なのに、相当無理をされて、読経を行うためにやってこられた。頭が下がる思いである。ところで、家内のところは2人姉妹なので、ありていにいえば、お墓を継承する人がいなくなる。そこで、このお寺さんとは、永代供養をお願いするということで、合意しているそうだ。永代といっても、50年ということだそうだが、こういう場合は、他によい方法があるのだろうか。

 お墓といえば、私の息子のところに男の子の孫が生まれて、後継者はできた。しかしながら、いずれも東京育ちということになるので、私の田舎とはほとんど縁がない。こういう場合には、やがて田舎の墓じまいをして、東京に移転させることになると思うが、現地に妹たちは残っているし、なかなか難しい課題である。だから、関係者がいなくなるか、あるいは納得した上でないといけない。いずれにせよ、私が生きているうちには、結論を出すようにしたいものだ。







(平成29年7月23日著)
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