悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



足立美術館
松江城
由志園





 目  次
    目的は3ヶ所 
    俄か管制官 
    米子にて 
    足立美術館 
    夜の松江城 
    松江城の雄姿 
    小泉八雲旧居 
    堀川遊覧船 
    松江フォーゲルパーク 
10     由 志 園 



 松江への旅( 写 真 )は、こちらから。


1.目的は3ヶ所

 ゴールデン・ウイークの前半、かねてから行きたかった島根県安来市の足立美術館、国宝松江城、松江市大根島の尚志園を、二泊三日の行程で回ってきた。足立美術館は第一級の日本庭園で著名であり、松江城は国宝五城のうち最も新しく平成27年に指定されたその経緯が劇的なものであり、大根島の尚志園はこの時期にだけ繰り広げられる「池泉牡丹」つまり池の全面に3万輪もの摘み取られた牡丹の花を浮かべるイベントで有名である。いずれも一度は行って写真を撮ってきたいと考えていた。

 また、数年前に我々一家が欧州旅行をしたときに貯まったマイレージが、今年の夏で期限を迎えるので、それまでに航空券に引き換えたいという事情もあった。旅客数の多い旅行シーズン期間だから、飛行機の予約は難しいかも知れないという気もしたが、案ずるより生むがごとしで、すんなりとANAの羽田空港と米子空港の往復航空券を確保できた。また、松江と米子の駅前のビジネスホテルも、ネットで簡単に予約することができた。その理由は現地に行ってみてわかった。要は、人口も観光客の数も、東京で思っていたよりもずーっと少ないのである。地方で少子高齢化がこれほど進んでいるとは思わなかった。


ANAの国内線でのWiFi接続が無料


 今年の4月から、ANAの国内線の機内では、WiFi接続が無料になった。羽田空港を出発して試しにiPadで接続してみたところ、無事にインターネットに繋がった。ただし、速度は非常に遅い。自宅での接続速度が自動車くらいだとすると、ちょうど自転車程度だ。特に写真をメールに添付すると、なかなか送ってもらえない。どうしたのかなと思っているうちに、タイムアウトになってしまった。もっとも衛星経由だし、そもそも無料なのだから、それくらいのことで文句を言ってはいけない。文字メールを送ることができるだけでも、良しとしよう。でも、近い将来、利用者がもっと増えたら、これでは実用に耐えられないかもしれない。


2.俄か管制官

 ところで、機内でインターネットに繋がっていることを良いことに、iPad上で、フライト・ライブというアプリを動かしてみた。すると、これがめっぽう面白いのである。地図上に、その時点で飛んでいる飛行機の便名、航空会社名、使用機材、出発地と目的地がわかる。しかも、地図上で飛行機マークが時々刻々移動するので、どこを飛んでいるのかが一目瞭然だ。もっとも、時々、GPSでの本機の現在位置と、その飛行機マークがズレることもあるが、それもご愛嬌だ。これまでは飛行機の中から地上を眺めて、「この地形なら静岡だ。」などと山勘で現在地を判断していたが、フライト・ライブならその時点での正確な飛行位置がわかるので、便利である。


フライト・ライブの画面


 しかしながら、良いことばかりではない。例えば、私が乗っている飛行機が福井県の三方五湖付近を東から西に飛行中、別の飛行機がそれと交錯する北から南に向かうコースで飛んでくるではないか。関西空港に向かう大韓航空機だ。この距離、このコースで同じ高度なら、ぶつかりはしないかと、肝を冷やす。しばらく見守ると、2機のコースは一瞬、重なったかに見えたが、幸い何事もなく再び離れていった。良かったが、その一瞬、俄か管制官になった気分になる。なるほど、この仕事は、なかなか大変だ。

 しかし、よく見ると、同じ方向に向かう飛行機は、いつの間にか等間隔に並んで飛行している。反対方向もまた然りで、どうやら空中に見えない回廊を設定して、そのトンネルの中を飛んでいるようだ。してみると、これと交錯するルートがあったとしても、そもそも空中回廊の高さが違うのかもしれない。それをこのフライト・ライブは、平面的に上から見ているだけなので、回廊の高さの違いが認識できず、したがって先程のような要らぬ心配をすることになったのだろう。今度、航空関係の専門家に会う機会があったら、管制の手法を聞いてみようと思う。

 面白いのは羽田空港周辺で、一見バラバラで無秩序に散らばっていた飛行機の群れが、気がついてみると、これまた等間隔の距離を置きつつ渦のようなカーブを描いて、次から次へと空港に着陸している。見事なものだ。羽田空港に降りる螺旋形の空中回廊でもあるのだろうか。


3.米子にて

 お昼前に米子空港に降り立って驚いた。辺りがすっきりしているというか、ターミナルビルのみで、周辺には何もないのである。近くのJR米子空港駅に行くとレストランくらいあるかもしれないと思って、延々と歩いて行ってみたら、びっくり仰天した。切符の自販機とトイレがあるだけで、他は何にもない。ターミナルビルでレストランを探すべきだった。仕方がないと、そのまま駅で待っていた。しばらくしてやってきた車両はディーゼル気動車で、それもたった1両。しかもボタンを押さないと扉が開かないではないか。加えてこの車両の車体にも、そして終点の米子駅にも、私の趣味に合わない妖怪の漫画が描かれている。ゲゲゲの鬼太郎だ。「幾ら地元の有名人の作品だからと言って、ただでさえ物寂しい雰囲気の中で、わざわざ妖怪の漫画を描かなくてもよいのに。」などと、お化けの嫌いな私などは、思ったりする。


米子空港バスのゲゲゲの鬼太郎キャラクター


米子駅のゲゲゲの鬼太郎キャラクター


 ところが、地元の皆さんの感覚は、おそらく、「漫画やNHKの朝ドラで、地元を有名にしてくれた作家は郷土の誇りだから、その作品を堂々と載せている。」ということなのだろう。まあ、そういう考え方もある。そもそも原作者の水木しげるさんは、太平洋戦争で苦労した挙句に片腕を失い、その不自由な身体で頑張って有名な漫画家になったのだから、大いに尊敬に値する人だと思う。ただ、私には、どうもあの妖怪漫画が体質に合わないというか、はっきり言ってしまえば、感覚的に気持ちが悪いのである。振り返ってみると、そもそも少年時代からお化けは嫌いだった。三つ子の魂百までというが、この感覚は永久に治りそうもない。

 そういうことで、米子空港と米子駅の滞在はそこそこにして、足立美術館のある安来市にJR山陰本線のディーゼル気動車で向かった。途中、「そういえば、富山県高岡市から出るJR氷見線の電車の車体にも、忍者ハットリくんの絵が描かれていたし、高岡駅前にも、ドラえもんのキャラクターのオブジェが並んでいた。あそこも、藤子不二雄さんの片方の出身地だったなぁ。」と思い出し、「あれには全く違和感がなかったけれど、やはり、お化けとどらえもんというキャラクターの差かなぁ。」と考えたりもした。安来駅から、足立美術館のバスに乗車した。


4.足立美術館  この項の写真


足立美術館入口


 足立美術館の創設者、足立全康氏は、明治32年に、現在の安来市古川町に生まれた。小学校卒業後すぐに生家の農業を手伝ったが、いくら働いても貧しい農業を見限り、商売の道に進むことにしたという。最初の仕事は大八車で木炭を運搬するというもので、そのついでに近在の家々に炭を売り歩いた。それから、繊維問屋、不動産業など色々な事業に携わって成功を収めた。その一方で、美術に大きな関心を寄せて日本画の熱心なコレクターになった。それとともに、庭造りへの強い関心も相まって、71歳の時に財団法人足立美術館を創設したという。特に横山大観の作品、「紅葉」、「雨霽る」、「海潮四題・夏」などを蒐集したときの印象的なエピソードが、同美術館のHPに掲載されている。私が訪れたときは、横山大観、菱田春草など、日本画で和服美人の絵のシリーズが展示されてあって、和服を来た日本女性の美しさをここまで繊細に描けるものかと感じ入った。

 さて、絵画の鑑賞はほどほどにして、写真を撮ってもよい日本庭園に向かう。苔庭 → 枯山水庭 (その先に亀鶴の滝) → 白砂青松庭 → 池庭 → 寿立庵庭 という順路で見て回った。一言でいえば、実に端正で一分の隙もない庭だ。あらゆる造形物が計算され、計画的に美しく配置されている。だから、どの方向から写真を撮っても、それなりの構図になる。確かに、15年連続で日本一の庭に選ばれた理由が分かる。今は新緑の季節で緑が生き生きしているが、秋になると真っ赤な紅葉がさぞかし美しいだろうと思う。


足立美術館の庭園


足立美術館の庭園


足立美術館の庭園


足立美術館の庭園


 この庭を見て、類い稀な造園のセンスを感じさせるのは、白砂青松庭を見るときに手前にある「Y」字型の樹木である。素晴らしい庭を存分に鑑賞しようと思ったら、手前のこんな樹木は真っ黒に見えて視界を遮るので単なる邪魔な存在に過ぎない。ところが、逆にこの樹木があるからこそ、庭に奥行きを与えて、その存在感を増しているように思う。

足立美術館の庭園「Y」字型の樹木


足立美術館の庭園


 それにつけても、ふと思い出すのは、大学の教養学部時代の美術史の授業である。もう半世紀も前のことなのに、この「Y」字型の樹木を目にして、急に記憶が蘇った。その時、教授はこう語った。

 「日本の美術というものは、自然をそのままに受け止め、自然の要素を頭の中で繋いで、全体としてその美を見いだすところに特徴がある。これに対して、西洋の美術は、自然を征服し、人間の前に跪かせる。例えば、日本庭園を見るとよい。自然の風景をそのままに、要素を厳選しながら自然を再現しようとする。これに対して西洋庭園は、基本的には緑の芝生を一面に敷き詰めないと気が済まないスタイルだ。

 終戦直後、進駐軍の将校がやって来て日本家屋を接収し、そこに住もうとしたとき、彼らが最も居心地が悪いと感じたのは、数枚に渡って描かれた襖絵である。襖の黒い枠で仕切られているのに、あたかもそれがなかったように松の木が枝を広げている。日本人は頭の中でその枠を消して見るのだが、その将校らはそれができなかったようで、遂には黒い枠もろとも白いペンキで塗り潰してしまった。ここに、日本人と西洋人の世界感の違いが現れている。日本人にとって自然は自分もその一員として共生すべき存在だが、西洋人にとって自然は征服すべき存在なのである。」


 かくして足立美術館の庭は、ずっと私の頭の中で眠っていたこういう記憶を引き出してくれた。やはり、この庭は一流の存在である。はるばる来て良かったと思った瞬間である。


足立美術館の庭園


足立美術館の庭園





5.夜の松江城  この項の写真

 安来駅でJRの列車を待っている間、安来駅舎の中をブラブラと見て回った。お土産売り場や、市の観光関係の職員さん達が詰めているブースがある。宣伝しているのは、もちろん安来節のどじょう掬いの踊りだ。その姿を描いたユーモラスな人形が、其処此処に置いてあり、ぱっと見ただけで笑えてくるものばかりだ。実演は、あの足立美術館の近くにある「安来節演芸館」で行っているらしい。でも、足立美術館であの「日本美術の粋を集大成した聖なる庭や日本画」を見ていたく感心した直後に、「田圃や川でドジョウを掬う様を描く滑稽で俗な踊り」を見たくなる人がどれだけいるのか、私にはよくわからない。要するに、客層が違うから両立は難しいのではないかと思うのである。ただ、地元の名物を何とか普及宣伝したいというその熱意と心意気には、大いに感心した。旅行会社のコースに入っているか、パンフレットを注意してみてみたい。


安来節のどじょう掬いの人形


安来節のどじょう掬いの人形


 松江に着いたのは、午後5時半である。ホテルにチェックインし、カメラを肩に掛けて伊勢宮町に向かった。というのは、事前にインターネットで調べて、松江城下の市街地にある老舗の旅館建築(登録有形文化財)を使った「巴庵」という料理屋に行くつもりだったからである。島根和牛のすき焼き鍋を注文していた。この旅行唯一の豪華な食事である。私は普段からダイエットの成果の維持のために、食事のカロリー量をコントロールしている関係で、食事はついつい控えめになってしまっている。だから、旅行中の一度くらいは地元の名物を味わって、記念にしつつ日頃の節制を一時忘れてしまいたいというわけだ。

巴庵


 午後6時前に着いたので、早いかも知れないと思ったが、入れてくれた。二階の個室に案内された。細い桟の入った引き戸、裸電球、衣紋掛け、ずっしりとしたテーブルが、この建物の年季を感じさせる。「お飲み物は?」と言われたが、ダイエットのためにアルコールも控えているので、柚子酒をソーダで半々に割ったものを頼む。これくらいで、ちょうど良い。やがて、すき焼き鍋がやってきた。島根和牛は、私の手のひらくらいの大きさのものが3枚、ただしすき焼き用のため、厚さは薄い。野菜は、ネギ、キャベツ、コンニャク、豆腐,シイタケ、エノキなどと、関東のすき焼きの材料と全く同じだ。

巴庵の島根和牛すき焼き


巴庵の番台脇


 給仕のお兄さんが、料理を作ってくれた。岡山から来ているそうだ。「自分は他の都道府県に行ったことがないので、行ってみたい。」と話す。「まだ学生さんなのだから、これから幾らでも機会があるよ。要は、好奇心つまり『知らないところへ行きたい。そして新しいものを見てみたい。』という気持ちの問題だね。」などと会話を交わす。料理の方は、まず牛脂を引き、肉を入れ、赤い色がある程度変わったところで醤油と昆布汁、野菜を入れて、味を整える。塩っぱいと困るなと思いつつ、まず仕上がった牛肉を生卵に浸け、口に運んだ。すると、香ばしい香りが口いっぱいに広がり、非常に美味しい。なるほど、料亭だけのことはある。同時に注文した豆腐サラダなるものは、いささか量が多すぎたし、掛かっているソースも多すぎた。まあ、旅行中なので野菜不足を補うという意味で、全て平らげてしまった。

暮れなずむ松江の川岸


カラコロ工房


カラコロ工房前の川


 巴庵に小一時間ほどいて、暮れなずむ松江の街に出た。このままホテルに帰るのも、芸がない。「よし、風が冷たいが、できれば松江城のライトアップを撮って来よう。」と思ってインターネット検索で調べると、ライトに照らされた松江城の写真があった。これは撮れるかもしれないと、グーグル・マップで現在地から松江城までの道順を調べたところ、徒歩20分である。行くことにした。大橋川に掛かる松江大橋を渡り、しばらく川に沿って行くと、ライトアップされた威厳のある建物に出会った。「カラコロ工房」というらしい。重要文化財のような建物にしては妙な名前だと思って検索すると、ここは元日本銀行松江支店の建物で、同支店が廃止された後は、体験工房に使っているらしい。カラコロというのは、小泉八雲が松江大橋を渡る人々のカランコロンという下駄の音に惹かれたと記述したところから名付けられたという。

島根県庁前の竹島のモニュメント


松江城の石垣の上の櫓


堀尾吉晴公銅像


 さて、かなり暗くなって来た。先を急ごう。島根県庁の建物の前を通り過ぎた。「竹島を取り戻そう」という電光掲示板と竹島のモニュメントが見える。更に行くと、いよいよ城のお堀の角まで来た。対岸の石垣の上の櫓がライトアップされている。城内に入ると、また銅像がある。これは、松江城を築城した堀尾吉晴公のようだ。「國宝 松江城」という石碑がある。高知城の場合は歴史的表示だっだが、今度は本物だ。階段を上がって行く。暗闇の中だと、かなり急に感じる。やっと天守閣に通じる門まで来た。たまたまいた守衛さんから「この門は7時半に閉まるので、もう少し良いですよ。」と言われた。時計を見たら、7時15分だ。あと15分しかない。

松江城天守閣


興雲閣


 急いで門の中に入ると、松江城天守閣がライトの光の中に浮かんでいた。天守閣を斜め横から見上げる形の、いつも写真で見る姿だ。ところがカメラの水平線を天守閣の一番上の線に合わせると、土台の線が不自然に傾く。逆に土台の線を水平にとると、今度は天守閣の線が傾き過ぎる。正解はその中間にあり、天守閣の横線も土台の石垣の横線も、不自然さを感じさせないような写真にしなければならない。こういうところは、写真の奥深いところだと思う。手早く撮って、帰途に着いた。途中で、明治の開花期のような趣きの建物があると思ったら、「興雲閣」と書いてあった。明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館だという。


6.松江城の雄姿  この項の写真

 松江城は、私にとって国宝五城(姫路城彦根城松本城犬山城、松江城)を巡る旅の最後を飾る記念すべきお城である。実は50年ほど前の学生時代に、島根県浜田市の友達の実家を訪ね、その帰りに出雲大社のほか、ここまで足を運んで松江城を見て、小泉八雲の旧居を見物したことがある。つまりは半世紀ぶりの再訪というわけだ。そのときは、松江城は、戦前は国宝に指定されていたものの、昭和25年の文化財保護法では築城年を示す文献が見当たらないとして国宝から外され、重要文化財として指定されるにとどまっていた。ところが、平成27年になって築城年を記した祈祷札が見つかり、それが天守閣の柱の本来の位置にぴったりとはまったことから、国宝に再指定されたという劇的なエピソードがある。


松江城


松江城の鯱


松江城の祈祷札


 さて、本日は朝からの松江城の撮影だ。幸い好天に恵まれ、真っ青な空の撮影日和である。昨夜と同じく階段を上がって行って門の中に入ると、天守閣が現れた。大きさは、もちろん姫路城には比べるべくもないが、コンパクトにまとまった端整なお城であり、凛とした雰囲気がただよう。国宝五城の中では、松本城に近い。ただしあちらはお濠に囲まれているが、こちらはそうではなくて、天守閣そのものが、地面にデンと鎮座している。建物について見ると、まずは正面の入母屋破風とその下の華頭窓が優雅な印象を与えていて、次に正面入り口に出ている附櫓が親亀に対する子亀のような感じで微笑ましくなる。天守閣の頂きには左右に鯱鉾があるが、これは木彫の銅張りだという。写真を撮っていった。観光絵葉書になるような写真が撮れた。

松江城天守閣に通じる階段


松江城天守閣最上階


松江城天守閣最上階からの眺め


 天守閣の中に入った。五層になっている。急な階段を上がって行くと、木組みが美しい。最上階にたどり着いた。するとこの城は、建物の中から直接、外の風景を見ることができることに気がついた。例えば同じ国宝の犬山城は、最上階の周りにある、当世風に言えば「ベランダ」部分に出て外を見るようになっている。それがこの城にはベランダ部分がない。代わりに窓の開口部が大きい。その分、建物の維持管理が大変ではないかと心配になる。もちろん、外の風景は素晴らしい。見飽きないで、しばらく眺めていた。下の芝生広場の緋毛氈の上で、2人の子供を並べて写真を撮っているカップルがいる。実に微笑ましい風景だ。

2人の子供を並べて写真を撮っているカップル


国宝指定書





7.小泉八雲旧居  この項の写真

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、数奇な運命をたどった作家である。記念館における展示に書かれていたことを思い出すままに書いていこう。ラフカディオは、1850年に、アイルランド出身の軍医補としてギリシャに赴任中の父チャールズと、ギリシャ・キシラ島の出身の母ローザとの間に生まれた。2歳の時に両親に連れられてアイルランドのダブリンに移ったものの、母ローザは現地の気候風土に馴染めなかったのか、精神を病んで単身ギリシャに戻り、二度と息子に会うことはなかった。母に見捨てられた形のラフカディオは、厳格な大叔母の下で育ち、孤独な少年時代を送ったという。

 16歳の時に、遊んでいたときの事故で、ラフカディオは左目を失明してしまった。不幸は続く。19歳の時には、頼みの大叔母が破産してしまった。このため一人でアメリカへの移民となり、赤貧の生活を送るが、たまたま入ったシンシナティの新聞社で文才が認められて、ジャーナリストとして独り立ちした。その後、ルイジアナ州ニューオーリンズで働き、さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住んだ。同島では現地のブードウー教に魅せられたという。ニューオーリンズ時代に万博で目にした日本文化に興味を持つようになり、さらにはニューヨークで読んだ古事記の影響で来日を決意し、1890年4月、横浜に降り立った。これは、新聞社と契約して(今ならカメラマンだろうが、当時のことだから)挿し絵作家とペアで来日したのだが、船中でその新聞社からもらう報酬を比較してみると、自分の方が低いことがわかったラフカディオは、憤慨して辞表を出してしまった。


小泉八雲旧居の入口


小泉八雲旧居の庭


 ところが幸いなことに、その年の8月に、松江の島根県尋常中学校に職を得て英語教師となった。そこで、ある時高熱を出して病の床に伏せっていたところを、士族の娘の小泉セツが甲斐甲斐しく世話をしてくれて、二人は結ばれたという。セツは、非常に教養があり、各地の物語にも良く通じていて、それがラフカディオに大きなインスピレーションを与えたという。ただ、松江のような寒い土地は苦手だったようで、住んでいたのは僅か1年半余り、それから熊本第五高等中学校に赴任し、次に神戸クロニクル社に勤め、1896年9月から東京帝国大学文科大学講師として英文学を講じたという。同年には小泉セツと正式に結婚して、日本に帰化した。二人の間には、三男一女が生まれた。

小泉八雲旧居の室内


小泉八雲の机


小泉八雲の写真


 ということで、ラフカディオ・ハーンは、日本でその54歳の生涯を終えることになったが、こうした経歴をみると、彼が好んだ怪談話の背景が、ようやくわかったような気がする。また、彼の肖像画は常に右顔を向けているのは不自然だと思っていたら、これは失明した左目を隠していたのだという。なるほどと納得した。記念館の隣が旧居で、私にとっては半世紀ぶりの再訪だった。昔の記憶とほぼ同じだったが、彼の机のレプリカが置いてあった。机はものすごく高いが、椅子はむしろ低い。彼の身長は高々160cmほどだったので、これはなぜかというと、彼が極度の近視だったことから、こういう背の高い机でないと、読み書きができなかったためだという。


8.堀川遊覧船  この項の写真


堀川遊覧船


堀川遊覧船ルート


 小泉八雲旧居から、武家屋敷が連なる塩見縄手通りと茶道の明々庵を見物し、観光用のレイクラインバスで、ふれあい広場まで行った。そこには、堀川遊覧船の発着場があって、それに乗り込んだ。出発する前に、「このコースには16箇所の橋がありますが、うち4つは高さが低いので、ぶつからないように、このオレンジ色の屋根が下がります。両脇の舷側の支柱も下がるので、気をつけて下さい。それでは練習しましょう。」と言って、皆でやってみた。屋根が下がり、それが思ったより低いので、女性は前向きに上体を倒せばよいが、男性陣はそんなに身体が柔らかくないので、恥ずかしながら仰向けと相成った。一緒にいた若い女性は「こんなアトラクションがあるなんて、面白い」とはしゃいでいた。

堀川遊覧船


堀川遊覧船の船内(舳先から進行方向を向く)


堀川遊覧船


 その小舟が出発した。一周3.7kmである。HPでは、「松江城を取り囲む堀川は、松江城築城の時につくられました。船は堀川を約50分かけてゆっくりと遊覧します。船上から眺める松江の街並みはどこか懐かしく、水辺を彩る草花や水鳥が四季を感じさせてくれます。16もの橋をくぐり抜けるときは橋の高さにあわせて屋根が下げられ、乗り合わせた人たちとの語らいを一層楽しいものにさせてくれます。」とある。

藤の花


石垣の脇を通る


 堀川の色は緑だが、臭いはない。船頭さんによると、毎朝、水を補給しているそうだ。川の周囲には、藤の木が紫色の花を付けていたり、少しだけだが花菖蒲が咲いていたりする。水の中には野鳥や亀がいて、のんびりとした雰囲気だ。ただし、灯台下暗しとでも言うのか、お城の直ぐそばを走っているというのに、肝心のお城の姿が見えない。コース終盤に差し掛かって、一瞬のことだがやっと見ることができた。さて、背の低い橋に差し掛かった。天井というか、屋根が下げられる。乗客はそれに合わせて倒れ込んだり、前屈みになる。やがて橋が過ぎると、また天井があげられて元に戻る。確かに、アトラクションとして見れば、なかなか面白い。橋によっては、船頭さんが「この橋の下は、声が響くんです。」といって、民謡まで歌ってくれる。サービス満点だ。

高さのない低い橋を通る


その時。屋根が下がり、船内では身を屈める。


鴨が泳ぐ


 また、船頭さんは「ここ島根県の人口が最も多かったのは、昭和35年(1960)で、93万人。ところが、その後 、人口は減っていって、今は70万人を切った。国の高度経済成長は、島根県には関係なかったのでしょうか。」と語る。いやいや、高度経済成長は昭和30年代半ばから40年代半ばにかけてのことであり、島根県もその恩恵を受けたからこそ、その当時に人口最盛期を迎えたわけである。ところが平成年間に入り、それまで日本の経済成長を支えてきた製造業が、次々に台頭する韓国、台湾、中国などとの競争に破れ、折からの円高もあって日本各地にあった工場を国外へと移すようになった。その結果、地方では働き口がなくなり、若者は職を求めて都会に出て、地方の空洞化と高齢化が進んだ。これは、経済のグローバル化と、日本経済の衰退の縮図なのだ・・・と、こういうことではないかと思っている。

 しかし、地方といっても、例えば愛知県は、人口は継続的に増加している。それというのも、トヨタという輸出で稼ぐ基幹産業があるからこそだ。たまに名古屋に行くと、新しいビルが雨後の竹の子のように次から次へと建っているのだから驚く。こういう稼ぎ頭のない地方は、そもそも若者にサービス業くらいしか新しい職を与えられないのだから、人口が漸減していくのは、残念ながら避けられないことだ。かつて、これを政治的に対応しようと、東京などへの一極集中を是正するといって、法律で、都市部の工場立地制限と、大学立地の制限策がとられたことがある。ところが製造業の工場は賃金の高い都市近辺での立地は避け、地方に向かうどころかそのまま海外へ工場を移転してしまった。大学についても、結果的には一部の大学を東京の中心部から八王子近辺に追い出すにとどまっただけで、そのうちかなりの大学が再び23区内に戻ってきてしまった。東京の中心部にいないと、学生も何の知的刺激も受けないし、また教える教授の方も不便を感じるからである。そういうことで、この法律は廃止されてしまった。社会経済的に合理性のない政策は、結局は上手くいかないのである。


遊覧船の中から一瞬だけ見えた松江城


武家屋敷の附近を航行中


あやめの季節だ


 その点、この松江は、また別の道を歩むことにしたようだ。昔から街並みが変わらないというのを逆手に取って、それを観光客に見せる観光業だ。そもそもこの松江は、戦国大名の尼子氏が築いた月山富田城という山城から、堀尾吉晴の子である堀尾忠氏が統治に便利なようにと平城を造営する場所を探し、その結果、今の土地に決めたもので、その当時の縄張り(都市計画)が、現在もそのまま残っているという。だから、この堀川遊覧船に乗っていると、昔のままの街並み、創建当時の石垣など、どこか郷愁を思い起こされる風景に出合うのである。言葉は悪いかもしれないが、最近の経済成長から取り残されていたからこそ、古き良き日本の情景が残り、それがまたとない観光資源になっているというわけである。この遊覧船は平成9年に始まり、船頭さんは60から70歳代が主力で頑張っているとのこと。その年代が活躍できる場を設けるというのはとても良い考えだし、この地で人生経験を積んだ船頭さんの話を聞くと、実に為になる。それに、地域最大の観光資源(?)である出雲大社とセットで観光客にアピールできれば、十分に生き残ることができるだろう・・・とまあ、船に乗りながらそういうことをぼんやりと考えていたら、クルージングの50分間は、瞬く間に過ぎてしまった。


9.松江フォーゲルパーク  この項の写真


観光客に便利なレイクラインバス。運転手さんはほとんどが女性だった


 松江中心部の名所旧跡をあらかた見て、堀川の遊覧船にも乗ったので、さてこれからどこへ行こうかと思っていたところ、乗り込んだレイクラインバスが宍道湖温泉駅に着いたので、その名前に惹かれて降りてみた。さぞかし古い温泉旅館が並んでいる街かと思いきや、だだっ広いバス乗り場とポツンと建っている一畑電車の駅があるだけで、何だか物寂しい。その電車も、1時間に1本しかない。出たばかりだから、あと1時間弱も待たなければならない。交通網がこれほど薄いとは・・・時間が有効に使えない、困ったものだと思いながら周りを見回した。街路樹に「ベニハナミズキ」というのがあって、普通のハナミズキが白い花をつけるのに対して、これはその名前の通り赤味のあるハナミズキの花をつけている。それを撮っても、なかなか時間がつぶせない。

紅花水木


 ふと見ると、白くて大きな建物があって、ホテルらしい。そこの喫茶店に入って行き、出雲プリンと有機珈琲を頼んだ。店員さんによると、温泉街がこの場所に移転してきたそうだ。珈琲を飲みながら、次の作戦を立てる。この駅が始発の一畑電車に乗ると、松江イングリッシュ・ガーデンと、松江フォーゲルパークという行楽地へ行ける。「フォーゲル」というのは、ドイツ語の鳥のことだろう。何となれば、私の学生のときには「ワンダーフォーゲル部」、略して「ワンゲル部」つまり渡り鳥という部があって、軽い登山やスキー、ハイキングに興じていたものだ。すると、ここに行けば鳥が撮れる。明日は牡丹ばかりを撮ることになるから、ここで動きのある鳥を撮るのは一興だと思って、松江フォーゲルパークに行くことにした。

松江フォーゲルパークに入ったところ


松江フォーゲルパークというが「花鳥園」とでも言うべきか


 着いてみると、「午後3時からショーが始まります。真っ直ぐ行って突き当たりです。」と言われた。あと15分しかない。正式な順路とは逆になったので気が引けたが、ともかく直進して、温室センターハウス奥の広い会場に腰を下ろした。学齢期前の小さなお子さんを連れた家族連れが多い。しばらく待っていると、ミミズクを抱えた係員のお姉さんが登場した。マレーワシミミズクというらしい。顔の左右に、斜め上に向けて耳のような羽が突き出している。それを広い会場の端から端まで飛ばすのである。思いのほか、早い速度で飛ぶ。野生では狩をしているから当然か。体長は僅か40cmくらいだが、両翼を広げてサーっと頭の上を通り過ぎるので、迫力がある。観客がそのコース上でうっかりと立ち上がろうものなら、ぶつかりそうだ。

係員の腕に留まるマレーワシミミズク


マレーワシミミズクが飛び出した


飛行中のマレーワシミミズクを正面から写した


フクロウは顔が270度も回せる


フクロウが飛び出した


フクロウの空中姿勢


フクロウの空中姿勢


 ミミズク、フクロウの目は、2km先の物まで見えるくらいの性能があるそうだが、目玉は顔に固定されていて、動かすことができない。その代わり、首全体を動かして見るそうだ。それも、180度どころか、270度だというから、恐れ入る。こちらの観客の方を向いた係員の腕に止まるのだけど、首から上の顔だけはこちらを向いているから、妙な感じだ。次に登場したのはサイチョウ(犀鳥)で、その名前のように頭から嘴にかけて、犀の角のようなものが付いている。雑食性で、りんごが好きだという。ただし、もらったりんごが甘くないと、吐き出してしまうそうだから、笑ってしまう。その次に飛んだのは、フクロウで、飛ぶ前に発する鳴き声に迫力があった。飛び立った瞬間の良い写真が何枚か撮れたが、目の前を飛んでいるときは、余りにも早すぎて、ピントを合わすことができなかった。

サイチョウが飛び立つ


サイチョウが係員の腕に留まる


シロフクロウ。可愛い。


 その飛行ショーが終わり、正式な順路に戻ろうと、センターハウスを正面に向けて抜けて行った。途中、数限りないほど色々な種類のフクシアとベゴニアの花があった。フクシアの花は、鉢に植えられて、天井から吊り下げられている。実は私の家の近くにフクシアの花を植えているお宅があって、日頃から面白い花だと思っていた。フクシアの花はいずれも下向きで、典型的なのは真ん中の筒が紫色でその中心に数本の雄しべがあり、その筒を囲うようにピンク色の数枚の花びらがある。その形からして、「釣浮草」と呼ばれるほどだ。それが、ここでは筒がピンク色で花びらが白色とか、筒ではなくて八重のようになっているものとか、様々な種類があって見飽きない。係の人に「こんなに多くの鉢が吊り下げられていて、水やりはどうしているんですか。」と聞くと、「全自動で水をやっているから、大丈夫です。」とのこと。納得した。

フクシアの花


フクシアの花


フクシアの花


 そこをやっと抜けて、本来の順路に戻る。入り口右手から、動く歩道で丘の上まで登って行く。これなら、バリアフリーだ。まず、展望台があり、次に水鳥が棲む鳥舎がある。その中に入って、鳥達を見ることができる。ペリカンがいて、時々、長い嘴を水に突っ込んで斜め上に上げている。水を飲んでいるのかもしれない。路を歩いていると、その名も「ショウジョウトキ(猩々朱鷺)」という緋色の小型の朱鷺が気安く近づいてくる。

ショウジョウトキ


ペリカン


オオハシ


 熱帯鳥温室には、巨大なオレンジ色の嘴を持つオオハシ(大嘴)、先ほど紹介したサイチョウ(犀鳥)、緑色の鶏冠を持つエボシドリ(烏帽子鳥)がいる。特に犀鳥は、2年前にマレーシアのKLバードパークで実際に飛んでいるところを見たことを思い出した。それにしてもこの「犀の角」は、一体どういう役割を果たしているのだろうか、不思議な気がするばかりである。温室には、ケープペンギンもいて、園内をヨチヨチ歩くイベントもある。ふれあい温室に、緑の鳥、エボシドリ(烏帽子鳥)がいて、これが実に可愛い。あちこちのキョロキョロ見るときに、頭と身体を「く」の字のように傾けて、「あれ、何だろう。」とばかりの仕草をする。小さな子供そっくりだ。アフリカ最南端の密林にいて、昆虫や果実を食べている鳥らしい。

エボシドリ


エボシドリ


エボシドリ


 「そば亭不昧庵」という蕎麦屋があった。遠くから見て早合点して「まずい」とは、これいかにと思ったが、近付いてみると、それは誤解だった。これは「松平不昧(まつだいらふまい)」公の名前から取ったもので、紛らわしいが「不味」ではなく「不昧」、つまり偏が「日」であって「口」ではない。松平治郷はあまり全国区の名前ではないので知らなかったが、松江藩中興の祖とされる松平家第7代藩主であり、著名な茶人で、「不昧公」と言われたそうだ。今回の松江市内の旅行で、その「不昧」の名と剃髪姿の肖像画をよく見かけたものだ。ちなみに「不昧(ふまい)」とは、学問に明るいこと、道理にくらくないこと、利欲に眩まされないことをいうらしい(大辞林)。一つ、賢くなった。


10.由 志 園  この項の写真

 由志園(ゆうしえん)は、中海に浮かぶ大根島にある。「大根島」「おおねしま」とでも呼ぶのかと思っていたら、何とそのまま「だいこんしま」と言うそうだ。あまり夢のない呼び方だが、地元の特産品は、牡丹と朝鮮人参とのこと。なるほど、いずれも味わい深い産物だ。実は、私はかねてから、大根島が牡丹の産地だということを知っていた。というのは、自宅近くの上野東照宮で冬牡丹展というのを毎年1月に開かれていて、その牡丹の産地ということで、こちらの名前が掲げられていたからだ。さて、その大根島へは、米子から日のノ丸バスで境港へ行き、そこから松江行きのバスに乗っても良いが、私はゴールデンウィークの始まりということもあって、タクシーで行くことにした。話し好きの運転手さんに当たれば、地元にまつわる諸々の話が聞けて面白い。

 タクシーに乗り込んだら、運転手さんは、なかなかの博識だったので、この選択は、正解であった(注1)。途中、立派な橋を渡っていると思ったが、運転手さんに言わせれば、これは中海干拓計画の中止に伴って作られたという。そういえば、有明海の干拓事業のような、そういう話があったことを思い出した。それまでこの地にあった橋は、東京の勝鬨橋のように船が近づくと跳ね上がる形のものだったが、この新しい橋は水面上44mあるから、大丈夫だそうだ。そこを通り過ぎ、由志園に近づくと、大渋滞となった。すると運転手さんは気を利かせて、反対方向から回り込むようにした。松江方面から境港行きのバスが通る道だそうだ。そちらは渋滞することなく、直ぐに由志園に着いた。


由志園入口


由志園の池泉牡丹


由志園の池泉牡丹


由志園の池泉牡丹


由志園の池泉牡丹


由志園の牡丹


 由志園の創設者は、門脇由蔵と、その子の栄である。由蔵は、観光開発をしようと大根島に純和風の日本庭園を造ることを計画したが、その志を果たせないままに亡くなった。その跡を継いだのが栄で、昭和50年に開園し、父由蔵が志した庭園ということで、「由志園」と名付けたという。入り口の建物を抜けると直ぐそこに、赤と白の牡丹の花が松の木を囲む地面に敷き詰められている。松の緑の葉と牡丹の花の色との補色対比が、目に鮮やかである。緑も赤もお互いに引き立て合って、これほど美しい色彩があるとは思わなかった。更にその向こうには日本庭園があり、その池の中にびっしりと赤と白の牡丹の花が浮かぶ「池泉牡丹」が現れる。本日はその初日であるが、それにしても隙間なく池面を牡丹の花びらで埋めたものだ。池面が赤と白になり、その向こうに丸く刈り込まれた緑の木々、そして岩があり、その背景にまた木々があって、その上は真っ青の快晴の空である。いやこれは写真の撮り甲斐がある。しばらく、色々な角度からカメラを構えて、シャッターを押した(注2)。そこを撮り終え、順路に沿って進んでいくと、建物の中に様々な色の牡丹が置かれている。花を長持ちさせるように、気温が低く調整されている。たぶん、季節外れの時期に牡丹の花を見てもらおうとする建物なのだろう。

由志園の牡丹


由志園の牡丹


由志園の牡丹


由志園の牡丹


由志園の牡丹


由志園の牡丹


由志園の牡丹


 外に出ると、一面に牡丹の花が咲いている。牡丹という花は、各個体の形にはそれほど目立つ差はないが、それにしても色は様々である。ピンク色、赤色、白色、それらの混じった色、黄色、紫色などだ。薔薇ほどではないにせよ、こちらも育種家がいて、たくさん生み出しているものとみえる。中には面白い名前が付けられている花もあるが、この日は時間がなかったので、名前をメモすることはしなかった。

奥出雲の渓谷


奥出雲の渓谷


石楠花


橋


橋


 次に、滝のあるエリアに出た。「奥出雲の渓谷」と名付けられている。滝の水量は多く、しかも苔むした岩に囲まれていて、そこだけを見れば深山幽谷の趣きがある。振り返ると、滝から渓谷を通って流れる水の先は、牡丹の花に覆われた日本庭園の池である。更にその先には、池を跨ぐ形の赤い橋がある。さほど大きくはないこんな敷地に滝、渓谷、川、池まで作ってしまうなんて、ちょっとした大名庭園のようである。滝から降りて行くと、石楠花の花があちらこちらに植えられている。赤色、ピンク色、白色の花がまとまって咲くから、いずれも見応えがあって美しい。園内を一周してもう最後という頃に、まるで龍安寺の石庭を思わせる庭に出た。白砂に砂紋が付けられていて、水の動きを、表している。ただ、惜しむらくは、岩がもう少し存在感があったら良いのにと思われる点である。要は、もうふた回りほど大きくてどっしりした岩だと、それなりに様になったのではないかと考える。

緋鯉


石庭


 お昼近くになり、由志園が混み合ってきた。そこで、ちょうど12時の路線バスで、境港に戻った。わずか16分間の乗車で、直ぐに着いた。境港は、ゲゲゲの鬼太郎がシンボルで、鉄道車両にも、駅やフェリーの待合室にも、更にはお土産品まで、鬼太郎シリーズのオンパレードだ。一昨日、初めて米子空港に着き、JR境港線に乗ったときには、お化けの漫画にかなり抵抗を感じたが、今日改めて見て「ああまたか。」と思うと、見慣れてきた。それにしても、例えば、目玉オヤジなど、どこが可愛いと思うのか、未だにわからない。それがお土産になっているから、もう何をかいわんやである。

出雲の割子蕎麦


出雲の割子蕎麦


 境港に来て、まず地元の名物である出雲の割子蕎麦を食べた。次に「汗をかいたし、疲れたし、日焼け止めクリームを早く落としたい。」などと思っていたら、たまたま、このフェリー待合室の建物の最上階に、「展望サウナ風呂」というのがあるのを見つけた。米子空港まで行く電車は、2時間後に乗ると、午後5時の飛行機に十分に間に合う。このお風呂に入ることにした。

 その名の通り、なかなか見晴らしの良いお風呂で、正面には隠岐の島に行くフェリーが停泊している。その向こうにはフェリーが通ってきた境水道が、更に向こうには陸地が見える。それを見下ろしながら、ジャグジー風呂に入っている。ほかに入浴客は、2人いるだけだ。新たに1人が入ってきたが、いずれもかなりのお年寄りである。この居心地の良さが、好きなのだろう。お風呂から上がり、冷たいお茶を飲む。文字通り、リフレッシュすることが出来た。再び境港駅に行き、やってきたJR境港線の気動車に乗って、米子空港に行った。そこで、ターミナルビルの2階を歩いていると、出雲名物の割子蕎麦を提供する蕎麦屋があった。食べたくなって、夕食には早過ぎる時間だが、ついいただいてしまった。帰りの飛行機は定刻通り出発して、羽田空港には着陸時の混雑のため、10分ほど遅れて到着した。

 そういうことで、良い写真が撮れ、珍しいものも見たし、知的好奇心も満たされた。とても、満足出来る旅だった。惜しむらくは、家内と一緒に来られなかったことだが、また体調が回復したら、無理のないスケジュールの旅を考えたい。



(注1)中海に浮かぶ大根島

 タクシーの運転手さんから聞いた話に基づいて、大根島の由来を記しておきたい。もともと中海は、半島であった湾口部が砂州でふさがれて汽水湖になったもので、そこに浮かぶ2つの島のうち大きい方が大根島であり、実は火山だという。日本一低い火山だそうだ。二大産物のうち朝鮮人参は、200年前から松江藩が奨励して藩内全域に広がったものの、収穫に6年、休畑期間が15年と大変に手間がかかるので、今や大根島にしか残っていないという。牡丹は、300年前に全隆寺の住職さんが薬用に供するために静岡から持ち帰ったものが始まりで、今や苗木出荷量は120万本と、全国出荷量の8割を占めるようになったそうな。石楠花の苗木に牡丹の芽を継ぐ手法が開発されてから生産量が急拡大し、島内の女性は、苗木を背負って全国各地に売り歩いたものだという。タクシーの通る道すがらに綺麗な牡丹の畑を見かけたが、運転手さんに言わせると、昔はこんなものではなく、もっともっとあらゆる所が牡丹畑だったとのこと。


(注2)由志園の池泉牡丹の花

 日本庭園の池一面に3万輪もの牡丹の花を浮かべるなんて、壮大な浪費ではないかと思う向きがあるかもしれないが、実はそうでもない。大根島は、先程から言っているように、牡丹の産地である。牡丹は苗木の形で売られるが、花が咲いて種を付けるようになると苗木の負担となるため、花は受粉する前に摘んでしまうのだという。そうして摘まれた花を譲り受けて、この展示を始めたそうだ。





(平成30年5月1日著)
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