悠々人生エッセイ



マチュピチュ遺跡



目 次 
第1  マチュピチュ遺跡
第2   ナスカの地上絵
第3   リマ市内を観光
第4   ペルーの一口知識
第5   その他ペルー補遺


 マチュピチュ・ナスカへの旅( 写 真 )は、こちらから。



第1 マチュピチュ遺跡


1−1 そうだマチュピチュに行こう

 退官記念に、なかなか行けそうもないところに行こうと考えた。それにつけても思い出したのが、私が1997年に2代目のパソコンを買ったときのことである。壁紙としてパソコンの画面に映し出されたのが、マチュピチュ遺跡とエジプトのピラミッドである。どちらも神秘的な存在であるが、特にマチュピチュは、何百年ぶりに発見されたインカの遺跡として、脚光を浴びていた頃だ。一度、見てみたいものだと思っていた、今回、退官に際して真っ先に思ったのは、「京都」ならぬ「そうだ、マチュピチュに行こう」だった。

 私は、英語を話すのに不自由しないから、国内と同様、海外でも英語圏なら往復の航空券とホテルを予約して一人で行ってしまう方だ。ところが、南米のペルーというスペイン語圏で、しかも行くのに非常に面倒だと思えるマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に一人で行く自信は全くない。そこで、ツアーを探したところ、ちょうど手頃なのが見つかった。しかもナスカの地上絵も見ることができるというので、申し込んだのがこの旅の始まりである。


1−2 現地クスコまで28時間

 南米はそもそも地球の反対側にあるから、まず日本航空便でニューヨークに飛び(12時間55分)、そこでラタム航空便に乗り換えて、ペルーの首都リマへ行く(7時間40分)。リマからラタムの国内線でクスコに飛ぶ(1時間23分)。ここまで、乗換時間を入れるとおよそ28時間もの長旅である。

 途中、ニューヨークでは保安検査がますます厳しくなっていて、予め取得したESTAを持って有人の窓口に並ぶと、全ての指の指紋を取られた。それだけでなく、靴も脱がされて検査をされた。また、皆で検査待ちのときに、麻薬探知犬がやってきて、荷物の間を嗅ぎまわっていた。それを同行のツアー客で、かなりの年配の人がペットみたいに触って、係員に注意されていた。まあ、注意を受ける程度で収まって良かった。

 リマ空港でクスコ行きのラタム航空便に乗り継ぎをしようとしたら、これも一筋縄ではいかないことがよくわかった。例えば、出発まであと1時間というのに、搭乗口がクルクルと3回も変わる。4番から12番、その次は8番という具合である。中には搭乗直前に20分ほど列を作って待っているというのに、何もアナウンスなしで変更されることすらあった。後ろの方の人は、先頭の人たちが落胆した表情で列を離れていくから、そうとわかる。いやはや、こんな調子では、一人で来なくてよかったと思う。添乗員さんによれば、ラテンアメリカでは、こんなことは日常茶飯事とのこと。


1−3 クスコ市内観光

 そうこうしながら、何とか無事にクスコ(Cusco)にたどり着き、空港に降り立った。クスコの現在の人口は45万人、13世紀から16世紀にかけて栄えたインカ帝国の首都で、1533年にスペイン人によって滅ぼされて以降は、スペインの植民地支配の拠点となった。そのため、石垣はインカ時代のもので、上に建つ教会などの建造物はスペイン支配時代のものと、両者が混ざり合って独特の雰囲気がある街となっている。もちろん、インカ時代の石垣はぴったり組み合わされているのに対して、その上のスペイン時代は石ころが雑に積み上げられているから、一見して違いがわかる。


インカ時代の石垣とその後の石垣


 クスコの標高は、3,400mという。私は、これまで標高3,000mの立山連峰の雄山には、何回も登ったことがある。ところが、クスコはそれより400mも高いので、果たして身体が順応するか、心許なかった。それなのに、飛行機で着くと、直ぐに旧市街の観光に連れ出された。それも、歩いてである。平地の東京から、飛行機で着いた途端に富士山の八合目の高さを歩かされるのだから、かなりの体育会系のツアーである。しかし、振り返ってみると、かえってこれが良かった。一種の高地順応の過程になったのかもしれないと思っている。

クスコ旧市街地


クスコ旧市街地


 バスを降りたところから、旧市街地を徒歩で20分ほどかけて中心部へと向かう。道は細くて、両側に石垣が壁のようになっている石畳の登りだ。そこを高山病にならないように深呼吸しながら、ゆっくりと歩く。ところどころで石垣の壁がぱっくりと割れて、店の入り口がある。レストランや両替屋だったり、土産物屋だったり、アルパカの毛で作った衣類を売っている店などと、様々だ。

ピューマと蛇の石垣


12角の石


 ガイドが石垣の前で止まった。石垣の石を繋げてみると、ピューマとヘビに見えるという。よく分からないので、その前の土産物屋の看板と照らし合わせて見たら、なるほどそのようだ。次いで、12角の石を見た。インカ文明の素晴らしいところは、道具といえば硬い削り石と縄しかない時代に、削った石と石の間にカミソリすら通さないほどぴったりと合わせて石垣を作る技術があったことである。12角の石というのは、それが12の面で周りの石と組み合わせてあるのでそのように称され、これぞインカ文明の技術水準の象徴のような存在となっている。私はこれには感激して、その横で手を軽く挙げたスタイルで、写真を撮ってもらった。



インカ第9代皇帝パチャクテク


大聖堂(カテドラル)


ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会


 やっとクスコの旧市街地の中心部に位置するアルマス広場に着いた。中央の噴水にはインカ第9代皇帝パチャクテク(1438年から1471年まで)の黄金色の像が置かれている。インカ帝国は、元々はクスコ周辺の小さな王国だったが、それを三世代にわたる皇帝の力で南米の文明圏全てを支配下に置くようになった。パチャクテクは、その最初の皇帝である。つまりはインカ帝国の礎を築いた人物ということになる。また、マチュピチュを作りはじめた皇帝とも言われる。アルマス広場の一角には大聖堂(カテドラル)、もう一角にはラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会(イエズス会の教会)と自然史博物館、その横の建物に目立たないがスターバックスが入っている。昼食のためにそのスタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がったら、ハアハア、ゼイゼイと息切れがしてびっくりした。「ああ、これか、高地の影響は。」と思い、薄い空気を補うべく、大きな深呼吸を10回ほどしたら、元に戻った。席に座り、インカコーラという名の黄色い飲料を飲みつつ、サンドイッチを食べたが、普通に食べられた。

スタバに入り、二階へ繋がる階段を勢いよく駆け上がった


インカコーラなる黄色い飲料


 ちなみに、インカコーラとは、黄色い清涼飲料水である。別にパンチのある味では全くないので、やや拍子抜けする。現地では、このインカコーラが一番よく売れていて、本場アメリカのコーラは二番手であった。ところがその後、色々あってインカコーラは本場コーラに買収されてしまったそうだ。メニューのお値段は、もちろん現地通貨「ソル」で表示されている。しかし、USドルやクレジットカードも使える。水1本2ソル、1USドルは3ソルである。

 そのうち、身体に少し異変を感じた。尿意は覚えるが、いざトイレに行くと尿がほとんど出ないのである。しかし、クスコを離れて標高が20mと低いリマに行くと、普通に戻った。これは私の推測だが、標高の高いところでは体内の膀胱も拡張する。これを頭が膀胱が満タンだと勘違いしてトイレに行きなさいという信号を送るから、そういうことになるのだろう。気圧が身体の中の臓器にまで直接影響を及ぼしているようだ。


1−4 富士山より高いチンチェーロ展望台

 クスコは、マチュピチュ(Machu Picchu)に至る中継地点に過ぎない。これから更に延々と1時間ほど、山中の曲がりくねった山道の悪路を、小型バスで、オリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に向かわなければならない。その途中で標高3,800mの峠を越える。事前にそれを聞いて、富士山(3,776m)をも越えるそんな高い所で高山病にならないだろうかと、いささか心配だった。


チンチェーロ(Chinchero)展望台から見たチコン山


チンチェーロ(Chinchero)展望台からの風景


 ところが、それは杞憂に終わった。我々の小型バスが、休憩のためにその峠にあるチンチェーロ(Chinchero)展望台でいったん停まったので、試しにバスから降りてみた。すると、ステップを降りるときに身体がややフワフワした感じがしたものの、ちゃんと地面に降り立ち、普通に歩くことができて安心した。何でも、まず試してみるものだ。しかもこの時は、チンチェーロ展望台の正面に見えるチコン山(Chicon。標高5,000m)の勇姿には、実に感動した。天空にたった一峰、頂上に薄い綿帽子を被って、どっしりと聳え立っている。しかも、その頂上に駆け上がるように、手前からまるで参道のように登る坂道のように見える山が続いている。あまりに神々しく、かつ雄大で、富士山とは全然異なる味わいの山である。


1−5 オリャンタイタンボの町

 小型バスは、そのチンチェーロ展望台を過ぎ、木々の緑がほとんどない荒れ果てた平原を進んでいく。周りは高山ばかりだ。すると、峠を越えたところでようやく、オリャンタイタンボの町(2,800m)に到着した。手作りの日干しレンガで建てた粗末な家々が建ち並ぶ。道路には、昔の日本で言えばバタバタ、現代のタイのトゥクトゥク、つまり小型三輪タクシーが走り回っている。ちなみにこの町には、侵略者ピサロが率いるスペイン軍に対して、インカ帝国が最後の抵抗を試みた遺跡があるそうだ。


オリャンタイタンボに至る道


オリャンタイタンボの町が見えた


オリャンタイタンボの町を走るトゥクトゥク


 そのオリャンタイタンボからは、ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車に乗って約1時間45分で、ようやくマチュピチュ村に行くことができる。事前に想像していたのは、トロッコ電車に毛の生えたようなものだったが、実際に行ってみると、いやいやそれどころか、結構、本格的な客車だった。客車には色々なグレードがあるようで、我々が乗った客車はまあまあのレベルだったが、途中でそれを遥かに上回る豪華客車とすれ違った。まるで食堂車のように座席のテーブルをキノコのような可愛いランプが照らしている。ムード満点だ。あれ、これは良いなぁと思っているうちにマチュピチュ駅に到着し、駅のすぐ脇の道沿いにある我々のホテルに歩いて向かった。

ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


ペルー鉄道のマチュピチュ線の列車


インティプンク(INTI PUNKU)ホテル



1−6 マチュピチュ村

 マチュピチュ村は、これまた山中の寒村かと思いきや、とんでもない。あちこちにホテル、土産物屋、レストランが立ち並ぶ一大観光地の様相を呈している。例えていうなら、マッターホルン観光の始点の町ツェルマットのようである。そこへ、マチュピチュ鉄道で20分おきに観光客が送り込まれてれてくるから、村全体が繁盛しているわけだ。


インカ帝国の歴代王の像


 まず、村を横切るように激流のマチュピチュ川が流れている。その両側に土産物屋やホテルがぎっしりとある。川には3本の白い橋が架けられているから、渡るのは容易である。そのうち、鉄道側の川沿いに遊歩道まで設けられており、そのあちらこちらにインカ帝国の歴代王の像がある。なかなかの迫力である。また、見ていると、資材を運ぶのは、全て人力でやっている。自動車といえば、観光客をマチュピチュまで運ぶ小型バスぐらいで、そのほか例えば乗用車やトラックは、滅多に見かけない。これはちょうど、スイスのツェルマット町が、自動車といえば全て電気自動車しか許可していないのと同じようなものだろう。

インティプンク(INTI PUNKU)ホテル


 インティプンク(INTI PUNKU)ホテルにチェックインをした。部屋に入ってみると、日本のビジネスホテルくらいの設備で、やや安心した。ところが、夜中に気温13度と寒くなったので、備え付けのデロンギヒーターのスイッチを入れた。その途端、ガラン、ゴタン、ダダダッと、まるで工事現場のような音がする。この種のオイル・ヒーターでこんな騒音がするなんて、聞いたことがない。これは困ったと思ったが、もう真夜中だし、私自身も眠くてたまらないので、厚着をして、そのまま、寝てしまった。翌朝、ホテルにクレームを伝え、替えてもらった。新しいデロンギは、全く静かなものだった。

白い漏斗型の朝鮮朝顔


 この辺りは、まるで中国の桂林、マレーシアのイポーを思い起こさせるような、石灰石でできた大地が雨水で侵食されてできたカルスト地形である。あちらこちらにタワーカルスト(大きな鐘楼のような鍾乳石の岩の塊)の山々がそそり立つ。マチュピチュ山も、その一つだろう。また、村のそこここに、白い漏斗型の朝鮮朝顔(Engel’s Trumpet)の花が咲いている。日本だと、5月から6月にかけて咲く花だ。ここは南米だから季節がちょうど反対なので、今が盛りの時期なのかもしれない。


1−7 いよいよマチュピチュ遺跡へ

 その日は深い眠りにつき、翌朝は7時半頃にホテルを出発した。歩いてすぐのマチュピチュ川岸まで行って、その様子に驚いた。対岸の川沿いに、長い長い列を作って並んでいる大勢の人達がいる。マチュピチュ遺跡行きの小型バスを待っている登山客だ。我々もその中に入らないといけない。これは時間がかかるので大変だと思ったが、そうでもなく、意外と早く乗ることが出来た。


激流のマチュピチュ川の両側に土産物屋やホテル。マチュピチュ行きのバスを待つ人の列


マチュピチュ遺跡行きの小型バス


 そこから遺跡まで走って30分だという。ところが、それがつづら折りの凄い山道で、しかも道幅がとても狭い。しかも、上から降りてくる小型バスと時折すれ違う。右側通行だから、われわれのバスは右の路肩ギリギリに寄せる。下は千仭の谷だ。思わず、手に汗を握る。ヒヤヒヤしながらしばらくそれを見ていたが、途中で嫌になって遠くの山々を見ることにした。すると、多分マチュピチュ山の手前の山だと思うが、円錐形の実にいい形をしている。こんな高地(標高2,400m)にもかかわらず、山の表面は緑に覆われている。なるほど、これはマチュピチュ山の兄弟山かもしれない。驚いたことに、小型バスに乗らずに、マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達がいる。元気が余っているのか、それともバスのチケットが買えなかったのか。

円錐形の実にいい形の山


マチュピチュ村から歩いて登ってくる若い女性達


 先頭に乗っている誰かが「ああっ、マチュピチュだ。」と叫ぶ。でも、私の席からは見えない。直ぐに視界が開け、なるほど、マチュピチュ山が見えてきた。先ほどの兄弟山と同じ形だが、緑の色がもっと濃い。しばらくして、ようやく入場口に繋がる小さな広場に着いた。事前に、20リットル以上の大きなリュックは預けなくてはいけないと聞いていたので、私は小さなリュックにしていた。右手にその大きな荷物の預り所がある。中央がトイレで、1USドルを支払ったら、お釣りとして現地通貨ソルのコインをもらった。

荷物の預り所とトイレ


マチュピチュ入場口


 さて、いよいよ入場口だ。事前にもらった入場許可証とパスポートを係員が照らし合せて、やっと入る許可が出る。そこを通った瞬間、いきなり登り階段がある。しかも、階段の幅が広かったり狭かったりで登りにくい。加えて道幅がとっても狭いところもある。空気も薄い。そこを一生懸命に登るものだから、ハアハア、ゼイゼイで息切れという体たらくになり、立ち止まって深呼吸を何回もする仕儀となる。加えて、リュックには、ソニーα7IIIのカメラに、広角、標準望遠そして超望遠の3本のレンズが入っている。それだけで4kg近いし、それにステンレスの水筒1.5kgも加わる。ちなみに、マチュピチュ遺跡には、ペットボトルの持ち込みは許されていない。だから、水筒になるのだが、これらだけでも6kg近くになる。

登り階段


 その重さのリュックを担ぎながら、2,400mの高地を一気に登るものだから、我ながらよくやったものだと思う。同行のツアー客の中には、いかにもか弱そうな体型の女性がいて、この人は高山病に罹ったのか動けなくなって、添乗員さんに支えられてフラフラと夢遊病患者のように歩く始末である。幸い、この人は間もなく回復した。人間の高地順応の能力は、大したものである。たまたま、今年のノーベル医学生理学賞は、細胞の低酸素応答のメカニズムに与えられたが、我々の身体にも、そのようなメカニズムが働いたのだろうか。


1−8 展望台から見た遺跡は絶景


第1展望台から見た遺跡


 ともかく、そういう難場をやっとのことで超え、急階段を登りきって少し行くと、遺跡全体を見渡せる第1展望台(ミラドール)があった。正面にはかつてパソコンの壁紙で見た通称マチュピチュ山(正式には、ワイナ・ピチュ)と、その麓にある居住地区の遺跡が広がっている。素晴らしい景観だ。インカ帝国がここを選んだ理由がわかる気がする。それにしても、40時間近くをかけて、やっと対面することができた。はるばる地球の反対側まで来た甲斐があったというわけである。しかもこの日は天候に恵まれて、快晴だから、真っ青の空の下に緑の山が鎮座している。山がくっきりと細部まで余すところなく見え、まさに写真日和である。広角と標準望遠レンズで撮りまくった。

手前の段々畑が綺麗に見え、美しいカーブを描いている。


右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く途中


 その第1展望台から、右手に石垣、左手に断崖絶壁という場所を歩いて見張り台の下まで行く。そこから段々畑が綺麗に見える。美しいカーブを描いている。ここに住む人達の食料となるトウモロコシやジャガイモを栽培したのだろう。更に行くと、芝生が植わった広場があり、そこが第2展望台となる。ガイドのウィリアムさんがインカ帝国やマチュピチュの歴史について説明してくれる。私は撮影に忙しくて上の空だったが、イヤホンを通じて話は聞ける。概要こんなことを語っていた。まず、この遺跡の発見の秘話である。この遺跡は、ペルー人の農園主リサラガが、1902年に発見してそれを遺跡の窓に書き付けた。その後、1911年にアメリカ人のイェール大学のハイラム・ビンガムが再発見した(一般にはビンガムが発見者とされているが、彼はリサラガの署名を消している。功名心が強かったのか、いささかずるい。)。元々ビンガムは、別の遺跡を探索する途中に、たまたま土地のインカ族に聞いて発見したという。その成果は、1913年にナショナル・ジオグラフィック誌に発表し、一般の知るところとなった。この遺跡は、1440年に作り始め、80年ほど生活が営まれたが、完成する前に放り出されたようで、現に動かす途中の大きな石が広場に放置されている。それにしても気になるのは、この空中の楼閣のような都市は、何のために作られたのかということである。征服者スペイン人に抵抗する最後の砦だったという説もあるが、そうではなくて、どうやら王や貴族の別荘を兼ねて、太陽を崇める宗教目的で作られたという説が有力のようである。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見ると登山者が見えた。


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山頂上を見る


 ところで、その第2展望台で、カメラのレンズを広角から超望遠(70mm - 300mm)に取り替えて目の前のマチュピチュ山を撮ると、びっくりした。頂上付近は段々畑のようになっていて、そこを登山者が登っているではないか。遺跡と山登りを兼ねた一石二鳥の楽しみ方だ。そういえば前夜、同じホテルに泊まっていたドイツ人夫妻と話をしたら、これからマチュピチュへ登りに行くと言っていたが、なるほど、これのことかと納得した。ちなみに、マチュピチュ山に登るには、許可証が必要だそうだ。

超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


超望遠(300mm)に取り替えてマチュピチュ山麓の広場・神殿・居住地区を見る


 少し降りて、第3展望台の方へと行く。ああ、これだ。ここから見たマチュピチュ遺跡の風景が、まさに昔のパソコンの壁紙そのものである。22年越しに、やっと本物を見ることができたというわけだ。写真だけでなく、記憶にしっかりと焼き付けた。そこで気がついたのは、マチュピチュ山には緑が多いのに、谷を隔ててその左手に広がる山々には緑がほとんどなく、まさに禿山なのである。ガイドが言うには、このマチュピチュだけは、周囲の山々からの湧き水があって、それと発生する霧で水分が補われているそうだ。なるほど、緑深い理由と、なぜここが選ばれたかという理由がわかった。

マチュピチュ遺跡の風景


石積みの門


石でできた受け具


マチュピチュ遺跡脇の風景


硬い黒っぽい石


 さて、それからいよいよ、眼下の広場・神殿・居住地区へと降りていった。石積みの門をくぐるとき、たぶん門扉を固定したのであろうと思われる石でできた受け具があった。なかなか、芸が細かい。まず、左手の石切場に行く。ここでガイドが見せてくれたのが、硬い黒っぽい石で、これで加工したそうだ。ところで、ここからマチュピチュ遺跡を左手から見ることができる。これまでとは別の角度から見るというだけだが、新鮮な感覚がする。

超望遠(300mm)で見た太陽の神殿


コンドルの神殿


 マチュピチュ遺跡に入るにはチケット(許可証)が必要だが、それに加えて太陽の神殿に登るには、今年の3月から午前中だけ、それも500人に限定されたようだ。遺跡保護のため、入場制限が次第に厳しくなるようだ。そういうわけで、残念ながら太陽の神殿は見られなかったが、3つの窓の主神殿 (神様ウラコチャのために作られた)と、コンドルの神殿はじっくりと観察できた。このうち前者の主神殿は、最近の研究で夏至や冬至の日に太陽の光がその先の石に当たるように設計されていることがわかった。後者のコンドルの神殿は、地面にコンドルの首の白い部分を模したと思われる二つの曲がった石が置かれ、それから胴体や羽根と思われる部分が見てとれる神殿である。ちなみにこの地方で古くから伝わる言い伝えでは、コンドルは、空の支配者とされている。

 居住地区には、600人から700人が住んでいたといわれる。今では屋根の木々やそれを葺いていた葉は失われて、単に壁だけが残っている。それでも、家の形はよくわかる。インカ式の強固な石積みだからこそ、これまで風雪に耐えてきたものと思われる。壁を見ると、外側に3個ほど石が突き出しており、ここに屋根材を固定していたようだ。壁の中には10センチほど引っ込んでいる空間があり、そこに蝋燭や土器などを置いたといわれている。


王の部屋


王の部屋で煮炊きする石


王の部屋


王の部屋


 王の部屋という区間があって、意外と狭くて日本の8畳間くらいのものだ。インカ皇帝や貴族が来たときに、ここに泊まったと言われている。その直ぐ前には、台所として使われ、煮炊きしたと思われるような二つの石がある。なお、最近のことだが、朝になってこの王の部屋にテントが発見された。侵入者が王様気分を味わおうと、ここに泊まったのではないかと大騒ぎになったそうだ。その近くに、湧き水を流している遺構があった。

湧き水を流している遺構


当時の家の復元


 階段状の棚田から、景色が良いなぁと思って遠くを眺めていると、突然、近くの花にハチドリが飛んできた。8cmくらいの小さな鳥で、羽を高速に動かしながら、花から花へと飛び回って蜜を吸っている。これは、めったにないチャンスだ。本来ならシャッター速度を2000分の1秒くらいにして撮りたいところだが、そんなことをしていると、撮り逃がしてしまう。仕方がないので、プログラム・モードのままで連写するしかない。ただ、焦点が少し広範囲なので、手前の花に合ってしまう。これも、無視するしかない。そうした中で、やっと何枚かハチドリの写真が撮れた。これは、今回の旅行での幸運の一つである。素直に嬉しい。更にその先を行くと、なんとまあ、リャマだと思うが、首の長い羊のような動物がいた。我々が狭い階段を登っていくと、その脇をすり抜けるように降りていく。おとなしそうで、助かった。

ハチドリ


ハチドリ


ハチドリ


リャマがいた


 さて、ひと渡り見て、入場した門の方に向かう。マチュピチュ遺跡では、見学は一方通行で、後戻りはできないことになっている。太陽の門へと続く道への分岐点に来た。そこからはインカ道で、小1時間ほど歩くと太陽の門と言われる見張り台に出るそうだ。私は当初行くつもりだったが、最初の登り階段でバテる寸前になったので、それは諦めることにした。後から、行った仲間から写真をもらったが、マチュピチュ遺跡全体を眺め下ろす見晴らしの良いものだった。

ヘリコニア


 今は10月の初めで、南半球は、これから春に向かおうとする時期である。ここマチュピチュは、私が登った午前中の時間の気温は、17度くらいであるが、直射日光が強くて、とても暑く感じ、汗をかいて下着がびっしょりと濡れてしまった。そこで、遺跡を退場してからその前にあるレストラン「サンクチュアリ・ロッジ」に入り、濡れた下着を着替えさせてもらった。そのついでにバイキング形式の昼食をとり、これはなかなか美味しくて、まさに格好のリフレッシュとなった。総じて、ペルーの食事は、どれもこれも私の口に合った。また、ミュージシャンがやってきて、ギターとともに、サンポーニャという笛を束ねたような楽器で「コンドルは飛んでいく」を奏でてくれた。サイモン&ガーファンクルを思い出して、懐かしい。


1−9 モルモットの丸焼きが名物料理

 マチュピチュ遺跡を小型バスで出たのは午後2時頃で、帰り着いたのは2時半過ぎとなり、それからお土産物屋を冷やかしたり、家内へのお土産としてペルーならではのTシャツを買ったりした。ホテルの部屋からはWiFiが通じたので、日本へメールを送ったりし、のんびりと過ごした。こういう時間も大事である。その夜は、添乗員さんが案内してくれたレストランで夕食をとった。まあ、なんというか、店に入った瞬間、壁という壁に名刺が貼ってある。炭火焼きの鶏肉、レモンソースの鱒などが美味しかった。看板メニューは、モルモットの丸焼きだった。パリパリして美味しいよと言われたが、さすがにそれは断った。

 ホテルに帰り、さあ寝付こうとしたら、まるで滝の中にいるのかと思うくらいの大雨が降った。なるほど、これは山の中ならではの天候である。急変すると、こんな風になるようだ。その中を、早朝に出発していくパーティがいた。大変だなぁと思う反面、昨日の我々は本当に天候に恵まれたと、感謝しなければならない。その幸運の続きかもしれないが、我々がホテルを出る時間になると、もう雨は上がっていた。ホテルの玄関を出てみれば、あれだけの大雨だったのに、朝鮮朝顔の花がしっかりと咲いていて、芳香まで漂わせているから、驚いた。でも、この花には毒があるそうだ。

 さて、ホテルを早朝出た我々は、来た道を逆にたどり、マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻り、そこから小型バスでクスコへ、クスコから国内線の飛行機でリマに向かった。それから我々は、次の目的地、ナスカに、大型バスで向かった。このバスには、USBで充電できる端末があったので、助かった。


1−10 インカ道を歩く人々

 マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻る途中、列車は川の急流の傍を通っていく。とあるところで、紺色の同じ制服を着た大勢のポーターらしい人々が荷物を担いで、一列となって細い道を歩いていくのを見た。やがて列車は駅に停車した。ピスカクチョというところらしい。そこに、登山者らしい外国人が何人か集まっている。


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


マチュピチュ鉄道


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)


 ガイドによれば、これは80kmを3泊4日の行程で、昔のインカ道を歩くツアー(インカ・トレイル)だという。最終目的地は、先ほどの太陽の門という見張り台で、それからマチュピチュ遺跡を見学することができるらしい。あの大勢のポーターは、コックまで伴ってお客さんに先回りしてテントや食料を運び、そこで、宿泊してもらいながら、マチュピチュ遺跡まで歩いて到達するのだそうだ。お値段は、一人1,200USドル(13万円)だという。


1−11 リマのマヨール広場

 その日は夕方にリマ(Lima)市内に入り、時間があったので、大統領と議会が対立して閉鎖中というマヨール広場に行ってみた。警官隊が規制して、広場の中には入ることはできなかったものの、周囲から大統領官邸、大聖堂などを眺めることができた。厳戒体制にあるといっても、緩い規制線である。大聖堂の中のキリストやマリア像は、非常に美しかった。また、周囲の商店街は、なかなか賑わっていた。


マヨール広場を警戒する警官隊


リマ大聖堂


政府機関


リマ大聖堂内部


リマ大聖堂


リマ大聖堂内部


賑わう商店街





第2 ナスカの地上絵


2−1 早起きしてイカ飛行場へ向かう

 前日、マチュピチュから夕刻にリマ市内に入り、シェラトン・ホテルに泊まった。翌朝、ナスカの地上絵を見るために飛行場に向けて出発するのだが、それが早朝4時半だという。これは早いなと思ったら、ナスカの地上絵を見るには、3つの飛行場のどれかに行かなければならないという。リマ飛行場、イカ飛行場、ピスコ飛行場である。


リマからイカ飛行場に向かう途中は砂漠そのもの


イカ飛行場


 この中で、リマならすぐそばなので問題ないのだけれど、この旅行会社が契約しているのはイカ飛行場だから、そこに行くには、砂漠の中を伸びるパンアメリカン・ハイウェイを300kmも走らなければならないという。よって、朝9時のフライトに間に合わせるには、どうしてもこの時間になるとのこと。ならば仕方がない。早起きしてバスに乗り込んだ。


2−2 ナスカの地上絵とは

 ナスカは、亜熱帯の砂漠地帯にある。ナスカの地上絵の数は、確かなもので700を越え、おそらく800以上、いやいや最近でも新たに発見されているから1000ぐらいはあるのではないかと言われている。いずれも、一筆書きである。つい90年前ほどまでは、そんなものがあるとは誰も知らなかった。ところが、1930年代から商業航空便が飛ぶようになると、飛行機のパイロットの間で話題になり、そこで初めて知られるようになった。

 地上では、30cmから80cmほどの幅を15cmほど掘って表面の黒くなった小石を取り除き、それで溝を作って絵が描かれる。1世紀から7世紀にかけて描かれたと推定されているが、日本だと弥生時代の晩期から邪馬台国時代を経て古墳時代に描かれたということになる。つまり、およそ2000年前から1300年前に描かれたものなのに、年間降水量が僅か1mmという土地なので、現代まで残った。

 数年前に、NHKの番組で、地上絵を実物の半分の大きさで描く実験をした。それによると、道具として、木の棒に紐、小さな鋤を使う。表面の黒い土をどけると、下に風化していない白い土が現れる。これが、絵を描く作業となる。その前にまず、小さな下絵を描く。それを同じ倍率、例えば30倍で伸ばしていく。小さな紐でそれを何回か繰り返し、同じ点を横に結ぶ。その点同士を結ぶように鋤で地面を掘り返して線を引く。ナスカは気温40度にもなる極暑の地であるが、僅か4時間で本物の半分の地上絵を描くことが出来た。

 実際に描かれた地上絵のうち、今回の飛行で見られる可能性のあるものは、クジラ、コンパス、宇宙飛行士、三角形、猿、犬、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、トカゲ、フラミンゴ、鸚鵡、木、手、花、渦である。これらを描いたのは、古代ナスカ人で、砂漠にトウモロコシを栽培した農耕民族である。砂しかない全くの不毛の地のように見えるが、どうやら地下水を使っていたようだ。

 次に、何のためにこの数多くの地上絵を描いたのかが、最大の謎となっている。気球をあげてその上から見るためだという気球説もあれば、この地に根を下ろして60年以上にもわたってこれを研究し、かつ保存運動を主導したドイツ人のマリア・ライヒェ(Maria Reiche)さんが唱える天文カレンダー説、山形大学が言うところの天の川説、つまり天の川の動物を地上に写し取り豊作を祈願する説など、様々な説がある。地元に言い伝えでもあれば別だが、現代の住民は古代ナスカ人とは全く関係がないので、当てにすることはできない。現に、火星人が描いたとか、宇宙と交信するためだとかいう人もいるくらいだ。

 では、何が正解なのだろうか。一つは、農業用水の確保が関係しているのではないかと言われている。元々、「ナスカ」の語源である「ナナスカ」は、辛く過酷な土地という意味だ。2000年前に描かれた大三角形の地上絵は、先端が、白い火山 (セロブランコ)の方向を指している。反対方向の長辺には奇妙な穴ぼこがいくつもあるが、これらは一連の井戸である。しかもこれらは相互に結ぶ地下トンネルで横に繋がっている。ということは、水源と地下水脈がどう繋がっているのかを示しているのが、この大三角形地上絵の意味だと推定される。

 この地方では、コンドルが水源の山から飛んできて、反対方向の海の方に行くと雨が降って井戸に水がたまるという言い伝えがある。同様に、ハチドリは、山に雨が降ると姿を現わす。普段は海にいるペリカンが出ると雨が降るなどと信じられている。だから、こうした水のないところでは、ともかく水を得ることが大事であるから、そのために天空にいる神々に捧げられたのが地上絵ではないかと考えられる。もっとも、渦巻き模様や人間の生首のように何のために描かれたか想像もつかないものもある。


2−3 小型機に乗り込んで飛び立つ

 さて、我々は予定通り、午前9時前にイカ飛行場に到着した。粗末な掘っ建て小屋を想像していたが、それどころか結構立派な建物である。メガネをかけた年配の知的な女性の肖像画が壁一面に描かれていると思ったら、それが、マリア・ライヒェさんである。地上絵を研究し、その保護活動をする傍ら、これを見るために30mの鉄製のタワーを建てたそうだ。


マリア・ライヒェの肖像画


乗り込む小型機


 12人乗りのセスナ機が2機稼働しており、我々ツアーメンバーの数は28人だから、12人ずつ2組と、4人が1組で、各フライトは1時間15分である。私は最後の組となった。だから、最初の組が搭乗してから2時間半後の搭乗となる。ところが、天候が悪くて最初のフライトがちっとも始まらない。靄がかかったり、砂嵐が発生しているようだ。待ちくたびれた頃に、ようやく第1便が飛んだ。それから待ちに待って、私のグループが飛んだのは、午後1時を回っていた。

 セスナ機のバランス調整のため、予め、手荷物を含めた搭乗者の体重測定があった。私は、80kgと出た。カメラなどの機材や衣服、靴や水も含むから、こんなものかと思ったが、他のツアーメンバーを見回すと、おそらく一番重かったのではあるまいか。だから、私の座席位置は前の方だと思われた。

 いよいよ出発だ。その30分前に、酔い止めの薬を飲んだ。私は、予想通り最前列の左側の1番、つまり主パイロットの真後ろの席だ。飛んでいる途中のコックピットの画面がよく見える。地面との傾きなどが、ビジュアルで良くわかる。ナスカの地上絵は、上空250mで見るそうだ。


パイロットの画面


砂漠の中の町


川が流れた跡


川の両岸の緑


 飛行場を飛び立ち、ナスカ平原に向かう。ほとんどが何もない土漠である。途中、リーヘニョー川のあたりは、その両脇に、地下水脈のおかげで緑の谷ができている。さて、何もない不毛の地を更に進む。「あっ、線が見える」と思ったら、川が流れた跡だ。おや、機体が上下するピッチングが出てきた。気流の影響だろうか。あまり良い気分ではないが、でもこれくらいなら大丈夫だ。

 更に行くと、機体が左手にローリングする。困った。少し気持ち悪くなる。パイロットが突然、「ココ、ココー」と鶏のように叫ぶ。一体何のことだと思ったら、日本語の「ここ」だった。思わず笑えてくる。その地上絵を撮ろうとし、下を向いてカメラのファインダーを覗き込む。クジラの絵だ。おや、参った。気持ちが悪い。ミラーレスだからファインダーをのぞき込む必要はなくで、画面を見るだけでよい。しかし画面だけを見ることにしても、同じように気分が悪くてかなわない。飛行機酔いだ。仕方がない。カメラを覗き込むのはやめて、顔を上げて前を向き、レンズを地上に向けて盲滅法に連写する。静音モードにし忘れたので、ダダダッ、ダダダッ、ダダダダッと、まるでマシンガンの連射だ。撮れているかどうかも、確かめる余裕もない。私の真後ろの人も、同じような連写をしている。

 おっとまたローリング、今度は右手だ。またパイロットの鶏の叫び声がする。それに応じてまたカメラを連写する。ああ、あちらの向こうに見えるのは、猿だ。おお、ハチドリだ。コンドルだ。目に見える限り、カメラをそちらの方向に向けてまた連写をする。一体全体、こんな調子で撮れているのかどうか、さっぱりわからない。これは、帰ってからのお楽しみだ。それより、飛行機に酔ってしまわないように、しなければならない。ひたすら前方の遠いところを見る。ああ、ローリングがやっと終わり、地上絵エリアを離脱するようだ。よかった。何とか耐えられた。やがて飛行機は、無事に着陸した。


鯨


宇宙飛行士


猿


犬


トカゲ?


渦巻


鸚鵡


小動物


6花弁の花


マリア・ライヒェのタワー


 帰ってから、カメラの画像をチェックしたところ、しっかり写っていたのは、鯨、宇宙飛行士、猿、犬、鸚鵡、木、トカゲ、フラミンゴ、渦巻き、6つの花弁の花である。残念ながら、ハチドリはカメラの角度が悪くて尻尾のみ、コンドルは肉眼では見えたのに全く撮れていなかった。でも、これほど撮れたので、満足しよう。

土産物の刺繍


土産物の刺繍


 帰りのバスが立ち寄ったのは、日系人がやっている土産物屋である。私は普通、土産物は買わない主義だが、こちらにあった刺繍には、目を奪われた。インディオやアルパカなどアンデス文明の風景が描かれていて、実に可愛い。孫娘にあげるお土産として、買い求めた。



第3 リマ市内を観光


3−1 リマ旧市街

 ペルーの旧市街にあるシェラトン・ホテルに泊まった。大きな道を隔ててその向かいにある立派な建物は、ペルー最高裁判所である。ところが、治安が良くないので、写真を撮るのならホテル側からにして、絶対に道は渡るなとガイドさんに言われたので、ホテルからの遠景を撮るにとどまった。


ペルー最高裁判所


 前日、旧市街中心部のマヨール広場(別名は、プラザ・デ・アルマス[武器の広場])に行った。実はその数日前に大統領が議会を閉鎖したので、この広場には近づくことができないと、添乗員さんに連絡が入ったようなのである。どういうことかというと、元々犬猿の仲だった大統領と議会との対立が限界に達して、ついに大統領が議会閉鎖という強権を発動したそうだ。そうすると、このマヨール広場にはデモ隊が押し寄せるので、事前に封鎖してしまうのだという。ところが我々が行ったときには、やや規制が緩められて、広場そのものには入れさせないが、広場を眺める周囲ならばよろしいということになり、だから遠目に見ることができた。我々観光客の目の前には完全装備の警察がいる中、広場を眺めるという不思議な光景となった。我々の向かい側には大聖堂(カテドラル)、その左側には大統領官邸という位置から見て、広場の周りをぐるりと回って今度は大聖堂のところから、我々がつい先ほどいた場所を眺めた。


3−2 マリア・ライヒェ公園

 マリア・ライヒェとは、ナスカ空港待合室に描かれていたドイツ人の女性で、60年以上にもわたってナスカの地上絵を研究し、その保護に務めたた人物である。この公園は、その功績を称えて海岸沿いに作られたものである。もちろん、公園のあちらこちらには、ナスカの地上絵、猿、コンドル、ハチドリ、花などが大きく描かれている。これらを道路から見下ろすと、全体の形がよくわかる。ところが階段を下りていって、その地上絵近くに行くと、全体像があまりよくわからないというのも、本物によく似ていて、何だか可笑しい。


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


マリア・ライヒェ公園


 この日は、日曜日だったので、大勢の家族連れがいて、思い思いに和やかに過ごしていた。公園の中心部では、ワンちゃんと飼い主のファッション・ショーが行われていた。


3−3 愛の公園

 次いで、愛の公園なるものに行った。公園の一角に、男女が抱き合っている像があり、なるほど、こういう像の展示は、日本では難しいだろうなと思うのが率直な感想である。


愛の公園


愛の南京錠前


 そのすぐ近くの柵には、カップルの名前が書かれている数多くの南京錠前が結びつけられている。カップルが永遠の愛を誓い合い、錠前にお互いの名前を書いてここに結びつけて鍵をかけ、その鍵を捨てるのだそうだ。


3−4 旧日本大使公邸跡

 さて、今日はオプショナル・ツアーの開始である。旧日本大使公邸跡に立ち寄った。1996年12月17日にMRTA(トゥパク・アマル革命運動)のテロリストによる人質事件の舞台である。高級住宅街の一角にある。事件解決に4ヶ月ほどかかったので連日報道され、この玄関や白い塀は私の記憶に鮮明に残っている。あの悲劇の舞台である。


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の向かいの家


旧日本大使公邸跡


旧日本大使公邸跡の門の扉


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴


旧日本大使公邸跡の門の扉に空いたままとなっている銃弾による穴から中を眺める


 玄関のドアには、未だに銃弾による穴がいくつか開いているではないか。その穴から、中を覗き込むと、中には木と(隣の家かもしれないが)建物が見える。心の中で、この事件の犠牲者に黙祷をした。



3−5 ラルコ博物館


ラルコ博物館


ラファエル ラルコ


 ラファエル・ラルコというトウモロコシ畑の大地主が、親子二代で4万5千点に及ぶ古代の墓からの発掘品等を収集した。ラルコ自身も発掘にあたり、数々の貴重な古美術品を掘り当てた。主にインカ文明以前の紀元前から13世紀頃までの品々が展示されている。この地方では、地上はピューマ、空はコンドル、冥界はヘビが支配すると考えられており、その図柄が多い。

ラルコ博物館の庭


ラルコ博物館の庭


 また、その庭は、世界の博物館の中で、第一位に輝いたこともあるほど、芸術性のあるものである。ペルー特有の色々な種類のサボテンをベースに、上からは蔦の緑の紐がいくつも垂れ下がり、それに赤と紫のブーゲンビリアの花が色を添えている。また、庭のあちらこちらには、大きな甕が、口を斜めにして置かれている。非常にユニークで、誠に趣きがある庭である。

ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


ラルコ博物館収蔵品


 展示品の中でも、印象に残ったものをいくつか掲げておきたい。パラカス文化の2つの頭蓋骨は、いずれも頭に2ないし3センチの穴が開いている。戦争の犠牲者かと思ったが、頭の手術をした痕跡だそうだ。つまり、麻酔もない時代に頭に穴を開けて、悪性腫瘍などを取り出したのではないかと言われている。しかも、傷口の状態からして、向かって左側の人物は、その手術が元で死んでしまった。ところが、右側の人物は、手術後少なくとも数ヶ月は生きていたようなのである。

パラカス文化の2つの頭蓋骨


【展示品の日本語解説】 穿孔頭蓋骨と変形頭蓋骨

 頭蓋骨の穿孔手術は、古代アンデスの様々な社会において行われていた。頭蓋骨穿孔は、儀礼の戦いや戦闘の際に起こった内出血、骨折した頭蓋骨の破損部分を取り除くための外科手術だったほか、頭痛を和らげるために行われることもあった。穿孔手術には、黒曜石のナイフや金属製(銅や銅合金)のナイフが使われた。このほかにも、頭蓋骨の変形が行われていた。独特の形に変形された頭蓋骨は、社会的身分を示していた。

 この写真の左側は成人女性の頭蓋骨で、頭頂部の穿孔には再生形跡がない。すなわち、この手術によって死んでしまったことを示している。ところがこの写真の右側は成人男性の頭蓋骨で、顔面や頭部には骨折が治癒した跡が多数存在している。これらの骨折は鈍器による戦いで生じたものである。なかでも頭頂部右側の頭蓋穿孔は再生していることから、この男性は穿孔手術後も生き長らえたことを示している。


ナスカ文明の織物


ナスカ文明の鸚鵡の羽根の織物


 ナスカ文明では、織物技術が発達していたようで、色とりどりの柄の織物が展示されていた。青と黄色の色鮮やかな織物がある。一体、どういう糸を使っているのだろうと思ったら、何と鸚鵡の羽根だった。鮮やかなわけだ。あのような砂漠でどうやって入手したのだろうと不思議に思うところだが、どうやら北部アマゾン地区と交易があったようなのである。

 出口近くには、ミイラが身に付けていた黄金の飾りが展示されている。これは、世界的に人気があって、しばしば貸し出されているが、本日は戻ってきて、本物だそうだ。


金の装身具一式(チムー文化)


【展示品の日本語解説】 金の装身具一式(チムー文化。紀元後14〜16世紀初頭)

 古代アンデスの冶金技術はチムー文化において最盛期を迎えた。この装身具は泥の都市チャンチャンに埋葬された位の高い人物のもので、王冠と胸当ての縁には羽毛があり、これは鳥、つまり太陽に最も近づくことができる存在を意味する。耳飾りには、チムーの為政者の顔が正面向きで繰り返し表現されている。肩当てには、為政者が斬首した首を持ち、正面を向いて立ちあがった姿が表現される。王冠と胸当ての羽毛部分は、ネコ科動物の顔と半月状の額飾りを持つ人物の顔が側面を向いて行進する様子が表現されている。


飾り


 インカ文明の前に、ペルーにはこんな豊かな文明が発達していたとは、ついぞ知らなかった。それにしても、いずれも文字のない文化なのである。インダス文明の楔形文字、中国の甲骨文字、エジプトの象形文字に相当するものが全くない。そのせいか、紀元前から3000年近くにわたって継続した文明圏なのに、どの時代も同じようなもので、あまり発達した痕跡がないのである。やはり、文字というのは人類の知識や経験の積み重ねを行う上で、非常に大切なものであることが、良く分かった。

キープ


 そのインカ帝国も、文字はないのは同様であるが、例外的に「キープ」という紐の色と結び目で数字などの情報を伝えていたのではないかと言われているが、正確には分からない。インカを征服したスペイン人たちが、隠れて何か悪い企みをしているのではないかと邪推して、キープを知る人物を皆殺しにしてしまったからだという。

歯の痛みに耐えている人物


 ところで、この博物館の面白いのは、所蔵品の倉庫の中も公開しているところである。壺や土器などが、棚に整然と並べられていて、その多さに圧倒される。中には、異形の土器がある。例えば、脳出血や脳梗塞の後遺症で半身が麻痺している人物、歯の痛みに耐えている人物がある。現代と変わらない。


3−6 遺跡内のレストラン

 その日の夕食は、リマ市内にある「ワカプクジャーナ」というプレ・インカ(1,500年前)の遺跡の中にあるレストランに行った。台形のピラミッドで、その周りに日干しレンガの壁のようなものが縦横に走っている。それを見ながら食事をするのである。まあ、何というか、大胆な発想である。ちなみに、この遺跡では、まだ発掘が続いているという。日本では、およそ考えられない。


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン


ワカプクジャーナ遺跡の中にあるレストラン




第4 ペルーの一口知識


 ガイドの皆さんから聞きかじった一口知識を記録しておきたい。

1.リマは雨が降らない。降っても夜中の霧雨。傘を持っていると奇異の目で見られる。傘は売っていない。

2.インティライムという太陽の祭りがあり、6月24日である。

3.アルパカには種類があり、お勧めはベイビーアルパカ、チクチクしない。

4.ペルーの国旗にある動物ビクーニャは、4000m以上の高地に住む。マフラーは10万円もする。凄く乱暴でツバを吐かれたり、蹴られたりする。

5.じゃがいもは、ペルーのアンデス山地が原産で、当地には3000種類以上ある 。日本では、最近は「インカの目覚め」という種類が売られている。

6.コカ茶は、高山病対策に効く。ただし、その名の通りコカインの元なので、国外に持ち出さないこと。アメリカでは麻薬として扱われる。

7.コーヒー は、トゥンキというブランドがお勧め。

8.ワインも有名で、中でもイカ県産が良い。

9.ピスコというのは、トウモロコシから作る蒸留酒で、アルコール度数は47%の地酒 である。これでは飲みにくいので、度数が14%に抑えたのが「ピスコサワー」である。

10.地元ビールには、ピスケーニャなどがあり、中でもクスケーニャはマチュピチュ産である。

11.アンデス山地の塩は、有名である。

12.「グイチャッカード」とは、モルモットが丸焼きで出てくる料理である。

13.フルーツの「チリモヤ」は、アンデス産である。白くて柔らかくて美味しい。ペルーでしか採れない。「ルクマ」も、ペルーでしか採れない。オレンジ色のアイスクリームなどとなって出てくることもある。「インカバナナ」もある。「カムカム」というのは、ピタミンC がオレンジの50倍もある。「マカ 」元気がでるので、「アンデスのパイアグラ」と言われる。「アスパラ」もペルー原産である。

14.「エケコ人形 」とは、願いを叶えてくれると信じられており、口が空いているのは、タバコが好きだから。色んなものをぶら下げている。

15.「トリトデブカラ 」とは、ブカラ村の子牛で、あたかも沖縄のシーサーのようなもので、家々の玄関口に置かれている。

16.「マチュピチュ」とは「古い山」を、「ワイナピチュ」は「若い山」を意味する。今では一日400人しか登れない。

17.「チチカカ湖 」は、クスコより標高が高くて4,000mもある。

18.アマゾン川の源流はペルーにあり、クルーズがある。

19.「ワカチナ湖 」は、オアシスの意味で、ボリビアとの国境にある。スポーツとして、サンドバギー、サンドボードができる。

20.インカ帝国時代に話されていた言葉は、「ケチャ語」で、地方によっては、今でも話している。

21.ペルーの国土は、60%がアマゾン、30%が山地、残る10%が砂漠である。



第5 その他ペルー補遺


 ペルーの人口3,200万人のうち、日系人は10万人だという。その多くは沖縄の出身で、そのせいで沖縄の姓を名乗る人が多い。

 マチュピチュを案内してくれたウィリアムズくんは、曽祖父が沖縄からの移民で、4世だという。小さい頃、両親が日本へ出稼ぎに行って働いたときに一緒に来日し、日本語を覚えた由。それからペルーに帰国して、高卒資格をとったと話していた。

 ナスカを案内してくれた熱川さんは、やはり日系4世で、祖父母も父母も日系人同士で結婚したから、外見は日本人そのものである。

 マチュピチュ村の初代村長は、野内与吉さん(福島県出身)という日系一世である。21歳でペルーへ移民し、マチュピチュ鉄道の敷設工事で働いたことを契機に村に定住した。水道を引き、水力発電所を作ったりして、村の発展に大いに貢献したそうだ。10人の子供をもうけたが、そのうちの孫世代の中には日本で働いている人もいる。

 今回の旅で、マチュピチュ村を歩いていると、チロルハットを被った格好良いおじさんから、いきなり日本語で話しかけられた。やはり日系人で、日本語のガイドでお金を稼いだ後、今はマチュピチュでレストランを経営しているそうだ。フジモリ元大統領はよく知られているが、その他こうして名もない日系人が活躍している姿を見るのは、嬉しいものだ。

 話は変わるが、クスコやマチュピチュ村の街中には、犬が多い。一見するとおとなしいが、万が一噛まれたりすると、大事になるかもしれない。だから、予め狂犬病の注射をしてくるべきだったと思った。





(令和元年10月8日著)
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悠々人生エッセイ





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