悠々人生エッセイ



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       目 次
前書き    
序 章    幼少年期
第1章    旭丘高校
第2章    大学受験
第3章    京都大学
第4章    通商産業省
第5章    子育て時代
第6章    内閣法制局
第7章    最高裁判所
第8章    旭日大綬章


 前書き

 私も既に古稀に達し、それから1年半余りも過ぎた。仕事一途の人生だったが、一昨年秋に退官し、ようやく自分にゆっくりと向き合うことができるようになった。そこで、まだ記憶が鮮明なうちに、これまで私が歩んだ道を書き残しておくこととしたい。

 振り返れば、夢と希望に満ちた高校時代、大学紛争に巻き込まれた暗黒の大学受験時代、希望通りに入った通産省での激務、知恵の限りを尽くした内閣法制局、守り通した憲法解釈、そして公平で理論的な判断を心掛けた最高裁判所時代と、実に色々な時代を駆け抜けてきた。

 その一方では、良き伴侶と二人の子供たちに恵まれ、充実した家庭生活を送った。中でも、家内は、心優しく暖かく、それでいて極めて有能な人なので、私は安心して家庭を任せて仕事に没頭することができた。私が順調に出世の階段を昇っていくことができたのは、ひとえに家内のおかげである。心から感謝している。





序 章 幼少年期

父母と生まれたばかりの私



1.父と母の話

(1)生まれて早々の試練

 私は、昭和24年9月26日、福井県武生市(現在の越前市)において生を享けた。父は山本幸男、母は安子である。母子手帳によると、生まれたのは午前10時25分で、体重は2,625グラムだったとある。逆子で、へその緒が首に絡みついた状態の難産だったらしい。

 身体が真っ青の仮死状態で生まれた私を、助産婦の加藤小芳さんが背中をバシバシ叩いて蘇生させたという。生まれて早々、大変な洗礼を受けたものだが、私の命の恩人である。両親にとっては初めての子で、しかも男だったものだから、叔母さんによれば、それはそれは大層な喜びようだったそうだ。


(2)母方の系譜

 母の家は、福井県今立郡上池田村(現在の池田町)にあって、2つの集落にまたがる大地主だった。かつての山本家の敷地の一部は、現在ではお寺の境内になっており、今でもその裏手の竹林には、先祖代々の石の墓が並んでいる。お寺の過去帳を遡って見ていくと、最初に記録されている先祖の没年は江戸時代の文化13年(1830年)であるから、少なくとも二百数十年は続いた家系である。ところが、戸主の病死と終戦直後の混乱で、あっという間に没落してしまった。

 母方の祖父藤右ヱ門(山本家の戸主は、代々この名前を名乗っていた。)は、いささか放蕩の気があるダンディーな人だったという。ところが、戦前、まだ壮年期の頃に結核に罹患した。元々田舎暮らしが性に合わなかったこともあり、その治療も兼ねて一家で武生市(現在の越前市)に移り住んだ。しかし病状は悪化し、終戦の直前、母が福井県立武生高等女学校に在学中、勤労動員されている時に、急逝してしまった。既に母の実母や2人の姉たちも鬼籍に入っていたことから、母は、祖母とまだ幼児だった妹を抱えて、16歳という若さで自ら女戸主となった。

 折しも、終戦直後の大きな社会的経済的混乱の真っ只中にあった。父親の放蕩に加えて、昭和21年の新円切替えと翌22年の農地改革が、山本家を直撃した。次から次へとやってくるこれらの時代の荒波を乗り切るには、未成年の母には荷が重過ぎた。そのせいで、手元の金融資産だけでなく、地元にあった先祖伝来の屋敷、田畑、山林等の不動産を悉く失ってしまったらしい。

 母は、昭和21年に武生高等女学校を卒業した。官立福井師範学校に進学して先生になるつもりだったが、父親の死去で諦めざるを得ず、17歳で北陸銀行武生支店に勤めるようになった。そして、同じ支店に行員として勤務していた父と出会い、昭和23年9月、結婚に至ったという。父は、母の山本家へ婿入りする形となった。私の出生当時、父幸男は26歳、母安子は20歳である。


(3)父方の系譜

 父は、富山県下新川郡五箇庄村(現在の朝日町)で、澤田源次郎、みよの第6子として生まれた。祖父源次郎は農家の3男であったから、実家を出て国鉄に勤めた。そして、みよとの間に、私の父を含めて8人の子供を儲けた。そのうち男子は3人で、父はその末弟であった。

 兄弟は皆すくすくと育ち、父は、伏木商業学校(現在の伏木高等学校)において柔道一筋の青春時代を過ごしたという。ところが折悪しく、時は太平洋戦争の真っ只中だった。2人の兄に赤紙が来て、いずれも軍隊に召集されてしまった。私の父だけは、上京して大学に在学していたので、とりあえずは召集を免れた。ここで父と2人の兄とでは、その運命が大きく分かれる。

 長兄叔父は、陸軍歩兵として足掛け6年にわたり中支、フィリピン、仏印方面に派遣された。左肩に貫通銃創を負ったり、ジャングルで死闘を繰り広げて生死の分かれ目をさまよったりした末に、何とか生き残って復員した。それからは兵役の前から勤めていた地元の北陸銀行に復職して、支店長まで勤め上げた。

 次兄叔父は、陸軍戦車兵としてラバウル方面に2年半派遣され、その途中で絶望的な戦いが繰り広げられたガダルカナル作戦にも参加したが、艱難辛苦の末、こちらもどうにか生還することができた。しかし、兵役当時の無理がたたったのか、昭和30年代半ば、仕事中に心臓発作で突然亡くなってしまった。

 私の父は、東京の専修大学で経済学などを学んでいた。ケインズ理論を勉強したそうである。戦局が悪化する中、とうとう父にも赤紙が来て、昭和19年9月に学徒出陣となった。ところが、入営先の陸軍高射砲部隊では、学徒出身というだけで、古参兵に目を付けられて私的制裁の対象になり、何かにつけてビンタをとられた。

 そういう時に、見るに見かねて勧めてくれる人がいて、憲兵の選抜試験を受けた。すると、幸いにもこれに合格した。昭和20年4月から中野の陸軍憲兵学校に入学し、そこで刑法や警察法などの学科の勉強のほか、乗馬での見回り等の実地訓練を受けているうちに終戦となった。そこで故郷の富山に帰ったところ、たまたま長兄が北陸銀行に勤めていた縁があって、父も同行に入行したという。


2.幼年時代は神戸で過ごす

(1)神戸市では葺合区と須磨区に住む

1歳の私


 私が生まれてから1年半後の昭和26年4月には、父は神戸の元町にあった北陸銀行の支店へと転勤になった。その当時の神戸は、前年に始まった朝鮮戦争の影響で、空前の景気に沸き立つようだったという。若い両親にとっては、神戸はハイカラな都会であり、見るもの聞くものが目新しく、楽しくて仕方がなかったそうだ。

 小説「仮面の記憶」によると、三島由紀夫の最も古い記憶は、産湯をつかった盥のふちだったという。これに対し私のそれは、2歳の頃にさかのぼる。ある日、家の近くの空き地に、バタバタ、ギュルン、ギュルンと凄い音がして、天から黒い箱が降りてきた。私は母に抱かれて、おそるおそるその箱の近くに行った。すると、箱の扉が開いて、大きな赤鬼が出てきた。しかも、自分に向かって近づいてくる。私は怖くなって、母に抱かれながら左手で母の首にしがみつき、顔を背けながら右手を「近づくな」とばかりに赤鬼に向けて突き出した。すると、右手に何かをつかむ感覚があり、引き寄せてみると、自分の手のひらより大きい四角いものを握っていた。

 つまり、空き地にたまたま米軍のヘリコプターが着陸し、そこから米兵が出てきて、幼児の私にチューインガムを握らせてくれたというわけだ。後から見ると、その包み紙にはポパイの漫画が描かれていた。ところが、幼児の自分にはサイズが大きすぎ、しかも強いニッキ(肉桂)の香りがして、とても噛むことなどできなかったことを覚えている。

七五三の私


 神戸での最初の住まいは、葺合区(現在の中央区)熊内(くもち)町にあった。そこには山の崖にへばりついているような熊内神社があり、よりによってそこに幼稚園があった。だから幼稚園に通うためには、急な階段を何十段も上がらなければならない。私はそれを嫌がって、さんざん母を困らせたそうだ。そこに3年ほど過ごして、同じ神戸市内の須磨区へと転居した。

須磨駅前の母、私、富子叔母


 それから41年後に起こった阪神淡路大震災のとき、この須磨区は、最も被害が大きかった地区の一つである。私達が住んでいた天神町の家は、須磨の綱敷天満宮のすぐ近くにあった。大震災直後にテレビを見ていると、たまたま須磨区の被害の様子が映り、私がよく遊んだ天満宮境内の本殿も塀も何もかも全て倒壊しているではないか。胸が思わず締め付けられるほどの衝撃的な映像だった。

 しかし、この大震災から12年後、私の両親に加えて、ちょうどその時に神戸で司法修習中の息子と一緒に親子3代で、天神町を訪れた。すると、綱敷天満宮が立派に再建され、私達が住んでいた家も建て替えられて新しくなっていたのは、うれしかった。その際、その家の表札を拝見すると、たまたま我々と同じ名字の山本さんだったから、これには皆で笑ってしまった。


(2)小児結核に罹る

 この神戸で、私の一家は最大の不幸に見舞われた。まず父が、職場の同僚を通じて、結核に感染してしまった。丸1年間休職し、肋骨の一部を切除して結核性空洞を押しつぶす胸郭成形術を受けて、どうやら健康体に戻り、やっと職場に復帰した。しかし、その結核が、まだ5歳だった私に伝染したのである。

 私は、塚本先生というかかりつけのお医者さんに診ていただいた。塚本診療所には消毒用のクレゾール石鹸液特有の臭いがうっすらと漂い、そこへ行くたびに採血されて、直ちに血沈検査に回された。自分の赤い血液が、細長いガラス管の中で上澄みの黄色い液体と、沈殿する赤黒いものとに分かれるのが不思議だった。レントゲン写真を撮ると、右胸の真ん中に、大人の親指大の穴がぽっかりと空いている。毎日、身体がだるくて、夕方になると判で押したように微熱が出た。体を動かしたい盛りなのに、「安静にしなさい。あまり動かないで。」と、いつも言われた。

 当時、結核といえば死に至る恐ろしい病気であり、母方の祖父藤右ヱ門も、これで亡くなった。終戦直後の日本人の死因の第1位で、私が罹った昭和29年にはかなり減りつつあったとはいえ、それでも人口1万人当たりの死亡率が6.24人にもなった。子供心にもそれは薄々分かり、「ああ、これでは、仕方がないな。この胸の穴が大きくなると、ひょっとして死んでしまうのかな。」と思ったものである。

 ところが、私は運が良かった。第2次世界大戦が終わって各国に平和が訪れ、感染症に対して新薬が次々と開発される時期に当たっていた。私も、結核の三剤併用療法といって、新薬のパスヒドラジッドの経口投与を受けるとともに、特効薬とうたわれたストレプトマイシン(通称は、ストマイ)の注射も受けた。これは筋肉に針が刺さるのでかなり痛かったが、気のせいか、注射の後はしばらく元気にしていられた。でも、診察するたびに塚本先生が「聴こえるかい?」と耳をチェックするのは、何故だろうと不思議に思った。理由を聞いてみると、ストマイの副作用で耳が聴こえなくなることがあるからだというので、愕然とした。ただ、幸いにも、私の耳に異常が生じることはなかった。

 私は、令和2年11月11日に叙勲を受けた(第8章参照)。私の知る限り、その受章者中では小宮山宏さん(元東京大学総長)と北方謙三さん(小説家)も、この頃に結核に罹患している。いずれもストマイで命拾いをした口である。受章当日、皇居宮殿で小宮山宏さんにお会いして「確か先生も、ストマイで治ったのですよね。私もそうなんですよ。」と言った。すると先生は「君の頃はストマイはもう保険適用になっていたのだろう。私の頃は、そうではなかったからひどく高価で、1本がサラリーマン1ヶ月分の給料の値段だったよ。」と話していた。私は当時は幼稚園児だったので、そんなことがわかる由もない。


(3)母の愛情深い看護

 そういうわけで、私の幼年時代は、この小児結核のせいで散々だった。熊内から須磨へと転園してせっかく楽しくなってきた幼稚園も、病状が進んだ年長組後半のときには、あまり通えなかった。とりわけこの幼児期というのは、色々な遊びや運動を十分に行うことによって、その人の一生を通じた体力や運動能力を養うことができる貴重な時期である。それなのに、如何せんこの病気のために、私はそうした普通の生活を送ることができなかった。しかも、ただでさえ結核の影響で身体が弱っているから、色々な病気に罹ってしまうのには参った。

 覚えているのは、猩紅熱になったときのことである。何日も高熱を発し、天井板を布団の上から見上げると、その全体がぐるぐると回る。目をつぶってもそれは同じで、頭までおかしくなりそうな気がした。それだけでなく、身体中に紅い発疹が現れ、舌が苺のようになってしまった。体も全く動かない。もうこれで、自分は死んでしまうのかとさえ、思ったほどである。

 母には、本当によく看病してもらった。夕方、塚本先生に往診してもらって注射を打たれたかと思うと、そのまま寝入って、気がついたらもう朝になっていた。誰かが私の顔を覗き込んでいると思ったら母で、昨晩見たのと全く同じ格好だった。その頃、父も結核で入院していたこともあり、そちらの看病も大変だったろうと思う。このときの母の愛情深い看護がなければ、今頃、私は生きていなかっただろうと思って、心から深く感謝している。


(4)粘り強く打たれ強く楽天的

 確かに、結核に感染したのは不幸なことではあった。こうした経験は、体格の形成や運動の能力という面で、私のその後の人生に少なからぬ悪影響を与えたと思っている。しかし、それほど悪いことばかりではなかったように思う。例えば、自分のその日の身体の調子や周囲の状況をよく観察してから行動するなど、慎重で用心深い性格になった。

 それに、何といっても、考え方や行動が、粘り強く、打たれ強くなったことであろう。要は、肝が据わったのである。どんなに窮地に陥っても、諦めることなく倦まず弛まず一歩一歩目の前の課題を片づけていけば、そのうち世の中の形勢が変わって何とかなるだろうと、楽天的に物事を考えるようになった。そうでなければ、この若さで、頭の片隅に常に死を意識しながらの数年に及ぶ療養生活など、とても過ごせるものではない。


(5)病気療養中でも子供らしい楽しみが

須磨駅に父を迎えに行って


 病気療養中の身であっても、少し元気になったときには、一家揃って近場へ行楽に出掛けた。中でも神戸の大丸デパートは、当時は流行の先端を行く魅力的な場所であった。食堂でお子様ランチやフルーツポンチを食べさせてもらい、屋上の遊園地で子供用の乗り物に乗った。王子動物園にもよく連れて行ってもらったし、当時大人気の木下サーカスも観に行って、空中ブランコやオートバイの妙技に目を見張った。

 そのほか、アメリカ映画で、「ダンボ」という耳が大きくて空を飛ぶ子供の象さんの話や、「ポパイ」というほうれん草を食べて怪力が出る水兵さんの話を観に行ったことも、よく覚えている。好きなお菓子は「高砂きんつば」で、父が勤めている銀行の支店近くの元町商店街にその店があり、父が帰りがけに買って来てくれるのが楽しみだった。この店は、今でも存在する。

姫路城を見学。左から母安子、私、美姫子叔母、祖母みよ


 私の祖母みよは、普段は富山の長兄叔父の家にいるのであるが、年に一度や二度は、大阪府茨木市の次兄叔父の家や、神戸に住む私の家をしばしば訪ねてきた。そして、1ヶ月ほど長逗留していくのである。私はこの祖母が大好きだった。というのは、来ると必ず、富山式の「お萩」をたくさん作ってくれたからである。時折、最も若い美姫子叔母と一緒に来てくれた。そして、皆でがやがやと話しながら、一緒に姫路城を見に行ったりした。


3.福井県敦賀市へ転居していじめに遭う

(1)田圃や境内が自然のサナトリウム

西須磨小学校1年生の学芸会で「ねずみのよめいり」劇。私は右端


 昭和31年4月、私は神戸市立西須磨小学校へ入学した。1年生の学芸会では、「ねずみのよめいり」という劇に出たことを覚えている。ところが2年生になったばかりの翌年7月、父の転勤のため、福井県敦賀市へ転居することになった。煙をモクモクと盛大に吐く蒸気機関車に乗って延々と走り、ようやく敦賀に到着した。着いてみて顔をタオルで拭うと、蒸気機関車の煙に含まれるススで、真っ黒な線があちこちに現れたのには閉口した。

 敦賀での新しい住まいとなった社宅は氣比神宮の近くの清水町にあり、家の裏手には織物工場があった。工場に近づくとガッチャン・ガッチャンと織機の音がし、工員のおじさん、おばさんたちが忙しく立ち働いていて、なかなか活気があった。その工場を通り過ぎたところで視界が一気に広がり、田圃が遠くの山の麓まで一面に続いていた。

氣比神宮


 私の好きな遊び場は、この広い田圃だった。畦道にはバッタや蝶、水路にはメダカと鮒がたくさんいた。都会育ちの私には、どれも物珍しくて、行くたびに夢中で追い掛けたものである。また、氣比神宮の境内も格好の遊び場だった。池の中に赤い腹のイモリがいるのは気持ちが悪かったが、本殿の裏の森の中に友達と秘密の基地を作って遊んだ。夏の夜には、境内脇の小川にたくさんの蛍が乱舞して、その幻想的な風景に目と心を奪われた。

 そんな生活を2年ほど続けていたら、結核が快方に向かってきた。考えてみれば、都会の神戸で療養するのではなくて、空気が澄んで日当たりもよく、食べ物も豊富で美味しいこのような田舎で暮らしたこと自体が、サナトリウム(結核療養所)にいるのと同じ効果があったのかもしれない。


(2)ラジオの言葉でいじめに

 私は、敦賀市立敦賀南小学校の2年生に転入した。ここで猛烈ないじめにあう。いじめっ子は、背の高い「大将」と、その取巻き連中である。いじめられた理由は実に単純で、私の言葉が全然違っていたからだ。大都会の神戸と比べればそこは鄙びた田舎で、周囲の人々が何の話をしているのか、さっぱり理解できなかった。それどころか、私が何か話しはじめると「おまえのしゃべるのはラジオの言葉だ、生意気だ。」というわけである。

 今から思うとそれまで私が住んでいた神戸は、関西といっても転勤族が大勢いたせいか、話される言葉は完全に標準語であり、私は小さい頃からそれを聴いて育った。だから、標準語が普通の言葉だと思い込んでいたのに、敦賀弁しか知らない地元の子供にとっては、それはアナウンサーの話す「ラジオの言葉」そのものだったのである。

 映画「ネヴァーエンディング・ストーリー」の冒頭で、主人公の少年バスチアンが、3人のいじめっ子にさんざんいたぶられる場面がある。それと同じだ。私も、大勢によるむき出しの暴力に遭った。特に、学校への行き帰りが危ない。私は、何とか対抗しようとしたが、悔しいことに病気で寝てばかりいたものだから腕力がないし、肺に穴が開いたままでは、相手より速く走って逃げることもできない。

 そこで、待伏せを避けるために通学路を毎日変えたり、相手の裏をかいて校舎に駆け込んだり、子分を懐柔したり、囲まれた時のために鞄に木の棒を忍ばせたりと、あらゆる手練手管で必死に対抗した。おかげで、不条理なものへの反発心、状況を読む力、作戦の構想力、忍耐力と交渉力だけは人並み以上についたと思っている。


(3)図鑑や本に親しみ東京へ羽ばたく夢

 まだ始まったばかりの人生だというのに、結核といじめが重なったいわば「暗黒時代」にあって、私を癒してくれたのは、豊かな田園風景とともに、色々な図鑑や本であった。これらは、父が月に一度ほど出張で出かける福井市で、おみやげに必ず買って来てくれた。図鑑はテーマ別になっていて、天文、歴史、交通、恐竜、動物、植物などである。私には、それが何よりも楽しみで、日がな一日中、飽きもせずに眺めたものである。

小学校4年生の遠足の日


 そのほか、少年向けの本も読み始めた。とりわけ、少年探偵団の冒険話に胸をときめかせた。また、巌窟王の主人公エドモン・ダンテスが運命に翻弄される姿に感じ入ったりしたが、いじめに遭っていた自分の姿と重なり、こんな惨めな人生は送りたくないものだと思った。

 本を離れてふと現実に戻ると、日々いじめは繰り返される。いじめっ子たちは、まるで狩りのゲームをするような気分でやっているから、どうしようもない。だから、いじめられるたびに、「こんなところは僕の居場所ではない。自分の言葉が通じる東京へ必ず出て、もっと大きな世界で羽ばたこう。」という思いが募り、それが次第に強くなっていった。これが一生を通じての私の向上心の源となるのだから、人生、何が幸いするか分からない。


(4)助けてくれた同級生に再会し同僚に

 言葉が通じない中で、転校後しばらくは隠忍自重の日々を過ごしていた私にも、ようやく2人の友達ができた。やはり転校生だった杉田くんと、地元の子である岡本くんである。このうち杉田くんは、私と同じ転勤族のよそ者だったが、いじめの対象にはならなかった。なぜかというと、彼は鉄棒が群を抜いて上手だったからだ。体育館の高い鉄棒の上で大車輪もどきの大技を次々に決め、皆からは一目置かれる存在だった。

 岡本くんは、無類の世話好きでお人好しだったから、これまた皆から好かれていた。私は、この2人に仲良くしてもらい、学校内では、何とかいじめから逃れていた。「捨てる神あれば拾う神あり」とは、よく言ったものだ。

 やがて私が敦賀を離れてしまったために、この2人とはそれきりになってしまった。ところがそれから16年後、そのうちの岡本秀樹さんと、劇的な再会を果たす。何と、彼もまた通商産業省に入省していたのである。私の名前を覚えていてくれて、廊下に張り出された名簿から、たちどころに「あの庸幸くんに違いない。」と気づいてくれた。そればかりか、入省後6年目から、省エネルギー対策室で机を並べて一緒に仕事をする同僚になるとは、夢にも思わなかった。


(5)妹が2人生まれ、父と釣り

妹たちのお稚児さんの日


 この敦賀時代に、妹の美幸眞理が生まれた。それぞれ8歳と9歳も歳が離れていたが、どちらの妹も実に可愛かった。父も、敦賀に来てやや仕事が楽になったせいか、休日には、私をよく釣りに連れて行ってくれた。私も、父と一緒に居られるので嬉しくて、喜んで付いて行った。しかし、釣りの相棒としては、私は、かなり足手まといだったのだろうと思う。

 三方五湖にはよく行ったものだが、ある日、2人で並んで釣りをしていたら、私が餌を取り替えようとしているうちに、うっかりして竿を流してしまった。ところが父は、慌てずにゆっくりと服を脱ぎ、湖に飛び込んで抜き手を切ってスイスイ泳いで、その竿を回収して来た。父の意外な技に驚いていたら、伏木商業学校時代に何回も富山湾横断をやったそうだ。考えてみたら、私は父に一度も叱られたことがない。この時も、その回収してきた竿を、笑みを浮かべながら無言で渡されただけだ。生来が温和で無口な人なのである。


(6)両親から受け継いだもの

 ときどき、私は両親から何を受け継いだのだろうと、今頃になって思うことがある。父は、銀行に就職するとき、地方銀行だったにもかかわらず「ぜひ都会の支店で働きたい。」と人事に頼んだそうだ。それが功を奏したのだろうか、若い頃には、神戸と名古屋にある支店で計9年間も過ごし、憧れの都会生活を満喫した。私も小さい頃から、東京に憧れる気持ちと新しいものへの好奇心が人一倍強かったので、これらは父から受け継いだのかもしれない。

 また、父といえば、日がな一日、水面に釣り糸を垂れている姿が目に浮かぶ。時々、餌を取り替えるとき以外は全く動かない。本当に粘り強いのである。そして偶に大物を釣り上げる。そのときの嬉しそうな顔といったらない。私は、なるほど、何かを成すには、これほどの忍耐が必要なのかと思った。私も雌伏してじっと好機を待つという性向があるが、これは父に由来すると思っている。

 私の家は、銀行員の家庭の典型で、2〜3年毎に全国各地を転勤して回る生活をしていた。普通の主婦であれば、神戸から福井、あるいは名古屋から旭川などという、思いがけない地方への長距離の転勤には、少しは躊躇いの気持ちが生まれるところである。しかし、私の母は全く違っていた。転勤話が出たとたん嬉々として荷造りし、勇んで新天地に乗り込んですぐに友達を作り、あまつさえ1ヶ月もしないうちにもう現地の方言を話していた。

 それだけでなく、母は物事に対する直感が鋭く、限られた材料であってもほぼ正しい方向性を掴んで判断し、直ちに行動に移せる人である。私は、母の語学の才は全然受け継がなかったが、新しい環境への適応力や物事への直感力は、母から授かったのではないかと思っている。国家公務員は1〜2年毎に仕事の内容がガラリと変わるので、これらの力は、今から思うと非常に役に立ったと考えている。


4.健康を回復した少年時代は模型に熱中

(1)福井市へ転居

 昭和35年7月、私たち一家は、父の転勤に伴って、福井市へ引っ越すことになった。出発の日、敦賀南小学校の担任の八木智恵子先生がわざわざ敦賀駅に見送りに来てくださり、餞別に「小公子」という本までいただいた。私はとても感激し、その本を後生大事に抱えて、客車に乗り込んだ。北陸本線をひたすら北東へと走り、山深い今庄駅で、補助機関車の増結開放作業のためにしばらく停車した。その待ち時間の間に両親とプラットホームに降りて、3人揃って地元の素朴な今庄蕎麦を食べた。その美味しかったことといったらなかった。蕎麦つゆの芳しい香りとともに、今でも懐かしく思い出す。

 新しい家は、県庁がある福井城跡を取り囲むお堀近くの三ノ丸町にあった。私は、そのお堀に沿ってぐるりと半周近く回って、福井市順化小学校に通った。小学校のすぐ近くの交差点角にある福井裁判所は、美しいステンドグラスが飾られた趣のある建物で、私はその玄関前のスロープで友達とよく遊んだものだ。

 福井市はさすがに県庁所在地だけあって懐が深く、前の田舎で私を散々悩ませた「いじめっ子」のような連中がいなかったばかりか、周りの友達は私を異分子扱いすることなく普通に接してくれた。これでようやく、私は自分の居場所を見つけたような気がして、嬉しかった。

 しかも、長い間私を苦しませた結核が治りつつあったので、毎日を楽しく過ごすことができた。5年生の夏には、若狭湾の高浜で海浜学校があり、そこで担任の宮崎八代枝先生から「横泳ぎ」なるものを教わって、初めて泳げるようになった。これは、顔を水の上に出しながら身体を横にして浮き、両腕を胸の前に持ってきて両脚を前後に開きつつ曲げてから、下腕を頭の方へ伸ばし上腕で水をかくと同時に、水を両脚で挟み込むようにして一気に伸ばし、推進力を得る泳ぎ方だ。人間の身体の自然な動きに合っているようで、比較的簡単に覚えられた。

 ところがその後、長じて平泳ぎやクロールなど別の泳ぎを覚えても、どういうわけか、疲れてくるといつの間にか、またこの古式泳法に戻ってしまう。私の泳ぎの原点であるとはいえ、これには未だに困っている。

 夏になると、足羽川の河原で花火大会が開催される。家族全員が浴衣に着替え、手に手に団扇を持って見物に行った。年末には、青森県から林檎売りのトラックがやって来た。すると母が、頭にタオル鉢巻を締めたおじさんから、木箱に入った林檎を箱ごと買ってくれた。私は、妹たちとともに、籾殻をかき分けて少しずつ林檎を食べるのを楽しみにしていた。


(2)科学雑誌「子供の科学」

 5〜6年生のときに私が熱中したのは、動く模型作りである。病が癒えてくると、何かしようという気が湧いてくる。だから遊び方もだんだん積極的になって、それまでのように単に図鑑や本を見たり読んだりするだけでなく、何か自分でも作ってみようという気になった。単なる置き物ではなく、大空を飛び回ったり、自分で動いたりする模型だ。

 そういう時に、たまたま本屋で少年向けの科学雑誌「子供の科学」を見つけた。この雑誌は、私に数多くの夢や知識を与えてくれただけでなく、科学への好奇心を十分に満たしてくれた。

 この雑誌には、ゴム動力の飛行機の設計図がよく載っていた。町の模型屋で買ってきた竹ひごを、その形に沿って蝋燭の火で暖めながら徐々に曲げて翼をまず作り、バルサ材の胴体に差し込んで骨組みを作る。それに薄い和紙を貼って完成だ。ところが、一生懸命に作っても、翼は歪むし、和紙に塗った糊はすぐに剥がれるし、ゴムを巻いて飛ばそうとすると振動で分解しそうになる。頭の中で思い描くものと、現実の物作りとの落差を、思い切り味わうことになった。それでも、たまに上手くできたときの嬉しさには、格別なものがある。

 設計図の中に、空高く舞い上がる機体というものがあった。今でいえば、主翼がガルウィングのような形だ。四苦八苦してそのとおりに作ったところ、皮肉なことにそういうものに限って上手くできる。ゴムをギリギリと巻いて飛ばしたら、機体が大空へどんどんと舞い上がって豆粒ほどになり、そのままどこかへ消えてしまった。こんなことは初めてだ・・・もったいなくて残念のような、それでいて自分はすごいものを作ったんだと誇らしいような、誠に複雑な気持ちになった。


(3)鉱石ラジオの自作で大失敗

 しかし、失敗もした。「子供の科学」を読んでいたら、鉱石ラジオというのがあった。自分の作ったラジオで放送が聴けるなんて、素晴らしいではないか。設計図を隅から隅まで眺めて、ゲルマニウム製ダイオード、同調コイル、バリコン、イヤホーンなどを買い込み、それらを丁寧に組み立てて出来上がった。ところが、この設計図の中で、「アンテナは電灯線を使います」という説明とともに、1本足のプラグを電灯線につなげる図が描かれていた部分が、どうしても分からなかった。「おかしい。電灯線は、プラスとマイナスで2つあるはずなのに、どうして1本なのだろう。」と、いくら考えてもその理由が分からない。

 とうとう、これは何かの間違いだろうと勝手に結論を下し、市販の2本足のプラグに、ラジオから出てくる1本のアンテナ線をつなげた。ああ、やっと出来たと小躍りして、それを電気の差込口に入れてみた。すると、とたんに「ボッ!」と大きな音がすると同時にプラグの先端から青い火が出て私の手は弾き飛ばされ、家のヒューズが飛んでしまった。

 全く気がつかなかったが、そのとき私は、あやうく感電するところだったのである。隣の部屋では、何も知らない母が、ヒューズがまた飛んだと騒いでいた。私は幸い怪我はしなかったが、心底がっかりして、焼けこげたプラグとラジオの残骸をそっと道具箱の中にしまった。しばらく、胸がどきどきしていた。

 数ヶ月ほど経って、町の電器屋で鉱石ラジオの現物を見かけた。それには1本足のプラグがついている。お店の人に聞いて、その理由がようやく分かった。つまり、電灯線は使うが、2本のうちの1本だけを「アンテナとして」使えということだったのである。それを知らないものだから、2本まとめてつないでしまったので、ただちにショートしてしまったわけである。

 生兵法は大怪我の基とは、まさにこのことだ。自分の知識経験には限りがあるのだから、分からないことがあれば、納得するまで徹底的に調べるか、あるいは知識のある人によく聞くべきだと思った。


(4)模型の工夫と喜びが今も活きる

 振り返ってみると、私の作った模型のうちで、まともに動いたものは、ゴム動力の飛行機と潜水艦くらいである。モーターを使うロボットやホバークラフトなどは、部品の木材がすぐ割れたり、モーターの力不足もあったりして、なかなか期待どおりに動いてくれなかった。しかし、たとえ結果は思うようにならないものであっても、作る過程の工夫と、出来上がって少しでも動いたときの喜びは、何ものにも代え難かった。

 しかしその頃には、模型を部品から自作する時代が終わりつつあり、代わって模型屋にはプラモデルが並び始めた。プラモデルは出来上がりこそ美しいが、ただ組み立てて飾っておくだけの出来合いの模型にすぎない。私がやっていたような原木から形を切り出してゼロから作る類いの手作りの模型ではないし、そもそも動かないから面白くない。だから、作るときの喜びはあまり感じられなかった。そういうわけで、私はあれほど夢中になっていた模型の世界から、いつしか心が離れていった。

 それからの私は、理科系の世界からはますます遠ざかって、いまや文科系の最たる分野である法律を糧としているわけである。人生経験が豊富になるに連れて、法律というのは実に奥が深くて、それはそれで面白いものである。しかし他方で科学への関心が、私の日常にふと頭をもたげることがある。例えば、暇なときには小説や詩歌などの文芸書を読むよりも、最新の科学の啓蒙書を漁るのが好きだし、新聞の記事でもついついそういう方面に目が行ってしまう。パソコンやインターネットを趣味にしているのも、その延長なのかもしれない。

 ところが、少年時代に経験した模型作りは、私にとって、そういった現在の嗜好や趣味の元となる以上のものがあったように思う。それは、現在の私の好奇心と知識欲の泉源となるだけでなく、良いアイデアを思いついて解決策をひねり出す能力の土台になっているように思えてならない。

 つまり、私は模型作りによって、何でも新しいものに挑戦しようという意欲を持ったし、独創的な模型を作り上げたときの喜びと満足感を味わった。その過程では、身の回りにあるあり合わせの物を材料として、それらをいかに組み合わせるのが合理的かと考えながら、知恵と工夫を凝らして作業をする。他人が思いつかないようなオリジナリティを発揮することも大事だ。そして、最後まで諦めずに努力して、やっと完成させる。実はこれは、法律の仕事でも、同じことなのである。

 例えば全く初めて経験するような種類の事件であっても、全体の構図を考えながら既存の知識と経験をやりくりし、合理的かつ時に独創的な立論を完成させ、結論までたどり着くことができる。私はそのたびに、「ああ、また、昔の模型作りのおかげで助かった。」などと思うのである。その意味で雑誌「子供の科学」は、私の人生の最大の師であったといってもよい。


(5)息子の趣味には合わず

 それから30年ほどして、私の息子が私立の中高一貫校にめでたく合格したときのことである。息子は、それまで1年ばかりの間、中学受験で時間を取られていた。それまではそういう時間はなかろうと遠慮していたのだが、私はやっとこれで「子供の科学」を読むことを勧められると思った。私はいそいそと本屋に行ってこの雑誌を買い、「これ、読んでごらん。」といって手渡した。

 それは最初、息子の部屋の勉強机の右端に置かれた。私は、息子がいつその話をするのかと、楽しみにしていた。ところが、そういう話題をとりあげる様子は微塵もない。数日後、そっと部屋に見に行くと、この雑誌はまるで読まれた風もなく、最初の場所に置かれていた。1ヶ月たってもそのままで、そのうちいつともなく、机の上から忽然と姿を消してしまった。

 どうも、私と息子とでは、同じ男でも興味の対象がまるきり違うらしい。しかし世の中は面白いもので、この子も大学に入るときには法学部を選び、気が付いてみると、私と同業の法曹となっていた。


(6)福井で中学1年生になる

福井市明道中学校に入学


 私は昭和37年3月、順化小学校を卒業し、翌月、福井市明道中学校に入学した。この中学校は小学校から北に歩いて20分ほどのところにあった。私は生まれて初めて詰襟の黒い学生服を着て、校章バッチの付いた制帽をかぶって登校した。ちょっぴり大人になったような、誇らしい気がしたものである。ところが、それからわずか1年でまた転校してしまったので、あまりこの中学校についての思い出がないのは残念だと思っていた。

 しかし、転校してから10年余りの後、私は上京して通商産業省に勤めるようになった。すると、同じように建設省(当時)に勤めていた明道中学校時代の同級生中山啓一さんと、霞ヶ関でばったり出会ったのである。その瞬間、この人と成績を競ったことや、切手を交換したこと、ともに勉強した教室の佇まいなどの眠っていた記憶が、まるで走馬灯のように頭の中を流れたのには驚いた。


(7)38豪雪に遭遇

 昭和38年1月末の、とある寒い朝のことである。私は、起きたら玄関前のポストに、新聞を取りに行くのが日課だった。その日は、いつもの時間に起きたのに、すりガラスの玄関の引き戸がなぜか暗くて夜明け前のようだった。しかも、なかなか開かない。おかしいと思いながら両手に力を入れ、全体重をかけて引っ張ると、やっと開いた。外に出ようとして驚いた。玄関が、上から下まで白い雪の壁に覆われていたからである。これでは、外に出るどころではない。

 私は何が起こったのかと、2階に駆け上がった。すると、2階の部屋の窓の高さに、通行人のゴム長靴が行き来しているではないか。つまり、雪が一晩で1階の高さ分の2メートル以上も降り積もってしまったというわけだ。これほどの大雪は、見たことがない。世に言う「38豪雪」の始まりである。

 外出もままならないので、私の通っていた中学校は休校となった。鉄道も完全に止まってしまった。まだ高速道路の北陸自動車道がなかった時代で、物資の輸送はすべて鉄道に頼っていたから、生鮮食料品その他の生活物資一般が、日に日に欠乏するようになった。

 今でも覚えているのが配達される福井新聞の変化である。普段はかなりの頁数があってずっしりと重たかったものが、日を追うごとに頁数が半減して薄くなっていき、1週間も経たない内に、とうとう新聞全体がペラペラの半頁になってしまった。それでも発行し続けるのだから、なかなか根性のある新聞社だと、皆で語り合った。

 北陸本線の踏切近くに行くと、降りしきる雪の中で自衛隊員の皆さんが、スコップを持って一心に雪かきをしてくださっている。思わず、頭が下がった。おかげで、鉄道輸送は1週間ほどで再開されて生活は元に戻った。しかし、自宅屋根には山のように雪が積もっている。そこで雪かきを父とともに行ったが、これは本当に大変だった。

 ある時などは、私一人で2階の屋根の上で雪下ろしをしていたら、雪を放り投げた瞬間、その勢いでつるりと滑って屋根から庭へと転落した。幸い、いま下ろしたばかりの雪山の上に足から落ちたので怪我はしなかったが、その代わり腰まですっぽりと雪中に埋まって、全く身動きがとれなくなった。怖いものだと思ったが、これがもし頭から落ちていたら、窒息していたところだ。


5.知性に目覚めた名古屋の中学校時代

(1)方言にがっかりしたが標準語は通じる

 昭和38年3月、私が中学2年生になる直前にまた父の転勤があり、これに伴って我が家は、愛知県名古屋市千種区菊坂町へと転居した。田舎者の私にとって、名古屋はまさに憧れの大都会だったから、私の標準語が当然通じるはずだと信じて疑わなかった。

 ところが、引っ越したその日の夕方、向かいの家の勝手口が開いて、おばあさんが出てきた。そして、私に向かってこう言ったのである。「おみゃぁさよぅー! でょーきょから、きょーらしたぁ?」。私は、思わず自分の耳を覆って「ああ、また別の方言に悩まされる日が始まった」とがっかりしたものである。

 そうした憂鬱な気持ちで、転校した先の名古屋市立城山中学校に行ってみると、じゃんけんの仕草をして「いんじゃん、ほい」とやっているし、友達どうし「やっとかめだなも」と言い合い、先生は、いたずらする生徒に対して「たわけー」と叫んでいる。いずれもまるで聞いたことがない言葉で、何だかさっぱり分からない。これは困ったと身構えていると、友達とは意外に標準語が通じるではないか。

 幸いなことに城山中学校は、住宅地である覚王山など、転勤族が多く住む地区を学区としているので、標準語しか話せない友達も多くいた。だから、言葉に困ることは全くなかった。しかもこの中学校は、私が入学した前年に生徒数が一時4,300人にも達し、日本一のマンモス校と言われていた。その中で1人くらい標準語を喋っても、全く目立たない。そういう意味でも、新しい生活にスムーズに溶け込んでいくことができたのは幸いだった。

父と二人の妹たち


城山中学校の遠足で友達とカードに興じる

(2)世界の名著を通じて世の中が広がる

 幼年期に患った小児結核の養生の延長で、私は外へ出て運動するのを避ける傾向が身に付いていた。そこで、家にいることが多く、そういうときは世界の名著などの文学に親しんだ。振り返ってみると、この読書の習慣が人生を歩む上で大いに役立った。万事塞翁が馬、何が幸いするか分からない。世界文学全集を買ってもらって、司馬遷、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、寺田寅彦、中島敦、堀辰雄、伊藤左千夫、太宰治、有島武郎、志賀直哉、武者小路実篤、スタンダール、マーク・トウェイン、ヘミングウェイ、ドストエフスキー、トルストイなど、手当たり次第によく読んだ。

 その中で白樺派やプロレタリア文学などのように、あまりに楽天的だったり、逆に暗すぎたりする作品には、何かあざとらしさを感じて共感を持てなかった。どちらかといえば、理詰めで話を進めていく寺田寅彦や芥川龍之介、森鴎外、スタンダール以外には、胸にストンと落ちるようなものはなかったように思う。しかし、多感な中学生のときにたくさん読んだ良書によって、文章の素養が身につき、世の中が広がり、合理的思考に慣れ、人を見る眼も養われたと考えている。


(3)ケネディ大統領の暗殺事件

 この年の11月、テキサス州ダラスで、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺事件が起こった。私は、かねてから理想主義にあふれるその雄渾な演説が大好きで、日英対訳の演説集を買ってきて読むほどに入れ込んでいた。だから、テレビで暗殺場面を目にしたときには、あまりのショックで涙が出てきたほどである。同時に、アメリカという国の底知れぬ闇を見たような気がした。

 後年、最高裁判所で行われたパーティーに、ご息女のキャロライン・ケネディ駐日大使(当時)が来られた。そこで、私が若い頃、父上の演説内容に大いに感激した旨をお話ししたところ、とても喜んでいただき、昔話に花が咲いた。


(4)蒙古先生と熱血女教師

 私は、中学3年生になった。その頃は団塊の世代の最後の年で、生徒の数が信じられないほど多かった。例えば、1クラスの定員が55人で、それが17クラスもあり、私は3年16組だった。しかし、生徒の数もさることながら先生の方もなかなかの個性派揃いで、面白かった。社会の神田史郎先生は、チンギス・ハンの話をよくされたので蒙古という渾名がついていた。校舎の別棟にある職員室から授業に行く途中、廊下の曲がり角に先生の顔が見えると、それを発見した生徒が「蒙古襲来」と叫ぶことになっていた。また、国語の渡辺直子先生は、いわゆる熱血教師で、その授業を受けると元気が出るということで評判だった。


(5)修学旅行先は東京

 中学3年の6月、修学旅行があった。行き先は、東京、鎌倉、箱根である。クリーム色の修学旅行専用列車で名古屋を朝早く出て、午後1時にはもう東京駅に着いた。ああ、これが憧れの東京かと感激した。東京駅を見学し、皇居二重橋で記念写真を撮り、観光バスで国会と霞ヶ関、明治神宮などを見て、午後4時に旅館に着いた。ちなみにその旅館の建物は、現在の私の自宅からほど近い所にまだ現存している。枕投げに興じて叱られたことを思い出す。夕食後、夜の観光バスに乗った。銀座を通る時、同級生の一人が「あれは三愛、これは三越」と説明してくれたので、よく知っているなと感心して聞いていた。次の日は鎌倉の大仏、江の島、箱根の順に見学したが、芦ノ湖には乳白色の靄がかかっていたので富士山が見えず、がっかりした。ところが翌朝、湖尻を出て長尾峠にさしかかった頃にバスの車窓から一瞬だけ霧が晴れて、見事な富士山を写真に収めることができた。

修学旅行先の山中湖にて


修学旅行先の箱根にて


 この修学旅行に参加した同級生のうちに、楚々とした心優しい美人がいて、皆の人気を集めていた。ところが、それから4年半後の昭和45年10月に東京で起こった新宿騒乱事件に参加して、機動隊に逮捕されたという噂が流れてきた。彼女は名古屋の大学に進学したはずなのに、どうしてわざわざ東京まで行って新宿駅のホームを占拠し、機動隊に石を投げるようなことになったのか、今もって不思議でたまらない。時代の流れというものは、あのような人の性格や運命まで変えてしまうものなのだろうか。


(6)高校受験を意識

 そろそろ高校受験を意識する時期である。私は、国語や数学などの座学の勉強はおおむね5段階評価の5だったが、体育や音楽のような実技科目になると4か3で、頭でっかちな生徒の典型だった。というのも、体育は幼少年期に病気のせいで身体を動かすことが十分にできなかったからだし、音楽はそもそも家族揃って見事な音痴なのだから、仕方がない。

 高校入試は、実技科目も含めて全科目にわたって行われる。国語、数字、理科、社会、英語のほか、保健体育、音楽、美術、技術家庭の9科目である。でも、さすがに高校入試では、実技そのものまでは要求されず、ペーパーテストだけであるから、自信があった。

(序 章は、令和3年4月19日記)

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第1章 旭丘高校

愛知県立旭丘高等学校。建て替えられているが、建物の外観は河村たかし名古屋市長らの保存運動のおかげで以前とあまり変わっていない。


1.高校受験

(1)憧れの高校

 私が高校受験をした当時の愛知県は、尾張と三河の二大学区に分かれていた。そのうち名古屋市を含む尾張地区は、旧制愛知一中を母体とする旭丘高校を頂点としていた。そういう意味で、旭丘高校は、いわば愛知県における東京大学に相当する最難関校だった。その頃の入学定員は550人で、毎年50人ほどが東京大学に進学していた。そこで、かねてから心に誓っていた「東京に出て日本、いや世界に羽ばたこう。」という考えが頭をよぎり、是非とも旭丘高校に入りたいと強く思うようになった。

 そう決心すると、後は一気呵成に勉強するだけだ。城山中学からは、毎年60人余が旭丘高校に入っていた。当時は予備校がまだ珍しかった時代であるから、偏差値などという概念があるはずもない。だから、「目安となるこの順位内に入りさえすれば入学できる。そのためにはクラスで3番以内に入っていれば安泰だ。」。そう思って勉強に励んだ。名古屋の夏はとても暑い。そのうだるような暑さの中で、ひたすら教科書を読んだ。


(2)上には上がいる

 10月には東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催されたが、受験勉強でそれどころではなかった。テレビを通じて見たマラソンで銅メダルをとった円谷幸吉の胸突き八丁での走り、体操女王といわれたベラ・チャスラフスカの華麗な舞をわずかに覚えているくらいだ。

 不思議なもので、教科書の丸暗記は、全科目を終えるのに最初こそ4ヶ月もかかっていたのに、2回目はそれが2ヶ月になり、3回目には1ヶ月になり、受験直前には1日いや1〜2時間で出来るようになった。表紙を見れば、頭の中に全ての内容が次々に電光掲示板のように流れる。

 それだけ勉強したので、てっきりクラスで1番に違いないと思って、自信満々で学校の模擬試験を受けた。するとクラスの順位は3番だった。これではいけないと更に勉強して、ようやく2番になったが、とうとう1番になることはなかった。それでも学年では10番台に入っていたから、まず間違いなく合格するとは思っていたものの、私の自慢の鼻はへし折られ、上には上がいることを実感し、天狗になったことを大いに反省した。


2.高校生活

(1)中学時代の勉強法が通じない

 昭和40年4月、桜吹雪が舞う中を、私は愛知県立旭丘高等学校に入学し、黒い学生服に金ピカに光る鯱のマークを付けた帽子をかぶって登校した。いざ同級生と付き合ってみると、愛知県下の中学校のトップクラスばかりが集まって来ているだけあって、まさに多士済済で異能異才ばかりが揃っていた。生徒は必ずどこかのクラブ活動に所属せよというのが高校の方針だったので、私は英会話クラブ(ESS:English Speaking Society)に入った。世界に飛躍するなら、英語を自由に話せないといけないと思ったからである。運動部に入ることも考えたが、生来の蒲柳の質と自覚しており、自分の健康に今ひとつ自信が持てなかったので、潔く諦めた。

 旭丘高校の授業を受け始めた。すると1学期を過ごしただけで、中学のような記憶に頼った単純な勉強方法では太刀打ちすることができないことが、よく分かった。

 暗記はむろん必要であるが、代わりに、なぜそうなるのか、一定の事実を基礎に自分で推論をして自分なりの答を出し、それと正解とを比較する。もし違いが生じたのなら、その原因は何かを考える。あるいは、何かしらの理論や法則のようなものを見出して、そこから入って行くと効率的なことが分かった。要は、単純な暗記よりも、思考力が大事なのである。ただこれは、言うのはたやすいが、私のような凡人にはなかなかできるものではない。どうすれば良いか、夏休みを過ぎたころから、勉強に悩み始めた。現在のように、塾や予備校が身近にある時代ではなかったから、ただもう、自分の頭脳と意思の力だけで道を拓かなくてはいけない。


(2)数学に根源的な悩みを抱き、苦手意識が生まれた

 このとき悩みに悩んだ末、 試行錯誤で行くしかないだろうと思って、ともかく勉強時間を長くとり、色々と試してみた。そして分かったことは、自分には得手不得手がある。得意なのは、国語、古文、漢文、英語、日本史、世界史、生物である。特に、国語と英語は、非常によく理解できて、頭の中にスッと入る。歴史科目も、史実を相互に関連付けながら登場人物を追っていけば、面白いほど覚えられる。

 これに対し、不得意なのは、数学、物理、化学だ。このうち数学と物理は、なぜあのような単純な公式や数式で、この世の中の現象を表すことができるのか、まずそれが納得できなかった。その公式や数式が成り立つのは、よほど特殊な条件下だけではないだろうか、その条件とは何かなどと悩みだすと、もう前へ進めない。

 この私の悩みは、一面では真相を突いている。例えばニュートン力学は時間と空間を絶対的なものとして扱っているのに対し、アインシュタインの相対性理論は、時間と空間を相対的なものとして扱うところから出発して、ニュートン力学を凌駕する汎用理論を作り上げた。だから、私がニュートン力学の公式を見て、何かおかしいと直感的に思ったのは、正しかったのである。ただ、その原因と解決策を見出すには、あまりにも未熟過ぎた。

 そういう些細でつまらないところにこだわるものだから、いつまで経っても、数学と物理の方程式や定理が、素直に頭に入って行かないのである。今になって思えば、実はそのように考えてはいけなかった。本来、数学や物理というものは論理の世界だから、背景や条件は色々とあるだろうが、そのようなものは一切捨象して、その論理だけを追求して答を出せばよかったのである。しかし、私は典型的な文科系の発想をしてしまったので、そういう根源的な悩みを味わう仕儀となった。

 いずれにせよ、自分は文科系に進むしかないと思った。ところが、文科系で身を立てようにも、数学ができないと成績は上がらない。これは困ったというのが、そのときの正直な気持ちだった。このときの数学に対する懐疑的な思いは3年生になっても続き、適当な教材も見当たらなかったことから、数学に苦手意識が生まれた。


(3)数学の授業なのに楽譜を書く

 旭丘高校には、奇人、変人の類いに属するのではないかと思う先生がおられた。数学の加藤朗一先生がそのおひとりで、一番印象に残っている。白髪がベルのように垂れた相当のご老体の先生で、口下手で寡黙な人だった。その授業は一風変わっていて、チャイムが鳴り終わるや否や教室に現れ、いきなり黒板に五線譜を書き始める。それも、片手に3本のチョークをはさみ、それで黒板の隅から隅へと一気に3本の平行線を書き、とって返すときに今度は2本の平行線を書く。それから、目にもとまらない早業で音符を書き始め、ものの5分もしないうちに楽譜を書き終わる。

 それで、「これを歌える人は?」と聞く。最初は、数学の時間なのに、何が起こったのかと思った。私のような音楽音痴が目を白黒しているうちに、音楽や歌の得意な生徒が「はあぁーい」と返事をして、実にうまく歌う。それを先生は、そのうまさの度合いに応じて、「よしっ、2回抜かし」、「うぅーん、まあまあ、1回だな」と評する。それで満足したかのごとく、ゆっくりと楽譜を消して、今度は数学の問題を2問ほど書くのである。

 それから「きょうはだれの番だ?」と聞く。すると、席の順番に従ってその日に当たった生徒がしぶしぶ出ていって、その問題を解くのである。それが結構むずかしくて、半数以上の生徒が黒板を前にして立ち往生するほどであった。ところが、さきほど楽譜を歌った生徒は、その先生の評した成績に従って、1回や2回、この回答役の順番をパスすることができるのである。

 いやまあ、音楽と数学が合わさった、とっても不思議な授業であった。私のごとき生来の音痴は、歌を歌うどころではないので、もっぱら数学の問題を解く組であった。ところが、中には数学もできれば歌も得意という才能に恵まれている同級生もいて、「きょうは歌でいこうか、それとも数学にするか。」などと、実に贅沢なことを言うのもいた。それを聞いて、神様は何と不公平なのだろうと思った。


(4)寡黙な美人がソプラノで

 とりわけ私がびっくりしたのは、先生の書いた楽譜で、私をはじめクラスの全員がちんぷんかんぷんだった代物を、ある女の子だけが待っていましたとばかりに、「ハイっ」と高く手を挙げたことだった。その子は、美人ではあったか、ともかく大人しくて控えめな人だったので、クラスの皆が驚いた。その子がすっくと立ち上がった。そして、透き通った実に美しいソプラノの声で、「Adeste, fideles, laeti triumphantes...」と流暢に歌い出したから、クラス全体がどよめいたのである。「Venite, venite in Bethlehem. Natum videte Regem angelorum.」、「Venite adoremus, Venite adoremus, Venite adoremus」ときて、その最後の単語の「Dominum」をゆっくりと長く伸ばすように歌って締めくくった。

 見事に歌い終わったところで、クラス全員立ち上がり、拍手喝采雨あられである。その女の子は、頬をちょっと赤く染めて、ふんわりと席に座った。これは賛美歌だったらしくて、先生が楽譜にラテン語を書き添えて、さあ、一緒に歌おうということになり、その子が先導して一小節ずつ歌い、ついにクラス全員で合唱と相成った。半世紀以上前のたった15分間ほどの出来事ではあったが、今でも脳裏にまざまざと甦ってくる。短い体験ではあったが、人生で最も感動した場面だった。

ヴィース巡礼教会の外観


ヴィース巡礼教会の内部


 それから20数年たって、ドイツのバイエルン州を旅行中に、ヴィース巡礼教会という、今では世界遺産となっている素晴らしい教会に入ったことがある。ロココ調の宗教画や装飾が実に美しい。それに見とれていると、ちょうどそのときは礼拝の時間で、たまたまこの賛美歌「きたれ友よ、すべての友」を歌っていた。私も思わず口ずさみ、周りの人が振り返った。

 私は、高校時代には数学をたくさん勉強したはずなのに、今となってはどんな問題があったのかさえ、全く何にも覚えていない。あれだけ方程式だの定理だのと習ったはずなのに、私の頭の中からは、その記憶がきれいさっぱり抜け落ちている。ところがこの賛美歌だけは、一字一句間違えずにまだ歌えるし、思い出すたびに新鮮な感動が呼び起こされるのは、自分でも不思議である。旭丘高校に通い、こういう経験が出来て、本当によかったと思っている。


(5)文化祭に情熱、健康に自信、夢と希望

 旭丘高校では、毎年秋に行われる年中行事の文化祭(鯱光祭)が有名であり、生徒の自慢でもあった。この時期が近づくと、準備に熱が入り、いかにして皆を驚かせるか、あるいは感心させるかに若いエネルギーを注ぎ込む。中でも各クラスの面々が陣取るスタンドの背景画は、心血を注いで描かれる。ただ、力強く目立つものというコンセプトでいくと、どういうわけか青森のねぶた風の題材になってしまうから面白い。今にして思えば、皆揃ってなぜあれほど熱狂的に情熱を傾けたのか不思議なくらいであるが、それが青春というものだろう。

高校3年生の私


 この高校生活を通じて、私はまず、健康に自信がついた。全校挙げてのマラソン大会での順位は、ちょうど真ん中くらいであった。しかしそれでも、小学校時代は常に安静を強いられ、身体に負荷がかかる運動が一切禁じられていたわけであるから、それを思えば、まるで夢のように感じたものである。また、勉強を夜遅くまでやっても、耐えることが出来たし、やればやるほど成果が上がった。こうして、体力も知力も充実して来たから、卒業後は東京大学法学部に入ろうと考えた。そうすれば、この日本という国を背負って引っ張っていくような、国家的な仕事ができる。こうして私は、将来に大きな夢と希望を持って、勉学に励んだ。


(6)責任者とは責任をとる者のこと

 高校2年生のとき、私は日本の指導層になるなら、クラス委員長くらいにならないと経験を積めないと思って、学年初めの選挙に立候補して、無事に選ばれた。皆は、普段は大人しかったあいつがどうして急に立候補したのかと驚いたようだ。私から特に何も言わなかったが、これは自己鍛錬の一環のつもりだった。おかげで、人前で話をするのは、苦にならなくなった。

 ただ、一つだけ損をした気分になったことがある。修学旅行で広島県と山口県を訪れたときのこと、クラスのラクビー部の連中が、真夜中、事もあろうにウィスキーを飲んで酔っぱらっただけでなく、そのまま宮島神社の大鳥居のところまで泳いで行ったのである。私はそんな事は一切知らずに白川夜船で寝ていたのに、翌朝、その連中と一緒にクラス担任の先生にこっぴどく叱られてしまった。

 これはいかにも理不尽だと思ったが、その時、父が普段から言っていたことを思い出した。「銀行の支店長と学校の校長の共通点があるとすれば、それはどちらも不審火が起こったときに、詰め腹を切らされることだ。」と。なるほど、責任者というのは、何にでも責任をとらなければいけないものだということが、よく分かった。


3.同窓会と友人

(1)鯱光会の顕彰

 「鯱光会」とは、旭丘高校の同窓会である。正確にいえば、「愛知県立第一中学校、名古屋市立第三高等女学校及び愛知県立旭丘高等学校の卒業生からなる同窓会」ということになる。前二校は戦後の学制改革による再編統合で旭丘高校となったことから、昭和54年(1979)に同窓会の連携が行われて鯱光会が発足し、平成15年(2003)には三同窓会がこれに正式に統合された。

 その鯱光会の事業の一つとして、顕彰事業があり、「本会会員のうち、特に顕著な業績をあげた個人及び団体の顕彰」などを行うこととされている。名誉なことに、平成29年(2017)11月18日に行われた創立140周年の顕彰対象に私も選ばれ、他の加藤千麿名古屋銀行会長・鯱光会名誉会長等9人の方々とともに、表彰台に上がることとなった。

鯱光会顕彰事業表彰式


 名古屋観光ホテルで行われた表彰式では、鯱光会の内山田竹志会長(トヨタ会長)の式辞の後、一人一人に表彰状をいただいた。それから短いスピーチを行った。式中はもちろん、式の後にも同級生の皆さんに祝っていただいたのには、とりわけ感激した。


(2)20期卒業50周年ミニ修学旅行

 私は卒業の期でいえば、20期に当たる。その同期の取りまとめ役をされている齋藤由美さんと話をしていたところ、私が最高裁判所にいる間に、是非見学をしたいということになった。私から、「それでは国会も近くだから、併せて見学をされてはいかがですか。」と提案をしたところ、そのような企画となった。2018年6月21日の実施が決まり、「卒業50周年ミニ修学旅行」と名付けられた。

 どれぐらいの人が集まるのだろうかと思っていたら、当日の参加者は20数人もいて、その大半の方々がわざわざ名古屋から上京されて来られたというから頭が下がる。近くのホテルで一緒に昼食をいただいた後、歩いて最高裁判所に入り、玄関ホール、大法廷、小法廷をご案内し、私の部屋で記念撮影をした。ほとんどの方が高校以来45年振りにお会いする懐かしい顔で、昔話に時を忘れるほどだった。

20期卒業50周年ミニ修学旅行の皆さんと私の執務室で記念撮影


 御一行は、それから名古屋選出の国会議員秘書の案内で、国会の予算委員会室などを見学したという。委員長席に座ったりして、まるで高校生のように大はしゃぎだったそうだ。ちなみにこの国会議員も、旭丘高校の卒業生である。私にとっても、皆さんにとっても、思い出深い行事となった。


(3)和歌の筆をカメラに持ち替えて

 旭丘高校で、私の記憶に深く残る友人が何人かいる。中でも城山中学、旭丘高校、京都大学、霞ヶ関勤務と、私と同じ道を歩んだ水野豊さんは、特別に大事な存在である。そしてまた、通産省で同期として同じ釜の飯を食った梅村美明さんもまた、何でも話し合える心の友である。このお二人については、別稿を設けてお話しをしたい。そこで、ここでは私の「友人」というには恐れ多い「写真の先生」をご紹介する。

 旭丘高校の英会話クラブで私がご一緒したクラブ員の中に、後年、歌人や写真家として著名になられた今井佳世子先生がいらっしゃる。卒業後に日本画や水墨画に親しまれ、和歌をよくされて、中日歌壇で、「深水佳世子」というペンネームで「紀の国の木霊さらひて来しからになつのつばめのるるる韻かふ」という歌が最優秀賞に輝いた。

 それだけでも周囲を驚かせるのに十分な才能であるが、その後、深水先生は、自らおっしゃるには「筆をカメラに持ち替えて」、今度は風景写真を撮り始めた。そして、「風景写真」誌の平成19年総合1位グランプリを獲得された。『翠韻抄 水めぐりて』、『水の国・にほんの潤景』などの写真展を開催され、引き続き名古屋を拠点とする撮影活動を続けるほか、4つもの写真教室で教えておられる。旭丘高校が生んだ偉才の芸術家である。その一方で、2人の息子さんを医者に育てられたというから、大したものだ。

 私のような凡人には、この「筆をカメラに持ち替えて」という発想がどうにも理解しかねるところである。私が思うに、和歌を生み出す芸術的才能と、風景の自然美を写真という形で切り取る才能とは、まさに連続していて切れ目がないということなのだろうと推察する。とすれば、法律という芸術とは程遠い分野を糧としてきた私にとり、それとは全く無縁の芸術の分野を自由に羽ばたいて精進してこられた深水先生の風景写真には、強く惹かれるものがある。

(第1章は、令和3年4月1日記)

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第2章 大学受験

東京大学安田講堂。1969年1月には、これがボロボロになった。


1.現役時代の東大法学部受験

(1)東大法学部を受験

 いよいよ高校3年生の春を迎えた。その頃、旭丘高校から東京大学には浪人生を含めて毎年50人ほどが合格していた。学校主催の模擬試験の順位からすると、私もその範囲に入っていたからかなり有望ではあったものの、最難関の法学部を受けるなら、まだ確実とまではいえない。原因は数学で、特に幾何は浮沈が激しい。ところが東大入試の数学には、その幾何の問題が多いから困る。

 名古屋の夏は、道のアスファルトが溶けてしまうほど暑い。しかも私の部屋に西日が当たる。当時はエアコンなどないので、机の下に水を入れたバケツを置き、そこに両足を突っ込んで凌いだ。その暑い夏が過ぎ、コオロギが鳴き始める秋が来た。この頃から成績がぐんと伸びるのが理想なのだけれど、現実はそんなに甘くない。あっという間に日々が過ぎて、年が明けた。

 受験の宿として、父の世話で神田にある銀行の寮に泊めてもらった。ここは鉄筋コンクリート造りの建物だったが、私が泊まったその日に地震があって、いささか怖い思いをしたことを憶えている。しかも、この泊めてもらった部屋が広々としていたのが裏目に出て、そこに一人で泊まると、かなり寒かった。今更泊まる所を変えるわけにもいかず、そのまま受験が終わるまでいた。

 東京大学入試の一次試験は難なく突破し、本郷で行われた二次試験に進んだのだが、どうも風邪を引いたらしくて熱が出た。頭がぼーっとするし、喉も痛い。体温を測るとやる気が失せるので、そのまま受験した。得意の英語や国語はともかく、苦手の数学にはあまり集中できなかった。それでもある程度は出来たように感じたので、何とかなるのではないかと思っていた。


(2)合格発表の日、桜が散った

 合格発表の日がやって来た。東京大学の本郷キャンパスに渦巻く雑踏をかき分けて、掲示板の前に行ったが、何ということか、そこには私の番号はなかった。ガックリと肩を落として、その場を離れた。入試で不合格となったことは、確かに人生の蹉跌には違いないが、我ながらそれほど気持ちは落ち込まなかった。幼少年時代の病気や転校生に対する陰湿ないじめに耐えられたわけだから、これくらいはなんでもない。

2007年3月の東京大学合格発表風景。胴上げの傍らで寂しく去る者もいる。


 原因は、まずは風邪を引いたことだ。あれほどぼーっとしていては、考えもまとまらない。次に、数学である。問題によって出来不出来が激しかったので、東京の予備校に通ってこれを教われば、出来るようになるだろうという確信のようなものがあった。そういうわけで、父に結果を連絡した後、御茶ノ水の駿台高等予備校(現在の駿台予備学校)に行って、試験を受けた。すると、午前のクラスとなった。これは、合格まであと一歩だったと判定されたことを意味するそうだから、少し自信になった。いったん名古屋に帰り、再び上京するときに、母が健康保険の遠隔地被保険者証と、米穀通帳なるものを用意して持たせてくれた。


2.駿台高等予備校に通う

 中目黒に下宿して、御茶ノ水の駿台に通う日々が始まった。さすがに一流の予備校だけあって、授業は充実していた。例えば、英語の鈴木長十という先生の英文和訳には、毎回ほとほと感心した。英文にぴったりの和訳でありながら、ぎこちない翻訳調の文章ではなくて、それこそ正調の日本文になっている。なぜだろうとよくよく考えてみたら、日本語の接続詞や形容詞の使い方が実に上手いのである。それを学んだ成果は今でもあり、例えばこの文章を書き上げるのにも、大いに役立っているのではないかと思っている。

 奥井潔という東洋大学文学部の先生の授業も、英語の域を超えて人生とは何か、人はどう生きるべきかを教えてくれた。浪人中で、東京には何の寄る辺もなく、ともすればすさみがちな心に、灯りが点ったような気がしたものである。

 驚いたのは数学の成績で、週に7コマの授業を1学期間受けただけで、劇的に向上したのである。瞬く間にトップクラスになってしまった。元々、私にはそれなりの数学の素養があったのだろうが、こうなると数学の勉強の材料が悪かったに違いない。本当に惜しいことをしたと思った。こういう点が、東京と地方との情報の格差というものである。

 かくして、唯一の不得意科目であった数学が得意科目になったおかげで、予備校の成績は急上昇して、掲示板の上位にいつも名前が張り出されるようになった。年末に名古屋に帰省したついでに旭丘高校の模擬試験を受けたら、総合の順位が確か3番となった。旭丘高校からは東京大学法学部に毎年10人くらいは入っていたから、もう大丈夫だと思った。その模擬試験の成績を学校に見に行った時、高校3年生の時のクラス担任だった伊藤善市先生とたまたま顔を合わせた。すると、「山本、良く出来るようになったな。」と暖かいねぎらいの言葉までいただき、本当に嬉しかった。わざわざ上京して1人で頑張った甲斐があったと思ったものである。


3.何と東大入試が中止に

 そのように成績の面からは絶好調にあったとき、私の手の届かないところで大変な事態が進行していた。その頃、全国の大学で、いわゆる大学紛争が燎原の火のごとく拡がりを見せていた。昭和43年、東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)が結成され、その主導で「東大解体」の名の下に「全学バリケード封鎖」が実行された。年末に加藤一郎学長代行と坂田道太文部大臣が会談した結果、「現状のままでは入試は中止せざるを得ないが、明年1月15日までにストライキ解除と授業再開の見通しが立てば、その時点で再考する。」ということになった。

 そこで大学当局は、機動隊に対し、東大全共闘が占拠する安田講堂等からの学生の排除を要請した。機動隊は、昭和44年1月18日、安田講堂に突入して東大全共闘系の学生を大量に検挙した。これを契機に、東大紛争がようやく収拾の方向に向かった。しかし、入試だけは正常化できずに、1月20日、東大当局がとうとう入試中止を受け入れてしまった。昭和43年末のクリスマスの頃に私が名古屋に帰省したときには、まさかこんな入試中止という信じられない事態になろうとは、夢にも思わなかった。

 ちょうど安田講堂攻防戦のその日、私は悄然とした思いで、それでも一縷の望みを繋いで上京した。新幹線を下りてその足で直ちに御茶ノ水に向かった。催涙弾の刺激臭の漂う中、そこで見たのは、剥がされた歩道石、車道上に散らばる瓦礫の山、それに付いた血糊らしきもの、焼け焦げた火炎瓶、燃え落ちた交番の建物、粉々に壊された警察車両など、実に凄惨な戦いの現場であった。もう夕刻で辺りは暗くなりつつあった。東大に近づくにつれて戦いの跡はますますひどくなっていく。赤門を過ぎる辺りで、警察の規制でもう進めなくなったことから、引き返すほかなかった。その帰る途中、こんな無惨な状態では入試中止も仕方がないと、自分に言い聞かせるしかなかった。


4.京都大学法学部を受験

(1)京都大学法学部を受験

 青春の貴重な1年間が全く無駄になってしまった。では、これからどうしようかと自問する。答えは一つで、京都大学法学部を受けるしかない。ここを卒業して努力し、実力をもって認めてもらうようにしようと考えた。私は、京都に住むことについては、さほど抵抗感はなかった。京都は日本史で親しんだ憧れの地でもあり、奈良を含めて見るべき文化財がたくさんあると思えば、それだけ楽しみだ。「こんなことで負けるな。前向きになろう。」と自分を鼓舞した。

 気になったのは、両大学の法学部の定員の差だ。東京大学法学部は例年なら630人であるのに対して、京都大学法学部はその半分の330人しかない。東京大学法学部を目指した人達は、そのほとんどが京都大学法学部を受験するだろうから、競争率が例年の倍近くになるものと予想された。でも、最近の私の成績だと、まず落ちることはないだろうと思った。そういうことで、京都を受験することにした。

 宿泊先は、予備校で斡旋してくれた受験宿である。同じように京都大学を受ける学生ばかりで、本来ならライバル同士なのだろうが、お互い自己紹介し合ったりして和気藹々の雰囲気で、とても過ごしやすかった。中でも、秩父の出身という人は、方言丸出しながらも人柄が良くて親切で、合格したら友達になりたかった。しかし、残念なことに不合格だったようで、入学してから会うことは叶わなかった。


(2)寒い京都の受験の日は殊更に寒く

 京都は、ただでさえ冬が寒い土地柄なのに、その年の冬は例年にも増して特に寒くて参った。大学構内が占拠されているのでそこで入試が出来ないものだから、鴨川の近くにある府立高校の校舎を借りて行われたのであるが、過激派の襲撃を警戒して早めの集合時間を指示された。そのため、試験開始まで1時間以上も雪の降る寒い中を待たされた。そのせいで、かなりの人が風邪を引いたようである。私は前年の失敗の経験を活かして厚着をしていたから、何とか免れた。

 その日、受験宿に帰り着いた我々に、その秩父くんがこう言った。「さあみんな、このウィスキーを一杯ひっかけて、体を暖かくして寝よう。明日も早いぞ!」。とんでもないヤツだと思ったが、どこか憎めない。本人はその言葉通り、一杯あおって本当に寝てしまった。私も、彼にあやかりたいと思ったが、何しろウィスキーなるものを飲んだことがなかったので、自重した。

 翌朝の科目は数学だった。問題そのものは非常に簡単で、私は満点をとれたと思った。むしろ、これでは差がつかないから、大丈夫かと心配したほどである。この入試は手応え十分で、間違いなく受かるだろうと思いながら、名古屋に帰って行った。


(3)京都大学に合格し桜が咲いた

京都大学合格発表風景。向かって右が私で、左手が父


 京都大学の合格発表は、父と一緒に見に行った。大学構内に入り、合格者名簿が掲示されているはずの法経済学部本館の中庭に向かう。間違いなく合格しているという自信はあったが、それでも近づくに連れて胸の音が高まる。合格者の氏名は、昔の書簡のような横長の白い紙に、縦に書かれて並んでいた。「受験番号順ではないのか、では、どういう順なのか。」と思って自分の名前を探し始めた瞬間、父が「あった!」と叫んだ。父が指差す方を見ると、私の名前は最後の方に載っていた。五十音順になっていたというわけだ。思わず父と握手し、父は父で、私は私で、それぞれ万感の思いに浸った。

 なお、法学部の合格者名簿中に私と同じ姓の人があと2人いて、そのうちの1人が山本信一郎さん(後に宮内庁長官・内閣府事務次官)である。話によると、信一郎さんは私の母と同じ福井県今立郡池田町の生まれで、しかも母の実家があった集落にほど近い集落の名家のご出身だと聞く。私の祖母もその集落から嫁いで来たと聞いているので、先祖を遡ると何らかのご縁があるのではないかと、ひそかに思っている。

父母と銀閣寺を見学。向かって右が私で、左手が父


 この合格直後、父と2人で下宿先を探し、2軒目で陽当たりの良い物件を見つけて、そこに決めた。これが、田中高原町にあった最初の下宿である。それが売却されるというので1年後に北白川の下宿に移り、そこで2年間を過ごした。ところが、隣家に設置されたクーラーの騒音で勉強に差し支えるようになったことから、やむを得ず、近くの品の良い老夫婦のお宅に移った。実は、そこの奥様は、自宅に茶室を設けてお茶のお師匠さんをされていたので、期せずして私も「やりませんか。」と誘われ、普段はGパン姿で裏千家のお点前を習うことになった。

京大4回生のときに赤山神社で行われた野点。左手が大家さんのお茶の先生



5.人間万事塞翁が馬

 かくして、私の波瀾万丈の大学受験時代は終わった。東京大学法学部という目標の実現まで、あと一歩のところまで来ておきながら、自分では何とも対処のしようがない大きな歴史の流れで、あっという間にその夢は潰えてしまった。もう少しだったと思えば思うほど、誠に無念でならなかった。しかし、「これが人生の現実なのだと、潔く諦めよう。」と思った。併せて、「これを失敗したときの人生の言い訳にしないように。」と、心に堅く誓った。そして、「人間万事塞翁が馬」という人生訓を信ずることにした。

 すると、この事件からはるか後年になって、私自身が東京大学公共政策大学院の客員教授になった。また私の息子も、東京大学法学部卒となってくれた。しかも私の自宅のマンションは弥生キャンパスのすぐ近くにあるから、本郷や弥生キャンパス内で、よく孫と散歩したり遊んだりさせてもらっている。だから、この件のいわば「お返し」は、十分に済んだと思っている。

 更に考えてみると、私は経済産業省から内閣法制局に出向し、官界生活の最後に長官を務めることができたと思っていたら、全く思いがけないことに引き続き最高裁判所判事に任命されて、その退官後は秋の叙勲で旭日大綬章までいただいてしまった。私もそれなりに努力したのは事実であり、それは自分でも誇りに思っているが、人生は努力だけでは如何ともし難いことも多々ある。人事の巡りあわせ、年次の具合その他の要素が全て都合よくかみ合って、今日の私があると考えている。

 例えば、私が通商産業省から内閣法制局参事官に出向になったとき、年次が1年早ければ、おそらくこの出向はなかっただろうと思う。振り返ってみれば、これが私のその後の仕事人生の大きな分かれ目だった。つまり、最初の年の東大不合格によって浪人したことで1年遅れたことが、その後のポストの選定に有利に働いたのである。また、東京大学に入学しなかったことで、京都大学特有の「中央何するものぞという気概と自律自尊の精神」が身についたと思っている。これらが全て、46年余りの私の仕事人生に結果的に好影響を及ぼしたのではないかと思料している。だから、私の人生をつくづく振り返ると、まさに、「人間万事塞翁が馬」だった。

(第2章は、令和3年4月2日記)

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第3章 京都大学

京都大学の時計塔と名物の楠


1.京大紛争の終焉

(1)最初の授業が過激派に粉砕される

 昭和44年4月、私は京都大学に入学した。大学の授業が始まる前に、どのような科目を選択すればよいかというオリエンテーションが開かれた。その説明をされた法学部の先生が、後に最高裁判所判事となる民法の奥田昌道教授である。その理路整然かつ滔々と説明される姿に、私は惚れ惚れしてしまった。「知性が顔に出ている。これが大学の知識人というものか、私もこうなれたらいいなぁ。」と本気で思った。

 ところが、私の大学生活は、その出だしから冷や水を浴びせられてしまった。我々新入生は皆、期待に胸をふくらませて、教養部で最初に始まったフランス語の授業に出た。すると、先生が教壇に立ったその瞬間を狙ったように、ヘルメットを被った数人の男が乱入して来た。そして、口々に「授業粉砕!」と叫んで、あっという間に先生を拉致して去った。我々新入生は、事態がよく呑み込めずに呆然としてそれを見送るばかりだった。そういう調子で、授業の第1日目から休講となり、それ以降、授業がなかなか再開されなかった。


(2)衝突の最初の頃にはまだ常識あり

 私は実家に帰らずにしばらく京都に残り、当てもなく再開を待っていた。その間、エーリヒ・フロム著の「自由からの逃走」を読んで当時の社会情勢と照らし合わせたり、和辻哲郎著の「風土」に感銘を受け、またその「古寺巡礼」に感化されて京都や奈良のお寺巡りに精を出したりして、それなりに充実した日々を過ごしていた。その合間には、大学紛争の見物人にもなった。誰がどう調べるのか知らないけれど、「今日の何時頃に百万遍辺りで過激派と機動隊との激突があるぞ。」とか、「今晩、時計塔前で各セクトがぶつかるらしい。」などということが瞬時に伝わる。それで現場へ見物に行って、遠巻きにして衝突を恐る恐る見守るという具合だ。

 入学したての春頃は、衝突といってもまだそれなりの常識や配慮があった。例えば、百万遍の交差点角の大学構内に、ヘルメットを被った過激派の集団がいて、周囲から押し寄せてくる敵対ヘルメット集団に対して、ポンポンと投石をしている。その投石者から見ると、ヘルメットの連中と一般の見物人とが混じったように見えたのだろう。そこで「おーい。そっちへ投げるぞ。」などと警告してから、石を投げて来る。見知らぬ見物人どうしで、「なかなか社会常識を心得ているなあ。」などと言い合ったものだ。


(3)まるで古代ローマの戦争さながら

 ところが、紛争がエスカレートし、火炎瓶を使うのが一般的になってきた。そうなると、もはや投石による打撲傷程度では済まず、命にも関わる問題になってくる。報道写真で、過激派の男が火炎瓶を背中に受けて、火だるまになりながら逃げている痛ましい姿が写っていたのは、ちょうどその頃のことだ。振り返ってみれば、この頃から紛争がますます暴力的色彩を帯びてきたように思う。

 そのうち、舞台は大学本部のある時計塔辺りに移ってくる。その周辺を赤ヘルメットの軍団、黒ヘルメットの軍団、それに加えて大学の執行部が支給したと噂される黄ヘルメットを被った一団が渦のようになって行進している。それぞれゲバ棒と称する角材を肩に担ぎ、掛け声をかけながら整列したかと思えば、一斉にウオーとひときわ大きな鬨の声を上げる。それを待っていたかのように、火炎瓶が何筋も飛び交い、双方が激突する。まるでこれが現実とは思えず、古代世界でローマ軍団とスパルタ軍団とが戦闘を繰り広げている場面と見紛うばかりだ。その多くは、ちょうど夕暮れ時に起こった。暗くなりつつある空に火炎瓶が何本も何本もオレンジ色の炎を引きながら弧を描いて飛び交う。もう、世も末のような気がしたものである。


(4)本部時計塔が落城して京大紛争は終結

 京大紛争は、この頃から大義名分を失ってセクト同士の単なる潰し合いと殺し合いの場となった。やっている学生たちも、さすがにこれは酷いと思ったのだろう。離脱者が増え、急速に勢いを失って行った。その結果、昭和44年9月、それまで京大全共闘がバリケード封鎖して最後まで立て籠もっていた本部時計塔に、京都府警の機動隊が突入するに至った。私はその日は、大学の脇の吉田山に登り、高い所から両者の攻防を見物していた。

 京都御所の方向から、バタバタバタとローターの音を響かせてヘリコプターが飛んでくる。その下にはドラム缶が吊り下げられている。何だろうと訝し気に思っていると、そのヘリコプターは時計塔の真上で止まり、ホバリングの体勢に入った。するとそのドラム缶の下の蓋が外れたかと思うと、下に向けて白い大量の粉が撒き散らされた。催涙ガスならぬ、催涙粉というわけだ。それまで火炎瓶などで激しく抵抗していた全共闘の面々も 、これには堪らず、時計塔はあえなく落城してしまった。戦闘の勝敗を分けるのは、いつの時代でも新兵器のようだ。

 それからしばらくして新聞を読んでいた時、社会面の左端に殺人罪で指名手配中の写真が載っていた。チラリと見て、人相が悪いなと思いつつ読み飛ばそうとしたが、顔立ちにどこか見覚えがある。写真をよくよく見たら、その指名手配犯は旭丘高校の同級生で、私の2つ前の席に座っていた人物だった。対立するセクトの人間を殴って殺してしまったらしい。高校時代は社会思想研究会のようなグループに属していたのは知っていたが、物静かな大人しい人だった。それが、どこかで道を誤ったらしい。学生運動には、そういう人までをも狂わせる何かがあったのだろうか。


(5)宇宙船アポロ11号の月着陸に感激

 この年の7月、アメリカの宇宙船アポロ11号が、月に着陸するという人類初の偉業を成し遂げた。私はその頃には実家に帰っていて、テレビで一部始終を目にし、感激と興奮の坩堝の中にいた。月の周回軌道を巡る司令船から月着陸船が分離され、月面をめがけてどんどん降りて行く。「こちらヒューストン」、「全て順調です」が何度も繰り返される。手に汗を握る瞬間だ。着陸船が揺れ、画面が暗くなる。無事に着陸したらしい。

 そのとき、同時通訳者の西山千さんも興奮して、ひときわ高い声で着陸を知らせた。アームストロング船長が月面に降り立ち、オルドリン宇宙飛行士がそれに続く。重力が弱いので、ピョンピョンと飛んで移動する姿には、思わず笑ってしまった。受験の失敗や大学紛争でささくれ立った心が、一気に洗い流されるような気がした。


2.ようやく正常化へ

(1)同級生との結束は堅い

 年が改まり、昭和45年となった。ようやく授業が始まったので、私たち昭和44年入学生にとっては、この年が実質的に大学生活を開始した年である。その一方で、私の周囲から何人かの同級生がいなくなっていた。皆、再開された東京大学入試に再チャレンジして、東京大学に入学してしまったのである。これには驚いた。そのうちの1人、杉本和行さん(後に公正取引委員会委員長)が、「僕は絶対に大蔵次官になる。」と常々言っていたのを覚えていたが、後年、彼が初志を貫いて本当に財務次官になったのには、とても驚いた。

京大祭のディオニソスで南沙織を呼ぶ。学園祭で人気歌手を呼んだ最初の例ではないか。


 大学生活が平常化されたこの年には、皆に心の余裕も生まれ、教養部のJ5クラスの仲間を中心に、友達がたくさんできた。後年、みずほフィナンシャルグループ会長・みずほ銀行頭取となった塚本隆史さんもその1人である。これらの友達とは、入試中止で共に辛酸を嘗めた仲だ。それだけでなく、再開された京大祭で、歌手の南沙織さんを招いてディオニソスという名のコンサートを開き、大きな成功を収めた。私も喫茶店のマスターとなった。それやこれやで、その結束は堅い。永年幹事を引き受けていただいている渡辺敬志さんを中心に、その後も年に数回は会う機会を設けて、旧交を温め続けている。

京大祭のディオニソスで喫茶店のマスター役




(2)花の教養部時代

 教養部で最も記憶に残っているのは、上田正昭助教授の日本史の授業である。翌年に教授になられたが、日本の古代史をかんで含めるように丁寧に説明された上に、実地調査と称して希望者を飛鳥への見学に連れ出してくれた。奈良や飛鳥に大いに興味があった私には、うってつけの科目だ。期待に胸を膨らませて集合場所に行ってみて驚いた。女の子が多かったからだ。あまり女性慣れしていない自分には、その場の雰囲気がいささか眩しく感じられた。当時の法学部に入学した女子学生の数は確か1人だけだったので、それが普通と思っていたから、京大にそれほど女性がいたとは知らなかった。主に文学部や薬学部の人たちである。今なら当たり前の風景であろうが、当時はまだまだ女性の比率は非常に小さかった。

 その一行で室生寺の五重の塔を見学し、山道を歩く途中で、ある女の子の片方の靴のヒールが取れて、難儀していた。たまたま近くにいた私が、それを直してあげようとやってみたが、金づちがないと無理だ。しかし、そのままでは左右がアンバランスになるので歩けない。さりとてこんな山道を裸足で歩くことはできない。やや強引だが、本人の了解を得てもう片方のヒールも取って、歩けるようにしてあげた。

 それから無事に飛鳥地方に着いて、甘樫丘に登って辺り一帯を見回し、「あれが『春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山』か、意外と近いな。」と納得し、飛鳥寺の飛鳥仏のアルカイック・スマイルに、「これがそうか。なるほど笑みを浮かべているように見える。」と感心した。石舞台古墳に行った時には、その頃は何の文化財保護策もなされていなかったので、罰当たりにも皆で石舞台の上に乗って先生の説明を聴いたほどである。

 この靴のヒールの件は、私はすっかり忘れていたが、実は卒業間近になってその女の子から手紙が届いた。要はラブレターのようなのだが、私は東京への引越しや通産省入省直後の激務でバタバタしている時だったのでゆっくり手紙を読む暇もなくそのまま失礼してしまい、期待に沿えなくて悪いことをした。

教養部のクラスで北山へハイキング


 また、同じようにやはり教養部のクラス仲間で京都の北山などにハイキングに行った。北山は人造絞りで知られる北山杉の磨き丸太が特産品で、たまたまその磨く風景を目にしたので、それに見入ったりした。


(3)大阪万国博

岡本太郎の太陽の塔


 この年の3月から9月にかけて、大阪の千里丘陵で、人類の進歩と調和をテーマに日本万国博覧会が開催された。京都からほど近いので、行きやすかった。会場に入ると、中央には、岡本太郎の強烈な個性がほとばしる太陽の塔が聳えている。これは、あたかも異次元の世界の門番のようなものだ。建ち並ぶ各国や企業のパビリオンはいずれも斬新な意匠のものばかりで、華やかなファッションに身を包んだコンパニオンたちが案内してくれる。その中に展示されているものはどれも目新しく、近未来の製品ばかりだ。新し物好きの私には、もうたまらない。でも、どこもかしこも見物客が一杯で、長い列を作っていた。

アポロ宇宙船


 それにもへこたれず、列の中で何時間も待ち、アメリカ館に入ってアポロ宇宙船と月から持ち帰った石を見たり、白い4つの球から成るフランス館に入ってその洒落たデザインに感心したりした。また、国鉄のリニアモーターカー、動く歩道など、企業館に展示されている最新の製品を見て、私の科学好きの心は刺激され、外国への憧れと、まだ見ぬ未来への夢を膨らませた。

カナダ館にて


 この大阪万国博には、両親や妹たちを連れて行ったのを含めて、4回ほど通った。行くたびに、科学技術の進歩と、何か新しいものを求める人々の熱狂のようなものを感じ、時代が確実に変わりつつあることを実感した。


3.法学部へ進学

(1)中務(なかつかさ)ゼミに入る

 翌昭和46年は、法学部へ進学してようやく法律の勉強を本格的に始めた年である。京都大学には大教室での講義ばかりではなくて、少人数制のゼミというものがあった。学生はそれに所属して教授から直接、薫陶を受けることができる。民法の奥田昌道ゼミや商法の川又良也ゼミなどの有名ゼミが多くの志願者を集めている。私はどのゼミにしようかと考えた末、民事訴訟法の中務俊昌ゼミにした。

 その理由は、先生の人柄が良く、少人数で、いかにもゼミらしいゼミになっていたからである。週1回、レポートを割り振られた学生が発表し、それについて学生間で議論する。先生がそれを見守りながら、時おり的確なコメントをされるという形だった。自分の考えを言葉に発し、それが批判されればどういう風に反論するかを瞬時に考えて言葉にする。大教室での授業や教科書の勉強からは決して得られない貴重な経験だった。

 中務ゼミの同級生の数はたった8人だが、法曹になって裁判所長、検事正、弁護士を勤め上げた人もいれば、私と同じく中央官庁に入省して、局長になった人もいる。法曹関係の先輩方としては高等裁判所長官、検事正がおられるし、後輩の皆さん方からも、高等裁判所長官、弁護士、局長、銀行員、商社マンなどを輩出している。

 ちなみに、この中務ゼミの代々の卒業生が集まって親睦をはかる「中務会」という会合が毎年秋に開かれていて、その時には、先輩から後輩に至るまで何代にもわたって集まる同窓会となっている。年齢と職種を問わないから、他に例を見ないほど幅広い業界の面白い話を聞くことができる。その永年幹事役を勤めていただいているのが同級生の弁護士、菊地一郎さんである。


(2)法律の発想が性に合う

 法学部の授業が始まった。最初につくづく感心したのは、高校までの勉強と明らかな違いがあることだ。高校までは、数学はもちろん国語でも何でも、正解はただ一つであった。これに対して、法律の世界、特に論文は、それなりに筋が通っていればそれも正解になる。だから正解はその人ごとに違うし、判例や通説を踏まえて論理的で説得力のあるものが良いのである。この考え方は、物事を多面的に見る私の発想とよく合っていて、たちまち法律が好きになった。

 この頃、授業の中に外書購読という科目があって、表現の自由に関する「明白かつ現在の危険」の理論を英語の本で勉強した。担当は留学帰りの若い助教授で、その30年後に司法制度改革の中心人物となられる憲法の佐藤幸治京都大学名誉教授の若き日の姿であった。

 この3回生の時代は、判例や学説を一心不乱に暗記することに始まり、それで終わった。いかなる法律の論文でも、こうした基礎知識が必要不可欠だ。その一方、経済学もしっかり勉強しておこうと思って、ポール・サムエルソン「経済学」の教科書を熟読した。合成の誤謬という考え方は、目から鱗のような気がした。ともかく勉強の分量が多くて、こんなことなら、あの紛争の時代にのんびりと見物などしていなくて、もっと勉強しておくべきだと思ったが、過ぎた日々はどうやっても取り返せない。そのまま翌年に突入していった。

 法律の論文を書いたが、誰かそれを読んで講評していただける人がいないかと思っているうちに、同級生の紹介で司法修習生の方と知り合った。それはちょうどその頃、京都地方裁判所で司法修習をされていた松永榮治さん(後に名古屋高等検察庁検事長、現在は弁護士)である。毎回、課題を設定し、それについて書いた論文を見てもらい、その論理構成や判例学説の引用の巧拙を講評していただいた。これを通じて、かなり良い評価をしてもらったから、論文には自信が持てるようになった。


(3)友人どうし互いの実家を訪ね合う

 私は大学生時代には、必ずしも勉強ばかりをしていた訳ではない。友人と下宿先や喫茶店の進々堂などでしばしば話し込んだり、その頃ちょうど流行っていた麻雀に興じたり、長い休みにはそれぞれの故郷にある実家を訪ね合うのが楽しみだった。こうして私が訪ねた地方は、札幌、佐渡、島根、丸亀などであり、とりわけそれぞれの母上様にはたいへんお世話になった。

 逆に私の実家に来てくれた友人も何人かいる。その頃、父がちょうど銀行の支店長になったことから、我が家は、名古屋の後は、石川県 → 北海道 → 富山県と、全国をダイナミックに転勤して回った。だから、旅行好きの同級生に、各地で格好の宿を提供したようだ。

 中には私が知らない間に「山本くんと京大で同級生です。」といって、その頃は北海道の旭川市に転居したばかりの私の実家に泊まって行った豪の者もいる。そうやって勝手に泊まる方もかなり厚かましいが、私に連絡もせずに「はいはい、どうぞ。」と言って泊める母も母で、人柄の良さがにじみ出ている。

日本列島縦断の途中に妻籠の尾張屋の前で


 また、私自身も京都から飛行機を使わずに列車で北海道の実家に帰ったことがあった。これはもう、日本列島を半分縦断する大旅行である。京都 → 名古屋 → 妻籠 → 仙台 → 青森 → 函館 → 札幌 → 旭川というコースであったが、日本の各地がこれほど地方色豊かだとは思わなかった。途中、青森で青函連絡船に乗り換えたとき、乗客が船に向かって一斉に走り出したのには驚いた。 


(4)全国を転勤する時代が終わり高岡の地が実家に

 私が大学に在学中の頃、父は富山県氷見市の支店長へと転勤になって、実家が北海道から富山県へと戻ってきた。父は高岡市で住宅を購入し、そこを終の住処とするに至った。それから程なくして、銀行から地元の会社に出向したので、我が家が全国を転々とする時代は、ここにようやく終わった。

高岡市の実家の日本庭園


 これ以降、私の実家はこの高岡の地となる。夏に帰省してみると日中の気温は30度を超えて、ともかく暑い。冬は思ったほど寒くはないが、時には一晩で1メートル近い積雪があり、雪かきが大変だ。それでも父は、多くの兄弟姉妹が近くにいるので、兄さんと釣りに行ったり、姉さんと面白かった本を交換したり、池に好きな緋鯉を放ったりして、楽しそうに日々を過ごしていた。母は母で家中に季節の花のプランターを飾り、まるでお花屋さんのようにしている。私の2人の妹も、大学を卒業後はこの地でそれぞれ良縁に恵まれて、いずれも実家から指呼の間に住んでいる。父母が揃っていた時はもちろん、父が亡くなった後も、母の面倒を実によく見てくれているので、本当に感謝している。


4.立山連峰登山で命の危機

(1)剣沢で豪雨と落雷に遭う

 親しい友人の1人に、水野豊さんがいる。私と中学、高校そして大学までが同じで、しかも就職時に私と同じく中央官庁を選び、私のいる通産省とは桜田通りを隔てて斜向かいの文部省(現在の文部科学省)に入省した。以来、日本の社会教育の充実に努め、後に星城大学学長や京都光華女子大学副学長として、数々の業績を上げ、名訓辞を残した人である。彼も、私の富山の実家へ来てくれた。昭和44年8月上旬のことである。一緒に雨晴の海水浴場で泳いだ翌日、富山県の霊峰である立山から、尾根伝いに剣岳まで行くことにした。

立山室堂みくりが池


 2人で重いリュックを担いで北陸本線(当時)で高岡駅から富山駅に行き、そこから立山に向かう富山地方鉄道に乗った。天候は快晴である。電車は緑が濃い渓谷を抜け、終点で高原バスに乗り換えた。弥陀ヶ原という名のうねうねと続く溶岩台地を走り、窓から入ってくる冷たい風を頬に受けて気持ち良かった。高山植物の群落を抜け、地を這うようなハイマツの木を横目に、バスの終点の室堂に着いた。そこからリュックを背負い、浮き浮きした気分で歩き始めた。

室堂から剣沢への途中


 剣岳に向かう途中の剣沢に到着した。所々に雪が残っているカール(氷河の侵食によってできた半球形に窪んだ地形)で、両側の斜面は緑の芝生のような草で覆われている。先客の登山者たちが、そのあちこちにカラフルなテントを設えていた。我々もテントを設営し、カレーライスを作って食べ終わったのが、夜の8時頃であった。しばらく話していたが、「明日は険しい岩稜地帯になるから、早目に寝よう。」と言い合って、寝袋に潜り込んだ。するとまさにそのとき、突然、ドドォーンという大音響とともに豪雨が襲ってきた。何しろザザァーという音がしたと思ったら、その雨がテントの布をそのまま通過して、中に降り込んでくる。しかも強い風でテントごと吹き飛ばされそうになる。そうはさせまいと、命の綱ともいえるテントの心棒を、2人でそれぞれ1本ずつ、力一杯支える始末である。

 やがてテントが浸水し、あれよあれよという間に、腰のところにまで水が来てしまった。寝袋も何もかも水浸しだ。しかも周りで稲妻が光りはじめ、雷がゴロゴロ・ドッドーンと落ちはじめた。これは本当に怖かった。標高が2,600メートルほどのこの場所では、雷はわれわれと同じ高さで発生して文字通り周囲をピカピカ光って転げ回るのである。そのうち雷がもっと近づいてきて、ごく近くで何回も、ヒューン、ガッゴォーンと砲弾のような音がする。それだけならまだしも、轟音とともに金色の閃光がひらめいて、周囲が真昼のように明るくなる。まるで艦砲射撃に遭っているようなものだ。全身がずぶ濡れだから、この雷撃に当たると即感電死だ。私は何度も「ああ、自分の命も、これで一巻の終わりか。」と思ったほどだった。


(2)まさに命は紙一重

 午前5時を過ぎて辺りが明るくなり始めた。すると一瞬、雨風と雷が弱まったときがあった。そのときを狙って水野さんが「このままだと命が危ないから、一か八かで山小屋まで走るか。剣沢小屋なら、そう遠くはない。」と言い出した。私はすぐに賛成し、身につけているベルトのバックル、腕時計、鍵、硬貨、登山用具の金属類はもちろん、テントや荷物など一切合切を捨て、身をかがめ、頭を低くして走り出した。走るすぐそばで閃光が渦巻き、ゴロゴロと音がするのには参った。雷の巣に入り込んでしまったようだ。その中を、前を行く水野さんの背中を追って、必死で走りに走った。やがて遠くに山小屋の灯が見えたときは、嬉しかった。そこに夢中で駈け込み、これで命が助かったと思った。

 剣沢小屋は、我々のように避難してきた登山者で一杯だった。猛烈な雨と風と雷は、その日も次の日も続き、一歩も外へ出られない有り様だ。ところが、翌々日の午前7時頃になって、ようやく雷が鳴らなくなり、雨も小止みになった。それを潮に、下山することにした。放置していた荷物を手早く回収し、2人で転げるように雪渓を駆け抜けた。途中では、川には濁流があふれ、丸木橋が今にも押し流されようとしている。それをやっとのことで渡り、室堂で下りのバスに飛び乗ることができた。バスは意外と快調に走り、高原を降りたところで富山地方鉄道に乗り替えた。それから電車は渓谷を走り抜けて、お昼頃には電鉄富山駅に着き、ほっと一息ついた。

 駅で、テレビのニュースが目に飛び込んできた。何と、川が増水して、われわれがたった今、渡ってきた鉄道橋が流されたというのである。ふいに心臓が大きく脈打つ音が聞こえ、思わず水野さんと互いに顔を見合わせた。運が悪ければ、雷に打たれるか川で流されるかの瀬戸際で、まさに命は紙一重であることを実感した。


5.日本経済の司令塔、通産省に憧れる

(1)大蔵省か通産省か自治省の三択

 昭和47年の初めには、そろそろ自分の志望を決める時期に来ていた。古都である京都は良い街だが、理科系ならともかく、私のような法学部生がこんな住み心地の良いところに安住していては、大志を抱くどころではない。私はかねてからの考えのとおり、「東京に出て、日本をリードする立場になり、できれば世界を相手にする仕事をしたい。」という強い願望を持っていた。それを現実のものとするには、国会議員になるにしては金も地盤も看板もない。だから、国家公務員になるほかないと思い定めていた。

 当時の学生に人気があったのは、官庁の中の官庁といわれた大蔵省、産業政策や通商交渉が飛び抜けて優れていたことからアメリカ人に「悪名高い通産省(Notorious MITI) 」とまで言わしめた通商産業省(Ministry of International Trade and Industry)、そして地方行政の要で都道府県知事を輩出している自治省の3省である。

 その頃の私は、勤務地は東京に限り、地方には金輪際、行くまいと思っていた。というのは、父が転勤族の銀行員だったので、私は父に付いて2〜3年毎に各地を転々とし、小学校は3回、中学校は2回も転校して、言葉の違いでひどいいじめには遭うし、方言には苦労したしで、もうそんな嫌な思いを自分の子供には味わせたくないとの気持ちが強かった。

 だから、まず自治省は論外で、大蔵省か通産省が候補として残る。このうち大蔵省も、地方の税務署長や国税局、あるいは財務局に必ず出ることになっているから、あまり気が進まなかった。それに対して通産省は、1〜2回の海外勤務はあるものの、概ね東京住まいを続けられると知り、気持ちが大いに傾いた。加えて、世界を相手にする仕事が出来る。私の希望にぴったりと合致するではないか。

 通産省の戦後の役割を調べてみると、それはまさに日本経済の戦後の復興と高度経済成長をもたらした司令塔であった。貿易の自由化から始まって資本の自由化に至る繊細で微妙な産業政策の舵取りを見事に成功させ、鉄鋼、機械、家電、コンピューターなど、世界に通用する強力な産業を育ててきた。その過程で、国内派と国際派の相克をはじめとする数々の人間ドラマがあったようだ。知れば知るほど非常に面白い。こんな職場でこのような人たちに混じって、やり甲斐のある仕事を是非やってみたいと考えるようになった。そのためには、まずは国家公務員試験で上位の成績をとることが必須である。それに司法試験にも合格しておけば、いわば名刺代わりになると思って、更に法律の勉強に勤しんだ。


(2)明け方まで勉強のスタイルで失敗

 実はこの年に入ってから失敗してしまったことがある。それは勉強の時間帯の選択で、裏を返せば1日の内で睡眠時間をいつにするかという問題である。その当時、我々の学生の間では、明け方まで勉強して昼前に起きるパターンが流行っていた。私も試しに夜中から明け方まで勉強してみると、なかなか調子が良い。とりわけ辺りがシーンとする午前0時から新聞配達が来る5時までが非常にはかどる。何でも記憶できるし、書く論文の内容も優れている。これは良いと思い、そのパターンが定着してしまった。

 2つの国家試験のうち先に試験日が到来したのは司法試験だった。その前々日に、明後日は試験だから早く寝ようと思って布団に入ったら、なかなか寝付けないのである。それもそのはずで、いつも午前5時過ぎに寝ている者が、午後11時に眠りに入れるはずがない。これはしまったと思ったが、後の祭りだった。かくして択一試験前日はほとんど眠れないまま会場に行き、惨敗してしまった。


(3)三菱銀行に内定し国家公務員試験は合格を確信

 幸い、本命の国家公務員試験はその後だったので、今度は眠る時間を毎日早めていって、時差調整に万全を期した。失敗は成功の元で、国家公務員一次試験は無事に通過した。その頃、国家公務員試験が不首尾に終わったときに備えて、どこか民間会社の就職先を決めておこうと考えた。父に見習って銀行にしよう、それなら面接でも話題は豊富だと思い、当時の都銀トップ行である三菱銀行を訪ねた。ここなら、狭い日本にとどまらないでニューヨークやロンドンでも活躍できる仕事がありそうだと思ったからである。面接はそういう希望を伝えてトントン拍子に進み、やがて内定通知をいただいた。

 後日、前の下宿のおばさんに道で出会った。「お久しぶりです。」と挨拶をすると、おばさんから、「ある日、探偵みたいな人がやってきて、あなたのことを『学生運動はしていなかったか、酒やギャンブルの癖はどうか、日頃の生活態度はどうか。』などと根掘り葉掘り聞いてきたから、よく勉強ばかりする学生さんでしたよ、と言っておいたからね。」と言われた。有り難かった。大事にすべきは、良き人間関係である。

 さて、国家公務員試験の二次試験の案内が来た。よし、これは頑張るぞと思って過去問の練習をし、6月頃だったろうか、試験当日を迎えた。試験で一番印象に残っている問題は、行政法の「特別権力関係について述べよ。」というもので、前々からこれは間違いなく出題されると思っていたから、予め準備していた。その通りに書いて、しかも回答用紙の最後の行にピタリと収まるようにした。それやこれやで頑張り、特段のミスなく試験は終わったので、その時点で合格を確信した。


(4)通産省の面接準備

 ところが、面接で通産省に採用されなければ、これまで努力してきた意味がない。どういう作戦で行こうかと考えた末、まず志望動機は「貿易と資本の自由化という困難な道を歩みながら、巧みな行政指導で日本経済をここまで育て上げてきた通産省は、とても素晴らしいと思う。そこで、私も通産省の一員として、世界に通用する日本の産業の育成に是非とも参画したいと考えた。」と述べることにした。入省して具体的にやりたいこととしては、とりわけ当時、大きな社会問題になりつつあった産業公害について、「その解決なくして産業の健全な発展はあり得ないと思う。これを単に企業側が悪いと一方的に責めるだけでは何の解決策にもならないので、科学的かつ実用性のある解決方法を関係企業とともに研究開発をして、それを着実に実践すべきである。」と力説することにした。後から振り返ると、これが効いたようだ。

 7月になり、いわゆる各省巡りをする時期となった。上京し、通産省に行ってみると、省内のあちこちにいる京都大学出身の先輩たちを紹介してくれた。そうした先輩である林良造さんや安達俊雄さんから、昼食をご馳走していただきながら、自分の仕事のこと、人間関係のこと、通産省が抱える課題などについて、懇切丁寧なお話を伺った。まるで、私が事前に想像していたのと同じ雰囲気だったので、本当に感激して、是非とも入りたいという気持ちが強くなった。


(5)通産省に合格しその格好の良さに感激

 8月初旬の発表日の前々日に上京して、通産省秘書課に自分の居場所を登録した。秘書課からの電話を待っていたら、午前10時過ぎに来てほしいという連絡が入った。朝早くから面接が順次始まっているとしてこの順番だから、その時点で合格を確信した。その時間に霞ヶ関の通産省に行って、面接場に入ると、そこには、和田敏信官房長、矢野俊比古総務課長、熊谷善二秘書課長、それに事前に会っていただいた鎌田吉郎秘書課補佐などざっと10人近い面接官が、まるで扇のような形をして座っておられた。そして、10分ほど矢継ぎ早の質問を受けた。

 そのやりとりが終わって、一旦、部屋の外に出された後、すぐに呼び込まれた。すると中央の和田官房長がすっくと立ち上がって「おめでとう、合格です。通産省の仲間として、これから一緒に仕事をしましょう。」と言われ、片手を差し出された。私は、握手をしながら合格の喜びを味わいつつ、「それにしても内定者とはいえ一介の学生に最高責任者の1人が握手してくれるなんて、何と格好の良い役所だろうか。」と思って、ただただ感激した。これで大学入試に次ぐ、人生の大きな難関を乗り越えた。大学入試はうまくいかなかったが、就職は思い通りの結果となって、大成功だと考えるにつけ、体全体に嬉しさがこみ上げてきた。

(第3章は、令和3年4月3日記)

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第4章 通商産業省

通商産業省


1.昼は魚河岸、夜は居酒屋通産亭

(1)ナポレオン史家の両角良彦次官から採用辞令

 昭和48年4月1日付けで、私はついに通産省に入省した。翌2日(月曜)朝に次官室において、ナポレオン史家としても有名な両角良彦事務次官から、採用の辞令をいただいた。それには「通商産業事務官行政職(一)7等級(公害保安局)に採用する 2号俸を給する」とあった。これで、晴れて通産省の一員となったわけである。感激で心が打ち震えたのを覚えている。その辞令を大事に抱えて配属先の公害保安局に行くと、青木慎三局長から「公害保安政策課勤務を命ずる」と書かれた人事異動通知書を受け取った。ちなみに、同年7月の通産省全体の組織改革で、公害保安局は立地公害局へ、公害保安政策課は同局総務課へと、それぞれ名称が改められた。

 なお、省の正式名称は、国家行政組織法と設置法上は「通商産業省」であるが、我々は専ら「通産省」と呼び慣わしていて、私はこの言葉に無限の愛着とノスタルジーを感じる。だから、そういうときには、敢えて「通産省」と呼ぶこととさせていただきたい。

通産省へ入省した同期の仲間と住金和歌山製鉄所にて。


 この年に通産省へ入省した同期の事務官の数は20名である。その全員を紹介できないのは残念であるが、望月晴文(元経済産業事務次官)、豊田正和(元経済産業審議官)、田中伸男(元国際エネルギー機関事務局長)、小川洋(元内閣広報官・福岡県知事)、北爪由紀夫(元カタール駐箚特命全権大使)、大井篤(元防衛庁防衛参事官)、山田範保(元環境省審議官)、梅村美明(元サハリン石油ガス開発株式会社代表取締役社長)、羽山正孝(元中小企業庁次長)、藤野達夫(元人事院人材局長)、稲葉健次(元東北通商産業局長)、橋本城二(元特許庁審査第一部長)などがおられる。私も含めてこれら同期の皆さんは、勧奨退職の年齢まで経済産業省で勤め上げた後、それぞれの人生を歩んでいて、今もって親しく交流を続けている。

 とりわけ、梅村美明さんとは、旭丘高校の同級生であるばかりでなく、特許庁総務課で一緒に仕事をし、また共に取引信用室長を勤めたことから、特に親しくさせていただいている。時折会って食事をしながら、故郷の名古屋のこと、子供や孫の話、日本経済と世界のエネルギー事情、親の看護、我々自身や奥方の健康、テニスやゴルフの話題など、ありとあらゆる話ができるから嬉しい。男たる者、持つべきものは良い女房と、何でも話せる友である。


(2)公害防止企画課の係員に

 4月2日、青木局長から辞令をいただいて、すぐに配属先の公害保安政策課へ顔を出した。ところが、そこには私の席がなくて少々がっかりした。代わりに、「君は公害防止企画課に配属される予定だから、そちらへ行くように。」と言われ、その足ですぐに行ってみた。すると、確かに私の席が用意されていた。そこに座っていると、課長をはじめ課員全員が、電話の受話器を握りしめて大声で話をしていたり、頻繁に席を立ったり座ったり、書類を手に怒鳴っていたり、来客が引っ切り無しにあったり、あるいは自席で一心不乱に作業をしていた人が突然立ち上がったかと思うとその作った書類を急いでコピーして部屋から飛び出して行ったりと、実に騒がしく落ち着かない。

 まるで魚河岸か特ダネ報道中の放送局並みの喧騒の嵐の中にいるようだった。私は何をして良いか分からずに、ただ呆然として見ているばかりである。私に構ってくれる人も当然いないので、机の座席表と課員の皆さんの顔とを見比べて、担当と顔が一致するように覚え、どんどん掛かってくる電話をその担当の人につなぐのが精一杯という有り様だ。

 午後6時を過ぎたので、「やっと1日の終わりがきたか。これで帰ることができる。」と思ってホッとしていると、とんでもなく甘かった。誰かに「夕食を注文してくれ。ここにメニューがある。」と言われた。それで、皆さんの希望を聞いてそれぞれの弁当屋に電話で注文した。やれやれと思っていると、課長がいそいそと机の下段の引出しから何やら出してくる。どうも、ウィスキーのボトルみたいだ。そして「氷あるかー」と叫ぶ。帰りがけの庶務係の女の子にグラスと氷の在り処を聞いて慌てて課長の席に持っていくと、オンザロックを自ら作ってグイグイ飲み始めた。周りの課員達も、机の上にビール瓶を並べてあちこちで酒盛りが始まった。

 廊下の方から何やら良い匂いがしてきた。一体何だろうと思ってその匂いの元を辿って行くと、何とまあ、湯沸し室で魚の干物を焼いているおじさんがいるではないか。もうこれは、夕方に業態転換して居酒屋通産亭に変わったようなものだ。通産省というのは学究的な組織に違いないと、私は勝手に思い込んでいたから、これには驚くとともに、酒をあまり飲まない我が身を振り返って、大変な所に来てしまったと思った。

 さて、午後8時頃になると酒盛りが一段落して、各人が机の上で一生懸命、書き物をしている。その頃には来客があらかたいなくなってその分、静かになった。パラパラと明日の国会質問なるものが配られてくる。そのうちの何問かが自分の課に当たったようで、省内の担当課や現地の通産局に電話して、情報収集に努めている。午後10時を過ぎたところで、ようやくその質問に対する答弁を作り始めた。

 原案を総括係長の柴崎徹也さんや各班の班長が書いて総括班長の田守榮一さんに直され、それを清書して黒田眞課長に持って行くとまた手を入れられて、やっと出来上がった・・・と思ったら先輩の林洋和さんと一緒にそれを公害保安政策課に持っていくと更に直され、 しかる後に官房総務課で再び直されるという調子で、終わってみると午前2時を回っていた。それに全部付き合い、最後に清書してコピーを作りそのセットまでしたので、疲れてくたくたになった。タクシーの相乗りで、杉並区高円寺の下宿に帰った。通産省入省の第1日目が、これでようやく終わった。


(3)楽しかった人事院の研修は嵐の前の静けさ

人事院の国家公務員合同初任研修。染井吉野の桜が満開のとき。後列はいずれも通産省入省の同期だが、前列の皆さんは、我々と同じ国家公務員の卵でたまたま通りかかった人たち


 確かその翌々日から、人事院の国家公務員合同初任研修があって、居酒屋通産亭に行くことを免れた。研修は代々木のオリンピック記念青少年総合センターで行われた。研修の内容などはすっかり忘却の彼方にあるが、折しも染井吉野が満開のときだった。その咲き誇る桜の花の下で、同期の仲間たちと一緒に写真を撮ったのは、忘れられない思い出である。しかし、実はそれは嵐の前の静けさで、この夢のようなほんの僅かな期間が過ぎてからは、体力と気力の限界まで仕事に追われる疾風怒濤の苛烈な日々が私を待っていた。


2.立地公害局公害防止企画課

(1)深刻な公害問題が全国的に広がる

 その当時の日本は、ちょうど現代の中国のように高度経済成長の真っ只中にあった。公害に関する科学的知見に乏しい中、汚染物質の排出規制が未整備か、あっても実効性の薄いものであったために、各地で深刻な公害問題を引き起こした。なかでも四大公害事件といわれた神通川流域のイタイイタイ病水俣病四日市コンビナート喘息新潟水俣病のほか、杉並区での光化学スモッグ発生西淀川公害訴訟など、各地で深刻な公害問題が起こり、全国的な広がりをみせていた。

産業公害が全国各地で発生


 政府は、昭和45年11月に開かれた公害国会で、経済調和条項を削除する公害対策基本法等の改正、大気汚染防止法の改正、水質汚濁防止法や公害犯罪処罰法など14もの法案を成立させた。これに加え、通産省としても翌46年6月に独自に公害防止管理者法を成立させている。しかしこれらの規制に頼るだけでは実効性が上がらないので、公害防止設備の導入に対する融資スキームの整備や税制上の優遇などの助成措置も重要な政策手段となる。これらがなければ、公害規制など、絵に描いた餅のようなものである。

 折しも環境庁が昭和46年7月に発足したばかりであったが、環境庁には地方の出先機関もなく、産業公害の発生源たる産業設備に関する知見は乏しかった。これに対して、通産省には、本省に知識や経験の豊富な技官集団が揃っていたし、地方には手足となって動いてくれる通産局があり、その助けを得て、規制設備の選定や規制基準の整備を進めていった。

 だから、通産省が新聞に「企業の代弁者」などとレッテルを貼られて、悪しく言われるのは悲しかった。しかし、マスコミの書く表向きの姿はともかくとして、我々通産省の職員は、こうして抜本的に強化された数々の公害規制立法が円滑に施行されるよう、業界団体や各地の工場の指導にてんてこ舞いの有り様だった。

 加えて、本業の公害事件の国会対応、公害防止管理者法や公害健康被害補償法の施行、公害防止設備の助成措置の実施など、文字通り、猫の手も借りたいほどの戦場であった。道理で、黒田眞課長をはじめ課の全員が異様なほど多忙だったわけである。私が放り込まれた公害防止企画課は、まさにその渦中にあった。


(2)中枢神経系の末端で見様見真似

 短かった人事院の研修から戻ってきた私は、早速この激動の渦に巻き込まれた。課長直属の総括班には、課長補佐たる総括班長、総括係長、そして平(ひら)の係員たる私がいる。総括班は、総務課経由で来るその課に対する発注や情報の全てと、その課から総務課へ提出される成果物や情報の全てを取りまとめるのが職務であり、まさにその課の中枢神経系のようなものだ。その末端に位置する私には、本務の公害防止企画課のみならず併任するようになった公害防止指導課を含めて、課の内外からのあらゆる発注や情報が集まる。私はそれを課内の担当者に割り振って発注したり情報を伝えたりして、必要な書類や報告を作成してもらう。それが出来上がると、注文通りのものになっているか、法律や政策に適合しているかを確認して、期限内に総務課へ提出する。これをたった1人でやっていた。

 それらの難易度や締切りは全部違うから、その進行管理と内容のチェックが仕事の中心である。しかし、法律関係の仕事や課内の誰にもやってもらえないような仕事は、私がやらなければ、誰もしてくれない。特に政省令案の作成や国会答弁の作成の多くがそうで、普通の課であれば総括班長か係長レベルの仕事なのだろうが、当時は班長も係長もそれぞれの仕事に追われていた。だから、全くの素人である1年生の私が、見様見真似でやっていた。

『通商産業省』ではなくて、『通常残業省』


 こういう状態だから、帰りは当然極めて遅くなり、平日は午前2時を過ぎるのが普通であった。残業手当などほとんど付かないので、今風にいえばサービス残業時間は月200時間を優に超えていたのではなかろうか。「これでは『通商産業省』ではなくて、『通常残業省』だ。」と、同期で嘆いていた。日曜日の出勤もしばしばあり、これは身体に応えた。加えて、当時は週休二日制でなかったから、土曜日も働いて、終わるのは午後8時か9時頃になる。それでも平日よりは早く帰宅できるので、嬉しかった。

 ある平日のこと、仕事が立て込んで明け方までかかってもまだ終わらない。仕方がないので、午前5時頃に机を「田」の字の型に4つ並べてその上に横たわり、あと数時間後のその日の朝までにしなければならない案件を数え始めた。24まで数えたところで眠くなり、意識が遠のいていった。そして不覚にもそのまま寝てしまい、出勤してきた庶務係の女性に「もう朝ですよ。」と、起こされたことがある。その24以上あった仕事がその後どうなったかは、記憶が定かでない。全部を処理できたはずもないので、大事なものから先に処理し、残りは提出期限を延ばしてもらったか、催促が来るまで放置しておいたかのいずれかであろう。このように、毎日が真剣勝負の戦場で、私は体力と知力の限界まで働き、生き残りに必死だった。


(3)仕事をする上でのスキルが身につく

 こうした経験を通じて、普通の職場で平々凡々と仕事をした場合にはあまり身につかないような数々の特技(スキル)を身につけることができた。それが私のその後の仕事人生に、大いに役に立ったのは確かである。例えば、しなければならない仕事や用件のうち、すぐにやれるものは、面倒がらないで直ちにその場で処理する習慣がついた。しかも、それぞれの案件を一見しただけで、おおよその本質を把握できるようになった。そして、これらを最も速くかつ合理的に処理するにはどうすればよいかという手順をその場で考え、その上で、自分でする仕事と同僚にお願いする仕事を仕分け、直ちに実行に移すという具合である。

 更には、文章を作成するのが早くなった。それも、例えばあと30分以内にその文章を提出しなければならないときは60%程度の出来のそれなりのものを、2時間ほど余裕があれば80%くらいのまあまあのものを、1日ほど作成に時間があるときは90%以上の完成度の高いものを作成するという技が身についた。しかもそれらを同時に何件も並行処理をすることができる。

 後年、最高裁判所の判事になって裁判所と通産省との仕事ぶりの違いを実感した。この例でいえば、裁判所は、100%の完成度と思うものを数ヶ月あるいは年単位の時間をかけて書き上げるのである。組織の任務と性格の違いとしかいいようがない。


(4)過酷の極致のような職場環境

 このような過酷の極致のような職場環境は、今風に表現すればまさに「ブラック企業」の職場そのものであり、我ながらよく病気で倒れなかったものだと、今にして思う。そのかわり、出勤のない日曜日には「寝だめ」と称して昼過ぎまで死んだ魚のように寝ていた。若かったからこそ、出来たことだろう。

 こんなこともあった。年末の予算シーズンに、先輩の誰かからドリンク剤の差し入れがあった。予算案の作成なので数日間眠らずに不眠不休で作業していた後、やっと眠る時間が少し出来た。そのときは嬉しくて、精力をつけてから寝ようと、そのドリンク剤を2本飲んだ。するとどうしたことか、身体は疲れて睡眠を要求するのに、眼はパッチリと開いて少しも眠れない。この時ほど情けなかったことはない。後に、そのドリンク剤には、かなりの量のカフェインが含まれていたことを知った。それが2本分も重なっては、眠れなかったわけだ。


(5)電気目覚まし時計で大失敗

 この頃、大失敗をしたことがある。翌朝、課長に随行して新幹線で名古屋に行くことになっていた。私はいつもより早く午前1時前には帰宅し、目覚まし時計を午前7時にセットして眠りについた。私は、枕元で時計がチクタク鳴ると睡眠が妨げられるタイプなので、電池を使わずに家庭用電源から電気をとる「電気目覚まし時計」を愛用していた。当時としては珍しい製品だったが、これだと音がしないので、安眠できたからだ。

 朝、それが鳴ったので、眠い目をこすりながら起きて、テレビを付けてみた。すると驚いたことに、もう午前8時近くで、8時半の新幹線にはとても間に合わない。携帯電話のない時代だから、新幹線の車中の公衆電話に繋いでもらって課長に電話をして謝り、後続の新幹線で追いかけるという、誠に見っともない仕儀となってしまった。

 後から、なぜ時計が鳴らなかったのかと、その原因を考えてみた。すると、夜中に小1時間ほど停電したからではないかと思い付いた。電気時計だから、電気が来ない間は、時を刻めないわけだ。確かめてみたら、案の定、明け方に近くで電気工事があったそうだ。滅多に起こらない停電が、よりによってこんな大事なときに起こるなんて、運が悪い。しかし 、結果的に、この程度の実害で済んだのは、むしろ不幸中の幸いだったともいえる。要は、失敗は引きずるのではなく、その後の人生の役に立つよう、プラス思考で考えることだ。

 それ以来、私は枕元にはこの電気時計、部屋の片隅には普通の電池式目覚まし時計を置くようにした。これは独身時代のことであるが、それからしばらくして結婚した。それ以来、有り難いことに家内が「人間目覚まし時計」になってくれているから、こういう失敗はもうしなくなった。


(6)官僚たちの夏とジャパン・アズ・ナンバーワン

 私が入省する前の高度経済成長の時代から昭和60年代初頭の日米貿易摩擦への対応に追われた頃までは、我々通産省の官僚は、業界の皆さん方からはもちろんのこと、国民一般より全幅の信頼を得ていた。新聞の一面に通産省の記事が載らない日はなかったし、国民の多くがその一挙手一投足に注目していた。現に主要な産業政策で打つ手のほとんどが的を射たものとして受け止められ、これらを通じて、日本企業全体の水準を底上げし、日本経済の飛躍的発展に大きく貢献したものと信じている。

城山三郎の小説「官僚たちの夏」とエズラ・ヴォーゲル著「ジャパン・アズ・ナンバーワン 〜 アメリカへの教訓」


 この時期の通産省内の熱気や使命感を味わうには、昭和50年に単行本化された城山三郎の小説「官僚たちの夏」を読むと大体想像がつく。私の入省時にも、まさにあのような熱気がまだ省内に満ち満ちており、省内での議論一つをとってみても、真剣勝負の気持ちで準備し、その上で議論に臨んでいた。風越信吾のモデルといわれた佐橋滋先輩はもう退官されていたが、パーティの席でお会いしてお話をしたところ、なるほど噂にたがわず誠に気宇壮大な方だった。小説では「おれたちは国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃない。」と常々言っていたということになっているが、さもありなんと思った次第である。この本とともに私の心の支えとなった著作は、昭和54年に出版されたエズラ・ヴォーゲル著「ジャパン・アズ・ナンバーワン 〜 アメリカへの教訓」である。このアメリカ人によって著された本は、通産省を賞賛し、その経済運営を高く評価している。ともすれば仕事の重みと肉体の疲労に耐えかねそうになった私は、その度にこれら2つの本を引っ張り出して繰り返し読んだ。そして「通産省に入ったのは本当に良かった。日本の経済発展のために頑張ろう。」と思って自らを鼓舞し、その日の疲れを癒して翌日の仕事に臨む活力をひねり出したものである。

 もちろん、たまには息抜きもある。それは、地方の通産局に新たな公害規制の内容を説明に行く出張だ。私は年次が最も若いので、どういうわけか、四国通産局と沖縄ばかりである。四国通産局には名物課長がおられて、行くたびに可愛がってもらった。沖縄は私が入省する前年の昭和47年に日本へ返還されたばかりで、日本の法制に合わせようと努力されていた。会議が終わって皆で夕食に行った時に聞いた琉球三味線の物悲しい音色が忘れられない。

四国通産局での公害対策会議。私の向かって左におられるのが、名物課長さん。前列左端の女性のミニスカートが時代を表している。


(7)志の高い官僚は国家運営に不可欠

 今から思えば、私が通産省(その後、中央省庁改革で経済産業省となる。)で過ごした20年間は、官民協調の経済発展が最後の光芒を見せた時代だった。ところが、やがて時代は変わり、暗転する。通産省とともに最強の官庁といわれた大蔵省(中央省庁改革で財務省)が、その驕りからか、平成10年になって大きな接待不祥事を起こすに至った。そればかりか、住専問題に引き続いてバブル経済への対処に失敗し、その頃、北海道拓殖銀行日本長期信用銀行等の破綻を引き起こした。この一連の事件を契機に、中央官庁と官僚に対する世間の信頼は失墜し、今なおその影響を重く引きずっているのは、誠に残念なことである。

 また最近では、それに加えて内閣人事局に一元的に人事権を握られている弱みからか、時の政権に忖度して「記憶にない」などと真実を国会でも語らないという風潮すら見受けられる。誠に嘆かわしいことだ。国家公務員は文字通り国民への奉仕者であって、特定の政治家の下僕ではないはずだ。

 私は通産省の一員となってからは日本という国の経済発展のために、また内閣法制局に移ってからは日本の法体系の整備のために、文字通り粉骨砕身して滅私奉公の気持ちで、我が身を捧げてきたつもりである。我が国には、私に限らず、そういう心構えの無名の官僚が数多くいる。その大半は決して表舞台に立つことはないものの、その持ち場、持ち場で、国家の縁の下の力持ちのような役割を果たしている。現に、そのような志の高い官僚がいなければ、国家を適切に運営していくことはできない。国民の皆様におかれては、こうして名も知れず頑張っている官僚の皆さんに時として思いを致し、どうか温かく見守っていただければと思うのである。

 私の入省当時、猛烈に多忙な毎日を過ごしていたのは、もちろん私だけではない。公害防止企画課及びその双子の兄弟みたいな公害防止指導課の課長と課員全員が、同じ状況であった。私は昭和48年7月から公害防止指導課を併任していたので、なおのこと時間に追いまくられていた。これほど仕事をしていると、仕事ぶりは誤魔化せるものではないから、戦略の策定にも交渉力にも長けている一騎当千の強者が育つのも当然である。

 事実、当時の黒田眞公害防止企画課長は後日、通商産業審議官(事務次官クラス)に、課長補佐の総括班長だった江崎格さんと総括係長の林良造さんはそれぞれ筆頭局長である産業政策局長、経済産業政策局長に、私の前任の総括係員の林洋和さんは枢要局長である通商政策局長に各々就いている。総務課にいた松永和夫さんも苦楽をともにした仲間だが、後日、経済産業事務次官になっている。

 振り返ってみると、産業公害の撲滅というその時代特有の熱気の中で、我々はまるでお祭りの山車の引き手のように、仕事への情熱と使命感だけで、皆が突っ走っていたようなものだ。その結果、仕事のやり甲斐はあり過ぎるほどあったが、労働環境は実に酷いものだった。今なら鬱病や重病の患者が何人か出てもおかしくないような極限状態の中で、私の知る限り、そんな人が1人も出なかったのは、奇跡的ではないかと思う。あるいは今と比べれば、当時の人は、私も含めて精神的にも肉体的にも、結構打たれ強かったのかもしれない。


(8)三菱重工爆破事件を目撃

 当時の公害防止企画課は、内堀通りに面した通産省の建物の上層階にあった。昭和49年8月30日の昼過ぎ、私は窓際の総括班長の机のところまで行こうとして立ち上がり、たまたま窓の方を向いた。すると、「ドン!」という腹に響く重たい音がした。一体何だろうと思ってすぐに窓の外へ目をやると、東京駅方面に黒いキノコ雲が上がり、しばらくして消えてしまった。何かが爆発したのだろうと思ったが、まさか過激派が爆破事件を起こしたとは思わなかった。

 その後、これは三菱重工爆破事件と称され、東アジア反日武装戦線「狼」なる集団が引き起こした無差別爆弾テロ事件であることが分かった。8人もの無辜の社員や通行人の命を奪い、400人近い重軽傷者を出した悲惨な事件である。いかなる思想信条があるにせよ、決して許されない行為である。


3.一生の伴侶を得る

(1)西武園へ合同ハイキング

 さて、この公害防止企画課時代に、私は一生の伴侶となる家内と巡り逢った。あの激務の中で、我ながらよく結婚相手を見つけたものだと思うが、まあ若かったからとしか言いようがない。出逢いのきっかけは、合同ハイキングで西武園(遊園地)に行ったことである。それというのも、入省してしばらくした頃に、その年の事務官と技官の新入生を対象とする研修があり、東村山市にある通商産業研修所で泊まり込みの合宿をしたからだ。

 この期間は、日頃の激務から完全に解放されたので、嬉しくてたまらなかった。どういう研修だったかはすっかり忘れてしまったが、皆若いから、時間を持て余していた。そこで同期の1人が、「前年は近くの津田塾大学と合ハイをやったそうだから、今年もやらないか?」と言い出し、その人が幹事役となって計画してくれた。そして双方から5〜6人ずつ参加し、一緒に西武園で遊ぶことになった。

 当日、その西武園に着いて改札口を出るときに、切符がすぐに出なくてボケットの中を探っていた私に、「どうかしましたか?」と優しく気遣った声を掛けてくれたのが、家内との馴れ初めである。真っ赤な良く似合う服を着ていて、話をしてみるとお互いごく自然に話題が出てくる。これは素敵な人だなぁと、一目惚れである。


(2)家内の良いところ

 この際、家内の良いところを書いておくと、まず、明るくてとても優しく、世話好きで家族思いでありながら、非常に合理的な思考の持ち主である。自分のことは最後に回して、限られた時間、お金、家族の様子や能力などから、いつ何をどうすればよいのかという最適解を瞬時に導き出し、しかもそれを実行に移す能力がある。これで、私も子供たちも、どれだけお世話になったか分からない。こういう能力の源は、数学科の出身ということもあるのかもしれない。

日光へハイキング


 その後、日曜日には高尾山へ出かけたり、ちょっと遠出して日光へ行ったりして、交際そのものは順調だったけれど、私がまたあの激務に戻ったので、色々と申し訳ないことになった。例えば、彼女の好きな歌舞伎を国立劇場に観に行ったのに、私は隣で眠ってしまって、「終わりましたよ」と起こされる始末。とても恥ずかしかった。しかし、それでも愛想をつかされなかったのが、彼女の人柄の良いところだ。

日本橋を歩くフィアンセ時代の家内


 とある土曜日の午後に津田塾大学の寮の前で待ち合わせたのに、仕事の関係で2時間も遅れてしまった。携帯電話がない時代だから連絡のしようがなく、さすがにもういないだろうと思ってほぼ諦めながらその待ち合わせ場所に急いで行ってみたら、まだその場で待っていてくれた。誠実な人なのだと感激して、「ああ、こんな人と結婚出来れば、一生幸せになるだろうな。」と思ったものである。そこで、プロポーズを受けてもらい、彼女の実家のご両親にご挨拶に行った。お住まいは静岡で、父は高校の先生、母は洋裁学園の経営者である。


(3)義理のお母さんとの出会い

 せっかく来たのだからと、富士山が正面に見える日本平ホテルに泊めていただき、螺旋階段を下るところで初対面をした。お母さんがおっしゃるには、あそこで私と目を合わせた瞬間、「ああこれはもう、お嫁にやるしかないわ。」と思われたそうだ。実は、家内は2人姉妹の長女の方で、しかも小さい頃からしっかりして出来が良かった。だから、義理の母としてはゆくゆくは自分の後継者にと思っておられたようだ。そういう時に私が現れて連れて行くような形になったので、この私との対面の前には、内心、少々穏やかならぬ気持ちがないわけではなかったようだ。

 それで、ますますどんな男か見たいと思っていたところに、現に私を目の当たりにし、そのような感想をお持ちになり、嫁にやるのは仕方がないと諦めたという。それだけに、後年、私たちの2人の子が医師と弁護士になったときには非常に喜んでいただいた。私が内閣法制局長官になったときには、「これで思い残すことはない。お嫁にやって本当に良かった。」とまで言っていただいた。次に、思いがけず最高裁判所判事になったときには、就任の会見を老人ホームのテレビで見て「宝くじが大当たりね。」と言ったとか、人伝てに聞いている。


(4)結婚式は学士会館でこぢんまりと

結婚式に参列していただいた皆さんと記念写真


 結婚式は昭和50年3月22日、神田一ツ橋の学士会館で挙げた。全体で52名というこぢんまりとした華燭の典である。まだ年若い上に薄給だったために給料やボーナスではとても足りず、その頃は許されていた原稿を書いて結婚式と新婚旅行の費用をどうにか賄った。媒酌人は、当時の通産省立地公害局長の佐藤淳一郎・泰子ご夫妻にお願いした。

 披露宴は、ポール・モーリアの「エーゲ海の真珠」や「恋はみずいろ」などの軽快なバックグランド・ミュージックが流れる中、同期の大慈弥隆人さんや松島茂さんの司会で粛々と進んだ。招待客は、双方の親類とともに、私の側は立地公害局の幹部と公害防止企画課・指導課の皆さんや同期生と大学の友人達、家内の方はまだ学生だったこともあり津田塾大学の村井孝子教授や同級生の皆さん達で、心から祝福してもらった。家内のお色直しの衣装2点は、いずれもお母さん自らのデザインと縫製によるものである。出席してくれた友達によると、私は式の間中、笑いっぱなしでどうしようもなかったそうだ。

 新婚旅行は、西日本方面にした。倉敷のアイビースクエアに泊まって大原美術館、長崎で大浦天主堂やグラバー邸、天草パールライン、熊本城、阿蘇火口、別府温泉などを見て帰って来た。


(5)小さな部屋で新婚生活を開始

 結婚して最初の住まいは、東京都杉並区高円寺の民間アパートで、わずか六畳一間に台所という小さな部屋で新婚生活を開始した。ここは、私の通う霞が関と、その頃に家内がまだ通っていた津田塾大学との中間に位置していた。そこに1年近くいた後、家内が最初の子を妊娠したのを契機にようやく国家公務員宿舎に入れてもらうことができた。それが、東京都中野区弥生町の官舎アパートである。

二人の子供に恵まれる。伊豆の旅館で。


 現在は既に建て替えられて新しい建物となっているが、その当時はいかにも古いアパートで、築後30年以上は経っているのではないかと思われるボロボロの建物だった。お風呂も、物置を無理やり改造して風呂釜を置いたものだったから、換気に注意しなければならなかったが、ともあれ、お風呂が付いていることだけでも嬉しかった。そこに住んで、昭和51年に長女、翌52年に長男が相次いで誕生し、現在の私の家族の礎となった。


4.経済企画庁調整局財政金融課

(1)まるで梁山泊のような財政金融課

 昭和50年5月1日、私はようやく2年間にわたる過酷な勤務を無事に終え、新たに経済企画庁調整局調整課へ行く辞令をもらった。場所は、霞が関の第四合同庁舎で、内閣法制局も入居しているところだ。仕事は、経済見通しの作成と景気対策の取りまとめである。ここに8ヶ月間お世話になった後、隣の財政金融課に移った。

 財政金融課は、経済見通しの作成を任務とし、とりわけ年末の予算案作成の元となる翌年の経済見通しの策定が重要な仕事である。課長は大蔵省から、課長補佐と係員のうちの1人も大蔵省から、その他の課員は、経済企画庁、通産省、運輸省、自治省、日本銀行、日本開発銀行からの出向者で構成されていた。

 いずれも誠に多士済済で、それぞれ個性が強く、一家言のある人ばかりである。他省庁出身の人の考え方や行動様式をお互いに観察していて、面白いと思ったり、そんな馬鹿なと思ったりする毎日だった。それをまた、皆で紹介しあって笑ったりして仲が良く、まるで梁山泊に放り込まれたかのようなものだった。ちなみにこのときの大蔵省の係員が、京都大学で同級生だった森信茂樹さん(後に財務省財務総合政策研究所所長、中央大学大学院法務研究科教授)である。


(2)経済予測モデルは壮大な誤魔化し

 財政金融課の主要任務は、経済見通しの作成である。当時は計量経済学の全盛期で、各種の経済予測モデルが発表されていた。いずれも、四半期ごとの経済指標を元に将来の分を予測するのであるが、数百本から数千本の推計式を使って数理モデルを作り、コンピューターで1万回ほどの収束計算を行って、シミュレーションの結果を出す。それが個人消費支出、政府支出、民間設備投資、民間住宅投資、輸出入などの項目に分かれて、いかにも「もっともらしく」出てくるのである。

 私は個人消費の推計を担当した。経済企画庁に導入されていたコンピューター(FACOM230)の取扱い資格を得るとともに、その当時のプログラミング言語であるフォートランやコボルを勉強した。最初、私は「人間が作り出す経済現象をコンピューターで予測するというのは、素晴らしい。これこそ科学の力だ。」などと能天気に思っていた。

 ところが、自分でいざやってみるうちに、これは科学の体を装った壮大な誤魔化しであることに気づき、何とも馬鹿らしくなった。それもそのはずで、この種の経済予測モデルには、金利、輸出、政府支出などの外生変数なるものを必ず入れなければならず、その入れ方によって結果に天と地の差が生じたからである。有り体に言えば、どんな結果でも出せるというわけだ。それくらいなら、大蔵省がやっているように鉛筆を舐めて作った方がまだましだと思った。


(3)最新型のコンピューターも使いよう

 しかし、最新型のコンピューターは、知恵と工夫でいくらでも使いようがある。このコンピューターに接続する端末機が調整局に導入されたが、何しろ事務室の中は狭い。置いておく適当な場所がないものだから、やむなく書棚の陰にひっそりと置かれた。端末機にはブラウン管の画面がついていて、まるで魚群探知機のような緑色をしている。推計式とデータを入れると、その緑色の画面上に明るい点が並んで計算結果を表示してくれるという仕掛けだ。

 たったこれだけの機能であるが、経済計算だけではつまらないと思った仲間が、プログラムの練習を兼ねてゲームを幾つか作り、共用のフォルダに置いた。スペースインベーダー・ゲームが世の中に普及する数年前のことだから、日本中でこんなゲームを扱う環境にあった人は、ほとんどいなかったのではあるまいか。

 当時は、たとえ残業しても、残業代などまず出ない時代だ。サービス残業の気楽さで、夜間で国会質問の待機しかないような暇なときには、そのゲームでよく遊んだものである。一番面白かったのは、山を挟んで両側に大砲を置いてお互いに撃ち合い、相手の大砲に命中したら勝ちというゲームである。クリヤして再開する度に山の形や風向、風速がランダムに変わるから、なかなか難しい。

 午後7時頃、そうして遊んでいた私の後ろに人の気配がした。振り向いて見上げると、何とそれは経済企画庁長官その人だった。脇にいた秘書官が、「これは、当庁で初めて入ったコンピューターの画面端末機でありまして、今、彼がやっているのは経済計算です。」などと勝手に出鱈目な説明をしているから、なおのこと冷や汗をかいた。


5.通商政策局総務課総括係長

(1)アメリカとの貿易摩擦の真っ最中

 昭和52年5月2日、私は通産省に戻って、通商産業省通商政策局総務課総括係長を拝命した。これは、通商政策局とそのいわば弟局に当たる貿易局を総括する立場である。その当時はアメリカとの貿易摩擦問題がまさに燃え盛っていて、局内で明けても暮れてもその話題で会議を開き、甲論乙駁の議論をし、対応を話し合っていた。

  日米間では既に昭和47年に繊維製品の輸出自主規制に関する政府間取決めが締結され、これをきっかけに他の品目にも通商摩擦が拡大していった。鉄鋼では、日米間で市場秩序維持協定が結ばれたにもかかわらず、明らかに日本企業を狙い打ちにしたトリガー価格制度による価格規制が始まった。カラーテレビも摩擦品目となり、同様に市場秩序維持協定が締結された。


(2)青竹事件で統制経済の何かを知る

 この頃に体験した問題として、青竹事件がある。当時、日本の生糸産業を守るために、中国や韓国を原産地とし、我が国を仕向国とする生糸の輸入を制限していた。そうすると、真っ白な生糸をわざわざ青く染め、あたかも生糸ではないようにして輸入しようとする輩がいる。もちろん、そんな色は単なる誤魔化しで、水ですすぐ程度で簡単に元の白に戻る。それを輸入できないようにすると、今度は「糸」ではなくて一見すると「布」のようなものを持ち込もうとする輩が出た。これは単に糊で糸をくっ付けているだけだから、お湯や水で洗えば生糸そのものになる。それが規制されると、原産国をフィリピンやスペインにして輸入しようとする迂回輸入が行われる。これでは、まるでイタチごっこだと感じた。

 通産省内で戦時中の統制経済を体験した先輩達は、いずれも統制経済なるものを毛嫌いしていた。その代表格の両角良彦元事務次官は、「統制経済は必ず自己増殖を始めて、やがては役人の手に負えなくなる。」と常々語っておられると聞いていたが、私はなるほどこれがそうかと納得した。


6.省エネルギー対策課総括班長

(1)法律案の国会通過と円滑な施行が任務

 昭和53年6月16日、私は、資源エネルギー庁総務課企画振興班振興係長となった。実はこれは、ポストがないための取り敢えずの役職であって、実際には、省令室だった「省エネルギー対策室」の総括班長である。ちなみにその年の夏頃から自分で内閣法制局参事官の元に足繁く通って、これを「課」に昇格させる政令案を認めていただき、同年10月1日に、資源エネルギー庁省エネルギー対策課総括班長となった。私の当面の任務は、「エネルギーの使用の合理化に関する法律案」(通称は、省エネルギー法案)を早期に国会を通過させて、その円滑な施行を図ることだった。

 この法律案は、昭和48年の第1次石油危機の反省の下に、我が国のエネルギー大量消費構造を省エネルギー型に転換させようとするものである。私がこの室に着任した時には、もう法律案そのものは出来上がっていた。その内容は、工場については、国家資格を有するエネルギー管理者を置かなければならないものとし、工場の省エネルギーの目安となる判断基準を国が定めるものとした。機械器具については、エネルギー消費効率を定め、それが達成されないと通産大臣が勧告・命令を発して、それでも遵守されないときには罰則を課すというものである。


(2)まるで漫才のネタ

 「省エネルギー、知恵と工夫と心掛け」という標語にもあるように、個々の対策内容を聞くと、なるほどと感心することが多い。例えば、製鉄業では、鉄鋼原料の生産に使われる高炉内の頂上部には高熱と高い圧力が掛かっているが、これまでは何ら利用されておらず、エネルギーを無駄にしていた。だからそれを取り出して発電する「炉頂圧発電」という技術を導入する。あるいはセメント製造業では、製造装置であるキルンに、4段のサイクロンからなる原料予熱装置を付けて各段で排ガスの熱交換を行うようにするなどというものである。

 しかし、一番分かりやすかった話は、空き缶を使った省エネルギーの実例である。とあるコンビナート内の工場で、あちこちにある配管から蒸気が漏れていたから、その漏洩箇所の全てに空き缶を被せて回った。そうすると、工場全体のエネルギー使用量が10%も減ったというもので、まるで漫才のネタになりそうだと思った。


(3)イラン革命で第2次石油危機

 昭和53年10月、第2次石油危機が再び世界を襲った。震源地は、世界の石油の約10%を供給していたイランである。当時のパーレビ王制に対する不満から石油関係労働者がストライキを始めた。すると同国の石油の輸出が減り始め、年末頃からは全面的に輸出停止に至り、再び石油供給への不安が世界を覆った。次第にイスラム教原理主義による宗教革命の様相を呈し、翌年1月にはとうとう世俗主義のパーレビ王制が倒れた。

 その結果、急進的革命指導者のホメイニ師が15年ぶりにパリから帰国して、政権を握った。このイラン革命による原油の供給停止や制限で世界の原油価格が再び急騰する結果になり、省エネルギー推進の重要性が認識された。これは省エネルギー法案には又と無い追い風となり、昭和54年6月に法律が成立して、同年10月から一部を施行する運びとなった。


(4)猛烈に仕事をした省エネルギー対策課の仲間たち

 省エネルギー対策課では、高島章課長以下、その総力を挙げてこの法律の施行に取り組んだ。実働部隊は、総括班長の私と、岡本秀樹技術班長、岩田悟志技術係長(後にデンソーテン代表取締役会長)、蔵元進総括係長(後に地球産業文化研究所専務理事)、その後任の松井哲夫係長(後に日本クレジット協会専務理事)乾史彦調査係長(東京銀行からの出向)である。この組で、連日のごとく朝から次の日の明け方まで、猛烈に仕事をした。このうち高島課長は、残念ながらもう鬼籍に入られてしまったが、この皆さんとは、あれからもう40年余も経つというのに、その熱気が未だに冷めやらぬまま、機会を見つけては寄り集まっている。

エネルギー対策課時代に苦楽を共にした仲間


 そして、やれ当時は連日忙し過ぎて風呂に入る時間もなかっただの、あのとき作った工場や燃費の判断基準は良かっただの、それにしてもあんなに忙しかったのに、よく麻雀をやったものだなどと昔話に興じている。そうすると、いつの間にか時間を忘れ、心は青春時代に戻っている。実に楽しいものだ。


(5)省エネルギー法の大きな成果

 そのような苦労の末に運用が始まった省エネルギー法であるが、法律として時宜に適したものであったようで、その後もたびたび改正され、内容の強化が図られていった。ちなみに後年、私が東京大学公共政策大学院の客員教授を兼務していたとき、学生の皆さんに立法の実例を教えようとして、省エネルギー法施行後30年間の成果を調べたことがある。そうすると、顕著にその効果があらわれていた。

省エネルギー法施行後30年間の成果。資源エネルギー庁の資料から。


 最終エネルギー消費について、第1次石油危機(1973年)の時を100として、2004年の状況と比較してみた。すると産業部門は、99と減っている。ところが民生部門は247、運輸部門は212と、倍増以上だ。この間のGDP(国民総生産)は221となっているので、工場の海外移転の影響が一定程度あったにせよ、総じて産業部門のエネルギー消費の合理化がいかに進んだかがよく分かる。主な家電機器の効率改善も、エアコンが68%(1997冷凍年度と2004冷凍年度の比較)、電気冷蔵庫が55%(1998年度と2004年度の比較)と飛躍的に進んだ。法制定当初の施行と運用に携わった者の1人として、誠に嬉しい限りである。

(6)「夏は28度、冬は20度」の経緯

 ところで、法律によるエネルギー使用の「合理化」だけでなく、その時のエネルギーを取り巻く情勢に鑑み、世間一般に呼び掛けてその協力を得てエネルギー使用の「節減」を図る必要もある。これが省エネルギー運動で、私もよくその原案を作った。とりわけ第2次石油危機を契機に、省エネルギー対策推進閣僚会議というものが設けられて、その事務局を仰せつかったことで、毎週、何かアイデアを出さなければならない羽目になった。これは辛かったが、今にして思えばその相当部分が現在もなお生き残っている。

 例えば、ビルのエネルギー消費が最も大きいのが冷暖房である。これを分かりやすく減らす方法はないかと考えた末、設定温度を調整すれば良いと思って、「夏は26度、冬は20度」という原案を作った。その頃、真夏に銀行の支店などに行くと室温を摂氏20度くらいに設定している所が多く、寒くて風邪を引きそうだったから、夏は26〜24度が適正だろうと思い、その高い方にした。冬は「22度くらいが良いかな・・20度では暖かさが感じられなくて肌寒い・・・どうしたものかな。」と迷いながら、これは一時の運動だからと思って、低い方の20度にした。

 その案を当時の高沢信行室長に相談したところ、「冬は20度で良いが、夏はもっとパンチがある温度にすべきだ。26度ではなく28度ではどうか。」と言われた。私が、「いやそれでは熱帯地方の平均気温になるから暑すぎるのではないですか。」と、かなり抵抗したが、室長は「運動を強く印象付けるなら、これくらいはしなくちゃ。」と固執する。では仕方がない、一時的なものだし例示に過ぎないからと思い、夏を28度に引き上げる資料を作って閣僚会議に提出した。

 ところが、官公庁は保守的だから、いったん決まってしまうと、それから何十年も経つというのに何の見直しも行われずに、それが延々と受け継がれていく。だからそれ以来、「夏は28度、冬は20度」が、庁舎の中で今なお守られている。しかも既にかなり以前から、これは単なる標語から基準に昇格してしまったようだ。おかげで、言い出しっぺの私も、政府機関の建物にいたときには、夏はダラダラと汗を流し、冬は寒いので膝掛けと背広の下のセーターの着用は欠かせなかった。私は元々暑がりなので、特に夏は辛い。あの時、室長にもっと強く抵抗していたら、こんなことにはならなかったのではないかと悔やむことしきりだ。それと同時に、政府機関の建物で今も働いている皆さんに対しても、誠に申し訳ないと思っている。


7.貿易局輸出課総括班長

(1)アメリカ大使館人質事件の余波

 昭和55年3月21日、私は、貿易局輸出課の総括班長となった。30歳になっていた。いよいよ通産省の中でも伝統ある大きな課を取り仕切ることができる立場になった。ここは、日本の輸出の総元締めで、「外国為替及び外国貿易管理法」(通称は、外為法)に基づく輸出貿易管理令による規制が、その根幹となる政策手段である。

 このとき、対イラン全面禁輸を迫られるという思いもしなかった出来事が起こった。導火線となったのは、アメリカ大使館人質事件である。前年の昭和54年11月4日にイラン政府の支援を受けた神学校の学生らが、在テヘランのアメリカ大使館を襲って外交官とその家族など52人を人質にしてしまった。そもそも国が群衆を指嗾して大使館を襲わせ、他国の外交官を人質にするなどというのは言語道断で、外交関係に関するウィーン条約に違反することは明らかだ。

 その頃に流行った麻雀のルールで、立直のときに「ホメイニ!」と叫ぶと、上がったら倍になるという滅茶苦茶なルールができたほどである。さすがにアメリカも堪忍袋の緒が切れ、報道によると、翌昭和55年の春頃に当時のジミー・カーター大統領がペルシャ湾に空母を派遣して人質を奪回しようとした。ところがヘリコプターを海水で洗ったために故障して飛べなかったり、あるいは輸送機が砂漠に墜落したりするなどして、軍事力の行使は出来なかったという。


(2)ブーメラン論と比較衡量論の合わせ技

 そこでカーター大統領は、経済制裁措置を採用することとし、主要国に対して、イランに対する全面的禁輸措置をとるように求めた。日本にも要請があって、私の担当する輸出をどうするかという話になった。当初は通商政策局・貿易局内で異論もあったが、私は事が事だけに、早晩これに応じなければならないことになるだろうと思った。そこで、早手回しに輸出貿易管理令を改正する準備に入った。問題は、内閣法制局にどう説明するかである。

 というのは、外為法の第1条には「この法律は、外国為替、外国貿易その他の対外取引が自由に行われることを基本とし、対外取引に対し必要最小限の管理又は調整を行うことにより、対外取引の正常な発展」を図るとある。だから、イランに対して全面禁輸をするのは、この目的から逸脱していると言われるのは必至だったからだ。

 色々と頭をひねった末、ブーメラン論と比較衡量論の合わせ技でいくことにした。つまり「この要請をしてきているアメリカは日本の最大かつ重要な貿易相手国であるから、その要請を断るとなれば、将来アメリカ側からどんなしっぺ返しを受けるかもしれないことは、一連の貿易摩擦問題の経緯を振り返れば明らかである。それに対してイランへの輸出は額も少ない上、今回の全面禁輸は全ての主要国が行うものだから我が国だけが突出するわけではなく、この事件が収まれば元の貿易関係に戻るものと考えられる。」という説明にした。担当の内閣法制局参事官には、これで納得していただいた。


(3)ワシントン条約の批准

 ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)は、野生動植物の国際取引の規制を輸出国と輸入国とが協力して実施することにより、採取と捕獲を抑制して絶滅のおそれのある野生動植物の保護を図ることを目的とする条約である。

 昭和50年7月1日に発効したものの、私が輸出課に赴任した当時は、それから5年も経つというのに、まだ批准できていなかった。原因は、そうした動植物の生体の一部、例えば、漢方の薬草、象牙、ワニ皮、ベッコウ、タイマイなどを原材料や製品とする関係業界が、原材料の確保に不安や懸念を覚えたからだ。加えて、取り締まりの実務に当たる税関当局が、生きている動植物ならともかく、その生体の一部やそれから作った製品まで水際で阻止するのはまず不可能だと、強く抵抗していた。

 私は、それらはもっともな主張だと思った。しかし、貿易大国の我が国だけ未批准だったので、国際的な非難は高まる一方だった。さりとて業界や税関の強い反対を押し切って批准することはできない。なるほど、これは難しい問題だと頭を抱えた。

 しかし、どうしても批准する必要がある。外務省経済局の石川薫事務官(後にカナダ駐箚特命全権大使)と「頑張ろう。この問題は、我々の時代に終わらせてしまおう。」と誓い合い、隣の輸入課にいた同期の望月晴文事務官(後に経済産業事務次官)と3人で戦略を練り上げ、真正面からの正攻法で、省内、関係業界、税関当局の説得を行った。

 その結果、関係業界には、原材料の転換をお願いし、それで足りないものは人工繁殖を行い、最後の手段として一部の品目に限り留保をするということで、何とか反対の矛を収めていただいた。税関当局には、規制対象となる動植物の写真等を差替え式の図鑑にして全国の税関に配布するので、それを執務参考資料にしてもらうということで、やっと決着した。我が国が締約国となったのは、昭和55年11月4日のことである。大きな肩の荷を降ろした気がした。


(4)対共産圏輸出統制委員会で先端技術を学ぶ

 ココム(対共産圏輸出統制委員会)というのも、一風変わった世界であった。元々、東西の冷戦時代に共産主義国の軍事力の増大を防ぐために兵器、軍事物資、軍事技術の輸出を規制する国際機関であり、我が国もアメリカ、NATO諸国、オーストラリアとともにこれに参加していた。私の仕事は、各国間協議でまとまった規制対象リストを輸出貿易管理令に反映させることである。

 しかし、最先端の兵器とその部品や軍事技術であるだけに、例えば「フェーズドアレイ・アンテナ」、「エピタキシャル結晶」などと言われてもさっぱり分からない。その手の類が何百件もあって閉口した。技官の説明を聞きつつ技術書を紐解き、ひと夏かけて勉強して内閣法制局に説明し、何とか政令に仕上げた。おかげで先端技術には詳しくなり、後日、特許の仕事をするのに非常に役立った。


(5)自動車と半導体の日米貿易摩擦

 日米貿易摩擦への対応も輸出課の仕事ではあったが、これは通商政策と原課行政そのものの問題でもあったから、自動車の場合であれば通商政策局と機械情報産業局自動車課が前面に出て対応していた。既に昭和55年9月に大統領遊説中のレーガン候補が自動車産業の救済を公約し、翌年、そのレーガンが大統領に就任して閣僚レベルのタスクフォースを設置した。その中では日本に自主規制を求める意見と市場メカニズムに委ねる意見とが対立したようであるが、結局、昭和56年5月になって、我が方に輸出自主規制を求めてきた。通産省としては、アメリカの自動車メーカーに再建のための時間的余裕を与えるという観点から、これに応ずることした。

 もう一つ、日米間の対立が鮮明となった品目は、半導体である。ちょうどこの頃から両国の半導体収支が逆転したこともあって、アメリカの業界からの圧力が強まりつつあり、後の日米半導体協定の遠因となった。


(6)国務省の米国交流訪問

 ところで、輸出課の事務責任者として次から次への大仕事ばかりで大変だったろうというねぎらいの趣旨だったと思うが、国務省の「米国交流訪問招待プログラム」に応募しないかという有り難い話があった。これは、アメリカ全土のどこを見て回っても結構だし、誰かに会いたいのなら出来るだけアレンジしてあげようという誠に太っ腹な企画である。ただし、単なる漠然とした観光ではなくて、アメリカの何をどのような観点で見たいのか、それ次第で採否を決めるという。

 この機会は逃したくないと思い、自分なりに練りに練った計画を作って応募した。すると、当時のマンスフィールド駐日大使の直筆サインがある招待状をいただき、昭和56年6月初旬から5週間の日程が提示された。それを了解して、勇んでアメリカに渡ったのである。その旅行では、15箇所以上の全米各地の風物を見て回り、様々な分野の優に100人を超えるアメリカ人と会って話をして、又とない貴重な経験を積むことができた。

国務省の米国交流訪問でワシントンを訪問


(7)日本人の通訳を真似て英会話を習得

 私は、これほど短い期間にあれほど多くのアメリカ人とこんなに中身の濃い議論をしたのは初めてで、それだけでも大変だった。加えて、言葉の問題もあった。その当時の私は、英会話は少しは出来たとはいえ、細かい話になると分からないことが多かったので、このプログラムでいつも通訳が付いていたのは、有り難かった。通訳さんは、在米の40歳代半ばの日本人で、私はこの人から毎日、英会話をじかに教わったようなものである。

 彼の発音は、はっきり言って、全く上手くない。私とほとんど同じだ。それでも通じるのはなぜだろうと観察していると、喋る会話に英語特有のイントネーションがあって、これがポイントだと思ってなるべく真似をした。旅行がもうすぐ終わろうとする頃、その通訳さんから「山本さんの英語、上手くなったね。」と言われたのは、お世辞半分とはいえ、その後の励みになった。


(8)ニューヨークではCPと証券化の話が役に立つ

 この旅行には、色々な思い出がある。例えば、ニューヨークの代表的な銀行で金融街を動かしている人に合わせてほしいとお願いしていたら、チェース・マンハッタン銀行の幹部数人と議論させていただいた。産業金融の円滑化の話である。「日本はまだ銀行を通じた間接金融ばかりだが、CP(Commercial Paper、公開市場で事業会社が発行する短期資金調達のための短期無担保の社債)や証券化の手法で市場から直接調達すべきだ。」という話が印象的で、これが後日、特定債権法の立案の際に大いに役立った。

 この話の途中、私が目の前の人と話をしていると、その脇の人がモゴモゴと口を動かしている。何だろうと訝しげに思っていたら、その人は口を開いて「Mr. Yamamoto」と流暢に呼び掛けてきた。なるほど、言い慣れない私の名前を間違えないように、あらかじめ練習していたのだと分かった。国際金融マンの苦労の一端が垣間見えた。


(9)シカゴ科学産業博物館で山本五十六長官の話

 シカゴ科学産業博物館を訪れ、最新技術を採用した参加型の展示について色々と意見を言ったら、面白い見学者だと思われたらしくて、10人ほどが参加する部内の昼食会に誘われた。楽しく話をしているとき、ある年配の男の人が私にいきなり「Admiral Yamamotoは、あなたの親戚か?」と聞いてきた。「いや、違う。山本という名字は、日本ではありふれた名前だ。」と言うと、その人は「それなら言うけど、自分は第2次大戦中、パプアニューギニアで日本軍の暗号傍受をやっていた。ある日、山本五十六連合艦隊司令長官搭乗機の行程の通信をキャッチし、それを通報したらソロモン諸島のブーゲンビル島上空で撃墜されて、彼は死んだ。」などと深刻な話をし始めた。

シカゴ科学産業博物館に行くためシカゴ市内のホテルを出たところ


 私が「この話を誰かにしたことはあるのか?」と聞くと、「いや、これが初めてだ。」と言うので、「長い間、誰にも言えなくて辛かっただろうけど、戦争は残酷なものだし、昔の話だから、もう忘れたらいい。現にこうやって仲良く日米で食事をしているではないか。」と言うと、目に涙を浮かべて感極まったような顔をしていた。


(10)航空母艦コンステレーションを見学

 この頃、私は暇があれば、児島襄著の「太平洋戦争」、「戦艦大和」、「朝鮮戦争」などの戦記物に凝っていた。というのは、私の普段の仕事がまさに戦争のようなもので、戦略の策定と作戦の実行、実戦の思わぬ展開とそれへの対処など、これらの内容と相通じるものがあったからである。そこでアメリカ有数の軍港であるサンディエゴに立ち寄ったとき、軍事を知りたいと思い、航空母艦の見学を希望した。

 ところが、ワシントンDCで私の招待の実務を担う機関(VPS)を通じて、事前に国防省へ見学を申し込んだときには、言下に断られたので、がっかりした。その様子を見ていたVPSの担当者からは「現地に行けば、いろいろな伝(つて)があるから、なんとかなりますよ。」と慰められた。本当かなと思いつつサンディエゴに到着して、VPSの現地提携事務所を訪ねた。すると「あれ、見学できることになりましたよ。」と、あっさり言われたので拍子抜けした。「いったいどうやって?」と聞くと、その事務所の代表者が海軍司令官の奥様と昵懇で、そのルートで頼んだとのこと。なるほど、アメリカというのはコネの国だということが良く分かった。

 翌日、海軍基地へ行って、航空母艦「USS Constellation CV64」を見学した。1961年就航で、インド洋を担当する。搭載する航空機は、F14トムキャット、EAー6イントルーダー、Aー7コルセアII、Eー2Cホークアイなどである。艦内で、戦闘機が発着する映画を見せてもらった。出発時には10万馬力の蒸気の力で飛行機を射出し、一気に上昇速度に持っていく。だから体が座席に5〜6Gもの力で押しつけられ、一瞬、気を失うパイロットもいるらしい。着陸時にはワイヤで航空機の脚を引っ掛けて止める。こうした航空母艦の発着方法は、アメリカ以外どこの国も安定した運用に成功していないという。


(11)航空機の修理方法と食堂の豊かさに驚く

 案内してくれた大尉に、航空機の整備はどのように行っているのかと聞くと、整備士のところに案内してくれた。見ていると、帰ってきた飛行機の頭部に太いプラグをブスリと差し込む。それはコンピューターに繋がっていて、ぐるぐるとテープが回転していたかと思うと、結果が表示される。そこで示された番号が付いた緑の基盤をキャビネットから取り出して、機体を開けてポンと入れ替える。ただそれだけだ。

 「素晴らしいシステムだ。これなら、何も知識のない一兵卒でも修理できるなぁ。」とつぶやくと、大尉は、「いやいや、彼らも一応、これくらいの知識はあるんだよ」と言って、下士官教育用の教科書を持ってきて見せてくれた。確かにそれは、なかなか難しかった。アメリカは、システムの構築だけでなく、草の根レベルでも侮れないと思った。

 艦内の食堂も見せてくれた。下士官のものだったが、いわゆるバイキング形式で、しかも選択の幅が大きい。例えばデザートのアイスクリーム一つとってみても、バニラ、ストロベリー、チョコレートまで選べた。今でこそ、それくらいのことは当たり前かもしれないが、当時の日本はまだ貧しかったので、自分の普段の生活と比べてみて、本当にびっくりした。そのほか、この航空母艦には5,000人も乗っていること、平均年齢は18歳強であること、1隻の航空母艦を守るのに100隻ほどの艦艇が必要なことなど、驚くことが多かった。


8.在マレーシア日本国大使館一等書記官

(1)赤道直下の暑い国だが料理は天国

 それまでの過酷な勤務からすれば、まるで夢のような米国交流訪問を終えた私は、在外勤務を打診されて、即座に行きたいという希望を述べた。すると、東南アジアのマレーシアに決まった。昭和57年4月1日、私は在マレーシア日本国大使館へ出向し、現地に赴任した。時に32歳であった。家族4人でクアラルンプールのスバン国際空港に着いた。

マレーシア赴任直後に独立記念碑を家族で訪れた。


 日航機から降り立った瞬間、むーっという暑い湿気が身体にまとわりつき、日本の盛夏を思わせるものだった。ああ、赤道直下の暑い国に来たのだと実感した。そのとき、長女は5歳、長男は4歳だった。現地の食事は、マレー料理より中華料理の方が口に合った。広東、福建、潮州、客家、上海、四川、台湾、北京など中国各地の料理があるから、よりどりみどりだ。例えば、客家風スチーム・ボートは、日本のしゃぶしゃぶ鍋のようなものである。これは実に美味しくて、家族で食べに行くときの定番の料理だった。日本料理も日本の高級料理店が進出していて誠にリーズナブルな値段で食べられるし、西洋料理もステーキなどは安くて美味しい。こと料理の面では、クアラルンプールというところは、まるで天国のような都市である。

マレーシアではじめての中国正月を迎える。


(2)独特の訛りがある英語に苦労

 赴任直後の1年間は、仕事と生活の足元を固めるのに専念した。仕事で最初に難渋したのは、現地の人が喋る独特の訛りがある英語の聴き取りだ。特に、中国人の英語の訛りは相当なものだ。例えば「This is from the Gold Card.」と言うのに、「This is from Goh Kah.」と、定冠詞や語尾の「d」を省略して発音するから、最初はさっぱり分からなかった。インド人は早口で止めどもなく話す上に巻き舌の癖があるので、これも聴きづらい。

 そういう中、私は実戦で耳を鍛えた。日常、新聞は英字紙だし、交渉や情報収集も英語という生活を続けていると、最低、半年もあればかなりの用は足せるようになった。とうとうある日、寝ていて自分が英語で話している夢を見た。それ以来というもの、頭の中でも英語で考えるようになり、しかも驚いたことに、相手に応じて、言語を自然と使い分けられるようになった。つまり、日本人の間にいると、もちろん日本語で考え、しゃべっている。現地の人の間にいると、英語で考え、かつ話すということが、意識せずにごく自然にできるようになった。

 これは、別に特別の才能というものではなく、回りをみると、現地の中国人つまり華僑たちも、同じことをやっている。それどころか、話す相手によって、英語、広東語、福建語、北京語、マレー・インドネシア語、場合によりタミール語を使い分ける。バイリンガルならぬ、トリリンガル、いやカトリンガル(それぞれ、3ヶ国語、4ヶ国語を自由に話せる人)というわけだ。それに比べれば、私の場合はたった2ヶ国語であるから、大したことはないのである。

 日本から、中曽根康弘首相の訪問があった。そばにぴったりと寄り添っていたのは、同時通訳の会社で有名なサイマルの人である。マハティール首相に会いに行くから、私も道案内にお供せよということで付いていった。現地に着き、めでたく会談が終わり、彼は通訳として活躍した。マハティール首相の英語は、なかなか分かりやすかったからである。

 その晩、日本大使公邸で開かれたパーティーには、大勢のお客が招待された。そこでこの通訳氏は、パニック状態に陥った。何しろ、次々に来る客人には中国人が多くて、その人たちの英語が彼には理解できないものだったからである。あれだけ訛りがあるのだから、分からないのも当然だ。そこで、差し出がましいがと断りつつ、私が通訳をした。この人はそばで小さくなっていて、帰り際にお礼を言われた。


(3)英語とゴルフに挑戦

 私は、赴任直前に先輩方を回ってアドバイスをもらっていたときに、ある先輩から「3年間も駐在しているのだから、何か、これは身に付けたいと思って努力するものを決めておいたらいいよ。」と言われた。私はなるほどと思い、英語とゴルフを身に付けようと思った。英語は、仕事や生活上で必要不可欠だったから、まあまあ身に付いたと思っている。現にその後、特許交渉で何回となくアメリカやヨーロッパの専門家達とやりあったから、それなりの水準には達していたと自認している。

 次の課題であるゴルフについては、省エネルギー対策課時代に始めて少しはプレーしていたとはいえ、赴任当初は、何しろ仕事や生活を軌道に乗せるのに忙しくて、ゴルフどころではなかった。そうした中、「こんな暑いところでは、普段から運動しておかないと、身体がおかしくなりますよ。」とアドバイスをしてくれる人がいて、もっともだと思った。そこで、ゴルフクラブの会員になり、家内と一緒に毎週プレーをし始めた。

 午前11時を過ぎるともう暑くなるので、午前9時前に行ってインとアウトを一気に回り、2時間余りでプレーをし終わる。それからクラブハウスで水分の補給をしつつ、プレー仲間と雑談をし、お腹が空けば「ミー・スープ」という中華そばを食べて引き上げるというのが土曜日の日課だった。汗が止めどもなく出るから、確かに新陳代謝には相当の効果があったと思うし、3年に及んだ長い駐在期間中に病気一つしなかったのも、このおかげだと思っている。


(4)朝もやの中にゆらゆらと木の精が

 現地のゴルフ場にまつわる思い出は色々とある。私のゴルフ場は、午前7時からプレーができる。入会早々、その時刻直前に行ってみたことがある。まさに日が昇ろうとしている時で、朝もやがただよう薄暗い中、1番ホールのグリーンの上で大勢の人影のようなものがゆらゆらと動いていたので驚いた。そのホールの回りは、まるでジャングルの中にあるような大木が取り巻いているし、そこからたくさんの気根が垂れ下がっている。だから、あたかも木の精が地上に降りてきたのではないかと思ったほどだ。

 近づくと、どうやらそれらは人間のグループで、大きな人、太めの人、細身の人、小さな人までいる。もっと近づくと、何をしているのかがやっと分かった。なんとまあ、一家総出で太極拳をしていたのである。やがて日が昇り、その一家は三々五々、緑色の芝生の上からゆっくりと離れて、朝もやの中を静かに去って行く。まるで南画の世界を思い起こすような、実にのどかな風景である。私はティーアップするのも忘れて、しばらくそれを見送っていた。


(5)なかなかワイルドな世界

 クアラルンプールは、今でこそ東京やシンガポールのような高層ビルが立ち並ぶ超近代的な都市である。しかし、その当時は、まだ古き良き田舎の雰囲気があちらこちらに残っていて、なかなかワイルドな世界であった。地元の市場に行って鶏肉を買おうとすると、その場で籠の中の生きている鶏を「締めて」くれて、文字通り「新鮮な」肉を売っていた。

 私が自宅にした一軒家は、都心の住宅地にあり、日本大使館から車で10分もかからなかった。庭も広く、その一角には果実が生る木があった。そのランブータンという果実は、緑と赤のもじゃもじゃの毛が表面に生えていて見た目は悪いが、中にはライチーのような白い実があって、ほのかに甘く、私は気に入っていた。家内が、その木の脇にある門の扉越しに近くの奥さんと話をしていると、その頭の上をカメレオンがあっという間に通り過ぎていくという事件があった。

家内とゴム園を見学


 マレーシアといえば、ゴムと錫とパーム油というのが伝統的な産品である。錫はあちこちに鉱山跡があって地面に大きな穴が開いているのが見えるし、パーム油を採るパーム林も空港近くや地方に広がっているから、今更見学しようという気は起こらない。そこで、古くからゴム関係で在住している日本人の方にお願いして、ゴム園を見学に行った。家内も興味があるというので、一緒に行ってくれた。ゴムの木というのは、一見すると何の特徴もない普通の雑木なのだが、引っ掻くような道具でその皮を斜めに一周ぐるりと傷つけてその下にカップを置いておく。すると、白い樹液(ラテックス)が流れ出てきてカップの中で固まるので、それを集めて精製に回すというのである。

 マラッカという今では世界遺産に登録されている都市がある。クアラルンプールからは2時間半ほどで行ける。ある日、そこでゴルフをした。近くの動物園で、オランウータンが「ガオーッ、ガオーッ」と大きな声で鳴いている。それも気になったが、ティーグランドのそばに急に出て来た野生の猿の親子連れがもっと気になった。そのお猿さんたちに当ててはいけないと、身体を十分にターンさせずに手打ちになったのだろう。飛び出したドライバーショットのボールは、高さは十分だったが、フェアウェイの左方向に向かっていった。そして、あろうことか、背の高い椰子の木のてっぺん付近に当たった。すると、椰子の木はいったん大きくしなり、そのゴルフボールを飛んできた方向に向かって弾き飛ばした。ボールは私たちの頭上を飛び越えて、はるか後方に飛んで行ってしまった。まるで狐に包まれたような気分だった。気が付いてみると、猿の親子はいつの間にか姿を消していた。


(6)洪水と盗難に遭って引っ越し

 私の住んでいた家は、前任者からの引継ぎである。なかなか雰囲気がよくて、家族全員そこでの滞在を楽しんだが、思わぬ落とし穴があった。裏にちょっとした川が流れていたのであるが、ある日突然、それが氾濫を起こしたのである。午後遅く急に土砂降りの雨が降り出した。これは彼の地ではよくあることで、いつものスコールかと思っていると、それがなかなか降り止まないのである。午後6時頃になると水位が上がってきて、とうとう庭の芝生が水の下に隠れるようになった。今までこの地区が水に浸かったという話は聞いていなかったが、これは危ないという直感が働き、持っている2台の乗用車のうち、まず私の車をただちに車庫から出して高台に避難させた。そして家に戻って2台目の家内の車を避難させようとしたが、時すでに遅く、水位がさらに上がってきて、とっても出せるような状態ではなかった。

 「はて困った、どうしたものだろう」と思って回りを見渡すと、ベランダの位置がやや高かったので、車を運転し、思い切ってベランダにそのまま乗り上げさせた。この頃には、庭で飼っていた数匹の犬が、心配そうにキャンキャンと叫んでじたばたしていた。それを家の中に入れて落ち着かせた。しばらくすると水位は次第に上がってきて、とうとう水がベランダを乗り越えて室内に入ってきた。そこで、何が一番高価で守るべきものかと考えたら、やはり何といってもそれは車である。もう一度エンジンをかけて動かして室内に直接乗り入れた。しかしそれでも水位がどんどん上がってくる。もう一工夫が必要だ。咄嗟に手近にあった子供の漫画本を積み上げて、その上に車を乗り上げた。FF車だったから、これで少なくともエンジンは助かるというわけである。次に、家族全員で床にころがっている物を机やテーブルの上にあげた。中には時すでに遅くて水につかってしまったスピーカーやミシンのようなものがあった。しかし、水の勢いが早かったので、どうにも救出が間に合わなかったのである。

洪水被害に遭い、諦めて苦笑い。この「池」でボートを走らせた。


 それからは、家族4人がひとかたまりになって、恨めしげな顔で、その次第に上昇する泥水の水位をじっと見つめていた。午後8時頃である。そんなことを半時間も続けていただろうか、私は突然馬鹿らしくなって、「家の中でボートを走らせることができるのは今日だけだ。さあ遊ぼう、遊ぼう」と言い出した。それを聞いて、子供もすっかりその気になり、嬉々としておもちゃのラジコン・ボートを持ってきた。それで、家の中にそのボートを浮かべて遊んだのである。軽くモーターの音を響かせて、ボートはベッドの横などをすいすいと通り抜けて、家中を走り回った。電気はついていたし、それも間接照明であったので、各部屋をそのボートが縦横に走り回る様は、本当に幻想的でとても面白かった。これで、家族全員、しばし楽しんだのである。そうこうしているうちに、午前0時が過ぎた。それを境にじわじわと水位が下がっていき、そのボートも床に着いてしまった。こちらも遊び疲れて、そのままベッドに倒れ込むように寝てしまった。

 翌朝は、早くからホースで水をまき、室内を清掃した。畳やふすま、障子などがある日本の家屋とは構造が全く違って、こちらの家は、床は大理石だし、ドアと壁は水をかけても問題ないから、ホースでそのまま水をまけばよいのである。しかも、川の水といってもこちらは有機物が少ないせいか、それほど汚れてはいないので、水が引いた後には小石が少し残っていた程度である。あちこちの部屋にホースを持って入って水をまき散らした。こうして、昼前にはさっさと流し終わり、すっかりきれいになったのである。それはよかったが、救出が間に合わなくて水に浸かってしまった物もある。こういう品物は、もちろん全然使いものにならない。たとえば、ミシン、本や雑誌、車の下敷きの漫画本、ステレオのスピーカー、食料の茶箱などである。たいしたものはないが、中でも、ミシンの被害だけは痛かった。20万円近くをはたいて、日本で最新のものを買って持ってきたからである。ただ、家屋保険に入っていたので、それで損害は填補することができた。可哀そうなのは車の下敷きになった息子の漫画本で、こればかりはどうにもならなかった。

 その後しばらくして、今度は空き巣事件が起きた。私の借りた家は高級住宅地にあり、しかも警察官のアパートのそばにあった。盗難予防のため、入居してからは、家の周囲に暗くなったら自動的に点灯するライトを付けたり、犬を3匹飼ったりした。しかも玄関のドアは元から鉄板入りで非常に重く、錠前は3つもついている。加えて蝶番の部分は絶対にこじ開けられないようになっている。窓という窓にはすべて太い鉄柵が取り付けてある。庭に出られるようになっている広い開口部のところには、アコーディオン式の鉄柵が設置されていて、夜や留守にするときはそれを厳重に閉じるという仕組みである。

 だから私は、我が家は絶対に大丈夫だと思っていた。しかし、それでも泥棒に侵入されたのであるから、本当に世の中はわからないものである。いや、私の考えが、いささか甘いのかもしれない。泥棒が侵入したその日の夜は、たまたま住み込みのお手伝いさんがいなかった日である。私たちは、友人の家に招かれていたから家族全員で私の車に乗って、そのお宅にお邪魔した。そこで子供は子供同士、大人は大人で大いに楽しみ、とても満足した。狭い日本の住宅と違って、こちらでは家族全員でつきあえる「スペース」があるから幸せである。そうして楽しく愉快な時間はたちまち飛ぶように過ぎてしまい、もう午後11時を回ってしまった。そこで、ついにおいとまをして、家に帰ってきた。

 家に着くと、いつもは口々に吠えながら尻尾を振って迎えてくれる犬たちが、庭をうろうろとして落ち着かない。これは何かあったと直感して、おそるおそる玄関のドアを開けた。すると、居間には、無惨にも私のアタッシュ・ケースがずたずたに切られて放り投げてあった。これは泥棒だとわかったものの、まだ居残っていると危ない。そこで家族には車の中で待機してもらい、いつでも逃げられるようにと、エンジンをかけたままにした。それから落ちていたビール瓶を片手に持ち、声をあげて各部屋を回って様子を見たのである。すべての部屋とトイレをチェックし、ようやく誰もいないことを確認してから、家族を呼び入れた。すぐに警察を呼び、家族には何も手を振れないようにと指示したのである。

 警察官がやってきた。ところが、これが全く頼りないのである。「ほら、ここに泥棒が飲んだジュースの缶があるから、指紋をとったらどうか」といっても、それを素手で持ってのぞき込むという有様である。現在は少しは改善されているかもしれないが、その当時は指紋という知識すらもなかったと考えざるをえない体たらくであった。日本の警察の方が、はるかによほど優秀である。私は内心いらいらしたが、こういう警官に何を言っても無駄なので、お礼を言って早々にお引き取り願った。

 そして、初めて気が付いたのである。「泥棒は一体どこからこの家に入ったのだろう」と。何しろ、玄関のドアは完璧であり、破られてはいない。周囲の窓には全部鉄格子がはまっていて、見方によれば、家の住人は檻の中に住んでいるようなものである。これを破ってくるなど、よほどの器具や機械でも使わないと無理だ。そう思いながら、台所と各部屋を回ってみた。私の部屋に入ったところ、電気も点けていない夜なのに、何か明るい。よく見ると、私の机の上に椅子が乗っている。その椅子の上は・・・・・ああっ、お月さまが丸見えではないか。つまり、天井を破って侵入してきたのである。そして出ていくときには、私の机の上に椅子を重ねて、それを踏み台にしたらしい。お月さまは、天井の破れ目から部屋の中をしっかりと照らしていた。これには、さすがの私も、びっくり仰天してしまった。

 盗られた物をチェックした。もちろん、家屋保険の盗難に該当するので、その申告した品物と残っている物を照合するだけである。まあ、私はもともとのポリシーとして、自宅にはほとんど現金を置いておかない。ただ、少しは置いておかないと、せっかく侵入してきた泥棒さんががっかりして何をしでかすかわからないから、1万円相当額くらいは見えるところに飾っておいた。お手伝いさんにもその旨を申し伝え、くれぐれも勝手に「間違って」持っていかないようにと命じていた。そしてそのお金は、目論見通りになくなっていた。これは計算の内である。

 それから、各種のパーティで家内が身につける金のネックレスが何本かなくなっていた。決して高い物ではないし、それらを買ったときの領収書を全部とってあるので、これも保険でOK。ただ、私のアタッシュ・ケースが壊されたのは残念だった。これは旅行先で私が大変に気に入って買ったものだから、たとえ保険金をもらっても同じ物はもう買えないのである。もちろん、その中には金目のものなど入れておかない習慣だったので、まったく壊され損である。こんなことなら、鍵などかけない方がよかった。ええっ、それからと・・・ほかには・・・もうなかった。だいたい、天井から入ってきた泥棒さんなので、品物まで持っていくことが出来なかったのだろう。

 そのとき、家の中で「ああっー、ボクのお金が盗られた」という声がした。小学校1年生の息子の声である。皆でどうしたと駆けつけたところ、机の引き出しの中に入れて置いたお小遣いの貯金箱がなくなったと騒いでいた。お年玉などを貯め込んでいたから、現地通貨で3万円相当分ぐらいは貯まっていたようである。それがなくなっているというのである。息子は、普段からとても穏和な性格であるが、このときばかりは、全く珍しく本当に怒っていたようである。まあ、これもひとつの社会勉強となったと思えば良い。いずれにせよ、現金は保険でカバーされないので、この息子のお小遣いは、泥棒による最大の被害となった。

 空き巣あり、洪水ありで、さすがの私もその家に住むのに嫌気がさして、近くのコンドミニアム(日本風にいうと、マンション)の一室に引っ越した。ここは、二人の門番がいる高い塀に囲まれている。しかも入り口近くには常駐の管理人がおり、何くれと世話を焼いてくれるところである。真ん中の庭にはプールがあり、テニス・コートもあるので、運動もできる。部屋はやや狭いが、日本のことを思えばかなり広い方である。住み心地は快適でセキュリティも十分であったから、家族の皆はいつしかその盗難事件のことを忘れることができた。

 このコンドミニアムにあったプールには、2人の子供が本当にお世話になった。日本人学校からバスで1時間もかけて帰ってくると、当時は車内にエアコンがないので、子供たちはもう汗だくである。ランドセルを置いて水着に着替えてすぐにプールに行って、好きなだけ泳いでいた。また、息子の特技は、知らない人の中にもごく自然に入っていき、誰とでも仲良しになることである。特にコンドミニアムの門番たちと仲良くなり、「セパタクロー」という藤の蔓で編んだ蹴鞠のようなものを蹴り合う遊びに、よく興じていた。

「セパタクロー」で遊ぶ息子、同級生と門番たち


 私が見るところ、その頃から日本人の家がしばしば泥棒に狙われるようになった。ある日本人は、夜中にやはり泥棒に押し入られてこわい目に会った。たまさかその人は、当時の首相と懇意であったから、首相にその話をした。そうしたところ、首相はしばらくその人の一軒家に24時間警備の警官を派遣してくれたという。こういう点が自由自在なのは、東南アジアの国の特徴である。

 それでしばらく警官がその家を警備していたところ、ある日の真夜中に、塀を乗り越えて泥棒が侵入しかけた。それを警官が見つけて、塀の下から現地語で何か叫んだ。すると、その盗賊は、塀の上に突っ立って何か叫び返した。その調子で両者はしばらく怒鳴り合っていた。そのうちに盗賊は憤然として塀から下り、すたすたと歩いて去っていったとのこと。その日本人は、住み込みのお手伝いに、何を言い合っていたのかと尋ねたところ、こういうことだったらしい。つまり、警官は「下りてこい」と叫んだ。それに対して盗賊は、「俺の家族の生活がかかっているのだから、邪魔をするな」と答えたという。そうこうしているうちに、警官は同情したのか、めんどくさくなったのかわからないが、立ち去るのを黙認したらしい。何事も、緩いお国柄なのである。


(7)余りに暇過ぎてワーカホリックには辛い

 クアラルンプールの日本大使館では、私は一等書記官だった。担当は、在マレーシア日系企業の活動の支援、日本とマレーシア間の通商貿易の円滑化そして円借款の供与である。仕事に慣れるにつれて、だんだんと物足りなさを感ずるようになってきた。というのは、東京にいたときと比べ、やるべき仕事の量と質が段違いに少なかったからである。

 最初からこの世界にいるなら、このペースでも別に違和感はないのだろうが、通産省で明け方まで働くワーカホリックが染みついてしまった身には、逆にこれは非常に辛い状況だ。同僚の中には、お酒、賭け麻雀、夜の繁華街、果てはカジノにのめり込む人もいたが、いずれも私の趣味ではない。マレーシア生活が2年目に入ろうとする頃から、「こうなったら、仕事は自分で見つけるしかない。それにしても、何か有意義な仕事はないか。」と、そればかりを考えていた。

 当時の日本人ビジネスマンの社会では、商社系、メーカー系 、金融系、建設系という業種ごとの任意団体があり、それぞれ独自に定期的な会合が行われていた。あるとき私は、メーカー系の会合で「そういえば、シンガポールやバンコクには日本人商工会議所があるのに、なぜクアラルンプールにはないのですか。」と問うた。すると、マレーシア在住が長い古株の人が、「この国は、イギリスの植民地だったので、外国人が組織化するのを嫌うのですよ。現に商工会議所を作っている国なんかありませんよ。」などと、にべなく言う。

 調べてみると確かにその通りだし、その種の常設の機関を作るには会社法か結社法の許可がいることが判明した。ここで、私の血が騒ぐ。これまで、無理だ、不可能だなどと言われたことに全力で挑戦し、知恵と工夫をひねり出して、何度となく実現してきた。これだって、やってみなければ分からない。

 昭和58年の春、マレーシアで反日キャンペーンが見受けられるようになった。誤解に基づくものとはいえ、現地日本企業にとっては非常に気になる動きだ。現地在住の日系主要企業のリーダーの皆さんと何回も会合を重ねて対策を話し合った。その過程で、こういう問題に対処するためにも、当地に日本人商工会議所のような常設機関が必要だということで意見が一致した。


(8)マハティール首相からお墨付きをもらう

 ちょうどその頃、5月に中曽根康弘首相が東南アジアを歴訪し、マレーシアまで足をのばして公式訪問されるとの報に接した。事前に何か課題はないかとの質問が本省から来た。これは千載一遇のチャンスだと思って、木内昭胤大使と政務の赤阪清隆一等書記官に頼んで最重要項目に入れてもらった。

 中曽根首相の訪問の当日、在住日本人との懇談の席でも日系主要企業のリーダーの皆さんから説明してもらった。すると、中曽根首相の印象に残ったらしく、首脳会談でも真っ先にその話が取り上げられた。そして、マハティール首相から直々に「Exclusive(排他的)なものでなければ」という条件付きで、設立を了承してもらった。当時のマハティール首相は大変な親日家で、しかも昭和56年からルックイースト政策(日本の勤労感などに学べ)を推進し始めたばかりというタイミングの良さもあったのだろう。

 このようなとき、設立は迅速に進めるに越したことはない。時間が経つにつれ、日本側関係者の熱意が冷めかねないし、マレーシア政府側関係者の異動があったのでは、せっかく行ってきたこれまでの努力が水泡に帰すことになる。できれば半年以内に設立しようという目標を立てた。無理だという声が聞こえてきたが、構うものか。各業種別団体の皆さんは、自らの組織を解体するとともに全国を走り回って会員をかき集め、また政府との関係でもそれぞれの人脈を駆使するなどして、全力で取り組んだ。

 ちょうどその頃、JETRO(現在の日本貿易振興機構)が新しい建物に事務所を移転して、スペースが広くなった。その坂本弘樹所長と、日本商工会議所から現地の日本マレーシア経済協議会に出向中の武田桂一事務局長とともに、私はその会議室で組織の構想作り、スケジュール設定と進行管理、書類の作成、人事の調整、事務局の準備などの裏方作業を行った。

マレーシア日本人商工会議所(JACTIM)の設立に向けて、連日会議を行った。


 設立の準備はとんとん拍子に進み、6月にはもう設立代表者会議を開き、そこで許可をもらうためにマレーシア政府に定款などを提出する段になった。これはもちろん英文だが、会員の便宜のためには和文も作成しなければならない。私は、通産省で財団法人省エネルギーセンターの設立に関与した経験があったから、お手の物だ。シンガポールとバンコク日本人商工会議所の定款を取り寄せ、当時はまだ珍しかったパソコンのワープロを使って見栄えの良い書類となるようにして、日英両文で案を作成した。

 会社法に基づく本件申請手続に当たってくれたのは、設立委員の1人から紹介されたインド人弁護士である。私が、彼のオフィスに出来上がった英文の定款などを持って行き、「これで頼む。」とだけ言った。すると、彼はそれをパラパラめくって、「分かった。ここまで出来ているなら、この仕事は無料でいい。サービスする。」と言ってくれたのは嬉しかったし、なかなかの商売上手だと感心した。

 申請の際に問題となったのは、その名称である。和文ではもちろん「商工会議所」だが、正式な申請に使う英文では、在留期間が長い一部の方々から「これまでの経緯もあり『Chamber』を使うのは控えるべきだ。」という強い意見があった。結局、現地のマレー人、中国人、インド人の3民族がそれぞれ作っている経済団体が「Chamber」を使っているから、これはやはり控えた方がよいだろうということになり、最終的に「Council」という案にした。

 その案をマレーシア政府に示したところ、思いがけず、担当のリタウディン通商産業大臣からCouncilなんて役所を思い出させる名称だから変だ。」と言われてしまった。そこで申請書を持って行った商社の支店長が、その場で機転を効かせて「Chamber」にした。まるで瓢箪から駒が出たような話だが、後になって思えば、あれやこれやと余計なことにとらわれず、最初から直球で勝負をすればよかった。ちなみにこれは、その後の私の人生訓としている。


(9)マレーシア日本人商工会議所の設立と発展

 こうして、JACTIM(マレーシア日本人商工会議所)は、昭和58年11月、その設立総会のときを迎えた。当初の目論見通り、半年以内にすべての手続きが終了したことになる。このような経済団体の力の源泉は、参加率の高さに現れる団結力と、個々の会員企業の意識の高さに尽きる。設立準備委員の皆さんは、クアラルンプール市内とその近郊にある日系企業だけでなく、ペナンとジョホールバルにも赴いて、熱心に参加を呼び掛け、会員になっていただいた。これでマレーシア本土の日系企業を網羅する商工会議所となったのである。

 その結果、設立時には121社という、当時としてはかなり多くの企業に参加していただいた。JACTIMは、このときの関係者の皆さんの熱意から生まれたものと信じている。どのような組織もそうなのであるが、盛り上げていこうという会員の意欲がないと、うまくいくはずがない。その点で、さきほど紹介した中曽根首相の訪問も相まって、JACTIMはまさに、天の時、地の利、人の和がちょうどかみ合ったからこそ、生まれたものだと思う。

 思い出すのは、JACTIMのロゴである。これは、私と娘の合作で、まず私が「日本(Japan )とマレーシア(Malaysia)の掛橋になれば良いな」と思って、「J」「M」の両方に大きな橋を掛けた。これでどうだろうと思って眺めていたら、娘がやってきて、「せっかくだから、南十字星のような星を加えたら?」と言いつつ、4つの星をササッと書き加えた。すると、一つの星だけ橋の上に飛び出したので、「これはバランスが悪いから」と言って、橋の左の方に持っていった。でも、いずれも同じ形だと何かおかしいというので、橋の下の真ん中の星だけその形をシンプルに変えた。娘は、これら一連の創作をあっという間に行った。私一人だと、これほど自由な発想はできない。それがそのまま、現在のロゴとなったのである。

JACTIMのロゴ

 それから時は流れ、平成25年にはJACTIM設立30周年を迎えた。その時の会員数は570社となり、マレーシア政府とのダイアログや在マレーシア日系企業の支援などの広範な活動を展開している。設立に関与した者の1人として、誠に嬉しい限りである。

 これをマレーシア駐在時代の私の最大の仕事としてその任期を終え、私は現地を去る時期となった。盛大な送別パーティを開いていただき、家内とともに、いたく感激した。帰国に際しては、子供たちを日航機で先に日本へ返し、私と家内は、タイと中国を経由して帰国することにした。バンコクではエメラルド寺院を見て、この暑い国でよくこれほど精巧に作ったものだと感嘆した。北京の天安門広場では洪水のような人民服と自転車に目を見張り、紫禁城と万里の長城ではその悠久の歴史に思いをはせた。

私たちの送別パーティに出発



9.工業所有権制度改正審議室長

(1)ちょっと顔を出すつもりが午前2時

 昭和60年4月22日、私は帰国して通産省に辞令をもらいに行くと特許庁に配属され、工業所有権制度改正審議室長になると知らされた。辞令上、最初は総務課課長補佐で、1ヶ月後の5月22日に正式に就任した。私はその時、35歳になっていた。4月22日に辞令をもって特許庁に行き、審議室とはどういうところかと思いつつ、ちょっと顔を出すつもりで部屋のドアを開けた途端、騒然とした雰囲気で、前任者の福田泰三さんや総括班長の宮城勉さんなどにゆっくり挨拶をしている間もないほどだった。折しもその時の審議室は、国会に特許法改正案を出しているところで、しかも翌日に委員会審議を控えているという多忙なときだった。だから、その答弁資料の作成にてんてこ舞いの最中だったのである。私も、ついついそれに巻き込まれて、気が付いたら、誰かの机に座って資料を作っていた。

 結局その日の作業が終わったのは午前2時頃だったが、泊まるところを決めていない。やむなく三鷹方面へ帰る人のタクシーに同乗し、新宿西口で降ろしてもらった。そこの交番で教えてもらったのが、要するにカプセルホテルで、そんな所に初めて泊まる羽目になった。そういう苦労の末にやっと成立させた法律が、昭和60年法改正である。それが一段落してから、東京都杉並区松ノ木の官舎アパートに居を定めて、マレーシアからの引越し荷物を配送してもらい、実家にいた家族を呼び寄せた。


(2)特許制度の国際調和に取り組み始める

 当時の日本特許庁、アメリカ特許庁そしてヨーロッパ特許庁のいわゆる「特許三極」間では、特許制度の国際調和(ハーモナイゼーション)という共通の課題に取り組み始めた。私が赴任した頃は、まず審査実務の紹介や審査基準の擦り合わせから始まって、徐々に話し合いを進めつつある段階だった。

 我々の最終目標は、アメリカの先発明主義を先願主義に移行させることである。事あるごとにアメリカ特許庁首脳にその話題を取り上げ、何らかのきっかけを掴もうとした。特に副長官達とは何回も顔を合わせるうちに親しくなり、フランクに話し合った。すると「自分達も実務上簡単だから、もちろん先願主義の方がよいと思っているし、アメリカのビッグ・ビジネスもそうだ。ところが個人の発明家や中小企業が未だ先発明主義にこだわっており、直ちに変えるのは容易でないが、努力しよう。」とのことだった。

 ちなみに、その後、サブマリン特許パテント・トロールの問題であるとか、先発明主義は特許の有効性があまりにも不確定過ぎるとか、そのための立証にコストがかかり過ぎる等の問題が意識されるようになった。それらがようやくアメリカの特許制度改正に繋がり、平成25年3月16日の出願から先願主義になったのは、慶賀の至りである。それにしても長い時間がかかった。


(3)米欧の交渉スタイル

 特許三極は、毎年それぞれの庁のあるところで会議を開き、審査実務や特許制度全般に関するテーマを決めて議論を行った。今でこそ特許庁には国際担当の課があって国際関係の業務全般を行っている。しかし、私が審議室長時代にはそんな課はなかったから、これも制度改正の一環だということで、私が一手に引き受けていた。だから、東京、ワシントンDC、ミュンヘンで行われた三極会合には、長官や技監などを補佐して必ず出席した。そこで色々と学ぶことも、面白いことも多かった。

ミュンヘンで行われた三極会合で丁々発止のやり取り


 アメリカ人の交渉スタイルは、最初に「自分達はこういう原則を持っている。」と、それ自体は誰にも文句を付けられないような立派なことを言ってまず反対を封じる。その上で、「従ってこの個別問題はこのように解決すべきだ。」と、自国に有利になるような説明をする。要は、唯我独尊的で、はなはだ我田引水的なのである。

会議を通じて仲良くなったアメリカ特許商標庁・ヨーロッパ特許庁の係官とミュンヘンの居酒屋で交流


 これに対してヨーロッパ人は、特許で博士号をとって30歳を超えて特許庁に入ったような人ばかりで、個々人はまるで学者のような雰囲気である。特許制度の違いはあるが、自分達のヨーロッパ特許庁の制度を手本にする方が最も合理的だと思っている節があった。それもそのはずで、元々ヨーロッパ各国間で相当の違いがあった特許制度を長い期間掛けて擦り合わせ、ついに統一した経験がそう思わせていたのであろう、私が見ても非常に合理的な制度であった。


(4)皆で古都アウグスブルクを訪ねる

 この三極会合は、昼間は喧々諤々の議論と丁々発止のやりとりをする。ところが会議場を離れると、同じ特許を扱う者どうしの気安さか、親しくお付き合いをするのが常だった。特にヨーロッパでは、夜に特許庁長官宅に招かれて、皆で美しい奥様を交えて食事をともにし、長官がよく行くというアフリカのサファリの成果を見せてもらったりした。

 休日に皆でミュンヘンから古都アウグスブルクに出掛けたのも、良い思い出である。この街は、紀元前15年にローマ皇帝アウグストゥスによって築かれた砦から発展したドイツの中でも最も古い都市の一つである。しかも15世紀から16世紀の中世にかけては、フッガー家などが鉱山と金融業で繁栄した地として知られる。その中世風の街並みが並ぶ石畳の街を、三極会合のメンバーとともにそぞろ歩きした。そうすると、いつの間にか全員に、時代や人種や国家を超えた一体感のようなものが芽生えてきた。これは今もって不思議な感覚として私の記憶に残っている。

アウグスブルクへ一緒に出掛けたアメリカ特許商標庁長官ご夫妻と


アウグスブルクへ一緒に出掛けたヨーロッパ特許庁副長官(向かって右)と部長(左)


(5)お洒落な街ミュンヘン

 もう一つのヨーロッパでの思い出は、何と言ってもミュンヘンそのものである。バイエルン州の州都にしてオリンピック開催地であり、BMWやシーメンスが本社を置いている都市で、マックスプランク研究所ドイツ博物館があり、かつてはナチス党の根拠地だったことでも知られる。聖母教会を見て、マリエン広場を歩いていると、広場に面して建っている新市庁舎がまるでお城のようで、まさに中世の趣がある。

 道行く人たちも、なかなかお洒落だ。ある年配のカップルなどは、男性が緑のチロリアンハットに赤のチョッキと緑の短パン、それに緑と赤縞の長靴下といういでたち、女性は鍔の広い緑のハットに赤のコートというスタイルだ。思わず見とれて、その2人が腕を組んで歩き去る姿を見送った。


(6)ホーフブロイハウスの鳥打ち帽

 会議の終わったある夜、有名なビヤホールのホーフブロイハウスに1人で行ってみた。ここは、かつてアドルフ・ヒットラーがアジ演説を行ったことで知られる。ドアを開けると、そこはまさに飲み屋で、10人ほどが向かい合って座れる細長い木製の重厚なテーブルがたくさん並んでいて、ビールのジョッキを手に手に持った大勢の酔っ払いが談笑し、肩を組み、歌を歌っている。うるさくて声も聞き取れないほどだ。

 席に案内されて、細長いテーブルの端に座らせてもらった。そのテーブルは、労働者風の人達で既に一杯だ。申し合わせたように似たような鳥打ち帽を被り、真っ赤な顔になって、もう出来上がっている。私は、小麦のビールをジョッキで1杯と、白いソーセージ(ヴァイス・ヴルスト)を頼んだ。これは、ドイツ・バイエルン州の伝統的なソーセージで、とても美味しい。

 私がそれをつまみにしてゆっくりと静かにビールを飲んでいると、向かいの鳥打ち帽が話し掛けて来た。かなりの年配の人である。「ヤパーナー?」つまり日本人かと聞いてきたので、そうだと答えると、片言の英語で「今度、戦争するときは、イタリア抜きでやろう。あんないい加減な連中と組んだから負けちゃったんだ。」などと、物騒なことを言う。私は苦笑するしかなかった。かつてヒットラーがこのミュンヘンの地で一揆を起こしたそうだが、その策謀の舞台だけのことはあると思った。


(7)単項制から多項制へ

 「工業所有権制度改正審議室長」という職名中の「工業所有権」とは、特許権、意匠権、商標権をいうが、必要に応じこれらの制度を改正するのが本来の任務である。とりわけ特許法については、昭和34年に現行法の原型が確立して以来、改正らしい改正はわずか2回だけだった。ところが、次第に制度の国際調和の必要性などに迫られ、私が室長として就任した昭和60年から、頻繁に改正を行うようになった。私は3年間の在職中に2回の改正に携わった。中でも一番記憶に残るのが昭和62年法改正で、改正事項は、改善多項制の採用と医薬品の特許期間の延長である。

 特許の出願人は明細書に「特許請求の範囲」(クレーム)を必ず書かなければならず、特許が成立した暁にはこれが権利範囲を示す。その場合、日本が伝統的に馴染んでいた単項制は、一出願・一発明・一請求項という単純明快な制度である。しかし、欧米の特許制度では一出願・複数関連発明・複数請求項という多項制がごく当たり前であった。

 例えて言えば、日本の単項制は、いわば抽象的な一つの条文を作ってそれを具体的な特許権侵害事例に当てはめていく。ところがそれだと、解釈の手間がかかるし、同じ結論が出る保証はない。均等論に関する判例法理も、未だ確立されていなかった。欧米の多項制はそういう解釈が曖昧になるのを嫌い、考えられるあらゆるケースを想定して、それに当てはめられる請求項を数多く作っておく。そして特許権侵害事例が出ると、そのどれかで対応するという実用的な制度だ。


(8)黒い猫を白い猫と思う

 私から見ると、多項制の方が実用的で使いやすいと思うのだが、特許の世界に長く身を置いた人ほど、これに抵抗感を示していた。加えて特許審査官にしてみれば、たくさんの請求項を読むのは骨が折れるという感覚を持っていたように思う。そこで「単項制だからこれほど出願が増えてしまった。多項制なら少しは減るし、請求項の数に応じて料金をいただくから野放図な数の請求項は来ない。」と説得した。

 工業所有権審議会の委員の1人である元特許庁長官は、単項制に執着して、要するに「一つの請求項を元に実際の侵害事例に当てはめる方が柔軟に解釈できるし、その方が美しい。」と言う。しかしそれではまるで「美学」そのものだ。何回も通って、アメリカの特許請求の範囲の実例と実際に日本で起こった事件との比較を示すなどして、多項制がどうしても必要なことを、あの手この手で繰り返し説明した。それでもなかなか納得せずにいたが、とうとう最後には「よし、分かった。自分は黒い猫だと考えるが、君がそんなに白い猫だというなら、白い猫だと思うことにする。」と言ってくれた。不思議な納得の仕方だと思ったが、本件を審議した工業所有権審議会では、特に反対はしなかった。

苦楽を共にした審議室の仲間


 特許法改正が終わった後、慰労会として審議室の仲間で軽井沢にゴルフに行った。当時の総括班長は小川恒弘さん、総括係員は新原浩朗さんその他の皆さんだったが、ゴルフはほとんど初めての人が多くて、珍プレーが続出して大笑いだった。


(9)秘密特許問題は長年の懸案

 秘密特許問題というのは、歴代の特許庁長官を悩ましてきた頭の痛い課題であった。特許庁だけで処理するには問題が大きすぎて、どうにも解決の糸口が見つからなかったからである。それというのも、昭和31年に締結された「防衛目的のためにする特許権及び技術上の知識の交流を容易にするための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定(昭和31年条約第12号)」という歴とした条約を実施する義務を、我が国が負っていたからだ。

 同条約第3条は、「一方の政府が合意される手続に従つて防衛目的のため他方の政府に提供した技術上の知識が、提供国で秘密に保持されている特許出願の対象たる発明をあらわすものであるときは、その特許出願に相当する他方の国でされた特許出願は、類似の取扱を受けるものとする。」と規定する。

 その背景としてアメリカには、特許出願があるとその公開の期限までに国防省がチェックして、軍事技術その他アメリカの安全保障上重要な特許発明だと判断した場合はその出願の公開を差し止め、国防省の指定解除があるまで秘密状態に置くという制度がある。軍事的に有用な技術を他国に渡さないための、国家による一種の技術接収制度である。


(10)産業界からの圧力でアメリカ特許庁の担当者が来日

 ところが、将来、国防省の秘密指定が解除されてその特許権が成立し、その特許権者がアメリカ以外の国で実施しようとすると、その国では既にその技術が一般化していたり、他人が特許権を取得していたりしていることも十分あり得るので、せっかく特許を出願した意味がなくなってしまう。そのような場合に備えて、アメリカで秘密指定がされてしまった特許出願であっても、他の国でも出願させてほしいというアメリカ産業界の希望で、この条項を規定する協定が、西側主要諸国と締結されていったというわけである。

 日本についても、同様の協定が締結されたが、長い間、実施されて来なかった。その理由は、言うまでもない。先の悲惨な戦争を経験した国民の間では軍事的な制度に対する抵抗感が根強く、そのようなものを出した途端、袋だたきの憂き目に遭うことが目に見えていたからだ。ところが、日本の経済力が強くなり、アメリカの水準と肩を並べるようになると技術力も拮抗するようになってきて、アメリカで出願されて秘密扱いにされた発明が日本で出願されたり実施されていたりする可能性が高まる。そうすると、早くこの協定を実施せよというアメリカ産業界の圧力が強まるという状況にあった。

 いつまで持つか、今やそういう段階に来ていた。我々に圧力をかけるためか、アメリカ特許庁から、我々が仲間内で「刑事さん」とあだ名を付けて呼んでいた担当者が来日した。そして、さあ明日にも会議という段階で、当の「刑事さん」がお腹を下してそのまま帰国してしまうという事件があったりして、やや締まらないながらも、事態は風雲急を告げていた。

 私は、この協定を繰り返し読んでみた。第3条は、要はアメリカで秘密扱いとされた特許出願に相当する発明が日本で出願されたら、日本でも秘密にせよというものだ。私はワシントンDCに飛んでアメリカ特許庁の「刑事さん」に会い、まずこの「アメリカで秘密扱い」ということは、どうやっているのかと問いただした。すると彼は、とある建物の中のまるで金庫のような部屋に連れて行ってくれた。その建物も、その部屋も、銃器を持った守衛さんに守られていた。

 彼は、その部屋に私を招き入れた。書類がたくさん並んでいる中で、無造作にそのうちの一つを取り出して私に見せた。まるで髭のような印が目立つ図面が描いてあって、「これは、50年前の海軍艦艇に関する特許出願だ。」と、平然と言う。私にはさっぱりだったが、・・・だから見せたのだろうけれど、これだけ厳重に守られていて、これだけの数があるのは分かった。

 参考にはなったが、それでもまだ、よく分からない。「そもそも『秘密に保持されている』というのは、誰が取り扱うのか。」と聞いた。すると、信じられない答が帰ってきた。「セキュリティ・クリアランス」を受けた人間だという。それは何かと聞くと、「その人の経歴、家族関係、交友関係、生活態度、資産状況とりわけ借金の有無と内容、外国訪問の経験、政治思想の傾向」など、日本では全く有り得ないほどありとあらゆる面で徹底的なチェックを受ける。個人情報保護どころの話ではない。当局によって、当局限りではあるが、プライバシーが何もかも丸裸にされるようなものだ。

 当時はソビエト連邦が崩壊する前だったから、東西冷戦が続いている頃だという認識はもちろんあった。とはいえ、アメリカでは、軍事機密情報の漏洩に対して、そこまで徹底した措置がとられているとは全く知らなかった。アメリカから受け渡される防衛秘密を取り扱う業務に慣れている防衛庁(当時)職員や自衛隊員ならともかく、今回の協定の実施のために2,300人を超える特許庁職員全員にそんなチェックを受けさせるなんて、到底無理だと思った。そもそも特許庁には、そういうチェックを実施する権限も組織も予算もない。「せめて特許発明の分野を限ることはできないか。」と聞いたが、「あらゆる分野の特許発明があり得るので、分野は限定できない。」と言われて、ますます絶望的になった。


(11)真夜中に奇跡的に解決策が閃く

 その晩、ホテルに帰って、何とかならないかと考え続けて悶々としていたところ、真夜中、ベッドの上に横たわっているとき、雷光のように奇跡的に閃いた。特許法では、出願はすべて1年6月後に出願公開をすることになっている。そして、特許の審査を受けるためには、単に特許出願を行うだけでなく、出願審査の請求を行う必要がある。この請求があってはじめて、その出願が審査段階に移行する。

 それであるなら、「アメリカから来た秘密特許出願を日本の特許庁で受けて、出願公開はしないで、秘密のまま単に保持しておくだけとする。その秘密の期間中は出願審査の請求があるはずがないので、審査はしないで済む。その上で、アメリカで秘密指定が解除されてから出願審査の請求を前提として審査をする」というのでどうだろう。そうすると、特許審査官は秘密解除前の秘密特許出願を扱う必要がない。その結果、秘密特許出願を扱う人は、その受渡し、保管、方式審査をするごく限られた人物やその上司だけとなる。

 唯一、問題があるとすれば、秘密扱いの期間中は出願公開がされないことにより、日本国内でそういう特許出願はないものと思って同じ発明を特許出願した者が、その発明の投資が無駄になったり、秘密解除後に後願だと判明してその特許を覆されることがあり得たりすることだ。しかし、特許法80条の通常実施権の規定もあるし、元々軍事利用がされるような発明だから、日本の得意とする民生品の発明にまで影響を受けるということは、さほど多くないはずだ。そもそもこれは条約上の義務となっているから仕方がない。

 この案しかないと思って、帰国して相談したところ、特許庁上層部の理解を得た。外務省もそれで結構だとし、協定を直接適用すれば、要するに実施のための細則を定めるだけでよいということになった。そこで細則の詳細を詰めてアメリカ側に示し、これしかないから是非ともこれで了解してほしいと迫ったところ、色々とあった末、その案で了解してもらった。昭和63年春に交渉は妥結して、実施細則を公表した。


(12)公表して大きな反響

 この細則は、大きな反響を呼び、庁内はもちろん弁理士会などにも説明に行った。国会にも呼ばれて、私が最初に国会答弁をすることになったのは、この案件である。皆さんは当初、私が想像したとおり、特許庁職員のほとんどが軍事秘密に巻き込まれると懸念していた。しかし蓋を開けてみると、この「協定出願」を取り扱うのはごくごく一部の管理職のみであり、しかも秘密扱いの間は審査をせずに保管しておくだけで、秘密扱いが解除されてから審査をすればよいと聞いて、拍子抜けしたようだ。

 驚いたのは朝日新聞の記事である。大きく取り上げて、「もし、米側の秘密特許と同じ内容の出願が日本側の企業などから遅れて出された場合には、特許庁は通常の手続きに従って1年半後には出願を公開する。この時点で、米側は秘密を解除せざるを得なくなる。」と報道した。それを前提として社説では、「米国が提供した軍事秘密特許資料は非公開とするものだ。日本はこれまで特許はすべて公開することを原則にしてきた。もし米国が軍事秘密特許と称して、日本に大量に特許を出願してきたらどうなるか。受け付けた段階で、わが国では非公開となるから、日本の特許出願者はいきおい疑心暗鬼にならざるをえない。・・・日米の出願が同じだというとき、日本が『公開』でがんばれるか、気になるところである。」と書いたことだ(昭和63年4月12日・14日付け)。

 しかし、日本側で同一発明の公開があればその時点で米側が秘密を解除せざるを得なくなるというのは、おそらく何の根拠もないはずだ。事の性質上、そのような運用がされているとは思えない。しかもこの社説は、今回の協定出願の制度も、特許の公開制度も、出願審査の請求制度も、それに先願主義も、いずれも十分に理解しないまま誤解に基づいて書いているようだ。未審査のアメリカの「特許出願」なのに、まるで「特許」と誤解しているようだし、あまつさえその軍事特許が日本の特許より必ず優先するのは、国益上はなはだ問題だという論調である。

 そうではなくて、協定出願は、アメリカでの秘密扱いが解ければ通常の特許審査手続に投入され、出願審査の請求があることを前提に、普通の特許審査が始まる。だから、たとえ軍事秘密特許出願であっても、同一発明の先願があれば、特許にならないのは当然である。日本の特許より必ず優先するなどというのは、誤解もはなはだしい。私はすぐに築地の朝日新聞本社を訪れて社説を書いた論説委員に面会し、制度の内容を詳しく説明した。すると、間違いに気づいたようで、最後は言葉も出なかった。

 国会では、内閣委員会、外務委員会、科学技術委員会などで野党の委員と何十分も渡り合った。しかし、根気強く説明を繰り返すうちに、軍事特許だ秘密特許だと騒がれた割には、ネズミ一匹すら出て来ないことが理解されて、騒ぎは沈静化していった。


10.取引信用室長

(1)相互に何の脈絡もない所管業務

 私は、昭和63年7月1日、通商産業省産業政策局商政課取引信用室長となった。38歳のときである。これは新設されたばかりの政令室で、その初代の長ということになる。担当は、割賦販売法、リース業、産業金融である。総括班長はも山田宗範さん、後に鍛冶克彦さんになった。

 通商産業省関係の産業金融や資金調達関係の業務を集めたということだったが、これらの所管業務には相互に何の脈絡もないから、最初はどういうことだろうと思った。しかしそのうち、あたかも未開の地に新たな道を作るように、自分で新しい仕事を開拓すればよいのだと悟った。


(2)クレジット業界

 当面これらの中で日常的な業務があるのは割賦販売法で、その規制対象は、クレジット業界と冠婚葬祭互助会である。このうちクレジット関係の業種としては、自動車、家電などの大企業や百貨店で割賦販売を行う会社、信販会社、銀行系クレジットカード会社に大別される。それぞれが日本クレジット産業協会、全国信販協会、日本クレジットカード協会を構成していた。通産省には、割賦販売審議会クレジット産業部会が置かれていた。私の仕事は、そこで行われるクレジット取引の業務等の課題の事務局を務め、同審議会で決まったことを、これらの業界団体を通じて、その会員企業に実行してもらうというものである。

 私の頃は信用情報と多重債務の取扱いが大きな問題となっていた。そのうち信用情報機関は、業界ごとに、割賦クレジット系、銀行系、消費者金融系に分かれていて、しかもいわゆるブラック情報(返済や支払いの延滞、破産等の事故情報)しか蓄積していなかった。当時はこれらの機関の草創期に当たり、例えば割賦クレジット系は(株)信用情報センターであるが、わずか4年前に創設されたばかりであったから、まだシステムが安定しているとは言い難かった。

 一例を挙げれば、その当時のコンピューターの能力では登録する信用情報を片仮名で登録するのが精一杯だったので、同じ読みの同姓同名者がいたりするとそれだけで間違われやすかった。実際、同じマンションの別の階に、漢字で書くと別だが読みは全く同じという同姓同名の人がたまたまいて、延滞があった者と誤認されたという事例には驚いたものである。

 多重債務も世間の注目を浴びる問題となりつつあって、その救済が急務となっていた。抜本策は、ホワイト情報(通常の利用者情報で事故記録が一切ないもの)も含めて信用情報化するとともに総量規制を導入するしかないと思ったが、自社の大事な顧客情報が競争相手の他社に漏れる恐れがあるということで、各社の抵抗が強かった。それに、3つに分かれている全ての信用情報機関がまとまらないと意味がない。その実現は平成22年の貸金業法及び割賦販売法の改正法の施行まで待たねばならず、私の時代にはまだまだ時期尚早であった。


(3)冠婚葬祭互助会

 割賦販売法の規制対象となるもう一つの業界は、冠婚葬祭互助会である。会員になって一定の月掛金を前受金として何年かにわたって払い込むことにより、結婚式やお葬式を経済的にできることを売り物にしているビジネスである。例えば、私と家内がお互いの実家に帰ったときに別々に聞いてみたら、私の家は富山、家内の家は静岡と離れているにもかかわらず、私の母も義理の母も、それぞれの地にある冠婚葬祭互助会の会員だった。これからも分かるように、全国各地に普及している。全国の冠婚葬祭互助会が掛金という形で消費者からいわば「預かっている」前受金の額を合計すると、当時は約1兆円にもなり、ちょっとした地方銀行並みの規模となっていた。

 ビジネスが上手く行っていれば何の問題もないが、いったん立ち行かなくなると、消費者に約束した冠婚葬祭のサービスの提供ができなくなる。それでは消費者の利益が損なわれるので、割賦販売法は、互助会が預かっている金額の半分を保全する措置を講じている。だから、会員として加入している互助会が万が一倒産しても、これまで積み立ててきたお金の少なくとも半額は会員に還付、つまり返金されるというのが法律上の建前である。しかし、それでは収まらないのが人情で、全額を返してほしいということになる。倒産するほどの企業であるから、残り半分は既になくなっている場合が多い。従って、これを何とかするには、同業他社に救済してもらうほかない。救済する会社のメリットは、会員を一挙に獲得できるし、いざ結婚式や葬儀があると、普通はその積み立てた金額では収まりきらなくて、それより多く支出してもらえることだ。

 幸い、全国には大規模な互助会グループで、しっかりしたところが幾つかあるから、その競争関係や相性などを総合的に勘案して、救済のあっせんを行うのが私の重要な役割だった。このため、一方では全国各地の互助会の経営状況を把握し、経営合理化で乗り切れるときは各地の通商産業局を通じて指導する。いよいよ立ち行かなくなりそうだったら、あらかじめ検討しておいた他社に救済を要請するということを、電光石火の如くしなければならない。いわば救済合併仕掛け人の役を果たしていたのである。こうしたことによって、私の在任中は1社も倒産せず、消費者への還付措置をしなくて済んだ。


(4)大蔵省銀行局の研究会で互助会の救済合併を説明

 ある日、そうした救済合併仕掛け人をしていることが誰かの目にとまったのか、私は大蔵省銀行局から、銀行局長の下に設けられた研究会で、互助会救済のために何をやっているのか説明してくれと求められた。そこで大蔵省の一室で開かれていたその会合に出掛けて行って、次のように説明した。

 「約300社余りの互助会業界全体で加入者からの前受金が1兆円に達している。各社の経営状況の把握や指導は常々行っているが、いかんせん会社の数は多いし、各通産局の職員の数も限られている。いずれにせよ個々の会社の経営問題であるから、経営者の行うことを隅から隅まで把握することは不可能に近い。それでも、日頃の情報収集を怠らないように心掛けていて、どこかの会社の経営が悪いということを耳にしたらすぐに検査に入る。その結果、単独で経営改善を行うことが出来ないと判断したときには、同業他社に働き掛けて救済してもらうようにして、消費者から預かった前受金を毀損させないように努めている。」


(5)銀行局担当の参事官から小馬鹿にされる

 すると、その研究会に出席していた銀行局担当の参事官が、「その互助会というのは法律による許可の対象なのでしょう。我々も銀行に営業の免許を与えているけれども、それが経営危機に陥るなどというのは、銀行なら考えられないことだ。」とおっしゃる。これに対して、私は驚くより呆れてしまって、こう答えた。

 「いま、許可業種の会社が経営危機に陥るなどありえないとおっしゃったけれども、人間がやることだから、例えば、需要の伸びを当てにして結婚式場に過大な投資をしたり、あるいは『するべきでない。』と強く指導しているのに隠れて土地の投機や僻地のゴルフ場開発に資金を出していたりして、経営危機になる要素は幾らでもある。巧妙に隠されていたりすると、たとえ丁寧に検査を行ったとしても、見抜けないことも多い。銀行でも、それは同じことでしょう。」


(6)経営者を見ずに表面的な検査だけでは

 こうしたやりとりを聞いていた委員の1人で京都大学法学部の先生が突然、ガハハッと大声で笑い出した。よほど面白かったのだろう。私もつられて笑いたくなった。その場はそれ以上の議論はなく、私はそのまま道路の向こう側にある通産省の自室に戻って来て、部下にこう言った。「大蔵省銀行局は経営者を見ないで、表面的な検査しかしていない。あの調子じゃ、そのうち銀行の倒産騒ぎが起きるぞ。」

 事実それから1〜2年ほどしてバブル経済が崩壊し、その数年後から経営が立ち行かなくなった金融機関が続出した。そこで金融機関対策として、互助会で私が行っていたように、当初は銀行局主導の救済合併が行われた。しかしそれもできなくなったことから、破綻金融機関を清算して事業譲渡を行う救済措置がとられたり、一時国有化されたりする金融機関が出た。

 その挙句、ついに平成9年には北海道拓殖銀行、翌10年には日本長期信用銀行日本債権信用銀行という大銀行が次々に破綻するに至り、大きな金融危機に陥ったことは承知の事実である。これというのも、バブル経済の崩壊という特殊な事情があったにせよ、大蔵省銀行局幹部が自らの行政手法を過信して、金融機関の真の経営の実態を見ていなかったことがその一因だったのではないだろうか。


(7)ファイナンス・リースの課題

 リース業と産業金融というのも、一見すると無関係のように思えるかもしれないが、実は表裏の関係がある。伝統的な意味でのリース業とは、いわゆる「オペレーティング・リース」つまり物品、設備、機械などを長期間にわたり有料で貸し出す事業で、賃貸借の意味合いが強い。これに対しリース業が発展するにつれ、「ファイナンス・リース」つまり中途解約ができなくて、ほとんど金融といっても良い形態が伸びてきた。それを担うのが総合リース会社であるが、常に原資の資金調達方法の多様化が課題となっていた。

 銀行系のリース会社だと親銀行から資金調達を行えばよいが、独立系リース会社やクレジット会社だと、銀行を通じて間接的に資金調達をするのでは高くついてしまう。だから何とか市場から直接的な資金調達ができないかを模索していた。社債の発行やその頃アメリカで普及していたコマーシャル・ペーパー(CP)の発行も考えられるのだが、ともかく銀行の力が圧倒的に強い日本では、なかなか利用できない。

 所管業界の銀行を慮ったのか、大蔵省銀行局の態度も煮え切らないものだった。例えば事業会社やその団体が、市場から資金を直接調達するための新しい手法を考え出して相談に行くと、「それは出資法上、どうですかねえ。」とコメントするだけで、イエスともノーとも言わない。


(8)義憤を覚えた銀行局の「あいまい」戦術

 出資法というのは、「出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律」の略である。銀行法など他の法律に特別の規定がある場合を除いて、業として預り金(不特定かつ多数の者からの金銭の受入れで、預金等その他いかなる名義をもってするかを問わずこれと同様の経済的性質を有するもの)をした者に対し、3年以下の懲役等を科すという直罰を規定している。このため、どの会社も刑事事件となるのを怖れて尻込みし、新しい金融システムの構築に挑戦しないという風潮が蔓延し、その分、日本の産業金融は発展しなかった。

 こうした大蔵省銀行局の「あいまい」戦術のような意図的サボタージュについては、私は罪刑法定主義の観点からして実に問題があると考え、義憤すら覚えたほどだ。ちなみに現在では、法令適用事前確認手続 (いわゆる日本版ノーアクションレター制度)が設けられているので、そうしたことは理屈上は起こらないことになっている。しかし、そんな制度がなかった当時は、良い手法や仕組みを考えても泣く泣く諦めるしかなかった。何か対策を考えるにしても、私は取引信用室長をわずか1年でお役御免になり、内閣法制局へ出向したことから、それは叶わなかった。しかしこの一件は、私の脳裏に深く沈殿して、無意識にその解を頭の中で探っていた。


(9)出資法を逆手にとる投資家保護の規制法

 平成元年6月に内閣法制局に出向して第四部参事官になってから2年が過ぎた時である。もうその頃には、私は、法律制度や法律案の策定にかなり精通したベテラン参事官になっていた。ある時、出資法を読んでいて、ふと閃いたことがあった。それは第2条で、「業として預り金をするにつき他の法律に特別の規定のある者を除く外、何人も業として預り金をしてはならない。」と規定してある中の「他の法律に特別の規定のある者」という部分である。

 つまり、「このようなやり方は出資法で規制されるかもしれない」などと恐れたり嘆いたりしていないで、「他の法律」を作り、自らが「特別の規定のある者」になってしまえばよいのである。その場合、出資法を逆手にとって、投資家保護のための規制法にしてはどうだろう。出資法で危ないと言っている分野なのだから、所管の通産省がしかるべく監督するということにし、そのための規定も入れよう。ならば大蔵省も面と向かって反対できないだろう。こうして、アイデアはわずか5分足らずでまとまった。

 要は、出資法のグレーの部分を、特定の債権だけ規制法という名の下に囲い込んで、その中を白くしてやるというわけだ。規制法の名を冠した自由化法なのである。このアイデアを当時の取引信用室長に伝えたところ、諸手を挙げて賛成し、是非やりたいと言ってくれた。私が「大蔵省銀行局との折衝は大変だよ。」と言っても、彼の決意は揺るがない。これは頼もしいと思って、その活躍を見守ることとした。

 振り返ってみると、ちょうどその頃、それまでの銀行を通じた間接金融の時代から、事業会社が市場から直接資金を調達する直接金融の時代へと変わりつつあった。我々はまさに、その転換点に立っていたのである。だから、通産省も全力をあげて、法制化に取り組んだ。


(10)資産流動化法制の嚆矢となる特定債権法

 このアイデアは、平成4年6月に「特定債権等に係る事業の規制に関する法律」(略称は、特定債権法)として結実した。リース、クレジット及び割賦債権という特定の資産を特定債権等譲受業者(特別目的会社など)に譲渡し、その譲渡代金債権を小口化して、許可を受けた小口債権販売業者が投資家に販売する。その際、投資家保護の観点から最低販売単位、余裕金の運用方法などを規制し、指名債権の譲渡を債務者及び第三者に対抗する要件を定めた民法467条の例外規定としての公告制度も設けた。

 これは、我が国で初めての資産流動化・証券化法制として高く評価された。この法律に基づくスキームの利用が進み、資金調達総額、発行残高は順調に増加していった。その結果、不動産など資産の流動化関係の他の法制度の整備も進んだことからその役目を終えて、平成16年12月に廃止された。

 元々は出資法の規制回避というやや邪(よこしま)な発想から出発したものとはいえ、資産流動化法制の嚆矢となり、この分野で大きな役割を果たしたのは、発案者として誠に嬉しい限りである。ここで出資法の例外としての特定債権法を作らなければ、その後の債権や不動産の流動化・証券化、ひいては投資信託制度が、アメリカなどに比べて何十年も遅れるところだったと信じている。


11.繊維製品課長

(1)一度なりたかった原課の課長

 私は取引信用室長を務めた後、内閣法制局に出向し第四部参事官として5年間在籍してからいったん通産省に戻り、「通商産業省生活産業局繊維製品課長」に任じられた。それが平成6年7月1日で、44歳のときである。私とコンビを組む総括班長は、後に特許庁長官となる小宮義則さんだ。通産省では特定の産業界を所管する課を「原課」といって、いわば通産省らしい行政ができる課として、通産省の事務官となったからには、一度は働いてみたい課として位置付けられていた。

 その点、繊維製品課は、自動車課などと違って、有り体に言うともはや斜陽の産業を所管していて、お世辞にも「花形」の課とはとても言えない。しかし、歴史と伝統のある原課なので、何かやり甲斐のある掘り出し物があるかもしれないという思いもあった。だからここで一つ、業界の皆さんと喜怒哀楽をともにして、有意義な仕事をしてみようと心に誓い、未知の世界へと乗り出して行った。

 なお、私が原課の課長となったので、そのお祝いと永年の家内の内助の功に報いるという趣旨で、恵比寿ガーデンプレイス内のレストラン、タイユバン・ロブションでフランス料理を楽しんだ。

タイユバン・ロブションにて


 繊維関係中小企業は、最終の繊維製品が売れてはじめて商売ができるのであるから、大きな意味での繊維産業という「川(ストリーム)」の上流に位置している。それから商社などの問屋機能を中流にはさみ、最後に川の下流に相当するところにあるのがデパートやスーパーなどの小売業である。だから、これらの首脳の皆さん方にもよくお付き合いいただいたし、森英恵さんや花井幸子さんなどの有名なデザイナーやファッション関係の皆さん達とも親しくなった。


(2)日米繊維交渉の後遺症

 繊維製品の故郷は、全国各地の産地である。これを知らなければ話にならないと思い、時間を見つけては全国行脚の旅に出た。そこで目にしたのは、激変する国際貿易情勢に苦悩する産地の姿である。

 例えば、高速で効率の良い織機を大規模に並べた地方の産地では、日米間で昭和47年に締結された繊維製品の輸出自主規制に関する政府間取決めの結果、泣く泣く設備廃棄をせざるを得なかった。それから四半世紀近くも経つというのに、全国のどこを回っても、織機の登録制や設備廃棄の影響が色濃く残っていて、回顧談とはいえ未だに恨み節を聞かされる場面も多かった。


(3)中国からの輸入急増問題

 因果は巡るという言葉をつい思い出すが、今度は日本の繊維産業が中国からの輸入激増に頭を悩ますようになった。大蔵省(当時)の貿易統計によれば、衣類及び付属品(ニットを除く)についてみると、日本の全輸入額に占める中国からの輸入額の割合は、平成2年に34%であったものが、平成7年には63%に達した。5年間でほぼ倍増である。

 私もその頃、ゴルフ用のセーターを買おうとデパートに行ったところ、1着3万円近い国産のものしか売っていなくて、これは高いと思いつつ、やむを得ず買ったことがある。その頃、中国から輸入されたニットのセーターを見せられた。デザインも縫製も悪いが、日常の普段着として身に付けている分には別に支障はない。しかもこれが街中で1着わずか500円で売られているというのには、驚いた。その値段なら、使い捨てでも全然惜しくないくらいで、これでは競争どころではないと思った。

 各産地に行くと、生産者の皆さんのほとんどが、洪水のような中国製品の氾濫を嘆いておられた。しかし中には、やや斜に構えている人もいた。私は最初、てっきり自社のデザインや縫製技術や販路に絶対的自信がおありなのだろうと思っていたが、話をしているうちに、どうもそうではないことが分かってきた。何のことはない、さっさと先に中国への進出を済ませて、自らの製品をその洪水の一部として、日本へ還流させている人たちだった。輸入急増問題といっても、その構図は、事程左様に単純なものではないのである。


(4)産地を巡る旅

 自分のなすべき道を探るため、私は産地を巡る旅を始めた。最初は、日本綿スフ織物工業組合連合会の傘下の、全国各地にある綿織物産地である。まず、400年間の歴史がある知多産地を皮切りに、高速織機を大規模に集めて大量生産をする方式を得意とする北陸産地、先染めの綿織物で有名な兵庫県西脇市の播州産地、綿織物から発展したアパレル産業が盛んで制服や学生服を専門にしている岡山産地、ジーンズの素材である「デニム」を製造販売している世界的に有名なメーカーがある広島産地を訪ねた。

 織機といえば、昔ながらの杼(シャトル)がガチャン・ガチャンと音を立てて右へ左へとのんびり往復するものと思っていたら、最近はそんなものを使わずに、空気や水を使って目に見えないほどの速さで緯糸(よこいと)を送るエアジェット織機やウォータージェット織機が普及していた。しかし、それだけではこの世界的大競争時代には生き残れない。北陸産地は、従業員の数を極端に絞った大量生産や国内の大手メーカーとの連携関係の構築を行っている。播州産地は、最大1万色の先染めの糸で色鮮やかな素晴らしい模様を作り出す。岡山産地は、それまで画一化していた女子校の制服のデザインに一流デザイナーを採用して、これをファション化した。

 日本絹人繊織物工業会の産地も、全国にまたがっている。関東近辺で江戸という大消費地に絹織物を供給して大いに栄えた桐生産地、ネクタイやスカーフが有名な八王子産地、加賀友禅の加賀絹で歴史的に有名な小松産地、着物の生産と流通の本場である京都の西陣産地と室町の呉服商、丹後産地を訪問した。

 桐生産地は、明治以来先進的な染織技術を積極的に取り入れてきた歴史があり、現在でも有名な繊維工芸作家が集まって工房を構えている。小松産地では明治42年建立のジャカード隆盛記念塔なるものがあった。ジャカード織機は、紋紙に開けられた穴が経糸を持ち上げるパターンに対応していて、それで複雑な模様を織ることができる。その紋紙を見れば見るほど見覚えがあると思ったら、私が昔使っていた大型コンピューターのパンチカードそのものだった。

 京都の西陣産地は、長年培ってきた高度な技術と豪華絢爛な製品で、何百年もの間、京の公家のみならず、全国各地の武家や裕福な商人を魅了し続けてきた。その伝統は今にも受け継がれていて、西陣織が完成に至るまでには約24もの工程があり、それぞれ専門の職人によって完全に分業化され、経験がものをいう世界だ。その流通に関与しているのが京都の室町に軒を並べている呉服商であり、京呉服物、西陣帯、和装小物等を取り扱っている。


(5)丹後産地の苦衷

 これらが、いわば華やかな絹織物産地とすると、京都府の丹後産地は、全く対照的だった。私が訪れたとき、丹後の町で「きものまつり」という催しがあり、寒い海風が吹きつける中、小学校の校庭に町内の皆が和装で集合し、おごそかに一連の行事が催された。私も羽織袴姿で参加させていただいたが、小学生も中学生も、そして地域の皆さんのすべてが丹後ちりめんにかかわりを持ち、真摯にこれ一本で生きていることがよく分かった。ところが、その地域社会を支える唯一の産業に、苦衷をもたらす大きな逆風が吹いていた。それは、製品の白生地安と原料の生糸高というダブルパンチであった。

 実はこの丹後産地でも、昭和20年代半ばには「ガチャマン」といって、家の納屋でもどこにでも織機を揃えて、それをガチャンと動かして織れば万単位のお金を儲けられるという古き良き時代があった。だからその時には学校の校長先生、お寺のお坊さんまでやっていたと地元の人は言う。

 それから長い年月が経ち、私が訪問した当時はどうなっていたかというと、絹の白生地1反が丹後の産地を出る時には、せいぜい8,000円にすぎない。ところが、それが西陣織の製品になって売られる時には200万円以上にもなっているそうだ。それなのに「産地価格をいくら値上げしてくれとお願いしても実現しない。なぜこんなに安いのか。」ということを口々に語る。確かに手間と時間をかけて織る白生地の価格がそんなに安すぎては、たまらないだろう。


(6)生糸農家と絹織物業界の政治力

 しかし、丹後産地を覆う暗雲は、それだけではない。白生地の原料となる国産の生糸価格が政治的に吊り上げられ、高すぎることだった。ちなみに、国産生糸の生産量は、昭和40年代から一貫して減少してきた。生糸生産に手間がかかって農家の方から敬遠されるという面に加え、戦後の和装需要の衰退があり、さらには、中国などから入って来る外国産生糸との競争に太刀打ちできなかったからだ。昭和43年(1968年)には、生糸生産量2,075万トン、養蚕農家数45万5,200戸であったものが、私が繊維製品課長に就任した翌年の平成7年(1995年)には、生糸生産量291万トン、養蚕農家数1万3,640戸へと激減した。

 それならば、中国などからの安価な生糸の輸入をもっと増やせそうなのであるが、そうはいかなかった。和装需要が激減しつつある上に、これは非常に微妙な政治問題であった。てっとり早くいえば、生糸農家の政治力が絹織物業界の政治力をはるかに上回っていたからである。農林水産省農産園芸局蚕糸課長とは時に敵対し、時に連合しながら、なるべく安い生糸の輸入を増やそうと奮闘した。かなり増えはしたものの、まだ満足できる水準にはほど遠かった。

 いずれにせよ、生糸農家には、全国各地の生糸産地を地盤とする歴代総理などが綺羅星のごとく味方に付いている。それに対して、こちらは非常に不利な状況だ。それでも一縷の望みをかけて、選挙区に絹産地がある国会議員を足を棒のようにしながら回り、協力を要請した。しかし、本気で最後までサポートしていただけるような議員は、1人もいなかった。丹後産地の皆さんの顔を思い浮かべて、無力感と忸怩たる思いだけが残った。


(7)中国との交渉は最後まで粘ること

 生糸側との交渉の結果、翌年度の生糸輸入枠の目途がつくと、今度は最大の輸出国である中国に飛んで、中国の生糸の輸出入を司る政府機関と輸出枠を設定する必要がある。2泊3日の日程で北京に交渉に出かけた。計画経済のお国柄か、価格については比較的早く合意したが、輸出枠について相手は原則論を繰り返すばかりで交渉は少しも進まない。最終日の朝、その日の昼過ぎの飛行機で帰るというのに、何の進展もない。さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。「交渉は打ち切りだ。もう帰る。」と言い捨て、そのまま大使館の自動車で北京空港に向かった。人間、怒りが高ずるとお腹が空く。空港のすぐ手前で、美味しそうな四川料理のレストランを見つけたので、そこに入って料理を注文した。

 激辛の麻婆豆腐を食べていると、突然、その交渉相手が私の目の前に現れて、こう言った。「提案がある。ほかのことはもう良いから、数字だけ決めたい。来年度は◯千俵にしてはどうか」。私の強い態度に驚いた相手が慌てて追いかけて来て、いきなり切り札を切ってきた感じだ。現にそれは、私が思い描いていた数字とほぼ同じだった。しかし、あえてそれは言わずに、辛い料理のせいもあって、苦い表情をしながら「駄目だ。話にならない。更に◇千俵。」と言った。バナナの叩き売りのような押し問答の末、私が追加で提示した数量にかなり近いところまで相手が降りてきたので、私は「分かった。それで了解する。」と言って矛を収め、これで交渉は妥結した。


(8)新繊維ビジョン

 産地を一巡して皆さんと親しくなり、問題意識を相当程度、共有することができたところで、これらにどう対応していくのか、考えさせられる日々が続いた。私の着任の前年12月には繊維工業審議会・産業構造審議会が「新繊維ビジョン(市場創造とフロンティア拡大へ向けて・今後の繊維産業及びその施策のあり方)」の答申を出した。これに基づいて繊維工業構造改善臨時措置法の一部改正法が成立し、私の着任のときには既に施行してあった。その他、ファッションタウン構想、ファッション産業に関わる人材育成という政策も動いていた。

 本当は新規の政策を考えること自体が行政官冥利に尽きるのだが、このタイミングで何か新しいことを考えるのは混乱を招くと思い、新繊維ビジョンの内容を着実に実施していくことにした。そういう目から見ると、このビジョンはなかなか良く出来ていて、従来の産地ごとの発想から抜け出して製造と販売の連携を重視しているし、情報化を軸とした販売・在庫管理の合理化というのも、まさに目から鱗の感がした。


(9)ファッション開発と情報化

 その頃、百貨店や量販店の首脳ともよくファッション産業の未来について話し合う機会があり、「消費者のファッション感応度に商品がなかなか追いついていけない、方向としてはファッション開発と情報化だろう」というご意見で、ますます意を強くした。特に東武百貨店の山中社長(当時)には、ファッション産業人材育成機構(IFI)のことでお世話になった。この機構は、「グローバルな視野を持ち、創・工・商という一気通貫の全体像を理解し、創造力と問題解決能力を有するリーダーの育成」を目標として墨田区に設立され、IFIビジネス・スクールの運営や研究を行っている。

 その頃、アメリカ政府が自国の繊維産業を支援するために特別の支援センターを設けていたり、繊維業と小売業とを結ぶQR(クイック・レスポンス)と称する情報化に力を注いでいたりするという話を聞き及んだ。業界の皆さんも大いに関心があるとのこだったので、官民で調査団を結成し、これらを調査するとともに、あわせて現地の繊維や小売業関係者と交流して来ようということになった。平成7年3月のことで、行き先は、アトランタ、ローリー(Raleigh)、そしてニューヨークである。


(10)QR(クイック・レスポンス)調査団

 ローリーのあるノースカロライナ州は、古くから繊維産業で栄えてきたが、IBMが立地したこともあり、最近ではコンピューター、通信、電子機器、ゲーム、高度医療や生命工学なども盛んである。つまりは、繊維産業と高度情報産業が融合しつつあって、新しい時代の息吹のようなものを感じることができる地だ。政府が設けたモデル工場のようなところは、アメリカの工場にしてはすっきりと整理整頓されているなという印象しか残らなかった。しかし、アトランタでのQRの会議には、大いに啓発されるものがあった。

 そもそもQRとは、アメリカのアパレル産業で始まった経営方法である。衣料品の販売はどうしても消費者の趣向の移り変わりや天候に応じて左右され、欠品による売り逃しや売れないことによる在庫増と見切り販売というリスクを抱える。このようなリスクを最小限にするため、繊維の原材料の調達から製造、流通、販売に至るまで、全てのプロセスを高度情報システムでネットワーク化し、その最適化を図ることによって、製品供給のリードタイムをなるべく短くしようとする試みである。

 会議の壇上で説明する小売業の担当者が、QRの必要性を力説する。「我々はこんなものから」と言いながら小さな婦人用パンティを片手で高々と掲げたかと思うと、次の瞬間に「こんなものまで揃えなければいけないんです。」と言いつつ、横幅が1メートルほどのパンティを頭上に両手で広げたときには、会場がどっと笑いに包まれた。プレゼンテーションが実に上手いのには感心した。見習わなければならない。


(11)情報技術の進歩と取引関係の改革

 QRは、現代のDX(デジタル・トランス フォーメーション)IoT(インターネット・オブ・シングズ)の源流といっても良い。なるほど、これが実現できれば、無駄な在庫はなくなるし、無用な見込み生産もする必要はない。消費者も欲しい衣服がその場で手に入るし、衣料品の価格は下がり、それでいてメーカーや小売店の収益も理論上では影響を受けない。つまり、高度情報システムを使った生産から流通に至る経路の合理化そのものである。私のかねてからの思考方法とも合致する。是非実現したいものだと思った。

 しかしこれは、言うは易くて行うはなかなか難しい。まず、情報ネットワークの形成に必要な統一的通信基盤と個々の商品への共通の付番が必要である。これはもうアメリカの業界が自主的に団体を立ち上げて、かなり進んで来ている。それから、在庫管理や推計式のような予測手法の確立が不可欠で、これには高度な情報技術を必要とする。こうした技術的基盤がまずあって、その上で、メーカーと卸売業と小売業の三者が、自らの新製品開発、販売状況、在庫管理などの自社の機微な情報を相手にさらけ出して、いわゆる「WinーWin」のパートナーシップ関係を構築しなければならない。つまり、情報技術の進歩と取引関係の改革が相まって、はじめて実現可能なのである。


(12)岩島嗣吉さんとの出会い

 さて、それではいかに取り組むか。技術的基盤作りについては、繊維産業構造改善事業協会があるので、そちらに依頼した。幸いQRの技術的環境整備に情熱をかける専門家がおられて、予算を確保して全てをその方に託した。ところが、取引関係の改革については、もっと難しい。これはメーカーと小売間の力関係からして、小売業のトップダウンでいくしかない。私自身も各社を回り、ダイエーの中内功社長やジャスコの岡田卓也社長に直接説明して、その賛同を得た。しかし、それだけでは十分ではない。私以外に小売業の実情に詳しくて各社の首脳にも近しい「伝道師」のような方がおられれば理想的だなと思っていた。

 そうしたところ、思いがけず、そういう方に出会ったのである。それが岩島嗣吉さんで、このQR調査団のコーディネーターをしておられた。元々は日本IBMのご出身で、小売業の情報化を担当されていたところ、日本の小売各社首脳の知己を得て、アメリカの最新の情報を日本の首脳に伝える小売の情報化コンサルタントとして活躍されていた。日米の業界事情とQRの実例に詳しく、まさに適任であった。


(13)共著「コンシューマー・レスポンス革命」

 新しいアイデアを普及するためには、教科書があった方が良い。やがて私は、岩島さんと共著で「コンシューマー・レスポンス革命」(ダイヤモンド社)と題する本を上梓することになる。これは、QR(Quick Response)という用語のままでは、「Quick」つまり「素早く」対応すればいいのだろうと誤解されてしまって、日本の読者に事の本質を伝えられない。だから、もっと分かりやすくするために、岩島さんの考えをとりいれて、CR(コンシューマー・レスポンス)という言葉を使ったものである。それは、「商品の製造から販売までに至る一連のプロダクト・パイプラインについて、最新の高度情報技術を活用しつつ、消費者の側に立ってこれを合理的に再編成して効率化し、関係当事者すべてがその成果を公平に分かち合おう。」とするものである。

私と岩島嗣吉さんの共著「コンシューマー・レスポンス革命」


 このCRという造語自体はさほど広がらなかったが、その後、これと同じ発想がアメリカの小売業の間で「サプライチェーン・マネジメント」(Supply Chain Management、SCM)として確立されるに至り、流通業の教科書にも載っている。岩島さんと私の共著「コンシューマー・レスポンス革命」は、やや手前味噌だが、その理論的基礎を形作った著作の一つとされている。


(14)阪神淡路大震災の発生当日

 平成7年1月17日午前5時46分、阪神と淡路島を襲ったマグニチュード7.3の大地震は、死者6,434人、負傷者4万3,792人、住宅全壊10万4,906棟、半壊14万4,274棟、全焼7,036棟という大きな被害をもたらした。その日、東京は震度1程度であったらしいが、私は地震の揺れは全く感じることができなかった。朝の出勤前のニュースでは、大阪・神戸で地震が起こり、数十人が亡くなった模様という、実に簡単で素っ気ないものだった。

 私はいつものように繊維製品課へ出勤し、普段どおりに仕事をしていた。そして、お昼になったので、ふとテレビをつけてNHKニュースを見たとたん、驚きでその場に立ち尽くした。神戸の街全体のあちこちから黒い煙の柱がモクモクと空高く立ちのぼり、その一つ一つの煙の柱の真ん中には、禍々しいばかりの赤い火が見えるではないか。これは一大事だと分かった。何千人も命を落とし、何万人も焼け出されるのではないかと思った。

 そのとき私は、衣料品、毛布等の繊維製品全般を担当していたので、「この冬の寒空の下で、被災地では毛布や衣類、雨風を防ぐものが不足するだろうから、これらを直ちに確保しなければならない。何よりもまず毛布、次にブルーシートだ。」と考えた。関西近辺では、泉佐野が毛布の産地である。そこで、現地の泉州毛布工業組合(現在の日本毛布工業組合)に電話して、被災者の皆さん用の毛布の確保を頼んだが、現地の答えは私をびっくりさせた。「ああその件なら、ご心配なく。地震があってから、すぐに3万枚ほどを用意して、今朝早くこちらのトラックを出発させました。」というのである。普段から自主的に災害用の毛布を備蓄していて、緊急時にそれをどう活用するかという手筈まで整えられていた。頭が下がる思いである。よく工事現場で見かけるブルーシートは、地震で壊れた家屋の屋根の応急処置に欠かせない資材だ。実はこれも繊維製品なので、十分な在庫を確保するように業界にお願いして、応じてもらった。


(15)冬物衣類の供出依頼と運搬手段の模索

 次に、東京にある日本アパレル産業協会(現在の一般社団法人日本アパレル・ファッション産業協会)を通じて業界首脳の皆さん方と緊急に連絡をとって、冬物衣類をできるだけ多く救援に拠出してほしいと要請した。するとさすがに業界のリーダーの皆さん達で、話は早く、たった1時間以内でまとまった。その話し合いが終わってから、そういえば、これらの衣料品を東京に集めても、現地に運ぶ手段がないことに気がついた。陸路は駄目だろうから、神戸港から搬入できないかと思い、午後1時すぎ、海上保安庁に電話をしてそういう支援物資を運んでくれないかと頼んだが、「ウチは運送屋ではない。」と言下に断られた。

 そんなことを言っている場合ではないだろうと思ったが、石頭を相手に談判しても時間の無駄だと考え直し、次に防衛庁に電話をした。いろいろとたらい回しにされた挙句に担当課長というのが出てきて、「1週間後なら便がないわけではない。」と言う。「ではその1週間の間に被災者の皆さんが凍え死んだらどうするんだ。」と言ったが、何も答えない。

 震災当日の昼過ぎのことで、まだ被害の全容が全く分かっていなかったし、とりわけ防衛庁の場合は知事からの災害派遣要請がまだなかった時点の話とはいえ、もう少し機転を効かせた臨機応変の対応があってもよさそうなものなのにと思った。しかし、普段からお付き合いのないところだけに、無理だったかと考え直して、自分で何とかすることにした。そこで、業界首脳の皆さんたちに、「こちらはそういう顛末だったが、運搬手段はあるだろうか。」と電話で聞いたところ、その中の1人が「それなら日頃より懇意にしている運送会社に頼むしかないですね。」と仰るので、その線で行くことにした。こうして用意された飛脚マークのトラック第一便はその日のうちに出発し、途中色々と難渋した末に、何とか翌朝の明け方に現地へ着いた。それを聞いた私は、寒空の下で難渋している被災者の方々にやっと届けられたと、心から安堵した。


(16)見ず知らずの国税庁法人税課長の好意

 そうこうしているうちに、業界の首脳のお1人から連絡が入り、「各社に救援のための冬物衣類の供出をお願いしているのだけれど、各社は喜んで協力はすると言ってくれてはいるものの、後日、税務署に売り上げをごまかしたなどと誤解されても困るので、何とかならないものだろうかと相談を受けている。」ということであった。私は、直ちに「分かりました。何とかしましょう。」と答えて電話を切った。

 その受話器を置いた直後は、「こういう話は通産省内ではまず産業政策局企業行動課に持ち込んで、それから主税局の担当課を通じて国税庁に話を持っていって・・・」などと手順を頭に描いていたが、こんな緊急の時にそんな悠長なことはやっておられないと思い返した。そこで直ちに見ず知らずの国税庁直税部法人税課長に直接電話をし、「こういう次第ですが、業界は回答を待っているので、緊急の措置として是非とも検討をお願いします。」と申し入れた。すると、さきほどの防衛庁などとは違って「分かりました。これから部内で相談しますので、少し待ってください。」という好意的な返事であった。通常なら、話を持っていく手順が違うだろうと叱られても仕方のないところである。

 それから約2時間もしないうちに、その田中正昭法人税課長から電話があった。それによると、長官まで了解をとったので、その手順を業界に伝えてほしいとのこと。私は、いたく感激した。その後大蔵省は接待問題などで世間から指弾を受けることになるが、当時の大蔵省には、こういう立派な課長がちゃんとおられたのである。


(17)少しは役に立てたと思うが大きな被害に心が痛む

 その結果をアパレル業界首脳の皆さんにお伝えしたところ、「思いがけずこんなに早く措置していただけるなんて」と感謝され、支援衣料の確保にますます熱が入ったという。その後、私の知る限り、少なくとも十数万着の新品の冬物衣料や下着や毛布などが、この仕組みを使って被災者の方々に行き渡ったはずである。少しは、役に立てたと思う。現在なら、内閣府の防災担当などがもう少し組織的かつ迅速に対応できて、当時の私のような立場の者の出る幕はもうないと思う。しかしその頃は、まだそういう仕組みにはなっていなかったのである。

 これが、私の経験した阪神淡路大震災第1日目の様子である。その日にはそんなにひどい震災であるとは分からなかった。しかしその後、現地の様子がテレビでやっと報道されるようになり、被害の全体像が判明し始めた。私が小さい頃によく遊ばせてもらった綱敷天満宮の社殿などが無惨に倒壊している様子、その近くの商店街が全焼して被災者の方々が難儀している姿などをテレビの画面で見て心が痛み、これは他人事ではないと思った。また何よりも、家や高速道路の下敷きになったり、その後の火事で焼け死んだりした犠牲者の方々の無念さは、計り知れないものがある。こうした皆様のご冥福を改めてお祈りする次第である。


(18)着物の女王コンテスト

 繊維製品課長は、業界の皆さんとの会合や行事などに出席する機会が多いので、おかげさまで良い経験をさせてもらった。中でも得難い経験は、着物の女王コンテストの審査員を務めたことである。これは、和服がよく似合う容姿で教養と人柄を備えた人を選ぶというコンテストである。着物の振興を図るというのが開催の趣旨であり、和装業界としては、この機会に和服を買っていただきたいという願いを込めている。

 北海道から沖縄に至るまでの全国各地に置かれた「きもの振興会」が予選を行い、そこで選出された代表が東京に集まって全国大会の本選に臨む。私は、まず東京きもの振興会の予選に呼ばれた。会場は日本橋三越本店中央ホールで、あの有名な天女像両脇の階段を使って行われる。私を含めた数人の審査員は、この階段直下に控えて、ゆっくり降りてくる東京各地区の代表20数人を見上げて審査するというものである。

 和服を着たお嬢さんたちが順に並び始め、いよいよ始まった。着物だけを見ても、赤、紺、茶、緋色、緑、金銀・・・もうそれだけで、目が眩んできてしまう。そのお嬢さんたちが、この天女像の周囲を、しゃなりしゃなりと一列で歩くのだから、まあその華やかなことといったらない。もちろん三越の店内は黒山の人だかりで、それにライトの光も加わり、熱気がむんむんとあふれてくる。そのような中を、私ども審査員は、後頭部にライトの熱を浴びながら、前を行くお嬢さんたちの顔や歩く様子を見ていなければならない。この中から将来のスターが出るかもしれないという意味では責任重大である。楊貴妃やクレオパトラのような絶世の美女がいたらその人にしようと思ったが、失礼ながらそんな人はいなかった。どれも、隣の家の娘さんのような、現代的な「可愛い子ちゃん」ばかりである。これは困った。では、どうしよう・・・。

 考えた末、結局、その人の発する「オーラ」のようなもの、つまりその人物の持つ総体的な魅力を基準として決めようとした。入社の面接なども、同じようなものだと思う。この優勝者は、これから色々なイベントに出て、魅力を振りまくことになるのであるから、それにふさわしい人でないと・・・と思った。そう決めるとあとは一瀉千里。あの笑顔の魅力的な人と、こちらの現代的な顔の人と・・・、うーん3番目が困ったものの、まあこの人かなと思う人を選んで満点と少し低い点を付け、提出した。さて、その結果どうなったかというと、私が最初に選んだ笑顔の魅力的な人が優勝者となり、私は内心、ほっとした。やはり、見るところはどの審査員も同じであった。

着物の女王コンテスト優勝者、次席、三席御一行への橋本龍太郎通商産業大臣の配慮に感心した。


 それから全国大会でも審査員を務め、私の選んだ3人のうち、2人が1位と2位に入った。その選出が終わり、主催者代表と1位から3位までの方を引き連れて、その当時の橋本龍太郎通商産業大臣にお披露目に行った。すると橋本大臣は、ご高齢の主催者代表を大臣の椅子に座らせるという粋な計らいをされた。私は、偉くなる政治家は一味違うと感心した。


(19)地下鉄サリン事件に遭遇

 平成7年3月20日のことである。私は、QR調査団の出張でアメリカから帰国したばかりで、まだ時差が抜け切らなかった。寝ぼけた頭のまま、いつものように朝8時過ぎ頃に家を出て、地下鉄丸の内線の新高円寺駅に着いた。都心方面に向かう電車に乗ろうとしたところ、ホームはかなりの数の通勤客で混雑しており、どうも電車の到着が遅れているようだった。しばらく待っていたら、ようやくホームに電車が入ってきた。そのとき、駅のアナウンスがあり、「この電車には悪臭が発生していますので、この駅には止まらないで通過します。」という。現にその電車は、相当なスピードでわれわれの目の前を走り抜けて行った。中に乗客の姿は見えなかった。

 さらにしばらく待って、ようやく来た電車に乗り込んだ。車内は大混雑だった。私の乗った電車は、3つ目の中野坂上駅に着いた。電車の窓越しにホーム上を見ると、驚いたことに何人かの人たちがあちらこちらに倒れているではないか。すぐ目の前には、中年の男性が柱に寄りかかって、ようやく立っている姿があった。目を真っ赤にしていて、とても辛そうだ。これは異常な事態が起こっていると気づいた。電車のドアが開くと、中にいる私まで、目がチカチカして目を開けていられない。これが原因か・・・火事か何かで発生した有毒ガスに違いない。そう思ったが、車内は満員だから、身動きもできない。大きな息をしないで、ひたすら目を閉じているだけだ。

 やっとドアが閉まって電車が発進し、都心に向かった。ところが、私が降りる霞ケ関駅には止まらないという車内アナウンスを聞いた。こんなところにまで、有毒ガスの影響が及んでいるとは思わなかった。私は電車がようやく停車した東京駅から山手線に乗り換えて、新橋駅まで行った。そこから地上を歩き始めたが、あちこちでサイレンの音が響き渡り、尋常ではない。

 霞ケ関駅まで来ると、地下鉄入口のあの狭い階段から担架に乗せられた人たちが、どんどん運び出されてきているではないか。そこへ救急車が次々に到着して、手当と搬送にてんてこ舞いだ。緊張した顔の数人の警官がその回りに立って、見物人を寄せ付けないようにしていた。私は、何が起こったのか全く見当もつかなかった。丸ノ内線や銀座線の全線で何らかの有毒ガスが噴出して中毒になったのではないかと考え、地下鉄の換気口を避けながら通産省の建物まで歩いていった。その日の昼のニュースで、本物の毒ガスらしいと分かり、心底ぞっとした。

 その後、これは化学兵器に使われる有毒ガスのサリンで、オウム真理教による組織的なテロと断定された。13人の死者と、約6,300人もの重軽傷者が出たという悲惨な事件である。もう少し家を出るのが早かったら、私も、直接の被害者になったかもしれない。人生、一寸先は闇という気がした日であった。この事件で亡くなった方々や心身に傷害を受けた方に対して、心から哀悼の意を表したい。

 それから時は流れ、オウム真理教の一連の事件で逮捕起訴された教団の関係者のうち、元代表麻原彰晃(本名:松本智津夫)ら13名について裁判の結果、死刑が確定した。そのうち麻原死刑囚ら7人は平成30年7月6日に、残る6人も同月26日にそれぞれ刑が執行され、この凄惨を極めた事件はその幕を閉じた。


(20)谷根千のマンションを衝動買い

 私は繊維製品課長の最後の頃に、その住まいを、杉並区の官舎アパートから、東京の典型的な下町である「谷根千」に移してしまった。床面積は狭いが、私の収入でも何とか買えそうな価格の新築マンションがあったからだ。谷根千とは、谷中、根津、千駄木のことをいい、山の手から続いている武蔵野台地が本郷で尽きた先で、上野の森や不忍池の北側に当たる。

 そのきっかけは、司馬遼太郎の「街道をゆく・本郷界隈」だった。もとより司馬文学のファンであった私は、「坂の上の雲」を読んで日本の行く末を想い、何か自分も国の役に立ちたいと思うようになった。通産省に入省してからも、連日午前様の激務の中で寸刻を惜しんで「竜馬がゆく」、「花神」、「峠」などを読み、幕末維新の世界に遊んだものである。それだけでなく、「街道をゆく」シリーズの本が出れば、欠かさず読んでいた。

 このシリーズの中で、東京が取り上げられているのは、「本郷界隈」と「本所深川散歩・神田界隈」である。あるとき、家内と2人でその辺りをそぞろ歩くこととした。神田お玉ヶ池の千葉道場跡を探し、本郷から湯島に抜ける途中で一葉と逍遙に思いをはせ、谷根千に入って根津権現から鴎外や漱石の旧居跡を見た。たった1日だけの文学散歩だったが、幕末と明治の雰囲気を十分に満喫し、この地域が大いに気に入った。

 とりわけ谷根千では、狭い路地に隣の声が聞こえてきそうなくらいに、びっしりと家や商店が建ち並ぶ。それぞれの家は小さいながらもこざっぱりとしている。江戸以来の濃密な人間関係の名残か、お店の人と話をしても、そこはかとなく人情を感じるのである。生意気盛りの青年の頃には山手の「よそよそしさ」が好ましかったが、中年といわれる年齢になると、こうした「からみつく」ような人間関係もまた、何やら心地よくなってきたのである。そういうわけで、この地区でマンションが売り出された時、ためらいなく衝動買いをしてしまった。

 もっとも、後から振り返って、多少の後悔がないわけではなかった。それは、その後の平成不況で土地の価格は見る影もなく下落し、もっとお手頃な価格のマンションが、東京の中心部に立ち並ぶようになった。それでも家内と語り合っている。「都心にこれほど近く、人情味があって、しかもこんな眺望のよいところはないよ」「そうよ、そう思わなくっちゃ」と。

 ところが、世の中というのは本当に面白いもので、それから20年ほど経ち、新型コロナウイルス対策として導入された未曾有の金融緩和政策により、都内の不動産価格が急騰した。その結果、驚いたことに、25年物の私の古マンションの部屋をもし現時点で売るとすると、買った時と同じ値段で売れるそうだ。つまりは四半世紀分もの家賃がタダになったことを意味する。現に同じマンションで、そのようにして売った人が一人いる。

 私はもちろん、売る気はさらさらない。というのは、ドア・ツー・ドアで大手町の法律事務所にはわずか15分、霞ヶ関の経済産業省までだと20分という交通至便のロケーションにあるからだ、加えて私が最も気に入っているのは、近くの根津神社から湯島天神、神田明神を参る約1時間の三社巡り散歩コースである。それぞれに趣があるが、特に根津神社は、380年前に建てられたという楼門や本殿にはえも言われぬ風格がある。普段はあまり人がいないが、4月になるとつつじ祭りが開かれて多くの人々が訪れ、あたり一面が赤や白やピンク、それに紫色の絨毯が敷き詰められたようになって実に華やかだ。

根津神社


根津神社つつじ祭り


根津神社つつじ祭り


根津神社楼門


12.日本貿易振興会企画部長

(1)日本貿易振興会とアジア経済研究所との統合

 私は、繊維製品課長を2年弱務めた後、平成8年5月17日、日本貿易振興会本部企画部長に任命された。46歳になっていた。辞令をもらいに行くと、通常の企画部長としての業務に加え、特命事項としてアジア経済研究所との合併問題を担当してほしいといわれた。いずれも特別法によって設立された特殊法人なのであるが、行政改革の一環として合併が決まっているので、それを円滑に進めるのが任務というわけだ。

 そんな統合ぐらい、2つの特殊法人法の業務範囲の条文を並べて、附則で経過措置を書くだけですむのではないかと思った。しかし、それは理屈の上での話で、現実には歴史も出自も業務内容も、そして何よりも職員の性格も異なる組織の統合には、いろいろと障害があるものである。いざ内容を調べてみると、これはなかなか一筋縄ではいかない課題であることがよく分かった。

 日本貿易振興会(略称は、JETRO。現在の日本貿易振興機構)は、昭和33年、日本貿易振興会法に基づき特殊法人となった機関である。主に先進国に在外ネットワークを張り巡らせて、在外日系企業の支援、海外での見本市・展示会、海外経済事情に関する情報の収集提供、更にはその時々の政府の通商貿易政策のニーズに応じた事業を行っている。例えばその時代には、大きな貿易黒字の削減が喫緊の課題となっていた。そこでこれを少しでも減少させるため、海外製の部材を多く使った住宅等の輸入促進事業を大々的に展開していた。気風として、前向きで明るく、新しい事業にどんどん取り組む商社マンのようなところがある組織である。

 これに対してアジア経済研究所(略称は、アジ研)は、旧満鉄調査部をモデルにしたともいわれる財団法人が昭和35年に特殊法人化したもので、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ、中東などの地域・開発研究が主体である。気風はいうまでもなく研究者そのもので、各国に派遣する研究者には必ず現地語の習得を求め、海外における現地調査を通じて現地の生の資料を収集することを重視するという極めて学究的な組織である。

 統合話が持ち上がったときの両者は、水と油というと言いすぎかもしれないが、それと似たようなものだ。私が着任したときには、統合に関する色々な考え方が混在してそれがまた他方の疑心暗鬼を呼び、このまま放置しておくと、収拾がつかなくなるところだった。しかも統合と同時にアジ研は、国の特殊法人の地方移転の方針に従い、それまで30数年間その居を構えてきた市ヶ谷から、千葉市の幕張新都心へ移転しなければならないという大きな問題も抱えていた。


(2)対等合併で平等主義が原則だが例外も

 統合といっても、大が小を呑み込むという印象を持たれたらうまくいくはずがない。対等合併で平等主義が基本だが、できれば大きな組織が譲る形の方が受け入れやすいだろうと考えた。それにつけても、具体的にどのような問題があるかをよく検討する必要がある。まずJETROの側で各部の若手からなる委員会を作り、どんな細かいことでもよいからと、統合に関する効果やビジョンと、統合に伴って懸念する事項を出して議論してもらった。すると、前向きの提案が幾つか出てきた反面、問題点も色々と挙げられ、こうした項目を一つ一つ解決していった。

 アジ研側でも同様の検討を行っていただいたところ、とりわけデメリットとして、職員の側で統合後の給与体系を懸念する向きが多かった。JETROの給与のグラフを描いてみると、若い頃はあまり伸びないが、40歳頃からだんだん伸びてきて、50歳を越す頃から上向きのカーブが急角度になってグンと増える。つまり、普通の国家公務員と同様の年功序列型である。

 これに対して、アジ研の給与をグラフにしてみると、驚いたことに40歳までは急カーブで伸びていくのに、それを過ぎたらみるみる鈍化してそれ以降はほとんど伸びない。JETROとはまるで対照的である。これはなぜかと聞いたら、若い優秀な研究者を確保するには、そうせざるを得ないという答えが返ってきた。なるほど、そうであるなら今更これを変える訳にはいかない。そこで、これだけは何でも平等主義を止めて、給与体系を事務職と研究職に分けることにした。

 その他膨大な項目を逐一精査して地ならしをし、統合のための法律案を作った。アジア関係の学会の一部で統合に反対の動きも見受けられたが、法律案は国会を通り、平成10年7月に、めでたく統合にこぎつけた。アジ研が幕張新都心へ移転したのは、その翌年のことである。ちなみにJETRO本体も平成15年10月に独立行政法人日本貿易振興機構となった後、平成17年1月には本部をそれまでのアメリカ大使館前から、港区赤坂のアーク森ビルへと移転した。


(3)東回りで世界一周

 その一方、企画部は世界各地の動向を把握して、事業の実施と立案に生かさなければならない。そのための海外出張も多く、平成9年は、3月にフランス・英国・チェコ・ロシアへ出かけたと思ったら、7月にはマレーシア・インドネシア・ベトナム・中国へと出張した。とりわけこの時は、マレーシアのクアラルンプールで開催したJETRO主催の産業見本市の現場で、マハティール首相と再会できたのは、良い思い出である。9月には、アジア貿易振興フォーラム出席のため、豊島格理事長とともに、インドのゴアとニューデリーへ行った。

 平成10年2月からの海外事務所運営の打ち合わせは大変な旅だった。アメリカ・アルゼンチン・南アフリカ・シンガポール・タイへ出張したのだが、海外事務所側の日程の都合でまずアメリカのニューヨークへ飛んだ。昼前に成田を発つと、ちょうど昼夜逆転しているのでまた昼前の同じ時間に着く。そこで午後からずっと夜までニューヨークJETRO事務所と会合を重ねる。これでは、明け方まで起きているのと同じである。ところがその晩には再び機中の人となって、今度は夜行便で南半球のアルゼンチンに向かった。

 この夜行便というはなかなか眠れないもので、ブエノスアイレスに着いた時には、丸2日間も寝ていないくらいに感じたし、事実そうだったかもしれない。そこから更に南アメリカのヨハネスブルクとプレトリアに立ち寄り、そのアフリカ南端の地から、インド洋を東に向けて一気に飛んだ。それからシンガポール経由でタイ事務所に立ち寄った後、ようやく成田に帰り着いた。つまりは、東回りで世界一周をしたことになる。いつも睡眠不足気味で参ったが、帰国して何人かの経験者に聞くと、世界一周は、西回りで行くよりも東回りの方が、やはり疲れるそうだ。


(4)南アフリカの歯医者

 この東回り世界一周の思い出の一つは、南アフリカで歯医者にかかったことである。発端は、アルゼンチンで首都ブエノスアイレスから北に向かう高速道路を走っていたときのことである。お昼になったので、サービスエリアで食事しようとした。ところがちゃんとしたレストランがなくて、やむなく売店でサンドイッチを買った。開けてみると、ビーフ・ステーキがそのままの姿でパンに挟まれている。日本ならナイフとフォークを付けてくれるところだが、あいにくそんな物はない。だから、周りの人がしているように、そのままかぶりついた。その時、前歯の中に1本ある差し歯に違和感を覚えたが、特にそれ以上のことはなく、仕事を済ませた。

 その日の夕刻、空港へ行って、南アフリカ行きの航空機に搭乗した。機内で夕食を食べていたところ、あろうことかその差し歯がポロリと抜けてしまった。これは困ったと思ったが、仕方がない。その抜けた歯を持ってプレトリアの空港に降り立ち、迎えに来てくれた現地の運転手に相談した。その黒人の運転手は、「それなら、良い歯医者がいる。案内しましょう。」と言ってくれた。

 実は、非常に心配なことがあった。というのは、当時はアフリカ発祥のエイズ(後天性免疫不全症候群)が爆発的に流行し始めた時期で、アメリカではエイズに罹った歯医者から患者に伝染した事例があったからだ。エイズに罹ったら最後、特効薬などないので、やがて死ぬしかないと言われていた頃だ。そういうわけで、どんな歯医者に連れていかれるのか、とても気になった。万が一、あまり衛生的とはいえないような病院や診療所だったら、すぐに逃げて帰るつもりだった。

 案内された歯科診療所は、サントンという新興住宅商業地区にあるショッピング・モールの2階にあった。驚いたことに、ショッピング客はもちろん、待合室の患者の大半は、白人だった。黒人のマンデラ大統領が誕生してアパルトヘイトが終わり、それから4年も経っているというのに、こうして未だにはっきりと白人の世界が続いているのに、いささかショックを受けた。

 私の順番が来たので、診察室に入ってその差し歯を見せた。すると先生は、「ああ、これか。分かった。心配するな。今戻してあげるから。」と言ってくれて、新しいゴム手袋をはめて治療に取りかかった。つまり、患者ごとにゴム手袋を取り替えているというわけだ。これを知って、私は大いに安心して治療台に横たわった。治療は、歯の土台に歯科用セメントをたっぷり塗って、差し歯をグイッとばかりに押し込んだだけだったが、その後10年以上も長持ちした。

 帰国後しばらくして、秋山收先輩にそんな事があったと申し上げた。秋山さんは若い頃、南アフリカの日本大使館に書記官として勤務されたことがあったからだ。すると秋山さんは、「南アフリカの医療水準は高いのだよ。何しろ、世界で初めて心臓移植をやった国だからね。」とおっしゃった。私は、納得するとともに、改めて安心した。


(5)ゴルフからテニスに転向

 私は、マレーシアで勤務していた頃から、ゴルフを本格的に始めた。帰国してからも、企画部長を務めた頃までの約10年間余り、休みの日といえば、ゴルフに熱中したものである。その時代は、平日でも真夜中まで働き、時には明け方にまで及ぶという過酷な勤務を続けている時だった。そういう中、家族との語らいのほかは、ゴルフが唯一の息抜きの場となっていた。「よし、週末はゴルフだ」と思っただけで、心は緑のじゅうたんを歩いているような気分になり、目の前の修羅場を忘れてしまうことができた。しかも都会の喧噪を離れて、青い空の下、緑また緑のコースを回る快感は、何ものにも代えがたいものである。

 スコアは、始めた当初はひどいものだった。それでも石の上にも三年とはよく言ったもので、ゴルフに熱中すればするほど着実に良くなってきた。私のショットは、距離はあまり飛ばないが、フェアウェイでは、ともかく真直ぐボールを飛ばすように心掛けていた。だから、スコアが大崩れすることはあまりない。問題はグリーン周りだったが、これに慣れてくるとパットも良くなり、相乗効果でコンスタントに90台前半のスコアで回れるようになった。幼少時に大病して以来、運動の経験がほとんどなく、そもそも自分は運動神経が鈍いのではなかろうかと常々思っていただけに、こうなると、本当に面白い。まるで、新たな人間として生き返ったような気さえした。

軽井沢でゴルフ


 ところが、私は40歳代半ばを過ぎた頃からゴルフを次第にしなくなり、代わってテニスをするようになった。ゴルフをしなくなった理由は幾つかあるが、まずは、朝早く起きてゴルフ場に行くのが、体力的に辛くなってきたことだ。マレーシアでは、私のゴルフ場は家から15分ほどでいつでも行けたし、家内ともよくプレーをした。ところが、日本に帰ってきて私と家内がともに会員となったゴルフ場は、茨城県の霞ヶ浦近くにあったから、朝早く起きなければならないし、道が混んでいると着くのに2時間近くかかる。しかも、会員とはいえ、料金がとても高い。

 その点、テニスコートは、当時住んでいたアパートの近くにある。だから、朝ゆっくり起きても十分に間に合うし、家内や近所の方たちと気軽に楽しめる。スポーツとしても、ゴルフは自己との戦いだが、テニスは対戦型である。だから、単にボールを上手く打つ技術だけでなく、いかに相手を出し抜くかという戦術も面白い。その魅力の虜になってしまった。


(6)ハーフのベスト・スコアが出て達成感

 ゴルフを止めたもう一つの背景は、ハーフのベスト・スコアである38が立て続けに2回も出て、それなりに達成感があったことである。この2回目のときは、まさに劇的だった。8番ホールまでバーディが1つ、ボギーが2つ、ダブルボギーが1つという出入りの多いゴルフで、最終の9番ショートホールまで来た。これがパーなら39になる計算で、そうすると30台に収まる。ところが、ティーグラウンドから見る限り、パーを取るのは非常に難しいと思った。距離は150ヤードと手頃ながら、やや打ち下ろしとなっていて、追い風である。受けグリーンでその先は深く落ちているから、少しでもオーバーするとトリプルボギーになってしまいそうだ。しかもピンの位置はグリーンの左端で、その脇にはもう崖が迫っている。

 私が7番アイアンで放った第1打は、距離はぴったりで、グリーンに乗った。しかし、無意識に左の崖を避けたのか、ピンとは反対側のグリーン右端に乗ってしまった。ピンまで20ヤードもある長いパットが残る。しかも、大きくフックをかけて打たなければならない。どの程度、膨らませて打つかが問題だ。「これは考えても仕方がない。感性のままに打とう。3パットとなってもやむを得ない。」と覚悟して、強めに打った。

 すると、右方向にスルスルと出たボールは左へ大きく曲がって、あろうことか、そのまま吸い込まれるように直接カップインしてしまった。まるで奇跡としか言いようがない。佐々木信夫さん(後に特許技監)など同じ組の方々はもちろんのこと、私自身も、これには驚いた。


(7)ボールが飛んで行った先の落ち際が見えなくなった

 普通ならここで気を良くして、もっと良いスコアを目指すところである。しかしその頃、私は、内閣法制局参事官として、仕事柄たくさんの法律書や文献を読み込む必要があった。それを数年も続けていると、私の目は文書を読むのに順応して近視気味になってしまい、その結果、ゴルフを楽しめなくなってしまったのである。

 どういうことかというと、例えばある時、グリーンそのものが池の中の島となっているショートホールに差し掛かった。私の放った第1打のボールは、グリーンに向かって真っすぐに飛んで行った。手応えは十分で、私はこれはグリーンに乗ったと思った。思わず、口元が緩む。同じ組の人たちもキャディさんも、私のボールの行方を追いかける。

 ところが私は、途中でボールを見失ってしまった・・・いや、ボールが突然見えなくなってしまったのである。そしてすぐに、回りの人が「ああーっ」と悲鳴に近い声を上げたかと思うと、私は、ボスッと地面に当たる鈍い音に続いて、ポチャンという水に落ちる音を聞いた。どうやらボールは島には届いたものの、跳ね返った方向が悪くて、池に落ちてしまったらしい。 その日は、曇り空でボールが見にくかったとはいえ、私には、ボールが池に入ったことより、肝心のときに自分のボールが見えなかったことが悔しくてならなかった。

 これではゴルフをしても面白くないと、私は眼鏡を作り、その眼鏡をかけて勇んでゴルフ練習場に行ってみた。ところが、眼鏡をしていると頭は痛くなるし、ボールとの距離感が合わないしで練習どころではなく、球筋やフォームまで滅茶苦茶になってしまった。そこで、どうも私には眼鏡は向いていないと思うようになった。これに対し、テニスボールなら、色が黄色くてサイズも大きいから見やすい上に、狭いコートの中でそれを打ち合うから、テニスでは眼鏡をかける必要はない。だから、ベストスコアが出たことを潮に、ゴルフはもう十分に楽しんだと思って、テニスに乗り換えることにしたのである。


13.立法学研究会

(1)学者と実務家が一同に会して研究

 大森政輔内閣法制次長(当時)から、鎌田薫早稲田大学教授とともに『立法学研究会』というものを立ち上げるので、参加しないか。」というお誘いを受けた。平成6年も押し迫った頃のことである。それまで立法を対象とする研究といえば、立法過程に焦点を置いて行われたものしかなかった。現実の立法を体系的に研究してこれを理論化し、今後の立法に効果的に生かせるようなものは全く見当たらない。そこで、憲法、行政法、民法、商法その他の多分野の研究者と、行政府において各種の立法作業に関与した経験を有する実務家が一同に会し、共に研究しようということになったそうだ。

 確かに立法学という学問の分野があるとは聞いたことがない。私は、もともと学究的なことに興味がある方だし、新分野を自ら開拓するのも面白そうだと思って、喜んで参加させていただいた。会合は、社団法人商事法務研究会松澤三男編集長(当時)のご好意で、毎回、その会議室を使って行われた。メンバーには、このお2人のほか、学者側には、宇賀克也東京大学教授、長谷部恭男東京大学教授、上村達男早稲田大学教授らが、行政官側には法務省の寺田逸郎氏、自治省の松永邦男氏、衆議院法制局の橘幸信氏をはじめとする各省の立法担当者など、錚々たる方々がおられた。


(2)各界のトップを輩出

 研究会は、各人が順番に研究成果を発表し、それを議論するという形で進んでいった。テーマは、政策立案過程や国会審議の実情と問題点、法制度・立法技術の整備・体系化などである。立法実務面の経験とそれを客観視する学問的視野との融合を目指して、一流の学者と議論するのは、とても勉強になった。学者側も実務家の発想が面白かったようで、話は弾んだ。このようにして、研究会は10年余の長きにわたって続けられ、この研究成果は、平成18年に「立法学講義」(商事法務)という書物に取りまとめられた。

「立法学講義」(商事法務)


 ところで、この研究会はただ長く続いただけではない。驚くべきことに、そのメンバーの中から寺田逸郎最高裁判所長官大森政輔内閣法制局長官鎌田薫早稲田大学総長(これらお三方は、いずれも当時の肩書き)、宇賀克也最高裁判所判事橘幸信衆議院法制局長という各界のトップを次々に輩出した。また、私自身も内閣法制局長官・最高裁判所判事となった。これは単なる偶然か、それとも共に研究して切磋琢磨したおかげか、あるいは元々力量のある方々が揃っていたことによるものか、それは定かではないが、いずれにせよ特筆すべきことだと考えている。

(第4章は、令和3年4月8日記)

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第5章 子育て時代

掛け合い漫才よろしく会話して大声で笑い合ったりする二人の子供


1.幼児の頃は運動と栄養と睡眠が大事

(1)幼い娘と息子の寝顔は天使の如く

 幼児は、とても可愛くて、まるで天使のようだ。特に自分の子供だと、愛らしさもひとしおである。仕事で遅くなって、心身ともにくたくたに疲れて帰ってきたときなど、2人の幼な子の寝顔を見比べて、幾度、癒されたか分からない。いにしえの万葉集の「銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」という山上憶良の歌は、正に至言である。

 私の2人の子供は女と男の年子だから、発達の状況もさほど変わらない。やっと歩けるようになった頃から、日がな一日中、2人で組んずほぐれつの取っ組み合いを演じたり、あるいは、掛け合い漫才よろしく会話して大声で笑い合ったり、更には、周りにご迷惑だからと親が止めるのも聞かずに、所構わず追いかけっこをしたりしていたものである。

 日中は、こうして飛び跳ねる幼子たちの世話に追われて、とてもその将来に思いを馳せるどころではない。ただ、夜中に2人の安らかな寝顔と布団からはみ出ている小さな手足を見ながら、家内と「この子たちは、将来、一体どういう職業に就いて、どんな人と結婚するのかねぇ。」などと話し合っていたことを、折に触れて今でも懐かしく思い出す。


(2)幼児の水泳教室

 子供が小さい頃、大抵の親がやることは、習い事をさせることである。私の家も、幼稚園に通う前の3歳と2歳のとき、家内の方針で水泳教室に通わせた。教室が開かれている間、家内は子供の相手をする必要がないからひと休みできる。また、水泳そのものが、体力の強化と水難の防止になり、皮膚を鍛えてアレルギーを防ぐ効果もあると考えたからだ。

 そこは水泳教室といっても、赤ん坊や幼稚園児をプールの水につけて、遊ばせているようなものだった。それでも通わせて1年ほど経つと、4歳になった娘は、一応、バシャバシャと水しぶきを立てて泳げるようになり、あの長い25メートルプールを往復して、親を大いに喜ばせてくれた。

 ところが3歳になったばかりの息子の方は、まだ泳ぎを習うというよりも、水遊びの延長のようなものだった。例えばある時、目の前で犬かきをしていたと思ったら、次の瞬間、両手をだらりと垂れてプールの底に沈んでいってしまい、なかなか浮き上がって来ない。これは大変、溺れてしまったのではないかと私が飛び込もうとすると、プカリと浮いてきて、ニヤリと笑ってまた犬かきをはじめる。息子がプールサイドに戻って来てから、「いったいどうしたの?」と聞くと、茶目っ気たっぷりに「死んだふり―。」などと答える。これが3歳の子の言うことかと、呆れてしまった。でも、この遊び半分の水泳を通じて、当初の目論見通り、2人の子供の身体は健康で強靭なものになったと思っている。


(3)家内は体力、私は背丈が子育て方針

 家内の子育て方針は、将来に備えて、ともかく体力を付けさせることだった。昼は太陽の光が燦々とふりそそぐ公園の砂場などで自由に遊ばせ、それが終わると今度はプールに連れていって鍛えるというスタイルである。おかげで2人の子供は、喘息やアレルギーなどの病気とは全く無縁だったし、風邪をひくようなことも滅多になかった。

 一方、私の子育て方針は、外国人に負けない体格作りである。私自身の背の高さは176センチで、同年輩の日本人に比べればかなり高い方だ。しかしそれでも、特許その他の国際交渉でとりわけアメリカ人やドイツ人などと渡り合ったりすると、背の高さが首一つ違って、その分だけ見上げるような形になるので嫌だった。だから特に息子には、背が高くなってほしかった。


(4)オランダ人のように背を高くするには

 それには、どうすればよいか・・・思い出したのは、オランダで見た干拓村である。同国では、海や干潟を長い間かかって干拓し、現在ある国土を作ってきたが、そのときの干拓民の住まいだ。17世紀初頭のもので、日本の農家を思い出すような、つましい建物である。その寝室にあった当時のベッドを見て驚いた。縦の長さが160センチくらいと、ごく小さかったからだ。つまりその頃のオランダ人の背丈は、せいぜいその程度だったのである。現在のオランダ人の男性は190センチ近い人が多いから、この数百年の間に30センチほども伸びたということになる。

 なぜだろうと考えてみると、酪農と漁業しか、思いつかない。つまり、食料が豊かで、とりわけ牛肉や乳製品や魚を数多く口にしたからに違いないと思った。そこで、私たちの子供には、これらを中心に、栄養たっぷりでバランスの良い食事を摂らせることにした。小中学校時代には、毎日、牛乳を水代わりに飲ませ、付け合わせの野菜とともに、牛肉、魚、バター、チーズの類をどんどん食べさせた。その頃の牛肉はかなり高価だったが、子供の体格作りのためと思えば安いものだ。私の給料が手取りで月20万円ほどだった頃、気が付いてみるとそのうち15万円を近くのスーパーで費消し、それもほとんどを食料品に使っていた。家内と、「我が家のエンゲル係数は75%、エンゲルならぬエンジェル係数はたぶん50%近いね。」と笑い合っていたものである。


(5)十分な睡眠とストレスフリー

 加えて、十分な睡眠とストレスのない環境も大事である。子供の成長ホルモンは、寝ているとき、特に寝始めのときにたくさん出るという。だから、睡眠不足では、背が伸びないと思ったので、小学校高学年になるまでは、毎日必ず午後8時台には寝るようにさせた。

 それに、躾や危険防止で必要なときを除いて、ガミガミ怒ったり叱ったりせず、「早く、早く」などと急かせることもせずに、子供に無用なストレスを与えないようにした。加えて小中学生の時代は、勉強より、外遊びを優先させ、習い事や塾には行かせないようにした。長じて子供たちは、家内と私の目論見通り、大きな体格と強靭な体力を持つようになった。これは、小さい頃からのこうした日頃の心掛けが功を奏したものと信じている。


2.家族4人で世界一周旅行

(1)まずヨーロッパ一周のバスツアー

 2人の子は8歳と6歳になった。普段から水泳で鍛えていて元気だから、長期の旅行にも耐えられるだろうと思い、家族4人で世界一周旅行に旅立った。昭和59年7月から8月にかけての1ヶ月間、そのときに住んでいたマレーシアを出発してヨーロッパ、アメリカを旅行し、成田空港に帰国した。そのまま日本に1ヶ月間滞在し、再び成田からマレーシアに直行したので、西回りで世界一周を完成させたことになる。

ロンドンに到着してホテルに入る


 クアラルンプールからロンドンに向かう途中、機中から見下ろすと、地図そのままの形のアラビア半島が見えた。当たり前だが、なぜか感激した。とりわけ地上の赤っぽい土の色が印象的だった。ヒースロー空港に到着し、まずロンドンで、大英博物館、ロンドン塔、バッキンガム宮殿の衛兵の交代式を見物した。特に衛兵の交代は、あれだけの人数の衛兵が音楽付きで行進したかと思うと、騎馬隊もありなかなか迫力があった。

バッキンガム宮殿衛兵の交代


バッキンガム宮殿衛兵の交代


バッキンガム宮殿衛兵の交代


 それからロンドンを起点とするヨーロッパ一周のバスツアーに参加した。参加者の国籍はまちまちで、アメリカ、イギリス、オーストラリア、バーレーン、マレーシア、日本、そしてガイドの女性がドイツだった。


(2)アムステルダムで盗難に遭う

 ドーバー海峡から船でアムステルダムに到着し、街中を散歩した。真夏の7月半ばで日中だというのに、寒くて体がゾクゾクする。ふと街頭の温度計を見たら摂氏17度となっている。いつもは年間を通して平均気温が28度の常夏の国に居るから、これでは寒いわけだ。そこで、デパートに行き、ジャンパーやコートを買おうとした。家内や子供たちのものは簡単に見つかった。問題は私のもので、男性用コーナーに行くと袖が長すぎて指先まで隠れてしまう。腕の長い現地の男性を標準に仕立ててあるから、日本人の体型には全く合わない。これには困り果てた。考えた末、試しにジュニア・コーナーに行ってみたら、やっと私の袖丈に合うジャンパーを見つけて買うことができた。夜、それを着て運河巡りの船に乗り、ライトアップされた風景を楽しんだ。

 翌朝、事件が起こる。早朝に、フロントに預けた貴重品を取りに行った。ところが、あろうことか、フロント係の背中にある金庫から、私が預けた物が全部消えていたのである。さすがに私は自分のパスポートは身に付けていたが、家内と子供たちのパスポート、航空券、それに現金が日本円で100万円余り、跡形もなく無くなっていた。特に現金が問題で、時間がなくてトラベラーズチェックに変えないまま旅行に出てしまった。悔やんでも遅い。直ちに行動しなければ・・・フロントを通じて支配人に無くなったものを通告し、その足で警察に行った。


(3)支配人の半額補償提案を断固拒否

 バスツアーは、そのまま出発してもらった。この際、やむを得ない。我々一家だけが残り、関係先を回るため、タクシーを1日雇った。事情を聞いたその運転手さんが深く同情してくれて、親身になって世話をしてくれた。まずアムステルダムの警察に行って盗難届受理書を書いてもらったとき、担当の警察官は、「毎日1件は、こういう盗難事件が起こるけれど、それにしてもホテルのセーフティ・ボックスから無くなるというのは珍しいね。」と驚いていた(これはその当時の話で、それから直ぐにホテルのセーフティ・ボックスは危ないということが常識になり、現金はなるべく持たないでクレジット・カードで支払うというのが一般化していった。)。その足で日本領事館に行き、パスポート再発行の手続きについて、教えていただいた。家族はその間、写真館でパスポート用の写真を撮ってもらった。まるで明治の開明期の肖像画のような、いかにも古風な写真が出来上がった。そして私はホテルに戻り、支配人と会った。

 支配人によると、金庫を監視していたホテルの受付係が、夜間に15分ほどその持ち場を離れたことがあり、その間に盗まれたものらしい。支配人は「現金は、あなたの言う額の半額で手を打とう。どうだ。」などととんでもないことをいう。私は断固拒否して、代わりになぜその金額を持っていたかを詳しく説明した。「我々は世界一周旅行の途中であり、今はまだ始まったばかりで、あと2ヶ月ほど旅行して回るから、これくらいの現金は必要なのだ。ほらほら、この通り。」と旅行日程を見せて、支配人の眼の前で積算したりもした。押し問答を2時間ほど続けた後、ではまた翌日に話し合おうということになった。

 次に、シンガポール航空のアムステルダム事務所に行き、航空券の再発行の手続きをとった。背の高い金髪のオランダ人女性係員が、この航空会社独特のサロン・ケバヤの制服をぞろりと綺麗に着こなしながら、とても親切に対応していただいたので、大いに助かった。


(4)パスポートと航空券が再発行されて残るは現金の取戻し

 運転手さんが気を利かせて、その行きつけの中華料理店「蓮華酒家」に連れて行ってくれた。そして一緒に食事をしたが、元気をなくしていた我々にはまさに旱天の慈雨で、とっても美味しかった。

 それからアムステルダムを出発して高速道路で首都デン・ハーグに行き、日本大使館で改めて事情を説明し、パスポート再発行の手続きをした。ハーグでは、その支配人が自分と同じ系列のホテルに無料で泊めてくれた。ホテルの裏手が国会議事堂で、非常に便利の良い所である。翌日午前中、家族3人分のパスポートが再発行された。午後にはシンガポール航空の航空券の再発行も受けた。残るは、現金を取り戻すだけだ。

 午後3時にそのアムステルダムのホテルに戻り、支配人と再交渉した。現金の盗難は保険の対象外だとさんざん渋っていたが、結局、私の言い分が通り、満額の支払いを受けた。支配人が、私の眼の前でギルダー札(当時のオランダのお金)を一枚一枚数えて積み上げ、最後に「何てことだ、これで1ヶ月の当ホテルの利益が吹っ飛んだ。」とつぶやいていた。支配人には申し訳ないが、自然にこみ上げてくる笑いをかみころすのに困った。

 これで問題は完全に解決した。あとは、どうやってバス旅行の一行に追いつくかだ。日程を見るとドイツを通って、もうスイスまで行っている。飛行機と鉄道で追いかけられることが分かり、翌日午後の切符を予約した。その日の朝は時間があったので、マドローダムという子供連れの家族が楽しめる遊園地に行ってみた。オランダ各地の名所を模した実に精巧なミニチュアの町で、建物の昔ながらの古びた色まで出すという凝りようだ。海岸の日光浴の風景もあり、よくよく見たら、その中にはちゃんと、ヌーディストもいた。


(5)スイスでバスツアーの一行に合流

 飛行機でアムステルダムからスイスのチューリヒに行き、そこから鉄道でルッツエルンに向かった。途中のスイスの山並みは誠に美しく、遠くに連なるアルプスの山頂には雪があり、近くの山の斜面には牛や羊の群れが草を食み、空気は実に清々しい。午後8時近くに、列車は湖の町ルッツエルンに到着した。湖の畔に行くと、白鳥が2羽どこからともなく現われて、私の子供たちにまとわりついていた。ホテル近くの広場では、最新のファッションに身を包んだ金髪の若い女の子が、ローラースケートをしていたので、皆でうっとりと眺めていた。近くの店で、娘にアルプスの少女風の服を買ってあげたら、意外によく似合う。ホテルでは、バス旅行の一行に拍手で迎えられて、無事に合流できた。

スイスのルーツェルンの白鳥


 一行の中には、バーレーンの外務省高官一家がいて、そのお父さんはともかく型破りな人だった。バスの中では飲食が禁止されているのに、運転手の真後ろに座って缶ビールを飲もうとする。しかし、うまく開けられないので、何と運転手にドライバーを借りて開ける始末だ。そのほか煙草も吸うし、これで本当にイスラム教徒なのかと思ったほどである。しかし、喜捨(ザカート)のつもりなのか、気前の良さは天下一品で、ドライブインに入るといろいろな品を買い込み、自分の家族はもちろん、バスのほかの乗客にも惜しまずに分け与えていた。その息子の男の子は、目がぱっちりして可愛かったが、私の息子に言わせれば「意地が悪くて」、全然気が合わなかったようだ。中東のような激動地に生を享けた子と、日本のようなごく平和な地に生まれた子との違いだと思った。

スイスのアルプスの少女風の服


息子とアラブの子供



(6)サンマルコ寺院はまるで浅草寺

 我々を乗せたバスは、オーストリアのインスブルックを経由し、ブレンナー峠を越えて一路南へと向かった。もうその日の内に、文字通り雪の国から真夏のイタリアに入り、水の都ベニスに着いた。アルプス山脈の北では金髪の大男ばかりが目立ったが、南に下ってイタリアに入るに連れ、我々とさほど変わらない黒髪の背の低い人が多くなったように感じた。ベニスでは、ベネチィアン・ガラス細工を見たあと、水上バスでサンマルコ寺院に到着した。境内には鳩もたくさんいるし、その雰囲気はまさに浅草寺と同じだった。

ゴンドラを漕ぐ娘


ゴンドラを漕ぐ息子


 桟橋からベニス名物のゴンドラに乗ったが、写真で見るほど優雅ではなく、特に川のドブのような臭いが鼻についた。それでも、ゆらゆら揺れながら進んで行くと、中世の雰囲気があって、なかなか良い。子供たちも、親切な船頭さんに櫓をこがせてもらってご機嫌だ。翌日、バスでローマに到着した。市内を観光して廻ると、街のあちらこちらに、コロッセウムやフォロ・ロマーノなどのローマ時代の遺跡がある。よくこれだけのものが残っていると思うし、加えてそれらが現代の町と、ごく自然に調和して共存しているものだと感心した。

コロッセウム前で


食事中に楽団が演奏


 バチカンのサン・ピエトロ寺院に行ってみた。入り口にはスイス人傭兵がいて、なるほど世界史で習った通りだと思った。バチカン美術館、スペイン広場と見て回り、トレビの泉では家内が後ろ向きにコインを投げ入れたが、実はまだ再訪していない。

 ローマからフィレンツェに着き、小高い丘から市内を眺めると、まるで中世の都市を見ているようだった。フェラガモで、家内へプレゼントするために真っ青なハンドバッグを買い求めた。ところが、帰ってからマレーシアの強烈な日光を浴びたせいか、数ヶ月も経たない間に退色してしまったのは残念だった。次いでピサに着いたが、斜塔は、本当に目に見えて傾いていた。下から見上げてから中に入ろうとしたけれども、あいにくリラを使い果たして入れなかったのは、今なお口惜しい思い出だ。


(7)モナコのカジノでオーストラリア人夫妻が大変身

 イタリアから海岸に沿った高速道路を西へ走り、フランスのニースを目指す途中、モナコ公国に立ち寄った。おとぎの国の城のような大公宮殿を見学した後、カジノを見に行った。すると、同じバスに乗っていたオーストラリア人の夫婦が入り口にいる。

 いつもはよれよれのジーンズにカウボーイハット姿のおじさんが、どうしたことか、見違えるようにパリッとした真っ青のブレザーを着込んでいる。そしてこれまた素敵なピンクのイブニングドレスに身を包んだ奥様の手を腕に巻き、あたかも映画の主人公のように2人で颯爽とカジノに入って行ったのには、驚いた。

 翌朝、おじさんは再び元のくたびれたジーンズ姿に戻っていた。しかも、はかばかしい顔をしていなかったから、おそらく、賭けはうまくいかなかったのだろう。


(8)リヨン駅でフランス映画のような場面

 フランス南部のニースを経由して、内陸のリヨンに着いた。連日のバスの旅で子供たちが疲れていたこともあり、リヨンから、TGV(フランス新幹線。現在の愛称は、inOui)で一気にパリへ行くことにした。ところが、リヨン駅の窓口の係員は、英語を全く解さない。その人を相手に、私は、かろうじて知っているフランス語の単語を並べて四苦八苦していた。すると、まるでフランス映画の一場面のように美しい若い女性が忽然と現れ、忽ち英語の通訳をしてくれたので助かった。

リヨンからTGVに乗車


 翌日乗車したTGVは、重厚な日本の新幹線と比べると、車両はかなりの軽量タイプと思えたが、時速260キロメートルは出るという。しかも、車両内部のデザインは、赤や青の斬新な色使いが特徴的で非常に洒落ている。いかにもフランスらしいと思った。列車に乗ると、発車ベルもなく、いつの間にか走り出した。どんどん通り過ぎて行く葡萄畑などを眺めているうちに、あっという間にパリに着いた。


(9)フランスを代表する芸術ですから

ルーブル美術館


ルーブル美術館


 パリでは、ルーブル美術館に行き、モナリザの絵やミロのヴィーナス像などを見て回った。すると当時6歳の息子が「もう、こんなエッチなところは出ようよ。」と言うので思わず笑ってしまった。確かに、美術館の絵画や彫刻には女性の裸像が多い。ところがその夜のオプショナルツアーは、ムーラン・ルージュのラインダンスだった。

ミロのヴィーナスの前で子供たち


 ガイドのドリスに「今晩のショーはもしかするとトップレスかもしれないが、子供たちを連れて行っても良いだろうか。」と相談した。彼女は、少し考えた後、「まあよろしいのでは。あれはフランスを代表する芸術ですから。」と言った。なるほど、粋な答えだなあと感心して連れて行った。すると、こともあろうに我々の席は最前列のかぶり付きだった。トップレスでラインダンス中の踊り子さんたちも息子に気付いて、時々、色目を使ったり、小さく手を振ってきたりするので、息子は身をよじって嫌がっていた。翌日は、モンマルトルの丘の芸術家たちを見て、ベルサイユ宮殿を見学した。


(10)娘が「私は日本人だーっ。」と逃げ出す

 フランスのカレーの港からまたフェリーで英仏海峡を渡ってロンドンへと帰り着き、これで2週間にわたるバスツアーが終わった。車内で、ガイドのドリスと運転手に、皆がチップを渡して感謝の気持ちを表した。

 いよいよお別れという段になり、お互いに名残を惜しんでいるとき、ドリスが当時8歳の娘にキスをしようとした。すると、娘が「私は日本人だーっ。」と叫んで、踵を返して逃げ去ったのには笑ってしまった。


(11)湖水地方でチェスを始めた子供たち

 ロンドンに到着し、レンタカーを借りて湖水地方に向かった。高速道路を北に走り、一気に湖水地方まで行って、ウィンダミアのオールド・イングランド・ホテルに着いた頃には、もう真夜中になっていた。レンガの壁に蔦が絡まる非常にクラシックな外観のホテルで、設備もサービスも良く、食事も美味しかった。

オールド・イングランド・ホテルの屋外チェス盤


 屋外プール手前の芝の庭の一角に大きなチェス盤があり、キングやクイーンの駒は、子供の胸に届きそうなほど高い。指し手が子供だと、それを抱きかかえて動かすことになる。それが面白かったようで、早速、子供どうしでチェスを始めた。しばらくして、姉がクイーンで王手を掛けた。ところが盤面が大き過ぎたことから見逃しがあったようで、弟が簡単にそれを取ってしまい、ここからいつもの喧嘩が始まった。「待ってよ。」、「いや、待ったなし。」と、お互いに譲らない。

オールド・イングランド・ホテルの屋外チェス盤


 気分を変えさせようと、湖にボートで漕ぎ出した。2人に1本ずつオールを渡して漕がせているうちに、呼吸を合わせないとボートが前へ進まないことが分かったらしく、協力しはじめてから仲直りした。湖の周りの風景に目をやると、一帯が濃い緑に包まれ、それが湖面と青い空に良く映えて、まるで絵葉書のように美しかった。2日間滞在し、ロンドンに戻ってから、アメリカに向けて飛び立った。


(12)ボストンでゆっくりと過ごす

 ボストンに到着した。こちらでは、日本にマグロのトロを輸出している人の家に泊めてもらった。日本でいう民宿である。ご主人は、「かつてアメリカでは、マグロのトロなんて、捨てていた。だから、それを日本人が貴重なものとして食べるというのを聞いて、最初は信じられなかった。」と語っていた。

プリマスでメイフラワー号


 クインシー・マーケットで大道芸を見物したり、プリマスメイフラワー号のレプリカに乗ったり、開拓村を見物したりして、ゆっくりと過ごした。ボストン美術館に立ち寄って浮世絵を見たら、子供たちが日本の絵だといって懐かしがった。後年、息子がボストンの大学院に留学することになるとは思わなかったが、今から振り返ると、何かのご縁があったのかもしれない。


(13)坂の町サンフランシスコ

 東海岸から西海岸のサンフランシスコへ、一気に飛んだ。オリンピック開催期間中だったから、自分でホテルを予約しようとしたら全く取れなくて、止むを得ず知り合いの商社マンに頼んだら、あっさり予約できたので驚いた記憶がある。ところが、実際に行ってみてその理由が分かった。それは最上級のホテルの上等な部屋で、当時としては破格な宿泊料の1泊10数万円もしたからだ。そんな値段では予約できるのは当たり前で、しかも一家で2泊するから高過ぎる。もう旅行も終盤を迎えて懐も寂しかったが、他に当てもないから、やむを得ずそこに泊まることにした。

サンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフ


 このマーク・ホプキンスホテルは、ノブ・ヒルという丘の上にある。そこからフィッシャーマンズ・ワーフに行くためにタクシーに乗った。あのサンフランシスコ名物の下り坂を降りて行くと、後部座席の子供たちが嬉しがって大声でキャーキャーと叫んだ。するとそのタクシーの運転手さんが運転しながら真後ろを振り返って「そうか、そんなに面白いか。」などと、にこにこ顔で子供たちに話しかけてくる。その親切心は有り難かったが、何も運転中にすることではない。事故が起きないかと気が気でなかった。幸い何事もなく、海鮮料理店が立ち並ぶ地区に到着した。結果的にサンフランシスコは、景色も食事も、そして当然のことながらホテルも素晴らしく、大いに滞在を楽しめた。ケーブルカーや湾内一周の船に乗り、美味しい海鮮料理を満喫するなど、この旅行中で最高の2泊3日であった。


(14)ロサンゼルスで遊園地を満喫

 それから、ロサンゼルスへ移動した。ちょうどオリンピックが開催中だったので、記念に試合を観戦したいと思って入場券を買おうとした。ところが、柔道の予選の試合しか空いていなかった。それを見に行ったが、子供たちには退屈だったようだ。その代わり、ユニバーサル・スタジオディズニーランドに行った。当時の日本にはまだその種の遊園地が全くなかった頃なので、どのアトラクションも物珍しくてそのほとんどに乗り、アメリカの遊園地を満喫したものである。

ディズニーランド


 ロサンゼルスから空路で太平洋を横断して成田空港へと直行し、やっと2年ぶりに日本の土を踏んだ。今から振り返ってみると、旅行そのものはもちろん楽しかったが、それに加えて家族の絆がますます強まったように思う。


3.小学生時代は存分に遊ばせる

(1)小学校の屋上から母の姿が見える

 マレーシアから帰国後、子供たちは杉並区にある公立小学校の3年生と2年生に転入した。この小学校は、我が家のある官舎アパートのすぐ前にあった。子供が休み時間などに校舎の屋上の遊び場で遊んでいると、それがベランダから見える。逆に家内が洗濯物を干していると、屋上にいる子供は「お母さーん!ここだよーっ!」と手を振り、家内からも、お返しに手を振ってあげられるという位置にあった。だから、子供たちは安心して新しい環境に溶け込んで行くことができた。

 学校から帰ってくると、「ただいま!」の声とともにランドセルを放り出し、すぐに「いってきまーす!」と出ていくようになった。そのまま、暗くなるまで帰って来ない。こんなに遊び呆けてよいものかと心配に思うところだ。家内は、「せめて小学生ぐらいまでは、しっかりした生活態度の形成と友達付き合いを深めさせ、そして体力の充実に努めれば十分。この段階でとりわけ重視すべきことは、子供らしく自由闊達に遊ばせること。これが将来への大きな財産となります。」と言う。なるほど全くその通りだと思った。今から振り返っても、それは正しかった。


(2)息子は少年野球チーム、娘は習字

 帰国してしばらくすると、子供たちは日本の小学校に慣れた。しかし、私は再び東京での激務に戻り、毎日午前様の月月火水木金金の日々が続く。ただ、息子が小学校4年生から少年野球チームに入れてもらって、毎週末にプレーをするようになったので、眠い目をこすりながら朝早く起きて、それをよく見に行ったものだ。このチームの監督は、地元の信用金庫に勤める方だった。土曜・日曜の早朝から子供の練習に付き合い、熱心に指導し、試合となれば遠方の会場まで連れて行ってくれるので、本当に頭が下がった。

 これでチームが強ければ応援のし甲斐があるのだが、残念ながらお世辞にも強いとは言えなかった。それどころか試合を観戦していると、フォアボール、パスボール、それに盗塁と振り逃げでたいがい負けてしまう。試合中、相手が攻撃中だというのに、外野にいる味方の選手たちはあまりに暇なので、何とまあ、後ろを向いて草むしりをしているという有り様だ。それでも、ユニフォームを着て、バットを担ぎ、野球帽をやや斜めにかぶった息子の姿を見て、「格好いいなぁ。自分も小さい頃、病弱でなかったら、こういう運動をやりたかった。」と、つくづく思ったものだ。

 娘の方は、手の器用さを生かして、オールラウンドにいろいろとやっていたようだ。工作が好きで、部屋にこもって何かを作っていることが多かった。近所に、習字を教えていただけるお宅があって、そこに通って手習いをしていた。これは娘が大学に入って東京を離れるまで続き、この先生ご夫妻にも、たいへんお世話になった。何でも、先生は戦時中の特攻隊の生き残りで、子供たちに習字を教えることを唯一の楽しみにしていたという。こうして、地域の方々に暖かく見守られ、子供たちは順調に小学校時代を過ごすことができた。


(3)赤いマイカーで関東近郊の行楽地へ

 私は、日曜日や祝日で仕事のないときには、マイカーを駆って家族を関東近郊の行楽地に連れていった。マイカーは、郵便局の車のような赤い小さなバン型だった。家内のアイデアでその後部座席を倒して平らな空間を作り、その上に布団を敷き、リア・ウィンドウのところには長くて大きい枕を敷いた。その空間で、子供たちは遊ぶことができるし、疲れればそのまま寝ることもできるから、とても便利な車だった。

赤いマイカーで関東近郊の行楽地へ


 このマイカーでよく出かけたのは、代々木公園、武蔵丘陵森林公園、こどもの国、サマーランド、マザー牧場、相模湖、箱根、富士山麓、伊豆半島、清里高原、日光、大洗などで、それぞれに、楽しい思い出がある。代々木公園では、息子に自転車の特訓をして、ついに乗ることができるようになった。武蔵丘陵森林公園は、実に広大な公園で、そこにいるだけで気持ちが良い。園内には、古鎌倉街道というものがあって、それを辿っていったり、アスレチックに挑戦したり、一周が17キロメートルもあるサイクリングコースを皆で走り抜けたりした。横浜のこどもの国では、牧場を体験できる。子供たちが、おそるおそる乳牛に近づいて、搾乳の真似事をさせてもらったり、緑の園内を思う存分、走り回ったりしたものだ。

 意外と気に入っていたのが、相模湖付近の山女魚(ヤマメ)の手掴みである。子供2人が一緒にプールのようなところに入って、山女魚を追いかける。山女魚は、最初は目にも留まらぬ早さで逃げ回る。しかしそのうちに疲れてくるので、動きが鈍くなる。それを手で捕まえ、炭火で焼いてもらって、皆で食べるというものだった。そのほか、夏や秋になると子供を清里高原に連れて行き、川遊び、野山の散歩、トンボ取り、ポニーの乗馬などを体験させた。

一家で立山登山


 また、その頃の夏の帰省先が富山なので、帰省のたびに必ずと言ってよいほど、一家で立山登山をした。富山駅から鉄道とバスで室堂に着き、そこから雄山を目指して雪渓を歩く。娘は慎重なのでガレ場に差し掛かると一歩一歩慎重に歩を進めるが、息子は正反対にポケットに手を突っ込んで、ひょいひょいと飛ぶように降りていく。こんなところにも、2人の性格の違いが出ている。


(4)冬になるとスキーに

 また、冬になると、スキーに連れて行った。菅平高原、白馬、志賀高原などで、上の娘が高校受験で忙しくなるまで続けた。子供たちが小学校5〜6年生の頃、スキー場に行くまでの途中の道が混んで、着くのが遅くなった。早く滑り始めないと、すぐ日没になってしまう。やっと到着したので、急いでスキー板を履かせ、さあ子供たちに滑ってもらおうと思ってリフトを見渡した。すると何本かあるリフトのうち、手前の2本は混雑しているのに、奥の方の1本は空いているように見えた。そこで、「あれに乗っておいで。」と、まず子供たちを行かせて、私たちはその間、宿にチェックインを済ませ、車を駐めてきた。

菅平高原スキー場


 スキー場に戻ったが、子供たちがなかなか降りて来ない。しばらく待っていると、まず息子が降りてきて、こう言った。「崖のようなコースだよ。あちこちで転んじゃった。お姉ちゃんは、コースの端っこから反対側の端っこへと斜めに滑って降りてきているよ」。もしかしてと思ってそのコースのリフトの表示をよく見ると、「上級コース」とある。道理で空いていたわけだ。子供たちに悪いことをしてしまったが、ちゃんと無事に降りて来られたから、これでうちの子たちは、多少の試練に直面しても十分に耐えられると思った。


(5)子供の付き合いは表面的で心の交流がない

 子供たちが小学校3〜4年生のときのことである。日曜日になって私の家に、友達が何人かで遊びに来た。さぞかし賑やかなことになるだろうと思ったのだけれど、案に相違して、部屋にこもったきり出て来ない。とても静かだった。どうしているのかと、家内が見に行くと、何と、部屋で皆バラバラに本を読んだり、持ち込んだゲーム機器をいじっていたりしていた。だから、家内が「そんなことしていないで、外で一緒に遊んできなさい。」と言って、追い出した。

 その後、何回か同じように友達をたくさん連れてくるのだが、おおむね、そんな子ばかりである。私に言わせれば、集団での遊び方を知らないし、それどころか、一対一の付き合い方も、何か心許ないのである。つまり、表面的に付き合っているように見えるが、本当に心と心でぶつかり合うということがなく、むしろ対決するような場面は、意識して避けて過ごしているようなのだ。


(6)ガキ大将がいなくなった

 私の小さい頃には、子供たち同士でよくぶつかり、その中で自然とガキ大将が育っていった。漫画のドラえもんに出てくるジャイアンのように、腕力があってただ乱暴なだけという子も多かったが、中には正義感がある親分のような存在もいた。そういう子は、喧嘩に強くて少々勝手も強いのだけれど、妙に優しい所もある。弱い子、いじめられている子をかばってくれたり、仲間に入れてくれたりする人情家で、グループのリーダーだ。ところが最近は、そんなガキ大将そのものを、とんと見かけない。

 昔のガキ大将を中心とする子供の社会構造が、彼を中心とした縦の社会を形成しているとすると、現在の子供の社会は、中心のない横の社会にすぎない。お互い対等だというのは、とても民主的でよいようにも思えるが、要するに、感情の起伏を伴うような深い付き合いを避けているだけなのだ。その結果、精神的にとてもひ弱な人間ができてしまう気がする。

 それもそのはずで、友達と喧嘩したこともない、ああ悔しいとワアワア泣いたこともない、ガキ大将の機嫌をそこねやしないかとビクビクしたこともない、ようやく仲間に入れてもらって嬉しかったという経験もない。そんな子供たちばかりなのである。私が子供の頃は、そういうのは全く日常茶飯事だった。だから、社会で生きていく術(すべ)を身に付けられた。

 ところが、今では事情は大きく異なり、習い事や塾通いのために、子供たちが自主的に遊ぶグループを作る機会がなくなった。だから、子供どうしの社会的な付き合いは、誠に稀薄となってしまったと思う。これでは、大人になって社会からプレッシャーを受けた場合の精神的な耐性のレベルは、かなり低くなってしまうのではないかと懸念する。「引きこもり」現象は、若い人だけでなく中年の大人にも広がっていて、今や大きな社会的問題となっているが、その遠因は、こんなところにあるのではないだろうか。


(7)想像を超える塾通い

 東京の子供の塾通いは、地方出身の我々にとって想像を超えるものだった。子供たちが小学校高学年になった頃のこと、すぐ近くの親しくしていた家のお子さんが、急にうちの子と遊ばなくなった。聞くと、塾に通い始めたという。それも中途半端なものではなく、学校から帰ってすぐ弁当を持って塾に行く。塾からの帰りは、午後10時を過ぎている。それが毎日続き、しかも日曜になると、昼と夜の2つの弁当を持って行くという。

 これには、私も家内も、ただただあきれるばかりだった。そんなことまでして遊び盛りに無理やり知識を詰め込んで学歴や資格を手に入れるより、子供時代に大いに遊ぶことを通じて得られる幸福感や達成感、そして豊かな友達付き合いを経験する方が、将来はるかに魅力のある人間になるのではないかと思った。

 私が通勤の帰り、夜の10時頃に地下鉄を降りて家の方向に向かって歩き始めると、私のそばを自転車に乗った小学生の一団が通り過ぎていく。いずれも紺色のお揃いのリュックを背負い、それには紺地に白色で「N」というロゴが入っているから、日能研という塾からの帰りの子供たちに違いない。私は心の中で、「ご苦労さん、体に気を付けろよ。」とつぶやく。

 一方、うちの子は、外で遊ぶのが大好きで、そんな子を塾で勉強させたとしても、おそらく2日ともたないのではないかと思い、塾に通わせることなど、全く考えもしなかった。しかし、小学校5年生の間はともかく、それが6年生にもなると、外へ出ても早めに帰って来るようになった。なぜかというと、同学年の子が塾通いで全ていなくなり、低学年の子ばかりでおもしろくないというのである。


4.公立中学と私立中学

(1)娘が公立中学に入学

 我が家の上の娘は、平々凡々だが伸び伸びとした小学校生活を送り、特に塾に通うこともせず、毎日それこそ元気いっぱいに遊んで過ごしていた。そして、桜吹雪の舞う中で、近くの公立中学校に入学する日を迎えた。

 初めて娘のセーラー服姿を見たときは、大きくなったものだと家内と2人で本当にうれしく思ったものである。ところが、この公立中学校というものが、古き良き時代の地方の公立中学校しか知らない私たちにとっては、想像もできないほど残念な状態だった。

 公立中学校のクラスの授業参観に行った日のこと、たまたま3年生の教室の前を通りかった。ふと中をのぞくと、授業を受けている生徒の中に、金髪の子が3人もいるではないか。目を凝らしてもう一度よく見ると、うち1人は、本物の白人の生徒さんだったが、残る2人は髪を染めた日本人の男子生徒だ。当時、子供はもちろん大人でも、髪を金髪に染めるなど全くあり得なかった時代だったので、とても驚いた。

 しかも、この2人は、勝手に歩き回って大声を出すなど、実に傍若無人に振る舞っている。先生はというと、子供に対する押さえがきかないのか、静止したり静かにさせたりする努力もせずに、ただ無視して小さな声で何かしゃべっているだけだ。ざっと見渡したところ、授業を聞いていたのは、生徒の半分もいないようで、それどころか、隣の子と夢中でおしゃべりしているのが、かなりの数いるではないか。これが世に言う学級崩壊というものかと愕然とした。

 これはひどい、先生が生徒になめられているのではないかなどと思いながら、娘のいる1年生の教室に行ってみると、こちらは私が昔過ごした名古屋の公立中学校の雰囲気にそっくりで、やや安心した。皆、熱心に先生の言うことを聞き、先生の質問に対して活発に手を上げて答え、順調に授業が進んでいる。髪を染めたり、けしからぬ振る舞いをしたりして授業を乱すような生徒はいない。結構なことで、少し安心した。それにしても、1年生ではこのような良い子たちなのに、3年生になるとどうしてこんな学級崩壊状態になるのかと、暗澹たる気持ちになった。


(2)中野富士見中学のいじめ事件が生々しく

 娘の通う公立中学校の先生の中には、素晴らしい先生がおられた。例えば、私の娘が2年生から3年生にかけてお世話になった担任の理科の先生は、生真面目でいつも白い実験服を着ているような方だった。何事にも冷静沈着で、教科の内容をしっかり教え、悪童連中には厳しいものの暖かく接して、誰からも尊敬されていた。こういう先生のことを人格者というのだと思い、私も父母会でお話しするのが、とても楽しみだった。

 その反面、中には首を傾げたくなる先生がいたのも事実である。とりわけ、女生徒を集めてホラー映画を見せる変な趣味の、中年で独身の男の先生がいたのには、びっくりした。そんな先生が担任になったりすると、娘を持つ親は、安心して子供を学校に通わせられないではないか。

 たまたまその頃、すぐ近くの中野富士見中学で、悲惨ないじめ事件が起こっていた。担任の先生までが加担していじめられた男子生徒が、「生き地獄になっちゃうよ。」という遺書を残して自殺してしまったのである。どこか遠い世界の出来事のように考えていたが、娘がいざ公立中学に入ってみると、発生から3年も経つというのに地域社会にまだ波紋のようなものが残っていて、何かにつけ、どうしてもこの事件を生々しく思い出してしまう。

 そこで、私たちはようやく、子供を私立中学に入れたいと思うようになった。そちらの方が、生徒や先生に対するガバナンスがもっと効いているはずなので、父母としては余計な心配をする必要がないし、少なくとも学級崩壊という最悪の事態は避けられると考えたからだ。それにしても、我々には地方の公立中学校の、古き良き時代の牧歌的なイメージが強すぎた。ところが、今や場所も時代も環境も異なっているから、それに合わせて発想を変えなければならない。


(3)小学校6年生から塾に通うのでは間に合わない

 上の娘は公立中学に入学したばかりで今更私立中学へ転校させることもできないから、弱ったなというのが正直なところだった。でも、本人が学校を気に入っていたし、もとより意志が強いタイプである上に、担任の先生との関係も良好だったので、引き続きこの公立中学にお世話になることにした。その一方、人が良くて素直な下の息子については、公立中学で学級崩壊という憂き目に遭わせるのは忍びなく、私立中学に行かせた方がよいと思った。そこで、息子が小学校6年生の春頃に、家内がその時点で受け入れてくれる塾を探したが、どこでも「早い人は小学校4年生、遅い人でも5年生から通っている。もう6年生では中学受験には絶対間に合わない。」と追い返されてしまった。

 これは困ったと思いながら家内と話し合い、「何も遅くまで塾に通わせることはない。家で我々が教えればよいではないか。」ということになった。なんのことはない。窮余の一策である。こんなことになるとは思わず、たまたま5年生の終わりに、日曜日毎にテストを行う「四谷大塚」という業者の教室に入会していた。準会員にすぎなかったが、それが役に立った。その自習テキストが手元にあったので、私が、国語と社会を読んでみた。すると、実に良くできていて、程度も非常に高く、中学入試どころか高校入試にも十分使えそうな内容だ。しかし算数については、恥ずかしながら文科系の私には難し過ぎて、全然できない問題もある。これは、数学科出身の家内の出番である。


(4)遊ばせながら1日に合計1時間半くらい勉強

 それからというもの、家内が毎日、小学校から帰ってくる息子に、夏は午後6時のチャイムが鳴ったら帰ってくるようにと言い聞かせて遊びに出す。6時を過ぎると、まだ帰ってこないと気をもみ、やっと帰ってきたら、机に座らせて、自習テキストをやらせるという日々だった。

 一応、家内が勉強のスケジュール管理と算数などを担当し、私も、早く帰ったときには、国語や社会を見てあげるようにしたが、ほどほどにしておいた。というのは、親が自分の子供を直接教えると、どちらも遠慮がないので喧嘩となり、大抵の場合はうまくいかないからだ。

 もっとも、こんな手ぬるいことをしているから、成績は少しも上がらない。しかし、それも仕方がないと考えていた。思うに、親が子供に、あまり期待し過ぎないことである。子供には子供の人生がある。勉強が好きではない子もいる。皆が皆、高学歴のインテリになるわけがない。それを無理して勉強させようとすると、小学生の頃はまだ親に従うだろうが、中学生以上になったら反抗期に入ることもあり、親の言うことなど絶対に聞かないだろう。その結果、一生を通じて、勉強嫌いになるのは間違いない。

 その点、小学校低学年の頃の息子を見ると、学校の文集に書いた将来なりたい職業は「道路工事のおじさん」である。道端で見かけたからだそうだが、子供なりの立身出世欲というものが全くない。公園に行けば遊びの合間に空を見上げ、雲をじっと見つめて微動だにしないで過ごすこともしばしばだ。その時の息子の姿は、まるで上野公園の西郷さんの銅像のごとくである。だから、とてつもない「大人(たいじん)」になるような気もしないではないが、それは単なる親の贔屓目かもしれない。

 そうかと思うと、知らない子たちの懐に飛び込むのが上手くて、いつの間にか、ちゃっかりと一緒に楽しく遊んでいる。そういう様子を見ると、高学歴のインテリになるというよりは、皆でワイワイガヤガヤと遊ぶのが好きな普通の子という気もする。それならそれで、人柄は良いし体力だけはあるから、生きていけるだろう。だから、遊びたい時には好きなだけ遊ばせ、無理して勉強させようとはしなかった。

 そういうことで、息子は、夏は午後6時過ぎから7時頃まで勉強し、それから夕食を摂る。その後、テレビで野球の試合を見てお風呂に入り、できれば午後8時半から9時半頃までの間に、その気があればもうちょっと勉強ということで、1日に合計1時間半くらい勉強して、午後10時になる前には就寝する。そして日曜になると、午前中だけ四谷大塚の試験会場に行くというスケジュールだった。

 後年、知人の皆さんより、1日何時間勉強させたのかと聞かれて、そのように答えると、皆一様に、そんなに短いとは信じがたいというような反応をする。しかし私たちとしては、小学校6年生の子供が集中できるのは、自分たちで教えてみてこの程度が限界だと思った。だから、塾のように毎日午後4時頃から9時頃まで、1日5時間にわたって勉強させても、それほど効果が上がらないのではないかと思っている。


(5)御三家と新御三家の入試問題を検討

 そうこうしているうちに、あっという間に10月になった。どこの私立中学を受けるか、一応の目途をつけないといけない。募集要項を見ると、学校説明会が土曜日の午後などに開かれている。まず、私立中高一貫校の中でも御三家といわれている開成、麻布、武蔵の3中学に、家内と手分けして行き、その学校のたたずまいから受ける感じ、先生の説明ぶりなどを話し合った。次に、新御三家といわれる駒場東邦、巣鴨、海城の3中学についても、同じようにして見に行った。11月の半ばまで約1ヶ月半にわたり、合計6校について検討したことになる。

 その上で、息子にこれら6校の過去の入試問題を解かせてみた。全く歯が立たなかったのは、御三家の筆頭といわれる開成中学だった。私もそれを見て、なるほど、こんな難しい問題は、それこそ小学校4年生の頃からしっかり塾にでも通っていなければできないものだと納得した。そのほかの中学の入試問題をやらせてみたが、総じて算数が何とか合格ラインに達している程度で、特に、私の担当となっている社会、理科、国語については、とても安心できるレベルではなかった。特に前の二つは暗記科目だが、塾のように長い勉強時間を掛けていないので、知識の絶対量が不足していて、これは如何ともしがたい。

 ただ、新御三家の中の巣鴨中学の問題だけは、どういうわけか非常に素直で、私が昔、自分でコツコツと勉強した高校入試の問題のような素朴な味わいがあった。息子がやってみても、ほどほどの点数がとれる。実際に学校説明会に行ってみると、世上言われていたような昔のバンカラなイメージは全くなく、校長の指導の下、進学校に変身していた。活気があり、ここなら子供を託してもよいという気になった。

 その学校説明会のパンフレットを見て驚いたことは、中高一貫教育の利点を生かして、高校2年生までに中高で必要なすべての教育課程を終え、高校3年生は、入試問題集をやるという。要するに、高校3年生は、世間で言う浪人と同じだ。なるほど、これでは、昔の私のような地方の公立高校生が大学入試で太刀打ちできるわけがないと思った。そこで、まず「押さえ校」として、この巣鴨中学を受験することに決めた。


(6)ユニークな問題を出す御三家の一つ武蔵中学を「本命校」に

 それでは、本物の御三家はどこを受験するか。塾に通っていない弱みで、さっぱり情報がない。もちろん日曜毎の四谷大塚のテストの成績は出ていて、それによると御三家のどの学校も、合格ラインには全く届いていない。しかし、こうやって入試問題を現実に並べてみると、ともかく学校によって問題の傾向が全く違うので、模擬試験の成績など、それほど当てにはならないと思うようになった。つまり、四谷大塚のテストは特定の学校の傾向に合わせた模擬試験ではなくて、そもそも一般用の試験だから、それが出来なかったからといって、御三家の問題がどれもできないとは限らない。要は、問題の傾向が息子に合えばよいのである。

 そういう観点で御三家の問題を見ると、武蔵中学の入試問題が目にとまった。理科の場合は、受験生に鉱物を手渡して、それについて述べよとか、社会の場合は、大晦日の天ぷらうどんの材料について述べよなどというもので、普通の塾でやっている学習範囲ではできないようなユニークな問題である点だ。頭に詰め込んだ知識が求められているのではなく、当意即妙の発想が必要だ。これなら、塾に通っていないうちの子供でも、行楽や旅行を通じて経験だけは色々とさせているから、何とかできるような気がしてきた。私と家内の直感である。

 早速、武蔵中学に息子と一緒に行ってみた。校舎は、東京23区内にありながら、高い木に囲まれた公園のようなキャンパスの中にある。小川もあれば、鶏まで歩いていたりする。家からもそれほど遠くない。息子も非常に気に入って「公園みたいでおもしろいね。」とはしゃいでいた。そして、ポツリと「ここ良いね。」といった。そこで、「本命校」として、この中学を受験することにした。

 私立中高一貫校の生徒の学力の程度を見るバロメーターとして、東大合格者数が取り上げられることが多い。これは有用なデータだが、その読み方に注意する必要がある。つまり単に絶対値としての東大合格者数だけをとってみても、あまり意味はなく、むしろその卒業生の数に対する東大合格者の比率が問題だ。つまり、卒業生数1,500人のA高校が100人の東大合格者を出し、卒業生数150人のB高校が80人の合格者を出すと、表面的な合格者数ではA高校に軍配が上がる。

 しかし、合格率が高いB高校の方が、生徒の水準は高いといえる。当時の武蔵高校は、正にこのB高校タイプだった。つまりその当時、東大には、武蔵高校の3人に1人は現役で合格し、浪人生を含めると2人に1人は合格していた。クラスのうち、半数が東大に行くなんて、私が出た地方の公立高校では全く考えられないことだ。


(7)受験前日はあたかもはやる馬を抑えるように

 さて、まだまだと思っても、容赦なく日時は経ち、やっぱり受験の日は来てしまう。その前日の午後9時頃に私が帰宅して息子の様子を見ると、いつもはのんびりしてテレビの野球中継を見ているのに、さすがにこの日は違って、それこそ必死になって問題を解いていた。机に向かってガリガリ音を立てて鉛筆を走らせながら、リレーの選手がバトンを受ける時のように左手だけ後ろに出して、「お母さん、もっと難しい問題ない?」と言っている。

 「あれは、やりすぎじゃないか。」、「ほんとに、でもあの子があんなに熱心に勉強するのを初めて見せてもらいました。」などと、外野でヒソヒソ話をしていた。あたかも、はやる馬を抑えるようにして、その夜は午後11時前には寝てもらった。


(8)受験の日は大雪に見舞われた

 とうとう「本命校」の武蔵中学を受験する日の朝がやってきた。ところが、早朝から大雪だ。家内がマイカーで受験会場まで送って行く予定だったが、とても車を走らせる状況ではない。たとえ車を出しても、途中で止まってしまって徒歩で行く羽目になるだろうと思うほどの大雪だ。

 これは困った。やむをえず、早目に家を出て、バスと電車を乗り継いで行くことにした。私が会場に連れていき、後から家内と交代することにした。ひどいラッシュの中をようやく抜けて、江古田駅に降り立った。この中学までは、わずか6分ほどの道のりだ。それを、雪のためにツルツルすべりながら、「着くまでにこんなにすべっちゃ、本番ではすべらないよ。」などと、冗談にもならないことを言いながら、学校に無事到着した。

 そこで、付き添いの親は食堂兼集会場のようなところで待つように言われ、私も家内が来るまで、しばらくそこにいた。すると、聞くとはなしに近くの奥さん同士の会話が耳に飛び込んで来る。「あなた、ここにくるまで、いくらかかった?」・・・奥さんどうしは、短刀直入だなあと思いながら、それに続く会話でびっくりした。「私の場合は、ざっと200万円よ。」、「あら、私のところは300万円だわ。」。どうも、塾へ支払った授業料の総額を話していると気が付き、ただ、唖然とした記憶がある。安月給でその日暮らしの我が家では、とても払えない金額だ。ちなみに我が家の場合は、20万円もしなかっただろう。


(9)いかにも中学入試らしい風景

 さて、「本命校」の試験が無事終わり、息子は何もいわずに、普段通り、ただニコニコして、教室から出てきた。家内はなぜか、「ああ、これはもしかするとダメだったかもしれない。」と思ったそうだ。どうだったかと聞きたい気持ちを押さえて、そのまま手をとって、家に帰ってきたという。

 その時、試験会場には、いろいろな親子がいたようで、ある男の子は、出てくるなり母親に向かって「算数、全くダメだったよ。」と頭を掻き、母親は、本当にがっかりした声で、「そうかい。」と泣き出しそうに言ったとのこと。その子のケロリとした子供らしい態度と、親の心底落胆した様子が対照的で、いかにも中学入試らしい風景だったと家内がしんみりと語っていた。


(10)「本命校」の合格者の番号がよく見えない

 試験の後、ほどなくして合格発表の日を迎えることになった。入試要項によるとその週の土曜日である。ところが、試験会場で手渡された学校側の連絡メモを見ていたら、準備が整えば、前日金曜日の夕方に発表するかもしれないようなことが書かれている。私は、たまたまその金曜日の夕刻は早めに勤めを終えたので、武蔵中学に行ってみることにした。

 まだ大雪が残っていてひどく歩きにくい中、革靴なのでツルツルすべりながら暗い夜道を歩いて、学校の正門に着いた。もう真っ暗だったけれども、門の一部が、人がやっと通れるぐらい空いていて、遠くの事務室の方で明かりが灯いている。そちらに向かって歩いて行くと、事務室の中に、合格者の番号が書かれた掲示板があった。ところが、その照明が暗い上に掲示板の置き方が斜めで、見づらいことこの上ない。ガラス越しに四苦八苦して読んでみたところ、どうやら息子の番号があるように思えた。しかし、双眼鏡で眺めないことには、確定的なことはいえない。

 電話でその旨を家内に告げても、当然のことながら信じてくれないのには、閉口した。まるで悪い冗談のような状況だ。いったん家に帰った。双眼鏡を持ってもう一度出直すにしても、夜は遅いし大雪の後遺症で交通が不便で、時間がかかりそうだから諦めた。ところが、受験生本人は、こんな親の騒ぎをよそに涼しい顔をして、テレビで巨人軍の野球中継を見ていた。


(11)「押さえ校」の受験中に「本命校」の結果

 翌土曜日、私は休みなので息子を「押さえ校」の巣鴨中学の受験会場まで連れていき、家内は「本命校」の武蔵中学の発表を見に行くことになった。会場に着くと、狭い校庭に受験生がひしめいている。やがて、受験生がいくつかの集団に分かれて教室に入っていった。途中、息子の青いジャンバーを見かけて手を振ると、息子も右手を大きく左右に振ってきた。その最後の一団が去った後、校庭に残っているのは父母ばかりで、寒風の中で襟を立てて足踏みしている。

 しばらくして、家内が満面に笑みを浮かべて現われ、「やっぱり武蔵中学に合格していたわ。」と嬉しそうに言った。ところが私は、何か拍子抜けした感じで、ただ「そうかい。」と答えただけだったという。巣鴨中学の試験が終わって、息子が出てきた。「よかったね、合格していたよ。」と言うと、息子は「やっぱり。」と言うので、どうも本人は手応えがあったようだ。


(12)とても良い私立中学なのだが、塾を敵に回したのかも

 武蔵中学に息子が入学後、父母会の関係で校長先生と懇談をする機会があった。校長先生は、「最近の塾の隆盛は困ったもので、本校では、なるべくそういう塾の知識を利用できないような問題を出すようにしている。」と語っておられた。これで、天ぷらうどんの具のような問題をなぜ出すのかという背景が分かり、納得がいった。また、その場に同席された事務長さんによると、例えば理科で水を詰めた瓶や鉱石そのものを渡して記述させる問題は、「ともかくせっかくこの学校に受験に来ていただいたのだから、楽しく過ごしていただき、ちょっとしたおみやげを渡す。」という感覚だそうだ。

 とても良い私立中学だと思うのだが、当時、武蔵中学は、塾の関係者が来ると校門の前で追い払うなど、塾に対してやや失礼ともいえる対応だった。そういうことから、逆に塾側がその優秀な生徒に対し受験を勧めなくなったようである。加えて、東大合格者数を敢えて公表しないなど、広報活動にもいささか首を傾げたくなるほど意固地なところがあった。私が当時抱いた印象では、はっきり言って先生方は「世間知らず」だし、校長も内部昇格だったから世間の動向に疎い。その結果かどうかは定かではないが、今では大学受験の成績が、昔と比べて見る影もなく低迷しているのは残念だ。かつてのような輝きを取り戻していただきたいものである。そのためには、目標が明確で経営力がある指導者を外部から迎えることが必要だろう。


(13)世界の名画を数多く見せる

 こうして上の娘だけでなく、下の息子も中学生になったものだから、時間に余裕ができる。家内の考えで、子供が多感な頃に、世界の名画を見せることにした。いわば、現実の世界の擬似体験というわけで、悲喜こもごもの人間模様がお茶の間で味わえる。良い映画がテレビで放映されるたびに、家内がそれをせっせとビデオに録っておいてくれた。

 子供たちに見せた映画のリストは、次の通りである。ちなみにこのような昔の名画の方が、人間とは何かを深く掘り下げているので、心に響く。だから、私も家内も好きだし、とりわけ思春期にある子供が見ると、その人生の参考になると思う。

 「ローマの休日、シャレード、ティファニーで朝食を、おしゃれ泥棒、静かなる男、誰が為に鐘は鳴る、カサブランカ、紳士は金髪がお好き、百万長者と結婚する方法、風と共に去りぬ、ジェーン・エア、ベン・ハー、クレオパトラ、八十日間世界一周、空中ブランコ、大脱走、理由なき反抗、エデンの東、第三の男、鳥、めまい、裏窓、疑惑の影、舞台恐怖症、レベッカ、ガス燈、オセロ、ハムレット、嵐が丘、若草物語、老人と海、クリスマス・キャロル、西部戦線異常なし、モダン・タイムス、黄金狂時代、独裁者、殺人狂時代、キッド、ライムライト、街の灯、マイ・フェア・レディ、雨に唄えば、オズの魔法使、ウエスト・サイド物語、サウンド・オブ・ミュージック、王様と私、メリー・ポピンズ、自転車泥棒、屋根、道、花嫁の父、招かれざる客、我が谷は緑なりき、アパートの鍵貸します、白鯨、怒りの葡萄、ブルックリン横町、コンバット、シンデレラ、ピーター・パン、眠れる森の美女、ぼくの伯父さん、戦争と平和(ロシア版)、東京物語、羅生門、影武者、近松物語、大阪物語、めし、驟雨、破れ太鼓、喜びも悲しみも幾歳月、二十四の瞳。」


(14)公立中学の父親たち

 それから1年間がまたたく間に過ぎ、上の娘が公立中学の3年生になった。幸いなことに、中学2年から3年にかけての担任は、前述の人格者の先生だった。だから、クラスの悪童諸君に対してもそれなりの押さえが効き、学級崩壊に陥ることなく、学校生活が平穏無事に過ぎていった。私は、この先生にはとても感謝していて、公立中学も、なかなか捨てたものではないと思うようになった。

 ある日のこと、学校側から通知が来て、父親と校長先生以下との懇談の場を設けたいということだった。私は出席の返事をして、その当日、参加をした。30人余りが来ていて、なかなかの盛況である。教頭先生の司会で始まり、校長先生のお話があった後、それぞれの父親の話が続いた。

 そこに集った父親の職業は、私のようなサラリーマンはもちろん、飲食店主、小売店主、最近はやりのカタカナ業、驚いたことに塾の経営者までいた。話のテーマとしては、子供の健康(視力低下、持病、アレルギー体質)、進路(何が適当な進路なのか全く分からない、目標の高校に合格できるか不安)、勉強、対人関係(親への言葉使いが悪すぎる、担任の先生がもっと明るくクラスを盛り上げてほしい、上級生からのいじめ)などであった。


(15)公立中学の生徒の学力の低下の悩み

 なかでも私が驚いたのは勉強の話で、公立中学の生徒の学力の低下と、それにとまどっている親の姿を示すものだった。例えば、「うちの子は、一時、数学で30点ほどしかとれなかったのが、塾に通ったお陰で60点はとるようになりました。」というのはまだよいとして、「うちの子は、勉強に対する意欲がない。勉強がなぜ大切か、気づいていないのです。」、さらには「成績表だけで子供を評価すると、本人が落ちこぼれの意識を持つことが心配です。」というものまであり、これでは学校側も、どこに的を絞ってよいのか迷うだろうなと思った。

 その少し前のことだが、娘が学校から帰って来たとき、少し機嫌が悪かったのを思い出した。娘が話すには、「今日の数学の授業は、3X=12という方程式を説明するだけで終わってしまった。」という。これが中学1年生であれば、まだ分からなくもないが、そうではなくて、これは中学3年生の授業である。しかも、「さんし=じゅうに」と、小学校低学年でやるような九九から説明が始まったというから、いささかどうかと思った。それなら、いっそのことクラスを能力別に編成して、その子の習熟度に応じて教えるという方が現実的ではないかと考えるが、現在の我が国の公教育の建前とは相容れないのかもしれない。


(16)私立中学の担任と父母とのやりとりは、まるで漫才

 これに対して息子が通う私立中学は、娘の公立中学とは全く世界が違っている。こちらの先生方は必ずしも文部科学省の学習指導要領に縛られていないようだし、生徒も校則で事細かに制約されるようなこともなく、その自主性に任されている。公立中学とのあまりの違いに驚くばかりだ。父母会で担任の先生と父母とのやりとりを聞くと、まるで漫才のコントのようで、思い出すたびに笑えてくる。

父親A この学校の校則には、どのようなものがありますか?
先 生 
(困った顔をして) エェーー、特にありませんが、
   ・・・、アッそうだ、唯一、校舎内をゲタで歩いてはい
   けないというのがあったと記憶しています。
父親A 
(目を白黒)

母親B うちの子が、教室内でお金をなくしてしまったのです
    が、学校側の対策をお聞かせください。
先 生 よくある話なので、必要以上のお金を持ってこないよ
    うにしてください。
母親B 
(二の句が継げない)

父親C 最近、東大合格者数が伸び悩みのようですが、学校側
   のお考えは?
先 生 いや、本校としては、別に東大受験のために授業をや
    っているわけではないのですが、ただどういうわけか、
    卒業生は東大を受けて、合格してしまうのですよ。ワッ
    ハッハ。
父親C 
(唖然とする)

母親D 
(もう、その年も終わりに近づいている時に) うち
   の子の話によると、春から始まった日本史の授業では、
   農民一揆の歴史をたどっていて、それがまだ終わらない
   ようですが、そろそろ一揆以外のことも教えてもらえま
   せんか?
父親E そのことに関連してですが、カリキュラムでは、確か
    倫理社会ということだったのですけれども、子供による
    と、授業の最初の日にやって来られた先生が、「自分は
    世界史が専門だから」といって、ローマの歴史か何かを
    始めて、今でも倫理的なことは一切教わっていないとい
    うことですが、そんなものでしょうか?
先 生 私は英語の担当でして、その件はよく分からないので、
   お話の趣旨を教科担当の先生に一応伝えておきます。



(17)「自ら調べ自ら考える」を貫く

 すべてにわたってこのような調子で、およそ私が中学校について持っていた常識とはかけ離れていた。最初は、そのあまりの自由放任主義に驚いたが、次いで、これは生徒にとって、天国のような学校だと思うようになった。しかし、記憶をたどると、そういえば私もこのような状態に置かれたことがあったなという気がした。

 よくよく思い出してみると、大学時代である。学生としては、全く自由に羽を伸ばして遊ぶか、あるいは自主的に勉強するか、各人のご随意にというわけである。この学校の教育方針の一つは、「自ら調べ自ら考える」つまり「自分でよく考え、自分の責任で行動した結果の無駄や失敗は本人の財産になる」というものだ。それを高校生の時からではなく、世間では未熟と思われている中学生の生徒の時からそのまま実践しているのである。それは良いのだが、人生にはやり直しが効かないこともあるので、その無駄や失敗のために一生を棒に振ったらどうするのかという気がしないでもない。だからこういう学校の場合は、学校任せにするのではなく、親が子供をそっと見守って必要な時には正しい方向に誘導してあげることが大事なのだろうと思う。


5.都立高校と私立中高一貫校

(1)女生徒の大学受験向きの私立高校がない

 さて、公立中学の娘にとり、中学3年の秋が過ぎるのは早く、あっという間に柿の実が熟する晩秋になった。娘が受験する高校を決定しなければならない。まず、都立高校を受験するのは当然のことである。幸い、娘は真面目なタイプで内申点が良かったことから、学区で一番手の西高校に合格しそうだった。

 ところが、私立高校を調べはじめてがっかりした。女生徒の大学受験向きの高校がなかったからだ。もちろん、受験に力を入れていると自ら称している高校がないわけではないが、男子の私立中高一貫校の御三家のようなハイレベルのところがほとんど見当たらない。しかもどの学校も中学受験を前提としていて、高校からの入学者は採らないか、採ってもごくわずかというところばかりだ。いや、これには困った。

 そのほかはいずれも著名私立大学の付属高校が目についた。高校から大学までエスカレーターで進学できるというのが共通の売り物で、一般の親の人気は非常に高い。しかし、この種の高校に入ると、他のほとんどの生徒は大学受験のための勉強をしないだろうと思われた。それに、これらのいずれの大学も、高校時代にしっかり勉強すれば合格しそうな気がした。だから、エスカレーターの有り難みは、さほどではない。

 しかし、私立高校も受けておく必要がある。そのうちの一つで、お嬢様学校と言われているところに、娘と下見に行った。都心の大きな敷地の中にゆったりと建っている学校で、佇まいになかなか趣があり、春には染井吉野の桜の花が咲き誇るそうだ。制服を来た品の良さそうな女生徒が構内に群れているのを見て、連れの娘に対して、思わず「ここもよさそうだね。」とつぶやいた。ところが、娘は、「お嬢様すぎるところが、ちょっと。」と言葉を濁した。何かしっくり来ない感じがあったのだと思う。しかし、親としてはこの学校が気に入った。


(2)お嬢様学校に合格

 それから月単位の日々が経ち、あっという間に私立高校の入試日となった。娘は受験し、その面接で、自分の前の生徒が面接室から泣きながら出てきた直後、自分も緊張して入った。でも、面接の先生と会話しているうちに、おかしくてカラカラと笑ってしまったことなどを話していた。「お嬢様学校なのだから、もう少し品よくできなかったのかね。」と冷やかした。

 ところが、そのお嬢様学校に、合格してしまう。発表の日、私が代わって見に行くことになった。守衛さんに挨拶し、煉瓦の建物の間を抜けて行くと、古びた建物の高いところに合格番号が貼ってあった。思わず、「あれ、あった。」とつぶやいた。ふと横を見たら、中年の紳士が、下を向いている。その肩に目をやると、こきざみに震えているではないか。自分の娘が落ちて、よほど悔しかったのだろう。こういう熱心な方の娘が落ちて、私の娘のような子が合格するとは、世の中、皮肉なものだと思いながら、学校を後にした。


(3)都立高校かお嬢様学校かの二者択一

 さて、高校入試の最後に、都立西高校の入試が控えている。娘は、むしろこちらのほうが緊張したらしく、前日、気の強い子としては珍しく、「落ちたらどうしよう。」と心配していたが、「そのときは、『ごきげんよう』のお嬢様学校だね。」というと、安心した顔をしていた。やはり、あらかじめどこかに合格しているというのは、強い安心材料となる。いくら自信があっても、単願はしない方がよいと思った。

 結局、都立西高校も合格し、都立高校か、お嬢様学校か、という二者択一になった。親の私としては、しっかりした大学につながっているそのお嬢様学校に大いに魅力があったが、最終的に娘の判断に任せたところ、都立高校を選んだ。お嬢様学校では、ほんの数人だが、辞退者があることを見越して補欠の発表もしていたので、迷惑をかけなかったと思う。娘は、お嬢様のコースではなくて、キャリアウーマンのコースを選んだということだ。この選択が正しかったかどうかは、やがて大学進学時にその答えが出る。


(4)都立高校の内申書選抜は大学受験とミスマッチ

 娘が入学した都立西高校はいわゆる進学校で、都立としては珍しく、東大合格者の数は例年ほぼ20人台と、一定の水準を保っていた。ところがその当時、卒業生一般の浪人率が50%、つまり卒業生の2人に1人は浪人してしまうと知って驚いた。娘が通い始めて、色々と話を聞いてきたところ、当時の都立高校が大学受験に弱い大きな原因は、その生徒の選抜方法、特に内申書にあると思った。つまり、その頃の内申書が勉強よりも、それ以外の実技や生活態度をより重視している結果、大学受験とミスマッチを起こしているのである。

 早い話、5月に行われる文化祭などに行ってみると、ミュージカルなどの演劇が盛んで、実に上手だ。クラス全員がスターになれる素質を持っていると言っても過言ではない。家内と一緒に見物に行き、一日中楽しく過ごして、ほとほと感心して帰って来た。その時に思ったことだが、歌や演奏が上手くて合格できるのは、芸術系の大学ぐらいだろう。歌手や演奏家になるにはそれでよい。しかし、知的職業に就き、社会をリードしていく人物となるには、芸が達者であるよりは、やはり勉強ができることが必要条件である。でないと、その前提となる一流大学には、絶対に入れない。

 だから都立高校では、内申書の建前と大学受験の現実とのギャップを埋めるために、浪人率があれほど高かったのである。実態に合わない制度を作ると、どこかにその歪みが現われるという典型だ。もっとも、これはあくまでも娘が都立高校を受験した時の話である。その後、内申書の制度が何回か変わり、また都立高校の入試制度の改革や高校そのものの多様化も進んできている。その結果、都立高校を巡る受験事情は、昔に比べれば相当程度、改善されたと聞いている。


(5)都立高校の雰囲気は私の県立高校と全く同じ

 それはともかく、娘が通う東京都立西高校の雰囲気は、私が通った愛知県立旭丘高校の雰囲気と全くといってよいほど同じだった。例えば、文化祭や体育祭となると、生徒の間でエネルギーが大爆発し、ものすごい盛り上がりを見せる。その中で、青春の特権のようないろいろな馬鹿馬鹿しいことが行われている。

 クラブ活動も盛んだ。これらは、その後に続く彩りの乏しい受験生活の前に突然現れる「徒花(あだばな)」のようなものかもしれないが、それも含めて、私には、とても懐かしかった。そういうことで、娘がこの高校を選んだことは、非常に良かったと思っている。


(6)子供たちと議論がかみ合う

 ところで、子供たちが高校生くらいになると、自分自身の物の見方が出来るようになり、分析力と思考力がつき、話をしていて、とてもおもしろい。例えば、お茶の間のテレビを見ながら、政局はどう展開していって誰が首相になると思うかとか、アメリカ経済の再生が日本にどう影響するかとか、発足したばかりのサッカーのJリーグについてこのチームのどの選手がよくて監督の腕はどうかなどと、議論がかみ合うようになる。そうなると親としては、うれしくて仕方がない。

 それが大学生ぐらいになると、「この事件は建前からするとそうだけれど、実は本音のところはこうかもしれない。」などと、社会の表と裏を立体的に見られるように解説してあげれば、それを理解してくれるようになる。だから、ますます大人の会話ができる。


(7)親の仕事をしている姿

 私は、子供たちに対して、親のいろいろな姿、特に仕事をしている姿を見せることが大事だと思っている。これが例えば建設会社に勤める技術者の場合だと「お父さんが作ったビルと橋だよ。」とでもいえばよいから、とても分かりやすい。ところが、私のような事務系サラリーマンの場合の仕事内容は、どうにも説明が困難だ。だから、家に仕事の書き物を持ち帰って、コツコツやっているうしろ姿を見せたりしたものである。

 趣味で法律の専門書を書いた時など、大量の資料を積み上げて半年ばかりの間、土曜・日曜をつぶして大作業をしていたことがある。毎夕食時に子供から「どれだけ出来たの?」などと進捗状況をチェックされて参った。しかし、それが励みになったのも事実である。

 そしてようやく書物が出版された時には、家中で盛大にお祝いしてくれた。しかし、その後があまりよろしくなかった。「お父さんの本、探しに行ったけど、どこの本屋にもなかったよ。」などといわれ、「あれは、法律の専門書だから、町の本屋さんには売っていないんだよ。」と言うと、「本当かなー。」などと疑われたりして、仕事の上司より手厳しかった。


(8)息子は硬式テニスクラブで運動

 息子が通う私立中学の中学生の大多数は、皆真面目な優等生で、クラブ活動や健全な友達付き合いなどに精を出している。そこで息子には、運動部に入れと、強く勧めた。体が心地よく疲れるまで運動すると、体格は良くなるし、ストレスがあっても発散できる。だから、余計なことを考える暇もないなど、いいことずくめである。

 息子が気に入って入部したのは、硬式テニスクラブだった。この学校らしく規則は緩く、活動のある日の帰宅は非常に遅いけれど、毎日出る必要もない。本人も、テニスが本当に気に入って、熱心にやっていた。おかげで、背の高さが非常に伸びた。ただ、当時住んでいた官舎アパートの玄関ドアの枠より高くなったのには、困ってしまった。


(9)中学校というよりレジャーランド

 もっとも、背がいくら高くとも、頭の中がカラッポだと、何にもならない。親としては、非常に気になるところではあるが、中学受験で塾には行かせないと意固地に頑張り抜いたように、私はここでも中学段階では塾に行かせないことにした。運動部に属したまま塾に通うのでは、結局のところ虻蜂取らずになってしまう気がしたからだ。

 そこで、少なくとも中学生の時代は、頭がカラッポでも仕方がないと割り切った。その代わり、授業ぐらいは集中してよく聞いてくるようにと言っておいた。幸い、クラブの先輩などの様子を聞いても、皆よい人ばかりで、これらの人を見習ってやっていけば、少なくとも生活面では決して悪いようにはならないと思ったからである。

 そのように息子には、私立中学というサファリ・パークの内側で、自由勝手に好きなだけ走り回らせておいた。本当に学校が好きで、休みでもじっとしておられず、つい学校に行ってしまうほどだ。家内と2人で、「中学校というより、レジャーランドに通っているみたいだね。」と言っていた。中学生の時代は、アタマよりカラダだと割り切り、その代わり、高校生になったら、様子によっては少し考えていこうと思っていた。


(10)一介のサラリーマンには高い授業料

 首都圏の私立学校といえば、学費が気になるところである。安月給の一介のサラリーマンに過ぎない私としては、そのうち給料が上がれば家を買えるようになるだろうと、極めて楽観的に考えていた。ところが、息子が私立中高一貫校に行き始めて、その教育費の高いことを痛感し、これでは持ち家どころではないと思うようになった。

 その当時の息子の私立武蔵中高校の授業料と維持費等の合計は確か年間80万円ほどで、このほかに、交通費や食事代、クラブ活動費、小遣いを考えれば、年間120万円は必要となる。夏と冬のボーナスを合わせてやっと何とか支払える額なので、最初は高いと思った。

 ところが、これでも非常に良心的であることが、娘のお嬢様学校の受験でよく分かった。そちらに合格したとき、合格者の父母を集めて説明会があった。校長の説明が終わるや否や、経理担当理事なる人が出てきて、「当学園の計画のために何十万円か寄付してほしい。」という。しかも、100万円以上寄付した人には、理事会にご招待するから、その場で何か発言する機会を与えるとまでおっしゃる。たまたま学園の記念行事か何かと重なったのかもしれないが、驚いてしまった。お嬢様にするのも、親の懐次第なのである。


(11)学費値上げに対する誠実な姿勢

 これに対して、息子の私立武蔵中高校の場合は、さっぱりしたもので、全くそういうことはなかった。在学した6年間で、寄付の要請はたった一度だけしかなく、しかも、その時は1万円で結構で、それも記念写真集付きだという。喜んで出したところ、後日その写真集が学校から送られて来たが、戦前からの歴史がよく分かる立派なものだった。

 また、息子の在学中、一度だけ学費の値上げがあった。その理由は、東京都の学事部(当時)から子供の数の減少に合わせて生徒の募集数を減らせといわれて、やむなく従ったからだという。頭の中で計算すると、値上げによる収入額と減少する生徒数の授業料の合計額とがぴったりと見合っている。これなら、誰でも納得できる説明だと思った。だから、進んで出そうという気になる。そのように学費の値上げに対する誠実な姿勢一つをとっても、つくづくこの学校は良心的だと思った。


6.大学受験は医学部と法学部

(1)娘の予備校の帰りは駅に迎えに

 さて、娘が楽しく送っていた都立高校の生活も、高校2年生の秋ともなると、大学入試の影が忍び寄ってくる。ところが娘は、相変わらず、のんびりとクラブ活動に精を出している。やっと3年生になって、予備校に通って勉強したいと言ってきた。それで、現役生向けのカリキュラムが充実していた駿台予備学校に通い始めた。教材を見る限り、授業内容は良かったと思う。

 しかし、夜に自宅まで歩いて帰る危険性を考えて、帰りは家内が車で駅に迎えに行き、娘をピックアップすることとした。家内は大変だったが、おかげで事件らしき事件は一回も起こらなかった。年頃の女の子には、こういう配慮は必要だと思う。


(2)人助けになるし、手に職をつけておきたい

 初夏になり、そろそろどういう方面のどの大学を志望するかという話になった。娘から、「医学部を受けたい。」と言われた時には、家内ともども、とても驚いた。というのは、娘が得意でよく出来た科目は国語と英語で、医学部に欠かせない数学や物理などの科目は、確か平均的なレベルではないかと思っていたからだ。

 従って進路が医学部というのは、文字通り晴天の霹靂だった。「なぜ、医学部なの?」と聞くと、「人助けになるし、私は女だから、手に職をつけておきたい。」という。娘は、冗談を言っている風でもなく、瞳はキラキラと輝いていたので、これは本物だと思った。


(3)人生、何でも挑戦だ

 そこで私は、こう言った。「分かった。人生、何でも挑戦だ。あの時なぜチャレンジしなかったのかと後になって悔やんでも仕方がないだろうから、好きなところを受けていいよ。ただし、2つ条件がある。

 第1は、全国どこに行ってもよいから、国公立大学を受けてちょうだい。国公立なら、6年間、仕送りができるけれど、私立大学の医学部は、とても授業料が払えないからね。

 第2は、現役合格はなかなか難しかろうから、1浪まではよいけれども、その代わり2浪以上になったら潔く諦めて、どこでもいいから東京にある大学に行って就職してね。」


 すると娘は、「分かった。」と納得した。後から思えば、このときに我々が余計なことを言っていたら、今日の娘はなかったのだから、まさに娘の「人生の分かれ目」の日だった。


(4)前期は難関大学、後期の倍率は10数倍

 やがて秋が過ぎ、冬に入り、新年を迎えた。娘に、どこの国公立大学医学部を受けるのかと聞く時期になった。娘が話す前期日程の大学名を聞き、それはもう、とっても難しいと思った。ついでに後期日程も聞いてみた。すると、関東地方にある大学だから東京に近いが、定員はわずか8人で倍率は10数倍だという。東大理Vを落ちた人が大挙して押し寄せるところだ。「うーん。それにしても、この倍率はかなりのものだね。」というのがやっとだった。

 しかし娘は、「ここの後期は、数学がない唯一のところなの。」という。よく聞くと、大学入試センター試験が課されているから、その中の1科目としてもちろん数学はある。しかし、2次試験は、作文と英語と面接だけで、数学はない。そんな大学は他になくて、全国でここだけだという。「いやまあ、すごい所を見つけてきたものだ。」と思った。万に一つの可能性しかないものの、目の付け所は悪くないと考えて、「では、頑張って。」と答えた。娘は、「必死になってやるから。」といい、その言葉通り本気の覚悟がひしひしと伝わってきた。


(5)物理なんかまだ全然やっていない

 年が明けて大学入試センター試験の模擬試験があり、娘の点数が、かなり伸びていた。「おおぅ、やるじゃないか。」というと、「この2週間、今まで勉強していなかった世界史ばっかり、やったからね。50点だったのが80点になったよ。30点は大きかった。」などと言う。「ええっ。今頃勉強始めたの?」と言いたいところを我慢して、「それはよかったね。それで、まだやっていない科目、ほかにあるの?」と聞いた。娘は「うん、物理なんか、まだ全然やっていない。」と言うので私は仰天し、これは駄目だと浪人を覚悟した。

 大学入試センター試験本番は、まあまあ良い成績だった。数学も満点近く、心配していた物理も、別に足を引っ張るほどの成績ではない。するとあの模擬試験の時の会話は謙遜だったのかと思っているうちに、いよいよ国立大学医学部の前期の試験が始まった。勇んで行ったものの、どうやら不首尾に終わったようだ。世に知られた難関校なのだから、仕方がない。ゆっくりと反省する間もなく、後期の準備を始めた。後で話を聞くと、作文の課題を予想して、20近くの例文を作ったらしい。試験会場へは、家内が朝早く車で送って行った。


(6)面接で試験官ともども大笑い

 娘が試験会場から帰ってきたので、その後期試験の感触を聞いた。作文は英語で書かれた問題に対して答えを日本語で書くというものだが、問題文の英語は、ほとんど分かったという。しかも、あらかじめ用意した例文がそのまま使えたというから、運が良い。

 面接はというと、「なぜ、前期にここを受けなかったの?」と聞かれて、「それは、あまりに危険だったからです。」と言い、試験官ともども大笑いをしたそうだ。自分の直前に面接から出てきた女の子の受験生は半べそをかいていたというから、こういう大胆なやりとりをしたところは、娘の面目躍如というところだ。


(7)なぜあんな難しい国立大学医学部に受かったのか?

 そして私は、そのまま米国へ海外出張に出かけてしまった。3月の下旬に帰国し、成田空港から家に電話をした。出てきたのは娘で、私が「帰ったよ。」と言う間もなく、「お父さん、受かったよ!」と言う。私は、「ええっ」と言ったまま、一瞬、絶句した。あんな10数倍の試験を通るなんて、信じられないのも当然だ。しばらく間を置いて、「おっ、おめでとう。」と言うのがやっとだった。

 可笑しかったのは、娘の高校の職員室での反応である。「なぜ、あの子があんな難しい医学部に受かったのだろう?」、「さあー?」ということで、1週間ほど、大きな謎として、先生方の話題になり続けたそうだ。


(8)患者の方を見てパソコン画面は見ない

 娘はその後、厳しいといわれるこの大学の授業にも立派に付いていき、卒業の日を迎えた。医師国家試験に合格して外科医となることを選択し、東京の自宅近くの東京医科歯科大学医学部の医局に入った。帰宅が午前様という日々が続いた後、都内を中心にあちらこちらの病院に派遣された。真夜中まで勤務するだけでなく、いったん帰宅しても明け方に呼び出されることがよくあるという過酷な勤務が続いた。そういう具合で、10年近い年月と相当の努力が必要だったが、無事に学会の専門医の資格をとることができた。今では、ベテランの外科医として活躍している。

 娘が医者になりたての頃、居間で話をしていると、娘はこんなことを言っていた。「患者さんが診察室に入ってきたら、正面に向かい合う形で座り、患者さんの方をしっかり見て診察し、それが終わって出て行くまでの間、机の上やパソコンを絶対に見ないようにしているの。なぜかというと、最近の医者は、どうかすると患者を診ないでカルテやパソコンばかり見ている人が多いけれども、それは本末転倒なのよね。」と言う。私はそれを聞いて、「ああ、この子は大丈夫だ。医者としてちゃんとやっていける。」と思った。


(9)数学は飛び抜けて優秀、国語と英語は並み

 次は、息子の大学入試の番だ。息子の私立武蔵高校は、クラスの半分が東京大学に入学するので、普通にやっていれば、大丈夫のはずである。しかし、半分といっても、浪人も入れての数字だから、現役で合格するにはクラスの3分の1以内にいなければならない。私は息子がこの中高一貫校に入って以来、勉強については全くチェックをしていなかった。この学校の雰囲気が気に入っていて、このまま任せておけば、大丈夫だろうと思ったからだ。

 ところが大学受験が視野に入ってきて、いささか気になるようになった。そこで息子が高校2年生になったとき、勉強の内容と進度をチェックするために、駿台全国模試を受けてもらった。そうすると分かったことは、数学は飛び抜けて優秀だが、国語と英語は並みの成績という結果である。姉とはまるで正反対だ。


(10)飛鳥時代の農民一揆

 入試まで時間もあるからとそのままにしておいたが、気になったのは、世界史と日本史だった。これらの科目は、社会に出てからの教養として絶対に必要である。文科系に行くにせよ、理科系に行くにしても、この二つは知的職業に就く際の必要条件といえる。その勉強は、それなりに時間もかかるが、主要科目の数英国で忙しいときには、手が回らない。そこで、まずそれだけはと思い、高校でどれくらい勉強したのかを聞いた。世界史は、まあまあの知識があった。

 問題は、日本史である。実はその年の6月頃、「日本史で何を勉強しているの?」と聞くと、「飛鳥時代の農民一揆」と言う。変なものをやっているなと思ったが、まあいいかと、さして気にも留めなかった。次に夏前に同じことを聞くと、「室町時代の農民一揆」だと言う。ところが私も忙しかったので、そのままにしていた。そして秋になり、また聞いたところ、「江戸時代の農民一揆」だと言うから、「ああ、これは駄目だ。あまりに偏り過ぎているから受験向きではない。」と感じて、「1週間に1回だけでよいから、駿台予備学校で日本史を勉強しておいで。」と送り出した。それまで、塾の類には一切行かせなかったから、大きな方針転換だった。


(11)高校2年生で海外旅行に出す

 息子が高校2年生の夏休み、私は「もう1人で海外旅行に行けるだろう、見聞を広めるのに良い年頃だ。」と思い、世界の地理と歴史を自分の目で見ておいでと、ツアーに参加させて海外へ送り出すことにした。すると、同じクラスに、私と同じようなことを考えている親御さんがいて、息子が海外に行くという話を聞いて、そのお子さんも同行することになった。友達と一緒であれば、心強い。

 行き先として選んだのは、イギリス、フランス、そしてイタリアである。旅行の当初の頃は、時差ぼけであまり体調が良くないようだったが、だんだん調子が上がってきたようで、電話の声を聞くと楽しくて仕方がないという様子がありありだった。最後のイタリアでは、オペラ劇「アイーダ」を鑑賞して、とても感激したそうだ。おかげで、イタリアが大好きになって帰ってきた。


(12)数学は新宿の塾、英語は渋谷の塾

 高校2年生の秋も深まった頃に、息子の方から、数学は新宿のSEG、英語は渋谷の平岡塾に行きたいとの申し出があった。このうち、新宿の塾は、私も知っていた。その講師たちが「大学への数学」という雑誌に執筆をしている。高校時代に、私はこの雑誌を手にしたことがあるが、情けないことに、難しくてさっぱり出来なかった。たまに出来ても、その模範解答は、私の答えとは大違い。どうしてこんなにエレガントな答えが書けるのだろうと感心するほどのものだった。だから、「もちろん大歓迎だ。」と答えた。

 もう一つの渋谷の方は、何でも高齢のご婦人が開いている個人塾で、友達が多く通っているという。入塾試験があって、いわゆる御三家と筑駒、桜蔭など有名校の生徒しか受け入れないらしい。そこに通い始めたところ、驚いたことに、翌年春の駿台全国模試では、英語は受験者総数約3万人中、それまでの真ん中程度から、何と数百番台へと、あっという間に躍進した。まるで魔法としか思えないほどの学習成果だった。なるほど、皆がこの塾に入りたがるわけだと納得した。

 ちなみに、この全国模試では、息子は数学については常時1桁台、最も良いときは2番だったので、東京大学は、まず合格するだろうと確信した。ただ、国語の成績が今一つなので、3年生の4月から、国語を駿台予備学校で勉強することを勧めた。週に1回だけだったから、成果が上がるのに時間がかかったが、最後には、全国模試で名前が載るほどのレベルまで行ったようで、こちらも安心した。

 大学受験は、得てして長丁場になりがちだが、集中力を高めて短期間に一気に片付ける方が良いと思う。何年も前からダラダラやっても集中力が高まらず、さほど効果が上がらないのは私の経験したところである。加えて重要なのは、精神的にも肉体的にも健康を保ち、病気にならないことだ。この点、子供たちには、普段から体力だけは付けさせていたから、さほど心配はしなかった。それどころか息子は、引退した高校テニス部にしばしば出入りし、気晴らしにテニスを続けていたようだ。


(13)東京大学のどの学部を受けるのか

 高校2年生の夏、息子に東京大学のどの学部を受けるのかと聞いた。あの成績内容では、医学部か理学部だろうと予想していたが、答えは全く違っていて、文Iの法学部だという。私も法学部の出身なので、嬉しいことは嬉しいわけだが、数学があれだけ出来るのに、もったいないといえば、その通りだ。そこで私から「医学部を受けないの?」と聞くと、どうやら「『血を見る』仕事自体が性に合わない。それより、法律を勉強して学者か弁護士として身を立てたい。」と言うのである。なるほどと納得した。

 確かに、医学部以外の理科系に行っても、日本では科学者やエンジニアへの待遇が必ずしもよくないことは事実だから、数学のセンスを持ちつつ法律を修めるという選択も、決して悪くない。日本もアメリカのように、例えば理学の学士号や修士号をもっていながら、法科大学院に行って弁護士になるという選択肢があればよかったのだが、息子の大学受験当時には、そういう道はなかった。しかし現在では、司法制度改革のおかげで法科大学院ができて、法学部卒でない人でも、これに通って弁護士資格をとる道ができている。


(14)無事に東大生となる

 いよいよ、東京大学の入試当日を迎えた。前日に「本郷へは、下見に行ったんだろう?」と聞くと、「いや、行ったことはないよ。」と答える。実にのんびりしたものだ。試験が終わり、結果を聞くと、数学の4問は、多分全部できたと言う。実は文Iの試験では、数学の4問中、半分の2問ができなくても合格した人は多くて、それほど数学は難しいものだった。

 その経験からすると、数学がほとんどできたということは、他の科目が多少悪かろうと、合格はほぼ確実である。合格発表の日を迎えた。やはり息子は合格していて、無事に東大生となった。それからの学生生活は勉強とテニスの文武両道・・・と言いたいところだが、どうやらテニスに熱を入れた学生時代を過ごし、関東地区の学生のテニス大会でベスト幾つに残ったとかいうエピソードまで残して十分に楽しんだようだ。


(15)企業法務を専門とする弁護士の道を歩む

 息子は、東京大学を卒業後、会社法の研究のためにアメリカのボストン大学ロースクールに留学し、修士号(LLM)を得た。その授与式つまり修了式には、本来であれば家族全員が現地に集まって盛大にお祝いをすべきところだが、私の仕事の都合でそれもかなわず、本人には悪いことをした。しかし、うまくできているもので、その大学のインターネットのサイトを見ていると、たくさんの写真の中に、はにかんで学長から学位証書をもらう息子の写真があり、感激した。家族はこの写真を購入することができて、それは今、私のデスクの前に置いてある。

 息子はそれから帰国したが、現地で弁護士という職業の何たるかをつかんだらしく、弁護士になって社会に貢献したいと思ったそうだ。そこで、発足したばかりの日本の法科大学院の入試を受けて慶應義塾大学大学院法務研究科に入学し、更に2年間の勉強生活を送った。それを卒業した年、第1回の新司法試験を受けて合格し、現在では都内の大手法律事務所で、企業法務を専門とする弁護士の道を歩んでいる。

 ただ、所属している大手法律事務所での勤務の様子を聞くと、かつて私が通商産業省で経験したのと同じような激務で、帰りは連日午前様だという。だから、無事にこの試練の時代を過ごしてくれるようにと祈っている。


7.二人三脚で子育てした家内

(1)愛情豊かで合理的思考の持ち主

 家内は、津田塾大学の学芸学部数学科に在学中に私と知り合って、すぐに結婚をした。年子で立て続けに2人の子供が生まれたことから、職に就くこともなく専業主婦として今日に至っている。結婚した頃の私は、土曜・日曜・祝日を問わずに連日午前様という忙しさだったので、子供が小さい頃には、私は子育てを全く手伝うことができなかった。

 そういう中、家内は愛情豊かであるばかりか、実に有能な合理的思考の持ち主で、しかも良いと考えたことを直ちに実行に移し、 最後までやり遂げる力がある。もし社会に出て実務に就いていたら、立派な職業人生を送ることができたと思う。それが、私と子供たちを支えるために、その人生を捧げてくれた。家族に有り余る優しさと心からの愛情を降り注ぎ、それでいて子供たちとの距離のとり方が絶妙というのは、なかなかできるものではない。


(2)子育てをバトンタッチされて

 息子の中学受験では、親が子を教えるというのはただでさえ難しいのに、家内は見事にやり遂げてくれた。娘の中学時代の反抗期には、言いたいことを言わせて上手にあしらった。しかし子供が成長するにつれ、さすがに1人では支えきれないと思ったのだろう。子供たちが中学校から高校に入ろうかという時、家内から「私が子供たちにできるのはここまでです。これからは社会的な経験が必要なので、後はあなたが見守ってあげてください。」と、バトンタッチされてしまった。

 私もその頃には通商産業省の管理職から内閣法制局の参事官となり、繁忙期以外は超多忙な仕事から解放されて、やっと余裕を持った生活ができるようになっていた。子供たちに、新聞やテレビのニュースを毎日よく読んだり見たりしてもらいながら、社会経済やその日の出来事の時評と解説を行った。気を付けたのは、私の意見を一方的に押しつけることはしないことで、子供たちの意見をまず言わせてから私が解説をし、それから問答形式でやっていった。これで、社会を見る目を養うこと、それに対して自分の意見を持ち、それを自らの言葉で表現することができるようになったと思っている。娘が受験の面接に強かったのは、このお陰かもしれない。

 こうして、我々夫婦はお互いに補いながら、子育てをしてきた。それは、子供にも十分伝わっているようで、あるとき、高校生になった息子が家内に対して思わずこういったそうだ「僕、この家に生まれてラッキーだった。」。これは最高の褒め言葉である。これまで家内と2人で子育てに努力してきたことが実を結んだ瞬間で、それを聞いて本当に嬉しくなった。


(3)奥様グループにテニスを誘われた旦那様たち

 家内は根っからのスポーツウーマンで、学生時代は短距離の陸上選手をやっていたような人だから、体を動かす競技は何でも好きである。東南アジアに住んでいたときには、楽しんでゴルフをやっていた。杉並区に引っ越して来てからは、近くにテニスのコートがあったので、ご近所の気の置けない奥様方とお互いに誘い、誘われて、そこで熱心にテニスをやっていた。それがとても上手なのである。例えば、バックのハイ・ボレーなどは、力を入れた球をなかなか打てないものであるが、家内がやるとそれがおもしろいように決まる。運動音痴の私としては、ただ感心するばかりだ。

 それが突然、「今度の土曜日にテニスをしない?」と誘ってきた。その日は、各奥様方がそれぞれの旦那様を呼んできて親善試合をしようという手はずなのだそうだ。私としては、テニスなどやったことがなかったから気が進まなかったものの、お付き合い上、どうしても出てほしいと言われた。そこでしぶしぶ白いトレーナーに着替え、家内にせき立てられて、テニスコートに向かったのである。しかしこれが、私のテニス・キャリアの幕開けになったのであるから、人生というものは、全く分からないものである。


(4)奥様方の華麗なテニスにきりきり舞い

 コートに着いてみると、その奥様グループの面々がもう集まっていた。男性は、私を含めて3人である。私のほかは、大学の体育の教官と、建築会社に勤めている一級建築士である。形ばかりの練習をしたあとで、早速、テニスのダブルスの試合が始まった。ところが、男性陣は、奥様方の華麗なテニスにきりきり舞いさせられた。

 男は力だとばかりに思い切り球を打つと、ホームランとなって隣の更にまた隣のコートまで飛んでいってしまう。そこで、力を入れずにそっと打つと、今度は奥様方に、まるで蠅を叩くようにバシーンと強い球で返される。球がコートの左に来たのでペアの男性が揃ってそちらの方に寄っていくと、奥様方は誰もいなくなったコートの右の隅に球をチョンと落とし、それで決められる。もう、さんざんであった。

 そこで、われわれ男性3人は、「このままでは面白くない。近いうちに絶対に敵討ちをするぞ」と固く誓ったのである。それから、毎週土曜日をテニスの日に決めて、ともかく3人そろって一生懸命に腕を磨いた。しかし、そう簡単に上手くなるものではない。ハイレベルの奥様方に追いつくまでに、かれこれ3年はかかったであろうか。問題は、こちらがある程度うまくなっても、先方もそれだけ上手になっていることである。それも道理で、奥様方は週2回も3回もやっている。とても、敵討ちどころではなかった。しかし、この男性3人とも、そろって負けず嫌いであるし、ただでさえ家では奥様第一で過ごしているから、その反動としてこういう遊びの場で負ける訳にはいかない。その一徹で、ともかくがんばったのである。

 3人は、それぞれ個性的なプレーヤーである。大学教官は、稲妻サーブが特徴である。入る確率はそれほど高くないが、目にも止まらぬ早さのサーブで驚かせる。建築士は、元バレーボールの選手だったらしくて、あたかも手の平で打つようなサーブを相手コートにすべり込ませるようにして入れてくる。どちらも、すごい。それに比べて私のサーブは、羽子板並みでどうにもうまくない。ところが、その代わりストロークでは下から上へとこすりあげるような打ち方をするので、スピンが利きすぎているから相手は打ちにくいという。かくして、私は家内以上にテニスに入れ込むようになり、しばらくして明治神宮外苑テニスクラブの会員になって、そこで長年にわたりプレーをしてきた。これというのも、家内のお陰である。


8.孫とともに暮らす日々

(1)同じマンションに初孫くんがやって来た

 娘と息子は、それぞれ医師国家試験、司法試験に合格したところで、家を出て自立した。おのおの人生の伴侶にめぐり逢って結婚し、まず娘のところに男の子(初孫くん)が生まれた。この時は我が家にとって30年ぶりの赤ちゃんだっから大騒ぎで、まあその愛らしいことといったらない。半年ほど経った時にハイハイできるようになったが、そのつぶらな瞳で見られると皆でメロメロになった。それにしても、髪の毛の勢いが強いのにはビックリした。

生まれて半年の初孫くん


 それから息子のところに女の子(孫娘ちゃん)と男の子(直系くん)が生まれた。だから我々の孫は、この3人ということになる。いずれも可愛くて、時々、会いに行き来したり、3家族一緒に食事をしたりするのを楽しみにしている。ところがある日、娘一家が突然、我々と同じマンションの一室に引っ越して来た。それからというもの、我々夫婦は、もう老境に達しているというのに・・・その生活が一変して、4歳(当時)になった腕白小僧の初孫くんのお世話に明け暮れるようになった。

 娘の話を聞いて、無理もないと思った。娘は御茶ノ水にある大学病院の医局に所属する外科医として、早朝から深夜まで働いていた。旦那さんは会社員で、こちらも仕事で大忙しだから、子供はベビーシッターに預けていた。ところが、子供は成長するにつれてますます活発になる一方、自分たちはじっくりと子育てをする時間がない。ベビーシッターを活用していたが、しょせん他人任せでは、十分な躾や生活習慣を身につけさせることができない。それに我が家からそう遠くないインターナショナル・スクールの幼稚園に入れたいという。


(2)生活習慣と想像力の豊かな遊び

 「よし、分かった。初孫くんの子育てを手伝おう。」と言ってはみたものの、家内は、以前に患った大病からは概ね回復したとはいえ、体調は必ずしも万全とは言いがたい。だから、私も応分に協力しようと、毎日のお風呂と寝かし付け、それに日曜日丸一日の世話を引き受けた。ところが、自分の子が小さい時には仕事が忙しくて、その寝顔しか知らないぐらいだから、子育ての初心者のまま今日に至っている。

 だから最初は戸惑うことばかりだ。風呂に入れて頭を洗おうとしたら、顔に水が掛かるといって嫌がる。食事をさせれば、わざわざ肉ばかりを取り分けて食べ、野菜はほとんど食べてくれない。これには途方にくれた。寝る時は真冬でも半袖一枚で、布団は跳ねのける。寝入りばなに必ず大汗をかくから、1時間ほどして着替えさせないと風邪を引く。そういうお世話のほか、日常の挨拶や手洗い歯磨きの習慣を励行させる。いやはや、大変だ。

 しかし、初孫くんはなかなか面白いキャラクターである。幼稚園の時代だが、いつの間にか部屋の隅にダンボールと座椅子で「僕のオフィス」なるものを作った。そこにiPadを置いて操作し、ゴルフのゲームをしたり、ユーチューブの幼児番組を見てククっと笑っていたり、手の届く範囲にお気に入りの物を置いて憩いのひと時を味わっていたりする。

 そうかと思うと、見物に行った花火大会のアナウンスや花火の打ち上げの物真似をする。それが実に上手いから、皆で聞きながら大笑いし、笑いすぎて腹の皮がよじれるほどだ。またある時は、ブロックで好きな物を作りたいというから、ティッシュペーパーの箱を山ほど買い与えておいた。するとそれを使って東京スカイツリー、東京駅、レインボーブリッジなどを自由自在に作る。想像力が豊かで、見ていて面白い。

初孫くんと私が葛西の観覧車に乗る


(3)インターナショナル・スクールと日本の小学校

 初孫くんが通うインターナショナル・スクールは、創設者が英語だけでなく日本語も同程度教えることを重視している。母国語を知らない者は英語もできないという信念だそうだ。だから1クラスに先生が2人いて、まず英語の先生が授業をした後、生徒全員がくるりと反対方向を向いて、日本人の先生が同じことを日本語で教えるという具合である。子供の数が少ないので、子供どうしや先生との関係がとても親密である。

 そこに2年間通った後、日本の小学校より半年ほど早く、8月下旬から新1年生になったばかりのことである。その年の秋になり、地元の教育委員会と公立小学校から通知が来て、翌年度の入学予定者になっていると知らされた。親が、「インターナショナル・スクールに通っている。」と言うと、「それは学校教育法の1条校ではないから、厳密に言えば同法違反になる。」と言われてしまったそうだ。

 親は悩んだ末、孫本人の意向もあって、引き続きインターナショナル・スクールに通わせるが、小学校にも籍を置き、インターが休みの時に小学校に通わせることにした。前者は自由放任の世界であるのに対して、後者は鉄の規律の世界だから、それに馴染むのは難しいのではないかと思った。しかし、案ずるより産むが易しの例えのとおり、機嫌良く両方に通っている。小学校では、特にドッジボールが大好きで、鍛錬の結果、今では相当強い変化球のボールを投げたり受けたりしているらしい。これからどういう人になってくれるのか、心から楽しみにしている。


(4)子育て経験の欠落期を補う

 私の子供が小さい時は、仕事が余りにも忙し過ぎたことから家内に任せきりで、私は子育てどころではなかった。私が自分の子供の子育てにようやく関わり始めたのは、子供が小学校の高学年になった時からである。しかし、老境に達した後、こうして初孫くんがやってきて4歳から同居するようになったおかげで、この時期の子育ての醍醐味を初めて味わうことができた。例えば、食事の工夫をしたり躾けたりした結果、生野菜をパクパクと食べてくれたり、大きな声で挨拶できるようになったりしたときには、家内と一緒に達成感と喜びを分かち合えた。いわば、私自身の子育て経験の欠落期を、補って余りある機会を与えてくれたのである。

 初孫くんが小さい頃は、嬉しいこと、悲しいことや怖いことがあると、「おじいちゃん」と言って抱きついてくる。そういう時は、限りなく愛おしい。小学校の低学年になると、少し逞しくなって、何でも「僕がやる。」と言って自ら対応しようとする。その結果、上手くいった時は褒めて共に喜び、そうでない時には慰めたり一緒に失敗の原因を考えたりする。子育てというのは、ハラハラ、ドキドキという瞬間も多いが、それも含めて、かくも楽しいものかと思う毎日を過ごしていた。

 ところが、初孫くんがインターナショナルスクール・スクールでもうすぐ3年生になろうとするとき、学校の活動などの都合があって、まるで孟母三遷の教えのように、学校のすぐ近くへと引っ越していった。我々は、心に大きな穴が空いたような寂しさを感じる一方、孫の毎日のお世話にそろそろ体力の限界を感じつつあった頃でもあり、少しほっとするやらで複雑な心境になった。しかし、初孫くんは、我が家に来た3年半前と比べて、心も体も格段に成長した。もはやその一挙手一投足を間近で見守ることはできないが、この調子で一生を逞しく過ごしてほしいと心から願っている。


(5)孫娘ちゃんと直系くん

 一方、息子のところの孫娘ちゃんと直系くんもまた、とても可愛い。ちなみに「直系くん」という呼び方は、別に家制度を意識したものではない。3人の孫が産まれた順に、「初孫くん」、「孫娘ちゃん」と呼んできて、さて、3番目のこの子をどう呼ぼうかと考えた末、「孫息子くん」というのが論理的なのだが、そうすると3文字になって長い。だから、2文字にするために、やむなく「直系くん」に落ち着いたという経緯がある。

孫娘ちゃんと直系くん


 さて、その孫娘ちゃんであるが、新型コロナウイルス禍前の年の春に小学校に入学して、ピカピカの1年生となった。バレーと英会話を習い、よく笑う活発な子に育っている。小学校へは5分の道のりである。お母さんが一緒に登校しようとすると、「自分で行きます。」 と、既に自立の気概を見せているとのこと。お母さんは心配でたまらないが、しばらく見守っているしかないようだ。

 また、習っているバレーの発表会が都内で開かれるとなったら、それに向けて一生懸命に練習している。前回に同じバレー・スクールの発表会があったときには、我々夫婦も見に行って、白雪姫のお花さん役で出てきた孫娘ちゃんの成長ぶりに目を細めたものだ。先日、パパが送ってくれた写真の中に、孫娘ちゃんが居間の椅子に掴まってバレーの開脚をしているものがあった。それが斜め45度の角度で見事に一直線になっていたので、びっくりした。このまま素直に、かつ健康に育っていってほしい。

 直系くんは、なかなか話すことができなかったが、もうすぐ3歳になろうというときに、ようやく喋り始めたばかりだ。しかし、それにしては、これがまた、実に面白いお喋りをするのには感心した。これくらいの幼児は、話す前にまず手が出たり、体を動かしてその要求を満たそうとするものだと思っていた。だから、その意図を掴みかねて、親が困るという構図が普通だと考えていたのだけれど、どうもこの子は違うようだ。

 まず、何をするにも、また何か思うところがあるときは、必ずそれを喋ってくれるから、とても理解しやすい。私はこれを「直系語録」と名付けて、以下に採取しておいたので、まずはお読みいただきたい。

 (箱根ロープウェイが最高点に達した後、芦ノ湖に向かって降りていくとき)「ああ、おちちゃう」と心配そうな声を出す。

 (小さなおもちゃを買ってもらって)「ペンギンのペンちゃんだをー 。おふろに、うかべるー。」(舌足らずなため、まだ「よー」と言えずに「をー」となるのが可愛い)

(芦ノ湖に棒切れを投げたものの、それが波で岸に打ち寄せられてくると)「ああ、もどってくるー。」

 (親が声をかけて「行くよー 」というと)「やだー。やだをー。」

 (芦ノ湖畔の芝生広場を通りかかった。そこは、今から9ヶ月前の去年8月に虫の展示があったところである。するといきなり)「カブトムシやりたいー。」(そんな前のことをよく覚えているものだ)

 (姉を倒して押さえつけて)「ねーちゃん、だーじょーぶ?」(だったら、最初から乱暴するな)

(食卓で騒ぎ立てるおそれが出てきたので、親が抱き上げたら)「だめー。はなちぇー。」(と、反りくり返る)つい、こう言いたくなる。「ウチの孫 「はなちぇー」と イナバウアー」

 (お土産に買ったプラスティックのおもちゃの一つ一つをつまんで)「たぶん、ヒトデだをー。こっちは、ダイアモンドだー。お、カメがでてきたをー。」(「たぶん」などという言葉を3歳の子供が使うか?)

 (お姉さんのプラスチックのおもちゃと比べて)「お、カメがおなじだー。」

 (自分の身体より大きい熊の置き物の頭を伸び上がって撫でて)「かーわいいね。」

(走って長ソファの背後に回り込んで)「うしよに、まわりこむをーっ」(まだ「後ろ」といえずに「うしよ」と言っているのに「回り込む」などという難しい単語をよく知っている!)

 (テレビの幼児番組を見て飛行機が離陸するのを見ていて)「あっ、コーキがとんだー。」

 どんな局面でも、パパはどこ?、ママはどこ?、姉ちゃんはどこ?と気にかけている。 連休中で、パパが朝から皆と一緒に寛いでいると、「パパ、きょうは会社、行かないの?」などと聞いて、パパを苦笑させたりしている。つまり、周囲や社会的環境にも興味と関心を示しているので、なかなか結構なことである。聞かれたらできるだけわかりやすく説明してあげるなどして、こういう特性を大切にしつつ育てていってほしいと願っている。


(6)恐竜のぬいぐるみ

 この新型コロナウイルス騒ぎで、ここしばらく、孫娘ちゃんと直系くんに直接会うのは控えている。週に1度、Skypeで顔を見ながら会話するくらいだ。二人とも、この夏は虫取りに熱中し、また最近は恐竜に凝っているとのこと。だから、私が福井県立恐竜博物館に行った時にそのことを思い出して、恐竜のぬいぐるみをお土産に買った。ティラノサウルス(茶と濃いピンクの2体)、トリケラトプス(緑)1体、海龍(薄いピンク)1体の合計4体である。ピンクは孫娘ちゃん、その他は直系くんのつもりだった。すると、パパが送って来てくれたビデオを見ると、この恐竜のぬいぐるみをめぐって大騒動が起こっていたようだ。それを再録してみると、

(段ボール箱から出てきた4体のぬいぐるみを前にして)

 直系「このセットみーんな、ボクのものだ。」(おいおい、それは欲張りな)

 孫娘「えぇーっ、ぜーんぶ? ちょっと、そーんな。いいから、わたしは、これとこれがいい。」

 直系「だっめーっ。だめーっ。」

 ママ「ほら、これは2人のだよー。おじいちゃんからのお手紙に、『きょうりゅうはくぶつかんに 行ってきました。ぬいぐるみを買ってきましたので、ふたりに送ります。なかよく分けてあそんでください』ってかいてあるわよ。」

 ママ「ボクは、どれがいいの? 4つあるから、2つずつね。」

 孫娘「これとこれ
(と、ティラノサウルスを指さし)、それともトリケラ?」

 直系「うーん、ティラノとトリケラ」

 孫娘「じゃあ、、、私はこのティラノと海龍」
(と、どちらもピンクを選ぶ。予想通り。)

 直系「そのティラノは、ぜんぜん強くないよ。」(と、妙な負け惜しみを言うので、笑ってしまう。)

 (孫娘ちゃんは、さすがに歳上だけあって、ピンクの2つを確保して膝の間に挟んだ後、『ちょっとこれ見せて』と、トリケラトプスのぬいぐるみを手に取ろうとすると)

 直系「だめ、だめ、ギヤーーーーーーーー。」

 とまあ、、、凄いことになっていた。これが毎日のことだから、パパもママも大変だ。子育て、本当にご苦労様としか言いようがない。しかし、こういう子育てのドタバタ劇も、しばらく経って振り返ってみると、人生の大きな楽しみの一つだったと思う時が必ずくるものと信じている。



(第5章は、令和3年4月11日記)

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第6章 内閣法制局

内閣法制局が入居している霞ヶ関の第四合同庁舎



1.内閣法制局第四部参事官

(1)将来に飛躍する大きな足掛かり

 私は、平成元年6月27日付けで、通商産業省から内閣法制局に出向し、第四部参事官に任じられた。39歳のときである。それ以来、5年の長きにわたって、来る日も来る日も六法全書と首っ引きで条文と格闘し、判例や専門書を読み込み、法令案を持ち込んでくる関係省庁の皆さんと法律論を闘わせるという日々を過ごした。おかげで、立法と法律を読むセンスが磨かれ、課題解決のための戦略の立案と交渉事に強くなり、将来に飛躍する大きな足掛かりとなったと考えている。その後いったん通商産業省に帰り、課長等のポストを4年間、経験した。それから再び内閣法制局に、中央省庁等改革法制室長として戻ってきた。爾来15年間、各部長と次長を経験して長官を終えるまで、内閣法制局において勤務したのである。

 そういうわけで、私の40年間にわたる国家公務員人生のうち、通商産業省と内閣法制局でそれぞれちょうど20年間を過ごしたことになる。この2つの中央省庁と、その後に6年間勤めた最高裁判所は、家族とともに、私の人生そのものといってよい。


(2)参事官どうし肝胆相照らす間柄

 内閣法制局第四部の参事官の数(当時)は5人で、私はそのうちの1人となった。第四部にはやはり通商産業省から出向してきている参事官がもう1人いた。迎陽一さん(後に商務流通審議官)である。このほか、各省から出向してきている同僚の参事官は、いずれも極めて優秀であるだけでなく、人格識見ともに素晴らしい人ばかりだった。

 その中でも、農林水産省の井出道雄さん(後に農林水産事務次官)と運輸省の宿利正史さん(後に国土交通事務次官)は、私や迎さんと気が合い、この4人で毎日のように一緒に昼食へ行き、肝胆相照らす間柄になったのは、文字通り、一生の財産である。


(3)参事官は頭と体力の勝負

 第四部のような審査部の参事官は、主として毎年1月から3月までのわずか3ヶ月間という限られた期間の中で、膨大な法律案審査の業務を1人で効率よく正確にこなさなければならない。その意味で行政経験が豊かであるだけでなく、深い法律専門知識が必要だ。

 そればかりか、繁忙期には土曜・日曜や祝日すらもなくて、しばしば明け方まで及ぶ過酷な作業に耐えられるだけの強靭な体力も要求される。このような熟練度がものをいう職種としての特性から、参事官の在職期間は、通常の例では4〜5年になっており、これは1〜2年で次のポストに移るのが普通の一般の行政官に比べて、かなり長いものとなっている。


(4)基本法の中でも憲法の判例が豊富に

 法律案の審査をする前提として、憲法はもちろんのこと、民法、刑法、会社法などの基本法の知識は必要不可欠である。私が参事官になったときは、大学を卒業して既に16年も経っていた。だから法律の知識を新しくしなければいけないと思って、就任直後の夏休みを利用して、改めて勉強することにした。その当時の司法試験の標準的な教科書をすべて読み込むとともに、各法の判例百選などを勉強した。学生時代を思い出してなかなか面白かった。

 特に変貌が著しかったのは憲法で、私が大学を卒業して以来、色々な判例が積み重なって内容がはるかに豊富になり、判例集は全く別のものになっていた。だから憲法は、勉強のやり甲斐があったといえる。しかし、ほかの法律は、判例が積み重なってはいるものの、法律の条文や解釈そのものの考え方は、学生の頃とさほど変わっていなかった。


(5)法体系と整合し法規範として適切かどうか

 第四部での私の担当は、通商産業省本省内局の一部、特許庁、中小企業庁、農林水産省畜産局(当時)、水産庁、公正取引委員会、そして環境庁(現在の環境省)である。これら所管省庁は、法律案や政令案の素案を作って、説明資料とともに参事官の審査テーブルに持ち込む。これに基づいて原課(担当課)と官房総務課(省によっては文書課)の担当者数人が参事官に説明するとともに、その質問に答える形で審査が進む。

内閣法制局参事官の審査机


 参事官としては、まずその法律案が「法律事項」つまり、人に権利を与え、又は義務を課す事項を定めるものであるかどうかを審査する。これがないと、単なる政治的宣言であったり、予算で措置すればよいものまで法律になったりしてしまうので、基本法案のような特殊なものを除いて、認められないこととなっているからだ。

 その上で、その法律案が現行法体系、判例、実務慣行等と整合性があるか、また、国民に尊重され、遵守されることが期待されるかなど、法規範として適切かつ妥当なものであるかどうかを見る。政令案の場合には、これらに加えて、根拠となる法律の委任があるか、あるいは法律を実施するものかどうかなどをチェックする。


(6)逐条毎の審査の要点

 次の段階として、今度は逐条毎の審査に移る。これは、条文案を一つ一つ検討していくものである。新規立法の場合には、全体の姿を検討の上、直ちに条文案の作成に入る。これに対して、一部改正法の場合には、まず新旧条文を対照する表を作成する形で新条文の検討を行い、それを元にして一部改正条文(いわゆる「改め文」)案の作成に入る。

 逐条毎に見ていって、法文中に立案の意図が簡潔明瞭で正確に表現されているか、法文中の法令用語や法令表現に慣用のものが使われているかなどをチェックする。よくありがちなのは、立案者が独自の表現を用いて法文を書いてくることで、そうすると既存の法令の表現と掛け離れてしまう。しかしそれでは、どう解釈してよいか分からなくなるし、場合によっては反対解釈されるおそれがある。

 これに対し同じ法概念を表現するのに、他法令で使い慣わされているものと同一の表現にすると、当該他法令の確立した解釈や判例をそのまま使えるので、解釈するのに迷わないし、間違えない。だから、立法に当たっては、前例探しが不可欠である。しかし、前例がないので、全く駄目というものでもない。そんなことでは、法律が新しい社会現象に対処できないからだ。そこで、前例や考え方は旧来のものを踏襲しつつ、実はかなり新しいことをしているのだけれども、そうとは思わせない。これこそ参事官の腕の見せ所である。


(7)工業所有権特例法案では電子出願手続を導入

 第四部の参事官として私が最初に審査を行った法律案は「工業所有権に関する手続等の特例に関する法律(平成2年法律第30号)」である。当時の特許庁に対する出願の件数は年間で74万件余りに達し、もはや人手による処理は限界に達していた。そこで出願等の特許庁の事務を、全面的に電子化しようという野心的な計画が立てられた。

 ところが当時の特許法等は、書面による処理を前提として全ての規定が作られていたので、この計画を実現するには、法律面での手当てが必要だった。対象とするのは、特許、実用新案、意匠、商標出願並びに特許協力条約に基づく国際出願である。それだけが決まっていて、法律の内容をどうするのかは、全くの手探り状態だった。

 調べてみたところ、ただ一つだけ前例となり得る既存の法律があった。それは成田空港での通関手続を電子化するために、税関当局の管理下にあるホストコンピューターと税関の末端部局や各通関業者の手元にある端末のネットワークを包括して「電子情報処理組織」と呼び、これを通じて行われる申告等又は処分の通知は「書面の提出又は送達により行われたものとみなして、法令の規定を適用する」という法律構成である。通関と特許は何の関係もないが、この「みなす」方式であれば、既存の特許法や商標法をそのままにしておいて、一本の特例法を作るだけで済むので、簡略でしかも分かりやすい。

 そこで同じ法律構成を採用することにした。どの手続を電子処理の対象にするかは、システム開発や予算の都合もあるだろうから、省令に委任して、準備ができたものから順次追加していけばよい。問題は、特許料や出願料の支払いである。一方では電子出願をするというのに、他方では相変わらず特許印紙で支払うというのでは、電子化した意味がない。この点は特許印紙や現金で見込額を予め納めてもらって、そこから銀行口座のように引き落としていく予納制度を設けることを思いついた。

 初めて審査した法律案であったが、まあこれで完璧だろうという案を作り上げて当時の越智正英第四部長(後に運輸審議官・日本航空副社長)の審査を受けた。すると、直されたのは予納部分の2つの条文の順序を入れ替えることだけで、部長から「うむ、これは法律案になっている。」と言われた。これで参事官としてやっていけそうだという自信がついた。


(8)再生資源利用法案はリサイクル法の先鞭

 「再生資源の利用の促進に関する法律(平成3年法律第48号)」も、なかなか思い出深い法律案である。今でいう「リサイクル」、つまり現状では捨てられたり、廃棄されたりしている物を収集し、原材料としてもう一度、生産過程に投入することを促進する法律を作りたいというのが通商産業省の希望だったが、これをどう表現するかが問題だった。特に、廃棄物の処理及び清掃に関する法律という既存の法律の廃棄物の定義に触れないようにしながら、今回の対象物を網羅する定義ができるかどうか、色々と思考を重ねた。

 その結果、「再生資源とは、一度使用され、若しくは使用されずに収集され、若しくは廃棄された物品又は製品の製造、加工、修理若しくは販売、エネルギーの供給若しくは土木建築に関する工事に伴い副次的に得られた物品のうち有用なものであって、原材料として利用することができるもの又はその可能性のあるものをいう。」と定義した。この法律は一連のリサイクル法の先鞭を付けた形となり、平成12年にはリデュース(発生抑制)とリユース(再利用)を追加して「資源の有効な利用の促進に関する法律」として新たな発展をみせている。


(9)独禁法の改正案では法人処罰を強化

 「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律の一部を改正する法律(平成4年法律第107号)」は、本邦初公開のことを行ったという意味で、記憶に残る法律案である。これは、法人に対する罰金の最高額を億円単位に引き上げる「法人重罰規定」を創設したものである。それまで他の人が色々とチャレンジしたが、あまりに難しくて、出来ないと諦めたものだった。

 その当時はすべての刑罰法規において、法人に対する罰金の額の上限は、行為者つまり当該法人の役職員に対する刑罰のうちの罰金の額の上限になっていた。それは、法人自体には犯罪の行為能力はなく、ただ行為者に対する監督責任が問われるだけなので、そうすると刑罰の種類と程度は、現実の行為者である者のそれを超えてはならないと考えられていたからだ。だからその当時の法人処罰の罰金の上限は、この独占禁止法の場合は500万円に過ぎなかった。

 しかし、このような経済犯罪を敢行することにより場合によっては何百億円もの利益を上げる法人があり得る中で、高々500万円の罰金を課す程度では、別途、課徴金制度があるとはいえ、事業者に対する処罰としては、ほとんど意味がない。従って、行為者に対する罰金の額と連動させることなく、法人にはその犯罪の経済的意味を踏まえたそれなりの多額の罰金を課してしかるべきだと考えたのである。しかし、そうすると、当時の刑法学会の大きなテーマだった「法人には犯罪能力があるのか」という神学的論争に巻き込まれてしまい、法制審議会での議論が全く進まなかった。

 これではいけないと、当時の公正取引委員会の担当者であった佐島(後に改姓して神宮司)史彦さんと何回も相談してひねり出した理論構成が、「法人には犯罪能力はないかもしれないが、現行法の下でも法人には受刑能力がある。なぜなら、現に罰金を支払っているではないか。だから、犯罪抑止の観点から法人についてそれを引き上げても、何ら問題はない。」というものである。詭弁のようだが、法人に犯罪能力があるかどうかなどという形而上の論争にかかずらっていても、何の解決にもならないと思ったからだ。その理論構成で法制審議会の下に設けられた委員会の了解を無事にいただいたのが、確か年末のことである。

 さて、年が明けてから独禁法の改正案をゆっくり作ろうと思っていた矢先、第三部の参事官が突然やってきた。そして、「あの法人重罰の考え方は、証券取引法の改正案で先に使わせていただきます。」と言うので、唖然とした。鳶に油揚げをさらわれるとは、このことだ。確かにその頃、証券取引法の罰則強化が政治課題となっていた。だから、我々の独禁法の話をどこからか聞いて、これは使えると思われたのだろう。まるで鳶に油揚をさらわれたような気分だった。かくして翌年早々、証券取引法の改正案に遅れること約1月半で、独禁法の改正案の閣議決定を行うこととなった。


(10)バーゼル条約実施法案は共同審査

 「特定有害廃棄物等の輸出入等の規制に関する法律(平成4年法律第108号) 」は、「有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」(略称は、バーゼル条約)の条約実施法として、特定の有害廃棄物の輸出、輸入、運搬及び処分を規制するために立案されたものである。規制対象の有害廃棄物の定義はバーゼル条約そのものから持ってくればよいし、輸出入の規制も外国為替及び外国貿易法の体系をそのまま使って通商産業大臣の承認に環境庁長官の通知等を絡ませればよいから、法律案の作成は別に難しいものではない。

 ところがどういうわけか、環境庁の法案担当者があまり説明したがらないので、審査が少しも捗らない。いったいどうしたのかと問い詰めると、要するに私が通商産業省の出身だから、色眼鏡を使って審査するのではないかと警戒していたらしいことが分かった。たとえ出身省庁がどうであろうと審査の内容は客観的に定まるので、内閣法制局参事官がそれを曲げて審査するようなことはあり得ない。しかし、こういうお門違いの偏見をいだくような人に、わざわざ時間を使って説得を試みても無駄だ。

 そこで部長と相談して第二部の米田壮参事官(後に警察庁長官)と共同で審査することにした。前例もなく極めて異例だったが、仕方がない。一つ上の階に会議室を確保して、その四角いテーブルの一辺に我々2人の参事官が並んで座り、左右に環境庁と通商産業省の担当者に分かれて座ってもらって審査をしたのである。これで作業はどんどん捗り、法律案が出来上がった頃に、その環境庁の担当者がこう呟いた。「何だ。結局、2人の参事官が言うことは、全く同じだった。」


(11)不正競争防止法は全面改正案

 「不正競争防止法(平成5年法律第47号)」は、私にとって記念すべき仕事になった。新たな不正競争の類型として、著名表示の冒用と商品形態の模倣を加え、損害額推定規定を設けるとともに、それまで片仮名法だったことから使いづらいと評判が悪かったこの法律を全面改正して、現代風の法律に体裁を一新したのである。その際、色々と研究した成果を「要説 不正競争防止法」(発明協会)として出版したところ、あまり研究者がいなかった分野だったこともあり、この本は基本書のような地位を得た。

 その後、この法律自体が知的財産権の強化という観点から、毎年のように改正されていった。例えば、ドメイン名の不正取得等の追加、営業秘密の刑事的保護の強化、外国公務員贈賄罪に対する日本国民の国外犯処罰規定の新設などが行われた。

不正競争防止法と製造物責任法の解説書



(12)製造物責任法案では審査テーブルで3省庁が大議論

 「製造物責任法(平成6年法律第85号)」も、珍しい経過をたどって成立した法律である。この法律は、製造物の欠陥により、人の生命、身体又は財産に係る損害が生じた場合において、その製造業者等に対して無過失損害賠償責任を規定する法律である。その必要性については法律関係者の間でかねてより意識されていたものの、アメリカにおいては厳格責任の法理が行き過ぎ、製造物責任危機といわれる深刻な事態が発生して、保険会社が保険の引き受けを拒否するなど混乱が生じた。このため我が国での法制化に当たっては、関係する業界からの警戒感が非常に強かった。

 しかし、ヨーロッパでは製造物責任に関するEU使令が出て各国がそのための法制の整備を進め、その内容も合理的なものであったことから、我が国でも機が熟したと判断された。そこで法律案を作ろうとしたところ、その所管省庁として、同時に多くの省庁が名乗りを上げる結果となった。私のところで調整を進めた結果、その所掌事務から、経済企画庁を主管、法務省と通商産業省を共管とすることで決着した。

 その次の課題は、法律案の内容であった。それぞれの省庁が独自に設置した審議会の意見を反映して各省庁によって内容はバラバラであり、内閣法制局の私の審査テーブルに3省庁が付いてもまだ決まらない。こんなことは異例である。このままでは法律案提出の期限にとても間に合わない。危機感を覚えた私は、これまた異例だったが、その場で自ら条文案を書きつつ調整に乗り出し、結局、EU使令の線で強引にまとめてしまった。この法律案の内容が、各省庁の審議会の中間報告と全く異なっているのは、そのためである。ちなみに、この調整が成功した大きな要因は、各省の担当課長がいずれも、たまたま私の大学時代の同級生だったという偶然の産物ではないかと思っている。


2.中央省庁等改革法制室長

(1)夏はとても暑く冬はどうしようもなく寒い

 平成10年7月1日、私は、内閣法制局第一部中央省庁等改革法制室長として、再び内閣法制局に戻ってきた。その4年前に第四部参事官の職を終えて通商産業省にいったん帰り、そして今回、大森政輔内閣法制局長官、津野修内閣法制次長の下で指定職となったもので、48歳になっていた。内閣法制局は霞が関の第四合同庁舎の11階にあるが、この法制室は臨時に設けられた組織だったことから、その11階にはスペースがなくて、止むを得ず同じ建物の4階に部屋を置くことにした。

中央省庁改革室長


 ところが、省エネルギー対策の行き過ぎもあって、この部屋の居住環境は劣悪で、夏はとても暑く、冬はどうしようもなく寒い。とりわけ仕事が最盛期を迎える冬は、窓からゾクゾクするような寒気が入って来るのが身をもって分かる。私の机は窓際だったが、そんなところにいると風邪を引いてしまう。だから、窓から離れた出入口のドアに近い場所にあったテーブルに移り、そこで白い息を吐きながら、オーバーを着こんで作業したものである。


(2)橋本行革の青写真を具体化

 中央省庁等改革とは、橋本龍太郎首相の主導の下で行われた戦後最大の行政改革である。その目的は、内閣機能を強化して従来のような縦割り行政による弊害をなくし、中央省庁を再編成して国の事務・事業の減量及び効率化を行うことだ。これにより、中央省庁については1府22省庁から1府12省庁へと再編されるとともに、新たに独立行政法人制度が設けられようとしていた。

 この大改革を実現するために、いわば全体の青写真である「中央省庁等改革基本法(平成10年法律第103号)」が私の着任の直前に制定されていて、後はこの基本法に従って関係する法律案を粛々と出して行くという運びになっていた。その法律案作成の実務は、基本法に基づいて設置された中央省庁等改革推進本部事務局が行い、私が室長である中央省庁等改革法制室がこれらの法律案を審査して、青写真を具体化していくという体制である。


(3)気が遠くなるような作業量

 私は着任して早々、どれぐらいの作業量になるかを試算した。この改革を2年に分けて行うとして、最初の年には、内閣法や国家行政組織法の一部改正法案、内閣府や総務省等各省庁の1府12省庁設置法案、独立行政法人通則法案等を作成して国会に提出しなければならない。分量はさほどではないが、各府省庁の所掌事務をめぐる争いになるから調整は容易ではなく、最後の最後まで揉めるだろう。

 これに対して次の年には、こうして完成した各府省庁設置法に基づいて、作用法である一連の法律を全て改正しなければならない。大臣名や省庁名を差し替えるようなごく簡単な改正が多いが、所掌事務に変更があった府省庁の場合には、その設置法どうしで整合性をとるようにしなければならない。また、100余にも及ぶ数の特殊法人について、通則法に対応する個別法を個々に作らなければならない。だから、とても分量が多い。

 当時の我が国の現行法規の数は約1,700本近くだったが、そのうち1,200本ほどを一挙に改正し、その他に120本余りの新法律案を作らなければならない。内閣法制局始まって以来の大仕事となる。気が遠くなるような作業量だが、「千里の道も一歩からだ。来年のことを今から心配しても仕方がない。」と思って、目の前の法律案の作成に一つ一つ注力していった。


(4)知恵の場という文学的表現

 最初に直面した難問は、内閣官房と内閣府との関係である。この中央省庁等改革基本法の元となった行政改革会議の最終報告では、内閣官房は戦略立案機能を担う最高かつ最終の調整機関であり、内閣府はこのような内閣官房を助ける「知恵の場」とされている。ところが、この「知恵の場」という文学的表現は、そもそも法律には馴染みにくい。加えて、政府の機能を企画立案と実施に分けるという発想は抽象的には理解できるものの、これに従って各省の外局を政策庁と実施庁に二分するというのは、至難の技を通り越して理屈倒れに終わる気がした。その他、独立行政法人制度も各省庁の監督規定を外すのはよいが、それだけでは、特に公務員型は、さほどの経営の自律性は持てないのでないかと直感的に思った。

 後から知ったところによると、これらの点は、行政改革会議の過程で揉めに揉めた問題の中核部分であったようで、関係者の思惑と最終報告に書かれたものとが必ずしも一致しないことは薄々意識されていた。しかし、中央省庁等改革基本法は、法律という体裁をとっているだけあって、このような点を含めて法律用語を用いて法律的発想で規定してある。だから、とりあえずこれに忠実に法律案を立案していこうと思った。

 これだけ同床異夢のような部分があると、法律案にした段階で、それは最終報告とは違うなどといって何らかの反動が現れるだろうと思っていた。現にそうした逆噴射のような反動が少しはあった。しかし、中央省庁等改革基本法の規定を引いて個々の法律案の条文をお示しし、だから論理的にはこう書くしかないと丁寧に説明して、お引き取りを願った。


(5)選りすぐりの精鋭たち

 中央省庁等改革法制室に配属されたのは、荒川光弘参事官(当時の建設省)、荻野徹参事官(警察庁)、松永邦男参事官(当時の自治省)、渡邊一洋参事官(当時の運輸省)という各省庁からの選りすぐりの精鋭たちだ。少し話をしただけでその趣旨を理解して審査に生かしてもらえるし、また私の気づかなかったことをちゃんと補ってくれるから、誠に小気味よい。これら参事官と知的なキャッチボールをしながら、各法律の骨子を固めていった。内閣法改正のポイントは、企画及び立案並びに総合調整に関する事務を書き加え、大臣の数を絞り、内閣官房副長官補等を書き加えるというものである。

 一番の焦点は内閣法や内閣府設置法と各省設置法との関係だった。内閣府を官房機能の支援機関と考えれば、もっと簡単なものとするやり方もあったとは思う。しかし、基本法上には「内閣官房を助けて国政上重要な具体的事項に関する企画立案及び総合調整を行い・・・」とある以上、例えば従来の総理府のような、いわばどの官庁の所掌でもない細々とした業務を寄せ集めたようなものにするわけにはいかないし、各省庁の上にあるという位置付けにも配慮しなければならない。そういうわけで、内閣府設置法は国家行政組織法の対象となる組織とはせずにこれと同様の規律を書き下し、それに内閣府の任務等を付け加えるということにせざるを得なかった。


(6)各省設置法案のマニュアル

 次の大きな課題は、各省設置法の立案である。かねてより私は、各省設置法の規定ぶりが、省庁によってばらばらだったことが気になっていた。例えば、各省の中でも歴史が古い大蔵省と、戦後にできた新しい省である建設省とでは、法の形式が明らかに違う。各省それぞれを比較しても、任務と所掌事務との振り分けには一貫性がないし、所掌事務の記述が簡素な省もあれば些細な法律の施行事務まで記述している省もあって、全く統一されていない。これでは、国民の目からしても、分かりにくいだろうと思った。

 そこでまず、形式は必ずこれに従うようにという「マニュアル」を作り、その通りにしてもらった。その中で例えば、個別の法律の施行事務は、それが一般的規定で読めるときには特に規定を設けることはせず、読めないときだけ規定することにした。そうすると、非常にすっきりとした条文になった。そのように、まず形式の統一から入り、そこに盛り込む内容を各省庁と議論していった。


(7)中立公平の観点から調整案

 一般に各省庁の所掌事務というのは、各省庁固有のレゾンデートルに関わるものと受け止められている。だから、これを確保することは、組織の将来を左右する事柄であるとまで思い詰められることがある。そうはいっても、どこかで割り切ってもらわなければ案がまとまらない。複数の省庁が対立してデッドロックに乗り上げるということも珍しくはなかった。そういう中、出来るだけ中立公平の観点から調整案を示し、一つ一つ解決していった。

 所掌事務の仕分けに際しては、その性質上、同床異夢やどっちつかずの解決案は論外で、どちらの省庁に属させるのか、その白黒をはっきりさせなければならない。だから、最後まで揉める。参事官レベルでは決着がつかない案件は私に委ねられ、各省庁の局長を相手に調整に努めるのが仕事であった。

通商産業省の名称が経済産業省に変わる


 この中央省庁等改革で、霞ヶ関の様子が一変した。私が慣れ親しんだ通商産業省の名称が経済産業省に変わり、大蔵省もその名称が財務省になり、金融庁が内閣府外局となり、自治省と郵政省と行政管理局等が統合されて総務省に、厚生省と労働省が厚生労働省に、文部省と科学技術庁が文部科学省に、運輸省と建設省等が国土交通省になった。時代の流れとはいえ、この地で長年にわたり働いてきた者として、これには誠に感慨深いものがあった。

霞ヶ関中央省庁案内板



(8)1週間の睡眠時間は僅か3時間

 そういうことで、内閣法改正法案、内閣府設置法案、各省設置法案、独立行政法人通則法案など計17本の法律案を審査して閣議決定を行った。これだけの数の法律案を限られた期間内に仕上げるためには、特に最後の読み合わせがネックとなる。これは審査した参事官しかできない決まりであり、とりわけ地方分権一括法の読み合わせと重なった松永邦男参事官は、その1週間の睡眠時間は僅か3時間余りだったと記憶している。だから「参事官」と言われるというのは冗談としても、仕事とはいえ、本当にご苦労をおかけして申し訳なかった。

 私は、それほどではなかったものの、すべての参事官が担当した法律案の全部を審査した関係で、歳相応にそれなりに頑張った。終わってみれば、これだけの濃い内容をあれだけの短い期間で、我ながらよくこなしたものだと、自分でも驚くばかりである。まさに、疾風怒濤のような日々であった。そうして、息も絶え絶えのある日、秋も深まり、法制局のある建物(第四合同庁舎)の11階から外の景色を見ると、左手には国会が、眼下には赤や黄色に色づいた葉が、正面には最高裁判所が見え、思わず「ああ、これは美しい。」と思った記憶がある。

外の景色



(9)執務室のドアはいつでも開放

 中央省庁等改革法制室長は臨時の職とはいえ、ともあれ指定職であったことから、執務用の個室が与えられた。この個室というものは、誰にも邪魔されずに思索を練ったり、込み入った文章を書いたり、保秘を要する電話をしたりするときには、非常に有り難い存在である。しかしその反面、個室のドアが閉まっていると、部下にとって入りにくい雰囲気が生まれてしまう。その結果、上司の喜びそうな良い情報は入ってくるが、悪い情報はわざわざドアをノックして開けて入るまでもないという気持ちになりがちだから、必然的に伝わりにくくなる。しかしこの悪い情報こそ仕事をする上では必要で、それがないと事態の悪化を食い止められないばかりか、場合によっては破滅的な事態をも招きかねない。

 そういうわけで、私は個室が与えられるようになっても、ドアをいつも開けることにしていた。この習慣は、部長時代はもちろんのこと内閣法制次長や長官になっても続けていて、後年、最高裁判所に移っても変わらずにいた。そうしたところ、どうやらそういう裁判官は少数派だったらしくて、珍しがられた。確かに裁判所には、そういう急を要する微妙な案件が、そもそもないからかもしれない。


3.第四部長

(1)ようやく正式な役員クラスに

 平成11年8月31日、中央省庁等改革法制室長を1年余りで終えた私は、内閣法制局第四部長に任命された。津野修内閣法制局長官、秋山收内閣法制次長のときで、私は49歳だった。前職の室長は、幹部級を意味する指定職とはいえ、中央省庁等改革が終われば消滅する臨時の職で、しかも政令職だった。しかし第四部長は、指定職であることはもちろん、内閣法制局設置法にその根拠がある恒久的な法律職である。だから、民間企業でいえば、ようやく正式な役員クラスになったのと同じである。そう思うと、ことのほか嬉しかった。第四部の担当省庁は公正取引委員会等、厚生労働省、農林水産省、経済産業省及び環境省で、これらの省庁から提出される法律案及び政令の審査をすることがその仕事である。

 部長の役割は、参事官の事前相談に乗り、進行状況を適宜管理し、法律案等ができればその審査をすることである。この審査は、担当参事官の皆さんを相手に行うもので、「部長審査」といわれている。これにパスした法律案等は、部長の了解を得たものとして、各省庁と協議を始めてもよいことになっている。参事官には、近藤正春、稲垣史則、山本雅史(いずれも経済産業省)、林徹(農林水産省)、藤木則夫、大澤範恭、高橋紀夫、大西康之(いずれも厚生労働省)などがおられ、大変お世話になった。


(2)電子署名認証法案は民事訴訟法規定のデジタル版

 第四部長時代の印象深い法律案が幾つかある。「電子署名及び認証業務に関する法律(平成12年法律第102号)」はその一つで、担当する経済産業省は、「ちょうど普及し始めたインターネット上の電子認証業務を行う事業者を何とかして法律上に位置付けたい。さりとてインターネット空間では特に自由が尊重されるので、その取引のインフラを形成する事業者を法律で直接縛りたくない。」というアンビバレントな立場だった。

 法律の立案方針として、現実に生起している危険があればこれに対して義務を課して縛り、その危険を除去するというのが、ごく一般的なやり方である。その考えで立案すると、電子認証業務を行う事業者の資格要件や業務遂行基準などを設けて監督し、その適正な業務遂行を確保するということになる。しかし、今や高度情報化社会は、勃興期を過ぎて、ようやくこれから自由に発展しようとしている。その中核的なインフラを担う事業者を規制するというのは、いかにもそぐわない。

 担当参事官などとあれこれ議論した結果、民事訴訟法228条4項が、書面について「本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。」と規定していることに着目した。そのデジタル版として「情報を表す電磁的記録に本人による電子署名が行われているときは、真正に成立したものと推定する。」という規定を作れば、インターネットを取引に利用する際の重要な法的基盤ができる。そうすると、何も規制を設けるまでもないし、民事訴訟法の例外を法律で定めることになるから、これが法律事項となる。

 その上で、電子署名を行ったことを証明する業務を行う事業者が中立公正に業務を遂行するよう、第三者機関を設けてこれを通じて間接的な監督を行っていけばよいのである。この部分は、必ずしも法律事項ではないが、来たる高度情報化社会のインフラの基盤作りとして非常に意味がある。時宜に適した法律になったものだと、担当参事官と喜びあった。


(3)特定放射性廃棄物最終処分法案は運用されず

 「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律(平成12年法律第117号)」も、知恵を絞った思い出のある法律である。当初の経済産業省の考えは、原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物を地下300メートル以上のしっかりした地層に最終的に処分したい。そのために、国内で適地を選定し、所要の技術基準を定めて埋設するが、その費用は電力業界から徴収したいというものだった。盛り沢山な内容で、これらを法律的にどう構成するか、つまり法律事項をどう捉えて、しかもこれらを権利義務としていかに組み合わせていくかが問題であった。

 色々と考えた末、(1)最終処分業務等を行うための公的な法人(機構)を設立し、大臣の監督の下に置く。(2)発電用原子炉設置者は、その原子炉の運転に伴って生じた特定放射性廃棄物の最終処分業務の費用に充てるため、機構に対し、拠出金を拠出しなければならない。(3)機構は、発電用原子炉設置者が拠出金を拠出したときは、大臣の承認を受けた最終処分計画に従い、特定放射性廃棄物の最終処分を行わなければならない。(4)最終処分施設の保護のため、これに侵入又は破壊するような行為に対して命令と罰則を設けるということにした。つまり、(2)で発電用原子炉設置者は、機構に対し拠出金を拠出する義務を負う代わりに、(3)で機構は特定放射性廃棄物の最終処分の義務を負い、これによって発電用原子炉設置者は自らの処分義務を免れるという法律関係にしたのである。

 このようにして立派な法律はできたのであるが、残念ながらこれまでの運用状況をみると、問題が問題であるだけに最終処分の前提となる概要調査地区の選定すら難航しているようである。


(4)電子消費者契約法案は高度情報化時代の民法の特例

 「電子消費者契約及び電子承諾通知に関する民法の特例に関する法律(平成13年法律第95号)」は、高度情報化時代の電子取引について、わざわざ民法の特例を設ける法律である。すなわち、パソコンの操作ミスなど消費者が行う電子消費者契約の特定の錯誤につき民法の錯誤の規定を不適用とし、隔地者間の契約において電子承諾通知を民法の発信主義から到達主義へと転換することとしたものである。

 ごく短い法律であるが、民法の例外を設ける法律であるだけに特に定義を誤らないよう、その外延(その法律の定義がどこまで及ぶか)と、内包(その定義でどういうものが含まれるか)について慎重に審査した。


(5)鳥獣保護法案は自然保護官と作成

 「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律(平成14年法律第88号)」は、大正7年に制定された片仮名法の「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」を現代語表記に改めるとともに、規制内容を最近の法律にふさわしくしようとするものである。ところが、原案がとても法律案ともいえない代物だったので、担当参事官を通じて環境省の担当官を呼んで聞いてみたところ、「私はつい最近まで、レンジャー(自然保護官)として山野を歩き回っていたので、法律のことはさっぱり分かりません。」というので、唖然とした。

 環境省の事務官の数が足りないというのは知ってはいたが、それにしてもこれほどとは思わなかった。法律案提出の締切りも迫るし時間もないので、その場で鳥獣の保護についてのよもやま話を聞きながら必死になって筆を動かし、ごく短期間ではあったが、最近の法律の形式や論理構成となるように書き下し、何とか期限内に仕上げたものである。


(6)援護審査会委員

 こうして法律案や政令を審査するだけでなく、当時は現役の国家公務員が国の審査会の委員になることが認められていたので、平成11年9月26日、厚生労働省の「援護審査会委員」に任命された。これは年に数回開かれ、戦傷病者戦没者遺族等援護法、旧軍人等の遺族に対する恩給等の特例に関する法律等に関する議決案件や異議申立案件を審議した。

 案件の多くは旧軍人や軍属等あるいはこれらの遺族の方々からの異議申立てだったが、戦争による混乱やその後の年月の経過などで資料や証拠に乏しい中、色々と同情に値する事案も多かった。私も個別の案件に対して必要に応じ意見を述べ、答申案に取り入れていただいた。


4.第二部長

(1)民事訴訟法の大家の隣

 第四部長として3年が経とうとする頃、内閣法制局の幹部の人事異動があって、私は、第二部長を内示された。もう少しこのまま第四部長を続けるのだろうと思っていたから、意外な抜擢に驚いた。

 平成14年8月27日、私は内閣法制局第二部長に任命された。秋山收内閣法制局長官、阪田雅裕内閣法制次長のときで、私は52歳になっていた。第二部は、内閣、内閣府、法務省、文部科学省、国土交通省及び防衛庁(当時)を担当する。民法や刑法などの基本的な法律を所管する法務省や、時の政府の中枢である内閣官房と内閣府を担当する極めて重要な部であるから、それだけ長官や次長から評価していただいていると嬉しかった。だから、職務に精勤しようという気持ちが、ますます高まった。

 これに引き続いて、同年9月17日には、最高裁判所の民事規則制定諮問委員会と刑事規則制定諮問委員会の委員にも任じられた。その民事規則制定諮問委員会に行くと、席順が五十音順となっており、私の左隣にはどこかでお見かけしたような方が座っておられた。名札を見るとその方は、民事訴訟法の大家である三日月章東京大学名誉教授だったので、驚いた記憶がある。組織代表という面があったにせよ、我ながらそんな大家と隣り合って席を並べるようになったのかと光栄に思った。


(2)質と量ともに大変な日々

 第二部長としての仕事は、質と量ともに大変な日々が続いた。就任早々の平成14年秋には、時の小泉純一郎内閣の目玉政策である構造改革特別区域法案に取り組んだ。平常の年であれば、1月から開かれる国会の常会へ提出する法律案の数は、一つの審査部では平均でせいぜい30本程度である。それに対して平成15年の私の第二部は50本を数え、しかも戦争直後のイラクに自衛隊を派遣して人道復興支援活動等を行う法律案など、中身が濃い重たい法律案ばかりであった。平成16年には、通常の第二部の法律案に加えて、武力攻撃事態法制の整備として国民保護法制等7本の法律案を審査するなど、大忙しの状態だったが、常会を何とか乗り切った。

 これだけの仕事は、優秀な参事官の献身的な努力なくして、できるものではない。尾島明、岩井伸晃(いずれも裁判所)、岩尾信行(法務省)、太田誠(警察庁)、作花文雄(文部科学省)、山崎篤男、渡邊一洋(いずれも国土交通省)その他の参事官には、本当にお世話になった。そうした法律案のうち、記憶に残っているものを挙げていきたい。


(3)構造改革特区法案は地方公共団体の自主性の尊重が奏功

 「構造改革特別区域法(平成14年法律第189号) 」は、全国一律だった法規制にいわば風穴を開け、特定の地域においてだけ規制を撤廃したり緩和したりするものである。最初その構想を聞いたときには、法の下の平等(憲法14条)に抵触しないかが気になった。しかし、これは要するに実験的な規制緩和で、これが問題ないと分かれば全国展開に向かうことが前提であること、また、全国一律であった地方自治に、その自主性に基づいて差をつけたいというものであった。前者だけに寄りかかった理屈だと、全国展開ができなかった場合の憲法適合性が問題になりかねない。

 だから担当参事官と相談して、憲法のもう一つの原則である地方自治を全面に出すことにし、「地方公共団体の自発性を最大限に尊重し、当該地域の特性に応じた規制の特例措置の適用を受けて地方公共団体が特定の事業を実施する。」という形をとることにした。結果的にこれが功を奏して、地方公共団体側がまさに自らのこととして構造改革特区に取り組む動機となるという思わぬ効果もあった。

 具体的には、教育関連では外国語で義務教育を行うことや株式会社立の中学校が認められたり、物流面では関税業務を24時間体制にしたり、酒税法による厳格な規制の下にあった「どぶろく」の製造や販売の規制が緩和されたりした。その後、これらの中には全国的に規制が撤廃・緩和されたものも多く、当初懸念した憲法上の問題が生ずる余地はなかったので、その点は立案と運用がうまくいった事例である。


(4)窃盗の認知件数の激増と検挙率の激減で危機的状況

 「特殊開錠用具の所持の禁止等に関する法律」(平成15年法律第65号) は、ごく短い法律だが、私にはとても思い出深いものである。当時の我が国の治安情勢は、とりわけ窃盗について悪化の一途をたどり、もはや危機的状況を迎えていた。犯罪白書によると、窃盗の認知件数が毎年うなぎ登りに増加し、平成10年の179万件から14年には238万件にもなった。これに伴い、検挙率は平成10年の33.4%から14年には17.0%へと激減してしまったのである。それというのも、来日外国人犯罪者によるピッキングやサムターン回しなどの特殊な開錠テクニックを使った窃盗が急増したからだ。その対応に警察官の人手を取られ、例えば駐車違反の取締りも満足にできないという有り様だった。

 ピッキングとは、耳掻きのような金属の道具を鍵穴に差し入れて、ものの数分もしないうちに開錠するというテクニックで、もともとは街の鍵屋さんで細々と使われていたものであった。それがインターネットの普及とともに外国人犯罪者の間で一気に広まり、中国沿海部ではこうした開錠テクニックを伝授するための訓練学校すらあると報道された。

 サムターン回しとは、鍵穴の横にドリルで穴を開け、そこから差し入れた道具を使い、ドアのノブの内側にある指でつまんで鍵を開ける金属製の「つまみ」(サムターン)を回して開錠するというテクニックで、ピッキングに引き続いて広まったものである。このほか、大きめのドライバーで鍵を壊したり、バールをドアと枠の隙間に入れてドアをこじ開けたりするという乱暴なやり方も行われるようになった。

 ところで、このような開錠テクニック上、必要不可欠なものは、そのための道具である。しかしながら、当時は、こうした盗みのための侵入に必要な道具を持っているだけでは、現行犯逮捕をすることができなかった。例えば警察官がパトカーで警ら中に、コンビニエンス・ストアから挙動不審な男が出てきたため、職務質問をして所持品検査をしたところ、その者がピッキング専用の工具を所持していたとする。ところがそれだけでは、まだ窃盗未遂や住居侵入未遂の段階にも至っていない。強盗罪と異なり、窃盗罪には予備罪がないことから、せっかくの容疑者を取り逃がしてしまうという事例もしばしば起こっていた。参事官を通じて警察庁からこのような事態をどうしたものかと相談を受けた。

 新たに窃盗予備罪の犯罪類型を作るのも一案であるが、それでは処罰範囲が広がりすぎる懸念がある。私が思いついたのは、ピッキングの道具など開錠専用の工具を持っている場合に限り犯罪とするもので、一種の窃盗予備罪ではあるが、構成要件は明確である。単にその所持を禁止すればよいから、これで行けると思った。しかし、そのままでは、街の鍵屋さんが、鍵が開かないという依頼者に頼まれて、その家に出張に行くような場合まで規制対象になりかねない。そこで、銃砲刀剣類所持等取締法22条の例にならって、禁止規定の構成要件中で「業務その他正当な理由による場合」を除外することにした。

 次に、大型のドライバーやバールなどを使ってドアを壊して建物へ侵入する類型をどうすべきか。ピッキングの道具だけ押さえても、こちらに流れては意味がない。その反面、大工さんや建築会社の作業員など、その業務で使用する必要がある人による所持まで規制対象としてしまったのでは、思わぬ迷惑をかける。考えた末に、構成要件中で「業務その他正当な理由による場合」を除外しつつ、軽犯罪法1条3号の例にならい、これらの工具を「隠して携帯してはならない。」とすることにした。


(5)イラク特別措置法案では武力の行使に当たらないよう慎重審査

 「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法(平成15年法律第137号) 」は、イラク戦争直後のイラクで、医療その他の人道上の支援、イラクの被災民の救援、戦争による被害の復旧、イラク国内における安全を回復する活動を行うために、自衛隊を派遣する時限立法である。その本質は人道的支援と道路などのインフラの復旧であるが、武器を持つ自衛隊を海外に派遣することから、憲法9条が禁止する武力の行使に当たらないように慎重に審査した。

 その結果、テロ対策特別措置法などを参考にして、(1)現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為)が行われておらず、かつ戦闘行為が行われることがないと認められる地域に限って実施すること。(2)他国軍の武力行使との一体化を避けるため、武器弾薬の提供や戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油及び整備を行わないこと。(3)隊員の安全確保のため、活動を実施している場所の近傍で戦闘行為が行われたり、予測される場合には、一時休止したり避難したりすること。(4)隊員が武器を使用できるのは、いわゆる自己保存のための自然的権利の範囲内つまり、自己又は自己と共に現場に所在する他の自衛隊員等又はその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体を防衛するためやむを得ない必要があると認める場合に限ることとした。


(6)武力行使の一体化、駆け付け警護、非戦闘地域

 法律案の内容を固めるため、何回も福田康夫官房長官や古川貞一郎官房副長官の下へ通い、また外務省や防衛庁の担当局長と議論を戦わせた。私は、他国軍による武力の行使と一体化すると自衛隊が自ら武力を行使しているとの法的な評価を受けること、日本の民間組織や他国軍等が国又は国に準ずる組織から攻撃を受けている場合に駆け付けて警護したり、ともに戦うことは、それは憲法9条で禁じられている武力行使に当たることなどを説明し、納得していただいた。

 その上で、自衛隊員が国又は国に準ずる組織と万が一にも戦闘に入ることがないよう、「戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで行われる活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる地域」をあらかじめ設定して、そこで活動してもらうことにした。そうすれば、自衛隊員が現場でいちいち相手が国又は国に準ずる組織であるかどうかを判別する必要に迫られることなく、安んじて任務を遂行できるからである。

 ところが、国会審議では、小泉純一郎首相が「自衛隊がいるところが非戦闘地域・・・どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない。」という趣旨の答弁を行ったので問題となった(平成17年1月27日衆議院予算委員会会議録第2号26頁)。実はこの答弁は、法律案の建て方からすれば何らおかしな説明ではない。法律上は、イラクの中のどこで戦闘が行われているかということを確定する必要はない。少なくとも、自衛隊を派遣しようとする地域において、現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこでの活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められるのであれば、そこに自衛隊を派遣することになる。だからその自衛隊を派遣している地域を見てほしいという趣旨のことを国民に分かりやすく答弁されたのだと、私は解釈した。


(7)公益通報者保護法案はコンプライアンスを徹底するもの

 「公益通報者保護法(平成16年法律第122号) 」の制定の契機となったのは、食品の偽装表示、自動車のリコール隠しなど、会社の役員や上司が法令に違反する行為を行う不祥事が、従業員の内部告発によって、その頃いくつも明らかになってきたことである。従来のような和を重んじる日本の企業風土では、ほとんどなかったような動きである。

 既にアメリカでは、公益通報者保護法(Whistleblower Protection Act of 1989)が、イギリスでは、公益開示法(Public Interest Disclosure Act of 1998)などが定められており、会社や役員の利益より、公益を守ることを優先して、従業員がその事実をしかるべき者に通報し、そうした反社会的行為を止めさせたり、処罰の契機にしたりするものとしていた。

 日本の企業文化の下ではどうだろうか。果たしてこの法律が日本で受け入れられるかどうか、とりわけ、そういう勇気のある従業員が出てくるだろうかという疑問がつい浮かんできてしまう。しかし、社内にコンプライアンス(法令順守)の重要性が徹底するにつれ、必ず出てくるに違いないと考え、そういう人を守らなければという思いで審査したことを覚えている。

 この法律は、労働者が、その労務提供先又はその役員、従業員等の法令違反行為その他の公益を害する事実を見聞きして通報した場合に、その労働者の解雇を無効とし、降格、減給その他不利益な取扱いを禁止することとした。保護に値する通報としては、図利加害目的でない、いわば誠実な通報であることを要する。その上で、英国の制度のように、使用者又はその指定する者に対する内部への通報の場合と、所管の大臣その他の第三者に対する外部への通報の場合とで、その要件に差をつけることにした。公益を害する事実の範囲について、これを法令違反に限った方が法律の要件として明確となるから、そうすべきことは当然であると考えた。その場合、私はすべての法令違反でよいと思ったが、各方面との協議の結果、別表で法令名を列記してその違反に限ることとなった。


(8)武力攻撃事態法制は内容のある重たい法律案ばかり

 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律 」(略称は、国民保護法)、 「武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律 」(米軍行動関連措置法)、「武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律 」(特定公共施設利用法)、「国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律」(国際人道法違反処罰法)、「武力攻撃事態における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律 」(軍用品海上輸送規制法)、「武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律 」(捕虜取扱法)及び「自衛隊法の一部を改正する法律 」の7本の法律(それぞれ、平成16年法律第112号〜第118号)は、武力攻撃事態法制の整備を行うために取りまとめて一度に審査したものである。

 これだけ内容のある重たい法律案ばかりを7本も、限られた時間で一気に審査するというのは、これまで相当な修羅場を経験してきた私でもあまり記憶にないほどの難作業だった。そこで、私の配下の第二部の参事官だけでなく、第一部長にお願いしてそちらの参事官にもこの7本の法律案のうちの一部を分担してもらって、同時並行的に作業を進めていった。参事官の皆さんは、ここぞという時に驚くほどの集中力を発揮できる優秀な方々ばかりだったので、本当に助かった。

 国民保護法は、災害対策基本法を参照しながらの立案であったが、武力攻撃災害特有の事態に対処するため、万が一にも規定漏れがないように気を配った。米軍行動関連措置法は、日米安保条約に基づく米軍の行動が円滑かつ効果的に実施されるようにする一方で、武力攻撃事態下の国民の権利の保護とのバランスに腐心した。特定公共施設利用法は、武力攻撃事態下で港湾、飛行場、道路、海域、空域及び電波を米軍及び自衛隊に優先的に利用させるよう措置するものである。国際人道法違反処罰法は、基本的には刑法で対処するが、そこから漏れる捕虜送還遅延罪等を規定する。軍用品海上輸送規制法は、武力攻撃事態に際し、外国軍用品等の海上輸送の規制、外国軍用品審判所の設置、停船検査、回航措置等を定める。捕虜取扱法は、戦闘中に投降して自衛官に拘束された敵国軍隊の兵士の抑留資格認定、捕虜収容所、送還等について規定した。自衛隊法一部改正は、自衛隊の業務に合衆国軍隊に対する物品や役務の提供に伴う手続等を追加した。


(9)勤続30周年の永年勤続者表彰

 こうして来る日も来る日も法律案の審査に頭をひねっていた頃のことである。私は、53歳になった。それから3ヶ月余りが経過した平成15年12月22日、勤続30周年の永年勤続者表彰をいただいた。内閣官房、内閣府、内閣法制局など内閣関連の部局で勤続30年に達している職員であれば誰でもということで、私も長官の秘書さんなどと一緒に表彰された。当日、式に出席した表彰の対象者は60人ほどだった。式に引き続き、官邸の大広間で小泉純一郎首相を真ん中にして、全員の写真を撮った。私は、たまたま、首相の真後ろに立って写っている。

勤続30周年の永年勤続者表彰記念写真



5.第三部長

(1)郵政民営化法案に取り組む

 平成16年8月31日、阪田雅裕内閣法制局長官、宮崎礼壹内閣法制次長の体制となり、同日付けで私は内閣法制局第三部長を拝命した。私は54歳だった。第三部は、金融庁、総務省、外務省、財務省及び会計検査院を担当する。これで、第四部を皮切りに3つの審査部の部長をすべて経験したことになる。少なくとも戦後の内閣法制局では、初のことだと思う。

 しかし、そのような感慨にふけっている暇はなかった。第三部は、そのとき小泉純一郎首相が最優先で取り組んでおられた郵政民営化法案をはじめとする一連の郵政関連法案を担当することになっていたからだ。この法律案で失敗は絶対に許されないと思い 、かなりの緊張感を持って仕事に臨んだ。

 問題は、事が事だけに、大事な事項ほど政治的な折衝が必要で、最後の最後まで決まらないことだ。そうなるとその条文が書けないから、それに関連する条文も宙に浮いてしまい、少しも前に進めないという壁に阻まれる。もちろん、様々なケースを想定して幾つかの案を作っておくが、それにも限界がある。もうこれ以上待てないという段階でようやく決まり、それから何日も徹夜して仕上げる仕儀となった。担当の北川哲也 参事官(総務省)には、本当にご苦労をおかけした。


(2)郵政改革は与党に亀裂

 さて、郵政改革は、与党の中で大きな亀裂を生む。小泉首相は、平成17年1月の施政方針演説において、この通常国会中に郵政民営化法案を提出することを表明した。そこで政府は郵政民営化法案その他の郵政6法案をとりまとめ、与党との調整に入った。喧々諤々の議論の末にようやく閣議決定に至り、5月26日から衆議院において審議が始まり、7月5日の本会議で採決が行われた。自由民主党からはかなりの造反者が出たが、賛成233票に対し反対228票と、薄氷を踏む思いながらも何とか可決された。

 舞台は参議院に移り、7月13日から郵政6法案の審議が始まった。審議の末、8月5日には参議院郵政民営化特別委員会において採決に付され、自由民主党及び公明党の賛成多数で可決された。それから3日後の8月8日、参議院本会議で投票が行われたところ、自由民主党からは反対が22票、棄権が8票も出た。その結果、賛成108票に対し反対125票となって、あえなく否決されてしまった。

(3)衆議院を解散し異論を封じる

 しかし、ここからが小泉首相の面目躍如たるもので、この否決を受けて直ちに衆議院解散を決意し、当日の閣議で反対する閣僚1人を罷免して解散のための閣議書を決定した。これにより、その日のうちに解散詔書が朗読され、9月11日に第44回衆議院議員総選挙が行われることとなった。まさに電光石火のごとき早技である。

 総選挙の結果、衆議院議員の定数480議席(当時)中、自由民主党は296議席を獲得し、公明党の31議席と合わせて与党で定数の3分の2に当たる320議席を上回る327議席を獲得するという大勝利を収めた。これにより、仮に参議院で郵政民営化6法案が再び否決された場合でも、憲法59条2項の衆議院の優越の規定によって、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再び可決して法律にすることができるようになった。

 これで国会通過の土壌が整った。内閣は、9月中に開かれた特別会に郵政民営化6法案を再提出した。その際、民営化の実施時期を平成19年4月1日から10月1日へと半年遅らせたが、それ以外はごく僅かな技術的な修正を行っただけで、ほぼ同じ法律案を国会に提出した。

 その結果、衆議院だけでなく参議院でも賛成多数で通過し、平成17年10月14日、郵政民営化6法案はついに成立した。ほとんどが政治過程であるとはいえ、我々事務方にとっても手に汗を握る展開であった。

 このときに成立したのが、郵政民営化法、日本郵政株式会社法、郵便事業株式会社法、郵便局株式会社法、独立行政法人郵便貯金・簡易生命保険管理機構法、郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律である(それぞれ、平成17年法律第97号〜第102号)。約1年弱にわたる長丁場の仕事であった。


(4)所得税法案・地方税法案は複雑かつ専門的

 第三部は、財務省を担当しているので、毎年1月下旬に開かれる通常国会に必ず所得税法等の一部を改正する法律案を提出しなければならない。その審査が終わると直ちに政令の審査に移り、法律の成立と施行に合わせて、新年度内からの施行を目指す。これらの法律案と政令は、ともに分量が非常に多いだけでなく、税法なので内容が極めて複雑で、しかも書き方が徹底的に詳しいのである。だから、一つの条文で何十項にもなるのが珍しくない。

 それというのも、租税法定主義のため、法文中に必要かつ十分な要件を書き込む必要があるので、必然的にそうなってしまうからだ。特に租税特別措置法の場合は、毎年のように制度が改廃されたり要件が見直されたりして、しかもそれらが年々積み重なる。制度上、仕方がないとはいえ、これでは専門家でも、初めて読んで理解するのはなかなか難しい。それらを、一つ一つ内容を聞き、条文にその立法の意図通り表現されているか、漏れがないか、逆に思わぬところにまで適用されないかをチェックするのは、非常に骨が折れる作業だった。

 「所得税法等の一部を改正する法律(平成17年法律第21号)」では所得税の定率減税額の引下げと教育訓練費の特別控除の創設が、「所得税法等の一部を改正する等の法律(平成18年法律第10号)」では所得税の税率強化と地震保険料控除の創設が、それぞれ印象深い改正項目として記憶に残っている。これらは、次の証券取引法とともに、極めて専門的な分野であるから、松尾元信藤本拓資佐藤則夫の各参事官(いずれも財務省)の深い知識と優れた能力がなければ仕事にならなかった。

 国税とほぼ軌を一にして同じ内容が改正される総務省の「地方税法等の一部を改正する法律(平成17年法律第5号)及び(平成18年法律第7号)」についても、全く同様の状況にある。しかし地方税の場合は、これに加えて地方税法特有の法形式の事情、とりわけ法律の本則より実質的にはむしろ附則の規定で動いていることに驚いた。制度に詳しい平川薫参事官(総務省)とともに、少しでも簡素化しようとした。


(5)金融商品取引法案は極めて広範囲で分かりにくい

 金融庁も担当しているので、証券取引法改正法案を毎年審査したが、そもそも証券取引法(現在の「金融商品取引法」)そのものが、極めて広範囲に及ぶ体系となっているだけでなく、既存の規制の上に更に建て増しを繰り返してきたことから、規定内容がそれだけ複雑で分かりにくいものとなっている。

 それというのも、従前の大蔵省時代の証券行政の反省の下に、規制内容を法律や政省令に全て盛り込むという考え方で、そのような規定ぶりとなっている経緯がある。やむを得ないこととはいえ、少なくともその年の改正部分だけは、少しでも分かりやすい規定にしようと努めた。それが、「証券取引法の一部を改正する法律(平成17年法律第76号)」の虚偽申請に対する課徴金制度と、その翌年に審査した「証券取引法等の一部を改正する法律(平成18年法律第65号)」の公開買付け規定の整備及び金融商品取引法への移行である。


(6)条約の審査は特有の日本語表現に難渋

 第三部は外務省を担当していることから、その特有の業務として、条約の審査がある。多国間条約の正文の多くは英語、時には仏語等であり、二国間条約の正文のほとんどは日本語と相手国の言語等である。その外国語の条文を傍に置いて、まず翻訳文として正しいか、法規範として明確で適切か、他の条約体系や国内法体系と整合しているか、これを実施するには既存の国内法で足りるか、それとも特別の条約実施法が必要かなどを検討する。担当の磯俣秋男、赤松秀一の両参事官(いずれも外務省)には、大変お世話になった。

 条約の審査は、通常の法律案の審査とは異なることが色々とあって驚いた。まず、国内法で培った法令用語の経験があまり役に立たず、条約特有の法令表現が多い。伝統的な翻訳文化の賜なのだろうが、果たしてこれが日本語として適切かと思うのも少なからずある。ところが、この英文にはこの訳文をあてるという具合に、それこそ明治以来定着しているような表現もあるので、意味が通る限りは尊重せざるを得なかった。それでも、現代の日本語表記としておかしなものは、積極的に直していった。


(7)東京大学公共政策大学院の客員教授を兼務

 こうして第三部長としての職務をこなす一方、東京大学関係者からの依頼を受け、平成18年4月1日より、「東京大学みなし専任実務家教員(客員教授)」として、公共政策大学院森田朗院長)で立法学及び立法の事例研究を教えることとなった。56歳のときである。これには国家公務員法の規定により内閣総理大臣と長官の兼職の許可が必要なので、申請書にこう書いた。「講義の履修者との勉学を通じた交流により、自身の知見をさらに高められ、ひいては国民に分かりやすい法令案の立案につながる。」。許可をいただいて、いざ講義を始めてみたところ、まさにその通りだった。

東京大学公共政策・法科大学院看板


 私は本業の関係で夜間にしか授業時間をとることができなかったが、夜間の授業にもかかわらず、非常に多くの学生が出席してくれた。しかも、私が次々に繰り出す立法課題について、いとも簡単に・・・と言いたいところであるが、よく聞くと2日間徹夜したりなどして・・・それこそ一生懸命に取り組むから、感心した。公共政策大学院には、将来は国家公務員や地方公務員になりたいという学生が多かったせいか、中には私が思わず刮目するほど良くできた法律案を書いて来る人もいた。

 この授業を受け持つ前、私は、法令の立案には明治以来積み上がってきた様々な実務慣行があるし、立法技術には経験がものを言う面もあるから、それらを踏まえて法令の立案ができるようになるまでには、かなりの月日を要するだろうと考えていた。ところが、学生の皆さんの解答を見て、その考えを改めなければならないと思うようになった。立法の技術や慣行はもちろん必要ではあるものの、法律案を書く能力というものは、結局のところは論理的思考能力と文章の素養ではないかと思い知るに至った。そういう意味でも、私自身の見方を広げるのに大いに役立った。


(8)課題をやってきてもらってそれを講評

 公共政策大学院での私の授業は、自分で言うのも何だが、かなり独創的なものではなかったかと思う。あらかじめ2〜3人の学生さんに立法課題を与え、それぞれが解答を作成した上で授業の数日前までにメーリングリスト宛てにワード文書形式で送付してもらう。授業までに、全員がそれを読んでくるのが前提である。

 当日は、授業の前半に普通の大学の授業のような講義を行う。これは次回の課題に解答するための基礎知識を教えるものだ。後半にその日の課題に対する学生さんの解答を教室のスクリーンに映写し、それを書いた学生さんがポイントを説明する。これに対するコメントをその他の学生さんに次々にしてもらって、私がその場で論評し、最後に私の模範解答を示すというスタイルである。ソクラテス・メソッドならぬ山本メソッドというわけだ。

2007年・東大法科大学院授業評価


 学生さんは、この授業を踏まえて文章を書く能力、他人に説明する能力、他人の書いたものを批評する能力、そして議論する能力が身につく。学期末に学生側から各講義を評価する機会があるが、そこで高い評価をいただいた。だから、それなりにお役に立ったのではないかと思っている。教え子の皆さんの中で、中央省庁に就職した方も多い。そのうちの何人かと食事をしたり、留学の推薦状を書いたり、メールをいただいたりと、未だに交流が続いている。皆さんの成長していく姿がまぶしく感じるほどだ。


(9)東京大学法科大学院でも授業

 翌年度は法科大学院で授業を受け持ってほしいと頼まれた。本郷の正門脇にあるガラスの温室のような建物が法科大学院だ。この建物はまさに温室で、夏の最中で直射日光が当たっているようなときに廊下を歩くと、ものすごく暑い。ところが教室の中に入ると、今度は冷房が効きすぎて非常に寒い。そういう寒暖の差が激しい環境で、やはり課題と議論と講評の山本メソッドで授業を行った。

東京大学法科大学院建物


 授業では、ほとんど完璧な解答を書いてくる人もいれば、3年生になっても未だにフローチャートに毛の生えた程度の文章しか書けない人もいて、学生さんの間の能力の差が非常に大きいという感がした。特に後者のタイプは、法学が未修だったとはいえ1年生の頃から手とり足とりして教え込んでいたら、おそらくその能力がもっと磨かれていたのではないかと、残念な気がした。前者の優秀な学生さんの中には、裁判官になった人もいて、こちらも今なお交流があるから嬉しい。しかし、後者の学生さんがその後いかに過ごされているかも、大いに気になるところである。


6.第一部長

(1)法解釈と国会答弁

 平成18年10月6日、私は、内閣法制局第一部長となった。宮崎礼壹内閣法制局長官、梶田信一郎内閣法制次長のときで、年齢は57歳になっていた。第一部は、いわゆる意見事務を担当しており、常時、各府省庁から持ち込まれる法律問題の相談に乗ることになっている。司法が具体的争訟に対する事後審査であるのに対して、行政は時々刻々と事態が変わりゆく社会事象に対する法の運用であるから、その場で答えを出さなければならない。質問主意書に対する答弁の審査も、内閣総務官室から依頼を受けた範囲で行っているが、最近は件数が飛躍的に増えたことから、多忙を極めている。

 法の解釈は、条文の文理上の表現を基礎として、従来の法運用の実績、法制定の経緯、判例や学説などを元に、論理的に結論を導き出すという知的な作業である。国会において、政府に対する憲法問題など法律に関する質疑を受け、政府としての答弁を示す機会も多い。だから、第一部の担当者には、深い法律知識と臨機応変の対応能力が求められる。松尾元信(財務省)、舘内比佐志(裁判所)、溝口洋(総務省)等の参事官をはじめ、中村功一(法務省)、奥田誠子(国土交通省)、川上敏寛、矢田晴之(いずれも経済産業省)等の参事官補、それに官学交流で在籍の仲野武志参事官補(後に京都大学大学院法学研究科教授)などの皆さんには、本当にお世話になった。

 国会の委員会での答弁者は、予算委員会の一般質問であれば内閣法制局長官、同じ予算委員会でも分科会などでは第一部長、法律案を審議する委員会ではその法律案を審査した部の部長である。このうち、長官は政府特別補佐人(国会法69条2項)、 部長は政府参考人(衆議院規則45条の3及び参議院規則42条の3第1項)として答弁を行う。質問者から、あらかじめ質問内容についての通告がある。我々はそれに基づいて答弁内容を練りに練って作り上げ、当日それが委員会で質問されれば、その吟味して作り上げた内容をお答えするわけである。通常はこれで委員会の当日は円滑なやりとりが行われる。

 ところが、質問の趣旨が事前に聞いていたものとは違っていたという場合も少なからずある。それどころか、はなはだしい場合は事前に全く教えてもらえないことも時にはあって、そのときは、不意打ちの形になる。こうした国会でのやりとりは、まさに政治そのものである。いずれにせよ、その場で当意即妙に、しかも間違いなく答えなければならないから、日頃から法解釈や行政のあらゆる分野に通じておく必要がある。質問者は、答弁者から間違った答えを引き出して、それを新たな追求の材料にするので、その作戦にうかうかと乗ってしまってはいけないのである。


(2)他国に向かう弾道ミサイルの撃墜

 第一部長時代の答弁を思い起こすと、比較的長いやりとりがあったのは、やはり安全保障問題である。民主党の長島昭久委員(いずれも当時)から「他国に向かう弾道ミサイルを日本が撃墜することは集団的自衛権の行使となって憲法上の問題が生じるのか。」と聞かれた。これに対して、私が「我が国に飛来する蓋然性のない、他国に向かう弾道ミサイルについては、それを途中で撃墜することは自衛権行使の三要件に該当しないので憲法上の問題を生じ得る。」と答えた。すると同議員は、「我が国に来る蓋然性がなくとも、同盟国に向かって飛んでいくミサイルだから、我が国は同盟国として迎撃」すべきだという。最後までかみ合わなかった。(平成18年12月20日、衆議院・国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会7号18〜19頁)

 私は、政策論として同盟国のあるべき姿は、同委員のおっしゃるとおりだと思う。我が国上空を飛び越えて同盟国アメリカに向かっているミサイルを、我が国が撃ち落とせるのに手をこまねいて撃ち落とさないというのは、同盟国の名に値しない。しかし、そのミサイルを撃ち落とすことは、これを発射した国に対する武力の行使になることは明らかだ。憲法9条は、我が国自身が武力攻撃を受けた場合はさすがに例外と解されるが、その規定ぶりからすると、明らかに他国に対する武力の行使を禁じているし、そのための戦力は保持せず、国の交戦権も否定している。だから立憲主義の下では、憲法を改正して集団的自衛権を認めるようにしない限り、それはできないと言わざるを得ないのである。

 そういうことで、立憲主義の下でのあるべき政治家の姿は、「同盟国としての義務を果たす道は集団的自衛権の容認しかなく、それには憲法9条の改正しかない。」と訴えて国民の理解を得、そのように憲法を改正する。その上で、自衛隊に他国へ向かうミサイルを撃ち落とす権限を与えるため、自衛隊法の改正をするというものである。そうした正攻法をとらずに、憲法9条の規定をそのままにしつつ、どう見ても無理な解釈を重ねて、同条の解釈変更で他国に向かうミサイルを撃墜できるようにするというのは、まるで大学に裏口入学するようなものだと思った。


(3)早稲田大学法科大学院客員教授を兼務

 東京大学公共政策大学院と法科大学院での授業が2年間で終わろうとするとき、今度は早稲田大学法科大学院(法務研究科)で立法学を教えてほしいという話があった。そこで、平成20年春学期から正式に客員教授を兼務して、再び山本メソッドで教え始めた。東京大学での経験から、平日の夜間に授業をするのは仕事と重なる場合もあって大変なので、土曜日の日中に授業をすることにした。私の家の近くから早稲田行きのバスが出ていて、その終点が早稲田大学だから行きやすかった。

 護国寺の講談社の向かいに群林堂という和菓子屋さんがあり、朝のバスでそこを通りかかると、お客さんがいつも列を作っている。途中下車してその例に並んでみたところ、皆さんのお目当ては、そこの大福だった。さほど大きくはないが、背中がこんもりと盛り上がっている。しかも、黒豆がその背中一面に広がっていて、その黒豆が美味しいし、中の餡子の甘さもちょうどいい。たくさん買って大学に持って行き、授業が終わって学生の皆さんに配ると好評だった。家に持って帰ると、家内も大好きである。こういうちょっとしたことが、夫婦円満の秘訣である。

 大学の近くには美味しくて値段が手頃なレストランが多い。学期末にはフランス料理店で皆さんにご馳走し、皆さんの将来の抱負を聞いたのも、良い思い出である。しかしこちらは法科大学院だから、司法試験に合格しないことには始まらない。秋の合格発表のときには、合格者から次々にメールが来る。おめでとうと返信するのはとても嬉しい反面、あの学生さんはどうなったのかと非常に気になる。そうしたところ、3回目のチャレンジで合格したというメールが届いたときには、本当に感激した。しかも近く結婚するという報告付きだったから、感激もひとしおで、今後のご活躍とお幸せをお祈りする旨の返信をした。卒業生の皆さん方の進路は様々で、裁判官、検察官、弁護士、法務省、議院法制局などで、多方面で活躍されているのは心強い。大手銀行に入って企業内弁護士になった人は、支店に配属されてお札の勘定から始めたそうだ。


(4)司法試験に三振した教え子に

 その反面、司法試験に3回チャレンジしても合格できなかった教え子の1人から、「昨年度に続き本年度も司法試験を受験したのですが、力不足ゆえ不合格となりました。先生には在学中のみならず卒業後も力強い励ましのお言葉をかけていただくなど暖かくお力添えいただいていたのに面目ございません。」というメールが来たときには、言葉を失った。資格試験の残酷な面を見た思いだ。当時の司法試験は5年以内に3回受験してなお合格しないときは、受験資格の取得(法科大学院の卒業又は予備試験の合格)を一から始めなければならないという制度だったから、もう望みを絶たれたも同然だ。

 しかし、この方は続けてこう書いている。「今は、まず、先生を始め多くの方に助けていただけたことに感謝し、その上で新たな目標を立てこれに邁進していきたいと考えております。」。それは本当に残念だが、メールを書けるくらいに気持ちが前向きに戻ったのは良いことだと思い、次のような返信をした。

 「それは、誠に残念でした。あなたのこれまでのご努力には、本当に心から敬意を表したいと思います。よく頑張りましたね。しかし、人間関係と同じように、試験にも、人知を超えた『相性』というものがあるのかなと思ったりしています。

 これからは、また新たな道を進まれるということですが、その過程では、この数年間のご努力は、決して無駄ではなく、これによって身につけられたご経験と知識が、必ずやお役に立つものと考えています。

 当面は、少しお辛い日々が続くかもしれませんが、取り敢えず、終わったことは忘れるというのも、人生のコツです。それでまた、新しいことに挑戦していくことです。毎日の生活と仕事を出来るだけ充実したものにしようと、一歩一歩努めていかれれば、必ずやそのうち、笑って振り返ることが出来ると思います。

 人生、山あり谷ありが交互に来るのが常です。今は谷ですが、今後は何をやっても、山に向かうことになるでしょう。そのうち、良いことが必ずありますから、ともかく、前進して行って下さい。」


 私も、大学入試などの試験には、からきし弱かったので、この方の気持ちはよく分かる。ともあれ、どん底から這い上がって、大きく飛躍してほしいものだ。


7.内閣法制次長

(1)長官代行・次長・第一部長事務取扱の一人三役

 平成22年1月22日、私は内閣法制次長兼第一部長事務取扱に任じられた。梶田信一郎内閣法制局長官のときで、60歳となっていた。なぜ「事務取扱」かというと、国会審議を間近に控えた時期で、各部長さん方を動かすには最も不適当なときだったから、私が昇格して空いた第一部長のポストを私自身がしばらく兼ねれば、問題が少ないと考えられたからだ。しかし、当時は官僚に対する風当たりが強く、また政権交代をしたばかりで民主党最初の鳩山由紀夫内閣が発足して初の通常国会だった。だから、政治主導が強調され、政府特別補佐人や政府参考人による答弁を制限しようという雰囲気があった。その結果、予算委員会での内閣法制局長官の答弁が禁止されてしまった。

 そうは言っても、予算委員会に法律の専門家である内閣法制局の幹部が誰もいないというわけにもいかない。質疑が法律事項に及んでいるのに政治家どうしで専門用語を使わずにやりとりが行われると、かえって議論の内容が正確に理解されないことがあるからだ。そういうことで、内閣総務官室の求めにより、予算委員会中は長官の代行という形で、総理秘書官と並んで後ろに控えていることになった。現に官房長官に対する野党の質問で、わざと法令用語や法律解釈を聞かれて官房長官が答えに窮する場面があり、私は後ろの控え席から助け船を出したこともある。

 これを契機に、内閣の法令解釈担当大臣という特命大臣が設けられ、枝野幸男行政刷新担当大臣がこれに任じられた。そういう大臣ができるとは我々も知らされていなかったので、任命されたと聞いてあわてて長官と一緒にご挨拶と所管事項説明に伺ったほどである。しかし、何しろ唐突で、しかも予算委員会の最中だったことから、内閣法制局との関係を十分に詰める暇がなかった。

 この予算委員会の質疑は、約1週間にわたって毎日のように、午前9時から午後5時まで続く。要するに丸一日の間、国会の委員会室にある、あの狭くて座り心地の悪い椅子にじっと座り続ける必要がある。しかも、何をいつ聞かれるか分からないので、常時緊張感を持ってやりとりを追わなければならない。これは、肉体的にも精神的にも、かなり消耗する役割だ。事実、それまでの内閣法制局長官で、腰を痛めた方が何人かおられる。

 ところが私の場合、長官代行としてのこうした国会対応だけではなくて、午後5時過ぎにオフィスに帰ってからが次長としての仕事の本番で、各審査部から上がってくる法律案や政令案を全て審査しなければならない。さらに夜遅くには、第一部長として翌日の国会答弁案を作る必要がある。この一人三役は、とても大変だった。数々の修羅場を潜り抜けてきた私でも、さすがに「いやもう参った。」と、心の中で言いたくなったときに、衆議院予算委員会が終わった。ほっとしていると、しばらくして参議院予算委員会が始まり、再び難行苦行が始まるという具合である。

内閣法制次長室



(2)八ッ場ダムの建設中止

 そういう中、野党議員が声を荒げる事件があった。当時は政権交代の結果、自由民主党が野党で、いかにして民主党内閣を攻めるかという点に腐心していた時期である。民主党は、政権交代時の選挙公約で、八ッ場ダムの建設中止を打ち出していた。これは自由民主党にとっては最大の痛恨事で、何とか建設を続けさせたいと考えていた。建設省で河川畑が長かった脇雅史議員には、その思いが強かったのであろう。予算委員会で前原誠司国土交通大臣に対して、ダム関連三法に基づく既存の水資源開発基本計画などとの関係を追求した。同計画では、八ッ場ダムは平成27年度までに完成させるとなっているではないかというわけだ。そこで内閣法制局の見解が求められた。

 私が答弁に立とうとすると、閣僚席から突然、「はい、はい、委員長。法令解釈担当大臣です。」という声が上がり、ふと見ると、枝野幸男大臣である。そして予算委員長は、そちらを指名した。枝野大臣は、「内閣の法令解釈に関する担当を命ぜられておりますので、私から内閣法制局の上申を踏まえた内閣としての解釈を申し上げます。」と前置きした上で、いずれの三法においてもそれぞれ計画の変更や廃止の手続が設けられているなどと説明した。

 しかし、脇委員は納得しない。私にも答弁せよという。私は長官ではないが、内閣法制局として、事務的にきっちりした答弁をしたい。でも、今の枝野大臣のアドリブの答弁と細かい点で食い違うのも困るから、それを私に随行してきてくれた参事官に確認する時間が少々必要だ。それに、そもそも与党が政治主導を標榜している中で、内閣法制局として従来通りスイスイと答えると、今度は与党から何を言われるかもしれない。やむを得ない、ここで一拍置こうというつもりで、「ただいま、枝野大臣がおっしゃったとおりです。」と言った。

 すると、脇委員が「私は枝野さんの答弁を認めていない。そもそも法制局というのは法律の解釈をするのが仕事で、枝野さんはその代わりになる人ではない。」とおっしゃる。私は内心、「法制局の仕事をご理解いただいているようで誠にありがたい、その通りだ。」と思いながら、内閣に急遽設けられた法令解釈担当大臣と、内閣法制局との関係があらかじめ整理されていないから、こういうところにその歪みが出てきてしまったのかと思った。

 委員会では野次や怒号が飛び交い、委員長席に各党の理事が集まり、騒然としてきた。委員長は速記を止めた。私は、「ああこれが話に聞いた『予算委員会を止める』というものか。一役人が止めるなんて、ひと昔前なら辞表提出ものだな。」と思いつつ、そのまま席に座っていた。やがて私のところに足を運んできた与党の理事から「答えられるか?」と聞かれた。その瞬間、枝野大臣の方を見たところ、アイコンタクトで頷いていただいたように見えたので「はい、もちろん。」と答えた。

 委員会が再開された。私は「それでは、今の話に付け加えて御説明」をするという前置きをして、ダム関連三法に基づく計画に位置付けられたダムの建設は、「法律上、これに基づく特段の変更や廃止がない限り、法令の規定に従って計画的に実施されることが想定される」と答弁した。これは、脇委員の議論の趣旨に沿っていたので、質疑はそのまま進行していった。もし私が最初からこの内容を答弁したとしたら、与党の方より「政治主導なのに、役人が出しゃばるとは何事だ。」という観点から、別の騒動が起こっていたのではないかと思ったので、この展開で良かったのだと自分で納得した。雨降って地固まるというわけだ。


(3)事務方の用意した答弁案が活用されず

 しかし脇委員は、さすがベテランだけあって、その後さらにこの点を突く。「前原大臣は中止すると表明をして、そして今年の工事をやめている。こういう工事をやめる権限はどこにあるんだ。」とおっしゃる。  今度は私が指名されたので、前年12月8日付けの政府の答弁書を引用して、こう答えた。「八ッ場ダムについては、本体工事を中止する考えを表明しているところであるが、特定多目的ダム法4条1項の基本計画を廃止しようとする考えを示しているにすぎず、今後当該基本計画を廃止するに当たっては、同条4項に規定する手続(変更と廃止を含む手続)をとるということになる。」

 そこで脇委員は、法治国家であるからあらゆる行政権限は法律で規定されているのに、なぜその手続をとらないで勝手にやめるのだと、追求を続けた。なるほどもっともな視点である。前原国土交通大臣も最初からこの答弁書通りに答えれば、何の問題もなかった。ところが、大臣に政治主導の意識が強すぎて、事務方が用意した答弁案が一顧だにされなかったからではなかろうかと思っている。(平成22年3月3日、参議院・予算委員会会議録第4号24〜26頁)


(4)民主党政権が短命に終わった理由

 これに関連して、自由民主党から政権を奪取した民主党(当時)を中心とする連立内閣が、わずか3年3ヶ月余、たった3代の首相で瓦解した理由について振り返ってみたい。防衛外交政策の失敗など様々な原因があるが、本質的には「政権奪取の闘争には勝ったものの、その時の『官僚主導から政治主導へ』というスローガンに自縄自縛となったため、統治の手足となって活用すべき官僚機構を使わずに自ら治めようとしたが、所詮は行政の素人で統治の知恵も経験もなかったため、意気込みだけが空回りして自滅した。」というのが真相だと思う。しかもその過程で、官僚機構を無視するばかりか、これを敵視して遠ざけてしまった。これでは、上手くいくはずがない。

 現に私自身も、平成21年の秋に、次のような経験をしている。当時は政権奪取の直後で、自由民主党前内閣が作成した予算の執行を無駄だとして、民主党新内閣が停止しようとしていた時期である。

 ある日のこと、「厚生労働大臣がお呼びです。今すぐ大臣室にお越し下さい。」という緊急連絡が入った。何事かと思ってすぐに飛んで行った。すると、大臣室には、大臣、副大臣、政務官の3人が大臣の机を挟んで鳩首協議中であった。その広い大臣室の隅っこに目をやると、見知った局長が1人、俯向き加減で、椅子に寂しく腰掛けている。政務官と私の間で、こういうやり取りがあった。

 政務官「この予算を執行しないと、地方自治体から訴えられるか
     ね。」

 私の答「訴えるかどうかは自治体側の考え一つですから、何とも
    言えませんが、問題はこの予算を執行するといって期待を
    持たせておきながら執行しなくなったことにより、実害が
    生じたかです。もし生じたのであれば、損害賠償請求を受
    けるおそれはあります。」


 政務官「その実害とやらは生じたのかね。」

 私の答「私は、この予算の内容も知らず、ましてや執行には全く
    関わっていないので、それを担当した局長(と言いつつ、
    隅っこに座っている方を指差して)に対して、『どこまで
    執行したのか、それによって自治体側に何か損害が生じた
    のか。』と聞くしかないでしょう。」



(5)東日本大震災

 平成23年3月11日(金曜)午後2時46分、東北地方三陸沖の太平洋海底を震源とする巨大な地震が発生した。その規模は、マグニチュード9.0という日本の観測史上最大のもので、東北地方太平洋沖地震と称される。東京でも震度5強で、私は第四合同庁舎11階の自室にいたが、かなりの揺れが長く続き、まるで船酔いをしたかのように気分が悪くなったほどだ。揺れが収まってすぐ、足元がふらつく中、私は局内を見回って職員と設備の安全を確かめた。審査室ではガラス製の仕切板が倒れて割れ、図書館では3分の1くらいの本が棚から落ちていた。しかし、幸いにも、訪問者の方も含めて誰も怪我をした人はいなかった。

東日本大震災による内閣法制局の書庫の惨状


 その旨を長官に報告し、震源地はどこだろうと思って、テレビのスイッチを入れた。すると画面いっぱいに津波が押し寄せ、海岸の木々や人家や車を一気に飲み込んでいるではないか。まるで悪い夢でも見ているような気がして、愕然とした。これは、阪神淡路大震災を上回る相当な被害が出ると思った。結果的にこの東日本大震災は、死者1万5,897人、行方不明者2,533人、負傷者6,157人、全壊した住宅12万1,990棟、半壊した住宅28万2,900棟という未曾有の大きな被害をもたらしたのである(警察庁緊急災害警備本部・平成31年3月8日付け広報資料)。

 すぐに法令による手当てが必要になると思い、震災関連法令の準備作業に入った。阪神淡路大震災の時の書類を引っ張り出し、それを参考にしながら、具体的にどういう法令のどんな規定が必要となるかを詳しく検討した。早速、翌12日(土曜)の臨時閣議で激甚災害政令を、翌々13日(日曜)には特定非常災害政令を決定するに至った。これを皮切りに、折から開会中の通常国会(第177国会)に地方議会選挙の特例法案、地方税法の一部改正法案など26法律案を提出し、うち20法律を同国会中に成立させ、平成23年末までにこれらの法律の施行令など89件の政令を決定した。


(6)福島第一原子力発電所事故

 このように、私たちが法律案や政令の審査の準備で大忙しの中、津波に襲われた福島第一原子力発電所などが停止して、東日本が電力不足に陥った。14日(月曜)から計画停電が始まり、都内でも節電の影響で照明が暗くなった。この頃、福島第一原子力発電所で建屋の爆発が起こり、炉心損傷と放射能漏れの危険性が高まったと報道されたが、確かなことは何も分からない。

 そういう中、仕事で遅くなって深夜に帰宅した。家内は静岡の実家の両親の様子を見に帰っているので、家には誰もいない。疲れた体で近所のスーパーに食料品を買いに行くと、既に食べ物やミネラル水が全て買い占められて、棚が空っぽで何もないのにはがっかりした。レストランや街の食堂も全部閉店している。仕方がないので家に帰り、冷蔵庫の中にあるものを口にして凌いだ。節電で地下鉄構内や街灯、町の自動販売機まで真っ暗だ。そんな情けない日々が続いた。

 この週は、炉心溶融(メルトダウン)の危機に陥った福島第一原子力発電所のニュースで持ち切りであった。報道以外何の情報もないまま、免震重要棟で吉田昌郎所長以下の東京電力社員や協力会社の皆さんが献身的に事態の収拾を図っているとか、菅直人首相が内幸町の東京電力本店に乗り込んだとか、警察、自衛隊、消防の皆さんが決死の注水活動をしているとか、そういう話を連日のように聞いた。各地で放射能の値が上がり、またそれが話題を呼んだ。毎日、暗くて寒く、食べるものがない上に、放射能まで飛んで来るとは、もはや世も末だ。

 福島第一原子力発電所の現下の原子力緊急事態が収拾できなければ、高線量のために人間が原子炉に近づけなくなる。するとあたかも飛び火するように、福島第二、女川、東海、柏崎などの原子力発電所の原子炉でも、次々と同様の事態に陥るだろう。その結果、最悪の場合には、やがて東北や関東地方に住めなくなるかもしれないという悪夢のような考えが頭によぎる。私は、もう十分に馬齢を重ねたから別に放射能など怖くはないし、いつ死んでもよいと腹を括っていた。しかし、万が一のこともあるので、その場合は局内の全職員をどうやって避難させようかと、そればかりを考えていた。

 一方、東北地方などの被災地のため、警察、自衛隊、そして米軍も出動して大々的な救援活動が展開されていた。国土交通省は、被災地に物資を届けるために、高速道路や国道の啓開作業を進めていた。大震災の発生から2週間ほど経って、福島第一原子力発電所の4つの原子炉の当面の危機的状況は、ようやく収束に向かいつつあるように思った。官邸で開かれる被災者対策会議(各省庁の事務次官級が出席)に出ていると、警察や自衛隊の救援活動、道路の啓開、鉄道の補修、燃料の輸送などが着実に進む様子が分かった。現地の復興が進むにつれて、我々も徐々に普段の生活を取り戻していった。

 他方、原子力災害対策本部は、地震発生当日の原子力緊急事態宣言から始まり、屋内退避の指示や、避難区域、計画的避難区域及び緊急時避難準備区域の設定などを次々に行っていった。これによる福島県民の区域外への避難者数は、最大11万3,000人といわれている。これほどの数の方々が、取るものも取り敢えず急いで故郷を去らなければならなかった。そして、家族が離れ離れになったり、慣れない土地に移り住むことを余儀なくされたりするなど、数々の辛酸を嘗める結果となったが、それを考えると、本当に胸が痛む思いである。


(7)改め文から新旧対照表へは頓挫

 法律案の改正に際して、まず新旧対照表というものを作る。これは、一表中に、その改正による改正後の法律の条文を上段に、それに対応する改正前の法律の条文を下段に書いて、相互を個々の条項に即して対比できるようにしたもので、これを見ると改正内容が一目瞭然で分かりやすい。しかし、これはあくまで国会審議の参考資料の一つとして添付されるにとどまり、改正法律案そのものは、『第◯条中「A」を「B」に改め、「C」を削り、「D」の下に「E」を加える。』という形式で書かれる。これを「改め文」という。この方式は、改正内容が正確に伝わるだけでなく、改正文の分量が最も少なくなるので、日本の立法の実務慣行では例外なく使われているし、諸外国の立法や条約の改正に際しても、よく見かける方式である。

 ところが、改め文そのものは実に分かりにくいし、最初に新旧対照表を作ってから改め文を作るというのは二度手間だ。それならばいっそのこと、改め文ではなく、新旧対照表を直接、国会審議の対象にしてもらえばよいと考えるようになった。そこで、内閣法制局としては、従来は各省で微妙な違いのあった新旧対照表の方式を統一した上で、これを法律案そのものとするよう、官邸と全省庁の内々の了承を取り付けた。

 その上で、国会筋の了解を得るための下相談に臨んだのである。折衝担当者は頑張ってくれたのだが、先方からは難色を示されて、結局のところ、了解を得るには至らなかった。これは私の推測であるが、議院修正があった場合に本来の法律案の改正部分を表す傍線と議院修正箇所を表す傍線とが重なって複雑で不明瞭になるというのが一番問題となったのではないかと思っている。確かに、何回も議院修正があったような場合を考えてみると、そうかもしれない。いずれにせよ、法律案を審議する国会の意向は、引き続き改め文を使うようにというものであった。

 議院修正があった場合は、別葉にするなり、傍線を線種や色で区別するなりして技術的に解決する方策がないわけではないと思うが、国会関係者に認めてもらえないのであれば、やむを得ない。せめて作成側の負担を減らそうと、新旧対照表から改め文を自動的に作成してくれるソフトを開発することにした。とはいえ、改め文の分かりにくさはそのままであり、割り切れなさが残った。


(8)韓国の会議で基調講演

 内閣法制局の幹部となって以降、私は一度も海外出張の機会がなかったが、平成23年11月9日から3泊4日の日程で、初めて韓国に行くこととなった。仁川近くの松島(ソンド)国際都市で行われた「アジア立法情報フォーラム(AFOLIA)」に出席するためである。参加国・地域は、西はレバノンから東は日本、北はウズベキスタンまでの30で、日本、インド、中国、ベトナムなど、西アジアを含めてアジアの主要国が集っていた。ホスト国の韓国側の力の入れようは相当なもので、歓迎のスピーチをするため金滉植首相が車で1時間半もかかるソウルからわざわざ来られた。日本も含めて主要8ヶ国代表の会合にも気軽に顔を出されて、私にも親しく言葉を掛けていただいたので、ご関心のあった東日本大震災についてお話をした。

 金首相の冒頭のスピーチのあと、主要国の基調講演の時間になった。私も10分間の時間を与えられたから、日本の立法事情につき、スライドを示しながら、昔取った杵柄で英語のスピーチを行った。会場の聴衆の数は500〜600人はいたであろうか、地味なテーマにしては結構な数だった。こういう大聴衆の前で演説をする時の心構えを、昔、先輩に聞いたことがある。それは、「なるべく原稿を見ず、会場全体を『Z』字になるように順番に見渡し、数字や固有名詞を語るときは、特に強調して言うこと、必要に応じて両手を動かしたり身振りも取り入れたりするべし。」ということだ。

国際会議「アジア立法情報フォーラム(AFOLIA)」において基調講演


 そうすると、聴衆は自分に目を向けてくれているという意識が持てて、話も聞いてくれるというのである。そのとおりに話したところ、ある人が、私の話はなかなか聴きやすくて参考になり、英語も分かりやすかったと言ってくれた。もちろん社交辞令ではあろうが、私の工夫に気がついてくれた人がいたと思って、それなりに良い気分がした。

 お昼休みに入った頃、記者会見の席に呼ばれた。頭にターバンを巻いたシーク教徒のインド人記者から、グリーン法制、災害対策、都市計画について各国代表一人一人順番に質問があった。私の番が来たので、概要こんなことを話した。

 「災害対策は、今回の3月11日の東日本大震災と大津波には既存の一般法制だけでは対応できなかったので、今日までに新たに20本の法律と71本の政令を制定した。まずは救援と復旧、そしてこれからは復興段階に入っている。しかし、いろいろと問題がある。例えば、都市計画と住民の意識とのずれである。津波で流された住民は、一般には元々住んでいた場所に戻りたいという気持ちがある。特に漁師さんなどは海の近くで波の音を聞き潮風を感じて住みたい方々が多いと思う。しかし、地方自治体としては、再び津波の被害を受けないように住宅を高い所に移す計画を作ることが多い。そうすると、なかなか話がまとまらない。」。すると、理解したらしく、うんうんと頷いていた。


8.内閣法制局長官

(1)父の秘かな願い

内閣法制局長官に任命され、直後に閣議メンバー恒例の写真撮影に臨む(私は向かって右上)


 平成23年12月22日、私は野田佳彦首相によって、内閣法制局長官に任命された。梶田信一郎前長官の跡を継いだもので、62歳のときである。明治18年の法制局発足時から数えて第64代目ということになる。実は、首相から長官の辞令をいただく姿を一番見てほしかったのは、父だった。しかし、既にその年の7月15日、父は86歳で他界していた。年明けから体調を崩し、家で在宅介護を受けていた。寡黙で我慢強い人だったから、痛いともなかなか言わなかったので、周囲もそれほど切迫していたとは思わなかった。それにしても、あまりに急な旅立ちだった。私はもちろん、近くに住む2人の妹のうちの1人も、今際の際に間に合わなかった。

父の葬儀


 葬儀を済ませて自宅に戻り、親類や近所の人が去ってがらんとした家に母と2人で取り残された。ふと、父が寝ていた部屋に入ってみる気になった。ベッドがある窓際のカーテンレールに、白い小さなものがぶら下がっていて、風に揺れている。照る照る坊主ではないか。その胴体に何か文字が書いてあると思って近づいて読むと、「内閣法制局長官就任」とある。驚いていると、母が「そうなのよ。お父さん、あなたが早く長官にならないかと毎日のように言って、照る照る坊主まで作ったのよ。まるで子供のようね。」それを聞いて、思わず涙が出てきた。


(2)政府特別補佐人として委員会等に出席

 国会開会中は、長官は、朝が早い上に非常に多忙だ。週2回、通常は官邸で行う閣議を院内で行う。そのときのスケジュールは、午前7時35分に自宅を出発する。8時5分に院内に着いて秘書官及び担当者と合流する。8時10分に院内閣議室に入り、その日の案件の決裁をし、準備状況を確認する。8時25分頃に閣議が始まり20〜30分間(案件の量や軽重により開始時間と所要時間は変わる。)で終了し、各閣僚は閣議室前などで番記者のインタビューを受け、それが終わり次第、委員会室に向かう。

 長官は、首相が出席する委員会には、政府特別補佐人として、必ず陪席する。予算委員会の一般質疑の多くがそうで、午前9時から午後5時までずっと開かれるのが普通だ。その間、あの狭い窮屈な椅子に座っていて、いつ聞かれるとも分からない質問に備える。また、首相や官房長官に対する質問で、法律的に補佐する必要があるものは、その場で助言する。場合によっては、自ら答弁者席に立つ。緊張感を保ち、当意即妙に対応する力が試される。なお、私が年末に長官になり、年が明けてすぐに始まった通常国会からは、内閣法制局長官に対する答弁禁止措置が解除された。だから、次長時代から引き続きやっているので、慣れているのは幸いだった。

 長官は、本会議で質疑が行われるときにも出席する。場所は、閣僚が並んで座る雛壇を議員の席から見上げて、雛壇の左手上の防衛大臣の後ろの席だ。あるとき、同居している4歳(当時)の孫が、たまたま国会本会議のテレビニュースを見ていて「あっ、おじいさんだ。」と目ざとく見つけたそうだ。ほんの一瞬の、しかも豆粒みたいな顔をよく見分けたものだと皆で驚いた。それからしばらくの間、孫は、国会の建物を見るたびに「おじいさんは、あそこにいるんだね。」と言っていた。


(3)国会内で時間を過ごす

 お昼には1時間の休みがあり、そのときは参議院側にある政府の控室で食事を摂る。しかし、食べながら報告を受けたり、決裁をしたりするから、ゆっくり休む間もない。午後から再開される予算委員会に遅刻してはいけないので、少し余裕をみて委員会室へと向かう。委員会室に早く着いて時間があるときには、座っていないで、国会内を歩くことにしていた。同じ階を大きく一周すると15分ほどかかり、衆議院か参議院のいずれかを小回りで一周するとその半分の時間だ。

 これを始めてから、全身に血が巡るようになり、委員会で長時間同じ姿勢で座っていても腰がさほど痛くならなくなった。国会内のあちこちに立っている守衛さんとも顔なじみになり、挨拶したりするようになった。政党の部屋の前を通りかかると、与党の幹部を記者の皆さんが取り囲んでインタビューをしている。かと思えば、中で行われている会議の内容を聞こうと、記者がドアの隙間や排気口に張り付いて、耳をそばだてている。まさに、政治の最前線だ。

 国会見学の中学生の一団にすれ違う。「この人、誰だろう?」とばかりに、じろじろ見られたりする。そうかと思うと、守衛さんが年配の見学者たちに建物の説明をしている傍らを通り過ぎるときには、「へえー、ほおー」などという感嘆の声が漏れ聞こえてくる。歩きながら国会の中庭に目をやると、ある日、立派な錦鯉が何匹か放たれた。紅白、大正三色、丹頂、光り物などが、ゆっくりと伸びやかに泳いでいる。見ていて、本当に心が和んだ。


(4)予算委員会で不条理な質問

 長官としての仕事は順調に進んでいたが、当時の民主党内閣に対して虎視眈々と返り咲きを狙う自由民主党が、政府攻撃の度合いをますます強めていった。野党としては、当然のことではあるが、私にもそのとばっちりが来るからたまらない。例えば、参議院の予算委員会で誠に不条理な質問をされた。質問者は、再び脇雅史委員である。

 まず、「内閣官房組織令の冒頭を読んでみて。」とおっしゃる。事前に通告がなかったのだから、そんな組織令など手元にあるわけがない。現行法律の数は1,800本ほどで、そのうちの1,000本くらいは有斐閣六法のT とIIにある。この2冊は議場に持ち込んでいる。ところが政令を束ねた本などあるはずがないし、当時はタブレットを議場に持ち込むことは禁じられていた。

 「手元にはありません。」と答えると、「貸してあげるよ。」と言う。ますます怪しい展開だ。差し出された紙の最初の第1条を読むと、「第1条じゃないです。冒頭部分。」と言う。冒頭にあるのは、いわゆる制定文で、法律としての効力がある部分ではない。妙なことをおっしゃると思いつつ、「内閣は、内閣法第16条第2項及び第17条の規定に基き、この政令を制定する。」と読み上げた。すると、「内閣法第16条第2項というのはおかしい。うその資料を渡したのではないか。こういうものが内閣府のホームページに堂々と載っている。」と言う。


(5)制定文は作ったときの歴史的事実を示すもの

 そもそも私は内閣法制局であって、内閣府とは違う組織だから、そのホームページにたとえ間違った情報が載っていようと、知る立場にはないし、それを訂正すべき立場にもない。しかし、今この場でそんなことを言っても始まらない。ご指摘の問題は、どうやら、法律の改正で根拠条文が移動したのに、昔の制定文を直していないことを非難しているのだと分かった。制定文は、制定時にはその政令の根拠を示すという意味があるが、制定されてしまえば、そもそも法令としての効力がない部分である。その後、当該法律の一部改正が重ねられて条項が移動しても、いちいち当初の制定文を改正するような運用はしていないし、そんなことをしても全く意味がない。

 そこで、「法律を根拠に政令は作られるが、その政令には最初のときに作ったままの制定文が書いてあって、その後、法律等が改正されても、改正後の条文を書くようなことはしていない。」と答えた。すると、「ばかな答弁だ。」とけなされた。私から重ねて「これは法令全書の編集の問題で、制定文は制定したときのままに書いてあって、その後、慣習として本体が動いてもそれを動かさないということになっていて、組織令のホームページは、それをそのまま取ってきたのではないか。」と答えた。

 でも納得しない。最後に、問題を整理するつもりで「法令の本体は題名以下の一連の条文で、これは改正があれば完璧に直す。しかし、制定文は作ったときの歴史的事実を示すものとしてそのまま固定されていて、特に触るものではないというのがこれまでの慣行」だと答弁した(平成24年2月6日、参議院・予算委員会会議録第3号3〜5頁)。これは、立法関係者の間では定評のある本である「ワークブック法制執務」にも載っている慣行なので、後日、脇雅史議員のところにその写しをお持ちして、理解していただいた(「新訂 ワークブック法制執務」平成20年1月25日再版の問56への答、157頁)。


(6)内閣法制局の幹部

 私が長官に就任したときの幹部の布陣は、横畠裕介次長、近藤正春第一部長、林徹第二部長、外山秀行第三部長、松永邦男第四部長、北川哲也総務主幹である。皆さん、優秀な方ばかりだし、それぞれ参事官の頃から存じ上げていて、気心が知れている。また、私は各部長を経験しているから、各省庁がどういう発想をしてどんな法律案を出してくるかは、ある程度、想像がつく。だから仕事はやりやすかった。

 内閣法制局は、第二部から第三部までの審査部の案件は、担当参事官 → 各部長 → 次長 → 長官のルートで決裁を受ける。法解釈の第一部の案件も同様である。つまり、部のレベルまではそれぞれの案件を持ってバラバラに動くのが普通であるが、年に一度だけ、幹部全員で検討する機会がある。それは、毎年1月下旬に開かれる通常国会に提出する各省庁の法律案を検討するため、同月初旬に開催される幹部会だ。


(7)A法案とC法案の仕分け

 担当部長が内閣総務官室とともに、提出予定の法律案の要旨を各省庁の総務課長等から聞き取る。それを長官以下の幹部が集まる会議(幹部会)で説明して、了承を得る。その場では、法律案として相応しい内容か、そもそも法律事項はあるのか等から始まって、既存の法体系と整合するのか、検討すべき事項に漏れはないのかなど、全員で徹底的に議論する。

 その結果、了解されたものは「A法案」といわれて提出が確定するが、そのままでは法律案にならないから対応するようにと、注文が付く場合もしばしばだ。このうち、予算関連法案(通称は、※(コメ)法案)は、予算案の提出から3週間以内に、それ以外の法案はそれから更に4週間以内に、国会へ提出することになっている。

 これに対して、法律案としては未だ熟していないもの、つまり法律的な検討がまだ不十分であったり、そのような規律を定めるには時期尚早と思われたり、関係各省庁との調整が未了であったりするものの、担当省庁としては提出する意欲はあるというものは、「C法案」とよばれる。以上の審査結果は、内閣総務官室が作成して国会に提出する「内閣提出予定法律案等件名・要旨調」に法律案と条約の件名と要旨(C法案は、件名のみ)が掲載される。


(8)国会が閉会中には部内固め

 長官は、国会が閉会中のときには、閉会中審査という例外的な場合を除いて、委員会に出席することはない。毎週2回、官邸で開かれる定例閣議やそれ以外の臨時閣議に陪席するのが決まった仕事となる。時には政府の上層部や与党の幹部から、法律上の見解を求められることもある。そういう対外的な仕事がないときは、部内固めに注力する。

 例えば、前国会の会議録を読んで、内閣提出の法律案を審議した委員会の議論を振り返り、我々の審査内容との齟齬がないかを見る。あるいは次長、部長、参事官と色々な案件の話をして、各方面の最新情報を得たり、認識を共通にしたりする。時には、話題になりそうな法律問題があれば、担当省庁はどのように考えているのかをその場で聞いてもらい、併せてそれに対する我々の解釈を固めておく。このように普段から部内や関係省庁とのスムーズな意見交換と頭の体操を心掛けておかないと、いざという時の対応に大きな差が出て、良い仕事ができないのである。


(9)スマートフォン・クラブ

 局内の職員、特に若い人から見ると、長官というのは、何だか怖そうな存在だと思う。それでも参事官の皆さんとは、決裁を通じて触れ合う機会がある。しかし一般の職員の皆さんとは、幹部職員や照屋敦秘書官など直接お世話になっている人たちは別として、話をするのは年末年始の会合や人事異動に伴う歓送迎会くらいしかない。特に若い人とはあまり機会がない。ではどうしようかと思った末に、当時普及し始めていたiPhoneを持っているのは、若い人ばかりであることに気が付いた。そこで、「iPhoneクラブ」と称して、これを持っている人に夕刻の勤務時間後に集まってもらい、お茶を飲み、甘い物を食べながら雑談することにした。

 その頃のiPhoneは、スマートフォンの走りで、とても魅力的で目新しい端末だったが、慣れていないと使いにくいものだった。だから、こんなものを持っているのはパソコン好きの私か、新し物好きの若い人しかいない。お互い、どんなアプリを入れているのか、入れたアプリの使い方が分からないとか、こういう場合はどうすればよいのか、これを置き忘れたときはどうやって探してデータを消せばいいのかなど、ユーザーとして話が弾んだ。

 しばらく続けていたところ、今度はアンドロイドが普及してきた。そうするとこれを持ち始めた数人の皆さんたちから、自分たちも参加したいという声が聞こえてきた。私はアンドロイドについての知識はほとんどなかったが、いずれにせよもっと多くの若い人と話せる機会が増えるから、もちろん大歓迎だ。併せて、アンドロイドに関して色々と教えていただこうと思って、「スマートフォン・クラブ」へと拡大して開催することにした。話を聞くと、アンドロイドとiPhoneとでは、主要なアプリはほぼ共通していたが、その一方で微妙な違いがあることが分かり、とても勉強になった。


(10)テニスは下手の横好き

 私は、平成13年に明治神宮外苑テニスクラブの会員となって、本格的にテニスを始めた。土曜か日曜の日中に室内テニス場でレッスンを受け、時折、平日の夜間に通産省の仲間などと屋外で試合をするというスタイルだ。室内を使う場合は、たとえ天候が悪くてもプレーができて便利なのだが、エアコンがないので夏場は気温が36度以上にもなり、その中で大汗をかきつつ激しく運動する。今から振り返ると、熱中症に罹らなかったのが不思議なくらいだ。でも、コーチと打ち合い、仲間と一緒に無心でボールを追いかけるのは、本当に爽やかな気分がする。汗を流した後、水分をとりながら仲間と心ゆくまで談笑するのも、これまた楽しいものである。

 このように書くと、あたかも非常に上手なプレーヤーだと誤解されるといけないので、敢えて申し上げると、テニスは下手の横好きである。サーブはさほど早くないし、ボールを打つストロークの際にむやみやたらと下から上への回転を掛けるから、ボールはこすり球となって速度は遅い。しかし、ワンバウンドした後は、どこにどれだけ跳ねるのか本人にも分からない。そういうくせ球を打つのに加えて、相手が届かないところにボールを持っていく傾向がある。だから、ダブルスの試合をすると、綺麗には勝てないが、終わってみれば、不思議と負けない。本当は横綱相撲のようにぐいぐいと力で押して勝ちたいのだが、非力なのでそれができないから、頭とテクニックで補っているようなものである。何だか、私の人生と似ている。


(11)テニスで肉離れを起こす

 平成24年1月中旬の寒い日曜日、内閣法制局長官になったばかりの頃である。私はいつもの通り、神宮の室内テニスコートで試合をしていた。短い球を拾おうとして右前方にダッシュした瞬間、右脚ふくらはぎの膝に近いところで筋肉がプツッと異音を立てて弾け、痛くて歩けなくなった。ラケットを杖がわりにしてやっとのことでベンチにたどり着いた。コーチに、「これはアキレス腱を切ってしまったのですかねぇ。」と聞いたら、「いやいや、アキレス腱だと七転八倒するほどの痛さだから、多分そうではないでしょう。」と言うので、やや安心した。

 患部を氷で冷やしながら、携帯電話で診察してくれるところを探した。まず、掛かりつけの虎の門病院には、その日は泌尿器科の医師しかいないということで諦めた。東京消防庁の救急相談センターに整形外科の医師のいる病院を探してもらったら、「本日整形外科の診察ができるのは、広尾病院と慶應病院です。」と言う。慶應病院なら、今いる神宮のすぐそばだ。電話して行き、しばらく待って診察を受けたら、「アキレス腱は大丈夫。いわゆるふくらはぎの肉離れで、下腿三頭筋の上部付近で起きた部分的な断裂ですね。」と言われ、全治6週間ほどの怪我だった。右膝の関節が動かないように、包帯でぐるぐる巻きにされた。

 それから予算委員会などの国会日程が立て続けにあったが、なるべく目立たないように右脚を引きずりながら、何とかスケジュールをこなした。その時、足の痛みにいささか懲りたことから、少なくとも長官でいる間は、テニスの試合のような過激な運動は控えようと思った。それで、あれほど好きだったテニスを、一旦きっぱりと止めてしまったのである。ところがその怪我が完治し、長官ではなくなっても、テニスをしなかった期間が長いと技量が落ちる上に、プレーを再開すれば、また怪我をするのではないかと心配になる。そういうことで、テニスの世界からしばらく遠ざかってしまった。


(12)テニスを再開したが、もはや絶滅危惧種に

 しかし、やはりテニスの試合の爽快感と醍醐味は忘れ難いし、運動不足であることを痛感するようになった。そこで、最高裁判所判事になって2年余りが経った頃、減量の必要もあって、テニスを再開した。何しろ4年近くのブランクがあるから、試合をするには、また一からやり直しだ。当時のテニス仲間は散り散りになってしまっている。だからまず、スクールでのレッスンをみっちり受けるなどして、徐々に調子を取り戻していった。裁判官を辞めて比較的自由に過ごせるようになったら、気の置けない仲間をまた作って、試合をゆっくり楽しもうと思っていた。

 ところが、齢70の定年による最高裁判所判事の退官を機に、これからテニスを思う存分やろうと考えて周りを見回したところ、同年輩でテニスをプレーする人など、ほとんどいないのに気がついた。もはや絶滅危惧種になってしまっている。さあこれからどうするか・・・年寄り扱いされながら若い人に混じってテニスを続けるか、それとも同世代の人を求めて再びゴルフに戻るかと思案の上、スポーツクラブで細々とテニスを続ける道を選んだ。


(13)カメラの趣味

 私が中学生のときの修学旅行の写真を見ると、旅行先の箱根でカメラを持つ姿が写っている。これからもわかるように、昔から私はカメラ好きなのであるが、かつてはフィルムが高価だったために、いつも持ち歩いて何でも撮るというわけにはいかなかった。

 このような状況が一変したのは、デジタル時代の到来である。フィルムを現像に出す手間と費用がなくなり、SDカードの容量が許す限り何枚でも撮ることができるようになって、しかも画質が飛躍的に向上した。私もこうした流れに乗り、コンパクトデジカメを4台ほど使った後、初期のミラーレス一眼であるオリンパス・ペンE−P1を購入した。これでレンズを取り替えながら、色々な被写体を様々な状況下で撮るようになった。

 最初は近くの下町の花から初めて、青森ねぶたや秋田の竿燈などの全国各地のお祭り、国内外の旅行の風景、国宝のお城、春の桜と秋の紅葉などを撮っていった。画家に画風があるように、写真にも写風がある。私の写風は、その時その場所で見た、ありのままの被写体を撮るというのに尽きる。

 このような写風は、写真の専門家からすれば、芸術性の欠けらもないということになるのだろうが、私は、素人なのだからそれで良いと思っている。というのは、芸術的な写真を撮ろうとすると、朝日が昇る前や夕陽が沈む黄昏時など、風景が大きく変わる頃に行って、じっくりと構えるということをしなければならない。ところが勤めている頃の私にはそんな暇はなかったし、車を運転しないことにしているから、交通が不便な地方になればなるほど、明け方や夕暮れ時に行く手段もない。

 そういうことで、公共交通機関を使ってせっせと出かけ、撮れる範囲内で写真を撮る。そして、たまに絵葉書のような美しい写真が撮れれば、それで大いに満足だ。それらを自分のホームページ(悠々人生)に載せて、悦に入っている。カメラは、ミラーレス一眼の走りのE−P1からデジタル一眼レフ(APS―C)のEOS70Dに替え、更にフルサイズのミラーレス一眼ソニーα7IIIに乗り替えて、今に至る。これからも時間と体力の許す限り、日本の伝統的なお祭りや内外の美しい風景などを撮りに行きたいと思っている。





9.内閣法制局長官を辞する 【執筆中】


 (1)閣議のあと呼び止められ
 (2)右とされていたのに左とは
 (3)集団的自衛権
 (4)忠と孝の狭間で悩む
 (5)憲法の遵守が役目
 (6)第2次安倍内閣
 (7)判事は晴天の霹靂





(第6章は、令和3年4月15日記)

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第7章 最高裁判所

1.勤続40年で退職の文字が頭に浮かぶ

最高裁判所大法廷



 私は、戦後の焼け野原から強力な行政指導をもって世界に通用する産業を育ててきた通商産業省の有り様にいたく感激し、是非ともこの省に入って、日本という国に貢献したいものだと強く思っていた。実際にその希望がかなったときには、まさに天にも昇る心地がしたものである。勤めてからも、この思いは変わらず、どんな官職についても仕事が楽しくて、毎日があっという間に過ぎていった。

 そうした通商産業省での生活に大きな転機が訪れたのは、平成元年に、内閣法制局の参事官として出向を命じられたときである。この出向は、5年の長きに及んだ。いざ取り組んでみると、法律という仕事は、意外と自分の水に合っているという気がした。その代わり、法令審査に必要な知識を身につけるまでは司法試験並みの法律の勉強をし、それこそ血のにじむような努力が必要だった。

 しかし、勉強がひと通り終わってみれば、法律の知識が頭の中に整理整頓して入っており、爽快な気分すらしたものである。加えて、閑散期の余った時間を利用して、自分の2人の子供と十分に触れ合うことができた。週末にはゴルフやテニスを楽しむ余裕ができたし、それに当時はまだ黎明期にあったパソコンに詳しくなるという余得もあった。その後、いったん通商産業省に戻って課長などを務めたのち、再び内閣法制局の部長職に呼び戻されて、部長、次長を務め、長官となったものである。

 合計で40年間に及ぶ国家公務員生活のうち、通商産業省と内閣法制局の勤務の期間がちょうど20年ずつになった。年齢も、63歳になったので、いささか早いかもしれないが、そろそろリタイアの適齢期にさしかかる。人間とは現金なもので、退職という言葉が頭をかすめた次の瞬間、まだやるべき仕事が残っているというのに、辞めたら何をしようかという考えが、ついつい頭に浮かぶ。情けない話だが本当だ。まずは、家内と海外の景勝地へ旅行に行って、風景写真を思う存分撮って来ようかとの考えが浮かんだ。40年間も仕事一途でやってきたし、とりわけ長官時代には東京23区内からは出られなかったので、その反動のようなものである。


2.まさか最高裁判所判事とは

 そうしたある日、官房副長官からまた呼ばれ、竹内行夫判事の後任として、最高裁判所判事になるようにとのお話をいただいた。まさに晴天の霹靂とはこのことかと思った。実はその可能性を考えないではなかったが、竹内判事の任期が7月21日の参議院議員選挙の2日前に終わることと、一部の観測記事で後任として欧州の国に駐箚する大使の名が早々と上がっていたことから、全くあり得ないことだと思っていた。いずれにしろ、私の法律に関する知識を高く評価していただいたと思って嬉しい気がする反面、内閣法制局が置かれた苦しい立場に思いを致すと、誠に複雑な気がしたものである。

 でも、憲法上、最高裁判所といえば違憲立法審査権を有し、また裁判官の独立も規定されている。これまでは政治任命の一国家公務員にすぎなかったため、その主張を貫くにはどうしても限界があり、最終的には辞任するしか手段がなかった。それに比べれば、はるかに立場は守られている。だから、この話をお受けして、自分の信念に基づく正しい判決を出していこう。これまで培ってきた法律に関する知識を生かす絶好の機会である。長官交代直後の判事就任では、何を言われるか分からないが、そんなこと、構うものか。私は、憲法を守り、国民の権利を擁護することこそが、自らに課された使命だと思った。それが日本という国に対する、私の人生最後の貢献だと心に決めた。


3.最高裁判所判事に就任

(1)任命直後の記者会見での質問

最高裁判所判事の認証官任命式を終えた直後に皇居にて(平成25年8月20日)



 平成25年8月20日、私は認証官任命式のため、宮中に向けて出発し、坂下門から参内した。正殿松の間において侍立大臣から最高裁判所判事に任命するという御名御璽のある官記を受領し、天皇陛下の御前に出て直々に「重任ご苦労に思います。」とのお言葉をいただいた。これに対し深々と一礼して退出し、無事に任命式が終了した。

 最高裁判所に戻って竹崎博允長官(当時)に挨拶をした後、午後4時から新判事の任命時に行われる恒例の記者会見に臨んだ。当初、事務総局人事局秘書課から聞いていたとおり、趣味、信条、経歴、心構えなど、ありきたりのテーマについて、淡々と進んでいくはずだった。

 すると突然、ひとりの記者が、「憲法9条の解釈変更による集団的自衛権の行使について、どう考えますか。」と聞いてきた。これに対し「政治的色彩が強いご質問だから、最高裁判所の一判事となった私の見解を申し上げるのは差し控えたい。」と無難に答えるのが一案であり、まずほとんどの人がそのように答えるだろう。

 しかし、ここで逃げるのは自分自身に対して許せない。それに、長官退任の際、私の所感を国民に対して説明する機会が全くなかったことは、非常に心残りだった。そこで、「ここは自分の信念に忠実に行こう。その結果、敢えて火中の栗を拾う形になっても仕方がない。判事をたとえ1日で辞めることになっても、それが私の運命だ。」と瞬時に考えて、次のように答えた。


(2)正直に思うところを答える

 「それは、前職のことだけに、私としてはかねてからの自分の意見があります。結論をいうと、なかなか難しいと思います。憲法9条の下で、我が国自身に対する武力攻撃がある場合に限って必要最小限度の反撃ができ、その限度で自衛の装備が持てるということで、過去半世紀くらい、政府はそのような解釈をしてきました。これに対し集団的自衛権は、我が国が攻撃されていないのに、我が国と密接な関係のある他の国が攻撃されたときに、ともに戦うことが正当化される権利です。いま申し上げた従来の解釈からして、我が国はそのような権利を行使できないと私は思っています。その従来の解釈を変えることも、難しいでしょう。」

 更に質問は続く。「憲法そのものを変える選択肢はありますか。」

 私は答える。「一般に、法規範が現状に合わなくなったのであれば、その法規範を改正するのが一番明確な解決策で、それをするかどうかは国会と国民の判断です。私自身は、地球の裏側まで行くような集団的自衛権を実現するというのなら、憲法改正をする方が適切だろうと思います。」

 すると、これでは埒が明かないとみた記者が、搦め手から聞いてきた。

 「憲法解釈の変更のために法制局の人事に介入する手法をどう見ますか。」

 しかし、さすがにこの質問は私の則(のり)を越えるので、記者のご期待には沿えない。そこで、私は、このように答えた。

 「人事権者のなさることで、私から申し上げるべき事柄ではないと思います。」


(3)どん底から空高く舞い上がる

 以上の私の発言については、菅義偉官房長官(当時)からは「公の場で憲法改正の必要性まで言及したことについて、非常に違和感がある。」と記者会見で言われ、新聞各紙には賛否両論が載った。その中には「そもそも政治的な発言を最高裁判所判事がするのはいかがなものか。」という批判もあった。しかしながら、裁判所の内外や与党の一部から、「いやいや、逃げずに良く言った。あれくらいはギリギリ許される。」と私を擁護する声があがったこともあり、さほど大きな問題にはならずに、おかげさまで6年余の任期を全うすることができた。

 私は常々、仕事にも自分自身にも正直でありたいと思っているので、ここで自分の考えを曲げたり、隠したりしなくて、本当に良かったと考えている。長官を辞していったん沈んでしまった人生のどん底から、次の瞬間、一挙に浮上して空高く舞い上がったような気がしたものである。


(4)秋山收元内閣法制局長官からの手紙

 そうした中、大先輩である秋山收元内閣法制局長官から次のような手紙をいただいた。「就任時の記者会見はあれで良いと思います。あれだけ周知のいきさつがあったうえでの御就任なので、あそこで言葉を濁したら『この人は最高裁判事にしてもらったことを恩義に感じて韜晦したな』という印象を与えてしまい、山本判事の将来にとっても最高裁にとってもマイナスだったと思います。はっきりした発言をしたことによって『この人は周辺に余計な顧慮をせずに信念に従って発言する人だ』という印象を与えました。」

 まさに、我が意を得たりという気がした。私が胸の内で思いながら、記者会見では言葉にしなかったことを言い当て、あまつさえ、数多ある私への非難の声に対してどのように考えるべきかの道しるべをもいただいた。本当にありがたいご教示をしていただいたものだと、心の底から感激した。ちなみに私は、通商産業省、内閣法制局と、秋山元長官をお手本にしながら、その後を追うようにキャリアを積み重ねてきた。まさに良き先輩を持ったものである。


4.小松一郎内閣法制局長官の悲報

(1)天皇誕生日の式典で小松さんご夫妻と

 平成25年8月の新旧長官交代後、私が小松さんにお会いしたのは、同年12月23日に宮中で行われた天皇誕生日の式典の折である。背が高くて美人の奥様と並んだ小松さんを見かけた私が歩み寄っていくと、小松さんご夫妻も気が付いて、近寄ってきてくれた。私が、「やあ、お久しぶりです。いかがですか。」と聞いた。すると小松さんは、「いやもう、とても大変ですよ。」と、にこやかに答えてくれた。表情は明るいし、顔の色艶もよい。その屈託のないご様子からすると、就任時に私が感じた不安感は、幸いにして杞憂だったかと愁眉を開いた。

 年が改まり、平成26年になった。1月下旬から通常国会が始まる。内閣法制局長官は、これに提出する数多くの法律案を自ら審査しなければならない。それだけでなく、2月上旬からは予算委員会が開かれるのが通例で、安全保障政策が主要な論戦のテーマとなるのは間違いない。これも内閣法制局長官の大事な出番だ。とても忙しくなる。


(2)体調を崩す中、国会で追求の矢面

 ところがその矢先、平成26年1月24日に、小松長官が体調不良のために1ヶ月の検査入院をすると発表された。これは大変だ。大丈夫だろうかと心配になる。長官不在の間は、横畠裕介次長が長官事務代理に任命された。その1ヶ月が過ぎて2月24日から再び職務に復帰されたようだが、国会で答弁をする様子をテレビで拝見すると、入院前とは様変わりの痛々しい姿であった。顔色が良くなく、両眼と両頬が落ち窪んでしまったように見えた。更に答弁の内容も、いつもの歯切れの良さと理詰めの説明がすっかり影を潜めていた。

 それだけでなく、やれ審議中に携帯電話を見て答弁していただの、国会の廊下で野党の国会議員と口論しただのと、答弁の内容以外の事情ばかりが報道されて世間の話題となっていたのは、本当にお気の毒であった。報道によれば、このとき、毎週定期的に抗癌剤の投薬治療を受けていたとのことである。そうした中にもかかわらず、国会で連日のように厳しい追求を受けていたのであるから、心も体も、さぞかしお辛かったことだろうと推察し、涙が出る思いである。


(3)長官を退任直後に急逝される

 そうこうしているうち、政府は平成26年5月16日の閣議で小松一郎内閣法制局長官を退任させ、横畠裕介内閣法制次長を昇格させる人事を決定した。その前日、小松長官から「治療に専念したい。」との申し出があり、首相は自身の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告書が提出されて一区切りがついたことなどから、その申し出を受け入れたと報じられた。

 その報道に接して、私はそれほどお悪い状態だったのか、重篤でなければよいがと念じたものである。ところが豈図らんや、6月23日になって急逝されたと知り、思わず私は涙し、天を仰いだ。


(4)小松一郎を偲ぶ会

 9月11日になり、「小松一郎を偲ぶ会」が、ホテルオークラで開かれ、私も参列した。そのときにいただいた冊子中の安倍晋三首相のお言葉の一部を引用すると、次の通りである。

 「小松前長官は、まさに自らの命を削り、体力の限りを尽くして職務にあたられました。全身全霊を込めて職を全うされた、その人生を懸けた仕事ぶりと残された功績に対し、衷心からの敬意を表するとともに、日本国政府を代表して、深い感謝の念を捧げます。」

 これが、いわば小松さんの墓碑銘代わりになったと思った。


(5)素晴らしい人生だったとの最期の言葉

 偲ぶ会発起人の皆様のお言葉の内容をまとめてみると、こういうことだったらしい。1月に軽い気持ちで受診したCTの画像で、思わぬことに、腹腔内に進行した癌が発見されて、虎の門病院に入院した。かなり厳しい病状であったにもかかわらず、本人には仕事を優先するという気持ちが強く、早くも1ヶ月後に職務に復帰した。それ以降、投薬治療を受けながら連日のように続いた国会審議に臨み、激務をこなし、仕事の目処がついた5月16日に職を辞した。

 それからほどなくして6月23日、「素晴らしい人生だった。」との最期の言葉を残し、息を引き取ったという。深く哀悼の意を表したい。ちなみに、小松さんが心血を注いだ「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の閣議決定が行われたのは、それから1週間後の7月1日のことである。

 小松さんは、私とは真反対の立場におられた。それは事実であるが、私と同様、誰もが認める極めて困難な課題に取り組み、職務にその身を捧げたことに違いはない。歴史を語るのに「もし(IF)」という言葉は禁物なのかもしれないが、それでも私は時折、「もしあの時、私が小松さんと交代していなかったら、今頃どうなっていたのだろう。」と思うことがある。その2人の人生が交錯した時点を過ぎてみると、私は今もって馬齢を重ねている。ところが、小松さんは病魔に侵され、文字通り「巨星墜つ」ことになってしまった。心から、ご冥福をお祈りする次第である。


5.判事就任時の自己紹介

最高裁判所第二小法廷の私の執務室にて



 裁判所のホームページの中に、最高裁判所の裁判官を紹介するページが設けられている。私は、事務総局の求めに応じて次の自己紹介文を書き、これを掲載してもらった。

(1)裁判官としての心構え

 最高裁判所判事という職は、私にとって誠に身に余る大役ではありますが、これまでの国家公務員生活40年余の間に培ってきた法令に関する知識及び経験を基に、法と証拠そして私自身の良心に基づいて公平かつ公正な判断を心掛け、その職務を全うしたいと思っております。

(2)好きな言葉

 これまでの人生を通じて「誠心誠意」という言葉が私の信条であり、座右の銘でもあります。ただ,時には何か困難な目標に挑戦しなければならないのが人生の常です。そういう場合には、これに「為せば成る」という言葉を加えて自分を奮い立てて課題に挑戦してきました。

(3)印象に残った本

 司馬遼太郎著「坂の上の雲」、「街道をゆく」、城山三郎著「官僚たちの夏」などは、ちょうどそのころ大学紛争や石油危機の相次ぐ到来によってなかなか将来が見通せない中、日本の行く末を想い、自分も何か日本の役に立ちたいという気持ちをかきたてられる契機となり、その後の私の人生の誠に良き羅針盤となった書物です。

(4)趣 味

 スポーツは、かつて在外勤務をしていた頃に運動のためにと始めたゴルフに長い間、熱中していたのですが、もう十分に楽しんだことなどから種目を変えて、ここ20年ほどはテニスをしています。運動としては、自宅近くで出来、しかも手軽です。

 旅行をして写真を撮るのを好みます。世界は31ヶ国、うち世界一周2回、国内は全ての都道府県に行ったことがあります。写真は、とりわけデジタル一眼カメラの時代になってからは、これを真っ先に買い、色々な写真を撮って楽しんでいます。

 さらに、パソコンをウインドウズの前のMSーDOSの時代から扱っているマニア的なユーザーでして、これまでほとんどの主要メーカーのパソコンを購入して使ったことがあります。その極め付けが、最近のスマートフォンで、これは遂にパソコンが手のひらに乗ったと思って感激し、非常に重宝しています。

 著述も好きです。法律書としては、不正競争防止法や製造物責任法の解説書、立法学の教科書などがあります。   そのほか、最新の宇宙論の本を読むのが趣味でして、一時は「超ひも理論」に凝っていました。最近では素粒子物理学の標準理論と暗黒物質の研究の行く末が気になります。人間の論理的思考が物理の法則の仮説を作り出し、それを実験物理学が証明していくというプロセスには感動します。


6.最高裁判所と行政機関の違い

(1)時間の流れがゆったりしている

 私が最高裁判所判事として勤務し始めてしばらく経った頃、同じ官庁といっても最高裁判所というところは、私がそれまで40年間勤務した通商産業省や内閣法制局と比較して、これほど違うものかと思ったことが幾つかある。

 まず、時間の流れがゆったりしていることである。例えば小法廷の中で裁判官どうしが審議するにしても、次回はいつかと問うと、早くて1ヶ月後、どうかすると2〜3ヶ月後にしたいという。私は、「そんな先になると細かいところを忘れてしまい、記録をまた最初から読まなければなくて不経済だから、もっと早くできないか。」と言うと、「そうはいかない。訴訟当事者もいるので、これが普通の日程設定だ。」と言う。それだけでなく、弁論期日を設定するにしても、判決言渡し日を決めるにしても、万事そのような調子である。

 しかもこれは、裁判所特有の慣行というよりは、司法界全体がそうなのである。というのは、法曹三者のうち裁判所だけが事件処理のテンポを早くしようとしても、残る検察庁と弁護士の協力がなければ、うまくいかないからだという。これが通商産業省や内閣法制局だと、その場で即答しなければならない案件もあるし、回答期限が半日から2〜3日以内の案件、あるいは長くてもせいぜい1週間以内の案件がほとんどである。長年そういう短期の案件処理に慣れた私としては、この司法界でゆったりと流れている時間というものが、最初はじれったくて仕方がなかった。


(2)書類(記録)に無駄が多い

 それとも関連することだが、書類(記録)に無駄が多いことである。書かれている内容の割には分量が多過ぎる上、その論旨がくみ取りにくくて、結局何が書かれているのか全く印象に残らないという書類をしばしば目にする。もちろん民事事件の当事者、刑事事件の被告人・弁護人、検察官が出す証拠などは、その事件を審理するために必要な限り、存分に提出されるべきことはいうまでもない。しかしながら、せめて法律審である最高裁判所に提出される上告理由書や上告受理申立理由書くらいは、もう少し主張を絞って要領よく書いていただけないものかという気が常にしていた。

 私は、通商産業省や内閣法制局で長年、「人に説明する書類はなるべく無駄な要素を省き、できればその分量はA4で2枚以内にせよ。」という作法がたたき込まれ、身に付いてしまっている。だから、こうした司法界の慣行には、最後まで慣れることができなかった。この点、弁護士が大量の文書を作るのは、そのクライアントに対して仕事をしているとアピールするためだという人もいれば、安全のために思いつくだけの理屈をありったけ書いておいて、そのうちどれかが裁判官の取り上げるところになればしめたものだと考えるからだという人もいる。どちらが的を射ているのかは分からないが、パソコンによるコピー&ペースト(コピペ)が、この傾向をますます助長しているように思う。


(3)書面審理より生身の人間

 生身の人間を直接相手にするのではなく、書類を相手にしているから、どうしても隔靴掻痒の感があることだ。最高裁判所のような法律審は書面審理が建前であり、またそうしないと毎年1万件を優に超えるあれだけの新受事件数を僅か15人しかいない裁判官で処理しきれるものではないことは重々承知している。

 しかしそれにしても、特に刑事事件などでは被告人の顔を見て直接尋問できれば、何かもう少し分かるのではないかと思うことが多い。それが叶わないものだから、記録を隅々まで丹念に読み、足りないところはあれこれ推測して、全体像を描くほかない。それに基づいて法理論と経験を踏まえ、最後は証拠から受ける自分の直感が正しいと信じて結論を下すことにしている。


(4)刊行物中心に調査官が徹底的に調査

 最高裁判所の判決の前提として、判例はもとより、刊行物一般についてこれほどまでに徹底的な調査が行われているとは知らなかった。それだからこそ、色々な意見や議論を踏まえた公平な判断ができるというものだ。各種の法律専門誌も当然に調査の対象である。ところが、得てして法律専門誌には、一方の結論に片寄ったバランスの欠く記事ばかりが掲載されることがある。これは、その時々に取り上げられるテーマとその結論に、一種の流行りのようなものがあるからだろう。だから、そればかりを読んでいると、ついつい公平を欠いて全体の姿を見失いかねないので、その点をよく注意する必要がある。

 組織で仕事をしているわけではないので、行政機関の部下のような便利な存在がいない。例えば内閣法制局であれば、何かを調べたいと思ったら、その省庁から出向してきている参事官などに聞けば、すぐにその出身省庁の所管部局に聞いてくれて、たちどころに最新の正確な情報を入手できる。

 ところが最高裁判所の場合は、判事自らがその担当する事件について調べるべき立場にあるのは言うまでもないが、係属する事件数が余りに多いことから、実際には、全ての事件につき、その事件の担当となった調査官に、まずは調べてもらう仕組みになっている。調査官というのは中堅裁判官で、極めて優秀との折り紙付きの人材が選抜されている。そして、一つの事件は原則として1人の調査官が担当する。もちろん調査官室からのサポートはあるものの、その1人で何から何まで調べなければならないこととなっている。調査の対象は、事件の記録のほか、判例集、学術書、法律論文、専門誌などの文献に書かれたものが対象で、事の性質上、外部に問い合わせることは一切できない。そういう制約の下での調査は非常に厳しいものではあるが、それを最後までやり切り、事件の内容を法律的に分析した上でこれに当てはめ、しかる後に自らの処理意見を付して、調査の報告書が提出される。

 裁判所の中でも最優秀の裁判官が、たっぷりと時間をかけて丹念に調べてきたものだから、思わず感心させられる完璧な報告が多々ある。しかし中には、調査に年単位の時間をかけた割には不十分なものであったり、調査結果が整理されないままに不得要領のものが出てきたり、あるいは私の考えとは全く異なる理由付けや結論だったりすることもある。裁判官とて生身の人間であるし、私とは経験や専門分野が異なるから、それは仕方がない。そういう時は、その担当者と一対一でよく話し合い、足らざるところを補完する調査を行ってもらったり、調査とは異なる法律構成で解決できないかを議論したり、あるいは報告書とは正反対の結論となる私自身の大まかな腹案を示して意見を聞くなどのすり合わせが不可欠である。

 そういうとき、これがもし行政機関だったならば、担当者が1人で悩むのではなく、同僚や各省庁の担当官など多くの専門家を巻き込んで手分けして組織的に調査し、その結果を持ち寄って大いに議論し、その上で上司による何段階もの厳重なチェックを受けて作成するのが常である。だから、裁判所でもそうすれば、もっと短い時間でずっと効率良く、正しい結論を導き出せるのにと思ったりもする。もちろん調査官室としてのサポートがあり、首席調査官や上席調査官等、更には周りの調査官にも意見を求めているようだが、行政機関の組織的な処理と比べて不十分であることは否めない。しかし、そもそも体制の仕組みが違うのだろう。すなわち、行政機関は上意下達のピラミッド型組織で動き、裁判所は裁判官1人あるいはせいぜい合議体で動く。だから、それがこういうところにも現れてくるのではないかと考えられる。

最高裁判所の桜の季節



7.最高裁判所判事の日常と仕事

(1)日常と審議の様子

 最高裁判所判事の日常は、毎日が判で押したようなものである。私の場合、午前9時に公用車が自宅に迎えに来る。裁判の記録を持ち運ぶことが多いし、セキュリティの関係もあるから、公共交通機関は使わない。その車に乗ると、ちょうど30分後には裁判所内の自室に到着する。それから、次々に持ち込まれる記録の山に取り組む。毎週水曜日の午前中には裁判官会議があり、長官以下15人の裁判官が丸いテーブルを囲む。大法廷の審議があるときは、この会議に引き続いて行うのが通例である。

 最高裁判所は終審裁判所だから、民事、刑事、家事、非訟、人身保護その他ありとあらゆる事件が来る。民事では先例のない難しい条文解釈が多いし、刑事では特に死刑事件や否認事件に気を使う。家事ではこれほど多くの離婚事件がくるとは思わなかった。いずれの事件も、記録をじっくり読んで結論を出し、納得すれば決裁に押印する。調査官の方から審議相当という報告書付きで上がってくる事件のほか、私の方でもこれは小法廷の裁判官全員で審議しなければならないと思う事件は、その旨を調査官に伝えて、別途、審議の時間を確保してもらう。これらについては、念入りに記録を読み込み、沈思黙考し、調査官と議論して、私の考えを決める。

 裁判官棟の同じ階に評議室があり、審議(裁判所法上は「評議」であるが、部内では「審議」と呼び習わされている。)は、そこで行う。当日は定刻になると、私の属する第二小法廷では長官を除く4人の裁判官(第一小法廷と第三小法廷では5人の裁判官)が丸いテーブルの席に着き、最初に主任裁判官が、自ら書いたメモを元に説明をする。それから、一人一人の裁判官が順にその見解を述べ合う。その前に、自分の見解をメモにして、あらかじめ他の裁判官に読んでいただくことも多い。それによって他の裁判官の考えを事前に知り、賛成か反対か、いかに説得しようかなどという戦略を練るのは、行政機関どうしの折衝と似たようなものである。なお、審議(評議)については、守秘義務が定められている(裁判所法75条)。

 各裁判官が見解を述べ合った後、議論に移る。4人とも同じ意見のときはあっさりと終わるが、意見が食い違うときは、徹底的に話し合う。それこそ真剣勝負だ。どうしても一致しないときは、法廷意見(多数意見)を構成するか、これに対し反対意見や意見を述べることになる。審議を何回か重ねて方向性につき一応の合意に至った事件は、例文で上告棄却や不受理とするもの以外は、判決文の案文の審議に移る。その段階で、法廷意見に対して反対意見のある裁判官は、それを書いたものを提出する。補足意見や意見のある裁判官も同様である。ちなみに「反対意見」とは文字通り主文に反対する場合に付される意見で、「補足意見」とは主文と理由に賛成であるがなお補足して述べる意見で、「意見」とは主文に賛成であるが法廷意見とは理由を異にする場合に付される意見である。

最高裁判所第二小法廷



 私が最高裁判所第二小法廷に在籍していた6年余の間にご一緒した同僚の裁判官(長官以外)は、千葉勝美、小貫芳信、鬼丸かおる、菅野博之、三浦守、草野耕一の皆さんである。


(2)弁論と判決の当日

 審議の結果を踏まえ、原判決を破棄する場合や刑事の死刑事件の場合その他の弁論が必要な場合は、書記官に当事者側との交渉を行ってもらい、弁論期日の日取りを確定して、その日に弁論を行う。判決宣告期日は、弁論で開廷した際に裁判長から言い渡されることもあるし、追って指定されることもある。第二小法廷では、原則として毎週金曜日に開廷し、弁論を聴き、あるいは判決を下すこととなっている。月曜日は予備日である。

 裁判当日の裁判長は、その事件の主任裁判官が務めることになっている。開廷の少し前に裁判官全員が裁判官控室に集まり、黒い法衣を着て待機する。首席書記官がやって来て法廷の状況について伝えてくれる。定刻になると、扉が開いて裁判長を先頭に一列で入廷し、左右に分かれて自席の前まで行き、そこで揃って一礼して席に着く。テレビ撮影があれば2分間、上半身が写され、それが終わってから「それでは開廷します。」と言う裁判長の言葉で裁判が始まる。

 事務官による事件の呼び上げの後、弁論のときは、刑事事件では被告人の弁護人と検察官が、民事事件では上告人と被上告人の代理人(時により本人)が、それぞれ陳述する。法廷でその弁論を聞いた後、閉廷してから必要に応じ更に審議を行う。それから推敲に推敲を重ねて、判決の主文とそれに付す判決理由を確定する。

 判決期日には、同様に開廷し、事件の呼び上げの後、「ただいま呼び上げました事件について、判決を言い渡します。」と述べてから主文を言い渡す。次に、刑事事件では全ての事件で、民事事件では相当と認めるときに、口頭で判決理由の要旨を告知する。ただし、刑事事件の一部でこの順序が入れ替わる場合がある。それが終わると「閉廷します。」と言う裁判長の言葉をもって裁判が終了する。再び扉が開いて、裁判長を先頭に一列になって退廷する。大法廷も、裁判長が最高裁判所長官で裁判官が長官を含めて15人もいるということ以外は、基本的には小法廷の場合と同じである。ただし、弁論は必ず行われることになっている。


(3)健康がまず第一

 裁判所から家に帰る時刻は、その日の仕事の繁閑にもよるので一定しなかったが、秘書官などに遅くまで待ってもらうのもよろしくないことから、遅くとも午後5時過ぎには部屋を出るようにしていた。そしてほぼ毎日のように仕事を持ち帰り、家でも判例集を読み込んだ上で、考えをまとめて文章を起こしたりしていた。そうでもしなければ、裁判官1人当たり年間平均800件にも及ぶ大量の事件処理ができるものではない。

 このような生活をしていると、当然、運動不足になるので、昼食時にはなるべく外に歩いて出るようにしていた。しかし、それでも歩数は伸びないので、朝食前か夕食後のどちらかに、家の周囲を1時間近く歩くことを日課にしていた。健康を保つことが、まず第一に努めるべき事柄である。規則正しい生活をして健全な身体にしておかなければ、公正かつ公平な裁判はできないというものだ。

 私の大学時代の同級生や通商産業省の同期生で、未だに親しくさせていただいている友人の数は、ざっと50人ほどである。その中でこれまで癌に罹ったのは10人で、2割にもなる。痛ましいことに、うち6人が亡くなっている。肝臓癌、肺癌、胆管癌、大腸癌そして膵臓癌だ。残る4人は、胃癌、喉頭癌、腎臓癌、前立線癌に罹ったものの、手術をして既に5年以上が経過したから、もう大丈夫だといわれている。いずれにしても、我々の年齢で癌を発症すると、命の危険があるだけでなく、生活の質が大きく損なわれる。だから私は、とりわけ在職中のときは、癌の可能性をなるべく少なくするよう日常生活に気を付けながら、万が一のときには早期に発見できるよう健康診断を毎年定期的に受けていた。


(4)減量に取り組む

 ところが最高裁判所判事に就任してしばらく経った頃にそうした健康診断を受けたところ、思わぬ結果を告げられた。ASTなどの肝臓検査の数値が若干高くなって脂肪肝になりつつあり、体格指数のBMIもちょうど25と既に肥満の域に達しているというのである。私は、20年以上前からなるべく酒類を飲まないようにしていたので、肝臓はまず問題ないと思っていた。しかしこのまま放置しておくとNASH(非アルコール性脂肪肝炎)になって、そのうち肝硬変になり、悪くすると肝癌へと進行してしまうらしい。一日中座って記録を読んでいる仕事だから、多少歩く程度ではほとんど効果がなく、肥満が進む一方のようだ。本格的に減量に取り組まないといけない。

 医師の紹介で専門の栄養士に相談した。すると、1食600キロカロリー以下を目指して食事制限をすること、次にウォーキングを毎日行い、加えて強めの運動を週2回行うことになった。この食事制限のために毎食のカロリー計算をしてみたら、驚いた。私の好物で良く食べていた天ぷら、豚カツ、鰻の蒲焼、カツカレー、こってりとしたスパゲッティなどは軒並み1000キロカロリーを越すではないか。また、お茶碗1杯のご飯は150グラムで250キロカロリーもある。お代わりをするなどはもってのほかだ。そういうことで一食を600キロカロリーに抑えつつ、しかも必要な栄養バランスと減塩にも気を配らなければならない。これは至難の業だと思っていたら、家内が助け舟を出してくれた。「朝食と夕食は、私が全て計算してその範囲内に抑えますから、あなたは昼食だけ自己管理して下さい。」。これで非常に楽になり、おかげで実行することができた。

 ウォーキングは、できれば毎日1万歩くらいが望ましいそうだが、仕事を抱えていると、なかなかそういうわけにはいかないので、現実的な目標として毎日7千歩ほどを目安にしている。加えて強めの運動として、水泳、ジョギング、テニスのいずれかに取り組むように勧められた。そこで、しばらく中断していたテニスを毎週水曜日の夜と土曜日の午後にプレーすることにした。ちなみに、食事制限は余計な脂肪を付けさせない効果、ウォーキングは既に体にたまった脂肪を消費させる効果、強めの運動は筋肉を付けて基礎代謝量を上げる効果があるそうだ。

 それで、どうなったかというと、体重は毎月1キロ強の割合で順調に減っていき、その結果7ヶ月経つと10キロの減量に成功した。BMIも改善して、22台になった。肝臓検査の数値は全て正常値に収まった。身体が軽くなって駅の階段も自ら進んで昇り降りするようになり、40年ぶりに自分の肋骨が見えるようになった。それから数年が経つが、さすがに昼食は800キロカロリー程度に戻したものの、朝食と夕食は変えず、引き続き運動をして、体重をリバウンドさせないように努めている。


8.歴史の審判に耐えられる裁判か

(1)記録は居住まいを正して読む

 私は、最高裁判所において、数多くの裁判を行ってきた。上告理由書や上告受理申立理由書などを読むと、当事者の真摯な思いがひしひしと伝わってくる。そういうとき、これは私も一生懸命に読まなければならないという気がして、思わず居住まいを正して読み進めていたりする。

 刑事事件だと実体的真実は何か、民事事件だと当事者間の衡平をいかに考えるか、家事事件だとその家庭や関係者の真の幸福につなげるにはどうすればよいかなど、それぞれの視点で解決策を探らなければならない。その上で熟慮を重ねて結論に至る。この過程を大切にしていた。


(2)判決は判例集の形で歴史に残る

 もとより最高裁判所の判決は、判例集の形で歴史に残る。だから、最高裁判所の裁判官として持つべき大事な視点は、私の判決が、果たして歴史の審判に耐えられるかどうかということである。とりわけ大法廷の判決は注目され、我が国の代表的な判例として何十年、場合によっては何百年単位で公式に残る。

 およそ自分の仕事がその名前とともに公の財産として今後長く受け継がれていくということは、誠に名誉なことでもある。そう思って、この視点を念頭に置き、どの事件にも気合いを入れて取り組んだものである。ここで、私の6年余りの在任中に関与した判決のうち、特に記憶に残るものを幾つかを取り上げたい。紙幅の関係でいずれも抜粋であるが、詳しくはそれぞれの判決をご覧いただければ幸いである。


(3)参議院議員選挙一票の格差事件(大法廷)

 平成25年7月21日に参議院議員通常選挙が行われた。その当時の選挙区間の最大較差は、4.77倍であり、これは投票価値の平等に反するなどとして、選挙無効訴訟が提起された。

 多数意見は、違憲の問題が生ずる程度の著しい不平等状態にあったと認定したものの、本件選挙までの約9か月の間に、検討の方針や工程を示しつつその見直しの検討が行われてきているのであるから、国会の裁量権の限界を超えるものということはできないとして、原審原告の上告を棄却した。これに対して、私は、次の反対意見を書いた。

 「憲法は、代表民主制に支えられた国民主権の原理を宣明している。民主国家の要となる国会を構成する衆議院及び参議院の各議員は、文字どおり公平かつ公正な選挙によって選出されなければならない。したがって、一票の価値の平等は唯一かつ絶対的な基準と考えるべきである。  ただし、人口の急激な移動や技術的理由などの区割りの都合によっては、ある程度の一票の価値の較差が生ずるのはやむを得ないと考えるが、それでもその場合に許容されるのは、せいぜい2割程度の較差にとどまるべきであり、これ以上の一票の価値の較差が生ずるような選挙制度は法の下の平等の規定に反し、違憲かつ無効であると考える。

 この場合、無効とすることによる混乱などを回避するため、いわゆる事情判決の法理を用いて請求は棄却するが当該選挙が違法である旨を主文で宣言するという考えがあり得る。しかし、法律上の明文の根拠もなく、そのようなことが許されるものではない。裁判所としては、違憲であることを明確に判断した以上はこれを無効とすべきであり、そうした場合に生じ得る問題については、経過的にいかに取り扱うかを判決中で同時に決定すればよい。

 まず、判決により無効とされた選挙に基づいて選出された議員によって構成された参議院又は衆議院が既に行った議決等の効力は、それが判決前にされた議決等であれば、裁判所による選挙無効の判決の効力は将来に向かってのみ発生し、過去に遡及するものではないと考えるべきである。

 次に、判決により無効とされた選挙に基づいて選出された議員の身分の取扱いについては、その無効とされた選挙において一票の価値が0.8を下回る選挙区から選出された議員は、全てその身分を失うものと解すべきである。それ以外の選挙区から選出された議員については、選挙は無効になるものの、議員の身分は継続し、引き続きその任期終了までは参議院議員であり続けることができる。このように解することにより、参議院はその機能を停止せずに活動することができる。」
(最高裁平成26年11月26日大法廷判決・民集68巻9号1363頁。最高裁平成29年9月27日大法廷判決・集民256号101頁及び最高裁平成30年12月19日大法廷判決・民集72巻6号1240頁も同旨。)


(4)元厚生事務次官夫妻等殺人事件

 被告人が元厚生事務次官らの殺害を企て、元厚生事務次官及びその妻に対しその胸部等を包丁で数回突き刺すなどして両名を失血死させて殺害し、更には別の元厚生事務次官の妻に対しその胸部を包丁で数回突き刺すなどしたが被害者が逃げ出したため殺害の目的を遂げなかった等の事案で、私が裁判長である。

 「被告人は、子供の頃に飼い犬が殺処分に遭ったこと等の『仇討ち』をするという考えを抱き続けていたところ、本件当時の厚生労働行政一般に対する不満等を募らせ、元官僚への憤りを強めて具体的な殺害計画を立てて本件に及んだものであって、犯行の経緯、動機は独善的で酌量の余地がない。

 被告人は、相当な期間にわたり、殺害の対象とする元厚生事務次官らを選び出し、犯行の日時・順序、用いる凶器、殺害の手段・方法等につき入念に計画を練り、目的達成を確実にするため周到な準備を進めたものである。本件は、元厚生事務次官やその殺害の妨げになるなどした場合にはその家族に対する確定的かつ強固な殺意に基づく、極めて高い計画性を有する犯行である。

 最初の殺害方法は、宅配業者を装い、その応対に出るなどした被害者2名に対し、その胸部等を包丁で数回突き刺して失血死させるという冷酷かつ残忍なものであり、次の犯行もほぼ同様の方法によるものである。被害者らに全く落ち度はない。2名の命を奪い、1名に心停止の危険が高い状態に陥らせ、重篤な後遺症が残る傷害を負わせた結果は誠に重大である。よって、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ない」
としたものである。(最高裁平成26年6月13日第二小法廷判決・集刑314号1頁)


(5)暴力団員ゴルフ場利用詐欺事件

 暴力団員である被告人が、利用細則又は約款により暴力団員の施設利用等を禁止しているゴルフ倶楽部において、暴力団員であることを秘して利用を申し込み、同倶楽部従業員を誤信させ、同倶楽部の施設を利用し、もって、人を欺いて財産上不法の利益を得たという詐欺罪に問われた事案である。同時に取り扱われた2つの事件が、全く対照的な結論となった。

 まず宮崎県の事件では、主文が「原判決及び第1審判決を破棄する。被告人は無罪。」となった。その理由は、「暴力団関係者であるビジター利用客が、暴力団関係者であることを申告せずに、一般のビジター利用客と同様に、氏名を含む所定事項を偽りなく記入した『ビジター受付表』をフロント係の従業員に提出して施設利用を申し込む行為自体は、申込者が当該ゴルフ場の施設を通常の方法で利用し、利用後に所定の料金を支払う旨の意思を表すものではあるが、それ以上に申込者が当然に暴力団関係者でないことまで表しているとは認められない。そうすると、本件における被告人による本件ゴルフ場の各施設利用申込み行為は、詐欺罪にいう人を欺く行為には当たらないというべきである。」というものである。(最高裁平成26年3月28日第二小法廷判決・刑集68巻3号582頁)

 これとは逆に、長野県の事件では、有罪とした原審の判断がそのまま維持されて、上告が棄却された。「暴力団員である被告人が、本件ゴルフ倶楽部の会員と共謀したのであるが、その会員は、『私は、暴力団等とは一切関係ありません。また、暴力団関係者等を同伴・紹介するようなことはいたしません』と記載された誓約書に署名押印し、提出していた。被告人は、その会員の同伴者として来場した。会員は署名簿等に乱雑に書き込んだ上,これを同倶楽部従業員に渡して代署を依頼するという異例な方法をとり、被告人がフロントに赴き署名をしないで済むようにし、被告人分の施設利用を申し込み、会員の同伴者である以上暴力団関係者は含まれていないと信じた同倶楽部従業員をして施設利用を許諾させた。

 被告人は、結局フロントに立ち寄ることなく、クラブハウスを通過し、プレーを開始した。そうすると、同伴者が暴力団関係者であるのにこれを申告せずに施設利用を申し込む行為は、その同伴者が暴力団関係者でないことを従業員に誤信させようとするものであり、詐欺罪にいう人を欺く行為にほかならず、被告人に詐欺罪の共謀共同正犯が成立する。」
としたのである。(最高裁平成26年3月28日第二小法廷判決・刑集68巻3号646頁)


(6)特許PBPクレーム事件

 特許は、特許請求の範囲(クレーム)がその権利範囲であり、第三者の実施する発明がこれを侵害しているかどうかが問題となる。特許には物の特許と方法の特許がある。前者は同一の物であればいかなる方法で作られようと特許はその物に及ぶが、後者はその方法にしか及ばない。つまり、方法の特許である限り、同じ物でも他の方法で作られれば、その物がいかに新規性のあるものであっても、その物には及ばないのである。また、物の特許に対する侵害は比較的立証しやすいが、方法の特許の侵害はなかなか立証がしにくいという特徴もある。従って、特許出願人は、物の特許を取得したいと考えるのが常である。

 ところで、特許請求の範囲を記述するに当たって、その物の製造方法(いわゆるプロダクト・バイ・プロセス・クレーム、略称は、PBPクレーム。)を記載して発明を特定しようとする実務慣行がある。「◯◯という方法で作る物」というもので、果たしてこれが物の特許なのか、方法の特許なのかが争われた事件である。特許出願人としては、物の特許として認めてもらいたいところである。特許庁の実務では、それで発明が特定され、かつその物に新規性があれば、物の特許として審査・審判を行っていた。

 原審の知的財産高等裁判所大合議は、「当該物をその構造又は特性により直接特定することが出願時において不可能又は困難であるとの事情が存在するときでない限り,特許請求の範囲に記載された製造方法により製造される物に限定」するとした。つまり、原則は方法の特許だが、例外的に物の特許として認める。その例外とは、当該物の構造又は特性で書くことが不可能又は困難なときに限るという。しかし、こんな曖昧かつ極めて限定的な基準では、PBPクレームのほとんどが方法の特許となってしまうおそれがある。しかもそれは、国際的な審査慣行と大きく異なる上、発明の保護に欠けるというのが、私の見立てであった。

 ところが、多数意見は、この原審が採る方向をもっと極端に推し進め、その「不可能又は困難」基準を更に限定的な「不可能又は非実際的」基準に替えたばかりでなく、これに当てはまらないものは発明の明確性の要件(特許法36条6項2号)に反するとして、原審に差し戻した。  曰く、「出願時において当該物の構造又は特性を解析することが技術的に不可能であったり、特許出願の性質上、迅速性等を必要とすることに鑑みて、特定する作業を行うことに著しく過大な経済的支出や時間を要するなど、出願人にこのような特定を要求することがおよそ実際的でない場合もあり得るところである。そうすると・・・『発明が明確であること』という要件に適合し認められるものであるか否か等について審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻す。」

 これに対して私は意見を書き、原審に差し戻すという点だけは賛成するが、その理由は多数意見とは全く異なる。すなわち「世界の特許庁の実務では、特許請求の範囲に何を記載するかは基本的には特許出願人の自由な選択に委ねられている。それはPBPクレームの場合でも同じで、それで発明が特定され、かつその物に新規性があれば、物の特許として審査・審判を行っていた。

 というのは、我が国だけ、物の特許をとるには当該物の構造又は特性でまず書くべきだというと、それにかかずらってしまって、世界の特許出願競争に負けてしまうおそれがある。また、ほとんどの場合、その発明が物の構造又は特性で書かれていると、非常に分かりにくくて、かえって明確性の要件に反する。だから、PBPクレームで書かれている方が、当業者や審査官にとってはるかに分かりやすい。例えば、iPS細胞のように最近の生命科学の分野における重要な発明の特許は、PBPクレームで書かれるのが大半であろう。多数意見のように不可能非実際的基準とか明確性の要件を持ち出すと、こういう発明の特許が取りにくくなることは、火を見るより明らかである。

 確かに、現行制度のままでは、特許庁が行う発明の要旨認定と裁判所が行う特許発明の技術的範囲の確定とが食い違う可能性がある。しかし両者における解釈の目的が異なるわけであるから,その結果,両者の解釈が相違する場合があっても,それはやむを得ないものと考えられる。必要に応じ,出願経緯禁反言の法理や意識的除外の法理など従来から確立しているクレーム解釈の法理により,PBPクレームで表現された物の特許についての特許発明の技術的範囲を実質的にその製法に限定されるように解釈することで,妥当な結論が導かれることになるものと考える。」
としたものである。(最高裁平成27年6月5日第二小法廷判決・民集69巻4号700頁)。ちなみに本事件は、差戻審において、平成27年12月16日、請求放棄により終局した。


(7)夫婦同氏制・再婚禁止期間事件(大法廷)

 夫婦が婚姻の際に定めるところに従い夫又は妻の氏を称すると定める民法750条の規定と、女性についてのみ6箇月の再婚禁止期間を定める民法733条1項の規定の合憲性が争われた2つの事案である。いずれも大法廷で審理され、同じ日に判決が下されたが、対照的な判断となった。

 まず前者の夫婦同氏制について、多数意見は、これを合憲とした。すなわち、「民法における氏に関する規定が夫婦及びその間の未婚の子や養親子が同一の氏を称するとすることにより、社会の構成要素である家族の呼称としての意義があるので、一つに定めることには合理性があるから、憲法13条には反しない。また、夫婦がいずれの氏を称するかを夫婦となろうとする者の間の協議に委ねていることから、夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではないので、憲法14条にも反しない。」とした。

 その上で、「夫婦同氏制が、夫婦が別の氏を称することを認めないものであるとしても、婚姻前の氏を通称として使用する等の現状の下で、直ちに個人の尊厳と両性の本質的平等の要請に照らして合理性を欠く制度であるとは認めることはできないから、憲法24条に違反するものではない。」とした。私もこの多数意見を構成したものである。(最高裁平成27年12月16日大法廷判決・民集第69巻8号2586頁)

 次に後者の再婚禁止期間については、私を含む多数意見は、「立法の経緯及び嫡出親子関係等に関する民法の規定中の位置付けからすると、本件規定の立法目的は、女性の再婚後に生まれた子につき父性の推定の重複を回避し、もって父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐことにあると解される」。それであるならば、民法772条2項の規定が婚姻の成立の日から200日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から300日以内に生まれた子は婚姻中に懐胎したものと推定するとし、また同条1項の規定が妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定すると規定することからすると、「女性の再婚後に生まれる子については、計算上100日の再婚禁止期間を設けることによって、父性の推定の重複が回避されることになる」とする。従って「本件規定のうち100日の再婚禁止期間を設ける部分は、憲法14条1項にも、憲法24条2項にも違反するものではない。」とした。

 しかしながら、「本件規定のうち100日超過部分については、民法772条の定める父性の推定の重複を回避するために必要な期間ということはできない。」とし、この部分を憲法14条1項及び24条2項に違反すると判断した。なぜなら、「今や父子関係を確定する医療や科学技術が発達してきたこと、晩婚化が進む一方で離婚件数及び再婚件数が増加するなど再婚をすることについての制約をできる限り少なくするという要請が高まっていること、世界的には再婚禁止期間を設けない国が多くなっていることから、正当化することは困難になったといわざるを得ない。」からである。

 ただし、合憲とされた100日の再婚禁止期間を設ける部分につき、私は他の5人の裁判官とともに、次のような共同補足意見を書いた。「女性にのみ再婚禁止期間が設けられた立法目的が父性の推定の重複を回避することにあることからすれば、およそ父性の推定の重複を回避する必要がない場合には民法733条1項の規定の適用除外を認めることを許容しているものと解するのが相当であろう。具体的には、従来の戸籍実務において認められているものに加え、例えば、いわゆる不妊手術を受けていて子が生まれないことが生物学上確実である女性や、前婚の解消等の時点で懐胎していない女性については医師の証明を条件に同項の適用除外が認められてしかるべきである。」(最高裁平成27年12月16日大法廷判決・民集69巻8号2427頁)


(8)遺族補償給付等不支給処分取消請求事件

 社長代行である生産部長の発案で、中国人研修生と従業員との親睦のために歓送迎会が開かれることとなった。その工場の従業員全員に声が掛けられたが、営業企画等の業務を担当していたその人だけは、「明日までに社長に提出すべき営業戦略資料を作成しなくてはいけないので、参加できない。」と言っていったん断った。ところが部長は、「今日が最後だから、顔を出せるなら出してくれないか。」と述べ、また、「資料が完成していなければ歓送迎会終了後に一緒に資料を作成する。」とまで言うので、参加することにした。

 その人は、歓送迎会が開始された後も工場で資料を作成していたが、その作成作業を一時中断し、会社の所有する自動車で、作業着のままその飲食店に向かい、歓送迎会の終了予定時刻の30分前の午後8時頃,本件飲食店に到着して参加した。その際、会社の総務課長に対し、歓送迎会の終了後に本件工場に戻って仕事をする旨を伝えた。すると同課長から「食うだけ食ったらすぐ帰れ。」と言われた。隣に座った中国人研修生からビールを勧められてもこれを断り、アルコール飲料は飲まなかった。歓送迎会は、午後9時過ぎに終了し、その飲食代金は会社の福利厚生費から支払われた。

 午後9時過ぎ頃、研修生らを本件アパートまで送ってから工場に戻るため、酩酊状態の研修生らを同乗させて本件自動車を運転し、アパートに向かう途中、不幸にも、対向車線を進行中の大型貨物自動車と衝突する交通事故に遭い、午後9時50分頃、頭部外傷により死亡した。工場とアパートは、いずれもその飲食店からは南の方向に位置し、その間の距離は約2キロメートルであった。ちなみに研修生らは、本来は、部長がそのアパートまで当該自動車で送る予定であった。

 原審は、「本件歓送迎会は、中国人研修生との親睦を深めることを目的として本件会社の従業員有志によって開催された私的な会合であり、中途から参加したことや送迎のために任意に行った運転行為が事業主である本件会社の支配下にある状態でされたものとは認められない。」として、本件事故による死亡は、業務上の事由によるものとはいえないと判断した。

 これに対し当裁判所は、「労働者が、業務を一時中断して事業場外で行われた研修生の歓送迎会に途中から参加した後、当該業務を再開するため自動車を運転して事業場に戻る際に、研修生をその住居まで送る途上で発生した交通事故により死亡したことは、本件のような事情の下においては、労働者災害補償保険法1条、12条の8第2項の業務上の事由による災害に当たる。」としてこの原判決を破棄し、上告人の本件請求は認容されるべきものとして、本件決定を取り消した。(最高裁平成28年7月8日第二小法廷判決・集民253号47頁)


(9)銀行支店記帳台上の現金盗難事件

 被告人は、地方銀行の支店内の記帳台上に客の女性が置き忘れた封筒の中の現金を窃取したとして、窃盗罪に問われ、1審・2審ともに有罪となった。ところが、当裁判所において「原判決及び第1審判決を破棄する。被告人は無罪。」として、これを覆した事案である。

 第1審判決は、本件前日の夜、本件封筒の中に振込用紙2枚とともに現金6万6600円を入れたとする被害者の母親の証言と、当日の朝、出掛ける前に本件封筒の中に現金が入っていることを確認し、これを記帳台上に置き忘れたとする被害者の証言の各信用性を肯定した。次いで本件支店に設置された防犯カメラの映像によれば、本件封筒を置き忘れてからこの記帳台を利用して現金を抜き取ることが可能であったのは被告人しかいないとして犯罪事実を認定し、被告人を懲役1年、3年間執行猶予に処した。第2審もこの認定を是認し、控訴を棄却したものである。

 この点、私も含めた多数意見は「支店内の被告人の様子は、(毎秒1コマずつとはいえ)防犯カメラによってほとんど漏れなく記録されている。画像は鮮明なものではないが、(それを隈なく繰り返し見ても)被告人が現金(紙幣12枚と硬貨2枚)を抜き取り空になった封筒のみを記帳台上に返すという動作は、記録されていなかった。それどころか被告人は、この間に2名の知人に出会い、和やかに会話を交わしている。

 そもそも、銀行に防犯カメラが設置されていることは公知の事実である上、行員や来店客の視線も意識せざるを得ない状況の中、本件封筒を窃取した者がいるとしても、わざわざその店舗内で本件封筒から現金を抜き取り、封筒だけを本件記帳台に戻すような行為をするとは考えにくい。被告人は、本件記帳台を離れてから預金の払戻しを受けて退店するまで、10分近く本件支店に滞在しており、そのような危険を冒すとは一層考えにくい。

 以上は、被告人が本件封筒を窃取したとの認定を妨げる方向に強く働く客観的事情ということができる。このような事情が認められる以上、Aが本件封筒を置き忘れた時点で現金が在中していたとの前提を確実なものと考えてよいかどうかについて、特に慎重な検討を要するというべきである。」
と考えた。

 そこで「各証言は高い信用性を有するとまではいえないのであって、そのような証拠に依拠して、被害者が記帳台上に封筒を置き忘れた時点で封筒の中に現金6万6600円が在中していたとの事実を認定し、これを動かし難い前提として、被告人以外には現金を抜き取る機会のあった者がいなかったことを理由に被告人を有罪と判断した第1審判決及びこれを是認した原判決の判断は、被告人が本件封筒を窃取したとの認定を妨げる方向に強く働く客観的事情を無視あるいは不当に軽視した点において、論理則、経験則等に照らして不合理なものといわざるを得ない。被告人が本件公訴事実記載の窃盗に及んだと断定するには、なお合理的な疑いが残るというべきである。」としたものである。(最高裁平成29年3月10日第二小法廷判決・集刑321号1頁)


(10)JR福知山線脱線事故業務上過失致死傷事件

 JR西日本の福知山線で快速列車を運転していた運転士が、適切な制動措置をとらないまま転覆限界速度を超える時速約115kmで同列車を本件曲線に進入させ、ATSによりあらかじめ自動的に同列車を減速させることができずに同列車を脱線転覆させるなどして、同列車の乗客106名を死亡させ、493名を負傷させた。

 本件につきJR西日本の歴代社長である被告人らは、ATS整備の主管部門を統括する鉄道本部長に対し、ATSを本件曲線に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったのにこれを怠ったということで業務上過失致死傷罪に問われた事案である。検察官の職務を行う指定弁護士による起訴案件で、私が裁判長である。

 本件について当裁判所は、「被告人らが、管内に2000か所以上も存在する同種曲線の中から、特に本件曲線を脱線転覆事故発生の危険性が高い曲線として認識できたとは認められない・・・本件事故以前の法令上、ATSに速度照査機能を備えることも、曲線にATSを整備することも義務付けられておらず、大半の鉄道事業者は曲線にATSを整備していなかったこと等の本件事実関係の下では本件公訴事実に係る注意義務の発生根拠とすることはできない。」とした。

 そして、「JR西日本の歴代社長である被告人らにおいて、鉄道本部長に対しATSを本件曲線に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったということはできない。したがって、被告人らに無罪を言い渡した第1審判決を是認した原判断は相当である。」とし、指定弁護士からの上告の申立てを棄却した。(最高裁平成29年6月12日第二小法廷決定・刑集71巻5号315頁)


(11)労働契約法20条の解釈を巡る2つの事件

 労働契約法20条は、「使用者と期間の定めのある労働契約を締結している労働者(有期契約労働者)と、その同一の使用者と期間の定めのない労働契約を締結している労働者(無期契約労働者)との間で、これら労働契約中の労働条件が相違する場合に、労働者の業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度、当該職務の内容及び配置の変更の範囲その他の事情を考慮して、不合理と認められるものであってはならない。」とする。

 この規定を巡って争われた2つの事件である。たまたまどちらも、被告は使用者たる運送会社で、原告はそのドライバーである。第一の事件は、有期契約労働者が無期契約労働者と労働条件の相違があるのは本条に違反するとし、第二の事件は、無期契約労働者だった者が定年退職後に継続雇用制度によって有期契約労働者として再雇用された者である場合で無期契約労働者と労働条件の相違があるのは本条に違反するとし、いずれも地位確認、差額賃金、損害賠償が請求されたものである。どちらも私が裁判長を務めた。

 第一の事件では、「有期契約労働者と無期契約労働者との労働条件の相違が労働契約法20条に違反する場合であっても、同条の効力により当該有期契約労働者の労働条件が比較の対象である無期契約労働者の労働条件と同一のものとなるものではないこと」、「労働契約法20条にいう『不合理と認められるもの』とは、有期契約労働者と無期契約労働者との労働条件の相違が不合理であると評価することができるものであることをいう」とした。

 その上で、「乗務員のうち無期契約労働者に対して皆勤手当を支給する一方で、有期契約労働者に対してこれを支給しないという労働条件の相違は、(職務の内容が異ならない等の本件のような)事情の下においては、労働契約法20条にいう不合理と認められるものに当たる。」として、上告を棄却するとともに、 原判決中、被上告人の一部の皆勤手当に係る損害賠償請求に関する部分を破棄して大阪高等裁判所に差し戻した。

 第二の事件では、「有期契約労働者が定年退職後に再雇用された者であることは、当該有期契約労働者と無期契約労働者との労働条件の相違が不合理と認められるものであるか否かの判断において、労働契約法20条にいう『その他の事情』として考慮されることとなる事情に当たる。」とした。

 そして、「不合理と認められるものに当たるか否かを判断するに当たっては、両者の賃金の総額を比較することのみによるのではなく、当該賃金項目の趣旨を個別に考慮すべきである。」とし、基本賃金と基本給の額、歩合給に係る係数、団体交渉の経緯と結果、賃金体系の工夫、支給金の差額の程度、老齢厚生年金や調整給の支給などの諸般の事情の下においては、労働契約法20条にいう不合理と認められるものに当たらないとした。

 その上で、原判決中,上告人らの精勤手当に係る損害賠償請求に関する部分を破棄してこれに相当する金員の支払いを命ずるとともに、超勤手当に係る損害賠償請求に関する部分を破棄して同部分につき東京高等裁判所に差し戻す等を行った。(最高裁平成30年6月1日第二小法廷判決・民集72巻2号88頁及び202頁)


9.最高裁判所を去る日

 かくして、色々な事件処理の思い出を残しつつ裁判官の定年を迎え、ついに最高裁判所を去る日がやってきた。誕生日の前日である令和元年9月25日、最高裁判所1階の玄関ホールに、大谷直人長官をはじめとする全裁判官と最高裁判所事務総局調査官室などに勤務する皆さんの拍手の中、送別の花束を受け取り、粛々と玄関から出て車に乗り込んで自宅に戻った。長いようで短い6年余の裁判官生活であった。

最高裁判所を去る日の送別式




(参考) 私が最高裁判所在任中に主任裁判官として処理した既済事件数(平成25年8月20日から令和元年9月25日まで)

1.民事事件数
 (民事上告)881件、(民事上告受理)1,110件
 (行政上告)203件、(行政上告受理)  241件

2.刑事事件数
 (刑事上告)941件


(第7章は、令和3年4月16日記)

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第8章 旭日大綬章

天皇陛下から旭日大綬章を授けられる




1.天皇陛下から旭日大綬章を親授される

(1)燕尾服で天皇陛下の御前に

 令和2年11月11日午前10時30分、私は燕尾服に身を包んで、皇居宮殿の松の間外廊下の椅子に座っていた。天皇陛下から旭日大綬章をいただくために待機していたのである。この受章者の数は6人で、順に名前が呼ばれていく。

 私の名前が呼ばれた。私はすっくりと立ち上がって廊下を進み、途中で止まって左90度に向きを変えた。正面には天皇陛下が直立されている。敷居をまたいでその場にて一礼した。と同時に、式部官が私の名前を大きく呼び上げる。そのまま真っ直ぐ15メートルほど陛下に向かって歩いていく。私の右手に菅義偉内閣総理大臣と小野田壮賞勲局長、左手には手前に山本信一郎宮内庁長官等、奥に小野田展丈侍従長等がおられる。


(2)親授は人生最高の瞬間

 ゆっくりと歩いて天皇陛下の2メートル前まで到着した。そこで最敬礼をし、さらに一歩進んで、陛下と正面に相対する形となる。新型コロナウイルス禍でマスク越しだが、陛下の柔和なご尊顔を拝したとき、私の緊張がとけ、ほんの一瞬のことながら、頭の中をまるで走馬灯のように苦しかった日々が思い出された。

 勲章をお渡しいただく瞬間、陛下はにこやかに微笑まれ、しかも小声で「おめでとう」とおっしゃられたのには、心から感激した。私の人生で、最も素晴らしい最高の瞬間となったのは、間違いない。私は一歩下がり、右を向いて菅義偉内閣総理大臣の方に進んで勲記の筒をいただき、勲章と勲記を持ったまま再び天皇陛下の御前に戻って最敬礼をして、手順通りに松の間から退出した。


2.授賞の当日は生涯最良の日

(1)授賞の前日はよく眠れず

 明日はいよいよ親授式という10日の夜、実は珍しく弁護士の仕事が入って、それがなかなかの難題なものだから、パソコンを前にして、頭をひねっていた。そうしているうちに、いつの間にか午後11時を回っていたので、そういえば、燕尾服を試着していないことに気が付いた。まずは、あの独特のウィング・カラーでイカ胸のシャツを着る。飾りボタン(スタッズ)とカフス・ボタンは、白蝶貝と決まっている。それから、蝶ネクタイだ。これが、少し緩めなので、きつくした。それを内側からフックをかけて着用する。上半身が出来上がったので、ズボンを履き、サスペンダーの強さを調節して、無理なく履いていられるようにした。最後に、チョッキと上着を一度に着た。左胸のポケットに白いハンカチを詰め込んで、完了。鏡の前に立ち、方向を替えながらチェックする。まあ、こんなものだろう。

 それを脱いで、再びパソコンの前で文章作成に呻吟した後、午前0時半を回ったので、寝ることにした。ところが、なかなか寝付けない。あたかも遠足前夜の小学生のような気分で高揚していたせいか、それとも寝る直前まであんな複雑な文章に頭を使っていたせいか、よくわからないが、ここ数年、こういうことは、絶えてなかったことだ。そこで、午前2時頃に床を抜け出して、家内がたまたま入院中なので家事をしたり、iPadで朝刊を読んだりして時間つぶしをし、やっと眠くなったので午前3時頃に寝付いた。それで、午前7時の起床時間を迎えたのである。まだ眠たいので、こういうときの目覚ましの音は、とりわけうるさく感ずる。が、まあ仕方がない。起き出して、しっかりと朝食をとり、それから燕尾服に着替えた。


(2)控室(千鳥・千草の間)の皆さん

 迎えの車は、午前8時半に来る約束で、乗車するとそのまま床屋に連れて行ってもらい、髪の毛を簡単に整えてもらった後、10時5分までに坂下門から皇居に参入し、宮殿の南車寄せにつけた。

 参入カードを係員に渡し、控室(千鳥・千草の間)に案内される。今回の親授式に臨む大綬章の受章者の中では、中村邦夫さん、仲井真弘多さん、それに私の3人が単身で、他の内山田竹志さん、滝野欣也さん、山崎敏充さんは夫婦同伴である。私も、家内とともに参上したかったが、家内は入院中なので、それは叶わなかった。残念だが、こればかりは仕方がない。控室には、瑞宝大綬章を受ける小宮山宏さん(元東大学長)のほか、外国人のターヘル・マスリー(元ヨルダン首相)さんとムハンマド・サダさん(カタールの元エネルギー工業相)がおられた。

 控室では、馬蹄形に椅子がしつらえてあり、そこの指定された椅子に座る。日本人の間は、おそらくシニョリティ・システムで、向かって中央左に中村邦夫さん(81歳)、右に仲井真弘多さん(81歳)がおられる。部屋に向かって左手から、ムハンマド・サダさん(59歳)、私(71歳)、滝野欣也さん(73歳)、小宮山宏さん(75歳)、中村邦夫さん(81歳)、仲井真弘多さん(81歳)、内山田竹志さん(74歳)、山崎敏充さん(71歳)、ターヘル・マスリーさん(78歳)という順だった。

 私は、自分の隣にいた外国人がアラブ風のスタイルだったものだから、思わず「あなたはサウジアラビアから来られたのか?」と英語で聞いた。ところが、「いや、私はカタールのエネルギー工業大臣だ」と答えたので、私はしまったと思った。カタールはサウジアラビアの隣国だが、両国は仲が悪いので知られているからだ。気を悪くしなかったことを祈ろう。


(3)親授式のリハーサル

 やがて、準備が整ったということで、控室(千鳥・千草の間)から宮殿松の間に向かう。途中の渡り廊下から見える緑が目に染みるようで美しい。階段を上がると、そこが松の間である。事前にいただいた説明文によれば、「親授式においては、天皇陛下が勲章を親授せられ、次いで内閣総理大臣が勲記を伝達します」とある。

 そして、松の間に全員が入ってから、「リハーサル」となった。まず、担当官が、受章者に扮して、お手本を見せる。廊下から歩いてきて、松の間の方に向き直り、そこから敷居を跨いで入る。その辺りで正面の天皇陛下に一礼をする。そのまま真っ直ぐ15メートルほど歩いて陛下の2メートルほど前で止まり、そこで陛下に最敬礼をする。一歩前進し、その位置で陛下から勲章をいただく。一歩下がって最敬礼をした位置に戻り、そこで右前の菅内閣総理大臣の方に向きを変え、一歩進んで勲記を受ける。また一歩下がって最敬礼をした位置に戻り、正面の陛下に再び最敬礼をする。一歩後退して回れ右をし、敷居を跨いだ位置まで戻り、回れ右をして正面の天皇陛下に一礼をする。そのまま回れ右をして敷居を跨ぎ、右方向へ退出する。

 というわけで、一人一人、これをやってみることになった。まるで小学校の学芸会の予行演習のようなことを、この年でまたやることになるとは思わなかった。私は、もう6番目なので、さすがにそれだけ見ていると、目をつぶってもというと言いすぎかもしれないが、間違いなくできる気がしてくる。そのうち失礼ながら「ああ、あの方は、あそこでちょっと間違えている」などと思う余裕ができてくる。なお、担当官からは、「中には、陛下の前だと、恐れ多くて下ばかり向いていらっしゃる方もおられますが、陛下は、むしろ『アイ・コンタクト』を好まれますので、どうか、陛下の方をご覧ください」という趣旨の話があった。

 午前10時30分から、いよいよ親授式が始まった。一人一人の名前が呼ばれ、松の間に入り、親授を受けて退出される。我々はその間、廊下に並べられた椅子に座っていて、その様子が見えない。なるほど、これだから全員にリハーサルをさせたのか・・・・やがて、私の本番が来た。それが、この章冒頭に述べた光景である。

私の勲章佩用姿



(4)勲章佩用して拝謁

 控室に戻ると、宮内庁の職員の皆さんが手際よく勲章を付けてくれた。旭日大綬章というのは、リボンに繋がる日章(赤い縁取りの丸いもの)に綬(星形の印)と、その間にある鈕(桐の花葉)からできていて、その赤い縁取りの白いリボン(襷といってもよい)を右肩から左下にかけて身に着け、大きな副章を上着の左下に付ける。なるほど、これは燕尾服にぴったりだ。その勲章佩用スタイルで、拝謁のため、再び宮殿松の間に参上する。時に午前11時15分頃だった。今度は受章者が横一列に並び、配偶者はその後ろに控えている。それが終わると、左手の扉が開いて、陛下が入ってこられた。受章者を代表して、中村邦夫受章者が一歩前に出て、挨拶文を読み上げた。引き続いて天皇陛下がお言葉を述べられ、それが終わると退出された。


 それから、宮殿の南玄関を出て、大綬章受賞者全員が一列に並んで椅子に座り、記念写真を撮った。座った順番は、向かって左から、私、滝野欣也さん、小宮山宏さん、仲井真弘多さん、中村邦夫さん、ターヘル・マスリーさん、内山田竹志さん、山崎敏充さん、ムハンマド・サダさんである。日光が真正面から当たって、まぶしくて仕方がなかった。NHKニュースを見ると、私はまぶしさのあまり、ほとんど目をつぶった状態である。もう笑い話だ。


(5)最高裁判所にて長官招待祝賀懇談

 皇居を出て、最高裁判所に向けて車は走る。最高裁判所には正面から入り、車を降りて、歩いて階段を上がる。そこで、記念撮影をした。応接室に案内されて、しばし休み、旭日大綬章を外してもらった。準備ができたというので、そこから祝賀会の会場に向かった。例年であれば、パーティ形式で懐かしい各裁判官のお顔を拝見するところであるが、新型コロナウイルス禍の下なので、その日は各小法廷の代表と長官のみが出席していただくという小ぢんまりとしたものだった。しばし雑談の後、私は、「この受章に当たって、長官をはじめ事務総局の皆さまには大変お世話になり、深く感謝申し上げます」という趣旨の話をした。

 それが終わり、私たちは、口々にまた御礼を言って、帰宅の途についた。家でようやく燕尾服を脱ぎ、普段着を着て、またいつもの私に戻った。生涯最良の日であったことは、間違いない。できれば、この晴れ姿を亡き父に見てほしかった。私の受章に関係された皆様方に、改めて感謝する次第である。

いただいた旭日大綬章


いただいた会津塗の箱


いただいた勲記




3.我が国の勲章制度

(1)我が国の勲章制度

 我が国の勲章制度は、内閣府ホームページによると、次の通りである。

我が国の勲章制度全体の姿




 このうち、大勲位菊花章桐花大綬章は別格で、「旭日大綬章又は瑞宝大綬章を授与されるべき功労より優れた功労のある方」で、めったに出ない。うち大勲位菊花章は、中曾根康弘元内閣総理大臣が生前に叙勲されたことが知られている。その他の方は、たとえ元内閣総理大臣であっても,死後叙勲である。桐花大綬章は、例えば両議院議長や最高裁判所長官など三権の長にしか与えられない。

 これらは文字通りの別格であるが、通常の場合の種類は旭日章瑞宝章に分かれている。いずれも「国家又は公共に対し功労のある方」を対象とするものであって、旭日章は「功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた方」に、瑞宝章は「公務等に長年にわたり従事し、成績を挙げた方」に与えられ、それぞれ、大綬章、重光章、中綬章、小綬章、双光章、単光章に分かれている。そのほか、文化勲章があり、「文化の発達に関し特に顕著な功績のある方」に与えられる。

 私がいただいた旭日大綬章は、こういうものである。「旭日章は、明治8年に我が国最初の勲章として制定されました。勲章のデザインは、日章を中心に光線(旭光)を配し、鈕(ちゅう:章と綬の間にあるもの)には桐の花葉を用いています」という。英訳は、「Grand Gordon of the Order of the Rising Sun」とのこと。いやまあ、こんなに立派なものとは知らなかった。

旭日大綬章




(2)勲章の授与基準

 我が国の勲章には、平成15年に閣議決定された「勲章の授与基準」がある。それによると、

 ア 内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長又は最高裁判所長官の職にあって顕著な功績を挙げた者 旭日大綬章

 イ 国務大臣、内閣官房副長官、副大臣、衆議院副議長、参議院副議長又は最高裁判所判事の職(これらに準ずる職を含む)にあって顕著な功績を挙げた者 旭日重光章又は旭日大綬章

 そうすると、私の場合はイになるようだが、それにしても旭日大綬章とは、誠に有難いことである。関係方面には、深く感謝申し上げたい。


4.受賞前後の状況

(1)最高裁判所からの連絡と準備

 実は令和2年秋になって、最高裁判所から「叙勲を受けるかどうか」という打診があった。私は「それは名誉なことで、受章したい。色々とお世話になります」と答えた。するとしばらくして、「令和2年秋の叙勲 大綬章等勲章親授式」に関する書類が送られてきた。11月11日(水)に予定されている親授式の式次第、日程、事前連絡事項などである。

 当日の服装は、「燕尾服」であって、「モーニング」ではない。モーニングなら自前のものがあるが、さすがに燕尾服は持っていないので、これは貸衣装店で借りてこなければならない。確か、以前も借りた飯田橋の店があると思って調べると、まだ営業している。そこで、電話をして、「何年の何月何日に借りた者だけど」と言うと、ちゃんとその記録が残っていた。そこで、同じサイズのものを用意してもらうことにした。

 今年秋の叙勲の特徴は、「大綬章親授式出席に当たっての事前連絡事項(内閣府賞勲局)という文書が入っていたことだ。例えば、次のようなことが書いてある。

 〇 式(11月11日)から前2週間については、マスクの着用、手洗い等の励行、三密(密集、密接、密閉)を避けるなど「新しい生活様式」に基づく新型コロナウイルス感染防止対策の徹底。
 〇 式前日に公共交通機関で移動する際にはマスクの着用。
 〇 式当日に37.5度以上の発熱がある場合等は出席を自粛。
 〇 厚生労働省「新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)」の活用。


 参入時に検温させていただき、受章者又は配偶者のいずれかに37.5度以上の発熱が確認された場合は、両者の宮殿への参入をご遠慮いただくこと。

 式においては入場から退場まで常時「マスク」を着用すること。

 そして、正殿松の間で行われる大綬章等勲章親授式の図解があり、天皇陛下から勲章が親授され、次いで内閣総理大臣から勲記が伝達される位置と経路が書いてある。

 最後に、内閣総理大臣からの案内状が添付されていた。

総理からの案内状



(2)11月3日に公表される

 親授式が挙行される11月11日に先立つ同月3日に、令和2年秋の叙勲対象者が公表された。朝日新聞の記事を引用させていただくと、このようになっている。

 「政府は3日付で、2020年秋の叙勲受章者4100人と、外国人叙勲の受章者141人を発表した。旭日章は政治家や民間人、瑞宝章は公務員が主な対象。日本人受章者のうち、旭日章は1023人、瑞宝章は3077人。女性の受章者は412人(10.0%)で、20年春と並び、03年秋の制度改正以降で最多。

 旭日大綬章は、トヨタ自動車会長の内山田竹志さん(74)、元沖縄県知事の仲井真弘多さん(81)や元内閣法制局長官の山本庸幸さん(71)ら6人。瑞宝大綬章は元東京大学総長の小宮山宏さん(75)が選ばれた。

 小説家の北方謙三さん(73)や俳優の麻実れい(本名・信元孝子)さん(70)、舘ひろし(本名・舘広)さん(70)は、旭日小綬章を受ける。」


今回の旭日大綬章の受章者リスト




(3)叙勲・褒章の専門会社からパンフレット

 その頃から、ぽつぽつと国会議員から電報や手紙が届き始めた。受章者の閣議決定の日に国会議員に名簿が配られるので、おそらくその名簿が使われたのだろう。中には、私が存じ上げている議員さんもおられるので、それはそれでとっても嬉しいが、その反面、全く存じ上げていない議員さん達からも来ている。私は別にその方々の選挙区に住んでいるわけでもない。これは、どうしたものか・・・。

 国会議員からなら仕方がないと思っていたら、今度は「叙勲・褒章の専門会社」から分厚いパンフレットが届き始めた。たとえば、「日本叙勲者顕彰協会」、「岩崎」、「銀座明倫館」、「創元」などである。一体どこから今回の受章者個人の住所を入手できたのかと思う。議員さんの方よりも、むしろこちらの方が問題だろう。まあ、それは別として、そのうちの一つ、創元のものを開いてみると、これがまた、なかなか面白い。

 @ いただいた受章についての教科書
 A 叙勲・褒章受章記念額カタログ
 B 叙勲・褒章返礼用のお菓子・記念品
 C 挨拶状・同封物(しおり・鏡・マスク)
 D ご芳名帳、ご注文書つづり がある。

 特に@は、とても面白い。(本文)叙勲・褒章に関する知識を学ぶ、春秋の叙勲・褒章受章のスケジュール、お返しについて、祝賀会について、(資料)伝達式・拝謁に関する衣装、着付け・ヘアメイク・記念写真・宿泊施設情報などである。ありとあらゆる叙勲事情が把握できるようになっている。また、Aの中の旭日大綬章専用の額を見ると、桜材の額は16万5千円であるが、紫檀材を使った最高級の額は、55万円もする。これは凄い。

(4)祝電と祝福メールが殺到

 これが公表されたその3日の午後から、私の自宅には電報が殺到する。それが、台紙が簡単なものもあれば、分厚いもの、中には鶴柄の漆塗りの小箱、薔薇のドライフラワー、七宝焼きのプレートのものまで、まるで洪水のように届けられる。もう「有難い」を通り越して「凄い」の一言だ。ただただ感謝あるのみ。いただいた電報を積み上げると、高さが40センチもある。先ほど引用した専門業者は、これら膨大な電報や手紙に対して定型文で返信するのがその得意とするところだ。ただ、私は各人に対してそれぞれの人に合わせた各様の返事を出した。

 その返信であるが、基本的には、次の文章で、【 】内のところで紋切型の挨拶は書かず、その方との思い出や感謝の言葉、お世話になった内容を入れ、なるべく手厚く書こうとして、実際にやってみたら、一生懸命に連日作業したのに12月9日までかかってしまった。疲れたが、私の気持ちは伝わったと思う。疾風怒濤のような日々が、ようやく終わった。


拝啓

 このたびは、私の叙勲に際しまして、ご丁寧なお便りをいただき、誠に有難うございました。

 宮殿松の間で行われた式典におきまして、天皇陛下より手ずから、旭日大綬章を親授された際には、私の脳裡に過去46年間の公務員生活の出来事が一瞬で走馬灯のように去来するとともに、誠に身に余る光栄と、感激を新たにいたしました。

 思えば私は、大学を卒業して憧れていた通産省に入省し、その通産省・経産省には20年間、次いで内閣法制局で20年間一生懸命に仕事をし、最後に自分でも思いがけず最高裁判所に6年余りいて、判決処理に心血を注ぎました。この一連の職業人生の中で、首尾一貫して自分の思い通りに仕事をすることができたのは、実に幸せだったと思います。

 振り返ってみますと、貴殿とは【 (その方との交流の思い出など)があり、いまなお私の・・・ 】。

 折しも向寒の侯で、しかも新型コロナウイルスがますます猛威をふるう昨今ですが、どうかご健康に留意され、引き続きご活躍されることを心からお祈りしております。  敬具



(5)祝福メールが殺到

 祝電のみならず、先輩・同期・後輩・友人・知人・親類から祝福メールが殺到した。これに一つ一つ返信するのに、朝から夜遅くまでかかってしまった。私のことを思っていただいてのことなので、それぞらに心をこめてメールを出した。


(6)お花をいただく

 中には、高価な胡蝶蘭(3つの枝に、それぞれ10輪)を送ってくださった先輩がおられた。それも、とある会社のトップを務められている方なのだが、ちゃんと会社名は控えて、お名前だけを記して送って来られた。その豪華な白い優雅な花を、自宅でゆっくり眺めさせていただいているとき、ふと気が付いた。今は家内がいないので、世話をする人がいないではないか。そこで、住んでいるマンションの1階ロビーに置いて、他の居住者にも見ていただくことにした。ただ、「祝叙勲」と書いてあるポップがあるので、これは気恥ずかしいことから、外して置くことにした。

いただいた胡蝶蘭の写真


 また、日比谷花壇から送られてきたこの胡蝶蘭ほど派手ではないが、電報を通じて、薔薇の花を送っていただいた方も多い。たまたま、家内が入院中でもあり、家内の病室に持って行って一緒に祝ってもらうには、ちょうど良かった。とても、有難いことだと感謝している。

いただいた薔薇の写真


いただいたニコライ・バーグマンの写真


(7)電報、お花、手紙、メールの数

 ちなみに、いただいた電報等を整理したところ、次の通りだった。

 @ 電報の種類 うるし鶴の舞小箱、らん七宝+薔薇、祝福松竹梅、鳳凰、鶴と富士、西陣織昇鯉、刺繍美麗、押し花歌集、百花、ハーモニー、カトレアなど(順不同)。中には、一輪の薔薇付きのものも結構あった。実に有難いことだ。
 A 電報の発信者      80人の方々
 B 胡蝶蘭などの花      3人の方々
 C 手紙等の発信者    18人の方々
 D メールの発信者    24人の方々

 これだけの数のお祝いをいただき、心から感謝している。かくして、私の疾風怒濤の日々は終わった。これを人生の最高峰として心にとどめ、あとは残る人生が30年ほどあると思うので、社会貢献もしながら、趣味を充実させ、家内とともに、ゆったりと過ごしていきたい。



(第8章は、令和3年4月18日記)

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   【 完 】






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