悠々人生エッセイ



靖国神社の展示品




1.私自身は戦後の生まれ

 今年の8月15日で、太平洋戦争が終わって76年目を迎える。私は戦争直後の団塊の世代の生まれだから、先の太平洋戦争中のことは、全く知らない。幼な心に覚えているのは、母に手を引かれて繁華街に行くと、必ずといっていいほど、傷痍軍人の方がおられたことだ。白い患者衣の和服姿をして手や足が義足で、それで物悲しいアコーディオンなどを演奏している。私は、母から預かったお金を、その人たちの足元のブリキ缶に入れる役だった。

 小学校に行くと、「お父さんが赤紙一枚で兵隊にとられて戦死し、遺骨として届けられた箱には石ころしか入っていなかった」という話をよく聞いた。どの家庭も、家族の中で少なくとも一人や二人は、そういう悲惨な目に遭っている。具体的にどのような体験をされたのかは、平和記念展示資料館の労苦体験記をお読みいただければ、少しはその悲惨さがわかると思う。

 ところが、私の親類はというと、母方はそもそも女性ばかりで兵隊に行くことはなかった。父方には8人の兄弟姉妹がいてそのうち私の父を含めて3人が男で、いずれも兵隊にとられたものの、全員が生きて帰ってきた。こういうケースは、かなり珍しいのではないかと思う。特に私の父は、終戦の前年末に学徒出陣となった。しかし、すぐに軍隊で東京の学校に入り次の年の8月に戦争は終わったので在学中の学校よりそのまま帰郷したから、戦争のことは全く知らない。だから、私も父から戦争についてほとんど何も聞くことなく、社会に出たのである。

沖縄の守礼の門


 そういうことで、私にとり国内での戦争の爪あとを思い起こすことといえば、まずは復帰直後の沖縄に行って、南部の戦跡に案内され、ひめゆりの塔、摩文仁の丘、読谷村のガマなどを見学して、蕭然としたものである。それから10数年経って家内と一緒に九州旅行をした時、知覧に立ち寄り、特攻隊の遺品を目にして、これまた言葉が出なかったことを思い出す。広島と長崎の原爆投下関連の施設を見学させていただいたときも、改めて平和の尊さを思い知った。

広島の平和祈念公園


 国内では、太平洋戦争についてはその程度の体験とも言えないほどの思い出しかない。ところが、仕事で海外に出たときには、次のような思いがけない経験をした。


2.山本五十六長官と親戚か?

 私が30歳の時、国務省の「米国交流訪問招待プログラム」に応募しないかという有り難い話があった。これは、アメリカ全土のどこを見て回っても結構だし、誰かに会いたいのなら出来るだけアレンジしてあげようという誠に太っ腹な企画である。

 昭和56年6月初旬から5週間の日程が承認された。それを懐に持ち、勇んでアメリカに渡ったのである。その旅行では、15箇所以上の全米各地の風物を見て回り、様々な分野の優に100人を超えるアメリカ人と会って話をして、又と無い貴重な経験を積むことができた。

シカゴ科学産業博物館


 その一環として、シカゴ科学産業博物館を訪れ、最新技術を採用した参加型の展示について色々と意見を言った。すると面白い見学者だと思われたらしくて、10人ほどが参加する部内の昼食会に誘われた。楽しく話をしているとき、ある年配の男の人が私にいきなり「Admiral Yamamoto は、あなたの親戚か?」と聞いてきた。

 私が「いや、違う。山本という名字は、日本ではありふれた名前だ。」と言うと、その人は「それなら言うけど、自分は第2次大戦中、パプアニューギニアで日本軍の暗号傍受をやっていた。ある日、山本五十六連合艦隊司令長官搭乗機の行程の通信をキャッチし、それを通報したらソロモン諸島のブーゲンビル島上空で撃墜されて、彼は死んだ。」などと深刻な話をし始めた。

  「この話を誰かにしたことはあるのか?」と聞くと、「いや、これが初めてだ。」と言うので、「長い間、誰にも言えなくて辛かっただろうけど、戦争は残酷なものだし、昔の話だから、もう忘れたらいい。現にこうやって仲良く日米で食事をしているではないか。」と言うと、感極まったような顔をしていた。


3.今度はイタリア抜きで

 私が36歳の時、ドイツのミュンヘンで特許三極会合が行われた。その会議がようやく終わったある夜、有名なビヤホールのホーフブロイハウスに1人で行ってみた。ここは、かつてアドルフ・ヒットラーがアジ演説を行ったことで知られる。ドアを開けると、そこはまさに飲み屋で、10人ほどが向かい合って座れる細長い木製の重厚なテーブルがたくさん並んでいて、ビールのジョッキを手に手に持った大勢の酔っ払いが談笑し、肩を組み、歌を歌っている。うるさくて声も聞き取れないほどだ。

 席に案内されて、細長いテーブルの端に座らせてもらった。そのテーブルは、労働者風の人達で既に一杯だ。申し合わせたように似たような鳥打ち帽を被り、真っ赤な顔になって、もう出来上がっている。私は、小麦のビールをジョッキで1杯と、白いソーセージ(ヴァイス・ヴルスト)を頼んだ。これは、ドイツ・バイエルン州の伝統的なソーセージで、とても美味しい。

 私がそれをつまみにしてゆっくりと静かにビールを飲んでいると、向かいの鳥打ち帽が話し掛けて来た。かなりの年配の人である。「ヤパーナー?」つまり日本人かと聞いてきたので、そうだと答えると、片言の英語で「今度、戦争するときは、イタリア抜きでやろう。あんないい加減な連中と組んだから負けちゃったんだ。」などと、物騒なことを言う。私は苦笑するしかなかった。かつてヒットラーがこのミュンヘンの地で一揆を起こしたそうだが、その策謀の舞台だけのことはあると思った。

ミュンヘン市庁舎


4.ブキティマ高地にて

 太平洋戦争の開戦と同時にマレー半島北端のコタバルに上陸した日本軍は、そのまま一気に半島南端のシンガポールに迫った。英軍によって要塞化されていたシンガポールは、難攻不落と思われていたが、イギリス・オーストラリア連合軍(現地の華僑部隊を含む)8万人と、日本軍3万人が激突し、約2週間の攻防戦の末、日本軍に占領されてしまった。山下将軍とパーシヴァル将軍との降伏交渉は有名である。降伏後、シンガポールは「昭南島」と名前を変えられ、日本の南方進出の要の地となった。

 ブキティマ高地(Bukit Timah)というのは、シンガポール中部地区からおよそ10kmのところにある小高い丘である。戦争中は武器断薬や燃料が備蓄され、水源地でもあるという戦略的意味を持っていた。そこで、日本軍もまずこれを占領し、連合軍側の抵抗の意志を挫くのに成功したという経緯らしい。だから、この丘を巡って激烈な戦闘が繰り広げられた。

 ある時、私はシンガポールでタクシーを拾い、このブキティマ地区を通りかかった。今では、高級住宅地となっている。すると、そのタクシーの運転手は、ポツリと「戦争のときに、叔父さんが、ここで命を落としたんだよね」と呟いた。私には、掛ける言葉が出なかった。

発展するシンガポール


5.突然、夜空に日本語のバンザイが響いた

 マレーシアでは、マレーの伝統にのっとり、毎週決まった日に「パサ・マラーム(夜市)」(Pasar Malam)が開かれる。日本の神社の縁日のようなもので、それよりもずーっと規模が大きい。また、日本の縁日のような横断幕はなく、ただ裸電球の下で平らな机のようなものに商品を並べているだけである。でも、ともかく屋台の数が多いことから、商品の種類も数も多くて、普通のスーパーの商品、DIYの品物、更には台所用品、衣類、おもちゃまで買えるという幅広さである。

 最初の頃は、私もまだ現地の事情に疎いので、パサ・マラームに出掛けることはなかったが、そのうちこれは縁日のようなものだと思うようになって、ときには、一家揃って行ってみることにした。事件が起こったのは、しばらくして行き慣れた時のことである。

 その日も人出が多かった。真っ暗な夜に裸電球だけが並んでいる中で、私が面白そうな商品を見ていると、家内が少し別のところへ見に行った。しばらくして、小走りで真っ青な顔をして戻ってきた。家内が言うには、「商品を見ていたのよ。店番のおじさんと二言三言話したとたん、おじさんが直立不動の姿勢になり、綺麗な日本語で『大日本帝国、バンザーイ』と叫んだのよ。ああ怖かった」とのこと。

 「多分そのおじさんは、日本軍の占領時代に現地の小学校か何かで、そういうことを習って、日本人と見るや、挨拶代わりにそんなことをするのではないかな、別に悪意があってしているのではないよ」と答えておいた。それにしても、先のブキティマ高地にせよ、このおじさんの大日本帝国万歳せよ、戦後30数年経っても、マレー半島では、人々の心にまだ戦争の爪あとが残っていた。

発展するマレーシア










(令和3年7月5日著)
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