1.母の晩年
私の母は、今年で94歳になった。我が家の家系図は江戸の文化文政期以来揃っているが、それを丹念に調べて行くと、最長寿は大正時代に80歳で亡くなったご先祖さま(女性)である。これが数え年だとしても満79歳だから、私の母は、我が家の長命記録を日々更新していたことになる。 今から12年前に、父が亡くなり、それ以来、母は一人、自宅で過ごしてきた。デイサービスを週に3回ほど受け、お喋りや折り紙をし、お昼をご馳走になり、風呂にも入らせてもらった。そのほか、幸い、妹2人が近くに家を構えていることから、その2人が代わりばんこに訪れて、おかずを届けたり話し相手になったりして見守ってくれていたから、私は安心していた。 2人とも、交換日記のようなノートを備えて、「今日のママさんの様子はこうだった。どんなおかずを持って行ったか、どんな話をしたか」などと、克明に記録に残してお互いの連絡を密にし、本当によくお世話をしていてくれた。 もっとも、ある日、妹が弁当を届けても、それを食べた様子がない。おかしいと思って台所のゴミ箱を見てみたら、そこには超特大のどら焼きの袋があった。だから、近所のスーパーにこんなものを買いに行く気力があるのかと安堵したそうだ。 その母に異変が起こったのは、3年前の秋のことである。妹の一人と食事中にお箸を取り落とした。左手に力が入らないようなので、心配した妹がその夜は一緒に泊まった。すると翌朝になると、左足がもう麻痺していて全く動けなくなっていたという。慌てて救急車で病院に運んだら、脳梗塞だった。 もうtPAには間に合わないが、幸い障害の程度はあまり深刻なものではない。左手と左足に不自由さが残ったものの、歩行訓練などをすれば、また歩けると言われて、訓練の日々を過ごした。しかしながら、もう90歳を超えていることから、捗々しい進展はなく、結局は車椅子生活となってしまった。 となれば、これまでのように一人暮らしをしてもらうというのは無理なので、実家近くの老人ホームを探した。すると適当なところが運良く見つかったので、そちらに入居してもらった。私の父の年金の額がそれなりにあったので、月々の支払いは、十分に賄えた。 2.新型コロナ禍の老人ホーム それから3年が経った。母は、老人ホームで大切にされていたので、私たちは安心していた。ところが、たまたま新型コロナ禍の時期と重なり、面会が出来なくなった。わずかに、病院に連れて行く時だけ会えるものの、それ以外の面会は断られた。 しかしながら、家族の要望で、1年ほど経ってLINEで面会させてくれることになった。それも、わずか15分間だけ許された。時間になって私が画面を覗くと、母が出た。すると、「ああ、お兄ちゃん」と言って泣き始めたので、困った。それから、こちらの様子、特に子供たちのこととか、孫の写真を見せたりした。「ああ、ああ、そうかい、そうかい、良かったね」と答えていたので、喜んでいたと思う。直接の面会には遠く及ばないが、まあそれなりに役に立った。とりわけ私のように遠隔地に住んでいると、本当に助かる。 3.母と最後の面会 7月の猛暑の時期、母の食欲が落ちたという話を聞いた。そうしているうちに、日曜日の夜、下の妹から電話がかかってきた。「老人ホームから『ママさんが食事が喉を通らなくなった』と、連絡があったので、行ってみたら、もうガリガリにやせ細っていて、しきりにお兄ちゃんに会いたがっている」ということだった。それを聞いて胸騒ぎがし、「では、明日行くから、老人ホームに連絡しておいて」と伝えた。 そして翌朝、北陸新幹線に飛び乗って、日帰りで郷里に帰った。そのまま下の妹の運転する車で老人ホームに行き、母に面会した。先週来、あまり食事が喉を通らないようで、見るからにガリガリに痩せていた。しかし、意識はしっかりしていて、私の手を握って笑顔を作り「お兄ちゃん、遠いところをよく来てくれたねぇ」といい、「あれ、あの子いないわね」と気にしていた。ちなみに「あの子」とは、上の妹で、そのすぐ後に2人の子供を連れて3人で会いに行ったようだ。 という顛末だったので、私はやや安心して東京に帰ってきた。ところが、その次の日の火曜日、午前中は係員とにこやかに話をしていたそうだが、午後になって血圧が60に下がるなど、体調が急変したそうだ。そしてそのまま、午後9時19分、永眠した。 母のエピソードを思い出すたびに懐かしいという気分を超えて、悲しくなる。その一方で、翌日、まるで入れ替わるように下の妹の長男のところに、第一子が誕生した。皆で葬儀の合間にその赤ちゃんのビデオを見て、口々に「髪の毛フサフサだね」、「可愛いね」、「顔がツルツルして素敵」、「大きな子だね」、「朝に破水してもうお昼に誕生するなんて、赤ちゃんはストレスが少なかったろうけど、その分、お母さんには負担だったろうね」などと話していて、この明るい話題があったから、あたかも「悲しみが中和された」ようなものだった。 母の通夜は27日、葬儀は28日に行われることとなった。完全な家族葬とし、親類で呼ぶのは本家の長男だけにした。東京からは、私と長男だけだったが、それでも合わせて16人と、かなりの数である。27日の午後に私は用事があったので、セレモニーホールに着いたのは、午後9時を回っていた。すると、下の妹の一家が待っていてくれて、ひとしきり話や打ち合わせをした。その後、皆帰ってしまったので、母の棺と私一人が残った。「まさに通夜だな、、、これが長男の役目か」と思い、そのまま一夜を明かした。 翌朝、家族親戚が一堂に会した。12年前の父の葬儀の時に来てくれたお坊さんが、また来てくれて、読経してくれた。その合間に、私は喪主として、次のような挨拶を行った 皆様、本日は記録的な猛暑の中にもかかわらず、私どもの母の葬儀にご参集頂きまして、誠にありがとうございます。 母は、昭和4年1月2日に生まれ、一昨々日の25日に息を引き取り、94歳7ヶ月の生涯を終えました。若い頃は、太平洋戦争のまっただ中、高等女学校の生徒だった頃に病気で父親を亡くし、大変だったと聞いております。ところが、たまたま銀行に就職して、父と職場結婚してからは、人生が上向いたと思います。 とても、快活で社交的な人柄だったものですから、子供の手が離れてからは、好きな着物を仕事にして着付け教室を主宰したり、その縁で海外旅行に頻繁に出かけました。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、シンガポールなどです。中でもハワイで浴衣を着て盆踊りを踊る催しには、確か十数回参加したと聞いております。 私の父が、全国を転勤して回る銀行勤務を終えて、故郷であるこの北陸の町に居を構えてからは、近所に住む私の妹たち一家と、時々帰省する私の一家とが集まって、ワイワイガヤガヤと皆で食事するのを何よりも楽しみにしていました。美しい花が好きで、よく玄関に飾っておりました。 そういう母ですが、12年前に、配偶者である父を亡くしてからは、一人暮らしとなりました。2人の妹がかわりばんこに訪ねて、おかずを届けたり話し相手になったりしてくれていたのですが、3年前に軽い脳梗塞を起こしたのをきっかけに、老人ホームにお世話になり、今日に至ったわけです。 実は、母が亡くなる二日前に、妹から「お母さん、食が細くなってきた。私が会いに行くと、『お兄ちゃんに会いたい』と言っていた」と聞き、私はすぐ次の日に会いに行きました。すると母は、「お兄ちゃん、遠いところ、よく来てくれたねぇ」と言って、私の手を握ってくれました。その次の日に亡くなったわけです。まるで、私に会うまで、亡くなるのを待っていてくれたのかもしれません。最後まで律儀で、頭脳明晰な人で、皆様のおかげで天寿を全うしたと思います。 そういうわけで、私どもは、もちろん悲しみは尽きないのですが、その反面、このような立派な母に育てられて本当に良かったと、しみじみと感じております。 本日は、参列して頂き、かつまた暖かいお悔やみの言葉を掛けて頂き、心から感謝いたします。本当にありがとうございました。 5.母の思い出 (1)実は、この挨拶には含めていないが、母を巡るエピソードは尽きない。その一つに、富士登山の話がある。これは、今思い返しても、いやぁ、、、あれはすごかった。 母が70歳代の半ば頃、突然、「富士山に登りたい」と言いだした。皆が呆れているうちに、着々と準備を始めた。孫娘にトラッキングシューズを借りて、近くの田んぼを何周かしだした。そして、富士登山のツアーに申し込んだのである。 ここでやっと、本気だとわかり、皆で止めようとした。私はその時50歳代の半ばだったが、「もう私も良い年なのだから、万が一のことがあったら助けに行けないから、やめてくださいよ」と頼んだものの、「いや、大丈夫、大丈夫」と言われて、絶対に曲げようとしない。母が言い出したら聞かないことを皆知っているから、呆れて見守るしかなかった。 面白かったのは、父の反応だった。止められないと分かった時、今度は助けることに熱心になってきた。色々な登山グッズを買ってきて、母に渡している。その中に、酸素ボンベがあったのにはビックリした。ボンベと称していてもカセットコンロに差し込むあのカセットくらいのもので、酸素があるといっても、吸い込んだらたぶん数分間も持たないと思うのだが、それを2本、渡していた。きっと父なりの愛情の示し方だったのだろう。 (2)そういうことで、準備万端を調えて、母は出発した。登山の日、残念ながら富士山は大雨だったそうだ。ところが、ツアーは中止にならずに始まった。 その雨の中を、母は登りにのぼって、八合目、つまりあと500メートル余りまで到達した。ところがそこで、借り物のトレッキングシューズの靴底が剥がれ落ちたことから、リタイアを余儀なくされたのである。 やむを得ず母は、山小屋で「スリッパ」を借りて、それで、下ったという。もう、とんでもない話である。しかし、いかにも母らしいと思った。 (1)火葬場での最後の別れの時、好きだった花で母の顔のまわりをいっぱいにしてあげた。お骨上げが終わり、葬儀場に戻ってきてから、皆さんを送り出した。 その時の時間は、午後2時半である。「役所が閉まるまでにあと2時間半だ。やれることはやっておこう」と言い、兄弟姉妹3人で車に乗った。 (2)まずは市役所である。死亡届は、葬儀社が出してくれているから、戸籍係はパスしてよい。ちなみに死亡届は、死亡診断書とともにそのコピーを10部とっておいてある。これらは、戸籍の除籍が出来上がるまで、その代わりとして役所内や銀行で事実上使える。 そうやって後期高齢者健康保険と、介護保険について手続きをした。これらは別々の窓口だったが、それぞれの保険証を用意していたので、滞りなく死亡届を出すことができた。 (3)年金事務所も近くなので市役所の帰りに行ってみた。年金手帳はまだ見つからなかったし、戸籍の除籍には5営業日かかるので、書類は揃わないことはわかっていたが、ただ、手続きの流れと必要書類は教えてくれた。年金の支払いは2ヵ月なので、そう急いでいないのだろうと思った。 (4)笑い話だと思ったのは、納税係に行った時のことである。固定資産税の納付について相談に行くと、 係「いつ亡くなられましたか?」 私「今月25日です」 係「31日が引き落としの日なんです。銀行には亡くなったことを報告したがですか?」 私「(なぜ、そんなことを聞くのかと思ったが、私も方言で)いいえ、まだがです」 係「新聞のお悔やみ欄に載りましたか」 私「いいえ、必要ないとお断りしました」 係「それでは、もし引き落とされたら、それでよくて、もし引き落とされなかったら、銀行振込で納付を催促する書類を家屋の住所にお送りします」 私「では、その振込みを確認してから、銀行をストップすれば良いがですね」 係「はい、そうです」 私は、そんなことをして良いのかと思いつつ、さすがに徴税係のやることだと呆れてしまった。もう、お笑いとしか言いようがない。 私「今回は、やり過ごすとして、それでは次の納付期限はいつがですか?それまでに遺産分割が終われば良いけど、終わらない時の扱いはどうなるがですか?」 係「では、いま、納付用紙をお渡しします」と言って、渡してくれた。10月末にもらうはずの用紙を今貰うなんて、あまりにも手回しが良いので、びっくりする。 私「登記名義が変わった時、どうなりますか。こちらの役所で登記を見て対応するのか、それともまた私どもからの届けが必要ですか?」 係「こちらで登記情報を見るので、届けは必要ありません」、、、なるほど。 (5)東京と北陸のそれぞれにお墓 市営墓地に埋葬することになるので、手続きが必要だ。また、合わせて東京に墓地を持って行きたい。つまり、東京と北陸のそれぞれにお墓を維持したいと思っている。 なぜこんな手の込んだことをするかというと、私の家の祭祀の主宰者はもちろん私で、私には息子もその長男の孫もいる。いずれも東京在住であり、もはやこの北陸の地に住むことは、あり得ない。とすると、先祖代々の墓を北陸に置いていても、墓参りするのはとても難儀である。だから、東京に置くしかない。一方、この北陸には、2人の妹がいて、やはり両親の墓参りするのを願っている。それが、東京だけに墓があると、これまた墓参りは非常に不便になる。 ということで、今回の母の遺骨については、分骨の手続きをすることにした。火葬場で、そのための書類を発行してもらった。そして次に、父の遺骨をどうするかである。現在、市営墓地にある父の遺骨について市役所に尋ねると、こちらも分骨の書類を作成してくれるそうだ。良かった。これで、両親の遺骨を東京にもってくる目処がついた。次いでに、今契約している墓地は、年間の管理料が不要だ(正確には28万円を前払いしてある)ということも教えてもらった。これは、好都合だ。 東京の東本願寺浅草浄苑にお墓を確保しようと思って、先日、見学に行ったばかりである。私の家は、お東さんではないが、同じ浄土真宗だったので、よろしかろうと思ったわけだ。これは、いわゆるマンション墓だが、まあこれでよいと考えたので、契約をした。 お墓を作るのに際して「家紋」を聞かれた。「木瓜紋(もっこうもん)」と答えたが、実は同じ木瓜紋でも、2,000種類もあることは承知していた。だから、どの木瓜紋かを示せと言われても全くわからないのは、我ながらやむを得ない。それで、主な木瓜紋を見せてもらい、その中から、小さい頃に見た、母の着物に付けてあった家紋を思い出し、それと似たものを選んで、取り敢えずそれにした。いい加減なものである。 他方、息子には、将来、妹たちが亡くなった後、北陸の方の市営墓地のお墓の処分をお願いした。もちろん、快く引き受けてくれた。お墓の関係は、これで一段落である。 (6)保険 母の預金通帳を見ると、毎月2,600円近くが引き落とされている。アフラックとあるから、保険会社だ。保険証書を探さないといけないが、会社から来た葉書が見つかった。「新がん」と記載されているので、ガンだけを対象にしているのか、それとも死亡保険も含まれているのか、それが問題だ。 アフラックに電話したところ、「これは新がん保険なので保険金は出ないが、精算金が出る」というので、妹の家に請求書を送ってもらうことにした。 (7)法定相続情報証明制度の利用 法定相続情報証明制度とは,登記所に戸除籍謄本等の束を提出し,併せて相続関係を一覧に表した図(法定相続情報一覧図)を示せば,登記官がその一覧図に認証文を付した写しを無料で交付してくれるというものである。これは最近の戸籍法の改正で新設された制度である。 相続に当たっては、被相続人が生まれてから亡くなるまでの「戸除籍謄本(いわゆる原(はら)戸籍)を全て揃えて」まず相続人を確定しなければならない。その上で、『これら全ての書類』を添えて家屋の登記名義の変更なら登記所に、銀行預金の手続きなら各銀行に示さなければならなかった。 今回の法定相続情報証明制度は、この「戸除籍謄本(いわゆる原(はら)戸籍)を全て揃えて」というところは同じだが、登記所や各銀行に『これら全ての書類を添える』は必要なく、『法定相続一覧図を添える』ことで、これに替えることができるというわけだ。父が亡くなった時はそんな制度がなかったから、その大変さは身にしみている。それと比べて、今回の制度の使い勝手はどうだろうと、ついつい思ってしまう。 私の母は、福井県の町(当時は村)で生まれ、それから少しは都会の市に移り、婚姻してその市の戸籍を離れて富山県へと転籍し、そこで亡くなった。だから、3ヶ所から原戸籍を取り寄せばよい。現住所だった富山県は、現地にいる妹に任せて取り寄せてもらえばよいから、私は福井県の町と市を引き受けた。もちろん郵送で請求するしかない。次の(1)から(5)までを用意してレターパックに入れ、宛先として役所(戸籍係宛)の住所、表に「原戸籍の郵便請求」と記入してポストに投函した。ここまでは、父の時と同じである。 (1) それぞれのホームページから戸籍の申請用紙をダウンロードして記入 (2) 郵便局で、@レターパック、A750円の郵便小為替、B返送用の切手をやや余裕をみて購入 (3) 返送用封筒を用意して、切手を貼り、表に私の住所を記入 (4) 私のマイナンバーカードの写し (5) 私の戸籍謄本 すると、私がたまたま海外旅行をしている最中に町役場と市役所から電話があり、どちらからも「戸籍の書類は二つあるから、あと750円足りない」と言われた。改製原戸籍が二つあるということなのだろう。仕方がないので、妹に頼んで、郵便小為替を750円分組み、それぞれに送ってもらった。妹にも、その在住市役所で同様にして転籍から死亡までの原戸籍を取得してもらい、さかのぼっていく形ではあるが内容を確認した。これで出生→婚姻→死亡までの一連の原戸籍がようやく整った。 次の段階は、法定相続情報証明制度の利用だ。法務省のホームページによると、「これまでは集めた原戸籍の束を各銀行に提出しなければならなかったのですが、新しく出来た法定相続情報制度を使えば、そこで認証された一覧図を見せるだけで済みます」というわけだ。しかも、わざわざ富山県の法務局に行かなくても、私の住所地つまり東京法務局の登記官が、手数料無料で認証してくれるらしい。そのために揃える書類は、次の通り。 (0) 法定相続情報一覧図(法務省のホームページからExcelファイルを取得できる) (1) 被相続人の戸籍謄本(前述の一連の原戸籍)及び除籍謄本 (2) 被相続人の住民票の除票 (3) 相続人全員の戸籍謄本(被相続人が死亡した日より後日付のもの) (4) 申出人(私)のマイナンバーカードの写し (5) 相続人全員の住民票の写し (6) 印鑑証明 妹たちの協力を得て、これらの書類をせっせと集め、特に法定相続情報一覧図に間違いがないかをよく確認した。そして、東京法務局を訪れて、一連の書類を託した。母が預金していた銀行の数が多いし、不動産登記をする必要もあるので、8部をお願いし、原戸籍の束は、返却してもらうことにした。そして、「何月何日の午後4時以降に渡す」という趣旨が書かれた紙をもらった。お願いして数日経ったときに、法務局から電話がかかってきた。「戸籍上は『次女』ではなくて『二女』だから、そう直す」と言われて、「はい、どうぞ」と返事した。 その受取りの日が来て、その紙、マイナンバーカード、申請の時と同じ印鑑を持って行った。すんなりともらえた。それを妹に送ると、銀行での口座名義の変更、法務局での不動産登記のときに、非常に役立ったそうだ。この制度が始まる前は、父の時に経験したように各機関にいちいち全ての戸除籍謄本等を示さなければならなくて非常に面倒だったから、少しは改善されたと言える。ただ、この労力の9割方が全ての戸除籍謄本等(原戸籍)集めだから、そこは全然省力化されていない。これを何とかしてくれないといけない。 8.遺産分割協議 (1)相続財産の確定 次の段階は、我々3人の遺産分割協議である。妹たちが実家を捜索して、預金通帳、印鑑を集めた。父が銀行員だったものだから、その銀行の口座だけかと思っていたが、いざ探してみると、出るわ出るわ。中には20年くらい放ってある定期預金もある。また、農協や信用金庫の口座まである。調べてみると、これらは町会費の支払いや単なるお付き合いらしい。ともあれ、これら全てに残高証明をもらい、その他、妹たちが母の死の直前に引き出した現金を調べ、その他葬儀にかかった費用を差し引いて相続財産の現預金を確定する。 それで、相続財産は実家の土地建物と現預金だけだと判明した。その他、介護保険の戻りとか、保険金の精算とか色々と細々したお金の出入りを織り込んで、現預金の額を確定した。ちなみに、これらの合計額は、相続税の基礎控除額(3,000万円+法定相続人の数×600万円=4,800万円)を下回っているから、非課税である。 (2)遺産分割協議 母の四十九日法要で地元に行き、2人の妹に案を示して遺産分割協議を行った。それぞれには、旦那さんという応援団がいるので、あとから翻意されても面倒だから、もう全員がいるところでの公開討論である。亡き父が頑張ってくれたお陰で、遺産は土地建物のほか、思いのほか預貯金があった。 私の分割案は、2人の妹が両親の面倒をよく見てくれたことに感謝して、 (1) 預貯金は、2人の妹がそれぞれ1.0、私が0.5で分ける (2) 実家の土地建物は、2人の所有にするとするというもので、これは私が譲った形にした。ただし、 (3) この土地建物は、いずれか一方の単独所有とし、所有する者は所有しない者に対して補償金を支払うものとした。 (1)と(2)は簡単に合意したが、問題は(3)で、単独所有にしないといけないと考えた。なんとなれば、今は兄妹3人の仲が良くて何でも直ぐに合意できるけど、次の世代になると数が増えるだけでなく故郷を離れている者もいるし、意思疎通が円滑にいくとは限らないからだ。 ところが、補償金を支払う前提として、そもそも相続した土地建物の市場価格がいくらで、更地にする場合の取り壊し費用がいくらかということが分からないと、話にならない。そこでこの点は、二つの不動産屋に見積りしてもらうことにした。 それらの不動産屋の見積もりを照らし合わせてみると、更地にした場合の土地の価格は1,000万円と出た。これは、二つの見積もりが一致している。問題は取り壊して更地にする場合の費用だ。私はせいぜい300万円だろうと思っていた。 ところが、最近では取り壊し費用が高騰しているばかりか、この相続した土地には父の趣味で大きな池が掘られているし、周囲を大谷石塀で取り囲んであるから、それらの撤去が一筋縄ではいかない。だから、取り壊し費用は全部を含めて高くて500万円だろうと見積りをした。 ということで、単独所有をする妹が、他方の妹に対して250万円を支払うということで遺産分割協議書に書き込んで決着した。所有者となる妹には、私が作った登記申請書、この遺産分割協議書、法定相続情報一覧図、全員の印鑑証明書を渡したところ、簡単に登記できたそうだ。 9.後日談 (1)能登半島北部地震の発生 そういうわけで、遺産分割協議と登記そのものは問題なく終わった。ところが、その後、2024年1月1日、能登半島北部を震源とするマグニチュード7.6の大きな地震が起こった。これは隣の県である富山県にも相応の被害をもたらした。現にせっかく相続した家の壁に若干の亀裂が入り、塀も少し傾いたようだ。天災とはいえ、所有者になった妹には、申し訳ない気がする。 まあ、実家は50年前の建物だし、そろそろ寿命かもしれないが、仮に建て直すとなれば、父母の思い出がなくなるようで、私にとってますます故郷が遠くなる気がするのは、いささか悲しい。ちなみに、妹の家では震度5で、棚の中の物が少し割れただけだったそうで、その程度の被害でよかった。 (2)遺骨の残置問題 順調に進んできた母の葬儀の始末だが、問題が発生した。もとより市営墓地の我が家の墓には父の遺骨が安置されている。墓を開けてその隣に母の遺骨を安置しようとしたところ、あれれ、、、骨壷がもう一つあったので驚いた。その表面に書かれていた被葬者の名前を読むと、母の妹のものだ。結婚して出ていった叔母の遺骨が何故こんなところに、、、息子も居るというのに、、、と思う。叔母の結婚相手は、とうの昔に亡くなっているから、本来ならその家の墓の夫の隣に安置されるべきものだ。 妹たちに「何故こういうことになっているのか」と聞いたところ、「叔母さんが亡くなった時、叔母の息子が荷物を抱えて実家に来たことがあって、それが遺骨でその時にお墓に入れたのではないかな」と言う。これについては、父と母から何も聞いてないそうだ。おそらく、母がいつもの調子で「ええよ、ええよ」とでも言って気軽に受け入れたのではないだろうか。市役所に行って市営墓地の埋葬者の記録を見ると、案の定、父だけが埋葬されていることになっている。あの息子つまり私の従兄弟が埋葬許可証を見せずに、勝手に入れていったようだ。 これは困った、、、私は、父と母の遺骨を分骨して、東京の東本願寺に我が家のお墓を作り、将来この故郷の墓は私の息子に頼んで廃止してもらおうと考えていたのに、こんな叔母の遺骨があったら、その処分に四苦八苦するのが目に見えて、息子に迷惑をかける。これは、私の代で解決しなければならない。あの従兄弟に連絡をとって引き取ってもらおうと考えた。 叔母が住んでいた大阪府の住所に電話したところ、使われていなかった。そこで、返信用葉書付きで手紙を送ったところ、梨の礫だ。仕方がないので、Google Earthでその家を探して表札を見たのだが、違う名前の人が住んでいた。もう引っ越してしまっている。これでは連絡がつかないわけだ。困った、、、あの従兄弟は巨漢だったし、もうかなりな歳になっているから、既に亡くなっている可能性もないわけではない。その大阪の市役所に電話で相談したところ、「親族間の問題ですね」と言われて終わりだ。最後の手段として、その市役所に弁護士照会を掛けたのだが、これまた梨の礫である。探しようがない。万策が尽きて、こうなったら東京の東本願寺に我が家のお墓を引き取ろうと決断した。あの叔母にはお世話になったから、受け入れよう。その旨、私の息子の了解をとった。 そこで、故郷の市営墓地のある市役所に相談した。あれこれ議論して、まずは父と母の分は分骨許可証をもらい、その叔母の分は既に埋葬がされているので、新たに改葬許可証を発行してもらうことになった。それらを東京の東本願寺に提出すれば、手続きは完結する。現にそのようにしたところ、全て上手くいった。細かい話だが、叔母の骨壷が大きくてそのままでは東本願寺のお墓に入らないので、これを取り分けて小さくした残りの遺骨と骨壷本体はどうするのかと思ったら、東本願寺の方がその処分を快く引き受けてくれたから助かった。 こうすることで、当初の計画通り、故郷の市営墓地には父と母の遺骨が、東京の東本願寺には父と母と叔母の遺骨が安置されたことになる。やれやれ、ひと仕事が終わった。それにしても、この「お墓ジャック事件」は、全くもって余計だった。 10.オンラインを利用したワンストップ・サービスの導入 これで父に引き続いて母も見送ったのだが、それにしても死亡直後の手続き、とりわけ原戸籍の収集は、煩雑なんていうものではなく、そんなレベルをはるかに超えて耐え難い。これは、オンラインを利用してもっと合理化ができないものか。毎年150万人も亡くなる時代である。これに伴い、この煩瑣な手続きな巻き込まれる遺族は毎年数百万人もいるはずだ。 私たちの場合、亡くなってすぐ、市役所(@死亡届(これだけは葬儀屋がやってくれる)、A介護保険、B後期高齢者保険、C固定資産税)と年金事務所(D年金停止)に行った。加えてまた市役所(E市営墓地)と登記所(F相続した土地建物の登記)だ。どこへ行っても母の氏名や住所を何回も書かされるから、手が痛くなった。その上、預金や土地建物の相続のために、先ほど述べたようにG原戸籍を入手しなければならない。この度、法定相続情報証明制度ができたとはいえ、原戸籍を入手する過程が一番大変なのに、その肝心なところが全く合理化されていない。 デジタル庁ができ、マイナンバーの普及率が7割を超えている時代だから、こういう分野こそ、オンラインを利用すべきである。まずは同じ市役所の中で、クラウドでも利用して上の@からCまでとEは直ぐに合理化が出来るだろう。それを全ての市町村に横展開すればよい。次に市役所と年金事務所と登記所を繋げれば、ワンストップ・サービスが実現する。しかし、今の調子では、それまでに50年はかかりそうだ。その頃には、日本の人口は半分の6000万人になるだろう。そうなってしまってようやくワンストップ・サービスが出来ても、全然意味がない。来たる50年のなるべく早期に実現すべきである。 なぜ簡単にできないのかは、それなりの理由がある。第一は、現在は各市町村がバラバラにシステムを構築して、データ形式やシステムがてんでバラバラになっているために相互に接続できない上に、それぞれのシステム開発会社のしがらみがある。そういう中でシステムを統一しようとすると、単に技術力だけでなく、かなりの政治力が必要となる。 第二は、これは今の制度や仕組みを抜本的に変えることに繋がるからだ。同じ市役所内でも、介護保険と後期高齢者保険との統合は、厚生労働省内の事務の統合に繋がる。市役所内の戸籍事務と住民サービス事務の統合は、本省レベルでも、法務省と総務省の関係事務の統合にも直結しかねない。それは抵抗が大きいだろう。 でも、昔の小泉純一郎首相の郵政改革のように、これらの抵抗勢力を押し切って各種制度をデジタルで一本化しないと、日本の未来はないとさえ思っている。 (令和5年7月25日著、令和6年2月5日追加) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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