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![]() ![]() 1.プダペスト(ハンガリー) (1)エミレーツ航空に乗り、アブダビ経由で、ハンガリーの首都プダペストに着いた。 ハンガリーは中央ヨーロッパの内陸の国で、その面積は日本の25%、人口は約971万人である。紀元5世紀頃にアジアから侵入してきたフン族によって初めて国家が樹立され、アッチラの時代に隆盛を誇ったが、その死後に分裂した。9世紀にはウラル山脈からマジャール人が移住してきた。 10世紀末に即位した君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、ハンガリー王国を建国した。これが現在のハンガリーに連なる。 (2)首都プダペスト(Budapest)は、「ドナウの真珠」とか「東欧のパリ」とまで呼ばれる美しくかつ瀟洒な街と言われているが、昼間にみるとややくすんでいる街並みである。しかしその夜景は素晴らしい。 街の真ん中を南北に流れているドナウ川(Danube River)を挟んで、西側の丘陵地帯にあるブダ地区と、東側の低地にあるペスト地区とが1873年に合併し、それで「ブダペスト」となったそうだ。 余談だが、ドナウ川はドイツに端を発して、概ね西から東へと各国(オーストリア、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、モルドバ)を通ってウクライナで黒海に注ぐ。ところが、たまたまプダペストに限っていえば、川は北から南へと流れている。
(4)「聖イシュトヴァーン大聖堂」は、ハンガリー王国の初代国王である聖イシュトヴァーンに捧げられた大聖堂で、ネオルネッサンス様式で建てられているとのこと。 教会の外見も実に繊細で美しいが、中に入ったら、マリア像に十字架のキリストの絵など典型的なカトリックの装飾で、これまた誠に素晴らしい。高いドームの絵画や両脇のステンドグラスの芸術的価値は高く、設えてあるパイプオルガンが演奏されれば、さぞかし素敵な音色がすることだろうと思う。
(5)「国会議事堂」は、ドナウ川のほとりにあるネオゴシックの建築物で、世界で最も美しい議事堂と言われている。昼間に通りかかって外観を見ただけだが、確かに凝った造りとなっている。でも、しげしげと見入る余裕がなかった。というのは、その前を流れているドナウ川のクルーズが、夕方5時半に始まるからである。
(7)同じくブダ城地区の「マーチャーシュ聖堂」は、1541年にトルコに占領された時にモスクとなり、彫刻が損壊されたりしたが、1686年のその撤退後にまたキリスト教会にもどった。そしてハンガリー建国1000年後の記念日となる1896年には、本来のゴシック建築様式を基調の建物に改築されて現在のネオゴシック様式の造りとなったという。
大統領官邸の前では、衛兵の交代式が行われていた。指揮官1名、兵士2名、楽隊1名の最小限の構成で、太鼓の音に合わせながら、キビキビとした動きで交代をしていた。 (8)お昼は、台灣料理のレストランに行った。料理のレベルは結構高くて、こんなヨーロッパの果てにも、中国人が進出しているとは、思わなかった。 献立は、海藻のスープ、鱈のブツ切り、豚肉の甘辛煮、白菜の煮物などと出て、最後のオレンジも、全て美味しかった。これには同行の中国人のツアーメンバーもとても満足していた。 (9)芸術家の村で、観光客が集まるという名所センテンドレ芸術家村に行ってみた。村の中心部に行くにつれて土産物屋が増えてきて、中心部の教会の前の広場の周りには、レストランが並んでいる。更に行くと、学校やら体育館がある。
(10)プダペスト中心部にまた戻ってきた。人々の群を描いた白い大きな像のある広場に面したカルチャー・カフェに行く。この1858年創業の「カフェ・ジェルボー」は、いわゆる老舗カフェで、まるで、19世紀を彷彿させるようなシックな装飾であり、そこにいるだけで心地よい。
ところが驚くことに、この店では逆で、ウェイターやウェイトレスさんがいつもニコニコしていて非常に愛想が良い。このレストランがいつもお客がいっぱいで流行っている理由が垣間見えた。 願わくはハンガリーで、こういうウェイターやウェイトレスさんのお店がもっと増えることを祈る。そこでケーキとフルーツティーを注文した。ケーキは美味しかったが、いかんせん甘すぎた。ガイドによると、これが普通だそうだ。 (11)夕食は、一種のカルチャーレストランに行った。6人の楽団が演奏しているすぐ前の席に案内された。特等席だ。そこで、ワルツやハンガリー舞曲、そしてたまには蘇州歌曲などを聴きながら食事をする。
肝心の食事内容だが、チキンがいささか大味過ぎて食べられないので難渋していたら、周りの中国人がマレーシア・チリソースを分けてくれた。それをかけたところ、それなりに味が付いて、何とか完食できた。こんな所まで来て、チリソースをかけないと食べられないなんて、有り得ない話のようだが、本当だ。 2.バンスカー・ビストリッツァ(スロバキア) (1)ハンガリーから、東欧の大平原を貫く片側一車線の曲がりくねった道を、バスに乗ってひたすら走る。国境を超えてスロバキアに入ってすぐに、トイレ休憩でガソリンスタンドに立ち寄った。 各自それぞれにユーロコインを持って店員のところに行き、トイレを借りたいと言うと「全員で10ユーロ、男性は外」と言われて女性には鍵を渡された。 「ええーっ、、男性は外って、本当か」と思いながら外に出て周りを見渡すと、それらしき場所はない。建物に沿って歩いて行くと、その建物に外から入るトイレがあったので、全員が安心した。もう、、、笑い話だ。 この日の最初の目的地であるバンスカー・ビストリッツァまであと半時間というところで、バスはやっと高速道路に乗った。行き先表示が一般道路の青色から高速の緑色となり、片側二車線となったので安心だ。 (2)ようやく「バンスカー・ビストリッツァ(Banska Bystrica)」に到着した。市庁舎のある19世紀以来の古風な街並みを抜けて、緩やかな坂を下り、10数分ほど歩いてショッピングモールに行き着いた。その三階にある中華と西洋が混ざったバイキング料理の店が目的地である。サーモンやかっぱ寿司まである。それらを美味しくいただいて、街を散策する。
20世紀の初頭にオーストリア・ハプスブルグ帝国の支配から脱した後、第一次大戦後にチェコと「チェコスロバキア共和国」を構成したものの、ナチスの支配が強まるにつれて、傀儡政権のスロバキア共和国が作られた。これに対して、1944年にここバンスカー・ビストリッツァにおいて、ナチス傀儡政権を打倒する蜂起が起こり、それが遂に成功した。そのことを言うらしい。 (3)市庁舎の前まで戻った。地元に以前からある塔に加えて、黒い塔もある。これは何かというと、旧ソ連が建てた第2次世界大戦の無名戦士の記念碑だという。現在進行中のウクライナ戦争に思いをはせると、こんな歴史的遺物まであるとは、スロバキアも大変だったのだろう。
おかげで今回も、私は昼食代を手持ちのユーロで支払うことができた。さて、ポーランドのクラクフまで、更にバスで5時間の道のりである。かなりの山越えになるらしい。 3.クラクフ(ポーランド) (1)ポーランドに入った。シェンゲン協定のおかげで、ここも国境をバスが通り過ぎただけだ。その前は国境を越えるパスポート検査に1時間はかかったらしい。ポーランドはEU加盟国ながら、通貨はまだユーロを導入していないらしい。1ユーロが、およそ4ズロチという。 ポーランドの面積は日本の約8割、人口は3784万人で、バルト海に面している。国境を接している国を西から時計回りに挙げると、ドイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、リトアニア、そしてロシアの飛地のカリーニングラードである。 ポーランドに入ってからの街の雰囲気は、家が大きくなって、それなりに豊かそうだ。通る道の両脇には三階建てや四階建ての一軒家が立ち並ぶし、その向こうにも多くの家々がある。これに対してスロバキアでは、街に入って道の脇に家があったとしても、その数は僅かだし概ね平屋ばかりで、その向こうには大平原が続いているだけだった。 昔、世界の地理で、ポーランドとチェコは工業国、スロバキアは農業国と習ったことを思い出した。もっとも、ポーランドでも相変わらず、曲がりくねった田舎の一本道が続くが、これほど豊かなのだから高速道路を作ってくれていたら、もっと早く着くはずだ、、、そう思っているうちに、クラクフまであと1時間という所で、ようやく高速道路に乗った。しかも渋滞などないから、バスは気持ちよく走って、今夜から二泊するノボテル・クラクフに到着した。
その後、中央広場までやってきて、「聖マリア大聖堂」の中に入った。聖母マリアに関する様々な場面が描かれたその「ヴィット・スウォシ主祭壇 」の精巧さには驚いたが、それがまた縦に動いて観音開きとなったのでもっとびっくりした。それはそのはず、これはヴィト・ストフォシュ作の木彫で、国宝指定がされているとのこと。
やはり中央広場にある「織物会館」に入る。19世紀に建てられた趣きのある建物だが、中は土産物のアーケードとなっていて、散策するのにちょうど良い。色々な土産物があったが、当地特産の琥珀(Amber)が売られていたのは私には珍しかった。 昼食後、クラクフ南東の郊外にある「ヴィエリチカ岩塩鉱山」に行く。ここは世界最古の14世紀より採掘が始まった岩塩鉱山で、ポーランド王国の繁栄を長年支える重要な財源だった。 これまで、700年間も掘り続けられてきた坑道は、今では全長300km、深さ300m以上にもなっている。鉱山内には、天井が高い礼拝堂や精巧な像があり、どちらも岩塩で作られているとは、俄には信じられないほどの造作となっている。このヴィエリチカ岩塩抗は、クラクフの旧市街とともに、1978年に始まったばかりの世界遺産の初回に登録された。
この日の夕食は、岩塩鉱山近くの地元のレストランだった。まず出て来たのは、ボリュームのある円形のパンの筒である。大きくてびっくりした。その上部が横に切ってあり、それを開けるとスープが入っている。これがまた美味しいのである。もっとも、塩っばかった。
4.アウシュヴィッツ(ポーランド) (1)ポーランド南部クラクフ近郊にある「アウシュヴィッツ(Auschwitz)強制収容所」は、言わずと知れたナチスによるユダヤ人虐殺の跡地である。 同じく第二次世界大戦下で起こった広島長崎への原子爆弾投下による死者は合わせて22万人と言われているが、こちらの強制収容所では、収容されていた10人中の9人、合計100万人にのぼるユダヤ人が殺されたそうだ。残忍なナチスによる狂気としか言いようがない。ちなみに、ドイツとその占領地でナチスに殺されたユダヤ人は、600万人と言われている。
人体実験の棟があった。150人を対象にしたその主任の医師は、戦後はブラジルに逃れて、そこで死んだそうだ。 ガイドに、「ナチスがなぜこれほどまでにユダヤ人を敵視したのか」と聞いた。すると、「良い質問だ。話せば長いが、色々と理由がある中で、自分は主に三つだと思う。 第一は、第1次世界大戦に負けたのは、ユダヤ人の金持ちが英米の側についたからだと信じていたこと。 第二は、ヒットラーの母は乳がんで亡くなったが、その時の医師はユダヤ人だったこと。 第三に、ヒットラーはウィーンの芸術学校に入りたくて2度受験していずれも失敗したが、その時の学長や教授もやはりユダヤ人だったことで、逆恨みをしたのではないかと思っている」と語っていた。 すると、もしヒットラーが絵の才能を認められて芸術学校に入学できていたとしたら、第2次世界大戦と、このユダヤ人の悲劇は起こらなかったかもしれない。そう思うと、何たる歴史の皮肉かと、つくづく感じてしまう。 収容所の境には、何千ボルトの電圧をかけられた二重の電気柵がある。そこを出た所には、死体を焼却した炉があった。ともかく、酸鼻を極めた場所だったが、人間として一度は見ておかなければならないという意味で、避けて通れない所であることは、間違いない。 5.プラハ(チェコ) (1)チェコの首都プラハ(チェコ語Praha、英語Prague)には、私は仕事で 1997年に訪れたことがある。その時は旧ソビエト連邦のくびきからようやく逃れ、しかも隣のスロバキア共和国とも分離独立することができた年だった。 ガイドのサリーによると、15世紀頃にチェックという清教徒がこの地に来て、美しい自然に感動し、住み着いた。それがチェコ王国の始まりとのこと。「プラハ」とは、「未来への第一歩」を意味するそうだ。 この地の月給は、約1500ユーロほど、プラハの生活費は高くて月2500ユーロは必要なので、皆、通勤に1時間ほどかかるが、生活費の安い郊外に住んでいる。 現在のチェコの人口は、1,300万人で、ガイドによれば「人口が少なく、列強の隣国らに蹂躙されてきたので、散々な歴史だった。国旗の赤は、血を象徴し、青は青空、白は清潔を表している」そうだ。 実は私も、1989年のビロード革命の前の1968年の「プラハの春」をよく覚えている。ドプチェクが共産党第一書記に就任して「人間の顔をした社会主義」を推し進めようとしたところ、旧ソビエト連邦の軍事介入に遭い、あえなく潰された事件である。ソ連が戦車を連ねてプラハに侵入し、それを市民が唖然として見ていたテレビ中継がまだ目に浮かぶ。 その時のドプチェク書記は占領軍によってその地位から引きずり下ろされ、遂には故郷で木樵にされてしまった。現在進行中のロシアのウクライナ戦争も、どうかするとその二の舞となっていたところだ。だから、ウクライナには、是非とも勝ってもらいたい。
礼拝堂の一角に、赤の長四角がたくさん描かれた小さな図があった。あまり整然としたものではなくて、中には他と比べて斜めになっていたり、重なっていたりで、バラバラだ。しげしげと見ていると、これは歴代のボヘミア王や聖人が埋葬位置のようだ。 これには驚いた。そのほとんどが我々が歩く床の下なのである。そもそも、そんな遺体を踏みつけて歩いてよいものかと、そちらの方が気になった。ガイドに聞いたら、苦笑いをしていた。そんなものらしい。 (3)「聖イジー教会」があったが、外から見ただけで入ることもなく「旧王宮」に行った。ボヘミア王の居住区だったようだ。中庭に行くと、周囲を3階の廻廊が取り囲んでいる静謐な空間だ。かつて大学としても使われていたらしい。 (4)「黄金小路」に行った。ああ、ここは以前に来たことがある。お目当ては「No.22のカフカの家」だった。「ある朝、起きてみると毒虫に変身していた」という、あの作家だ。
(6)そこから、アンティークの車に乗って坂を降り、一気に「旧市街」まで行った。中世そのものの広場と、そこから四方八方に曲がりくねった小道が続く。プラハは二度にわたる世界大戦でも破壊されなかったから、ここには文字通りの中世の世界が残っている。
(7)プラハの街の真ん中を「ヴルタヴァ川、チェコ語。独語ではモルダウ川、Moldau」が流れている。スメタナの「我が祖国」に出てくる川だ。 その川に架かるのが、「カレル橋(チェコ語)で、15世紀初頭に架けられた最古の橋という。西欧と東欧の交通を繋ぐ大事な役割を果たしていたという。ガイドは、聖チャールズ橋(Saint Charles Bridge )と言っていた。
(8)ところで、今日朝から晩までプラハ城とカレル橋そして旧市街広場を歩き回って、疲れた。歩数は15,607歩で、大したことはない。ところが、道路が石畳みなものだから、厚い靴を履いていても、足が痛くなる。それに、時折りみぞれ混じりの雨まで降って来て、寒い風も吹いてくる。気温は、たぶん0度近くなのだろう。プラハ訪問の時期をあと1ヶ月ほど遅らせれば良かった。 そんな気候にもかかわらず、観光客の数は多い。歩いていると、旧市街地のあの狭い通りでも、肩と肩がぶつかりそうになる。だから、これがもし気候の良いシーズンだったら、さぞかし混み合うだろうと思う。 6.カルロヴィ・ヴァリ(チェコ) (1)チェコ国内にある「カルロヴィ・ヴァリ(チェコKarlovy Vary、英語Carlsbad)」は、いわゆる温泉地で、その中心を流れるテプラ川は、時折り、湯気が立ち上がっている。温泉のせいで水温が高くなっているそうだ。街中で陶器のカップを売っていて、それで温泉が飲めるという趣向は、面白い。 温泉会館のような建物があり、その中では温泉が5メートルほど噴出している。その隣に、まるでローマ帝国の元老院の建物を横に長くしたような廻廊があって、その中に「65度」、「52度」などと書かれた温泉の噴出口が幾つもあり、そこで温泉水が飲める。硫黄のかすかな臭いがするし、温泉の溜まり場はオレンジ色だ。
7.プルゼニ(チェコ) (1)ドイツの軽めのビールの代名詞である「ピルスナー」は、ここボヘミアの地プルゼニ(チェコ語プルゼニュ(Plze?)、ドイツ語・英語Pilsen)で生まれた。ホップの効いた爽やかな淡い色のビールである。なお、ピルセン又はピルゼンはドイツ語で、今はチェコに属してピルゼニュというそうだ。 それでは、せっかく醸造所まで来たのだからということで、ブルーワリーに着いた時、普段はほとんど飲まない私も、昼食とともにピルスナーをいただいた。
(2)ガイドによると、ビールは、良い水と穀物とホップそれに酵母の4つだけで製造するものだそうだ。 水はこの醸造所の地下100メートルから汲み上げているとのこと。ホップはビールに苦味を与えるもので、果実を乾かし、スリ砕いて添加するそうだ。 まず、穀物から糖を作る発酵と、次にその糖からアルコールを作る発酵の二段構えだという。5週間で、出来上がりの由。 地下に置かれていた幾つもの大きな発酵のタンクの一つから、もう発酵が終わるという最後の段階のビールを試飲させてもらった。灯りに透かすと、白く濁っている。文字通りの生ビールである。特に美味しいかと言われれば、、、私がビールの味音痴のせいでもあるのか、まあ普通のビールの味だった。 (3)ちなみに、この地ピルセンは、第二次世界大戦の頃は機関銃の工場があったところで、それを巡る攻防があったところらしい。これから更にバスに乗って、ドイツのミュンヘンに向かう。 8.ミュンヘン(ドイツ) (1)ピルセンからバスで4時間かけて、ようやくミュンヘン(ドイツ語Munchen、英語Munich)に到着した。かつて日米欧の三極がこの地に集まり、特許制度を調和させるために侃侃諤諤の議論を行った。その頃の私は特許庁にいて、事務方の責任者として全力投球した晴れ舞台である。 しかし、いずれの会議も1月の下旬に開かれるのが常で、とっても寒かった。3年続いて行ったが、最初の年は気温が零下20度だった。そんな時に、東京の真冬のつもりで薄いトレンチコート姿で行ったものだから、身体中が凍えてしまった。トレンチコートはもちろん、毛糸のキャップも革靴も全く役に立たない。街を歩くと、靴から地面へ、頭から空中へと、体熱が逃げていくのがハッキリとわかる。 それに懲りて2年目は色々と耐寒服やブーツを取り揃えて行ったのだが、そういう時に限って気温は零度と、前年とは打って変わって暖かかったから、拍子抜けした記憶がある。ちなみに3年目は、零下5度だった。 その他、ミュンヘンでは、ドイツ博物館で特にUボートの展示に感じ入ったこと、マリエン広場で素敵なファッションの老夫婦を見かけたこと、ホーフブロイハウスで酔っ払いから絡まれたこと(後述(3)参照)、ノイシュバンシュタイン城が美しいのに感激したことなどが懐かしい思い出である。 (2)ガイドの先導で、街歩きを始める。まずは二本の玉葱型の塔を持つ「フラウエン教会(聖母大聖堂)」だ。ここには、入ったことがなかった。内部は白い柱が立ち並ぶロココ形式の真っ白な装飾で、軽快な印象を受ける。チェコのプラハの教会のようにゴシックで荘重な感じのものではない。
お昼は、そのホーフブロイハウスで食べることになった。アーチの天井は以前と同じ、6人掛けテーブルがお客さんでごった返しているのも変わらずで、実に懐かしい。
毎時から始まるカラクリ人形を見上げてビデオを撮り、観光客でごった返す広場を見渡す。かつて見かけたようなお洒落なドイツ人夫妻などはもうおらず、普段着の観光客ばかりだ。昔見た、出目金のような魚の噴水が見当たらないと思ったら、広場の端の方にあった。 9.ザルツブルグ(オーストリア) (1)ドイツのミュンヘンから、オーストラリアのザルツブルク(ドイツ語・英語ともにSalzburg)に着いた。ザルツ(塩)+ブルク(城)という名の通り、古代ローマ以来、塩で栄えた街である。 実は私はここにも、昔、特許の仕事の合間に皆で来たことがある(回想録117頁)。雪を抱く山々に周囲を囲まれた美しい街である。ミュージカル映画のサウンド・オブ・ミュージックの舞台としても有名である。 (2)新市街でバスを降り、ザルツブルク大聖堂を訪れる。1000年近い歴史があり、内部は白を基調としたバロック様式で、天井のフレスコ画などが美しい。また、こちらはモーツァルトが洗礼を受けてオルガン奏者として活躍した所だそうだ。 (3)ミラベル宮殿というのがあった。庭園が綺麗だ。その入り口を覆うように斜めになっている二つの像を見て思い出した。サウンド・オブ・ミュージックでは、ここで踊って歌っていた。聞くと確かにその通りだった。
旧市街は、その街並みが美しい。太い壁のようなものが二つあり、その上に家が作られている。これは、街を囲んでいた二重の城壁を崩さずに利用しているそうだ。面白いことに、そうした壁にトンネルをくり抜いて、そこから自由に通りに出られるようになっている。 (5)ゲトライデ通りにあるモーツァルトの生家に行った。色鮮やかな黄色が目立つ外観だから、直ぐにわかる。この家には、モーツァルトの家族が 1747年から住みはじめて、1756年にモーツァルトが生まれたそうだ。そして20数年間住んだという。ただ、父の収入が乏しくなり、借家に移ったとのこと。
モーツァルトは音楽家の父を持ち、幼少の頃から神童として名高く、そのせいでヨーロッパ各地の王宮を訪ねて腕前を披露したそうだ。その足跡を示した地図があったが、文字通りヨーロッパをくまなく回っている。その旅の疲れのせいだろうか、36歳の若さで亡くなってしまった。
10.ハルシュタット(オーストリア) (1)ハルシュタット(Hallstadt)は、世界一美しい世界遺産とされる景勝地である。眼前に広がる美しい湖、その向こうの突き出た半島、更にその向こうの対岸に広がるスイスのような街並みが綺麗だ。目線を上にあげれば山々が連なり、更に遠くの山は雪を頂いている。今は3月末だが、5月にもなると、野原は色とりどりの花々でいっぱいになるそうだ。
(3)ハルシュタットの街中に降りてみると、教会の脇に広場があり、そこに曲がりくねった道が続いているのは、ドイツ圏の街並みの特徴である。そうして広場に面しているレストランに入って食事をした。ちなみに、ガイドによるとこの街の人口は750人であるが、年間60万人の観光客が訪れるそうだ。
11.ウィーン(オーストリア) (1)やっと、音楽の街ウィーン(ドイツ語Wien、英語Vienna)に到着した。オーストリアの首都である。ガイドによると、「オーストリア」は、東(オスト)のマルケ(辺境)という意味で、フランク王国のカール大帝が命名した。それがラテン読みで現在のようになったという。 オーストリアの人口は910万人、そのうちウィーンには189万人が住み、文化、交通、医療、治安などの面で世界で一番住みやすいと言われているという。とりわけ、中東欧に名を馳せたハプスブルク王朝時代の豪華絢爛としか言いようがない宮殿、楽友会館など文化施設、自然に触れられる公園や緑地などは、非常に素晴らしいと思う。音楽の都らしく、あちこちに演奏会などの掲示があった。
神聖ローマ帝国のマリア・テレジア皇后と夫フランツ1世との間の16人の子供たちの部屋がそのまま残してあり、王家の肖像画が描かれている。ちなみに、ブルボン王朝のルイ16世に嫁いでフランス革命で処刑されマリーアントアネットは、その下から2番目の末子だそうな。可哀想に38歳の若さでギロチンの露となった。他の兄弟とともにいるその子供の頃の肖像画もあった。 ガイドによると、この宮殿は、第二次世界大戦で爆撃を受けたが、幸い不発弾だったために部屋の一角に穴を開けただけで、爆発はしなかったそうだ。
12.後日談 (1)今回のように、マレーシアの旅行社で編成されたツアーに参加するのは、昨年5月のニュージーランド、10月のスイスに次いで今回が3回目となる。 これがもし日本のツアーだと、参加者の間で直ぐに職業だの社会的地位だのという詮索が始まって煩わしいことこの上ない。ところが、マレーシア発の旅行だと、「あんた誰」と聞かれて単に「I am a lawyer. Formerly I was working in KL」とでも言っておけば、それで済むから、気楽である。 今回も、参加者は、私が日本人だと知って、無理して日本語で話しかけてくる人ばかりで、人柄が良い。それに、添乗員が昨年のスイス旅行の時と同一人物なので、私が写真好きだと知っていてあらかじめ撮影ポイントを知らせてくれるなど、気心が知れているので助かった。 (2)参加者の中で、最も印象に残った人がいる。会計事務所(所員10人)を経営する70歳の女性である。31歳の三男と来ていて、スタスタと歩く。ただ、階段になるとその三男は、さりげなく手を支えてあげている。そんな孝行息子と母親である。 しかも、その孝行息子は、英国留学を終えてあちらの公認会計士の資格を取得済みで、今や母親の事務所を引き継ぐ後継者と目されている。話してみると、穏やかなインテリという印象で、参加者の誰からも「あんな息子が私にも居たら良かったのに」と羨まれるほどである。 驚いたのは、その母親と話した時に、「自分は42歳の時に、脳梗塞に見舞われて、一時は半身不随で言葉も出てこなかった。この子はまだ幼く、その上に二人の男の子もいたから、一時は絶望した」というので、私はびっくりして「では、どうしてそれほどの健康体に回復されたんですか」と聞くと、「鍼と意志の力」だと言う。 「発症直後、半身不随で倒れて病院にかつぎこまれたが、手の施しようがないと言われて自宅に戻されてしまいました。もう絶望しかなかった。 でも翌日に親類の者がやってきて、『鍼』を勧められたので世界が変わった。藁をも掴む思いで行ってみると、頭に何本か打たれました。すると、かなりよくなって、頭が晴れていくのを感じたのです。 それとともに、まるで牛歩のようですが、脚が少し動くようになったので、歩行訓練を始めたんです。自宅マンションを一周すると、普段は20分かかるのですが、そんな自分が歩くと2時間もかかるんです。情けないったらありはしない。 しかし、『幼い子供たちを路頭に迷わせるわけにはいかない』と思って必死に頑張った。そうすると、次第に早く歩けるようになり、それにつれて言葉も出るようになったというわけです。だから、鍼と自分の『早く治りたい』という意志の力ですね」とおっしゃるので、つくづく感心してしまった。この人に会えただけでも、今回の旅は良かったと言えよう。 (4)さて、話題を変える。私はこれまで34か国を旅行してきたが、今回はそれに、ハンガリー、スロバキア、ポーランドが加わって、37か国となった。70歳代のまだまだ元気なうちに、添乗員付きのツアーで50か国まで持っていきたいと願っている。 狙い目は、やはりヨーロッパ各国で、ポルトガル、バルト三国、スカンジナビア三国である。これらに全て行くとしても、47か国だ。それと、、、ギリシャ、トルコ、アドリア海沿岸のクロアチアとスロベニアに行くとすれば、48か国になる。 あとふたつか、、、手軽なのはモンゴル、遠くて危ないがブラジルのカーニバルという選択肢があるが、どちらもあまり気が進まない。かつてはモロッコに行って砂漠をラクダで歩こうかとも思っていたが、地震が起こって間もないから、やめておいた方が無難だ。 (5)私がもう少し年をとって海外ツアーの参加に疲れを覚えるようになったら、もう国の数はどうでもよい。出来れば親しい人同士で往復の航空券とホテルを確保し、1か所滞在型にしよう。そうすると、身体が楽だし、異国の都会生活を楽しめる。お互いの見守りもできる。 候補地としては、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコ、バンクーバー、ミュンヘン、ウィーン、プラハなどを考えている。 中国の九寨溝やシーサバンナにも行ってみたいが、前者は地震が起こったばかりだし、そもそも中国だと景色にカメラを向けているのに、昨今の習近平体制の下ではスパイだと言われて突然拘束されたりしそうだ。もちろんそんなとんでもない事態は避けたいので、全然行く気がしない。 (6)やがて、海外に行くのが体力的に難しくなる日が来るかもしれない。とりわけ、時差が身体に響くだろう。そうなると、国内に回帰して、京都、名古屋などの土地勘のある懐かしい都市や、津和野、白馬、安比高原、富良野・美瑛など自然豊かなリゾート地に長期滞在するのも良いだろう、、、ということで、旅を楽しんで、ここしばらくは過ごしたいと思っている。 (7)また例の通り、海外での日本のプレゼンスの低下を嘆くことになるのだが、私がハンガリーに到着して、スロバキア→チェコ→ポーランドと移動する先で日本人に会ったことがない。出会うのは中国人と韓国人の団体客ばかりだ。ポーランドのアウシュヴィッツでは、英語とドイツ語にまざって中国語と韓国語の解説文はあるものの、日本語はない。こういう所にこそ日本人がやって来て、広島長崎に落とされた原爆による被害に思いを馳せ、戦争と残虐非道を感じなければいけないのにと思うのだけど、全く残念に思う。 日本人に出会ったのは、オーストリアのザルツブルクで、それも黒い制服を着たカラスのような男の子達の一団だ。ミラベル宮殿とモーツァルトの生家で鉢合わせした。聞いてみると、名古屋の東海中学の修学旅行らしい。実は私も、高校入試で旭丘と東海に合格していたから、もしかするとこの子たちの先輩になっていたかと思うと、世の中は面白いものである。 しかし、中学の修学旅行が欧州とは、なかなか裕福な家庭のご子息たちである。私の家は、下に妹が二人もいたから、大学卒業時にも、海外旅行に行かせてほしいとは、親にとても言い出せなかった。 次に日本人と出会ったのは、ウィーン空港である。10数人の女性がぞろぞろ歩いてくる。中には、バイオリンを担いでいる人も何人かいる。年齢はまちまちだ。遠くから、これは日本人の団体客に違いないとすぐに分かった。というのは、女性の多くがいずれも背が低くガリガリに痩せていて、顔付きが幼いのである。日本の旅行社の旗を持った添乗員がいたから、間違いない。 それにしても、我が同胞はなぜこんなに、、、ハッキリ言うと、体格も見た目も貧相な人が多いのかと残念に思う。しかも、内に秘めた溢れるような生活力がほとんど感じられないのである。例えて言えば、小学生がそのまま大人になったようなものだ。 ダイエットのせいか、勉強しすぎたのか、日頃苦労というものをしないせいか、あるいは過保護に育てられすぎたのか、何が原因なのかさっぱり分からない。この東欧の国々で、背丈が高くて体格も良くて、さあ何でもドーンと来いという感じの女性ばかりを見てきたから、尚更そう思うのかもしれない。 日本も、昭和の高度経済成長期には、男性も女性もそういう底知れない生活力のある人ばかりだったと思うのだけど、これが平成から令和へと天下泰平の状況下で進んだそのなれの果てである。それはそれで平和で良いのだけど、その一方、こんな調子では、GNPがドイツに抜かれて今や世界第4位に落ちたというのも、致し方のない事だと納得するしかない。 (8)今回の中東欧の旅を振り返って嫌だったことを挙げておくと、次のようなことだ。 (ア) 喫煙者が多い。もちろん建物の中では吸わないが、ホテルに入ろうとすると入口の脇で吸っていたり、あるいは公園では綺麗な空気の代わりにタバコの煙が漂ってくる。タバコの煙を避けたい私としては、本当に困る。 ちなみに、世界の喫煙率(WHO公表 2023年5月19日)は、ハンガリー31.8%、スロバキア31.5%、チェコ30.7%、オーストラリア26.4%、ポーランド24.0%である。これに対して日本は20.1%だから、これらの国はそう高い方ではないけれども、それにしても老若男女を問わず、他人に気を使わずに堂々と吸っているからなおさら目立つ。 (イ) 観光地では、物乞いがよく目に留まる。チェコのプラハ城やオーストリアのウィーン歴史地区などには必ずいて、せっかくの浮き浮きした観光気分が台無しだ。なんとかならないものか。社会福祉政策が行き届いていないからか、それともこれを職業としているせいなのか、よく分からない。 (ウ) 落書きが、特にウィーンには、もう耐え難いほどあちこちに見受けられる。景観が台無しだ。それでもさすがに日常使われている建築物にはあまりないが、例えば立体交差道路で両脇がコンクリートの壁には、必ずと言ってよいほど、赤や黒のペンキで美観を損なう落書きがされている。こういうものは直ちに消して、かつ徹底的に取り締まるべきだろう。 (令和6年4月2日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |

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