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![]() 1.バルカン半島の歴史 (1)古代から中世まで バルカン半島(Balkan Peninsula)は、ヨーロッパとアジアを結ぶ戦略的な要衝である。その歴史を見ると、数々の民族、帝国、文化が交錯し、二つの世界大戦や旧ユーゴスラビアを巡る紛争など激動と変遷を繰り返してきた。 古代には、古代ギリシャ文明の影響を強く受けた後、バルカン半島の大部分はローマ帝国の支配下に入り、ローマ文化が深く浸透した。 中世には、スラヴ人がこの地域に大規模に移住し、現在の民族構成の基盤を築いた。この地域の覇権は、ビザンツ帝国、ブルガリア帝国、セルビア王国などの間で絶えず争われた。 特に14世紀中頃のセルビア帝国は強力で、バルカン半島の広大な領域を占めた。ところが、14世紀後半からオスマン帝国がこの地に侵攻し、コソボの戦い(1389年)を経て、約500年間にわたる支配が始まった。 このオスマン帝国の支配下で、多くの住民がイスラム教に改宗した。これにより、キリスト教(セルビア正教、カトリック)とイスラム教が共存する複雑な多民族・多宗教社会が形成された。この時代に培われた民族的・宗教的アイデンティティは、現代のバルカン半島の紛争にも深く影響している。 (2)第一次世界大戦 19世紀に入ると、オスマン帝国の力が衰え、ギリシャやセルビアなどで民族主義が高まった。1912年から1913年にかけて、バルカン諸国はオスマン帝国に宣戦布告し、オスマン帝国を半島からほぼ駆逐した。この戦争で国境が大きく変動し、後の第一次世界大戦の遠因の一つとなった。 そうした中、サラエボ事件が起こった。1914年6月28日に、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの首都サラエボで暗殺されたのである。 セルビアはボスニアの併合を夢見ていたが、両者の統一を妨げる存在として、暗殺者は大公を狙った。大公を失ったオーストリア=ハンガリー帝国は、暗殺事件の背後にセルビア政府が関与していると非難し、これに宣戦布告をした。 かくして、一つの暗殺事件が、複雑な軍事同盟の連鎖反応を引き起こし、わずか数週間のうちにヨーロッパ全体を巻き込む第一次世界大戦へと発展した。戦後、バルカン半島にはユーゴスラビア王国が成立し、セルビア、クロアチア、スロベニアなどが一つの国家に統合されたが、民族の対立が続いた。 (3)第二次世界大戦 第二次世界大戦中、枢軸国がソ連への侵攻のため、バルカン半島に目を付けた。まずイタリアがギリシャを攻撃したが、逆に押し返された。そこでドイツが介入し、ユーゴスラビアとギリシャを電撃的に占領した。 占領下のユーゴスラビアでは、後に大統領となるチトーがパルチザンを率い、王党派のセルビア民族主義ゲリラ組織と枢軸国占領軍との三つ巴の戦いを繰り広げた。最終的には連合軍の支援を受けたチトーが自力でユーゴスラビアを解放した。チトーは、戦後、ソ連とは一線を画した独自の社会主義路線を歩む強力な指導者となった。 戦後の冷戦下では、バルカン半島の各国は、社会主義国(ユーゴスラビア、アルバニア、ルーマニア、ブルガリア)と、西側陣営に属する唯一の国(ギリシャ)に分断された。 (4)旧ユーゴスラビア紛争 バルカン半島は、多様な宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)、多数の言語(クロアチア語、スロベニア語、セルビア語、マケドニア語)、多様な民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、ボシュニャク人(ムスリム))や、多くの小国(クロアチア、スロベニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、北マケドニア、コソボ)が存在する複雑な地域である。それぞれ政治的・人種的対立を抱えながらも、第二次世界大戦の英雄チトーが存命の頃は、ユーゴスラビア連邦として何とかまとまっていた。 しかし、そのチトー大統領が1980年に亡くなると、各国が対立し始め、ベルリンの壁が崩壊して半年後の1990年にクロアチアが独立の動きを見せ、翌1991年にはスロベニアとともに完全独立を宣言した。この動きを阻止しようと、セルビア人勢力が武力を行使し、内戦に突入した。内陸国のセルビアはアドリア海への出口を求め、最南端の中世の城壁都市ドゥブロヴニクやクロアチア中部のプリトヴィツェ湖群国立公園などの世界遺産まで一時占領されたが、1995年にクロアチアがそれらを奪還し、1998年までこの戦争は続いた。 この間、特にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ではセルビアによる「民族浄化」と呼ばれる非人道的な行為が行われ、判明しただけでも8,000人の犠牲者を出した。紛争後、ユーゴスラビアは7つの独立国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア、コソボ)に分裂した。 この一連の紛争による死者および行方不明者数は、クロアチア側で15,000人、セルビア側で8,000人、難民はクロアチア側で20万人、セルビア側で45万人とされている。(参考にしたサイト) かくして、現在も、バルカン半島は経済発展を進める一方で、民族間の和解や政治的安定という課題に直面している。 2.今回の旅の行程 今回の旅は、羽田空港からトルコのイスタンブールに跳び、そこから、バルカン半島に入った。行程は、北マケドニアの首都スコピエ → コソボの首都プリシュティナ → コソボのプリズレン → 再び北マケドニアのオフリド湖 → アルバニアの首都ティラナ → モンテネグロのコトル → ボスニア・ヘルツェゴビナの古都モスタル → ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ → セルビアの首都ベルドグラード → イスタンブールというものである。要は、時計回りに一筆書きを半周するようなものだ。
3.北マケドニア (1)北マケドニアの歴史 古代には、紀元前4世紀、現在のギリシャ北部を拠点とした古代マケドニア王国があった。そのアレクサンドロス大王の時代にペルシア帝国とエジプトを征服し、更にインドまで遠征して史上稀に見る大帝国を築いた。 しかし、大王の死後に帝国は分裂し、この地域は次第にローマ帝国の支配下に入った。その古代マケドニア王国と現在の北マケドニアの住民(スラヴ系)との直接的な血縁関係は薄いとされているが、この「マケドニア」という呼称が、後のギリシャとの間で深刻な国名問題を引き起こすことになった。 6世紀頃から、スラヴ人がこの地域に移住し、次第に住民の主流を占めるようになった。中世に至るまで、ビザンツ帝国や第一次ブルガリア帝国、セルビア王国などが次々に興亡し、文化や民族構成が複雑に混ざり合っていった。加えて15世紀から5世紀以上にわたってオスマン帝国の支配下に置かれ、イスラム教徒の住民も増加した。この時代の歴史は、首都スコピエのオールド・バザール(旧市街)に今も色濃く残っている。 近代になると、20世紀初頭の二次にわたるバルカン戦争の結果、歴史的なマケドニア地域は、セルビア、ギリシャ、ブルガリアの3か国によって分割された。現在の北マケドニアの領域は、その大部分がセルビア領となった。 第一次世界大戦後、この地域は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(後のユーゴスラビア王国)の一部となった。第二次世界大戦後、社会主義国ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国である「マケドニア人民共和国」となり、マケドニア人は初めて自らの国家を持つことになった。 1991年、ユーゴスラビアの解体に伴い、マケドニア共和国として独立を宣言した。ユーゴスラビア構成国の中で、唯一紛争を経験することなく比較的平和的に独立を果たした。しかし、国名に「マケドニア」を使用したことが、隣国ギリシャとの間で大きな対立を引き起こした。 ギリシャは、アレクサンドロス大王に代表される古代マケドニア王国の歴史はギリシャ固有のものであり、「マケドニア」の名称は自国の領土への野心を示すものだと主張した。この問題により、マケドニアは長年、国際連合への加盟やEUとNATOへの加盟が阻まれてきた。 昔のマケドニアの版図を現代の国の地図に当てはめると、その5割が今のギリシャ、4割が北マケドニア、残る1割がブルガリアに分割された。そういう意味では、ギリシャの主張もあながち理由がないわけではない。 長年にわたる交渉の末、2018年にギリシャとの間で「プレスパ合意」が締結され、翌2019年、正式な国名を「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」に変更し、ここに長年の懸案に終止符を打った。これにより、ギリシャとの関係が改善し、2020年にはNATOへの正式加盟が実現した。現在の国全体の人口は180万人、首都スコピエに限ると55万人と言われる。キリスト教徒(マケドニア正教徒)が7割、イスラム教徒が3割である。 (2)首都スコピエ 空港からスコピエに行く途中、ミレニアム十字架が山の上にあった。高さ66メートル、西暦2000年を記念して作られた世界最大の十字架とのこと。
市内に入った。まず目に入ったのが、「マザー・テレサ記念館(Memorial House of Mother Teresa)」である。ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサはてっきりコソボの人だと思っていたが、ここスコピエは彼女の生誕地だそうだ。彼女が洗礼を受けたカトリック教会の跡地に建てられたのがこの記念館の由。
そこから「石橋(Stone Bridge)」を渡った。これは、ヴァルダル川に架かる橋で、15世紀に建造されたものである。マケドニア広場と旧市街(スタラ・チャルシヤ)を結んでおり、橋の上からは美しい川の景色や周辺の建物を眺めることができる。
(3)オフリド湖 いったん、次のコソボに行ってから再び北マケドニアに戻り、オフリド湖に向かう。これは、北マケドニアとアルバニアの国境に位置しており、バルカン半島で最も深い湖(288m)とのこと。地殻が引き裂かれて地溝ができ、そこに水が流入して形成されたという。 オフリドは、風景と文化の両方が味わえる湖岸のリゾートとしてヨーロッパではよく知られている。山々に囲まれた標高700mの高原にあって、その美しい自然と豊かな歴史・文化が評価され、ユネスコの世界複合遺産に登録されている。
そこでひと休みした後、要塞に向かう。これは、オフリドの街を見下ろす小高い丘の上に位置しているから、見晴らしは抜群という話だった。ところが、途中で挫けた人がいたので皆で引き返し、次の有名な教会に向かう。
湖畔には遊歩道が整備されており、カフェやレストランで休憩しながら、のんびりと湖の景色を楽しむことができ、湖の上のボートからそれらを見ても素晴らしい。
なかでもこの地オフリドは、彼らの弟子である聖クリメントが文字学校を設立した場所であり、その教え子がスラブの各地に散ってキリル文字を広めた。この像は、彼らの功績とオフリドが果たした役割を記念して建てられた。 4.コソボ (1)コソボの歴史 中世のコソボ(Kosovo)は、6世紀から7世紀にかけてスラヴ人が定住し、セルビア王国の領土となった。コソボはセルビア人にとって政治的・宗教的な中心地となり、多くの教会や修道院が建設された。特に14世紀に建てられたグラチャニツァ修道院などは、現在もセルビア正教会の重要な文化財として残っている。 セルビア王国は、1389年にコソボでオスマン帝国と戦い、敗北した。これは、セルビア人にとって民族的な悲劇として後世まで語り継がれ、コソボを「聖地」と見なすセルビア人のアイデンティティを形成した。 この戦いの後、コソボは5世紀にわたるオスマン帝国の支配下に入った。この期間に、多くのアルバニア系住民がイスラム教に改宗し、その反面、セルビア人は帝国の報復を恐れて逃げ出す者が多かった。 近代になり、バルカン戦争(1912〜1913年)を経て、コソボはセルビア王国に編入された。その後、ユーゴスラビア王国の一部になった。 第二次世界大戦後、コソボはユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のセルビア共和国に属する自治州とされた。ユーゴスラビアの指導者チトー大統領は、セルビアの民族主義を抑制するために、コソボのアルバニア系住民に一定の自治権を与えた。1974年の憲法改正では、コソボは独自の政府や議会を持つなど、大幅な自治権を獲得した。 1980年代後半、セルビア共和国のミロシェヴィッチ政権がコソボの自治権を剥奪したことで、アルバニア系住民とセルビア系住民の対立がその頂点に達した。アルバニア系住民は独自の政治組織を立ち上げ、セルビアからの独立を求めるようになった。 1998年〜1999年の間、独立を求めるアルバニア系武装組織コソボ解放軍(KLA)と、それを阻止しようとするセルビア軍・警察との間で武力衝突が発生した。紛争は人道危機に発展し、多くのアルバニア系住民が難民となった。このセルビアによる人道危機に対し、NATOが国連安保理決議を経ずにユーゴスラビア(セルビア)への空爆を開始し、アメリカもそれに加わった。空爆後、コソボは国連の暫定統治下に置かれた。 国際社会による協議が難航する中、2008年2月17日にコソボ議会が一方的にセルビアからの独立を宣言した。現在、日本を含む多くの国々がコソボを国家として承認しているが、セルビアやロシア、中国などは依然として承認には至っていない。 (2)首都プリシュティナ コソボの首都プリシュティナに入る前に、郊外で「グラチャニツァ修道院」に立ち寄った。ここは、1321年に建てられたセルビア正教の重要な修道院である。非常に美しいフレスコ画で知られ、ユネスコの世界遺産に登録されている。
ちなみにこの教会は、当時65歳だったビザンチン皇帝が15歳のセルビア王女と政略結婚をした時の同王女に対する贈り物だったそうだ。その頃、金の15倍も高価だったアフガニスタンのラピスラズリの青色がふんだんに使われている。 王女専用の祈りの場所があるというが、それらしき階段のようなものはない。すると、太い柱の一つの中に、人がひとりやっと登れるような階段が隠されていた。日本の忍者屋敷のような仕組みの階段があるとは思わなかった。 プリシュティナは、コソボの現在の首都で、2008年に独立した比較的新しいこの国を象徴している、、、と言いたいところだが、その歴史の浅さは否めない。共産党時代の建物、オスマン帝国時代の建物、そして現代的過ぎる建物が無秩序に混在していて、街を回ってみても、どこか腑に落ちないのである。 それもそのはずで、元々はムスリムの集落があったところに、コソボの激動の時代を経て2008年に首都になったばかりだ。そもそも国全体の人口160万人、そのうち55%が30歳以下の若い国だから、まあこれからというところだろう。 中心部の主要観光スポットとしては、まずは「マザー・テレサ大聖堂」がある。これは、この地コソボ出身のマザー・テレサを称えて建てられたもので、現代的なデザインのカトリック教会である。まるで街を睥睨するような高い建物だ。
テレサ大聖堂の脇にあって、プリシュティナで最も目を引く建築物が「コソボ国立図書館」である。これを設計したのは、クロアチア人の建築家であるアンドリヤ・ムトニャコヴィッチで、1971年の設計、82年の完成。
(3)古都プリズレン コソボ南部に位置するプリズレン市は、歴史的な街並みと文化的な多様性が魅力的な古都である。街の中央を流れるルンバルド川とその上に架かる可愛い石橋、そして丘の上にそびえる要塞が、美しい景観を作り出している。 とりわけ旧市街には、オスマン帝国時代の名残が色濃く残り、石畳の道や伝統的な家屋が魅力的な雰囲気を醸し出している。あの雑多なものが寄せ集まる都市プリシュティナとは違って、こちらの風景はオスマン風で統一され、辺りにしっくりと馴染んでいる。
そのモスクの更に向こうまで歩いた「聖母リェヴィシャ教会(Church of Our Lady of Lejevis)」は、14世紀に建てられたセルビア正教の教会である。美しいフレスコ画が評価され、ユネスコの世界遺産に登録されている。長年隠されてきたマリアの像は、実に美しい。
マザー・テレサの母が洗礼を受けた「レトニツァの聖母マリア教会 (Church of the Madonna of Letnica)」 が、ホテルのすぐそばにあった。イタリア人の尼さんが守っている。このカトリック教会は、マザー・テレサが修道女になる決意を固めた場所として知られており、コソボにおける重要な巡礼地となっている。 5.アルバニア (1)アルバニアの歴史 現在のアルバニアの地に最初に定住したのはイリュリア人で、古代インド・ヨーロッパ語族に属する。現代のアルバニア人は、このイリュリア人の子孫であると考えられている。古代の紀元前2世紀にはローマ帝国の支配下に入り、その後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の一部となった。 中世の14世紀に入ると、セルビア王国の勢力が拡大し、アルバニアの大部分がその支配下に置かれた。15世紀のオスマン帝国の侵攻に対し、アルバニアの貴族スカンデルベグが抵抗運動を主導した。彼はオスマン帝国軍を度々撃退し、アルバニアの国民的英雄として今も称えられている。ところが、彼の死後、抵抗は衰え、アルバニアはオスマン帝国の支配下に入った。 オスマン帝国は、15世紀から20世紀までの500年近くにわたってアルバニアを支配したが、これによりイスラム教徒が多数派となった。この時代、アルバニアは帝国の中で重要な役割を果たし、多くのアルバニア出身者が帝国の官僚や軍人として活躍した。 1912年、第一次バルカン戦争の混乱に乗じて、アルバニアはオスマン帝国からの独立を宣言し、オスマン帝国から独立した最後のバルカン諸国となった。 1939年、アルバニアはイタリアに侵攻され、第二次世界大戦中はそのファシスト政権の支配下に置かれた。大戦後、パルチザン運動を率いたエンヴェル・ホッジャが政権を掌握し、アルバニア社会主義人民共和国が樹立された。 ホッジャは、スターリン主義に基づく厳格な共産主義体制を築き、国家を完全に閉鎖した。これは極端な孤立主義で、まずソ連、次いで中国とも関係を断った。 加えて 1967年には世界初の無神国家を宣言し、すべての宗教施設を閉鎖・破壊した、しかも潜在的な外国からの侵攻に備え、国中に70万個もの小さなコンクリート製のバンカー(地下壕)が建設された。もう、パラノイアの産物としか言いようがない。 現在もその多くが残っており、一見すると、まるで出来の悪いロボットの頭のようだが、かえってそれが面白くて、観光名所になっているほどである。田舎の山岳地帯にもあったし、首都の政府機関の横にもあり、国中至るところに存在する。近くのバンカー同士は、地下で繋がっているらしい。 1985年にホッジャが死去し、1990年代初頭に民主化運動が活発になった。1992年に初の複数政党制選挙が実施され、共産党の一党独裁体制はここに終焉を迎えた。民主化後のアルバニアは、経済の混乱や組織犯罪、腐敗などの問題に直面している。しかし、近年は観光業が成長しており、EU加盟を目指して改革を進めている。 (2)首都ティラナ アルバニアの首都ティラナは、共産主義時代の歴史と、カラフルでモダンな街並みがいささかアンバランスなのに併存する不思議な街である。例えば、次に述べるスカンデルベグの顔を模した建物が建設中で、完成まであと2年だそうだ。眺めていると、そう言えば人の顔のようにも見える。もう少し眺めていると、何とまあ、スカンデルベグの顔かもしれないという気がするから不思議なものである。
ティラナの中心には、広大な「スカンデルベグ広場 (Skanderbeg Square)」がある。その真ん中には、アルバニアの国民的英雄であるスカンデルベグの騎馬像が立っている。
本来ヤギは、山岳地帯に住む動物であることから、険しい岩場でも力強く生き抜き、独立心や頑強さの象徴と見なされることがある。スカンデルベグがオスマン帝国という大国と戦い、アルバニアの独立を守ろうとした姿は、まさにそのヤギのイメージと重なるそうだ。 もっとも、キリスト教の伝統においては、ヤギは悪魔や異端の象徴としてネガティブなイメージがないわけではない。しかしそれでも、スカンデルベグの場合は、そのような宗教的な意味合いより、彼の個人的な勇敢さや、アルバニアの地理的・文化的な背景に根ざした象徴として好意的に解釈されているとのこと。だから、ヤギの兜を被った彼の像が、街頭のあちらこちらにあるというわけだ。
6.モンテネグロ (1)モンテネグロの歴史 モンテネグロは、小国でありながらも、その地理的条件から常に外敵からの影響に晒されていた。その中で、独自のアイデンティティと独立性を守り抜いてきたことが特徴的である。 9世紀頃からこの地にはスラヴ人が定住し、ドゥクリャ(Duklja)と呼ばれる最初の国家が形成された。その後、中世の14世紀にはゼータ公国(Zeta)として知られるようになり、これらの国は、現在のモンテネグロの母体と考えられている。 15世紀、オスマン帝国がバルカン半島を席巻する中、モンテネグロはその地形的な利点と、ツェティニェに拠点を置く司教(大主教)の指導のもとで、ほぼ独立した状態を維持し続けた。このため、他のバルカン諸国がオスマン帝国の支配下に入る中にあって、モンテネグロは独自のアイデンティティを保つことができた。 露土戦争後の1878年のベルリン会議で、モンテネグロは国際的に独立国家として承認され、1910年には公国からモンテネグロ王国となり、ニコラ1世が国王に即位した。 第一次世界大戦後、モンテネグロはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)に統合された。第二次世界大戦後、モンテネグロはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国の一つとなった。 1991年から1992年にかけてユーゴスラビアが解体していく中、モンテネグロはセルビアとともに新ユーゴスラビア連邦共和国(2003年にセルビア・モンテネグロに改称)を形成し た。 ところが、2006年5月、モンテネグロは独立を問う国民投票を実施し、賛成多数でセルビアからの分離・独立を決定した。これにより、モンテネグロは国際的に承認された独立国家となり、現代のモンテネグロが誕生した。現在、モンテネグロは観光業を主要産業とし、EUやNATOへの加盟を目指すなど、国際社会での地位を固めつつある。 ただまあ、実際に行ってみると、主要都市間でも、道路事情が悪い。くねくね道の一車線ばかりで、渋滞ばかりだ。だからこそなのだろうが、あちこちで拡幅の道路工事をしているから、それが深刻な渋滞にますます拍車をかけている。こんなことでは、観光立国が泣く。これが落ち着くには、あと5年はかかるだろう。 面白いのは、モンテネグロの若き首相ミロイコ・スパイッチ氏(37歳)が、日本語が実に達者なことで、大阪万博に来日した時に知った。各国の元首級で日本語がこれほど話せる人はいない。大切にすべきである。 ちなみに、イタリア語で「Montenegro(モンテネグロ)」とは、「黒い山」という意味だ。すなわち、「Monte」が「山」、「Negro」が「黒い」を意味する。これは、モンテネグロ国内にあるロヴチェン山など、黒っぽい山々の見た目に由来していると言われている。 (2)古都コトル モンテネグロ南部のコトル湾の奥に位置するコトルは、モンテネグロを代表する観光地の一つで、美しい自然と歴史的な街並みが評価され、「コトルの自然と文化歴史地域」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
コトルでよく目立つのは、街を囲む巨大な岩山に設けられた全長約4.5kmの城壁である。これは、ヴェネツィア共和国時代にオスマン帝国の侵入を防ぐために築かれた。
7.ボスニア・ヘルツェゴビナ (1)ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史 ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は、その多民族・多宗教という複雑なアイデンティティが形成される過程そのものであり、度重なる支配と紛争の歴史でもある。 7世紀頃からスラヴ人がこの地域に定住した。12世紀には独自のボスニア王国が成立した。この王国は、ローマ・カトリック教会、東方正教会とは異なる独自の宗派である「ボスニア教会」の信仰を特徴としていた。 15世紀、オスマン帝国がこの地を征服し、400年以上にわたる支配が始まった。この期間に、多くのボスニア人がオスマン帝国の影響でイスラム教に改宗し、ボシュニャク人として知られる民族集団が形成された。 1878年のベルリン会議では、オスマン帝国から独立することができたセルビアやモンテネグロとは運命を異にし、残念ながらボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国に占領された。そして1908年には正式に併合されてしまった。この併合は、セルビアを刺激し、第一次世界大戦の遠因の一つとなった。 第一次世界大戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部となった。 第二次世界大戦後には、チトー率いるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国となった。チトー政権は、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の「民族の兄弟愛と統一」を掲げ、多民族共生を推進した。この時期には、それぞれの民族が独自の文化を維持しつつ、一定の平和が保たれた。 ところが、1991年から1992年にかけてユーゴスラビアが解体する中、セルビアとクロアチアに挟まれたボスニア・ヘルツェゴビナでは、独立を巡る民族間の対立が激化した。そうした中で、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言したことで、セルビア系住民による独立阻止の試みとして、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。 セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の3民族がそれぞれ独自の軍事組織を編成し、悲惨極まる激しい内戦となった。特に、セルビア系勢力による「民族浄化」と呼ばれる非人道的な行為や、首都サラエボの3年以上にわたる包囲は、この紛争の悲劇を象徴している。 1995年、内戦はデイトン合意によって終結した。この合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク人とクロアチア人の主体であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人の主体であるスルプスカ共和国という、二つの構成主体からなる複雑な国家体制が築かれた。 ちなみに、これら二つの主体は、それぞれ独自の議会、大統領、政府、警察を持ち、広範な自治権を有している。しかし、外交や国防、通貨といった重要事項は、サラエボにある中央政府が管轄している。 現在も、長年にわたる民族間の対立は全然解消されておらず、こうした複雑な政治構造が国家の安定と発展を阻む課題となっている。 ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗は、青地に黄色の逆三角形と、8つの星である。逆三角形は、国土を表し、星はヨーロッパの一員としてEUへの加盟を希望するという意味合いらしい。 (2)古都モスタル ボスニア・ヘルツェゴビナのネレトヴァ川沿いに位置するモスタルは、歴史的な橋と美しい石造りの街並みが魅力的な古都である。オスマントルコによって造られた街なので、あたかもトルコの飛び地のような感がある。 なかでも「スタリ・モスト」の橋は、モスタル観光の最大のハイライトで、ユネスコの世界遺産に登録されている。これは、16世紀にオスマン帝国によって建造された美しいアーチ型の橋で、かつては異なる民族を結びつける象徴だった。
スタリ・モストのたもとには、「Don't Forget」と書かれた碑があり、紛争で失われた命を忘れないというメッセージを今に伝えている。
「スナイパー(狙撃手)通り」では、動く者全てが屋根の上のセルビア人の狙撃手から狙われたり、クロアチア人が丘の上から大砲でムスリムの老人ホームを狙ってこれを破壊したりと、紛争中の凄惨な話ばかりを聞かされた。
(3)首都サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、その波乱に満ちた歴史と多様な文化が融合した魅力的な都市である。オスマン帝国時代とオーストリア=ハンガリー帝国時代の面影が共存し、ヨーロッパと中東の文化が交差する独特な雰囲気を楽しむことができる。
暗殺者プリンチプは、最初はラテン橋のたもとに隠れていて、夕食会場に向かう車中の大公夫妻に爆弾を投げた。ところが、それは不発だったので、何事もなく車は通り過ぎて行った。
旧市街はオスマン文化が色濃く残る東側と、オーストリア=ハンガリー帝国時代の建築が並ぶ西側に分かれており、わずか数百メートルの間に異なる文化が共存している様子は、「ヨーロッパのエルサレム」とも呼ばれるサラエボの多様性を象徴している。
そこからほど近いところに、「イエスの聖心大聖堂」(Cathedral of Jesus' Heart)がある。これは、サラエボのカトリック教会の中心的な存在である。ゴシック・リヴァイヴァル様式(新ゴシック様式)で建てられており、パリのノートルダム大聖堂(ディジョン)をモデルにしているそうだから、尖塔、バラ窓、そして美しいステンドグラスが特徴である。その外観も、左右対称にそびえる2つの鐘楼が印象的であり、ファサード上部のバラ窓のデザインは、サラエボ県の旗と紋章にも描かれている。
ちなみに、「希望のトンネル(Sarajevo Tunnel)」とは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中のサラエボ包囲戦において、物資輸送のために空港の地下に掘られたトンネルである。現在、その一部が博物館として公開されており、当時の人々の苦難と希望を学ぶことができるというが、残念なことに時間がなくて行けなかった。 8.セルビア (1)セルビアの歴史 以上述べてきた各国の歴史と重なるところがあるが、ここで改めて、セルビアの歴史を振り返りたい。セルビアは、中世の栄光、オスマン帝国による長期支配、そして近現代の激動のユーゴスラビア紛争と、複雑な道のりをたどってきた。 中世には、6世紀から7世紀にかけて、スラヴ人がバルカン半島に移住し、セルビア人の祖先となった。12世紀にはセルビア王国が確立し、特に14世紀のステファン・ドゥシャン皇帝の時代には、広大なセルビア帝国を築き、その版図はギリシャ北部まで及んだ(第一次セルビア帝国)。しかし、帝国はごく短命に終わり、1389年のコソボの戦いでオスマン帝国に敗北した。この敗北はセルビア人にとって民族の悲劇として語り継がれ、コソボはセルビア民族主義の「聖地」となった。 コソボの戦い後、セルビアは5世紀近くにわたりオスマン帝国の支配下に置かれた。この期間に、セルビア正教会の信仰は弾圧され、多くのセルビア人が南や北に移動した。この長い支配が、セルビア人の民族意識と独立への強い願望を形成した。 19世紀に入り、オスマン帝国の力が衰え始めると、セルビアでは大規模な独立運動(セルビア革命)が起こった。その結果、1878年のベルリン会議で国際的に独立が承認され、1882年にはセルビア王国が再建された。 1914年、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人民族主義者によって暗殺されたサラエボ事件が、第一次世界大戦の引き金となった。戦後、セルビアは戦勝国として、クロアチア人、スロベニア人などと統合し、ユーゴスラビア王国を築いた。 第二次世界大戦後、チトー大統領のもと、セルビアはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国となった。チトーの強力なリーダーシップの下、民族間の対立は抑えられていた。 ところが、1980年のチトーの死後、ユーゴスラビアの統一は徐々に崩壊し始めた。セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領は、「大セルビア主義」を掲げ、セルビア系住民を保護するという名目で、各共和国の独立に強く反対した。 1991年から1992年にかけて、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、セルビア軍が関与し、悲惨なユーゴスラビア紛争が勃発した。1998年、セルビア領であったコソボのアルバニア系住民が独立運動を始めると、セルビアは激しい弾圧を行った。 これに対し、NATOがセルビアへの空爆を実施し、この凄惨な紛争はようやく終結した。紛争後、セルビアとモンテネグロはセルビア・モンテネグロという連邦を形成したが、2006年にモンテネグロが独立。これにより、セルビア共和国は単独国家となった。 ちなみに、セルビアのスロボダン・ミロシェビッチ元大統領は、オランダのハーグにある旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)で裁判を受けている最中の2006年3月に、獄中で結核のため亡くなった。 (2)首都ベオグラード セルビアの首都ベオグラードは、サヴァ川とドナウ川が合流する地点に位置し、東ヨーロッパで最も歴史が古く活気のある都市の一つと言われる。過去の激しい歴史を物語る史跡と、現代的な文化が融合した魅力的な街となっている。全般的に、行き交う人の数、中心部通りの華やかさなどは、やはり首都だけのことはあるという感じだ。
「共和国広場 (Republic Square)」は、ベオグラードの中心地にあり、待ち合わせ場所として利用されている。周囲には国立博物館や国立劇場があり、いつも多くの人々で賑わっている。広場には、セルビア公ミハイロ・オブレノヴィッチ3世の騎馬像が立っている。
9.旅の余談 この旅でびっくりしたことがある。ベオグラードのカレメグダン要塞に行った時のことである。橋を渡り、要塞の中に入り、更に進んで川が見える見晴台に来た時、同じツアーの一人で、70歳代の男性の背中の鞄の鞄の蓋が開いているのに気がついた。そこで私が「鞄の蓋が開いてますよ。物騒ですよ」と、声をかけた。 するとその人は「ああ、ありがとうございます」と言って、念のため鞄の中を確認した。そして分かったことは、現金とクレジットカードを入れた財布が無くなっていて、青くなっていた。でも、幸いパスポートは無事だった。 そこで、しょげている彼を励ましながら、「カードを直ぐに止めないといけないから、この観光スポットが終わったら、電話しましょう」と言いながら、カレメグダン要塞を出るもう一つの橋を渡っていた。 すると、ツアーの一人が橋のたもとで「あれ、こんなところに財布がある」と言って、それを取り上げた。彼は「ああ、、、ボクの財布だ」と言って中身を確認すると、クレジットカードがあった。ただ、2万円相当のユーロと、日本円で3万円の合計5万円がなくなっていた。 でも、ツアーメンバーが口々に「パスポートは無くならなかったし、クレジットカードが戻ってきて良かったね。まあ、現金は勉強代と思って、これから気を付けることですね」と、慰めた。本当に、その通りだと思った。 もう一つの要素は、彼が鞄を背中に背負っていたことだ。もしそれが、身体の前で抱えるようにしていたら、あんなに易々と盗られることはなかっただろう。 (令和7年9月1日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |

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