悠々人生エッセイ



聖ヨハネ・カネオ教会




    目 次          
       
 1    バルカン半島の歴史
   (1)古代から中世まで
   (2)第一次世界大戦
   (3)第二次世界大戦
   (4)旧ユーゴスラビア紛争
 2    今回の旅の行程
 3    北マケドニア
   (1)北マケドニアの歴史
   (2)首都スコピエ
   (3)オフリド湖
 4    コソボ
   (1)コソボの歴史
   (2)首都プリシュティナ
   (3)古都プリズレン
 5    アルバニア
   (1)アルバニアの歴史
   (2)首都ティラナ
 6    モンテネグロ
   (1)モンテネグロの歴史
   (2)古都コトル
 7    ボスニア・ヘルツェゴビナ
   (1)ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史
   (2)古都モスタル
   (3)首都サラエボ
 8    セルビア
   (1)セルビアの歴史
   (2)首都ベオグラード
 9    旅の余談


 バルカン半島への旅( 写 真 )は、こちらから。



1.バルカン半島の歴史


(1)古代から中世まで

 バルカン半島(Balkan Peninsula)は、ヨーロッパとアジアを結ぶ戦略的な要衝である。その歴史を見ると、数々の民族、帝国、文化が交錯し、二つの世界大戦や旧ユーゴスラビアを巡る紛争など激動と変遷を繰り返してきた。

 古代には、古代ギリシャ文明の影響を強く受けた後、バルカン半島の大部分はローマ帝国の支配下に入り、ローマ文化が深く浸透した。

 中世には、スラヴ人がこの地域に大規模に移住し、現在の民族構成の基盤を築いた。この地域の覇権は、ビザンツ帝国、ブルガリア帝国、セルビア王国などの間で絶えず争われた。

 特に14世紀中頃のセルビア帝国は強力で、バルカン半島の広大な領域を占めた。ところが、14世紀後半からオスマン帝国がこの地に侵攻し、コソボの戦い(1389年)を経て、約500年間にわたる支配が始まった。

 このオスマン帝国の支配下で、多くの住民がイスラム教に改宗した。これにより、キリスト教(セルビア正教、カトリック)とイスラム教が共存する複雑な多民族・多宗教社会が形成された。この時代に培われた民族的・宗教的アイデンティティは、現代のバルカン半島の紛争にも深く影響している。


(2)第一次世界大戦

 19世紀に入ると、オスマン帝国の力が衰え、ギリシャやセルビアなどで民族主義が高まった。1912年から1913年にかけて、バルカン諸国はオスマン帝国に宣戦布告し、オスマン帝国を半島からほぼ駆逐した。この戦争で国境が大きく変動し、後の第一次世界大戦の遠因の一つとなった。

 そうした中、サラエボ事件が起こった。1914年6月28日に、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの首都サラエボで暗殺されたのである。

 セルビアはボスニアの併合を夢見ていたが、両者の統一を妨げる存在として、暗殺者は大公を狙った。大公を失ったオーストリア=ハンガリー帝国は、暗殺事件の背後にセルビア政府が関与していると非難し、これに宣戦布告をした。

 かくして、一つの暗殺事件が、複雑な軍事同盟の連鎖反応を引き起こし、わずか数週間のうちにヨーロッパ全体を巻き込む第一次世界大戦へと発展した。戦後、バルカン半島にはユーゴスラビア王国が成立し、セルビア、クロアチア、スロベニアなどが一つの国家に統合されたが、民族の対立が続いた。


(3)第二次世界大戦

 第二次世界大戦中、枢軸国がソ連への侵攻のため、バルカン半島に目を付けた。まずイタリアがギリシャを攻撃したが、逆に押し返された。そこでドイツが介入し、ユーゴスラビアとギリシャを電撃的に占領した。

 占領下のユーゴスラビアでは、後に大統領となるチトーがパルチザンを率い、王党派のセルビア民族主義ゲリラ組織と枢軸国占領軍との三つ巴の戦いを繰り広げた。最終的には連合軍の支援を受けたチトーが自力でユーゴスラビアを解放した。チトーは、戦後、ソ連とは一線を画した独自の社会主義路線を歩む強力な指導者となった。

 戦後の冷戦下では、バルカン半島の各国は、社会主義国(ユーゴスラビア、アルバニア、ルーマニア、ブルガリア)と、西側陣営に属する唯一の国(ギリシャ)に分断された。


(4)旧ユーゴスラビア紛争

 バルカン半島は、多様な宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)、多数の言語(クロアチア語、スロベニア語、セルビア語、マケドニア語)、多様な民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、ボシュニャク人(ムスリム))や、多くの小国(クロアチア、スロベニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、北マケドニア、コソボ)が存在する複雑な地域である。それぞれ政治的・人種的対立を抱えながらも、第二次世界大戦の英雄チトーが存命の頃は、ユーゴスラビア連邦として何とかまとまっていた。

 しかし、そのチトー大統領が1980年に亡くなると、各国が対立し始め、ベルリンの壁が崩壊して半年後の1990年にクロアチアが独立の動きを見せ、翌1991年にはスロベニアとともに完全独立を宣言した。この動きを阻止しようと、セルビア人勢力が武力を行使し、内戦に突入した。内陸国のセルビアはアドリア海への出口を求め、最南端の中世の城壁都市ドゥブロヴニクやクロアチア中部のプリトヴィツェ湖群国立公園などの世界遺産まで一時占領されたが、1995年にクロアチアがそれらを奪還し、1998年までこの戦争は続いた。

 この間、特にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ではセルビアによる「民族浄化」と呼ばれる非人道的な行為が行われ、判明しただけでも8,000人の犠牲者を出した。紛争後、ユーゴスラビアは7つの独立国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア、コソボ)に分裂した。

 この一連の紛争による死者および行方不明者数は、クロアチア側で15,000人、セルビア側で8,000人、難民はクロアチア側で20万人、セルビア側で45万人とされている。(参考にしたサイト)

 かくして、現在も、バルカン半島は経済発展を進める一方で、民族間の和解や政治的安定という課題に直面している。



2.今回の旅の行程

 今回の旅は、羽田空港からトルコのイスタンブールに跳び、そこから、バルカン半島に入った。行程は、北マケドニアの首都スコピエコソボの首都プリシュティナコソボのプリズレン → 再び北マケドニアのオフリド湖アルバニアの首都ティラナモンテネグロのコトルボスニア・ヘルツェゴビナの古都モスタルボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボセルビアの首都ベルドグラード → イスタンブールというものである。要は、時計回りに一筆書きを半周するようなものだ。

今回の旅の行程:バルカン半島の地図



 なお、上のバルカン半島の地図は、Google Mapに手を加えたものであり、下の1.から8.までの各国の歴史は、AIのGoogle Gemini の検索結果に手を入れたものである。


3.北マケドニア

(1)北マケドニアの歴史

 古代には、紀元前4世紀、現在のギリシャ北部を拠点とした古代マケドニア王国があった。そのアレクサンドロス大王の時代にペルシア帝国とエジプトを征服し、更にインドまで遠征して史上稀に見る大帝国を築いた。

 しかし、大王の死後に帝国は分裂し、この地域は次第にローマ帝国の支配下に入った。その古代マケドニア王国と現在の北マケドニアの住民(スラヴ系)との直接的な血縁関係は薄いとされているが、この「マケドニア」という呼称が、後のギリシャとの間で深刻な国名問題を引き起こすことになった。

 6世紀頃から、スラヴ人がこの地域に移住し、次第に住民の主流を占めるようになった。中世に至るまで、ビザンツ帝国や第一次ブルガリア帝国、セルビア王国などが次々に興亡し、文化や民族構成が複雑に混ざり合っていった。加えて15世紀から5世紀以上にわたってオスマン帝国の支配下に置かれ、イスラム教徒の住民も増加した。この時代の歴史は、首都スコピエのオールド・バザール(旧市街)に今も色濃く残っている。

 近代になると、20世紀初頭の二次にわたるバルカン戦争の結果、歴史的なマケドニア地域は、セルビア、ギリシャ、ブルガリアの3か国によって分割された。現在の北マケドニアの領域は、その大部分がセルビア領となった。

 第一次世界大戦後、この地域は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(後のユーゴスラビア王国)の一部となった。第二次世界大戦後、社会主義国ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国である「マケドニア人民共和国」となり、マケドニア人は初めて自らの国家を持つことになった。

  1991年、ユーゴスラビアの解体に伴い、マケドニア共和国として独立を宣言した。ユーゴスラビア構成国の中で、唯一紛争を経験することなく比較的平和的に独立を果たした。しかし、国名に「マケドニア」を使用したことが、隣国ギリシャとの間で大きな対立を引き起こした。

 ギリシャは、アレクサンドロス大王に代表される古代マケドニア王国の歴史はギリシャ固有のものであり、「マケドニア」の名称は自国の領土への野心を示すものだと主張した。この問題により、マケドニアは長年、国際連合への加盟やEUとNATOへの加盟が阻まれてきた。

 昔のマケドニアの版図を現代の国の地図に当てはめると、その5割が今のギリシャ、4割が北マケドニア、残る1割がブルガリアに分割された。そういう意味では、ギリシャの主張もあながち理由がないわけではない。

 長年にわたる交渉の末、2018年にギリシャとの間で「プレスパ合意」が締結され、翌2019年、正式な国名を「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」に変更し、ここに長年の懸案に終止符を打った。これにより、ギリシャとの関係が改善し、2020年にはNATOへの正式加盟が実現した。現在の国全体の人口は180万人、首都スコピエに限ると55万人と言われる。キリスト教徒(マケドニア正教徒)が7割、イスラム教徒が3割である。


(2)首都スコピエ

 空港からスコピエに行く途中、ミレニアム十字架が山の上にあった。高さ66メートル、西暦2000年を記念して作られた世界最大の十字架とのこと。

ミレニアム十字架(右)。左は電波塔



1963年7月26日の大地震発生の午後5時17分を指して止められたまま



 ちなみに、スコピエは、1963年7月26日に大地震に見舞われて、一説によると1,000人の死者と数千人の負傷者が出て、中心部の建物の80%が倒壊したそうだ。バスを降りた所から、今は博物館として使われている旧鉄道駅が見えたが、その時計は地震発生の午後5時17分を指して止められたままである。

 市内に入った。まず目に入ったのが、「マザー・テレサ記念館(Memorial House of Mother Teresa)」である。ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサはてっきりコソボの人だと思っていたが、ここスコピエは彼女の生誕地だそうだ。彼女が洗礼を受けたカトリック教会の跡地に建てられたのがこの記念館の由。

マザー・テレサ記念館



マザー・テレサ



マザー・テレサの若い頃



 ここでは、彼女の生涯やノーベル平和賞などの功績に関する資料が展示されている。彼女の両親はアルバニア人である。アルバニアのほとんどがイスラム教徒なのに、彼女の両親はキリスト教徒で、しかもギリシャ正教ではないカトリックだという。

アレクサンドロス大王の騎馬像



アレクサンドロス大王の騎馬像の下部



マケドニア広場 (Macedonia Square)」は、スコピエの中心地である。広場の中央には、北マケドニアのシンボルである巨大な「アレクサンドロス大王の騎馬像」がそびえ立ち、その周りには多くの新しい綺麗な建物、カフェやレストランが建ち並んでいる。この辺りは新市街で、要はキリスト教徒の街というところだ。大地震で被害を受けたが、ようやくここまで復旧した。

 そこから「石橋(Stone Bridge)」を渡った。これは、ヴァルダル川に架かる橋で、15世紀に建造されたものである。マケドニア広場と旧市街(スタラ・チャルシヤ)を結んでおり、橋の上からは美しい川の景色や周辺の建物を眺めることができる。

石橋



アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世



アレクサンドロス大王を孕った母、大王の子供時代の像



 石橋の向こうには、別の青銅像があると思ったら、これはアレクサンドロス大王の父フィリッポス2世と、大王を孕った母、大王の子供時代の像である。大王は、20歳でこの父が築いた統一ギリシャの王位に就き、強力な軍隊を率いて東方遠征に出かけた。16歳の初陣を勝利で飾り、以降70数戦全勝で、36歳で没した。

オールド・バザール



オールド・バザール



オールド・バザール



 また市内散歩の話に戻る。石橋を渡って大王の像を過ぎてイスラム地区の旧市街に入った。ここは、オスマン帝国時代の面影が色濃く残る歴史地区の「オールド・バザール」だ。典型的なムスリム地区で、迷路のような小道には、お土産物店や工芸品店、伝統的なパン屋、モスクなどが集まる。もっとも、本来なら活気に満ちているはずなのに、この日はたまたま日曜日だったせいか、閑散としていた。

スコピエ要塞



スコピエ要塞 (Skopje Fortress)」は、小高い丘の上に位置する城塞跡で、オールド・バザール から見上げる位置にある。ここからはスコピエの街全体を一望できるというが、着いたばかりで眠たくて、階段を登る気がしなかった。

(3)オフリド湖

 いったん、次のコソボに行ってから再び北マケドニアに戻り、オフリド湖に向かう。これは、北マケドニアとアルバニアの国境に位置しており、バルカン半島で最も深い湖(288m)とのこと。地殻が引き裂かれて地溝ができ、そこに水が流入して形成されたという。

 オフリドは、風景と文化の両方が味わえる湖岸のリゾートとしてヨーロッパではよく知られている。山々に囲まれた標高700mの高原にあって、その美しい自然と豊かな歴史・文化が評価され、ユネスコの世界複合遺産に登録されている。

オフリド湖



中世の面影を残す石畳のくねくね曲がる道と赤い屋根の家並み



3階建のオリエンタルスタイル街灯のデザイン



 湖畔に広がるオフリド旧市街を散歩していると、いかにも中世の面影を残す石畳のくねくね曲がる道と赤い屋根の家並みの対比が素晴らしい。家々は、3階建のオリエンタルスタイルが特徴的である。その構造は独特だ。まず1階部分をしっかりと作り、次に家族が増えたら2階を増築し、更に増えたら3階を増築して三世帯住宅とする。その度に少しずつ大きくするので、頭でっかちのスタイルになる。笑い話のようだが、本当だ。街灯のデザインにもなっている。

聖ソフィア教会



 「聖ソフィア教会 (Church of St. Sophia)」は、オフリド市内の真ん中にある。11世紀に建造されたオフリドで最も重要な教会の一つで、美しいフレスコ画が内部に描かれており、ビザンチン美術の傑作として知られているそうだが、残念ながら入る時間がなかった。

サミュエル要塞



紀元前2世紀に建設された古代ローマ時代の劇場跡



 その旧市街地を抜けて、「サミュエル要塞(Samuil's Fortress)」に向けて丘を登る。途中、「オフリドの古代劇場 (Ancient Theatre of Ohrid)」に立ち寄った。ここは、紀元前2世紀に建設された古代ローマ時代の劇場跡である。5000人も収容できたらしい。現在もコンサートやイベントの会場として利用されているそうだ。

 そこでひと休みした後、要塞に向かう。これは、オフリドの街を見下ろす小高い丘の上に位置しているから、見晴らしは抜群という話だった。ところが、途中で挫けた人がいたので皆で引き返し、次の有名な教会に向かう。

聖ヨハネ・カネオ教会



聖ヨハネ・カネオ教会



聖ヨハネ・カネオ教会



 「聖ヨハネ・カネオ教会 (Church of St. John at Kaneo)」は、オフリド湖の絶壁の上に立つ。3ユーロで拝観できるが、中にはあまり見るべきものはない。むしろ、その外観とロケーションが素晴らしい。特に、下の船着場からボートに乗って振り返ると、青い湖と断崖絶壁の上に立つその美しい景観は、オフリドを代表するフォトスポットとなっている。

 湖畔には遊歩道が整備されており、カフェやレストランで休憩しながら、のんびりと湖の景色を楽しむことができ、湖の上のボートからそれらを見ても素晴らしい。

オフリド湖畔



キリル文字の創始者である聖人像



 オフリド湖畔にある像は、キリル文字の創始者である聖人、聖キリル聖メトディウスを称えるものである。彼らは9世紀のビザンチン帝国の宣教師で、スラブ世界にキリスト教と文字を広めた。その際、スラブ語を表記するためにグラゴル文字を考案し、これが後に弟子たちによってキリル文字へと発展したとされている。

 なかでもこの地オフリドは、彼らの弟子である聖クリメントが文字学校を設立した場所であり、その教え子がスラブの各地に散ってキリル文字を広めた。この像は、彼らの功績とオフリドが果たした役割を記念して建てられた。


4.コソボ

(1)コソボの歴史

 中世のコソボ(Kosovo)は、6世紀から7世紀にかけてスラヴ人が定住し、セルビア王国の領土となった。コソボはセルビア人にとって政治的・宗教的な中心地となり、多くの教会や修道院が建設された。特に14世紀に建てられたグラチャニツァ修道院などは、現在もセルビア正教会の重要な文化財として残っている。

 セルビア王国は、1389年にコソボでオスマン帝国と戦い、敗北した。これは、セルビア人にとって民族的な悲劇として後世まで語り継がれ、コソボを「聖地」と見なすセルビア人のアイデンティティを形成した。

 この戦いの後、コソボは5世紀にわたるオスマン帝国の支配下に入った。この期間に、多くのアルバニア系住民がイスラム教に改宗し、その反面、セルビア人は帝国の報復を恐れて逃げ出す者が多かった。

 近代になり、バルカン戦争(1912〜1913年)を経て、コソボはセルビア王国に編入された。その後、ユーゴスラビア王国の一部になった。

 第二次世界大戦後、コソボはユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のセルビア共和国に属する自治州とされた。ユーゴスラビアの指導者チトー大統領は、セルビアの民族主義を抑制するために、コソボのアルバニア系住民に一定の自治権を与えた。1974年の憲法改正では、コソボは独自の政府や議会を持つなど、大幅な自治権を獲得した。

  1980年代後半、セルビア共和国のミロシェヴィッチ政権がコソボの自治権を剥奪したことで、アルバニア系住民とセルビア系住民の対立がその頂点に達した。アルバニア系住民は独自の政治組織を立ち上げ、セルビアからの独立を求めるようになった。

 1998年〜1999年の間、独立を求めるアルバニア系武装組織コソボ解放軍(KLA)と、それを阻止しようとするセルビア軍・警察との間で武力衝突が発生した。紛争は人道危機に発展し、多くのアルバニア系住民が難民となった。このセルビアによる人道危機に対し、NATOが国連安保理決議を経ずにユーゴスラビア(セルビア)への空爆を開始し、アメリカもそれに加わった。空爆後、コソボは国連の暫定統治下に置かれた。

 国際社会による協議が難航する中、2008年2月17日にコソボ議会が一方的にセルビアからの独立を宣言した。現在、日本を含む多くの国々がコソボを国家として承認しているが、セルビアやロシア、中国などは依然として承認には至っていない。


(2)首都プリシュティナ

 コソボの首都プリシュティナに入る前に、郊外で「グラチャニツァ修道院」に立ち寄った。ここは、1321年に建てられたセルビア正教の重要な修道院である。非常に美しいフレスコ画で知られ、ユネスコの世界遺産に登録されている。

グラチャニツァ修道院



グラチャニツァ修道院内の薔薇



 このフレスコ画は、長年積み重なった煤などで真っ黒になっていたが、ほんの10年ほど前に専門家がその汚れを落としてみたら、実に美しい絵の数々が浮かび上がった。残念ながら、写真撮影は禁止だったが、色も形もしっかりと判読できるほどの出来栄えである。

 ちなみにこの教会は、当時65歳だったビザンチン皇帝が15歳のセルビア王女と政略結婚をした時の同王女に対する贈り物だったそうだ。その頃、金の15倍も高価だったアフガニスタンのラピスラズリの青色がふんだんに使われている。

 王女専用の祈りの場所があるというが、それらしき階段のようなものはない。すると、太い柱の一つの中に、人がひとりやっと登れるような階段が隠されていた。日本の忍者屋敷のような仕組みの階段があるとは思わなかった。

 プリシュティナは、コソボの現在の首都で、2008年に独立した比較的新しいこの国を象徴している、、、と言いたいところだが、その歴史の浅さは否めない。共産党時代の建物、オスマン帝国時代の建物、そして現代的過ぎる建物が無秩序に混在していて、街を回ってみても、どこか腑に落ちないのである。

 それもそのはずで、元々はムスリムの集落があったところに、コソボの激動の時代を経て2008年に首都になったばかりだ。そもそも国全体の人口160万人、そのうち55%が30歳以下の若い国だから、まあこれからというところだろう。

 中心部の主要観光スポットとしては、まずは「マザー・テレサ大聖堂」がある。これは、この地コソボ出身のマザー・テレサを称えて建てられたもので、現代的なデザインのカトリック教会である。まるで街を睥睨するような高い建物だ。

マザー・テレサ大聖堂



マザー・テレサ大聖堂



 人口の93%がイスラム教徒、ギリシャ正教徒が4%、カトリック教徒は僅か3%という中で、テレサ関連で周囲の国と張り合って強引にカトリック教会を作ってしまったという感がする。案の定、ほとんど使われていないようだ。でも、馴染んでくれば、これから街を代表するランドマークとなると思われる。

 テレサ大聖堂の脇にあって、プリシュティナで最も目を引く建築物が「コソボ国立図書館」である。これを設計したのは、クロアチア人の建築家であるアンドリヤ・ムトニャコヴィッチで、1971年の設計、82年の完成。

コソボ国立図書館



 大小99個の白いドームと金属製の格子で覆われた、いささか不気味な外観で、伝統的なオスマン帝国時代のモスク様式と、現代的なブルータリズム建築を融合させたものだと言われている。しかし、その反面「世界で最も醜い建物」の一つとして挙げられることもあったようだ(大笑)。ところが、今や街の象徴的なランドマークとなっているそうだから、世の中はわからないものだ。

マザー・テレサ大通り



マザー・テレサ大通り



 その近くの「マザー・テレサ大通り」を歩く。プリシュティナの中心部にある歩行者天国で、カフェやレストラン、ショップが立ち並び、地元の人々や観光客で賑わっている。

NEWBORN モニュメント



 テレサ大聖堂の方へ戻ってきて右に曲がると「NEWBORN モニュメント」がある。これは、 要は「NEWBORN」という文字の巨大なオブジェであり、横に長くてカメラの画角には収まりきれない。 2008年のコソボ独立を記念して建てられた碑である。独立記念日には毎年デザインが変更されるという。今のデザインは、花がモチーフの可愛らしいものである。

(3)古都プリズレン

 コソボ南部に位置するプリズレン市は、歴史的な街並みと文化的な多様性が魅力的な古都である。街の中央を流れるルンバルド川とその上に架かる可愛い石橋、そして丘の上にそびえる要塞が、美しい景観を作り出している。

 とりわけ旧市街には、オスマン帝国時代の名残が色濃く残り、石畳の道や伝統的な家屋が魅力的な雰囲気を醸し出している。あの雑多なものが寄せ集まる都市プリシュティナとは違って、こちらの風景はオスマン風で統一され、辺りにしっくりと馴染んでいる。

ルンバルド川と石橋



石畳の小道が曲がりくねり、その両脇にはカフェやレストランが集まっている



鬼灯



 「石橋」は、街の中心部を流れるルンバルド川に架かる橋で、中世の雰囲気を持つ石橋である。紛争で壊されたが、また元のように再建されたという。この橋の周辺は、石畳の小道が曲がりくねり、その両脇にはカフェやレストランが集まっている。

シナン・パシャ・モスク



シナン・パシャ・モスク



 石橋の近くの「シナン・パシャ・モスク(Sinan Pasha Mosque)」は、17世紀初頭に建てられたオスマン帝国時代の美しいモスクである。ここが街の中心と言われ、その荘厳な姿は、いかにも中世風のプリズレンの街並みに溶け込んでいる。

ガーズィ・メフメット・パシャ・モスク



ガーズィ・メフメット・パシャ・モスク



 石橋から少し歩いた「ガーズィ・メフメット・パシャ・モスク(Gazi Mehmed Pasha's Mosque)」は、オスマン帝国時代 の1561年に建設が始まり、1573年に完成した由緒あるモスクで、コソボで最も古いイスラム建築の一つである。大きな中央のドームと、周囲の細いミナレットの列が調和している。モスクにバルコニーがあるのも珍しい。当時のオスマンの旗が立っている。

 そのモスクの更に向こうまで歩いた「聖母リェヴィシャ教会(Church of Our Lady of Lejevis)」は、14世紀に建てられたセルビア正教の教会である。美しいフレスコ画が評価され、ユネスコの世界遺産に登録されている。長年隠されてきたマリアの像は、実に美しい。

聖母リェヴィシャ教会



聖母リェヴィシャ教会



 しかし、この教会は、宗教上の対立で数々の災難に遭ってきた。古くはオスマン帝国の支配下にあった時にフレスコ画がノミで剥ぎ取られようとしたし、それができないので白い漆喰で塗り込められた。かと思うと、現代の紛争ではセルビアの象徴と見做されて、イスラム教徒が襲ってきて爆弾を投げたり火を付けたりした。そういうことがあったので、今は警官が24時間体制で見張っている。

 マザー・テレサの母が洗礼を受けた「レトニツァの聖母マリア教会 (Church of the Madonna of Letnica)」 が、ホテルのすぐそばにあった。イタリア人の尼さんが守っている。このカトリック教会は、マザー・テレサが修道女になる決意を固めた場所として知られており、コソボにおける重要な巡礼地となっている。


5.アルバニア

(1)アルバニアの歴史

 現在のアルバニアの地に最初に定住したのはイリュリア人で、古代インド・ヨーロッパ語族に属する。現代のアルバニア人は、このイリュリア人の子孫であると考えられている。古代の紀元前2世紀にはローマ帝国の支配下に入り、その後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の一部となった。

 中世の14世紀に入ると、セルビア王国の勢力が拡大し、アルバニアの大部分がその支配下に置かれた。15世紀のオスマン帝国の侵攻に対し、アルバニアの貴族スカンデルベグが抵抗運動を主導した。彼はオスマン帝国軍を度々撃退し、アルバニアの国民的英雄として今も称えられている。ところが、彼の死後、抵抗は衰え、アルバニアはオスマン帝国の支配下に入った。

 オスマン帝国は、15世紀から20世紀までの500年近くにわたってアルバニアを支配したが、これによりイスラム教徒が多数派となった。この時代、アルバニアは帝国の中で重要な役割を果たし、多くのアルバニア出身者が帝国の官僚や軍人として活躍した。

  1912年、第一次バルカン戦争の混乱に乗じて、アルバニアはオスマン帝国からの独立を宣言し、オスマン帝国から独立した最後のバルカン諸国となった。

 1939年、アルバニアはイタリアに侵攻され、第二次世界大戦中はそのファシスト政権の支配下に置かれた。大戦後、パルチザン運動を率いたエンヴェル・ホッジャが政権を掌握し、アルバニア社会主義人民共和国が樹立された。

 ホッジャは、スターリン主義に基づく厳格な共産主義体制を築き、国家を完全に閉鎖した。これは極端な孤立主義で、まずソ連、次いで中国とも関係を断った。

 加えて 1967年には世界初の無神国家を宣言し、すべての宗教施設を閉鎖・破壊した、しかも潜在的な外国からの侵攻に備え、国中に70万個もの小さなコンクリート製のバンカー(地下壕)が建設された。もう、パラノイアの産物としか言いようがない。

 現在もその多くが残っており、一見すると、まるで出来の悪いロボットの頭のようだが、かえってそれが面白くて、観光名所になっているほどである。田舎の山岳地帯にもあったし、首都の政府機関の横にもあり、国中至るところに存在する。近くのバンカー同士は、地下で繋がっているらしい。

  1985年にホッジャが死去し、1990年代初頭に民主化運動が活発になった。1992年に初の複数政党制選挙が実施され、共産党の一党独裁体制はここに終焉を迎えた。民主化後のアルバニアは、経済の混乱や組織犯罪、腐敗などの問題に直面している。しかし、近年は観光業が成長しており、EU加盟を目指して改革を進めている。


(2)首都ティラナ

 アルバニアの首都ティラナは、共産主義時代の歴史と、カラフルでモダンな街並みがいささかアンバランスなのに併存する不思議な街である。例えば、次に述べるスカンデルベグの顔を模した建物が建設中で、完成まであと2年だそうだ。眺めていると、そう言えば人の顔のようにも見える。もう少し眺めていると、何とまあ、スカンデルベグの顔かもしれないという気がするから不思議なものである。

スカンデルベグの顔を模した建物



積み木がズレて積み上がっているような建物



斬新なデザイン



信号機がカラフルで、派手



 その他、積み木がズレて積み上がっているような建物、前面に部屋のブロックが突き出ていてそれがアルバニアの国土の地図になっている建物など、面白いを通り越して奇妙奇天烈な現代建築が目白押しだ。更に言えば、信号機がカラフルで、派手なのも面白い。

ティラナの中心には、広大な「スカンデルベグ広場 (Skanderbeg Square)」がある。その真ん中には、アルバニアの国民的英雄であるスカンデルベグの騎馬像が立っている。

スカンデルベグの騎馬像



スカンデルベグの兜には、ヤギの角を含む頭が飾られている



 ちなみにスカンデルベグの兜には、ヤギの角を含む頭が飾られている。これは、スカンデルベグがオスマン帝国との戦いで勝利を収めた後、イスタンブールから持ち帰った戦利品の一つとされている。伝説によると、この兜は彼の勇敢さ、強さ、そして不屈の精神を表すものとして、彼のアイデンティティの一部となった。

 本来ヤギは、山岳地帯に住む動物であることから、険しい岩場でも力強く生き抜き、独立心や頑強さの象徴と見なされることがある。スカンデルベグがオスマン帝国という大国と戦い、アルバニアの独立を守ろうとした姿は、まさにそのヤギのイメージと重なるそうだ。

 もっとも、キリスト教の伝統においては、ヤギは悪魔や異端の象徴としてネガティブなイメージがないわけではない。しかしそれでも、スカンデルベグの場合は、そのような宗教的な意味合いより、彼の個人的な勇敢さや、アルバニアの地理的・文化的な背景に根ざした象徴として好意的に解釈されているとのこと。だから、ヤギの兜を被った彼の像が、街頭のあちらこちらにあるというわけだ。



 さて、再び広場の周囲に目をやると、北側にはファサードの巨大なモザイク画が印象的な建物がある。これは、「国立歴史博物館 (National Historical Museum)」だが、残念ながら修復中だった。

エテム・ベイ・モスクの「具象のフレスコ画」



 広場の南東には、19世紀初頭に建てられた美しい「エテム・ベイ・モスク (Et'hem Bey Mosque)」がある。1821年に完成し、共産主義時代には閉鎖されていたそうだが、現在は再び市民の信仰の場となっている。面白いのは、モスクにあるまじき「具象のフレスコ画」が数多くあることで、それらがあまりの素晴らしい出来のため、さすがの共産党政権下でもその文化的価値が認められ、壊されなかったという。

バンカーアート



秘密警察に殺害された被害者の写真



秘密警察の濃緑の警察車両



 スカンデルベグ広場の脇にある「バンカーアート(BUNK'ART)」は、かつてのバンカーを利用して記念館にされたもの。共産党時代の秘密警察の黒歴史に焦点を当てて、入った半円球の空間には、秘密警察に殺害された被害者の写真で埋め尽くされている。このバンカーの脇にある濃緑の警察車両が徘徊し、捕まった者は連れて行かれてそのまま帰って来なかったという。この国の黒い歴史を物語るものだ。

バザールの入口



バザール内のおしゃれなブティック、カフェ、ショップ



バザール内のおしゃれなブティック、カフェ、ショップ



 「バザール」は、オスマン帝国時代の富豪の邸宅があったところが改装されたもので、おしゃれなブティック、カフェ、ショップが建ち並んでおり、今や人気スポットになっている。

ティラナのピラミッド



 「ティラナのピラミッド (Pyramid of Tirana)」は、かつてエンヴェル・ホッジャの博物館として建てられたピラミッド型の建物である。一時は廃墟だったが、現在では外側に階段が設けられて頂上に登ることができるほか、内部にお店が設けられている。

クラウド(日本人の建築家である藤本壮介氏の作品)



 街中に、白いジャングルジムのようなものがあった。「クラウド」というタイトルで、これが何と日本人の建築家である藤本壮介氏の作品とのこと。


6.モンテネグロ

(1)モンテネグロの歴史

 モンテネグロは、小国でありながらも、その地理的条件から常に外敵からの影響に晒されていた。その中で、独自のアイデンティティと独立性を守り抜いてきたことが特徴的である。

 9世紀頃からこの地にはスラヴ人が定住し、ドゥクリャ(Duklja)と呼ばれる最初の国家が形成された。その後、中世の14世紀にはゼータ公国(Zeta)として知られるようになり、これらの国は、現在のモンテネグロの母体と考えられている。

 15世紀、オスマン帝国がバルカン半島を席巻する中、モンテネグロはその地形的な利点と、ツェティニェに拠点を置く司教(大主教)の指導のもとで、ほぼ独立した状態を維持し続けた。このため、他のバルカン諸国がオスマン帝国の支配下に入る中にあって、モンテネグロは独自のアイデンティティを保つことができた。

 露土戦争後の1878年のベルリン会議で、モンテネグロは国際的に独立国家として承認され、1910年には公国からモンテネグロ王国となり、ニコラ1世が国王に即位した。

 第一次世界大戦後、モンテネグロはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)に統合された。第二次世界大戦後、モンテネグロはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国の一つとなった。

 1991年から1992年にかけてユーゴスラビアが解体していく中、モンテネグロはセルビアとともに新ユーゴスラビア連邦共和国(2003年にセルビア・モンテネグロに改称)を形成し た。

 ところが、2006年5月、モンテネグロは独立を問う国民投票を実施し、賛成多数でセルビアからの分離・独立を決定した。これにより、モンテネグロは国際的に承認された独立国家となり、現代のモンテネグロが誕生した。現在、モンテネグロは観光業を主要産業とし、EUやNATOへの加盟を目指すなど、国際社会での地位を固めつつある。

 ただまあ、実際に行ってみると、主要都市間でも、道路事情が悪い。くねくね道の一車線ばかりで、渋滞ばかりだ。だからこそなのだろうが、あちこちで拡幅の道路工事をしているから、それが深刻な渋滞にますます拍車をかけている。こんなことでは、観光立国が泣く。これが落ち着くには、あと5年はかかるだろう。


 面白いのは、モンテネグロの若き首相ミロイコ・スパイッチ氏(37歳)が、日本語が実に達者なことで、大阪万博に来日した時に知った。各国の元首級で日本語がこれほど話せる人はいない。大切にすべきである。

 ちなみに、イタリア語で「Montenegro(モンテネグロ)」とは、「黒い山」という意味だ。すなわち、「Monte」が「山」、「Negro」が「黒い」を意味する。これは、モンテネグロ国内にあるロヴチェン山など、黒っぽい山々の見た目に由来していると言われている。

(2)古都コトル

 モンテネグロ南部のコトル湾の奥に位置するコトルは、モンテネグロを代表する観光地の一つで、美しい自然と歴史的な街並みが評価され、「コトルの自然と文化歴史地域」としてユネスコの世界遺産に登録されている。

城門(聖マルコの門)



城門(聖マルコの門)



 コトルの「城門(聖マルコの門)」に足を一歩踏み入れると、これはまさに中世の城砦都市である。港の直ぐ前にこういう都市作りをするのは、クロアチアのドゥブロヴニクと同じである。しかし、コトルの場合は、高い山をバックにしており、海からの敵、山からの敵を想定して鉄壁の守りを目指していたようだ。しかし現実にヴェネツィアやオスマントルコに侵略された。

城門の上は3階建て。その背中は公爵邸と武器庫



 城門の上は3階建で、その3階部分は屋根はあるものの開けていて、敵を弓矢で迎え撃つ仕組みだ。しかも、その背中は公爵邸と武器庫となっているから、万全の構えである。

入り組んだ石畳の路地の両脇には、レストラン、カフェ、土産屋、宝石屋などが軒を連ね



入り組んだ石畳の路地の両脇には、レストラン、カフェ、土産屋、宝石屋などが軒を連ね



中に入ってみると、入り組んだ石畳の路地の両脇には、レストラン、カフェ、土産屋、宝石屋などが軒を連ね、中世の雰囲気がそのまま残されている。各建物の前には、赤いプレートで、その来歴が書かれているので、いかに歴史を大切にしているかがわかる。街歩きすると、中世の時代にタイムスリップしたようで楽しい。

コトルは猫の街



コトルは猫の街



 また、コトルは「猫の街」としても知られており、街のいたるところで人懐こい猫たちがのんびりと過ごしている。

聖ニコラ教会



聖ニコラ教会



 「聖ニコラ教会(Church of St. Nicholas)」は、コトル旧市街にあるセルビア正教会で、1909年に建てられた新しい教会である。そのファサードには、セルビア国旗の色である赤、青、白の布が掲げられている。

聖トリプン大聖堂



聖トリプン大聖堂



 「聖トリプン大聖堂 (Cathedral of St. Tryphon)」は、1160年に建造されたロマネスク様式の大聖堂で、城砦内の中心にあり、文字通りコトルの街のシンボルとなっている。何度も地震で被害を受けたが、その都度修復され、創建当時のフレスコ画の一部が今も残っている。

コトルでよく目立つのは、街を囲む巨大な岩山に設けられた全長約4.5kmの城壁である。これは、ヴェネツィア共和国時代にオスマン帝国の侵入を防ぐために築かれた。

全長約4.5kmの城壁



救世聖母教会



 その要塞の頂上までは1350段以上の階段を登る必要があり、途中にある「救世聖母教会」を経由して、コトルの旧市街とコトル湾の壮大な景色を眺めることができるそうなのだが、とても大変そうなので行かなかった。

ブドヴァのホテル・スロヴェンスカ・プラザ



ブドヴァの海岸



海岸の海水の透明度が高い



 ところで、泊まったのはコトルではなく、ブドヴァで、コトルまで21km、30分という触れ込みだった。ところが、途中、道路工事でひどく渋滞していて、実際には2時間近くもかかってしまった。そのせいで、コトル観光の時間は削られてしまった。驚いたのは、ブドヴァのホテル・スロヴェンスカ・プラザで、広大な敷地に2階建ての建物が散在しているため、自分の泊まる棟まで行くのに10分近くかかってしまったことだ。日本では考えられない。でも、このホテルが面していた海岸の海水の透明度が高く、その景色も素晴らしかった。

カメナリからフェリーに乗る



コトル湾の最奥部



 翌日はまたバスの人となり、ボスニア・ヘルツェゴビナを目指したわけだが、途中、コトル湾の最狭部であるヴェリゲ海峡を「カメナリ(Kamenari)」からフェリーに乗り、わずか10分で対岸の「レペタネ(Lepetane)」に着いた。車で大回りするより大幅に時間の短縮となった。


7.ボスニア・ヘルツェゴビナ

(1)ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史

 ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は、その多民族・多宗教という複雑なアイデンティティが形成される過程そのものであり、度重なる支配と紛争の歴史でもある。

 7世紀頃からスラヴ人がこの地域に定住した。12世紀には独自のボスニア王国が成立した。この王国は、ローマ・カトリック教会、東方正教会とは異なる独自の宗派である「ボスニア教会」の信仰を特徴としていた。

 15世紀、オスマン帝国がこの地を征服し、400年以上にわたる支配が始まった。この期間に、多くのボスニア人がオスマン帝国の影響でイスラム教に改宗し、ボシュニャク人として知られる民族集団が形成された。

 1878年のベルリン会議では、オスマン帝国から独立することができたセルビアやモンテネグロとは運命を異にし、残念ながらボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国に占領された。そして1908年には正式に併合されてしまった。この併合は、セルビアを刺激し、第一次世界大戦の遠因の一つとなった。

 第一次世界大戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部となった。

 第二次世界大戦後には、チトー率いるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国となった。チトー政権は、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の「民族の兄弟愛と統一」を掲げ、多民族共生を推進した。この時期には、それぞれの民族が独自の文化を維持しつつ、一定の平和が保たれた。

 ところが、1991年から1992年にかけてユーゴスラビアが解体する中、セルビアとクロアチアに挟まれたボスニア・ヘルツェゴビナでは、独立を巡る民族間の対立が激化した。そうした中で、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言したことで、セルビア系住民による独立阻止の試みとして、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。

 セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の3民族がそれぞれ独自の軍事組織を編成し、悲惨極まる激しい内戦となった。特に、セルビア系勢力による「民族浄化」と呼ばれる非人道的な行為や、首都サラエボの3年以上にわたる包囲は、この紛争の悲劇を象徴している。

 1995年、内戦はデイトン合意によって終結した。この合意により、ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク人とクロアチア人の主体であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人の主体であるスルプスカ共和国という、二つの構成主体からなる複雑な国家体制が築かれた。

 ちなみに、これら二つの主体は、それぞれ独自の議会、大統領、政府、警察を持ち、広範な自治権を有している。しかし、外交や国防、通貨といった重要事項は、サラエボにある中央政府が管轄している。

 現在も、長年にわたる民族間の対立は全然解消されておらず、こうした複雑な政治構造が国家の安定と発展を阻む課題となっている。


 ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗は、青地に黄色の逆三角形と、8つの星である。逆三角形は、国土を表し、星はヨーロッパの一員としてEUへの加盟を希望するという意味合いらしい。

(2)古都モスタル

 ボスニア・ヘルツェゴビナのネレトヴァ川沿いに位置するモスタルは、歴史的な橋と美しい石造りの街並みが魅力的な古都である。オスマントルコによって造られた街なので、あたかもトルコの飛び地のような感がある。

 なかでも「スタリ・モスト」の橋は、モスタル観光の最大のハイライトで、ユネスコの世界遺産に登録されている。これは、16世紀にオスマン帝国によって建造された美しいアーチ型の橋で、かつては異なる民族を結びつける象徴だった。

スタリ・モスト



スタリ・モストが架かるネレトヴァ川



スタリ・モスト橋の上からネレトヴァ川に飛び込む若者たちが



 それが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で2003年に粉々に破壊された後、国際的な支援を受けて再建された。今や平和と復興のシンボルとなっている。橋の上から若者たちがネレトヴァ川に飛び込む伝統的なパフォーマンスは、観光客に人気となっている(ただし、50ユーロが集まらないと、やってくれない)。

 スタリ・モストのたもとには、「Don't Forget」と書かれた碑があり、紛争で失われた命を忘れないというメッセージを今に伝えている。

スタリ・モストの両側に広がる旧市街



スタリ・モストの両側に広がる旧市街



スタリ・モストの両側に広がる旧市街



 石畳の「旧市街」は、スタリ・モストの両側に広がる。これは、オスマン帝国時代の面影を色濃く残している。川沿いには多くのカフェやレストランが並び、通りには手工芸品や土産物店、トルコ風のパン屋が軒を連ね、活気に満ち溢れている。

建物の壁の弾痕は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の爪痕



その一方、モスタルの街を歩くと、旧市街のあちこちにボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の爪痕が残っている。建物の壁の弾痕は実に酷いものだ。これらは、紛争の実態を物語る生々しい痕跡となっている。

 「スナイパー(狙撃手)通り」では、動く者全てが屋根の上のセルビア人の狙撃手から狙われたり、クロアチア人が丘の上から大砲でムスリムの老人ホームを狙ってこれを破壊したりと、紛争中の凄惨な話ばかりを聞かされた。

聖ペトロ・パウロ教会



聖ペトロ・パウロ教会



 「聖ペトロ・パウロ教会(Church of St. Peter and Paul)」は、旧市街から少し離れた駐車場の脇にあり、そこから、スタリ・モストと旧市街に向けて歩く。

名物料理<strong>コルセ</strong>(バルカン風ミートボール)



 昼食は名物料理コルセ(バルカン風ミートボール)とボスニアコーヒーだった。コルセは、柔らかくて優しい味で、誰かが日本の冷凍食品と同じ味だと言ったら、女性陣が賛同していた。この日の付け合わせはマッシュポテトだったが、お米の時もあるらしい。そろそろお米が恋しくなる頃なので、そちらの方が良かった。

(3)首都サラエボ

 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、その波乱に満ちた歴史と多様な文化が融合した魅力的な都市である。オスマン帝国時代とオーストリア=ハンガリー帝国時代の面影が共存し、ヨーロッパと中東の文化が交差する独特な雰囲気を楽しむことができる。

サラエボ市庁舎



 「サラエボ市庁舎」は、オーストリア=ハンガリー帝国時代にムーア様式で建てられた美しい建物である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で甚大な被害を受けたが、復旧作業を経て現在は国立図書館として利用されている。

ラテン橋(1914年6月28日のサラエボ事件の現場)



ラテン橋(1914年6月28日のサラエボ事件の現場)



 そこから川沿いに歩くと、「ラテン橋(Latin Bridge)」がある。ここは、第一次世界大戦の引き金となった1914年6月28日のサラエボ事件の現場となった橋である。橋のそばには、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺された場所を示す記念碑がある。

 暗殺者プリンチプは、最初はラテン橋のたもとに隠れていて、夕食会場に向かう車中の大公夫妻に爆弾を投げた。ところが、それは不発だったので、何事もなく車は通り過ぎて行った。

暗殺者プリンチプが身を潜めていた建物(今は博物館)の角



暗殺者プリンチプの足跡



サラエボ事件の記念碑



 そこでプリンチプは場所を変え、建物の角に身を伏せて会場からの帰りを待ち受けた。再び車で大公夫妻が通りかかったが、行きに橋の脇を川と並行に直進したために物を投げられたと判断した運転手は、今度はその建物を右折してしまった。運悪くそれはプリンチプが待ち伏せしていた角だった。そこで、彼は何なく夫妻を銃で撃ち、その場で即死させてしまったという。

フェルディナント大公夫妻が乗った車



フェルディナント大公夫妻



逮捕された暗殺者プリンチプ(左から2人目)



フェルディナント大公夫妻が乗った車を再現したもの



 プリンチプが待ち伏せした場所の足型と、当時の写真が残っていた。彼一人のせいで第一次世界大戦が起こり、千五百万人もの人々が死んでしまったというわけだ。ちなみに、ガイドによれば、逮捕されたプリンチプは、裁判の途中で、結核で亡くなったとのこと。

ガジ・ブスレブ=ベグ・モスク



ガジ・ブスレブ=ベグ・モスク



 それから、ガジ・ブスレブ=ベグ・モスクを訪れた。こちらは、前庭だけだが観光客が自由に入れる。涼やかな水の音がすると思ったら、ウドゥというお祈りの前に身を清めるための水がチョロチョロと流れていた。

バシュチャルシヤの一角



バシュチャルシヤの一角



バシュチャルシヤの一角



 そこから、「バシュチャルシヤ」の一角に入る。ここは、サラエボの中心部にある旧市街で、オスマン帝国時代に造られた職人街である。石畳の路地には銅製品や革製品を扱う店、トルコ風のカフェやレストランが軒を連ね、活気に満ちている。

 旧市街はオスマン文化が色濃く残る東側と、オーストリア=ハンガリー帝国時代の建築が並ぶ西側に分かれており、わずか数百メートルの間に異なる文化が共存している様子は、「ヨーロッパのエルサレム」とも呼ばれるサラエボの多様性を象徴している。

フェルハディヤ通りの地面に描かれたMeeting of Cultures(文化の交差点)



 その東と西のちょうど区切りとなるフェルハディヤ通り(Ferhadija Street)の地面に描かれた線上には、「Meeting of Cultures」(文化の交差点)と書かれている。これは、サラエボが長きにわたって東洋と西洋の文化が交錯してきた歴史を象徴する、非常に重要なシンボルとなっている。

 そこからほど近いところに、「イエスの聖心大聖堂」(Cathedral of Jesus' Heart)がある。これは、サラエボのカトリック教会の中心的な存在である。ゴシック・リヴァイヴァル様式(新ゴシック様式)で建てられており、パリのノートルダム大聖堂(ディジョン)をモデルにしているそうだから、尖塔、バラ窓、そして美しいステンドグラスが特徴である。その外観も、左右対称にそびえる2つの鐘楼が印象的であり、ファサード上部のバラ窓のデザインは、サラエボ県の旗と紋章にも描かれている。

イエスの聖心大聖堂



 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時には、1,425日の長きにわたるサラエボ包囲が行われ、その時の激しい砲撃によってこの大聖堂は大きな被害を受けたが、全壊は免れ、その後修復された。

ミサを執り行ったヨハネ・パウロ2世の記念像



 1997年、バチカンのヨハネ・パウロ2世がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後のサラエボを訪問した際、この大聖堂でミサを執り行った。その功績を称え、2014年には大聖堂の前にヨハネ・パウロ2世の記念像が建てられた。優しく手を差し伸べている姿が印象的である。

サラエボのバラ(紛争中に砲弾が落ちた跡)



 この教会の前にあった「サラエボのバラ(Sarajevo Roses)」は、紛争中に砲弾が落ちた跡に赤いペンキで塗られたもので、街のいたるところで見ることができる。人々の悲劇を忘れないためのモニュメントとして残されている。

 ちなみに、「希望のトンネル(Sarajevo Tunnel)」とは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中のサラエボ包囲戦において、物資輸送のために空港の地下に掘られたトンネルである。現在、その一部が博物館として公開されており、当時の人々の苦難と希望を学ぶことができるというが、残念なことに時間がなくて行けなかった。


8.セルビア

(1)セルビアの歴史

 以上述べてきた各国の歴史と重なるところがあるが、ここで改めて、セルビアの歴史を振り返りたい。セルビアは、中世の栄光、オスマン帝国による長期支配、そして近現代の激動のユーゴスラビア紛争と、複雑な道のりをたどってきた。

 中世には、6世紀から7世紀にかけて、スラヴ人がバルカン半島に移住し、セルビア人の祖先となった。12世紀にはセルビア王国が確立し、特に14世紀のステファン・ドゥシャン皇帝の時代には、広大なセルビア帝国を築き、その版図はギリシャ北部まで及んだ(第一次セルビア帝国)。しかし、帝国はごく短命に終わり、1389年のコソボの戦いでオスマン帝国に敗北した。この敗北はセルビア人にとって民族の悲劇として語り継がれ、コソボはセルビア民族主義の「聖地」となった。

 コソボの戦い後、セルビアは5世紀近くにわたりオスマン帝国の支配下に置かれた。この期間に、セルビア正教会の信仰は弾圧され、多くのセルビア人が南や北に移動した。この長い支配が、セルビア人の民族意識と独立への強い願望を形成した。

 19世紀に入り、オスマン帝国の力が衰え始めると、セルビアでは大規模な独立運動(セルビア革命)が起こった。その結果、1878年のベルリン会議で国際的に独立が承認され、1882年にはセルビア王国が再建された。  1914年、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人民族主義者によって暗殺されたサラエボ事件が、第一次世界大戦の引き金となった。戦後、セルビアは戦勝国として、クロアチア人、スロベニア人などと統合し、ユーゴスラビア王国を築いた。

 第二次世界大戦後、チトー大統領のもと、セルビアはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国となった。チトーの強力なリーダーシップの下、民族間の対立は抑えられていた。

 ところが、1980年のチトーの死後、ユーゴスラビアの統一は徐々に崩壊し始めた。セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領は、「大セルビア主義」を掲げ、セルビア系住民を保護するという名目で、各共和国の独立に強く反対した。

 1991年から1992年にかけて、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、セルビア軍が関与し、悲惨なユーゴスラビア紛争が勃発した。1998年、セルビア領であったコソボのアルバニア系住民が独立運動を始めると、セルビアは激しい弾圧を行った。

 これに対し、NATOがセルビアへの空爆を実施し、この凄惨な紛争はようやく終結した。紛争後、セルビアとモンテネグロはセルビア・モンテネグロという連邦を形成したが、2006年にモンテネグロが独立。これにより、セルビア共和国は単独国家となった。

 ちなみに、セルビアのスロボダン・ミロシェビッチ元大統領は、オランダのハーグにある旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)で裁判を受けている最中の2006年3月に、獄中で結核のため亡くなった。


(2)首都ベオグラード

 セルビアの首都ベオグラードは、サヴァ川とドナウ川が合流する地点に位置し、東ヨーロッパで最も歴史が古く活気のある都市の一つと言われる。過去の激しい歴史を物語る史跡と、現代的な文化が融合した魅力的な街となっている。全般的に、行き交う人の数、中心部通りの華やかさなどは、やはり首都だけのことはあるという感じだ。

ベオグラード要塞



ベオグラード要塞



ベオグラード要塞 (Belgrade Fortress)(カレメグダン要塞)」は、サヴァ川とドナウ川の合流点にそびえる要塞で、街のシンボルとも言うべき存在だ。城壁や門、教会が残っており、古代ローマ時代から、ビザンチン帝国、セルビア帝国、オスマン帝国時代に至るまでの歴史が、そこに深く刻まれている。現在、中も外も広大な公園となっており、地元の人々の憩いの場でもある。要塞に入る橋の左右には、過去使われた大砲、戦車、ミサイルなどが並べられている。

恐竜がいる公園



過去使われた大砲、戦車、ミサイルなどが並べられている



過去使われた大砲、戦車、ミサイルなどが並べられている



 要塞からは、2つの川の合流点や新市街の美しい景色を一望できる。この写真の左側がサヴァ川で、それが右手へと流れて、右側のドナウ川に流れ込んでいる。ここが、サヴァ川は終点となる。

要塞から見えるサヴァ川



要塞から見える2つの川の合流点で、写真の左側がサヴァ川で、それが右手へと流れて、右側のドナウ川に流れ込んでいる。ここが、サヴァ川は終点となる。



 「カレメグダン公園 (Kalemegdan Park)」は、ベオグラード要塞を取り囲むように広がる公園である。城壁を散策したり、ベンチでくつろいだり、歴史的な像や噴水を眺めたりして過ごすことができる。公園内には軍事博物館や動物園、子供の遊び場もある。

聖サヴァ大聖堂



 「聖サヴァ大聖堂(Temple of Saint Sava)」は、世界最大級のセルビア正教会の教会で、その壮麗な建築と巨大なドームが見る者に強い印象を与える。セルビア正教会の創始者である聖サヴァを祀っている。5年前に完成したとはいえ、周囲はまだ整備中である。

聖サヴァ大聖堂



聖サヴァ大聖堂





 中に入ると、まあこれは素晴らしい。ため息が出るほどだ。キリスト、聖サヴァ、セルビア帝国の国王をはじめとして、天使、聖人、聖マリアの入滅などのフレスコ画が見る者を圧倒する。また壁の絵は、全てガラスのピースでできているから、実に色鮮やかである。また、天井からは、丸い大きな照明がぶら下がっていて、これだけでも14トンも重さがあるという。

聖サヴァ大聖堂の地下



聖サヴァ大聖堂の地下



 大聖堂の地下には、やはり宗教画で囲まれた大きな空間があり、結婚式やら集会に使われるという。天井が低いのは、将来この下に地下鉄を通すという計画があったためだという。しかし、地下鉄はまだ実現していないそうだ。

スカダルリヤ通り



スカダルリヤ通り





 「スカダルリヤ(Skadarlija)」は、ベオグラードの「モンマルトル」と呼ばれる通りで、両側には伝統的なレストラン(カファナ)やアートギャラリーが軒を連ね、昼間少し歩いただけでもハープの生演奏が聞こえてきた。夜もまた風情がある石畳の道だ。セルビア料理を味わい、いわゆるボヘミアンの雰囲気を楽しむのに最適である。

 「共和国広場 (Republic Square)」は、ベオグラードの中心地にあり、待ち合わせ場所として利用されている。周囲には国立博物館や国立劇場があり、いつも多くの人々で賑わっている。広場には、セルビア公ミハイロ・オブレノヴィッチ3世の騎馬像が立っている。

クネズ・ミハイロバ通り



クネズ・ミハイロバ通り



 その共和国広場から、カレメグダン公園に向けて続く歩行者天国は、「クネズ・ミハイロバ通り(Knez Mihailova Street)」、日本で言えば銀座通りで、両脇には歴代ある建物が立ち並んでいる。その中で、高級ブランド、洒落たカフェ、ブティック、レストランが軒を連ねており、大勢の幸せそうな家族が行き交っている。

ノバク・ジョコビッチがプロデュースしたレストラン



ノバク・ジョコビッチ



 ノバク・ジョコビッチは、いうまでもなくセルビアの有名なテニス選手で、グランド・スラム優勝回数が24回と、抜群の戦績を誇る。彼がプロデュースしたレストランなるものがあり、そこに行ってみた。彼のグッズが販売されていたほかは、普通のレストランだった。味はというと、、、まあ、ごく普通だった。


9.旅の余談

 この旅でびっくりしたことがある。ベオグラードのカレメグダン要塞に行った時のことである。橋を渡り、要塞の中に入り、更に進んで川が見える見晴台に来た時、同じツアーの一人で、70歳代の男性の背中の鞄の鞄の蓋が開いているのに気がついた。そこで私が「鞄の蓋が開いてますよ。物騒ですよ」と、声をかけた。

 するとその人は「ああ、ありがとうございます」と言って、念のため鞄の中を確認した。そして分かったことは、現金とクレジットカードを入れた財布が無くなっていて、青くなっていた。でも、幸いパスポートは無事だった。

 そこで、しょげている彼を励ましながら、「カードを直ぐに止めないといけないから、この観光スポットが終わったら、電話しましょう」と言いながら、カレメグダン要塞を出るもう一つの橋を渡っていた。

 すると、ツアーの一人が橋のたもとで「あれ、こんなところに財布がある」と言って、それを取り上げた。彼は「ああ、、、ボクの財布だ」と言って中身を確認すると、クレジットカードがあった。ただ、2万円相当のユーロと、日本円で3万円の合計5万円がなくなっていた。

 でも、ツアーメンバーが口々に「パスポートは無くならなかったし、クレジットカードが戻ってきて良かったね。まあ、現金は勉強代と思って、これから気を付けることですね」と、慰めた。本当に、その通りだと思った。

 もう一つの要素は、彼が鞄を背中に背負っていたことだ。もしそれが、身体の前で抱えるようにしていたら、あんなに易々と盗られることはなかっただろう。







(令和7年9月1日著)
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悠々人生エッセイ





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