悠々人生エッセイ



シーギリアロックのライオン広場



          目 次
    
       
     スリランカは小乗仏教の国
     長時間のフライトの後休む
     お呼びでない観光案内の男
     農村の主婦の手料理が昼食
     雨の中シーギリア遺跡登頂
     (1)シーギリアを巡る話
     (2)ドイツの新白鳥石城
     (3)シーギリアの遺跡へ
     ダンブッダの仏教石窟寺院
     ヘリタンスカンダラマにて
     キャンディの仏歯寺を訪問
     コロンボのガンガラマ寺院
 10    紅茶博物館を訪ねてお土産
 11    今回のツアーを振り返って
 12    その他スリランカについて
 13    【後日談】洪水や土砂災害


 スリランカへの旅( 写 真 )は、こちらから。



1.スリランカは小乗仏教の国

 今から20数年前のことになるが、私が政府機関にいた時、アジアとオセアニアの貿易機関の会合が日本で開かれた。場所は京都で、会議の合間に市内観光に参加者一行を連れて行った。その時、最初に訪ねたのが清水寺である。

 ほとんどの参加者が物珍しそうにお寺を見て回っているだけなのに、肌の浅黒い人が両手を合わせて仏教式のお参りをしている。誰だろうと思ったら、スリランカの人だった。私はその時初めて、スリランカというのは仏教国だと知ったのである。

 仏教の発祥の地である本場インドは、既にヒンズー教化してしまったが、周辺国であるスリランカも、日本と同じように仏教が根付いている。これを知って、私はこの国に親しみを覚えた。もっとも、日本は大乗仏教、スリランカは小乗仏教という違いはある。

 さて、この度、旅行先としてそのスリランカを選んだのだが、旅の一番の目的は、天空の王宮シーギリア遺跡である。これは紀元5世紀に造営された世界遺産であり、私の中ではペルーのマチュピチュ、エジプトのピラミッドなどと並んで、かねてから行ってみたい遺跡の一つだった。


2.長時間のフライトの後休む

 成田空港からスリランカ航空の直行便があり、行きのフライトは9時間40分かかった。朝11時20分に出て、日本時間で夜の9時に到着した。時差は3時間30分なので、現地時間午後5時30分である。ちなみに、帰りのフライトは8時間10分だった。

 到着した時は、熱帯特有の猛烈なスコールが降っていて閉口した。ガイドによれば、昔は夕方にちょっと降って止むというものだったが、最近は2〜3日降り続くこともあるそうだ。地球温暖化と言う言葉が頭に浮かぶ。

 空港からバスで40分移動して、ネゴンボの海岸べりにあるペガサスリーフ・ホテルに入った。長時間のフライトの後、直ぐに身体を横たえて休むことができたので、とても楽だった。でも、朝は現地時間4時半に目が覚めてしまった。日本時間なら8時なので、身体が覚えているから当たり前だ。


3.お呼びでない観光案内の男

 朝起きて、朝食まで時間があったので、ホテルが面している目の前の海岸に出かけた。写真を撮っていると、もう一人のツアー仲間と会って、二人で散歩した。



 すると、40歳くらいの現地の男性がいつの間にか近づいてきて、あちこち指差しながら、「あれがコロンボで、あそこにあるのが中国が作ったロータス・タワーだ」とか、「あの船は蟹とロブスターを獲っている」、「2004年の大津波では、ここに住んでいた人たちは、皆んな津波に家ごと持って行かれた」、「ここは直ぐに海が深くなるので、泳げない」などと勝手に観光案内をしてきた。私たちは、怪しいなと思いつつ、ぶらぶらと散歩を続けたが、男は勝手についてくる。

 それから10分くらいして、その男が「私には小さな子供がいる。幾らか恵んでくれ」と言う。やはり、物乞いだった。私の連れのツアー仲間が、50セント硬貨をやろうとする。男は「お札が欲しい」と言った。そのツアー仲間は、私が止める間もなく財布を出して中身をパラリと見せた。すると男は「その緑の色の札」という。1,000ルピー札で、日本円で500円相当だ。

 ツアー仲間は、それを男に渡したのだが、私はやり過ぎだと言って取り返し、代わりに20ルピーを渡そうとしたら、今度は男が「子供が小さいからもっとほしい」と言ってゴネる。無視してそのまま歩いて行ったら、男は途中で諦めたか、首を振りつつ他の獲物を探しに行った。


4.農村の主婦の手料理が昼食

 午前中は、約4時間掛けて、ネゴンボのホテルからバスで北上し、シーギリアを目指した。途中で40分間ほど、日本の援助だという近代的な高速道路を走ったが、あとは田舎道だ。すれ違うのも恐ろしい道を、バスはどんどん走って行った。雨足が強まったが、昼食会場に着いた頃には小止みになっていた。

 この昼食は、農村経験を兼ねるということで、椰子の葉を編んだ高い天井の小屋に連れて来られた。すると、30歳代の農家の主婦が出てきた。



 キビキビと歩く人で、色々な実演をしてくれる。かぼちゃのカレー、ココナッツの実の解体、長い黒檀の棒を使ったお米の脱穀、椰子の葉を縦横に組み合わせていく・・・などだ。

 ツアー参加の皆さんが、「わあー、手早い。あんな鉈なのに、それを上に向けてさっさと切って、もうかぼちゃを細かくしている」とか、「あのココナッツもそうよ。ココナッツの実を砕いて水を混ぜて、もうミルクにしちゃってる。台所のプロね」という調子である。

 それが終わると、昼食の時間となり、その主婦が作った食事が並ぶ。それをバイキング形式で皆で分け合って食べた。素朴な田舎料理ばかりだったが、それが本当に美味しいのである。



 印象に残ったのは、黄色いタロ芋、魚のぶつ切りのフライ、茄子と肉ミンチの辛い味付けなどで、最後のものは、本当に辛かった。

 いやあ、これは良い経験をした。この主婦には、本当にありがとうと申し上げた。ちなみに、隣の部屋は台所であり、その隅には、1歳くらいの男の赤ちゃんが、蚊帳の中で寝ていた。


5.雨の中シーギリア遺跡登頂


(1)シーギリアを巡る話

 5世紀頃に、この地を治めていたダートゥセナ王には二人の息子がいた。そのうちの兄の母は、平民の娘である。父がその娘を離婚して新たに娶った王族出身の王妃の産んだ子が、弟モッガラーナになる。つまり異母弟である。

 どちらが王位を継承するのかが問題になった。普通なら兄だが、兄の母の身分が低いので、正当な王位継承権は弟にあると考える人が多かった。

 そこで、兄は疑心暗鬼となり、父王を監禁して問い詰め、遂には殺して王位を奪ってしまった。弟は、身の危険を感じて南インドに逃げていった。

 そうして即位したカーシャパ1世は、異母弟がいつ何時帰ってきて自分に復讐するかもしれないと恐れた。そこで、この天然の要塞の頂上に自らの理想郷である王宮を築いたという。

 その宮殿の栄華は、わずか11年で幕を閉じた。というのは、即位から18年後、軍勢を率いて戻ってきた弟モッガラーナとの戦いに敗れたカーシャパは、自ら喉を切り裂いて自害したからである。

 そういう背景で、カーシャパが心血をそそいで作ったこの宮殿要塞には、彼の野望、孤独、そして芸術への情熱が凝縮されている。

 14世紀頃まで仏教僧院として使われた後、1875年にイギリス人によって発見されるまで、およそ1400年間もジャングルに埋もれていた。

 狂った王様が作った城という意味では、何やら、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥石城)を思い出させるエピソードである。そういえば、昔々、この城に行った時に聞いた話を思い出した。少し脱線するが、Google Geminiの助けを借りながら、それに触れていきたい。


(2)ドイツの新白鳥石城

 1864年に、わずか18歳で王位を継いだバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、「メルヘン王」あるいは「狂王」と呼ばれた。身長190cmを超える長身で、黒髪に青い瞳を持つ彼は、「ヨーロッパで最も美しい王」と称賛され、国民のアイドル的な存在だった。

 ところが、繊細で芸術を愛するこの王は、政治や戦争が大嫌いだった。とりわけ、プロイセンとの戦争や権力争いに巻き込まれる現実の世界に絶望し、次第に「自分だけの夢の世界」へと逃避するようになった。

 ルートヴィヒ王がその心の支えとしたのは、作曲家リヒャルト・ワーグナーの音楽と、中世の騎士伝説だった。特にオペラ「ローエングリン」(白鳥の騎士の伝説)に強く憧れ、自分をその主人公に重ね合わせた。

 「現実はあまりにも醜い。私は美しい夢の中で生きたい」そう願った彼は、莫大な借金をして自分の理想郷となる城の建設を始めた。それがノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥石城)である。

 この城は、軍事的な要塞ではなく、いわば「オペラの舞台セット」のような場所で、彼はここでたった一人、誰にも邪魔されずに中世の王として振る舞うことを夢見たのである。

 城の建設が進むにつれ、ルートヴィヒ王の奇行は目立つようになっていく。例えば、

 昼間はカーテンを閉め切って眠り、夜になると活動を開始し、馬車で走り回ったりする。

 あるいは、食卓に「見えない客(ルイ14世やマリー・アントワネット)」の分の食事も用意させ、架空の会話を楽しみながら食事をする。

 王なのに家臣や国民に会うのを避け、山奥の城に引きこもる。

 王が残した有名な言葉がある。それは、「私は、私自身にとっても、ほかの人々にとっても、永遠の謎でありたい」

 王の夢の城の建設には莫大なお金がかかり、国の財政を圧迫するほどの借金を重ねたので、遂に家臣たちは堪忍袋の尾が切れて、クーデターを起こした。

 1886年、医師団は王を診察もしないまま「精神病により統治不能」と診断した。ノイシュヴァンシュタイン城に追っ手が迫り、王は逮捕され、城から強制的に連れ出されてしまった。この時、彼はまだ完成していない城に、通算でわずか172日間しか住んでいなかったという。

 逮捕された翌日の6月13日、監禁先のベルク城近くにあるシュタルンベルク湖へ、彼は精神科医のグッデン博士と散歩に出かけた。

 しかし、夜になっても二人は戻って来なかった。捜索の末、発見されたのは、湖に浮かぶ二人の水死体だった。

 検視によると、王の水死体には、肺に水が入っていなかった。ということは、溺死ではない可能性が高い。それに、そもそも王は泳ぎが得意だった。それに、争った形跡があり、博士の顔には殴られた跡があった。

 王が自殺を図ったのか、それとも逃亡しようとして殺されたのか、あるいは博士を道連れにしたのか。真相は今も闇の中である。享年40歳だった。

 王は、生前こう言っていたそうだ。「私が死んだら、この城は爆破してくれ。他人の目に晒したくない」

 しかし、その遺言は無視された。彼の死後わずか6週間で、城は「借金返済のため」に観光地として一般公開されたのである。

 「人に見られたくない」と願って作った引きこもりのための城が、今では世界中から年間140万人ものビジターが訪れるドイツ最大の観光資源となり、バイエルン州に莫大な利益をもたらし続けているのは、正に皮肉としか言いようがない。


(3)シーギリアの遺跡に登る

 話はシーギリアからドイツにまで飛んだが、再び元のスリランカに戻したい。シーギリアは、宮殿であり、要塞であるから、登るのはなかなか大変である。日本の城の比ではない。しかもこの日は、昼食が終わる頃、再び雨が降りだして、今度は大雨となった。これは困った・・・登る時にスリップしないか、心配になる。相当注意して登らないといけない。



 世界遺産シーギリアの麓にたどり着いた。そこには、近代的な黄金の坐像をいただいた黄金寺院がある。その大きさには度肝を抜かれた。「あれがシーギリアだ」と言われてそちらを見ると、ジャングルの中に、ポツンと一枚岩が聳えている。高さ200mというが、下から見上げているせいか、もっと高く見える。残念ながら、生憎の雨で、その一枚岩のてっぺんが雨雲に隠れている。

 1,200段と言われる階段を延々と登って行く。それも、場所によっては、岩壁に張り付くようにである。この日は、特に雨風が強く、持っていた大きな傘が飛ばされそうになった。それを押さえていると、ひっくり返ってキノコ状になったほどだ。

 足元の階段は、最終段階の鉄製の階段を除き、一応は大理石で出来ているから崩れたりせずにしっかりしている。しかし、高さや幅が不揃いであるのに加えて、適当に割った石を組み合わせているから少し凸凹があり、しかも雨の日だからその上を雨水が流れているので、一歩一歩よく踏み締めないと危ない。

 シーギリアへのアプローチは、次の3つの段階に分けられる。

 第1段階は、水の広場から、巨石エリアまでで、ここは 比較的緩やかな石段が続く。整備されており、歩きやすいエリアである。



 岩山へ向かう最初に見える場所が、「水の広場(Water Garden)」である。かつて王宮の前庭であったこの場所には、直線的な水路や池が配置されている。古代の優れた灌漑技術や噴水システムが応用されており、当時の技術水準の高さがわかる。



 それから、巨石エリアになる。大きな石が三角形に組み合わさって、その隙間を登っていく。いよいよ階段を登り始めた。最初にたどり着いたのが、岩山に穴の空いた僧院跡である。ここが僧侶が瞑想していた場所だという。

 岩窟の上を見上げると、その張り出した岩のところに彩色の一部が残っている。実はここに女性の絵が描かれていたそうなのだ。この王宮が廃されて再び僧院となった時、そういう女性の絵があると修行の妨げとなるということで、絵は消されたらしい。



 それを過ぎてしばらく登った頃に、ガイドは、いきなり「これで、もう半分です」と言ったが、私を含めて皆は「えぇーっ、まだまだあるよ」と半信半疑だった。実感としてはまだ三分の一程度だろう。

 第2段階は、中腹の「鏡の回廊」から「美女のフレスコ画」までで、ここが最初の難所となる。本当によじ登る感じだ。「鏡の回廊(Miller Wall)」とは、漆喰に蜂蜜や蝋を混ぜてツルツルにした壁で、本当に鏡のようになって向こう側の絵が写っていたそうだ。



 そこに、当時招かれた客が残した落書きが今も残っていて、解読できるものは翻訳されているという。中には、美女の絵を見て「ウチの奥さんより綺麗だ」などと書いたものもあって、いつの時代も考えることは同じだと笑ってしまう。



 「美女のフレスコ画」を見るためには、岩肌に設置された鉄製のらせん階段を登る必要がある。足元が少し透けて見えるため、高所恐怖症の人は無理かもしれない。

 そこをぐるぐるとゆっくり登って行き、やっと「美女(シーギリア・レディー:Sigiriya Lady)」と対面することができた。ところが、写真を撮るのは禁止されていた。とても残念だったが、ルールとあれば仕方がない。

 そのシーギリア・レディーだが、インド風の装身具(宝石など)を身につけて、目はぱっちり、上半身は裸、乳房も大きく、手には花を持ったり散らしたりして、非常にエレガントに描かれている。

 完成度は高く、そのまま銀座の画廊に出せそうだ。日本の高松塚古墳が7世紀末から8世紀初めのものだから、それより200年以上前にこれほどのレベルの絵が描かれたというのは、感嘆に値する。ちなみに日本の宇治の平等院の天女像と比べると、シーギリア・レディは、はるかに肉感的である。当たり前か。

 シーギリア・レディーたちは誰かということが気にかかる。一つの説は、カーシャパ1世の王妃と彼に仕えた宮廷の側室たちを描いたというもの。まあ、誰でも思い付くことだ。

 二つ目の説は、アプサラス(天女)つまり、雲の上に浮かぶ妖精や女神を描いたという説で、その根拠は、腰から下が雲に隠れているように見えるためだそうだ。

 かつては岩肌の広範囲に500人以上もの女性が描かれていたと言われているが、現在は風化や破壊により18人ほどしか残っていない。

 第3段階は、ライオンの脚から頂上までである。岩山の中腹に出たら、入り口の両脇にライオンの大きな脚があるので、「ライオン広場(Lion Platform)」と名付けられた。昔は、ここに覆い被さるように大きなライオンの頭があったようだが、今やその頭は失われて両脚だけが残っている。この脚の爪だけを見ても、頭を含めると、実に巨大な建造物だったことがわかる。その昔、人々は、ライオンの大きく開けた口を通って喉の中へと飲み込まれるようにして階段を登り、王宮へ入っていった。



 ちなみに、シーギリア(シンハ・ギリヤ)とは、シンハラ語で「ライオン(シンハ)の喉(ギリヤ)」、あるいは「ライオンの山」という意味であり、この入り口こそが、その名の由来となったものだ。

 ここで休憩するところだが、この日は雨と風で座る所もないから一気に頂上へ向かうこととする。ところがこの最後の階段が最も急で、狭い鉄製の階段が続く。これは、スリル満点だ。5歳くらいの地元の女の子が「怖いよぅ」と泣いていた。

 いやはや、それを登るのが、とても大変だった。何せ、岩にへばりつくように設けられた鉄の階段を登らなければならない。吹きさらしの上、この日は風が強いときている。傘を飛ばされそうになりながらも、どうやら無事に頂上に至った。



 さすが200mの高台だけあって、周囲の景色は実に素晴らしい。周りがジャングルで、はるかその向こうには、山々が水墨画のようにうっすらと見える。これは、すごい風景だ。



 目を頂上に戻すと、面積は結構広くて、王宮の跡、王が沐浴した池などが残っていて、岩を掘り出して作ったという玉座まである。

 頂上からの風景をしばし堪能していたら、また雨が降り始めた。雨水のために滑らないようにしつつ階段を注意深く降りなければいけないので、これがまた大変だった。でも、何とか無事に麓までたどり着いた。



 麓に降りたら、この種のツアーにありがちな土産品売り場に連れていかれた。それは民族衣装のサリー(Sari)を売る店で、女性のツアー参加者に着せて写真を撮っていた。その時の背景には、シーギリアロックの絵があった。


6.ダンブッダの仏教石窟寺院

 シーギリアから車で30分のところに、ダンブッダという街があり、ここにある仏教石窟寺院は、やはり世界遺産となっている。

 この寺院は、高さ150mもの巨大な岩山の中腹に位置する5つの石窟からなる寺院群である。最も古い涅槃仏は、紀元前1世紀に遡る歴史を持ち、紀元前3世紀頃から僧院として使われていたそうだ。



 さて、シーギリアと違って、このダンブッダ石窟寺院へ行くには、かなり高いところまでバスで行ってくれる。だから、はるかに楽だった。降ろされた場所から階段を約15分ほど登ると、岩山の中をえぐって作られた5つの主要な石窟がある。それらは、第1窟から第5窟まで横一線に並んで、共通の廊下で繋がっている。これらは、大きな一枚の岩山をくり抜いて作ってある。ものすごい労力だ。古代の信仰の力には、本当に頭が下がる・・・などと思っていたところ、その寺域に入る前に、靴を脱がされた・・・雨だというのに・・・。ただ、ほとんどが屋根の下を歩いたので、この時はさほど苦痛に感じなかった。庭には大きな菩提樹が植わっている。

 さて、第1窟(デヴ・ラジャ・ヴィハーラ)には、 狭い洞窟の中に14メートルの巨大な涅槃仏が横たわっている。これが、紀元前1世紀のものらしい。仏の足の裏には、赤い花模様が描かれている。



 いつぞや私は、東南アジアでこれと同じ涅槃仏を見て、ガイドに「Sleeping Buddha」と言ったら、「No, Reclining Buddha」だと訂正されてしまったことを思い出した。確かに、寝ているのとリラックスしているのとでは大違いだ。

 話を戻すと、この涅槃仏がある第1窟は、とても狭い部屋にある。中に入ったら、蒸し暑くて人々が押し合いへし合いで大変だった。

 第2窟(マハ・ラジャ・ヴィハーラ)は、この寺院の 最大の見どころである。幅50m以上の巨大な空間に、数多くの仏像と天井一面の壁画が広がっている。



 仏の坐像が連なる風景は、タイの寺院を思い出す。ただ、仏の立像は、どことなくヒンズー教的なのである。地政学的にそうならざるを得ないのだろう。



 第3から第5窟までは、 比較的新しい時代のもので、部屋の規模や仏の数が、次第に小さく、少なくなっている。極彩色の壁画や立像など、それぞれの窟で些か異なる雰囲気がある。


7.ヘリタンス・カンダラマホテルにて

 スリランカ出身の著名な建築家であるジェフリー・バウアーが設計したヘリタンス・カンダラマホテルで、昼食を食べた。それが久しぶりに、こう言っては何だが、まともなクオリティの食事だった。

 前菜のトマト・スープはピリ辛で美味しかったし、メインのミックスグリルは、肉三種と魚とイカまで入っていて、ソースも美味しい。デザートは、4スコープのアイスクリーム、仕上げはセイロン茶で、注ぎ方が独特だ。つまり、カップ近くから注ぎ始めてだんだんと上げていき、最後は50cmくらいの高さから注ぐ。だから、お茶は泡だらけとなる。見事な技だ。

 建築家ジェフリー・バウアーは、そもそも弁護士だったが、ある時、思うところがあり、事務所を畳んで2年ほど世界各地を旅行した。イタリアで気に入った建物をセイロンで再現しようとしたが、思うようなものが出来なかった。そこで一念発起して以前法律を勉強したロンドン大学にまた留学し、2年かかって建築家となった。それからは、国の内外で活躍し、一躍時代の寵児となる。



 バウアーの設計した著名な建物の一つがこのヘリタンス・カンダラマホテルである。黒と白を基調として周りのジャングルに溶け込むように作ってあり、屋上からは蔦を垂らして建物を緑の植物で覆っている。



 プールは3つあり、ひとつはインフィニティで、目の前の湖と一体化している。二つ目は岩をくり抜いて作ってあり、三つ目は屋上の普通のプールだ。



 エントランスや廊下に置いてある椅子や長椅子は、黒い金属が曲がって作られている独特の形をしている。お世辞にも座り心地が良いとは言えないが、彼の建物の椅子のほとんどが、この形らしい。



 このホテルは、湖に面して鳥が両翼を広げた形をしていて、端から端までが1kmもあるそうだ。スリランカ国内では有名で、新婚旅行先にもよく選ばれているという。



 ちなみにジェフリー・バウアーは、首都コロンボの湖に浮かぶシーママラカヤ寺院の設計者としても有名である。


8.キャンディの仏歯寺を訪問

 キャンディはイギリス統治時代に、イギリス人に好まれた地で、日本で言えば軽井沢のような町である。標高500mと、周囲を山に囲まれた比較的涼しい気候だからだ。アジアで最初に完成した鉄道が、コロンボからこのキャンディ間であった。今でも人口70万人と、コロンボに次ぐ第二の都市である。



 その街に、仏陀の犬歯を納めた仏歯寺がある。王朝様式の荘厳な建物で、着いた時は午後7時を過ぎていたが、建物はライトアップされて、素晴らしかった。

 やはり、入り口で靴を履くな脱げということで、靴下だけにさせられた。そのまま歩くと小石が当たって痛かった。裸足の人も多かったが、私は靴下なので、まだましだった。こういう習慣は、寺域の全域に及んでいるが、日本のように建物の中だけにしてほしいものだ。とりわけ今日も雨だったので、痛い上にびしょ濡れとなってしまった。



 その肝心の仏歯寺の中だが、長方形の大広間のようなところに金ピカの仏の大きな坐像が鎮座していた。それは長方形の短辺で、長辺の両脇にはたくさんの小仏の坐像があり、その上には、多くの仏画が飾られていた。



 仏画は、釈迦の悟りの図、涅槃の図などであるが、イギリス人らしき数人のゲストを前に象が向かい合っている画があった。これは何かというと、統治者であるイギリス人を前に、仏陀の歯を載せた象をお披露目している様子である。

 昔々のこと、日照りが続いて皆が困っていた時、坊さんが仏陀の歯を載せた象のパレードを思いついた。早速実行したところ、雨が降りだしたという故事にちなんで、毎年8月の満月の日に、このパレードが行われるようになったという。それをイギリス人に見せたところ、それ以来、イギリスは、地元の宗教には関わらず、政治的な統治だけを行うことになったとのこと。

 話は仏歯寺の中に戻るが、2階に行き、大勢の人々が群がる中、押し合いへし合いをして、皆がとあるガラスの部屋を覗き込んでいた。そこに、仏歯が納められていたようだ。私も覗き込んだが、どれがどれやらよくわからなかった。



 先日、過去50年間、仏歯を載せて象のパレードの先頭を行った象が、遂に亡くなった。そこで、その象を剥製にして保管されていた。大きくて立派な雄の象だった。


9.コロンボのガンガラマ寺院

 コロンボ市内に戻って来たが、ちょうどお昼時の激しい渋滞で、昼食会場に着いたのは午後2時を回っていた。アフタヌーンティーのようなものをいただいた。



 それから、直ぐに市内中心部にあるガンガラマ寺院に詣でた。どこもかしこも、金ピカの仏の坐像や貴重な品々に溢れていた。


10.紅茶博物館を訪ねてお土産

紅茶の父と言われるジェイムス・テイラーは、1867年、17歳の時にインドのアッサム州からお茶の木の種を持ってきて、7.2haの茶畑を始めた。それがスリランカでのお茶栽培の始まりである。



 そもそもセイロンでは、コーヒー畑を作っていたが、ある時コーヒーの木が病気で全滅した。でも、紅茶の木はその病気には罹らなかったので、これを契機としてセイロンは一斉にコーヒーから紅茶へと転作したそうだ。イギリス市場に出すと、セイロン茶は香りも良いことから評判になった。

 ちなみに、お茶は種から栽培すると、120年間生きる。ところが、挿木にする方法があり、今は全部がこのやり方である。この方が密に植えられるし、一本当たりの収穫が多い。しかし、60年間しか持たないという。

 最高級品は、ゴールデン・チップスで、お茶の芽だけを摘み取るもので、80gで5,000円。発酵が弱くしたシルバー・チップスもあるが、値段は同じ。いずれも日本茶の最高級品より高い。

 私にはそんな高いものは必要ないので、オレンジ、マンゴー、レモンなど色々なフレーバーを付けた紅茶をお土産に買った。家に帰って飲んでみるのが楽しみである。


11.今回のツアーを振り返って

 つくづく、今回のツアーを振り返ると、これまでで最低かつ最悪の旅だった。というのは、4日間を通じて連日、雨が降りっぱなしだったし、加えて

 第1日はシーギリアロックで大雨に難渋しただけでなく、強風に吹き飛ばされそうになったし、

 第2日は、ダンブッダ石窟寺院で雨の中を靴を脱がされて延々と歩かされた。もし、足の裏を切って破傷風にでもなったらどうするんだと思ったし、

 第3日は、キャンディの仏歯寺で同じく靴を脱がされて歩いた上に、その仏歯を一目見ようという群衆に巻き込まれて揉みくちゃになったし、

 第4日は、予定していた紅茶工場見学が途中の道の土砂崩れで行けなくなったし、やむを得ず行った紅茶博物館では停電だったりして、いやもう散々だった。7日間でなく4日間のツアーを選んだのは正解だった。

 そんな雨季に行くのが悪いと言われそうだが、旅行本によると雨は夕方に振り、日中は青空が出て十分に観光できるはずだった。ところが、一日中、しとしとと降る日本の梅雨のような雨だった。ガイドによれば、我々の旅行の期間、インド洋上にハリケーン並みの低気圧が長期停滞していたという。

 天候のことは仕方がないと諦めるしかないが、それにしても酷い旅行だった。


12.その他スリランカについて


(1)野生動物が身近

 市中や観光地には、野良犬が多い。ほとんどの犬は大人しいが、稀に吠えている犬もいた。狂犬病持ちに噛まれたら、一巻の終わりだと思った。また、野生の猿があちこちにいる。観光客は、野生の猿に気をつけるようにと言われた。バッグのチャックなどを開けていると、あっという間にかっぱらわれるそうだ。さらに言えば、郊外をバスで走っている時、道の真ん中に、大蜥蜴を見かけた。これほど身近にいるので驚いた。

 (道路端に糞を見ただけだが)野生の象がいる。スリランカ全土には8,000頭の象が生息しているらしい。だから人間との共存が課題となっている。とりわけ農村地帯では、家とは20mほど離して屋外にトイレがある。夜間トイレに行こうとして、象に踏まれて死ぬという事件がしばしば起こっているそうだ。


(2)国名の由来と簡単な歴史

 スリランカの「スリ」は、輝いて素晴らしい、「ランカ」は国という意味。九州より少し小さいくらいで、人口は2,200万人、あちこちが緑豊かなので、緑の国と言われる。

 スリランカの最初の王朝は、紀元前543年にインドから700人を引き連れてスリランカにやってきて、現地の人と結婚し、その子孫が今のスリランカ人のうちのシンハラ人で、75%を占める。タミール人15%(半分はヒンズー教だが、キリスト教も多い)、イスラムは10%ほど。シンハラ語が公用語。

 近代の大航海時代に入り、まずポルトガルが16世紀から17世紀半ばまで、続いてオランダが18世紀末まで、主に海岸線を占領していた。イギリスがやって来て、全土を植民地化し、1948年に独立するまで支配した。イギリスは、全土にプランテーション農業を導入して、島の経済構造を大きく塗り替えた。当初はコーヒー栽培だったが、それが病気で全滅してからは、紅茶とゴム栽培に移行して成功を収めた。


(3)いつも黄色点滅の信号機

 キャンディ市内には、もちろん信号機があるが、赤とか青が点いているのは珍しく、ほとんどが黄色の点滅である。地元の人によると、この方が自己責任でスムーズに動くそうだ。

 もっとも、コロンボ市内に入ったら、信号がちゃんと青や赤になっていて、安心した。


(4)シンハラ語

こんにちは → アーユーボーワン (Ayubowan)

ありがとう →イストゥティ (Istuthi)。ただし、最初の「イ」は、ほとんど聞こえない。(「椅子とって」と覚えるとよいそうだ。)


(5)シーギニア・ヴィレッジ・ホテルの怪

 2泊目に、シーギニア・ヴィレッジ・ホテルという所に泊まったのだが、これがもう何十年か前の遺跡のようなホテルである。いわゆる「ヴィラ」スタイルの先駆けだと思うのだが、レセプションの建物でチェックインしてから、水たまりの凸凹道を10分近く歩かされて、やっと自分の部屋に到着する。鍵を開けると、玄関のドアの上半分しか開かない。下半分はというと、その空いた二分の一ドアから手を入れて更に中の鍵を開けないと、入れない。不思議な構造だ。こんなことをして何かメリットがあるのか、どうにも疑問だらけである。

 ディナー後に自分の部屋に戻ろうとすると、道路はぬかるみ、照明が暗いしあまりない。だから部屋がどこにあるのかよくわからない。うっかりすると、あちこちに設けてある池に落ちてしまいそうだ。

 更に困惑したのは、朝5時45分に、勢いよくドアが叩かれたことである。何か急な事件でも起こったのかと思った。上半分のドアを開けて「誰だ!」と叫ぶと、「morning call」と答えが返ってくる。確かに、午前6時にモーニング・コールを頼んでいたが、これでは「モーニング・ノック」だ。しかも時間が15分も早すぎる。部屋にはちゃんと電話機があって、しっかり繋がるのに、なぜ電話してこないのかわからない。全くもって人騒がせなホテルである。


13.【後日談】洪水や土砂災害

 私がスリランカを訪れたのは、11月23日から24日までだった。この間、雨が止むことなく、一日中降っていた。既にその前の22日頃から雨が降り続いていたようだ。これは、インド洋上に居座るサイクロンの影響だと説明されていた。

 そして既に11月23日頃からスリランカ各地で洪水や土砂災害が起き、30日現在では410人が死亡し、336人が行方不明になるなど、大きな被害が出た。

 衛星画像を見ると、川の近くの住宅が建ち並ぶ地域では、多くの建物が水につかり、道路もほとんどが冠水している。

 世界食糧計画の現地事務所代表によると、「大雨の影響で、22万人が家や土地を離れ避難を余儀なくされた。土砂崩れで200以上の道路が通れなくなり、10の橋が破壊されて使えなくなっている。国の全域で大規模な破壊が起きている」とのこと(NHKニュース 12月3日付)。

 というわけで、私は最悪のタイミングでスリランカを訪れたわけだが、悪運強くというか何というか、無事に帰国することができた。災害に遭ったスリランカの皆様には、心からの哀悼の意を表したい。

 それにしても、シーギリア遺跡の頂上の直下の梯子をよじ登っていた時は、大雨と強風で私も危なかった。あんな目に遭うのは、もう懲り懲りである。





(令和7年11月27日著)
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悠々人生エッセイ





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