悠々人生エッセイ



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          目 次
    
       
     海外より国内旅行へ
     伊勢神泉と下宮参り
     鳥羽水族館のラッコ
     初めてのおかげ横丁
     帆船エスペランサ号
     名門志摩観光ホテル
     志摩スペイン村探訪
     伊勢神宮なぜここに
     お伊勢参りの背景は


 伊勢志摩への旅( 写 真 )は、こちらから。
         伊勢志摩への旅(ビデオ)は、こちらから。


1.海外より国内旅行へ

 私は、海外旅行が大好きだ。これまで、51ヶ国を旅行した。後は北欧三国とバルト三国に行って57ヶ国になったら、もう各国を巡る旅はやめて、パリやロンドン、ボストンなどの大都市に長期滞在しようと思っていた。

 ところが、近年の円相場はかつてないほどの円安水準にあり、対ドルで163円台、対ユーロで187円台を記録した。かつてそれぞれ70円台、100円程度であった頃を思い出すと、馬鹿馬鹿しくなる。つくづく円が弱くなったと実感せざるを得ない。

 加えて、トランプ大統領による突然のイラン攻撃で、中東情勢が緊迫している。戦争開始から終結に至るプランすら持たなくて、いきなり独断で他国を攻撃するなど、およそ大国の指導者とは思えない狂気の沙汰だ。まあこれが、トランプ大統領だと言ってしまえばそれまでだが、そのせいで中東を経由する欧州航路がズタズタになってしまったし、これによる石油の値上りと供給の逼迫で、世界中の人々の日常の暮らしが大きく影響を受けている。

 私はこの数年、ドバイ、バーレーンなどを経由して、エジプトギリシャスペイン、ポルトガルクロアチア、スロベニアバルカン半島などを旅してきたが、もはやこうした中東経由の旅はできなくなった。

 更に、ロシアのウクライナ侵攻は本日現在で1604日目を迎えるが、どうやら大国ロシアが小国ウクライナに押し込まれ、敗北への道を突き進んでいるように見える。追い込まれたプーチン大統領が窮鼠猫を噛む如く、突発的な暴挙に出ないとも限らない。だからこそ、現在のヨーロッパ方面への渡航はリスクが高く、懸念が尽きない。

 とまあ、そういう理由で、しばらく国内を旅することにした。私はかつて、国宝の城の探訪各地のお祭り見物桜を見る旅などをしてきたが、これからは先は、かつて見逃した地域をのんびりと回って行きたい。というわけで、今回は伊勢志摩を取り上げて旅をしてきた。


2.伊勢神泉と下宮参り

(1)伊勢神宮は、これまで何度も訪れたことがあるが、おかげ横丁と下宮へはまだ行ったことがない。それにこの際、鳥羽水族館にも行きたいということで、伊勢市駅の目の前にある伊勢神泉という旅館に泊まることにした。ここは2泊3日の予定で滞在し、のんびりと行くつもりだ。

 第1日は、東海道新幹線を降りた名古屋駅で、近鉄特急「火の鳥」に乗り換えた。事前に調べたところ、デジタル切符の「まわりゃんせ」というのが、特急券や各施設の入場券が含まれているので便利でお得だというから、予めネットでそれを買って行った。

 現地で使うと確かにその通りで、大いにお得だったけれども、乗る際に一々QRコードを出して乗らないといけないので、Suicaに慣れた身としては、それがやや面倒だった。忙しなく動く多くの人で混雑している東京では、採用できない方式だろう。



(2)昼過ぎに伊勢市駅に着き、伊勢神泉に投宿してゆっくりした後、夕方に伊勢神宮下宮に行ってみた。面白いことに駅前からもう既に鳥居があって、そこから一本道の参道になっている。両脇に参道商店街があり、少し歯抜けになっているものの、神前街の雰囲気は十分だ。そこをのんびりと歩いていく。大きな通りを渡ろうとすると、角に赤福の店があった。



(3)ここで、赤福を食べようかと気がそそられたが、もう夕方だし、明日おかげ横丁に行くつもりで自重して、いよいよ下宮の神域に足を踏み入れた。玉砂利を踏むザクザクという音とともに、大木の間を奥へ奥へと進み、右手にある遷宮予定地を通り過ぎ、ようやく豊受大神宮(伊勢神宮下宮)に到着した。その前の高札には、こう書いてあった。

「お米をはじめとする衣食住の恵みを与えてくださる産業の守護神です。

 約千五百年前の雄略天皇の御代に、丹波国から天照大神のお食事をつかさどる御饌都神(おげつかみ)としてお迎え申し上げました。

 御垣内の御饌殿では毎日朝夕の二度、天照大神に神饌をたてまつるお祭りがご鎮座以来絶えることなく行われています。

 御遷宮は内宮と同じく二十年に一度行われ、第六十三回神宮式年遷宮は、令和十五年に行われる予定です。」




 そこで外からお詣りし、帰り道を歩いていった。右手に池があり、その脇にガラスの建物がある。遷宮の写真などを展示しているらしいが、もう夕方なので、閉まっていた。

(4)伊勢神泉に戻り、汗を流すために部屋風呂に入った。これは、壺を半分に切ったような面白い形をしている。昔の五右衛門風呂を思い出して笑えてくる


 それから、夕餉の席に着いた。おお、これは本格的な和食である。ひと皿ひと皿が繊細な味付けで、誠に美味しい。こんな素晴らしい会食は、久しぶりだ。中でも、伊勢海老のスープと石焼きの松坂牛が良かった。また、窯で炊いたお米が、米粒同士がくっ付いておらずにふっくらとして、これは絶品だ。

 5階にラウンジがあり、そこでお茶を飲み、かつアイスキャンディを1本食べて部屋に戻った。壺を半分に切ったような露天風呂に再び身体を浸して疲れをとり、ゆっくりと寝た。


3.鳥羽水族館のラッコ

(1)次の日は、梅雨明けの猛暑の日で、テレビでは外出は控えるべきと言っていたが、旅先で観光に行かないわけにはいかない。ただ、外気に当たることはなるべく避けることにし、できるだけ交通機関と建物の中にいることにした。伊勢市駅から近鉄で鳥羽に行ったが、直ぐに着いた。

 鳥羽水族館は、日本屈指の規模を誇る。飼育種数は日本一(約1,200種)で、その生息環境に合わせて12のゾーンに分かれた館内を、順路を気にせず自由に歩き回ることができる。

 なかでも、人魚伝説のモデルとなった「ジュゴン」は、日本国内では、この鳥羽水族館だけに、飼われている。「人魚の海」ゾーンにいて、大きな身体を回転させながら、のんびりと海草を食べている。その優雅な姿を見ていると、心が癒される。



 「極地の海」ゾーンでは、日本に数頭しかいない「ラッコ」のうち「メイ」と「キラ」の2頭が暮らしている。事前に想像していたのは、貝を食べたり、おもちゃを抱えてくるくると回転しながら泳いだりする愛らしい仕草だったのだが、実際に行ってみると、一匹は昼寝をし、もう一匹はプカプカと水に浮いているだけだった。それでも、見るのに10分待ちの人気ものだ。



 圧巻だったのは、アシカショーのパフォーマンスである。アシカの 高い運動能力には驚いたし、それと、飼育員の息ぴったりの演技が魅力的だった。


4.初めてのおかげ横丁

(1)近鉄電車で、鳥羽駅から五十鈴川駅に行く。ここから、おかげ横丁と内宮を見物しようとした。タクシーで、「取り敢えずおかげ横丁まで」と言ったら、わずか900円の距離なのに、運転手さんは親切にも延々と観光案内をしてくれた。申し訳ないくらいだ。

 おかげ横丁には、西の入り口から入った。招き猫あり、何でもありの店だが、その中で赤福本店を探すと、川の近くにあった。それにしてもこの日は暑い。摂氏34度はありそうだ。外を歩いていると、茹だるような暑さだ。東日本より西日本の方が湿気が高くて暑いのかもしれない。



 見つけた赤福本店では、持ち帰りではなく中で食べる方を選んで、葦簀を引いてある座敷に胡座をかいて食べた。たまたま、座った場所がエアコンの当たる位置で、外は蒸し風呂状態なので、この冷気に当たってまるで生き返ったようだ。赤福を口にする。そうそう、この味だ。賞味期限偽装の「巻き直し」事件(2007年10月)があっても、この味は昔ながらのもので、伊勢土産には欠かせない。




(2)それから皇大神宮(伊勢神宮内宮)に行くつもりだったが、ここから歩くと40分かかるという。この茹だるような暑さの中、玉砂利の上をそんなに歩くと熱中症に罹りそうだ。

 ということで、本日は諦めて伊勢神泉に戻った。再び夕餉の時間となる。また昨日と同じ内容かと内心身構えていたら、案に相違して、全く別物だった。こんなに複雑で繊細な料理をどれだけ苦労して数多く考案しているのかと、料理長さんには感心する。

 中居さんに、「毎日、料理内容を変えているの?」と聞いたら、「はい、そうです。毎週ごとですが、毎日変わります」との返答。「そりゃあ、大変だね」と言うと、「はい、料理長さんはいつも考えています」とのこと。

 私が「長く滞在する人は何日ほど?」と聞くと、「そうですね、1週間ですね」と事もなげに言う。いやいや、毎日こんな豪華な料理を食べたりすると、私だったら、少なくとも数キロは太りそうだ。

 部屋にある壺のような露天風呂が心地よい。ここも温泉らしく、ほんの少し、トロトロとお湯が出てくる。その音を聞きながら、湯船の中でうつらうつらとする。この心地良さと安心感が、国内の旅の良いところだ。


5.帆船エスペランサ号

 近鉄賢島駅のすぐ脇に、エスパーニャクルーズ賢島乗り場がある。そこから出発する「賢島エスパーニャクルーズ」は、美しい英虞(あご)湾を豪華な遊覧船で巡る、伊勢志摩を代表する人気の観光クルーズである。




 3本マストのスペイン帆船型遊覧船「エスペランサ」に乗り込み、潮風を感じながらリアス海岸が織りなす絶景や、真珠養殖のいかだを間近に眺める。この帆船「エスペランサ」号は、大航海時代の探検船をモチーフにした重厚なデザインが特徴である。しかも2階のデッキから見渡す一面の青い海と入り組んだ島々の景色は、まさに圧巻だった。




6.名門志摩観光ホテル

 第3日は、志摩観光ホテル ザクラシックに泊まった。近鉄特急で伊勢市駅から賢島駅まで行き、そこから目の前のホテルまで送迎バスに乗ったら、あっという間に着いた。暑い季節でなかったならば、歩いて行ける此(しこ)の間にある。



 伊勢志摩の美しいリアス式海岸の英虞湾を望む賢島に建つこのホテルは、戦後日本屈指の名門ホテルとされる。

 行ってみたところ、建物は古いが、廊下のあちこちに掲げられた絵画や写真は、歴史を感じさせ、またラウンジではのんびり、ゆったり時間を過ごすことができる。風光明媚な目の前の景色と合わせて、なるほどこれこそ名門ホテルだと納得した。

 ちなみにGoogle Geminiによると、その来歴は、次の通り。

(1) 誕生と数々の試練(1951年〜)

 戦後いち早く伊勢志摩地区が「伊勢志摩国立公園」に指定されたことを受け、真珠の買い付けなどに来た外国人バイヤーや国内外の賓客を迎える本格的な洋式リゾートホテルが必要と考えられた。そこで、近鉄、三重県、三重交通などの共同出資によって計画が始動した。

 開業は、1951年(昭和26年)4月3日で、設計を手がけた建築家は村野藤吾である。当時は物資が極めて乏しい時代であったため、村野氏が戦時中に設計した「鈴鹿海軍工廠高等官集会所(旧海軍クラブ)」の柱や梁を移築・再利用する形で建てられた。この時に建てられた木造のクラシカルな建物が、現在の「ザ クラブ」のルーツである。

 開業当初の賢島はインフラが整っておらず、特に深刻だったのが水不足だった。近隣の伊勢市から給水車で運んだり、尾鷲から船で何百トンもの水を運搬したりしながら営業を続けるという、苦難の船出だったが、この水不足は1969年の志摩水道完成によって解消された。

(2)皇室の御宿、そして文人たちに愛された時代の時代

 開業からわずか7ヶ月後の1951年11月、戦後の国内御巡幸の途上にあった昭和天皇がご宿泊された。陛下はホテル庭園から望む英虞湾の美しさを大変好まれ、のちに「風さえてあごの浦風ふくらしも賢島にたづのさはぐ聞こゆ」という御製(歌)を残されている。これ以降、皇室・公室の賓客を度々お迎えする「伊勢志摩の迎賓館」としての格式が定着していった。

 加えて、数多くの文化人や作家がこのホテルを定宿とした。作家山崎豊子は、昭和30年代から平成にかけて度々このホテルに滞在した。

 代表作『華麗なる一族』の有名な冒頭、「陽が傾き、潮が満ちはじめると、志摩半島の英虞湾に華麗な黄昏が訪れる」という一節は、まさにこのホテルから見つめた英虞湾の夕陽から着想されたものとされる。彼女が執筆に用いたオリジナルの机と椅子は、現在も館内(ザ クラブ)に大切に展示されている。

 作家三島由紀夫は、神島を舞台にした名作「潮騒」の執筆期などにも、このホテルに滞在した記録が残されている。

(3)「ザ クラシック」の誕生と拡大

 高度経済成長期を迎え、1970年の大阪万博を控えた昭和44年(1969年)、近鉄特急の賢島乗り入れにあわせて、村野藤吾の設計による新館(現在の「ザ クラシック」)が誕生した。銅板張りの美しい庇(ひさし)が各階に巡らされたこの建物は、周囲の豊かな自然と対比・共存するようなデザインで、村野建築を代表する名作として知られている。

 さらに、ホテル伝統の名物である「海の幸フランス料理(伊勢海老のスープや鮑のステーキなど)」が広く知れ渡るようになり、美食を目的とした旅の目的地としても不動の地位を築いた。

(4)「ザ ベイスイート」の開業と現代への継承

 2008年には、さらなるラグジュアリーリゾートへの進化として、全室100u以上のスイートルームからなる新棟「ザ ベイスイート」が開業した。これに伴い、既存の建物を「ザ クラシック」、最初の木造建築を「ザ クラブ」と呼び分ける、現在の複数棟からなる複合スタイルが確立された。



(5) 「G7伊勢志摩サミット2016」の舞台へ

 2016年5月、志摩観光ホテルは「G7伊勢志摩サミット」のメイン会場(首脳会議・宿泊地)に選ばれた。アメリカのバラク・オバマ大統領や日本の安倍晋三首相など世界各国の首脳陣が集った。英虞湾の美しい景観をバックに集合写真が撮影されたウッドデッキや、ワーキングランチ・ディナーが催されたレストランなどは、今でも当時のまま保存展示されている。


7.志摩スペイン村探訪

 4日目は、午前中に「志摩スペイン村」へ行った。こちらは、賢島駅から隣りの鵜方駅まで行き、そこからバスで10分もかからないところにある。

 スペインの街並みや文化を再現した魅力あふれるテーマパークである。アトラクション、本格的なフラメンコショーやパレード、絶品のスペイングルメ、そしてリゾートホテルや天然温泉まで揃っており、まるで本当にスペインを旅しているかのような異国情緒を満喫できる。

 ただ、この日は気温が摂氏36度と、ともかく暑かったので、最小限の外歩きにとどめないと、焼き鳥になりそうだった。そこで、基本的には室内にいて、移動の時とパレードの時だけ外に出るということにした。

 スペイン村の敷地に近づくとスリル満点の絶叫マシンがあった。入口をくぐれば、まるでディズニーランドのようなアーチとその両脇に広がる商店街がある。そこから各建物に向かうスタイルだ。



 最初に、フラメンコ館に行く。ARRAIGO(アライゴ)というタイトルで、男女3人ずつで情熱的な踊りを披露してくれた。「アライゴ」とは、スペイン語で「ルーツ(定着、根付くこと)」を意味し、フラメンコの伝統的なルーツや、スペイン各地の異なる風土(土着の文化)を表現した情熱的なステージになっているというのが売り文句だ。伝統的なフラメンコかと思ったら、案に相違し、棒を使ったりするなど、なかなか現代的な踊りである。以前、セルビアの現地で観た本場のショーは、古典のカルメンで、それはそれで素晴らしかった。しかし、このARRAIGOも、フラメンコの新しい境地を開いたという意味で、大いに評価されてしかるべきだと思う。

 お昼は、レストラン「エル パティオ」のパエリヤを食べた。魚介の旨味が凝縮された本格的なものだった。それを食べ終わって寛いでいると、スタッフの方が「パレードをやっているよ」と教えてくれた。なるほど、ディズニーランドのようなパレードで、山車と何人かのスタッフが左右に愛嬌を振りまいていた。これといったキャラクターがいないので、親しみがわくというわけでもないが、この暑い中、よくやっていると思う。




 その他、スペインのアンダルシア地方を思わせる、真っ白な壁と色鮮やかな花々に彩られたサンタクルス通り(白い村)や宣教師フランシスコ・ザビエルの生家をモチーフにしたハビエル城博物館とかの写真をじっくり撮りたかったし、「ひまわりの湯」という露天風呂にも興味があったが、何しろ暑くてたまらなかったので、滞在もなるべく早く切り上げて、早々に出てきた。

そのまま、近鉄特急(ビスタ)に乗り、名古屋に出て、新幹線で帰京した。慌しかったが、熱中症になるよりはマシだ。


8.伊勢神宮はなぜここに

 ところで、かねてから疑問だったことがある。それは、伊勢神宮が、なぜ大和(奈良)から遠く離れた伊勢の地に建てられたのかという点である。それは、Google Geminiに聞いたら、次のような回答だった。

 この謎を紐解くには、日本の歴史書である『日本書紀』や『古事記』に記された伝承(神話的背景)と、当時の勢力図や地理関係から見えてくる歴史的・地政学的背景の両面からアプローチする必要があります。

(1)伝承から見る理由:天照大御神の「お気に入り」の地

 もともと天照大御神(八咫鏡)は、天皇と同居する形で大和の宮中に祀られていました。しかし、第10代崇神(すじん)天皇の時代に「神威が強すぎて同じ宮中でお祀りするのは恐れ多い」とされ、宮外で祀られることになります。

 その後、第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、神様が落ち着くのに最適な場所(鎮座地)を求めて、大和、近江、美濃など各地を旅することになりました。

 そして伊勢の国にたどり着いたとき、天照大御神から以下のような託宣(お告げ)があったと『日本書紀』に記されています。

 「この伊勢の国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可(うまな)し国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ」(伊勢は常世の国からの波が幾重にも寄せる国であり、大和から離れた美しい国である。ここに私はいたいと思う)

 つまり、「天照大御神がこの美しく豊かな地をたいそう気に入り、自らここを永遠の鎮座地に指定された」というのが、古典が伝える由緒です。

(2)地理・歴史(地政学)から見る理由

 歴史学や地政学の観点から考えると、伊勢という場所が古代の大和王権にとって「極めて重要かつ特別な意味を持つ土地」であったことが分かります。

 @ 日が昇る「東の果て」の聖地

 古代の太陽信仰において、太陽が昇る「東」は特別な方角でした。当時の大和王権の本拠地(奈良)から見て、伊勢はまさに「真東」に位置します。

 東の海から昇る太陽(天照大御神)を拝むために、大和の東の果てであり、海に面した伊勢が最も神聖な場所として選ばれたと考えられています。

 A 海洋勢力との結びつきと豊かな食糧

 伊勢・志摩は、豊かな海産物(贄・にえ)が獲れる「御食国(みけつくに)」です。神様に毎日の食事を捧げる「日別朝夕大御神祭(ひごとあさゆうおおみかみさい)」を行う上で、新鮮で豊かな食糧が常に手に入る伊勢は最適な土地でした。

 また、当時強大な力を持っていた志摩や伊勢の海洋民(水軍)を大和王権の傘下に引き入れ、その海上ルートを掌握するためにも、この地に国家最高峰の聖地を置く政治的メリットが非常に大きかったとされています。

 B 東国(関東・東北)進出の重要拠点

 当時の大和王権にとって、未開の地であった「東国」の開拓と支配は最大の国家プロジェクトでした。

 伊勢は、大和から東国へ向かう際の「玄関口(キーポント)」にあたります。東征へ向かう軍勢の無事を祈り、国家の守護を祈願する場所として、伊勢の地を神聖視し、王権のシンボルを置く必要があったのです。

 伊勢神宮は、皇室の祖先神を祀る「国家の総氏神」として、飛鳥時代から奈良時代にかけて、現在の伊勢の地で今の強固な形式(20年ごとに建て替える式年遷宮など)として確立されていきました。

 なるほど、そうなのかと納得してしまった。確かに、奈良から伊賀を通ってこの伊勢まで、今は近鉄特急が走っているが、古代の壬申の乱の時には、このルートを通って大海人皇子が東国へ逃れたそうだ。


9.お伊勢参りの背景は

 次に、江戸時代の「お伊勢詣り」は、なぜ、どういう背景で起こったのかという点についても、Google Geminiに聞いてみた。

 江戸時代に「お伊勢詣り」が爆発的な流行(おかげ参りなど)を見せた背景には、「平和とインフラ」「巧妙なビジネスモデル」「庶民の娯楽への渇望」という3つの要素が奇跡的に噛み合った、当時の社会構造の変化がありました。「一生に一度は伊勢の神様へ」という大ブームがなぜ起こったのか、その舞台裏を紐解きます。

(1)旅行を可能にした「平和」と「インフラ」

 戦国時代が終わり、徳川幕府による強固な統治が始まると、日本史上かつてない「長期的な平和」が訪れました。これにより、以下の環境が整います。

 五街道の整備と治安の安定: 幕府が東海道をはじめとする幹線道路や宿場町を整備したことで、女性や子供でも安全に長距離を歩けるようになりました。

 通行手形の特例: 当時、庶民の移動は厳しく制限されていましたが、「社寺参拝(お伊勢参り)」という大名目があれば、通行手形(今でいうパスポート)が比較的容易に発行されました。

(2)「御師(おんし)」による巧妙なマーケティング

 伊勢神宮側にも、全国から参拝客を集めるための高度なビジネスモデルが存在しました。その主役が「御師」と呼ばれる一種の旅行エージェント兼プロモーターです。

 全国への出張営業: 御師たちは全国の農村や町へ出向き、伊勢神宮のお札(神札)を配りながら、伊勢の素晴らしさやご利益を説いて回りました。

 至れり尽くせりのツアープロデュース: ひとたび庶民が伊勢に行けば、御師が自分の邸宅に宿泊させ、豪華な食事や芸能(伊勢音頭など)で大歓待しました。今でいう「高級旅館付きフルパッケージツアー」の先駆けです。

(3)庶民の画期的な相互扶助システム「伊勢講(いせこう)」

 いくら治安が良く、魅力的なツアーがあっても、当時の庶民(特に農民)にとって伊勢までの旅費は数ヶ月分の収入に匹敵する大金でした。これを解決したのが「伊勢講」という仕組みです。

 みんなで貯金、代表が旅立つ: 村や町内でグループ(講)を作り、定額のお金を出し合って共同積立をします。

 クジ引きで「代参」を決定: 年に一度、クジ引きなどで選ばれた代表者(数名)が、みんなの積立金を持って伊勢へ旅立ちました。代表者は村全員の願いを背負って参拝し、お土産(お札や名産品)を持ち帰ることで、コミュニティ全体に利益を還元したのです。

(5)「一生に一度の観光旅行」という娯楽の解放

 当時の人々にとって、お伊勢詣りは純粋な信仰心だけではありませんでした。むしろ、「大手を振って日常を抜け出せる、一生に一度のエンターテインメント旅行」としての側面が非常に強かったのです。

 伊勢周辺には、一大歓楽街である「古市(ふるいち)」があり、お参りを済ませた後の精進落としとして、お酒や芸能、遊郭を楽しむことが半ばセットになっていました。さらに、せっかくここまで来たのだからと、京都や大坂(上方)を巡る観光ルートへと足を延ばすのが定番でした。

(6)おかげ参りの集団熱狂

 数十年に一度(特に式年遷宮の翌年など)、数百万人が仕事を放り出して伊勢へ向かう「おかげ参り」という集団熱狂が起こりました。この時は「お札が空から降ってきた」といった噂をきっかけに、奉公人が主人に無断で飛び出す「抜け参り」が頻発。

 しかし社会全体が「お伊勢様に行くなら仕方ない」「おかげさまで(お互い様)」とそれを受け入れ、道中の人々が旅人に無料で食事や宿を提供する「施行(せぎょう)」というカルチャーまで生まれました。

 このように、「制度上の大義名分(参拝)」「資金調達のシステム(伊勢講)」「安全なインフラ」「強烈な旅への憧れ」が奇跡的なバランスで融合した結果、江戸時代のお伊勢詣りは、身分を超えた一大国民的イベントとなったのです。






(令和8年7月16日著)
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