This is my essay.









 しばらく前のことになるが、仕事でニューヨークから南へ飛び、アルゼンチンの首都、ブエノス・アイレスに立ち寄ったことがある。その頃は2001年末のデフォルト(国家債務の不履行)の少し前で、国の経済を何とか持たせているという感じがする時代であった。というのは、ドル・ペッグ制つまり1ドル=1ペソを堅持していたものの、われわれ旅行者の目からすると、1ペソは、とうてい1ドルの価値ほどもなく、おそらくその三分の一程度というのが実感であった。というのは、泊まったホテルはたいしたことがないのに、ニューヨークの一流ホテルくらいの料金をとられたからである。こういう無理をしていると、いつかは経済が崩れるのではないかという予感がしたものである。

 町に出てみると、ブエノス・アイレス市内は、建物はかなり古びてはいるものの、まあまあ荘厳な造りで、それなりの雰囲気が感じられた。街路樹にほどよく囲まれたカフェでお茶を飲む市民も、なかなか幸せそうであった。全体として評すれば、やや古びたパリ市内という印象がしたものである。

 しかし、数年後には、その様相は一変したはずである。国を挙げてのデフォルトに陥り、日本国内でもアルゼンチン国債を買った企業などは、それが紙切れ同然となった。もっとも、つい最近、1割くらいは戻ってくるのではないかという記事を目にしたが、いずれにせよこの国を信じて国債を購入した外国人は、ひどい目に遭ったことになる。ところが、おそらくそれ以上に苦しんだのは、アルゼンチン国民である。特に中産階級は、資産をドルに変えていなかったであろうから、銀行の引き出し額を250ドルに制限されたうえ、給料の凍結、高騰するインフレになすすべもなかったという。市民は、持っているものは何でも、それこそ鍋釜のたぐいまで切り売りしたと新聞には書いてあった。

 アルゼンチンで私が話を聞いた日本人の学者さんは、「ご存じでしたか? この国は、近代で初めて、先進国から発展途上国に没落した国なんですよ」と宣った。なるほど、そういうことかと、目から鱗が落ちる気がしたものである。この国は、そもそも土地が肥沃で、小麦の生産に適していた。加えて、人間の数よりも牛の数が多いという牧畜国家である。それが冷凍船の発明で、販路をヨーロッパに大きく広げ、移民も受け入れ、19世紀の末から20世紀の初頭には相当の外貨を稼ぎ、世界の一流国家となった。今年、100周年を迎えた日露戦争で、日本が使った戦艦「春日」と「日進」も、その当時、アルゼンチンがイタリアに発注して建造中の軍艦を譲ってもらったものであることは、よく知られている。そういう国運が上を向いているときこそ、人材の育成を図るべきであったのだろう。

 二度にわたる世界大戦で無傷だったアルゼンチンは、第二次大戦のあと、ペロン大統領が就任した。ペロンは、それまで農畜産業中心の経済であったアルゼンチンの工業化を図るため、急進的な工業化政策と労働者優遇政策をとろうとしたが、国家財政の窮迫とインフレの昂進を生んで失敗し、バチカンとの確執もあって、退陣のやむなきに至った。それからは、数次にわたる軍事政権の下で政治経済ともに混迷を深めていったのである。1983年になって民政移管が行われたものの、一度傾いた国運は、そう簡単には戻らないものとみえて、今日まで混乱と混迷の歴史を繰り返してきた。やらずもがなのフォークランド紛争では、イギリスに大敗したし、サッカーの世界的英雄マラドーナも、今では薬物の乱用でつかまったことがある、中年の太ったおじさんにすぎない。最近では、2001年末の前述の経済危機で、1321億ドルの債務不履行を宣言した。

 このように書きつづっていくと、アルゼンチンというのは何とくだらない国なのだろうかと思われるかもしれないが、実はさにあらずというのが、本日の主題である。アルゼンチン・タンゴの踊りを目にし、そのダンス・ミュージックを聴けば、何とすばらしい芸術だろうかと思うこと請け合いだからである。アルゼンチンは、このタンゴを生み出して人類に貢献すためにこそ、出来た国家ではないかと、密かに思うほどなのである。こういうところが、神様の味なところであろう。だから、そのほかでは、多少の失敗をやらかしても、まあ許される国なのではないだろうか(アルゼンチン国債で損をした人、ごめんなさい)。

港町ボカのカミニート通り

 やや前置きが長くなったが、私が初めてアルゼンチン・タンゴの踊りを見たのは、まさにそれが生まれた港町ボカのカミニート通り近くの酒場である。ここは、そのあたりでは有名な店らしくて、席をとるのに苦労した。二階から舞台を見下ろす形ではあったが、何しろ小さな酒場のこと、すぐ真下で繰り広げられる踊りの興奮と観客の感動が、地響きのように伝わってきた。その踊りは、初めて見たものには、一見とても奇妙である。というのは、上半身は優雅なクラシック風で、しずしずと動くのに、下半身はというと、特に膝から下がまるで別の動物の4本足のように所構わず動き回っている。いや、のたうち回っているといった方が適切だろう。その上下のアンバランスが、まさにこの踊りの出生を暗示しているようで、興味深い。

 私は、タンゴが生まれた港町ボカ(首都ブエノスアイレスにある)へ行ってみたが、場末のうら寂しい雰囲気の港町である。それは、昔も同様だったようで、港湾労働者が一日の辛い労働の憂さ晴らしとして騒いだ酒場で、この踊りが始められたという。したがって、あまりに卑猥だという理由で、禁止されたこともあったらしい。それが今日では、芸術的な踊りへと高められたという歴史を持つ。他方、タンゴの音楽は、そのラプラタ河の向こう岸にあるウルグアイの首都モンテビデオのアカデミアで生まれたとされる。これも、いわば赤線地区の音楽として蔑視されていたが、そのうちに有名になった曲や芸術的な歌詞がつくようになって、次第に公認されるようになったという。

 ともあれ、異国で世界的に有名な音楽と踊りを見たのであるから、感激しない方がおかしい。というわけで私は、機会があればまた見たいし、家内にも見せてあげられればと思っていたところ、ホセ・コランジェロ楽団「ダンシング・タンゴアルゼンチーノ」という宣伝を目にした。チケットの値段や公演場所からすると、さほど高級でもないが、いかにもタンゴにふさわしいではないかと思って、二人で行くことにした。

 当日は、写真などの撮影は禁止になっていたので、映像の記録はできなかったのはとても残念だったが、ラ・クンパルシータ、エル・チョクロ、我が愛のミロンガ、アディオス・ノニーノなどの名曲と踊りを堪能した。率いるのは、65歳の元気なホセ・コランジェロおじさんである。9回目の来日公演とのこと。この人が指揮者・司会・ピアノを兼ねて雰囲気を盛り上げ、ピアノ、バイオリン、チェロ、バンドネオン、コントラバスの5重奏であった。圧巻だったのは、もちろん8人・4組のタンゴ・ダンサーたち。例の下半身の激しい踊りをしながら、舞台狭しとくるくる回って踊り、最後は女性が斜めになってパッと決めるというパターンである。それも、頭が斜め下になることが多い。踊り終わるたびに、思わず大きな拍手をしてしまった。





(平成17年6月23日著)
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悠々人生・邯鄲の夢





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