This is my essay.







 私は、あまり飲めない質なので、飲み屋さんにはとんと縁がない。それでも、東京で長年暮らしているうちに、何軒かのおなじみのお店が自然とできてきた。いずれも、お酒というよりは、食事を目当てに行く店で、なかなかおいしいところである。中には、私が上京したばかりで結婚前の頃からのお付き合いのお店がある。赤坂見附にある家庭料理の店の「おふくろの味 ねぎ」、新宿三丁目の「レストラン あづま」、新宿西口の「とんかつ」、青山の「エルフラメンコ」などは、通いだしてからもう四半世紀も経っている計算になる。もっとも、しょっちゅうそういう店に通っていたわけではなく、結婚して自宅で食事ができるようになってからは別に行く必要もないので足が遠のいた。もちろん、外国で暮らした期間をはじめとして、途中で何年かは間が空いたりしている。今は昔に比べるとすっかり行かなくなった。しかしそれでも、昔の友達と集まったりするような行事があると、ふとそうしたおなじみの店のどれかを選んで、いそいそと予約の電話を入れたりするのである。

 あるとき、「ねぎ」へ数年ぶりに顔を出した。そうすると、経営者が変わっていてびっくりしたのである。それまでは、もう60歳近いおばさんがほとんどひとりで切り盛りしているようなお店であった。ところがその還暦おばさんがいたカウンターには、40代くらいの夫婦が並び、手慣れた手つきで料理を作ったり、お客の相手をしたりしている。しかし、その奥さんの顔を見ていると、どこやらその前のおばさんの顔と似ている。ひょっとしてと思って聞いてみると、やはり、おばさんのお嬢さんであった。

 まあ、出てくる料理のメニューは全く変わらないし、味は以前のものとさほど違わないものもある。きんぴらゴボウやヒジキ、肉じゃがなどは、むしろ塩気が少なくなって、かえって健康によくなった。ただ、マグロのカマや餃子など、そのほかの料理は、その材料は同じようなものでも、味か何やら頼りなくなった気がする。全体としていえば、私の頭の中の評価のグレードをちょっと下げなければいけないだろう。ただ、店としての連続性はどうかといわれれば、おおよそ継承されているといってよいかもしれない。そこで、おそらくそのおばさんは、この秘伝の味と店を娘夫婦に譲って引退して今頃は悠々自適なのだろうなどと、ひとりで勝手に思い込んだ。そこでそれ以上は娘さんに聞かずに、連れの友達と大いに語らって、よく食べてお店を出た。それから何回かその店に通い、いつの間にかその娘夫婦の味にも慣れてきたのである。

 それから、一年ほど経ったときのことである。あるとき、アメリカ西海岸に出張することになり、ロサンゼルスでホテル・ニューオータニに泊まった。このホテルは、日系の地区に近いし泊まりやすいものだから、私が常宿にしているところである。泊まって二日目の土曜日の夕刻のこと、タワーの方から低層階のショッピングセンターの方にぶらぶらと歩いていき、何かおいしいものを食べようとしていた。そして階段を上がってふと端の方に目をやると、そこに赤坂見附のお店と全く同じ看板があるではないか。「ねぎ」という字を勘亭流の太い文字で書かれている。「あれあれっ、不思議なことがあるものよ」と思ってその店に入ると、何とまあ、そのおばさんが目の前にいるではないか。もう、びっくりしてしまった。先方も私の顔を見て驚き、異国での思わぬ再会を祝い合ったのである。

 おばさんの話によると、外国に行こうとかねてから思っていたところ、娘が店を継ぐという機会に一念発起して、アメリカに出てきて店を始めたとのこと。「へえ、そのお年でねぇ」とあやうく言いそうなところを口の中に飲み込んで、ともかくその気力とバイタリティに感心したのである。ただ、そのお店を見渡すと、お客の数は、ぽつり、ぽつりである。そのおばさんは、「ちょっと待って」などといって急に席を外した。そして板前とウェィトレスを一人ずつ連れて別のお客たちのところに飛んでいき、何をするかと見ていたら、調子っぱずれな声で、突然「Happy Birthday to You!」などと歌い出した。そのアベックで来ていたお客へのサービスのつもりだろう。それにしても、赤坂見附の店ではそもそもこのおばさんが歌い出すなんて、まるで想像もつかなかった。「ふーん、いや、なかなか苦労しているな」と思ったのである。

 それからほどなくして、私の友人がそのホテルに泊まったが、ロサンゼルスのホテルにあったそのお店は、綺麗さっぱり消えてなくなっていたという。それ以来、私は赤坂見附の方面からも、すっかり足が遠のいてしまったので、そのおばさんが以後どうなったかは、つまびらかでない。





(平成13年 2月17日著)
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