This is my essay.



神戸市の阪神・淡路大震災の震災記録写真集より




 今からちょうど10年前の1995年1月17日午前5時46分、阪神と淡路島を襲ったマグニチュード8.9の大地震は、都市直下型の地震であったために、死者6,433人、負傷者43,792人、全壊した住宅104,906棟、半壊した住宅144,274棟という大被害をもたらした。

 その日、私は、東京に住んでいたために地震の揺れは、まったく感じることができなかった。震度1程度であったらしい。朝の出勤前のニュースでは、大阪・神戸で地震が起こり、数十人がなくなった模様という、実に簡単で素っ気ないものだった。私は特に気にかかることなく、いつものように出勤し、普段どおりに仕事をしていた。そして、お昼になったので、ふとテレビのNHKニュースを付けたとたん、何と街全体のあちこちからモクモクと空高く黒い柱が立ちのぼり、そのひとつひとつの柱の真ん中には、毒々しいばかりの赤い火が見えるではないか。もうびっくりしてしまった。

 そのとき私は、衣料品に関する仕事をしていたので、すぐに、この冬の寒空の下で、被災地では毛布や衣類が不足するだろうと思い、これらを確保しなければいけないと考えた。関西近辺では、泉佐野が毛布の産地である。そこで、現地の毛布の組合に電話して、被災者の皆さん用の毛布の確保を頼んだが、現地の答えは私をびっくりさせた。「ああその件なら、ご心配なく。地震があってから、すぐに3万枚ほどを用意して、今朝早くそのトラックを出発させました」というのである。さすがというか、自主的にいつもそうした災害用の毛布を備蓄していて、ちゃんと緊急時の準備をされていたらしい。

 次に、東京にあるアパレルの業界の主な方たち数人と緊急に連絡をとって、この際、冬物衣類をどんどん救援に拠出しようということで、話がまとまった。さすがに業界のリーダーたちで、今でいう社会的責任を自覚されていて、隣人愛に富むすばらしい精神をお持ちである。話は早く、それらはたった一時間以内で済んでしまった。

 ばたばたしたので、さて一服しようとしたが、そういえば、これらを現地に運ぶ手段がないことに気がついた。陸路は駄目だろうから、神戸港から搬入できないかと思い、午後1時すぎ、海上保安庁に電話をしてそういう支援物資を運んでくれないかと頼んだが、ウチは運送はしないと断られた(注)。そんなことを言っているときではないだろうと思ったが、こんな石頭と話をしてもはじまらないと考え直し、次に防衛庁に電話をした。いろいろとたらい回しにされた挙句に担当課長というのが出てきて、一週間後なら便がないわけではないと言う。ではその一週間の間に被災者の皆さんが凍え死んだらどうするんだと言ったが、何も答えない。震災のその日で、まだ被害の全容が何もわかっていない時点のことだとはいえ、もう少し対応がよくてもよさそうなものなのにと思ったが、まあ普段からお付き合いのないところだけに、無理だったかと考え直して、自分で何とかすることにした。

 そこで、業界のリーダーの皆さんたちに、そういう顛末だったが、運搬手段はあるだろうかと電話で聞いたところ、その中のひとりから「それなら日頃懇意にしている運送会社に頼むしかないですね」ということになり、その線で行くことにした。ちなみに、このトラックの第一陣はその日のうちに出発し、いろいろと難渋した末に、何とか翌朝の明け方に現地へ着いたという。

 そうこうしているうちに、業界のリーダーのひとりから連絡が入り、「実は各社に救援のための冬物衣類の供出をお願いしているのだけれど、各社は喜んで協力はすると言ってくれているものの、あとから税務署に売り上げをごまかしたなどと誤解されても困るので、何とかならないものだろうかと相談を受けている」ということであった。私は、「わかりました。何とかしましょう」と答えて電話を切った。

 その受話器を置いた直後は、「これから、担当課を通じて国税庁に話を持っていって・・・」などと手順を頭に描いていたが、すぐにこんな緊急の時にそんな悠長なことは言っておられないと思い返し、直ちに見ず知らずの主税局の法人税の担当課長に電話をし、こういう次第だが、業界は回答を待っているので、緊急の措置をお願いしたいと申し入れた。すると、さきほどの防衛庁などとは違って「わかりました。これから部内で相談しますので、少し待ってください。」という好意的な返事であった。通常なら、話の手順が違うだろうと叱られても仕方のないところである。

 それから約2時間しないうちに、そのT課長から電話があった。それによると、局長まで了解をとったので、これこれこういう手順で業界に伝えてほしいとのこと。私は、いたく感激した。その頃の大蔵省は、接待問題などが大いに批判されていた時であったが、こういう立派な公僕もいたのである。その結果を業界のリーダーの皆さんにお伝えしたところ、「思いがけずこんなに早く措置していただけるなんて」と感謝され、支援衣料の確保にますます熱が入ったという。その後、私の知る限り、数万着以上の新品の冬物衣料が、この仕組みを使って被災者の方に行き渡ったはずである。少しは、役に立てたと思う。今なら、内閣府の防災担当などがもう少しシステマティックに迅速に対応できて、当時の私のような立場の者の出る幕など、なくなっていると思うが、当時は、そういう仕組みにはなっていなかったのである。



 これが、私の経験した10年前の震災第一日の様子である。その日にはそんなにひどい震災であるとはわからなかった。しかしその後、現地の様子がテレビでやっと報道されるようになり、被害の全体像が判明し始めた。私が小さい頃によく遊ばせてもらった須磨天神のお社が倒壊している様子、その近くの商店街が全焼して被災者の方々が難儀している姿などをテレビの画面で見て、これは他人事ではないと思った。また何よりも、家や高速道路の下敷きになったり、その後の火事で焼け死んだ犠牲者の方々の無念さは、はかり知れないものがある。もうそれから10年という歳月が流れたが、こうした皆様のご冥福を改めてお祈りする次第である。




(注) 震災の日から一週間経って、「現地に船を派遣するが、何か運ぶものはないか」と言ってきた。防災意識の高まった現在では、もう少し、事態に応じてしっかりした対応がされるものと信じている。


(平成17年1月17日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)


阪神・淡路大震災教訓情報資料集(内閣府)より

阪神・淡路大震災教訓情報資料集(内閣府)より





悠々人生・邯鄲の夢





悠々人生のエッセイ

(c) Yama san 2005, All rights reserved