悠々人生のエッセイ









 願はくは 花のしたにて 春死なむ あのきさらぎの 望月のころ

 これは、あまりにも有名な西行法師の歌であるが、日本人であれば、大なり小なり、桜に対して何かセンチメンタルな気分を持っていることであろう。

 私の場合は、やはり学校時代、特に小学校の思い出である。なぜかというと、ぴかぴかの一年生で入学したときの、校門の柱の横にあった桜の木がとても美しかったからである。それだけでなく、桜餅のほのかな薫りがした。その横で写真を撮ってもらったが、ぼんやりと桜の木を何度も見上げて、撮ってくれた父をやきもきさせたという。

 小学校一年生のときの思い出などは、あまり記憶には残っていない。ただ、国語の教科書に、「咲いた、咲いた、桜が咲いた」というのが載っていて、「ああ、あれだ」と思ったことがある。また算数の時間には、もらったガリ版刷りの紙にひよこのスタンプが押してあって、それで数えさせる仕掛けになっていたものの、私のものはスタンプが消えかかっていて、困った覚えがある。どうも思い出すのは全くろくでもないことばかりであるが、二学期の組の再編成のために生徒全員が校庭に集められたときに、ひとり置いてきぼりになったことがある。つまり、校庭で整列中に、子どものことであるから我慢できなくなってトイレに行ったのであるが、校庭に戻ってみると、人っ子ひとりいなかったのである。さあ、困ったというわけで、どういう方法だったかは忘れたが、ともかく私の入るべき組にたどりついた。

 それから記憶は一挙に飛んで、桜といえば、どういうわけか小学校四年生となる。桜の花に包まれた校舎は、木でできた誠に古ぼけた建物であった。階段を駆け上がると、ぎしぎしと音を立てる年代物である。壁や廊下などあらゆるところは、もちろん木ででできていて、それが長い年月の間にこげ茶色となっていた。あるとき、掃除を仰せつかった私は、もらった雑巾でその木の羽目板をごしごしこすっていた。普通はサラリとなでつける程度なのに、そのときは半ば遊び半分でこすりにこすった。そうすると、木のこげ茶色の部分が剥げ落ちてきて、白い地肌が顔を出した。面白くなってそのままこすり続けると、その羽目板全体が白くなっていった。そこまでやって、はたと気が付くと、私の担当分だけ真っ白になってしまったではないか。

 「いや、これはまずいことになった」と内心で思っていると、運の悪いことに、学校で一番厳しい先生が通りかかった。この先生が怒ると、そのハゲの頭から湯気が出るといわれるほど、こわいのである。ひやひやしながら、通り過ぎるのを待った。コツコツという音が近づいてきて、私の前でピタリと足を止めた。「それ、おこられる」と思って目をつぶると、返ってきた言葉は全く意外なものであった。

 「おお、これはきれいだ。お前、よくやったな。磨けばきれいになるものだな。」 私はもう何といっていいかわからずに、ただ唖然としていた。それからである、傑作なことが始まった。その先生は、自分で音頭をとって、学校の壁磨き運動を始めた。つまり私が面白半分にやった「ヤケクソ磨き」を、生徒全員がそのとおり真似させられて、そのオンボロ校舎を磨きに磨かされたのである。三日もしないうちに、どす黒かった校舎は、真っ白になってしまった。春の珍事であった。私は、内心で忸怩たるものがあった。もちろんその校舎は、それからまた一年ほどして黒いすすけたような板塀のごとき姿に再び戻り、元の木阿弥になったのである。

 それから長い歳月が経ち、私が東京で働き始めて20年弱たった頃、平日のあまりの激務から逃げるように、私は休みのたびにゴルフに出かけた。4月の半ばに、茨城県南部の、とあるゴルフ場に行ったときのことである。6番ホールまで来て、ふっとティーグラウンドの横を見た。するとそこに、桜の木に囲まれた、あの懐かしい小学校の校舎がそのままの姿であるではないか。私は、心底からびっくりした。たまにその姿を思い出したものではあるが、それが現実に目の前に出現したのである。一瞬、幻ではないかと思えたほどであるが、私が呆然と眺めていたのを、キャディさんがめざとく見つけてこう言った。「ああ、こりぁー村の小学校だんべ。ついこんのあいだまで使われていたんだけどもよう、廃校になったげな。」

 私は、この廃校がいたく気に入って、すぐにそのゴルフ場の会員となった。そしてその校舎に近づくたびに、心がなごんだものである。それからしばらく、こうして楽しませてもらったであろうか、悲しいことに、ほどなく取り壊されてしまった。それ以来、私がこのゴルフ場に足を運ぶことは、めったになくなった。


(平成12年11月14日著)
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