岩松院の北斎の図





1.小布施と北斎

 10月の気候の良い季節になり、長野県へと出かける機会があった。そのついでにというわけで、小布施(おぶせ)と小諸(こもろ)という2つの町を散策してきた。小布施は江戸時代の「葛飾北斎」と「幕府ご用達の栗の産地」、小諸は明治期の「島崎藤村」に「小諸城」という観光資源を売り物にしている。いずれも中高年の懐古趣味をちょっとくすぐるところがある。私たち夫婦がたまたま選んだこの二つの町であるが、実際に行ってこの眼で見比べると、誠に対照的で、そのあまりの差に驚いた次第である。というのは、小布施では、今まさに売出し中という熱気すら感じたのに対し、残念ながら小諸の方は、観光地としては低迷し、衰退に向けて転がり落ちていく途上にあるように思えたからである。

 小布施を選んだのは、もとはといえば、私の母が行ってきたからである。珍しく「あそこは、面白いよ」というものだから、それを聞いた頃より行く気になっていた。現地に着いてみると、なるほど、いろいろな名所を作り出し、しかもそれらを結ぶレトロな観光バス「おぶせ浪漫号」まで運転していた。自家用車で来る観光客だけでなく、長野電鉄を使う歩きの観光客にも対応しているというわけである。乗り降り自由のその路線はといえば、次のようになっている。

◎ハイウェイ・ミュージアム → ◎小布施駅前 → ◎北斎館入口 → ◎おぶせミュージアム前 → ◎町営松村駐車場 → ◎おぶせ中国美術館 → ◎フローラルガーデンおぶせ前 → ◎浄光寺 → ◎岩松院 → (循環)

 おぶせ浪漫号はボンネット型の旧式なバスなので、乗り心地はあまり良いとはいえないが、けっこう、いろいろなところに連れて行ってくれる。以上のほかにバス停としては見えてこないが、盆栽美術館というものがあり、また北斎館入口からは日本のあかり博物館、高井鴻山記念館などにも行けたようである。しかし、あまり時間がなかったので、北斎館と岩松院に絞って行ってみることにした。いずれも、晩年の葛飾北斎(1760〜1848年)の絵が残っているところである。

 こんな信州の田舎に、なぜ江戸の人気浮世絵師だった葛飾北斎の絵があるのかというのは、誰もが思う素朴な疑問である。かくいう私も、ホントかなぁーという半信半疑の気持ちで行った。ただでさえ草深い小布施の中でも、更に山の裾野にある岩松院に行って、天井画「八方睨み鳳凰図」なるものを見上げた。そして、確かに富嶽三十六景にも共通する雄大な筆遣いだなぁと確認し、ようやく納得したのである。それにしても、これはまあ、何というか派手な絵である。若さあふれる図柄と言って良いし、現代のサイケデリックな作品にも負けないものがある。それにしても、これが北斎が没する前年、89歳での作とは・・・いやはや、何という老人だろうか。私がその歳になり、これほどの若さと創作エネルギーがまだ残っているかどうか、とても自信がない。

 葛飾北斎は江戸本所割下水、現在の墨田区亀沢一丁目の生まれである。6歳にして絵を描く能力に目覚め、17歳のころ勝川春章に弟子入りし、役者絵や戯作の挿絵を描いた。そして30代から40代前半にかけ、美人の風俗を描く浮世絵で有名になり、さらに40代から60代には、読本や絵手本を描いた。そして70代に至って富嶽三十六景を生み出した。赤富士で知られる凱風快晴、波の合間に富士山が見える構図の神奈川沖浪裏などは、よく見かける浮世絵である。しかし、老いても北斎の創作意欲は衰えるどころかますます盛んとなり、75歳に至って浮世絵の世界から離れて肉筆画に力を入れることにした。80代になり、小布施の豪商であった高井鴻山の招きでこの地を3回にわたって訪れ、長期逗留をして、天井画と肉筆画を描いたということらしい。そして、「あと10年、いや5年もあれば、画の道を究められるのに残念だ」という今際の言葉を残して、90歳の生涯を閉じたという。ちなみに北斎が最後に使っていた雅号は「画狂人卍」である。

 ところで、北斎の天井画がある岩松院(1472年開基)は、ホントに田舎のお寺であるが、これがなかなかどうして、北斎以外にも売り物がある。裏手には、変哲のない池があり、小林一茶が文化3(1816)年4月20日にここを訪れた。そして、「やせ蛙まけるな一茶これにあり」と詠んだという。なるほど、これもおもしろい。しかし実は、これは病弱な息子の千太郎のために詠んだ句だったのであるが、千太郎は、一ヶ月後になくなったという。
痩蛙の碑
 それにしても、このお寺、誠に鄙びた雰囲気がある。たとえば楼門の両脇には型どおり、金剛像と仁王像があるが、これがいかにも素人の作と思われるもので、その下手さかげんが何とも微笑ましい限りなのである。ちなみにこの季節、お寺の近くには、稲刈りが済んだ田圃、特産の栗の林、リンゴ畑、ブドウ畑がなどが広がっていた。

 観光バスの「おぶせ号」に再び乗って、北斎館入口まで行った。栗の木を敷き詰めた小径を歩くと、広場に出た。そこは北斎館を中心として、栗のおこわやら饅頭、羊羹などを出すレストランなどが集まっているところで、どこを覗いても、なかなかおもしろい。一緒にいた家内が急にいなくなったかと思うと、栗入りアイスクリームを買ってきて、おいしそうに食べている。ついさきほど、岩松院の近くで栗のおこわを食べたばかりというのに、甘いものは別腹らしい。私も、そのお裾分けではとても足りず、栗のぜんざいを食べることにした。

 それらが一段落して、いよいよ北斎館に入った。なかなか近代的な建物で、周りの江戸時代風の建物群に混ざってもおかしくないうえに、いささか垢抜けている。ここの売りは、北斎が描いた祭りの山車の天井絵であり、龍と鳳凰、それに波の絵が男浪、女浪の計4枚。これらはまさに、北斎の図柄である。そのほか、肉筆画がこの北斎館の売り物で、「二美人」、「白拍子」などは北斎の浮世絵風である。これらを眺めて、つらつら考えたのであるが、肉筆画というのは、あまり北斎には合っていなかったのではなかろうか。確かに北斎は偉大な画家で、フランスの印象画家やゴッホなどにも影響を与えたほどである。しかし私から見ると、これらの肉筆画よりも、むしろ浮世絵の方が、もっと生き生きとしていたと思えるのだが、どうであろうか。ただし、肉筆画の中でも「菊図」などは、実に写実的で、江戸時代に描かれたものの中では白眉なものだと考える。

 ただ、北斎館で私が感心したのは、映像展示室のスライドの質の高さである。「画狂ー北斎と肉筆画」、「小布施の北斎」という二本であるが、ナレーションもよく、聞きやすく、見やすかった。お勧めしたい。


小諸の古城 懐古園三の門



2.小諸と藤村

 翌日は、リンゴ畑と水田が広がる高原を鉄道でコトコト行き、小諸に着いた。駅前で、栗、野菜、リンゴ、ブドウなどを並べて売っている。のどかなものである。それにしても、観光客がいないなあと思いつつ、駅をわたって小諸城址である懐古園に行った。大きな門と苔むす石垣、なるほど期待通りである。

 懐古園の資料によれば、小諸城の起こりは、平安から鎌倉時代にかけて源平盛衰記や平家物語に出てくる小室太郎光兼(木曽義仲の部将)が築いた館にあるという。それから戦国時代に武田信玄が築城したのが、現在の小諸城址(別名、酔月城)で、その後、織田信長の将である滝川一益、徳川家康の将の松平康国が城主になった。それから城主は六氏にわたって転々としたが、元禄15年に至って長岡から来た牧野氏が城主となり、十代続いた。この城はいわゆる穴城、すなわち城下町よりも低い位置にある全国でも珍しいタイプの城といわれる。

 さて、真っ先に入った三の門は、中央に「懐古園」と書かれた大額が掛けられていて、これは徳川家達の筆によるらしい。わかりやすい字である。そのすぐ横には、徴古館という建物があって、お城ゆかりの左甚五郎作の像、甲冑その他の武具、牧野家の当主の写真などがある。ちなみに、この城址を奥の方に進んでいくと、懐古神社というものがあり、天満宮、火魂社、そして牧野候歴代の霊を祭っているという。さきに旅行した金沢でも、歴代藩主の前田候を祭る神社があったことを思い出したが、それぞれの地元の人たちにとって、藩主という存在は特別だったようだ。

 古い石垣の間をどんどん進んでいき、立ち並ぶ木々の間を斜めに差してくる木漏れ日や、地面に敷き詰められた緑の苔などを見ながら、「これが、小諸なる古城か、まさに滅びの美学だなぁ。」という観が頭をよぎる。黒門橋というところで道が左右に分かれ、右に行くと、島崎藤村記念館である。その建物の左前に鎮座しているのは、藤村の像である。30歳そこそこくらいの時のものだろうか。眼鏡を掛け、目元がきりっとしていて、頬がしまっている。まさに、インテリの顔である。

 島崎藤村は、本名を春樹といい、明治5年に馬籠の本陣の家に生まれた。9歳で勉学のために東京に出て、銀座の泰明小学校に通った。その後、明治学院を卒業して国語教師となり、明治女学校、東北学院を経て、明治32年に小諸義塾に英語と国語の教師として赴任した。それから明治38年に退職するまでの間、この小諸の地で、「千曲川スケッチ」、「破戒」などの名作を書いた。その後、作家として身を立てるために上京し、大正2年のフランス留学を経て、昭和4年に「夜明け前」を発表した。昭和18年、「東方の門」の執筆中に脳溢血で倒れて永眠した。

 私などは、中学生のときに千曲川旅情の歌を読んで感激し、高校1年のときに破戒を読んでこういう世界があるのかと粛然となったし、夜明け前では、これが自然主義派といわれるものかと学んだものである。しかし、最近の学校では藤村を教えてないのか、藤村記念館に来ている若い女の子たちが集まって「わあ、すごい。キャアー」などと言っている展示物を見て、がっかりした。商店が藤村に品物を売った分厚い売掛帳をみて、「こんなことまで記録しているのー。知らなかったぁー」などと無邪気に驚いている。この人達、いったい何のために来ているのかと思う。最近の義務教育では藤村を教えないのだろうか。

 そんなものより、せっかく来たのであるから、藤村が教え子の作文の末尾に入れた朱筆に感激してもらいたい。楷書でとても読みやすく書いてある。それによると「文章というのは、まず相手にわかるように主題を書くべきもので、その点、あなたのこの作文は、とてもよろしい。」から始まって、作文のコツのようなものを懇切丁寧に説明している。後の天下の文豪に、このように指南された生徒は、幸せである。

 また、この地の篤志家の要請で明治26年に木村熊三が開いた、小諸義塾という私塾があったことを初めて知った。木村熊三は明治初年から12年間アメリカに滞在した牧師で、近郊の青年たちに教育を授けるという趣旨で開き、中学校に発展した。しかし、あまりに自由主義的であったため、日露戦争後の明治39年に、閉校せざるをえなかったという。藤村は、28歳でここに赴任したのである。考えてみると、福沢諭吉が東京の三田に開いた慶応義塾も、元々は同じようなものであったのかもしれない。惜しいことをしたものである。

 さて、小諸駅に戻ってみて、他に行くところはないかと駅前の案内図を眺めた。小諸本陣跡など、いろいろな史跡があるようだが、驚いたことに、いずれも「休館中」などという表示が多い。10月の観光シーズンの土日なのに、観光客の数が激減しているらしい。現に駅前の、本来なら繁華街であるところには、閉鎖されたレストランや土産物屋が目に付く。寂れているのだなぁという感を強くした。藤村だけでなく、藤村の依存していた小諸という町そのものが、古城と同じく滅びゆきつつあるらしい。

   藤村や 古城とともに 忘れられ 


海野宿



3.海野宿

 案内図を見ていると、町はずれに海野宿という地があるらしい。ここは、かつての北国街道沿いの宿場町である。おもしろそうだ。突然の思いつきだが、行ってみることとした。しなの鉄道の田中という駅の近くらしい。駅からタクシーに乗り、千曲川沿いの山道をくねくねと曲がりながら行くと、すーっときれいな一直線に伸びた道路に出た。両側は、なるほど江戸時代風の家々が並んでいる。道の左端には、小川が流れていて、そのほとりには、萩や柳の木が植えられている。

 海野宿資料館というところで、その歴史が紹介されている。この地は、1200年前から海野郷と称する東信濃の軍事交通の要衝であり、ここを治めていたのが海野氏である。治承五年(1181年)、木曽義仲はこの海野氏とともに挙兵し、京都に上った。その後、海野氏は、鎌倉幕府の御家人として弓馬にたくみであったという。江戸時代になり、この地は江戸と直結する北国街道の宿場町として栄え、加賀の前田藩などの参勤交代の客で引きも切らなかったらしい。

 ところが、明治維新で参勤交代がなくなったので、どうやらこの町は存亡の危機に陥ったらしい。しかし、寒くて乾いている気候を利用して養蚕を始め、それが奏功してしばらくは再び繁栄したもののようである。しかし、いままた、長期低迷期に入ったらしい。個々人と同じく、ひとつの町も、それぞれの時代の変化に応じて、機敏に飯の種を探していかないと、食べていけないという実例のようである。

 蛇足ながら、都会の消費者として一言。小布施駅前に並べられていたブドウの巨峰は、一房200円であった。買って車中で食べると、いや、そのおいしいの何のって。その同じブドウが地元スーパーでは300円弱であった。軽井沢駅中の売店では、400円である。ところが何と、東京の私の家の近くのスーパーでは、650円であった。これはあまりにも、ひどすぎる。流通機構を、何とかしたいものである。



(平成17年10月 4日著)
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