This is my essay.








 昨年、日本中を賑わした中国発の記事として、唐時代の日本人留学生・井真成の墓誌が西安の郊外で発見されたというのがあった。何はさておき、まずその墓誌を読んでみよう。辞書に頼った私の勝手訳であることを、お許し願いたい。

 尚衣奉御を贈られた井公の墓誌の文

公は、姓は井、字は真成、出身国は日本といい、その才は生まれながらに秀でていた。命を受け、遠く中国に派遣され、馬を駆って訪れた。中国の儀礼と風俗を身につけ、正式な服装をして朝廷に立つと、他に並ぶものはなかった。良く勉学に励んでいたが、まだその道を究めていないうちに、こうして突然の死を迎えるとは、誰も予想もしないことであった。開元22年(734年)の正月に、官舎で亡くなった。享年36歳であった。皇帝はこれを悼み、正式にその功績を称え、詔勅を下して尚衣奉御の官職を贈り、官葬をとり行い、その年の2月4日に、万年県のさん水のほとりに葬った。礼に基づくものであった。嗚呼、哀しいかな、暁に棺を乗せた車を引き、葬儀の列には赤いのぼりを立てた。公は、遠い国にいることを嘆きつつ、夕刻に倒れ、いまは人里離れた郊外の墓の中で悲しみに包まれている。その間際の言葉によれば「死ぬることは天の定めであるが、哀しいことに、ここは故郷から遠く離れている。私の体は既に異国の土に埋められても、私の魂は故郷に帰ることを願っている」との由。



 今から1288年前、留学先の異国である唐の時代の中国に遣唐使の一員として19歳で留学したものの、36歳にして現地で亡くなった日本人「井 真成(せい・しんせい)」の墓碑銘である。この、井 真成の生きた頃の日本史の出来事を繰ってみると、まさに激動期であり、日本という国家の基礎を作りつつあった時代であることがわかる
(参考)。当時の日本はちょうど奈良時代が始まったばかりで、最新の国家運営の知識を持つ優秀な人材を必要としていた。そのためには、遣唐使の派遣は必要不可欠な国家政策となっていた。しかるに、当時の航海技術では、遣唐使はまさに命がけの旅であった。往還の途中で嵐に巻き込まれて命を落とした者も数多くいたのである。そうかと思うと、鑑真和上のように、中国から日本への渡航を何度も試みた挙句に難破し、その過程で盲目となりながら、ようやく6回目にその念願を達成して来日した中国僧もいる。

  そうした状況にあって、この留学生・井 真成は、途中に待ち受ける数々の危難をものともせずに航海に出て、運良く中国にたどりついた。そして、勉学に励み、一生懸命に中国の風俗に慣れ、礼をわきまえて、現地の人にも暖かく迎えられたようだ。当時の中国の唐は、世界で最も繁栄した国であり、世界各国から俊英逸材が集まってきたところである。そういう競争の厳しい中で、現地の人々に評価されるまでに至るのは、なかなか難しいことである。そのままで生きていたとしたら、阿倍仲麻呂のように唐の高官となったかもしれないし、日本に帰国できたとしたら、やはり活躍していたであろう人材であったことは、間違いない。そういう時代のそのような環境の下で、それほど優秀な日本の若者が、しかも1300年近く前にいたのかと、日本人のひとりとして、誠に誇らしい気がするのは、私だけではないだろう。

 ところが残念なことに、井 真成は突然の病を得たようで、二度と故国の地を踏むことなく、異国の地で寂しく亡くなったのである。今から1271年前のことになる。この時代の唐へ留学した日本人の望郷の念はひとしおだったようで、同じ留学生の阿部仲麻呂も、「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に いでし月かも」という歌を後世に残している。井 真成も、まったく同様であったようで、その間際の言葉は涙なしには読むことができない。すなわち、「死ぬることは天の定めであるが、哀しいことに、ここは故郷から遠く離れている。私の体は既に異国の土に埋められても、私の魂は故郷に帰ることを願っている」と。

 今回の墓誌の発見で、日本中が井 真成の業績とその望郷の念に包まれた哀れな最後を知ることとなった。その死から1271年もの時間を経て、井 真成の魂は、やっと故郷に帰ってきたといえるだろう。



(参 考) 井 真成の生きた頃の日本史の出来事

 604年   聖徳太子が17条の憲法を制定
 608年   第1回の遣隋使派遣
 645年   大化の改新
 663年   白村江の戦。日本・百済が唐・新羅に敗退
 672年   壬申の乱
 698年  ○井 真成が日本で生まれる
 701年   大宝律令が施行
 710年   平城京へ遷都し、奈良時代が始まる
 717年  ○井 真成が遣唐使とともに、唐へ留学 
 717年   阿部仲麻呂がやはり唐へ留学
 720年   「日本書紀」が撰上
 724年   聖武天皇が即位
 730年   薬師寺東塔、興福寺五重塔が建立
 734年  ○井 真成が長安の官舎で死去。享年36歳
 734年   興福寺阿修羅像が完成
 737年   藤原4兄弟が流行病で死去
 740年   藤原広嗣の乱
 741年   国分寺建立の詔
 745年   東大寺の日光・月光菩薩像が完成
 751年   最古の漢詩集である懐風藻が成立
 752年   東大寺の盧舎那大仏が完成
 753年   唐から鑑真和上が来日
 757年   養老律令が施行
 759年   唐招提寺金堂、講堂できる
 763年   道鏡が孝謙上皇に重用される
 770年   万葉集が成立
 770年   阿部仲麻呂が長安にて死去。享年73歳
 781年   桓武天皇が即位
 794年   平安京へ遷都





【後日談】

 この記事をブログに載せておいたところ、次のようなコメントをいただいた。一市民として、心が温まる気がしたものである。関係された方々に対しては、厚くお礼を申し上げたい。こういう話が聞けるのも、インターネットならではのことである。本当によかった。

 井真成墓誌は平成17年12月2日〜11日故郷とされる藤井寺市に”里帰り”し、故郷の人々約1万人が参観しました。同じく4日卒塔婆に移された彼の魂は氏寺とされる葛井寺にて盛大な追悼法要ののち、やっと安住の地をえました。ありがとうございました。



| 井真成市民研究会 | 2006/02/12 11:57 PM |



(平成17年7月18日著)
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