This is my essay.








 今年は、太平洋戦争終結後、60年目に当たる。一世代が30年とすれば、すでに二世代が経過したことになる。それだけの年月が経ったにもかかわらず、靖国神社を巡る論争は、依然として大きな政治問題となっている。靖国神社への小泉首相の参拝に対して、中国や韓国が大きな反発をみせ、とりわけ中国各地で暴力的な反日デモが行われたのは、つい最近のことである。

 その過程で、靖国神社が新聞雑誌で大きく取り上げられたが、これらの一連の記事の中に、新装なった遊就館(軍事博物館)がなかなか良いというものがあった。実は私は、そもそも靖国神社には、上京した30年以上前に2〜3度行ったきりで、その後はあまりご縁がなかった。せいぜい桜の季節に、神社周辺の桜を愛でる程度である。しかし、そのような近頃の靖国論争もあり、靖国神社は現在どうなっているのだろうかと大いに気になっていたので、その遊就館を見がてら、ぶらりと出かけてみることとした。7月23日土曜日のお昼すぎのことである。

 九段下から、両側に銀杏の並木がある参道を歩いて行くと、まず正面に長州の大村益次郎のブロンズ像がある。司馬遼太郎の小説で世間に知られるようになった人だが、日本陸軍の生みの親である。その像の顔を撮ってあとから拡大してじっくり見ようと思ったものの、像の背丈があまりに高すぎた。またこの時間では、お顔を写真に撮っても逆光になるので、とりあえず、顕彰の銅板だけを撮した。そうして、ふと周りを見渡すと、白人やら中国語を喋っている観光客が何組もいて、その数は日本人の参拝客よりも多いほどであった。国際問題になって、かえって外国人観光客の関心を呼んだのかもしれない。

 さらにゆっくりと進み、大きな菊の紋章を冠した門を越えると、目の前に大幕を垂らした本殿があり、そこでまず、参拝という段になる。それから、右手の方に進むと、その遊就館があった。ガラス張りの館内には、零戦らしき機体が鎮座している。この館の目的は、一つは殉国の英霊を慰霊顕彰すること、一つは近代史の真実を明らかにすることだという。展示物は、古代、中世の天皇の下での軍事から始まり、近世の戦い、明治維新、日清・日露戦争から大東亜戦争に至るまでである。順に見ていくと、中世の新田義貞の勤皇の姿勢や、近世の本居宣長の敷島の歌、そして明治維新と続く。それから日露戦争の203高地をめぐる攻防や、とりわけ太平洋戦争のミッドウェー以降の歴史となる。しかし、この当たりになると、もう悲惨すぎて見ていられないほどである。



 ただその中で、18世紀以前の欧米列強によるアジア侵略の系図についての、わかりやすい大きな表示板があったが、これなどは後世の人たちが納得できる歴史教育としては、とても理解しやすいと思う。近代日本が歩んだ歴史も、日露戦争までは欧米列強に対する対抗措置としての、防衛的なものと考えてしかるべきであろう。この成功がなかったら、日本はそれこそ植民地化の瀬戸際に直面していたかもしれない。ちょうど今年は日露戦争から、100年目であり、この戦争の持つ意味が、改めて見直されつつある。しかし、それに続く大陸進出から大東亜戦争というのは、ナチスの台頭やアメリカの強行姿勢という時代背景がいかにあったにせよ、いくら何でも身の丈知らずの無謀な戦争だったというほかないだろう。とりわけ、国際連盟を脱退した頃から、誤った方向に走り出したものと思われる。国民の側から、これを止める力がなぜ働かなかったのかと、返す返すも残念でならない。

 しかしそれは、平和主義と国民主権が浸透している現在だからこその、後講釈としていえることかもしれない。当時の日本の一般庶民は、そのような声をあげるなど思いもよらずに、国のためと純粋に信じて出征して南方や北方で戦没したり、あるいは国内で爆撃で散ったりした。いずれも本当に尊い犠牲を余儀なくされたといえる。その慰霊の象徴が、この靖国神社である。ここは、そういう当時の国策によって作られたところであることから、その人の立場によって、肉親が安らかに眠る聖なる場所という認識から、誤った戦争を象徴する場所というものまで、常に論議の的となってきた。もちろん国民の大半が前者の感情を持っていると思うが、これに、いわゆる戦犯合祀を問題にする中国や韓国からの批判が投げかけられ、以上が合わさって今に至るまで終わりなき複雑な議論が続いている。

 いずれにせよ、国の政策を誤るということは、とてつもない犠牲を国民に強いる。誠に大きな罪であるといえる。国家として二度と同じことを繰り返さないように、この悲劇を後世に伝えていく必要があると、今回また、思いを新たにした次第である。

 しかしながらその反面、戦後の日本は、軍事的なるものとなればそのすべてを本能的に忌避する傾向がありすぎて、国際政治上、無用な遅れをとるという批判もないわけではなかった。「羮に懲りて膾を吹く」というところか。しかしながら、戦後からちょうど半世紀を過ぎた頃より、徐々にその傾向も陰をひそめ、潮目が変わりつつある。そればかりか、最近では、憲法第9条の改正論議すら、政治的に堂々と論じられるようになってきた。もっとも、今後いかに憲法改正がなされようとも、不戦条約の精神などの平和主義の考えは、必ずや受け継がれるべきものと期待している。

 ところで、私は戦後の団塊の世代、つまり終戦から数年を経て生まれた戦後派の世代に属しているので、その受けた教育は、もちろん戦前のものとは一線が画されている。したがって、八紘一宇などの愛国教育はもちろん、戦死者は靖国神社に祀られるという教育などを受けているわけではない。また、私の周りを見渡しても、親類縁者に戦没者でもいるのならば、靖国神社とのご縁もあったのであろうが、そうではない。私の父は学徒出陣をさせられたが、国内にとどまっているうちに終戦となった。二人の叔父は海外へ出征したが、ひとりはビルマ戦線から、もうひとりはガダルカナルから、生存率2〜3%という中をそれぞれ生還したという強運に恵まれていた。しかも、私の一家は地方出身なので、東京にある靖国神社の雰囲気を身近にする機会には、乏しかったのである。

 というわけで、日本遺族会の皆さまには申し訳ないものの、私としてはこれまで、靖国神社という存在を実感する機会には恵まれていなかった。ところが今回、本殿を参拝し、遊就館を見学させていただいた。その中でたとえば、未婚のまま戦没し、靖国神社に祀られた息子さんのために、花嫁人形を贈った母親がおられたという展示をみて、靖国神社とはこういう存在なのかと、心に感じいった次第である。これはおろそかにしてはならないという思いを新たにするとともに、国際政治の思惑などに翻弄されるようなことなく、もっと静かに祀られるようにと願うばかりである。

 小泉首相が戦没者の慰霊のために靖国神社に参拝するという姿勢を貫いているが、中国や韓国からは、合祀されている戦犯にまでお参りするのかと批判されている。これに対して、「日本では死んだ人は、たとえそれがどんな人であれ、皆同じように扱われるべきだ」と反論するのは、おそらく親鸞上人の「悪人正機説」のような考え方なのであろう。つまり、たとえば歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というわけである。だとすれば、これはまずもって、個人の信教の問題である。それを他国から「参拝するな」などと言われる筋合いはないということになるだろう。

 ということを考えつつ、靖国神社の境内を出て、靖国通りを新宿方向に歩いて行った。市ヶ谷近くに、アート・ギャラリーがあり、たまたま「七人衆写真展」というものを開催していたので、立ち寄ってそれを見た。花火、山岳、イタリアの湖など、それぞれテーマはいろいろであった。靖国神社の軍事博物館を見た直後であるから、まあその平和なこと、平和なこと。どの写真も、60年前には、題材として取り上げられるはずもないようなものである。

 ところで、インターネット全盛の時代の今どき、写真展を開くよりインターネット上に写真を掲示した方が、鑑賞者の数は、はるかに多いと思われる。そういう中で、こういう伝統的な写真展を敢えて行うというのは、こちらの写真家の皆さんは、よほどインターネットに縁が乏しいのかもしれない。しかし、それでもいいではないか。こうして町をぶらぶら散歩して、たまたまギャラリーを見つけて自由に見学できるというのは、いかにも人間らしくて、住みやすい良い町なのではないだろうか。

 写真展を見終わり、階段を下って建物から出ようとしてところ、足下が少し揺れた。かまわずにそのまま階段を下って行き、靖国通りに出て、都営地下鉄に乗ろうとした。そうすると、駅の構内で、人だかりがしていて、中には、座り込んでいる人も何人か見えた。聞こえてきた構内アナウンスによると、「地震が発生したので、点検のために全線が一時ストップしています。JR線も同じです」などという。「はて、そんなに揺れたかな?」と思いながら、線路を歩いて点検しているだろうから、これは時間がかかりそうだと思った。そこで、こんなところで待つより、自宅に向かって歩こうとして、神保町を通り、坂を上がってお茶の水まで行った。地下鉄千代田線の駅に立ち寄ったが、もちろんまだ30分程度しか経っていないので、全線ストップのままである。ここから、自宅まで30分程度なので、タクシーを拾えればそれでよし、拾えなければ、そのまま歩いて帰ることにした。

 歩き出したのだが、私の履いている靴は、そもそもあまり長い間、歩くようにはできていない構造のようで、時々脱げそうになるし、歩き具合の悪いこと、この上ない。しかし何とかそれをこらえつつ、テクテクと歩き続けた。神田川の橋を渡り、湯島の聖堂を抜けたあたりで信号が赤になったので、立ち止まった。すると、都合よく、目の前にタクシーが停まったのである。ちようど良い、これに乗ろうと思った瞬間、どこからともなく中年の女の人と若い二人連れが、同時にそれぞれ左右から走ってきて、乗客が降りたとたん、どちらが乗るかで奪い合いになった。全くこれだから、東京は浅ましい。謙譲の美徳というものを知らないのかと言いたくなる。まさかその浅ましき争いに私が参加して、三組で争うわけにはいかないので、様子を見ていると、先にドアを押さえた女の人がさっさと乗り込んでしまい、勝ったようだ。中年女性は、いざとなると強い。

 それが収まったと思ったら、横から中国語が聞こえてきたので、その声の方を見ると、親子連れがいた。頭頂が薄くなった男の人が、二十歳くらいの娘と手をつないでおり、その横には年配の婦人がいた。確かこの三人、お茶の水駅にいたなと思いつつ、一緒にテクテクと、湯島に向けて歩き始めた。結局、この三人とは、湯島天神近くまで、ご一緒した。それにしても、二十歳の娘と手を握り合って歩くなど、うらやましいというか、何というか。

 その湯島天神の男坂を下り、不忍池近くまで来たのだが、市ヶ谷から歩き始めて1時間近くになった。汗もびっしょりとかいているし、特に靴がネックとなって、私の足は、もうこの当たりが限界である。たまたま行きつけの蕎麦屋が近くにあるので、そこに立ち寄り、空腹を満たすことにした。涼しい店内で、ほてった体が徐々に冷えていくのは、実に心地よい。それでまた、熱い鍋焼きうどんを食べるのであるから、体もびっくりしているかもしれない。

 小一時間をその蕎麦屋で過ごし、元気を取り戻した。そしてさらに10分程度歩いて、自宅マンションにやっとたどり着いた。ああ、やっと帰れたというのが実感である。エレベーターの前に立ち、ボタンを押そうとして瞬間、「地震のため停止中」との張り紙があるではないか。がっくりして、仕方がなく階段を延々と上り、やっとのことで自宅に倒れ込んだ。本当に疲れた日であった。これというのも、30年ぶりに靖国神社にお参りするという珍しいことをしたせいかもしれない。



(平成17年7月27日著)
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