This is my essay.



ガンジー廟とシンさん




   目  次   
 
 シーク教徒の話
 ヒンドゥー教の神
 貧富の差と悠久の大地
 ゴアとザビエル
 バンガロール
 インドの産業政策
 カースト制
 インド料理



1.シーク教徒の話

 インドへは、一回だけ行ったことがある。ニューデリーに入って打ち合わせをし、それからかつてのポルトガルの植民地だったゴアで行われた会議に出て、バンガロールの何社かを見学して帰ってきたのである。たった1週間余りの旅だったが、カルチャーショックの連続だった。

 ニューデリーに到着した。かねてよりガイドを頼んでいたのだが、空港に現れた中年のインド人はターバンを巻いていて、「シン」と名乗った。私は好奇心を抑えることができずに、車中で思わず「そのターバン、どういう意味があるのか」と聞いたのが事の始まりである。そこから、市内に向かう車中で、シンさんの長口舌が始まった。

 「これは、シーク教徒としての必須のアイテムである。われわれシーク教徒は、今を去ること500年前、イスラム教徒の国であるムガール帝国の侵入に最後まで抵抗して、森の中に逃げ込んで戦い抜いた。そういう戦士の中で、誇り高い教祖グル・ナナークがパンジャブ地方で開いた教義である。五つの戒律を設けている。その第一は、髪や髭を切ってはならないことで、髪をまとめるためにこのターバンは欠かせない。第二は櫛を携帯すること。第三はナイフを常に持つこと。第四は鉄のブレスレットを身に着けること。第五はカッチヤという下着を着ることである。我々は、イギリスとも戦争をしたことがある。」

 なるほど、五つの戒律はわかったが、イギリスとの戦争というのは、日本でいえば、ちょうど薩英戦争のようなものらしい。帰って調べてみたら、確かに、大英帝国がシーク戦役というものを戦ったことがあった。本当だったようだ。シークの教義は、「唯一神を崇拝し、儀式、偶像崇拝、カースト制を否定し、すべての人々は平等であるべきと考え、礼拝の後に人々が一緒に座って同じ食物を分けあう」というものらしい。どうやら、イスラムとヒンズーを批判して出来た宗教のようである。

 かつて東南アジアの国に駐在していたとき、確かに頭にターバンを巻いたインド人たちがいた。私が知っていたのは、門番、金細工屋のガードマン、新聞記者などだったことから、あまり親しくなったことがなかったので、その宗教の歴史にまで興味と関心は及ばなかった。しかし、男はすべて「シン」(つまりライオン)という姓で、女はすべてコー(王女さま)と呼ばれていたので、そのときは、「全員が同じ姓なんて、不便ではないだろうか」などと思っていた程度である。ご承知のとおり、ヒンドゥー教徒には牛が、イスラム教徒には豚がそれぞれの宗教的タブーである。しかし、シーク教徒にはこうした食物のタブーがないので、何でも食べられることから、一般に体格が大きい。それにシーク教徒は、概して教育水準が高くて勤勉なので、軍人や官吏が多い。総本山はパンジャーブ州アムリトサルにあるゴールデン・テンプルである。ところで、ターバンの下には何があるかご存じだろうか。それは、髪の毛を団子状に巻いたものである。何しろ生まれてからこの方、一度も切ったことがないので、大人だと5メートル以上の長さらしい。子供だと、ターバンをせずにそのまま頭の上に髪の毛の団子を作っていて、しかもそれをドアノブを包むような布で覆っていることが多いので、すぐわかる。


2.ヒンドゥー教の神

 インド人といえばターバンを巻いてカレーを食べているというのが我々日本人が抱くイメージである。しかし、カレーを食するのはともかくとして、ターバンを巻いているのは、そういうわけでシーク教徒に限られている。しかもそのシーク教徒の割合は、インドの人口のわずか2%であるというから、インド人に対するこの日本人が抱くイメージは、本当は相当に偏っているのである。実は、人口の82%を占めるのが5000年の歴史を有するというヒンドゥー教の教徒である。

 このヒンドゥーという宗教は、私のように日本の仏教の雰囲気で育った者には、どうにも肌が合わないのである。たとえば、ヒンドゥー寺院があったバトゥー洞窟を訪れると、その洞窟内には、ヒンドゥーの神様の像がたくさん並んでいる。それらは、たとえば頭だけが象で下半身は人間だったり、蛇がトグロを巻いていたり、ともかく私には想像もつかない像であって、しかもそれらが青白く照らされていることから、ますます近寄りがたく感じるのである。ちなみにこの象頭の神はガネーシャといって、偉大なる神シヴァの子であるが誤解で首を切り落とされ、その首が見つからなかったので、途中で見つけた象の首と挿げ替えたとされている。何でも、財産をもたらす神、争いを収める神として信仰されているという。

 ガネーシャはほんの一例で、ヒンドゥーには何千どころか何万の神がいるらしい。ちなみに、ヒンドゥー寺院を見上げると、これでもかというばかりに、満艦飾の神像に満ち満ちている。それに、ヒンドゥーのお祭りで、ディーパバリという光の祭りがある。夜の帳が下りた頃、ピカピカの電飾を巻きつけた山車のようなものを引き回すという素朴なものであるが、まだ宗教が暮らしに根付いている。


3.貧富の差と悠久の大地

 ニューデリー市内は、ベンツで移動したのであるが、赤い砦というところで車が信号待ちで停まった。すると、物乞いの娘がやってきて、コンコンと窓ガラスをたたく。最初は何かとびっくりしたものである。それから市内にあるイスラム寺院に行くと、入口に通ずる階段には、物乞いたちで鈴なりだった。貧富の差が単に大きいというより、決定的な差として定着していると感じたものである。市内には、どこもかしこも牛がいて、ブラブラ、ノロノロと歩く姿が目についた。ヒンドゥー教では、牛は神聖な動物ということなので、これを虐待することなど、あってはならないという。そこでこういう牛たちは、近くの人が持ってくる食べ物で暮らしているらしい。飼い主がいないという意味で「野良」という言葉を使うと、日本では野良犬が目立つが、ここはまさに野良牛が目立っているところである。デリー市内だけで、3000頭は下るまいという。

 神聖なものといえば、ガンジス川がある。市民がよく沐浴をする風景が写真に撮られている。ところが、実際に外国人の目で見ると、申し訳ないけれども、お世辞にも綺麗とは決していえない川である。用は足すし、場合によっては死んだ動物なども流れているという噂もあり、そういう中で沐浴ができるというのは、宗教の力ならではである。通りには牛の糞だらけで、乾燥するとそれが舞い上がる。大都市の上空が黄色いことがある。春先の日本なら、黄砂の季節だと思ってしまうが、こちらに在住している日本人にいわせれば、あれは牛の糞が源だという人がいた。真偽のほどはわからない。いずれにせよ、17〜18世紀のパリ・ロンドンも、市民が道路で用を足したり馬車の馬の糞のせいで同じような状況だったと聞いたことがあるが、それがまだ現代でも続いているのかもしれない。

 いずれにせよ、そういうことを聞くと、潔癖性の私などはそもそも生理的に受け付けないのであるが、不思議なことに、そういう悠久の営みこそが人間の根元だなどと感じて、そんなインドを心から好きになるという日本人が何人かいるらしい。世間は広いというか、何というか………。いずれにせよ、そういう人は、そうして好きになったインドをもっと知ろうとして、必ずといってよいほどインド各地の旅に出るらしい。そうしてどうなるかというと、そのまま忽然と姿を消してしまう人も少なくないという。

 大使館によれば、そんな調子でインド国内で行方不明となった人を探しに、月に一回ほど、日本から親や親類縁者がやってくるらしい。ところがいずれも、インドの大地に溶け込んでしまったように、手がかりが全くなくて、捜索ができないことが多いという。大使館の人の推測によれば、金持ちと思われている日本人には結構危ない土地柄なので、たぶん生きてはおらず、インドの大地のどこかに眠っているだろうとのこと。怖い話であり、その真偽のほどはわからない。いずれにせよ、平和な日本に育って、危険を察知する能力やら疑う心を知らないと、ついついこうなってしまいかねないという警告である。
 

4.ゴアとザビエル

 インド各地の中でも、西海岸の真ん中に位置するゴアは、特殊な歴史をもっている。インドは1947年にイギリスから独立したが、ゴアはポルトガルの植民地だったためにインドが取り戻す時期が遅れて、やっと1961年になってインド軍が進駐して併合したという。そういうわけで、インド国内には珍しく、リゾート地であり、キリスト教の教会も古の佇まいのままに残っている。実はゴアは、日本にも縁があり、16世紀の日本で布教をした宣教師フランシスコ・ザビエルの遺体が祀られているのである。ちなみに、聖フランシスコ・ザビエルの墓のあるボム・ジェズ・バシリカと聖フランシス修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されている。

 比較的小綺麗なゴアのリゾート・ホテルで行われた会議に出て、最終日に宣言文を作り、さて宴会となった。そうすると、面白いことに仮装パレードのような行列が出てきた。もちろん出演者は全部インド人なのだが、女性は白い前掛けをして黒いスカートといったように、その格好がポルトガル風なのである。こんなところにも、歴史を感じてしまった。


5.バンガロール

 インド南中部の高原の街、今をときめくIT産業の都市である。たとえば、アメリカとの時差を利用して、アメリカが夜のときにこちらでソフト開発を進めるという下請け関係から発展し、現在では独自にソフト開発を進める企業を輩出している。よくいわれることであるが、インドは世界で最初にゼロという概念を作り出したとされ、その伝統が今でも生きていて、数学やその発展系としてのソフトに強いとされる。ウィンドウズ・ビスタのエアリアル、つまり画面に立ち上げているソフトがすべて薄く折り重なって表示されるあの冒頭のシーンなどは、インド人がプログラムをしたといわれている。

 たとえば日本の学校では九九算を教えるが、インド人の学校ではそれどころか99掛ける99算までを教えるなどといわれているが、私が確認したところでは、必ずしもそうではなかった。これなどは、現代のインド神話かもしれない。しかしいずれにせよ、インドが数学の伝統を生かしてITに力を入れているのは確かである。ところが、これにも裏話があって、実はITのような近代的産業には、カーストがないので、差別を嫌う人たちが幅広く集まってきたという説もある。なるほど、インドで2000年以上の歴史のあるカースト制も、ITの前に混乱しているらしいのである。

 というわけで、期待してバンガロールの市街に入ったのであるが、そこで見たものは、森林を切り開いたような土地にぽつり、ぽつりとある建物が目立つ程度の普通の田舎町だった。もっとも、建物の中には青色の総ガラス張りでモダンなものもいくつか見受けられ、そうした建物からは確かに洒落て垢抜けしているという印象を受けた。そこで、IT関係者とも話をしたが、むしろ外資系工場を見学しようとして頼んだら、コダックの製造工場があった。そこに行ってインド市場攻略の話を聞いてきた。広報担当は、「インドの人口は12億人とも10億人ともいわれているが、われわれがターゲットとするのは沿海部の2億人である。」とはっきり言っていた。まあそれが、製品を買ってくれそうな潜在的顧客数らしい。

 なお、「バンガロール」という街の名は、2006年11月から、「ベンガルール」という名に換えられたということである。


6.インドの産業政策

 私がニューデリーの事務所を訪れたとき、びっくりしたことがある。それは、近代的ビルの中にあるその事務所に行くためにエレベーターに乗って、その階に着いたので降りようとすると、15センチほど段差ができていて、つっかかって転びそうになった。しかもそれは、同じエレベーターでも到着する階によって、床の上にずれたり下にずれたりして一定していない。これはどうしたことかと思って事務所の日本人に聞いてみると、それは外資系エレベーター会社の参入を認めていないために、技術が劣っていて、目的階のドアとエレベーターの箱との位置決めがちゃんと行われていないためだという。

 こんな事例はいろいろとあって、たとえばトラックなど、タタ財閥のものなどがよく走っているが、荷物を積み込むとたちまち速度が遅くなって、時速20〜30キロメートル程度でよろよろと走っているが、これも極端な国内産業保護政策のためだという。最近でこそ、スズキが乗用車を大々的に現地生産し、またミタル・スチールという世界的鉄鋼会社が出来ていて、インドはBRICSの「I」として期待されているが、こんな状況はそう簡単には直らないと思うけれども、さあどうなるであろうか。


7.カースト制

 東南アジアにいたときに、いろいろなインド人と会う機会があった。(1)政府高官、財界人、医者、弁護士、新聞記者という知識階級もいれば、(2)ガードマン、(3)うちの庭師、掃除人なども目立っていた。そして気のせいか、(1)から(3)に行くにつれて、肌の色がだんだん黒くなっていき、特に我が家の庭師などは、真っ黒であった。本当に黒くて、夕方に来たりすると、どうかすると目と口しか見えないのである。これだけでも、インドにはいろいろな人種がいるとわかった。一般に、土着のドラビダ系(黒人系統)が、北方から侵入したアーリア系(白人系統)に圧倒されていったというのがインドの歴史だというが、よくわからないものの、この肌の色の傾向は、それと関係があるのかもしれない。

 いずれにせよ、他国のこのような微妙な話は、門外漢が口を出すような話ではないので、フリー百科事典『ウィキペディア』の解説を引用したい。それによると、次のとおりである。

「カースト制度は、ヒンドゥー教にまつわる身分制度である。紀元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、バラモン教の一部として作られた。カースト制度によって定められる個々の身分もカーストという。カースト制度は基本的にはバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分(ヴァルナ)に分けられているが、その中で更に細かく分類されている。カースト間の移動は認められておらず、また、カーストは親から子へと受け継がれる。結婚も同じカースト内で行われる。カーストは古い起源を持つ制度である。現在は憲法で禁止されているものの、実際には人種差別的にインド社会に深く根付いている。現在でも、保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世ではいいカーストに生まれ変われると信じられているからである。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれたあとにカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がることができる。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。まさにカーストとはヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)と密接に結びついた社会原理といえる。結婚も同じカースト内で行われることが多く、インドの多様な人種の中でも未だに人種の違いがはっきりと現われているのは、カーストが混血を妨げているからである。他宗教に対して寛容なヒンドゥー教であるが、カーストに対しては寛容でない。他宗教はその現実的な影響力や力によりその扱われる位置が決まる。カースト制は五千年以上もの歴史を持ち、何度か取り除かれようとしたものの、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会への影響は未だに強い。

T 基本的な四つのカースト(ヴァルナ・四姓)
 @ ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門(バラモン))
  神聖な職についたり、儀式を行うことができる。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。
 A クシャトリア(クシャトリヤ)
  王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」、「武士」とも翻訳される。
 B ビアイシャ(ヴァイシャ)
  商業や製造業などにつくことができる。「平民」とも翻訳される。
 C スードラ(シュードラ)
  一般的に人々の嫌がる職業にのみつくことが出来る。スードラはブラフミンの影にすら触れることはできない。「奴隷」とも翻訳されることがある。先住民族であるが、支配されることになった人々である。

U カースト以下の身分
 カースト以下の人々もおりアチュートという。「不可触賎民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。力がなくヒンドゥー教の庇護のもとに生きざるを得ない人々である。にも拘らず1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを『ダリット Dalit』と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。」


 いやはや、5000年近い歴史のある社会制度で、その解消はなかなかむずかしいことがわかったが、同じウィキペディアで、このような解説もあったのは、唯一の救いであろう。

「未だに強い影響力をもつカースト制度であるが、下層カーストやカースト外のアチュートであってもなんらかの手段で良い職業につくこともできる。スポンサーや自らの財力で国外に渡り、国外で教育を受け、更に実力を認められた後に帰国し、インド国内でも影響力を持ち続ける人々もおり、インド大統領だったコチェリル・ラーマン・ナラヤナンもその一人である。また、最近の都市部ではカーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。」


8.インド料理

 インド料理といえば、カレーで始まり、カレーで終わる。インド人と交渉事があって、昼も夜も向こうに合わせてカレーばかり食べると、私などもうそれだけで、勘弁してもらいたくなる。そこまで行かないまでも、インド人と現地のインド料理店に行ったりするのは、1回で十分である。何しろ、一番辛くないものをと頼んでも、日本でいえば、激辛ラーメンのレベルだったからである。

 まあそれほど嫌がった料理でも、日本に帰ってきてから、年に一度は、日比谷のマハラジャに行って食べたいな、という気になるから、妙なものである。先日もそんな気になったので、家内を誘って、タンドーリ・チキンやらナンやらを食べてきた。最後のデザートとしてのインド風ヨーグルトも、うぅむ、なかなかいける味である。

 ところで現地では、日本で有名なナンよりも、平べったくて丸いチャパティというパンもどきをよく見かけた。実は、私はこれが苦手だった。とうのは、一旦これを食べてしまうと、あたかもそれが胃の中で風船のように膨らんでしまったような感じがして、それ以外の食物をもはや受け付けられなくなってしまうからである。そこで、これを食べるのはできるだけ止めておいたのである。どういう仕組みでそのようになるのか、未だもって摩訶不思議なのである。どなたか、このチャパティなる食物を分析してその結果を教えてもらえないだろうか。




(平成19年3月 3日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)




ライン




悠々人生のエッセイ

(c) Yama san 2007, All rights reserved