悠々人生のエッセイ



サンシャイン水族館のウミウシと熱帯魚




 4月1日になった。欧米ではエイプリル・フールで人騒がせなことが行われているが、日本では新年度の始まりで、あちらこちらの会社や役所で新入社員の入社式が行われている。100年に一度の大不況といわれる昨今の厳しい経済事情の中にあって、内定取消しなどの憂き目に遭わずに首尾よく入社できた皆さんたちである。その中には、私が大学院で教えた学生さんたちもいて、いくつかうれしい便りが届いている。曰く、

「大学院で学んだ2年間を決して忘れず、今後はその道のプロフェッショナルとして、時代が直面する課題の解決に新しい一歩を踏み出していく所存です。今後とも人生の師として、変わらぬご指導ご鞭撻を賜りますようよろしくお願い申し上げます」

「今後は一社会人として成長して、またお会いできるのを楽しみにしています」

「今後、社会に出たときにいろいろな困難に直面すると思いますが、その際は、人生の師である先生にどうかご相談させていただければ幸いであります。今後ともよろしくお願い申し上げます。」

「とうとう明日から働くことになりました。最後の最後まで旅行して遊び尽くしてきました。これから仕事でご一緒することもあるかもしれませんが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。 今日まで大学院生」


・・・などなど、それはもう、昨今の満開の桜の花のように、夢いっぱい、希望に溢れている気持ちがよく伝わってくる。誠に結構なことである。「そういえば、私もそうだったなぁ・・・」と言いたいところであるが、「いやまてよ、それは社会に出る前日までで、今から思うと、社会人第一日目からそれに引き続く数年間は、本当にとんでもなかった」ことを思い出した。

 私も、今から30数年前、上に引用した学生さんのような抱負で胸を一杯にして、4月1日、勤務先に出勤した。学生から社会人になった瞬間である。オフィスに机ひとつをあてがわれて、大人しくちんまりと座っていた。周囲は、ざわざわしている。人の出入りも多い。部屋の同僚は、いま帰ってきたかと思うと、すぐに書類をつかんでまた飛び出していく。「あわただしいなぁ・・・まるで市場みたいだ」と思った。私はその中に放り込まれて、いったい何をしてよいのかわからないので、仕方なく、部屋の座席表やら、仕事で取り扱う法律書や、全体の組織図をボーッと眺めていた。たまに「これを手伝ってくれ」といわれた簡単な書類をちょちょこと作ったりして、そうこうしているうちにあっという間に午後6時近くとなった。「ああ、こんなに1日が早いのか。これで仕事は終わりだ・・・よしよし」と思っていたところ、急に部屋の中が静かになった。さきほどまで、あんなに喧噪をきわめていたのに、嘘のように静まり返った。

 午後6時半頃を過ぎると、外からオフィスを訪ねてくる人もさすがにいなくなって、それで静かになったのである。するとそのとき、「毎度ーーっ」という声が聞こえて、店屋物がたくさん運ばれてきた。「あれあれ、オフィスで食事をするのか」と、少しがっかりしたが、気がついたら皆に交じってそれに食らいついている自分がいた。それから廊下に出てみると、どこからかプーンと、臭いような芳しいような匂いが漂ってきた。思わずその方に足を向けると、何とまあ、オフィスの給湯室の小部屋で、楽しそうにクサヤを焼いているおじさんがいる。帰りがけに別のオフィスを覗いてみたところ、あちこちでビールやウィスキー片手に盛り上がっている。「いやはや、これじゃ、まるで酒場ではないか・・・これは大変なところに来てしまった」と思った。

 それでまあ、仕方がないから早く帰ることは諦めて、私も楽しく皆さんと調子を合わせ、ビール一を飲みつつ談笑し、午後8時過ぎとなった。「さあこれで帰るのかなぁ」と思ったところ、それぞれ自分の机に戻り、また仕事が始まった。「あれあれ、まだなんだ・・・と、がっかりした。」 そこで私も、何か手伝うことにして、頭をひねりつつ書類の作成を行って、上司に見てもらった。30分ほどしてそれが返ってきて、またがっかりした。赤鉛筆で、真っ赤に塗りたくられていたからである。それを清書しているうち、午後10時頃となった。何とそれから、部屋で会議が始まった。私もその端っこに座らせてもらって、聞いていた。基準作りの話と、その戦術・戦略の相談だった。結構おもしろかったし、「ああ自分は、時代の先端を走っているんだ」などと感激したりしたものである。

 それが終わったときには、もう真夜中の12時を回っていた。さすがにもう帰るのだろうと思っていたら、まだまだ皆の仕事が続く。午前2時頃になってようやく、「さあ、帰ろう。タクシーだ!」という声が聞こえてきたので、タクシーを呼んだのだが、電話がなかなか繋がらない。当時は、それこそ丑三つ時に走っているようなタクシーなど、あまりなかったのである。ようやく全員分を呼び終えて、皆の最後に乗り込んだのが午前3時すぎ、下宿に帰り着いたら、もう午前4時を回っていた。

 それ以来、まるで嵐の中のような数年間をそうやって暮らしたのである。肉体的・精神的にぎりぎりまで仕事をしていたので、毎日曜日になると、ぐったりして夕方まで寝る生活が続いた。これで日頃の睡眠不足を何とか補ったつもりであるが、もちろんそんなものでは足りない。今なら過労死しても不思議でない・・・まあ、若かったからとはいえ、よく体が持ったものだと思う。あまり人には勧められない生活であるが、唯一良かったことは、この経験を通じて、私の仕事についての知識と経験と能力が飛躍的に上がったことである。いまでも、色々な仕事を手早く正確に同時にこなすことができるのは、この時期の精進の賜物と思っている。

 「こんな激しい仕事の仕方は、もう私の時代でおしまいだろうなぁ。近頃は過労死などもあれだけ大きな問題になっているから、会社側やら管理者側では、しっかりと対応しているはずだ」と思っていたら、ウチの子供たちがやはり社会人となったときの様子を見ていると、30数年前の私が経験しためちゃくちゃな仕事ぶりと何ら変わりがなかったので、びっくりした。

 たとえば、医者になった娘は、大学の医局に朝8時前に出勤して、毎晩午前様になって帰ってくる。ひどいときには、忙しくて昼食を抜くこともあるという。それでいて、研修医だからということで、毎月の給料は10万円そこそこである。土日の宿直の翌日は、そのまま普通に勤務しなければならないから、何と72時間連続勤務のときもあったという・・・。その期間がようやく終わったと思ったら、次に、とある関東地区の日赤病院で勤務を始めたのだが、その人使いの荒いこと、これまた実にひどかった。勤務は連日の午前様になる上に、たとえば午前2時に下宿へ帰ったと思ったら、急患が来たということで午前4時に再び呼び出されるといったことも、しばしばだったらしい。まあ、こんなひどい勤務状態を10年弱も続けてきたにしては、娘はそこそこ元気で、結婚して子供(我々にとっては、可愛い孫)まで産んでくれたので、親としてほっとしている。

 また、弁護士となった息子の勤務の状況も、見ていてこれまた大変である。都内の渉外事務所なのだが、世間が好況のときはM&Aや各種の契約関係で忙しく、不況のときはリストラやら倒産やらで休む間もないくらいで、こちらも毎日が午前様であることが当たり前のようだ。娘と違って宿直はないものの、出張はあるし時間に追われる仕事も多くて、土日も仕事をすることが多いと聞く。幸い、体だけは・・・というと、叱られるかもしれないが、生来、身体が丈夫であるから何とか健康を保っているようだ。しかし、安心はできない。現に数年前にはこの事務所で過労死のケースが出たことがあるというから、親としては誠に心配である。ただ、今のところは本人の顔色も良いし、よく食べ、楽しんで仕事をこなしているようなので、その点は大いに救われているところである。

 今年、新入社員となった私の学生さんたちも、このような肉体的にも精神的にもギリギリの条件で仕事をする必要がある人が、どれだけいらっしゃるかはわからないが、それにしても過労死寸前あるいはうつ病にかかるという状況に陥る前に、ひとつ大きな息でもして、私でも誰でもいいから、ともかく相談してもらいたいものだ。人間、出世だ人並みだなどといってあたかも回転車の中のラットのようにせっせと働かなくとも、遣り甲斐のある仕事をのんびりと楽しんでやる道もあるし、それでもって大いに意義のある人生を送ることができると思うので、ひとりで思い詰めないことが大切である。

 冒頭の写真はウミウシのもので、その奇抜な色といい独創的な姿形といい、まったく奇想天外な格好をしているが、これでも地球誕生以来かなり早い時期に出現して、いまだにこうして生き残っているものである。まさにご先祖様のご先祖様に当たるが、それにしても生存競争の激しい中、この格好で生き残ってきたわけである。鰹や鮪のように大海原を猛スピートで泳ぎ回るのもすばらしいが、このウミウシのように世界各地の海でのんびりと過ごして生き残るというのもまた、人生のひとつの在り方である。

 ただ、私に言わせると、どれだけ忙しくても、一定の基礎体力さえあれば、そうした難局を切り抜けるコツのようなものがあると思う。それは、(1) 創造的な仕事をして遣り甲斐を感じること、(2) 人の役に立っていると実感できること、(3) できれば自分で仕事の采配ができること、(4) 息抜きのためにときどき仕事を忘れて大騒ぎすること、(5) 可能であれば、家族がいつも見守ってくれているという状況にあれば、まあ精神的にそれほどくたびれることはないと思うのである。

 そういうことで、若い頃のこの大変な数年間の苦しい時期を何とか切り抜けることができた後は、その人は、文字通りのその道の専門家、つまりプロフェッショナルになることができる。これが人生の天王山、まさに「試練の時」ということなのかもしれない。これをくぐり抜けて初めて、人生という空を、高く、そして大きく羽ばたくことができるのである。諺にある「若いときの苦労は買うてでもせよ」、「艱難汝を玉にす」とは、実に能く言ったものだ。





(平成21年4月 3日著)
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