This is my essay.








 目 次
1. 新しい世紀の行く末
2. 情報技術革命
3. バイオとロボット
4. 戦争の時代からテロの時代へ
5. 新世紀のコスモポリタン階層の出現


1.新しい世紀の行く末

 21世紀という新しい世紀が今日から始まる。私は、人生の折り返し点をやや過ぎたところであるが、幸い、家庭も仕事も充実し、趣味豊かに人生を楽しんでいる。これも、ひとえに家内と子供たち、私たちの父母や兄弟をはじめとする親戚、友人の皆さん、それにすばらしい仕事仲間に恵まれたおかげであり、改めて心から感謝申し上げたい。

 いつの時代も先を見通すということは至難の業であるが、特にこれからわれわれが迎えようとする21世紀には、その観が深いと思う。18世紀の蒸気機関の発明に始まった機械の力による第一次産業革命、19世紀末からの化学工業と大量生産・大量消費社会からなる第二次産業革命に次いで、第三の産業革命といわれる情報通信技術が大変革期を迎えている。また、国際的にはかつての冷戦構造が一変して各国とも経済的繁栄を目指すようになった。人や物それにお金の国際間の往来がきわめて容易になり、国境の垣根が次第に低くなってきた。その中でわが国は忍び寄る少子高齢化時代の足音を間近に聞きながら、企業はバブル期の清算にまだ苦しみ、政府は財政赤字と国債依存の深刻化への対応に汲々としている状況である。こうした内外のもろもろの要素が複雑に絡み合って、日本という国とわれわれの行く末が決まっていくのである。新世紀の年頭に当たり、私たちの運命を担うそのような要素のいくつかについて、長期的にこれからどういう社会になるのかについて、少し考えてみたい。

2.情報技術革命
 20世紀の後半に生まれたコンピューターとインターネットによる情報通信技術は、社会のあらゆる面を劇的に変えつつある。情報技術(Information Technology)革命は、まさに第三の産業革命といわれる所以である。私が初めてコンピューターに本格的に接することができたのは、1975年春のことである。私はたまたま経済分析の仕事に携わることとなり、FACOM−230という富士通の電子計算機を使うようになった。それは大きな部屋の3分の1くらいを占めていて、その横に丸い磁気テープが何本も格納してあり、そのうちの一つを取り出して起動した。入力するプログラムはカードにパンチをしてコンピューターに読み込ませる方式になっていた。ちょっとした推計式を作ると、そのカードが10センチ近くの厚さに積み上がる。それをカード・リーダーにかけると、「カチンーコ、カチーンコ」という音を立てながらのんびりと一枚ずつ読んでいくというものである。

 なんとも牧歌的な風景であるが、いまから思えば、情報技術時代の幕開けである。ちょうどその頃は、計量経済学全盛の時代であった。各大学や官公庁、主要コンサルティング企業では、競って大型コンピューターを導入し、GNPの四半期別の推計モデルの開発に取り組んだものである。私のところも、マクロ・モデルによる推計方式と、各セクター別の個別の推計方式とを併用していた。とりわけマクロ・モデルによるものは、いわゆる収束計算が必要なため、大型コンピューターでなければ取り扱えなかった。そこで、FACOM−230のお出ましということになる。私は「こんなつまらない収束計算を一万回もすることができるこの機械はすごい」と心底そう思っていたのである。

 ところが現在の目からすれば、その当時の「大型」コンピューターといわれるものの能力は、私がいま机の上でこの原稿を書くのに使っているノート・パソコンよりも劣っていたようである。当時は高性能コンピューターを何にでも手軽に使えるそういう時代が、まさか20数年後に来るとは、まったく思いもつかなかった。私が当時もうひとつびっくりしたことは、ブラウン管のモニターの登場である。それまでのコンピューターは、カードを読み込ませて計算させた結果は、長くどこまでも続くようなロール紙に延々と打ち出すというものであった。ところがFACOM−230につなぐことができる緑色の画面のモニターがやってきた。ソニー製であり、計算の途中や計算結果をそのモニター画面に映し出すことができ、これも新鮮な驚きであった。もっとも、われわれがこれを経済計算に使ったという記憶はあまりなく、むしろ休み時間にゲームをプログラムし、それでよく遊んだという思い出がある。今でいうゲーム少年の走りのようなことをやっていたわけである。

 ただその後、計量経済学は、大いに発達したように見えても、現実の経済の予測には、実はほとんど歯が立たないことが次第にわかってきた。GNP四半期モデルひとつとってみても、たとえば金利や石油レートなどの外部変数を適当に入れてやると、結論はいくらでも変えられるのである。そういうことが知れ渡っていくと、どうもコンピューターによる予測など信用できないということとなり、いつしかこの種の経済予測を行うことは下火になっていった。そのあとには、単にデータの保管と集計にしか使われない大型コンピューターだけが残った。

 それからの私は、20年近くコンピューターの世界から離れていた。その間のめざましい発展はご存じのとおりである。企業一般に給与や経理の分野でのコンピューター利用が普及した。大型コンピューターを銀行が基幹業務に使うようになり、メーカーが工場の生産管理にも使用し始めた。1980年代後半には、アメリカでサプライ・チェーン・マネジメントの原型が生まれた。これは、企画設計や原材料の購入から工場生産、需要予測、在庫管理、製品搬送、店頭販売などの一連の流れをすべてコンピューターで管理し、最適なシステムを組み上げるというものである。これにより、生産期間や在庫の徹底的な合理化が実現された。そしてほどなくダウンサイジングの世の中となり、大型コンピューターの時代が終わってパソコンの時代となった。また、1990年代には本格的なインターネット網が立ち上がり、通信網がそれまでの専用線の世界から一般に解放され、人々のコミニュケーションから「距離」という壁を取り払う効果をもたらした。そればかりか、インターネットは個々の人間を電子空間で結びつけることとなり、社会制度や日常生活までのあらゆる分野で大きな変化を生み出しつつある。

 私自身は、約8年前に日本で初めて一般向けに発売されたカラー・ノート・パソコン(PC9821Ne)を購入して、こうしたコンピューターとインターネットの世界に再び舞い戻ってきた。最初は、MS−DOSというOSでパソコンを動かしていたが、それからすぐにWindows 3.1に変えてからは、その画面の美しさとマルチ・タスク能力に驚き、これはものすごい可能性を秘めていることに気がついた。つまり、MS−DOSでは一度に一本のソフトしか動かないのに、Windowsでは何本ものソフトを同時に操ることができたからで、まさに人間の思考や行動に沿うものであった。ただ、当時のパソコンはCPUが486でメモリが16Mb足らずと、それぞれ現在のペンティアム1G、128Mbに比べれば全くの力不足であり、よくフリーズしたものである。それでも足りないながらにいろいろと工夫をして、何とか機嫌よく動いてもらうようなテクニックを身につけていった。また、当時はニフティというパソコン通信のはしりの時代で、限られた通信能力の下で、見知らぬ人たちと情報を交換しあい、またソフトをダウンロードして自分のパソコンに組み込んでいった。

 さらに、私がパソコンとインターネットの力に気づいたのは、アメリカ在住の友人と電子メールを交換しながら共著で本を執筆して出版にこぎ着けたことである。最初は、二人の単なるメール交換であったが、そのうち、その内容を出版してはどうかという話になり、太平洋をまたいで原稿をメールでやりとりしていった。日米は、ちょうど昼夜が逆転しているので、私が夜に執筆した内容は、翌朝には先方が朱を入れて返信してくる。こちらも記憶がまだ鮮明なので、それに返信を出すというやりとりを三ヶ月ほど続けて、立派な原稿となったのである。感覚でいえば、彼はあたかも隣の部屋にいるかのごとき感じがしたのである。まさにインターネットの世界で、距離の格差は消えてしまっている。ここに私は身をもって情報技術革命の世界を体験したというわけである。

 さて、それでは21世紀には情報技術革命はどのようになっているのであろうか。われわれの身近な世界は、すべて変革の波を受けて、日常生活と社会が一変するものと考えている。まず通信関係では、家庭に大容量の光ファイバー・ケーブルが引かれる。これにより、テレビはデジタル化して何百チャネルが視聴でき、距離の遠近にかかわらず電話とファックスはただとなる(正確には光ファイバー定額使用料金の内数である)。光ケーブルからコンテンツをダウンロードできるので、ビデオ・レンタル業やレコード販売業などは存続がむずかしくなろう。地上波のテレビ局はコンテンツ販売業となり、NTTの電話網はその存在理由が問われかねない。さらには、特に地方の方にとっては、東京などとの文化的格差が縮小する。物品販売も、インターネットのサイバー空間での出店が増えて、現実の店舗を脅かす存在となる。

 仕事も、パソコン経由のものが多くなり、自宅勤務の人も増えてくる。いまでも外回りのセールスマンは、その日の取引先を回った成果を事務所に寄らずにパソコンで通信して皆で共有しているが、そのようなことが会社ぐるみで大規模に行われる。また、会社という組織をスピンアウトして、個々にSOHO(Small Office Home Office)を構える人も相当の割合にのぼるであろう。とりわけ光ファイバー・ケーブルが大容量のものになると、やりとりできるデータも容量の大きい画像でも十分可能となるので、パソコンによるテレビ電話が普及し、コミニュケーションが一層密になる。総じて、個人の情報発信力が高まるが、それに比べて組織や社会にまとまる方向のベクトルは弱くなるであろう。

 あわせて、官公庁の手続も2003年までに電子化されるようなので、自宅にいながらにして各種の手続ができるようになる。たとえば、現在は運転免許証、健康保険証、国民年金証書、印鑑証明カード、住民票、納税関係、パスポートなどとばらばらになっている各種手続も、各個人に付与されたひとつの背番号で統一的に処理できることとなる。これは、いずれ、ひとつのICカードに入れられて個人に配られるのではないだろうか。そうなると、現在は別々の行政機関で個々独立して処理してきたものが、統一的にひとつの機関で処理されることになるであろう。その情報管理を厳密にしなければ、プライバシーの侵害が頻発するかもしれない。また、情報公開の力で行政は極めてわかりやすいものとなろう。

 現在の社会制度は、高度な通信やコンピューターなどがなかった時代のものである。これだけ通信が便利に、また個々人に関する膨大なデータ処理が一瞬にして可能となる状況下では、考えてみれば変更しなければならない制度はいくらでもある。間接民主制を旨とした現在の代議制度も、その実質は次第にインターネットにとって替わられていくものと思われる。今世紀も半ばを過ぎないと実現しないであろうが、いずれは自宅からインターネットで選挙の投票ができる日が来ると思う。

3.バイオとロボット
 情報通信技術に加えて、21世紀にはバイオ・テクノロジーとロボットが脚光を浴びるものと思われる。なかでもバイオ・テクノロジーは、ヒト・ゲノムがすべて解読されるなど、この数年で非常に進歩した分野である。これからは、こうして解読されたタンパク質の機能の分析が研究されていき、それは新薬の開発に当たって劇的な効果をもたらすであろう。これまでの新薬開発は、まるで相手を見ないで鉄砲を撃っているようなもので、何万もの化合物をしらみつぶしに試していって、はじめてその効果や効能を判断するというものであった。ところが、人体の中のタンパク質の果たす機能がわかっていれば、そのような闇夜の鉄砲のようなやり方ではなく、ある程度の見当を付けることができるので、新薬開発の能力は大いに上がるはずである。

 これは、やがては人体を構成する組織を人工的に合成することにつながる。われわれの体の一部が、脳はさすがに無理であろうが、その多くはロボットの部品のように取り替えることができるようになる。羊のドリーに端を発したクローン技術は、クローン人間を生むのではないかと深刻な懸念が投げかけられたが、現実はそれを通り越して、全く人工的な人間を生み出すおそれもある。そこまでに至らなくとも、食べれば記憶力を増す薬とか、頭の回転を良くする手術などが行われ日も遠くはない。こうなると、果たして人間とは何かという根元的問題に人類が直面するのではないだろうか。単に倫理的な側面での当不当の問題とは限らない。お金さえ出せばこれらの薬や手術が可能ということになると、経済力のある人はどんどん手術を受けて完全無欠なスーパー人間となり、その結果ますます貧富の差が固定されていくという社会問題につながりかねないのである。

 ロボットも21世紀の主役となる存在である。これは日本の企業が世界をリードしており、本田、ソニーをはじめとしていくつかの先端的企業がその成果を発表している。その技術は、まだやっと歩き回ることができるという程度のものにすぎず、私の子供時代のマンガ本の鉄人28号に域にも達しないが、今世紀には大発展する予感がする。とりわけ、わが国は少子高齢化の時代を迎える。これを解決して引き続き高い生活水準を続けていくためには、まず女性や高齢者の働く力を最大に生かす必要があるが、その次には外国人の労働力に頼ることとなる。しかし、これも必要以上に行えば、たとえばトルコ人労働者等の移民にドイツ国内で反発が強まっているように、社会不安の種にもなりかねない。その点、人間型ロボットは、いわゆる3Kつまり「きつい」「きたない」「きけん」な仕事でもこなすことができる。したがって、労働力不足の切り札となる存在であり、私は大いに期待しているのである。

4.戦争の時代からテロの時代へ  
 その前半は戦争に明け暮れた20世紀とは違って、21世紀の国際関係は、かつての冷戦時代のように国の単位で敵と見方とを峻別する必要性はきわめて薄くなった。事実、かつては敵国であった東側諸国もイデオロギーの衣を一斉に脱ぎ捨てて、経済的な発展に向けて現実的な路線を取り始めている。世界の人々は、今世紀こそ、待ち望んだ永続する平和というものを手に入れられるであろう。国どうしの小競り合いはあるかもしれないが、これから再び全世界の国が二手に別れて戦争をし合うような愚行があるとは、もはや考えにくい。二度もあれば、いくら何でも人類がその野蛮さと馬鹿さかげんに気づくのには、もう十分であろう。

 しかし私は、今世紀には国と国との本格的戦争はないとしても、新たな「テロの時代」に突入するかもしれないという懸念を抱いている。人類の前に立ちはだかる貧富の差は、これからは南北の国どうしの間においても、また同じ国の中においても、ますます拡大していくものと思われる。しかも人種問題、宗教問題、それに中東情勢などがこれに陰を落とし、問題をさらに複雑なものとしている。加えて、効率優先の近代文明は、疎外された人間の群を作りだした。かつては村落共同体や宗教がこのような人たちを温かく包んでくれたものであるが、今やそのような社会的安全装置は失われた。こうして社会の常識や智恵には束縛されない人間のグループが、ひとたび社会に対して牙をむくと、それがテロにつながりやすいのである。

 1995年に地下鉄サリン事件が起こった。オウム真理教による化学兵器を使ったテロであり、数人の死者と5000人を上回る重軽傷者が出たという悲惨な出来事であった。実は、私はそのとき、相当危なかったのである。あれは3月の連休明けのことである。いつものように朝8時頃に家を出て、地下鉄丸の内線の駅に着いた。そして、都心方面に向かう電車に乗ろうとしたところ、ホームはかなりの数の通勤客で混雑しており、どうも電車の到着が遅れているようなのである。しばらく待っていたところ、電車がホームに入ってきたが、アナウンスがあり、「この電車には悪臭がありますので、この駅には止まりません」という。そして、その電車は、相当なスピードでわれわれの目の前を走り抜けて行った。

 さらにしばらく待って、ようやく来た電車に乗り込んだ。私の乗った電車は、中野坂上という駅に着いたが、そこのホームには、何人かの人たちがあちらこちらに倒れていた。電車の窓越しに私のすぐ前のホーム上には、中年の男性が目を真っ赤にしながら柱に寄りかかって、ようやく立っている姿があった。そこで、はじめて異常な事態になっていることを知った。多少、目がチカチカした。電車はそのまま都心に向かったが、一部の駅には止まらないというアナウンスを聞き、私は途中で銀座線に乗り換えて、目的地近くの駅まで行った。そこから地上を歩き始めると、あちこちでサイレンの音がこだまし、尋常でない様子である。

 目的の駅まで来ると、あの狭い地下鉄のトンネルから担架に乗せられた人たちがどんどんと運び出されてきている。そこに救急車が到着して、手当と搬送にきりきり舞いをしている。警官がその回りにいて、人を寄せ付けないようにガードしていた。私は、何が起こったのか全く見当もつかなかった。何らかのガスが噴出して中毒になったのではないかと考え、地下鉄の換気口を避けながら歩いていった。その日の昼のニュースで、毒ガスらしいとわかり、心底、ぞっとした。もう少し早く家を出ていたら、私も直接の被害者になったかもしれないのである。亡くなった方々やこれで心身に傷害を受けた方に対して、心から哀悼の意を表したい。

 後講釈かもしれないが、こういう事件も、やはり警備の衝にいる者がしっかりしていて、たとえ些細な出来事であってもその前触れとなるような事件について真剣に捜査をしていれば、あるいは防げ得たものかもしれない。いや警察を責める前に、戦後の日本は平和が続いたため、社会全体の緊張感が緩んでいったせいなのかもしれないとも思う。20世紀最後の年の日本は、さしたる理由もないのに、平気で殺人を犯す17歳くらいの少年たちに悩まされた。しかし、21世紀にはこういう子どもたちが大人になる。さらに大規模なテロが起きないとは、誰も断言はできないのではないか。特に注意すべきは、爆発物、毒ガス、放射性物質、それに核兵器である。いやな予感であることは重々承知であるが、さりとて、必要な対策を講ずることを避けることはできない。

5.新世紀のコスモポリタン階層の出現
 私は、21世紀はコスモポリタン主体の世界になると思う。すでにわれわれが日常的に経験しているように、外国に出かけたり、そこで暮らすことが全く普通の世の中になってきた。たとえば私のマンションの最上階の部屋のお医者さんの奥さんなどは、冬はスキーをするといってスイスに出かけ、秋はオペラを見るためにウィーンに行き、美術館巡りのためにパリにしばしば通い、息子さんがイタリアに商品の仕入れに行くときには付いていくといった調子である。私などは、その足下にも及ばないが、それでも家族で世界一周を楽しんだりした。もちろん、たまたま機会があったのを利用してまでで、まさに一回こっきりのことである。ただ、年齢を重ねて主な職を辞したあとに、家内とともにもう一度、これに挑戦してみたいと考えている。

 外国に旅行したり自分でしばらく住んでみて、ある時点を境にして、外国で働く日本企業の駐在員の質が変わってきたと思うようになってきた。それは、かつてであれば外国に駐在するのは社内のエリート層であったものであるが、1980年代も半ばにもなると、いわゆる普通の会社員が突然外国駐在の辞令をもらってやってくるようになったことである。そういう人は、外国語特に英語ができるわけでも何でもないし、そもそも海外駐在の常識のようなものを欠いていて、見るからにご苦労をされていた。それでも社命であるからと、けなげにも家族そろって彼の地で頑張ろうとしていたのである。

 しかし、20世紀も末になると、ついに一部の日本の大企業が外国企業の傘下に入るようになった。フランスのルノーに事実上買収された日産自動車などはその一例である。こういう外資系企業では、それまで英語とは何の関係もなかった会社員が、突然その英語の世界に放り込まれることとなる。社内の公式会議や報告書の執筆などは英語となるので、中にはとまどい、ノイローゼのような状態になる人もいる。そのような人は、あたかも国内にいながらにして、突然外国駐在の辞令をもらったようなものである。こういう経験は、今世紀にはどんな人にでも起こりうることだと思う。

 また、最近では、外国人と結婚する人が身近にも多い。私が社会に出た頃には探すのが珍しいほどであったが、いまでは私の回りの人たちの50人にひとりはそういう方である。ささらに、われわれの子弟で特にアメリカに留学する人たちが増えてきた。私の友人でそのお嬢さんがアメリカの語学学校に留学して帰国し、就職するために企業回りをしていて、たいそうなショックを受けていた。人事担当者は、「英語がしゃべれるような人はいくらでもいる。あなたはそのほかに、一体何ができるんですか」と聞いてきたという。

 いずれにせよ、そのようにして、ビジネス、結婚、留学、それからインターネットという形で、われわれの国際化はどんどん進んできている。加えて、近頃の航空運賃は国際線を中心として大幅に値下がりし、たとえばロサンゼルスに行く方が沖縄に行くよりも安いくらいである。査証を相互に免除する国が増えて、国境のバリアがたいそう低くなった。そこで各国の優秀な若者はどんどんとアメリカに留学するようになり、貧しい母国に帰ってもその能力に見合う地位と収入が期待できないから、そのままアメリカに居残っていく。こうしてアメリカは、世界各国の優秀な人材を居ながらにして集め、ますます発展していくということになるであろう。このような優秀な若者層は、英語ができ、専門的能力も高いので、アメリカを起点にして、高収入と良いポストを求めて世界各国をジョブ・ホッピングして回るのではないかと思う。これが、私の想定する新世紀のコスモポリタンという新人種である。

 いったんそのような風潮が生じると、そういう若者には国境というものは、あってもなきがごとしであり、そのような人工的な障害を無視してどんどんと世界各国を渡り歩くであろう。そうなると、人々はもはや「国家」に固執するようなことはしなくなり、それに代わって「個人」である個々の人々が全面に出る社会になると考える。同時に、制度や慣習のグローバリゼーションがますます進むであろうから、そうなると政府の果たす役割はますます縮小していき、その間隙を埋めるようにいろいろなNGO(非政府組織)が世界や各国で活躍することになるものと思われる。あたかもインターネットに参加する個々人が、全世界の通信や放送という確立された組織や制度を飲み込むまでに発展してしまったように、この各「個人」が政府や企業に成り代わって活躍する世界が来ているものと考えるのである。

 私は、世界の国々の近未来の姿は、いまのEUつまりヨーロッパ共同体のようなものとなると考えている。国々の利害対立を長い時間をかけて調整し、ひとつひとつ乗り越え、最後には融和していくものと思う。そうなると、政治、経済、言語、通貨、交通などの社会的基盤は世界共通のものとなろう。もちろん宗教や国別の文化の差は依然として残るものの、人々はその中でもはや国の存在にとらわれず、専門的知識を生かしながら自由に各都市や各地方を往来して自己の理想を思うがままに追求し、かつ猛烈に働いて、各地で生活することになる。これが私の思い描く21世紀の主導権を握る人々、つまり新世紀のコスモポリタンたちの現実の姿なのである。彼らは、その出身国で形成された優れた人格を持ち、医学、法律、情報技術、経済、証券、技術などの専門職につき、しかも英語を共通語として自由に操ることのできるパワー・エリートである。いかなる組織にも、故郷にも、そして出身国にも縛られずに世界各地で働き、生活し、新世紀をリードする存在になるであろう。

 近代的国民国家がヨーロッパで成立したのは、おそらく17世紀あたりであろう。中世のヨーロッパは、教皇は別格としても、王権と貴族の間で政治権力の綱引きが行われていて、どちらかといえば貴族の力が勝っていた。それが王権が貴族を圧倒したかと思えば、今度はその王権が市民革命で覆って、はじめて国家を国民自らが治めるようになり、ここに国民という概念が成立した。しかし私は、21世紀にはその国民国家すらも非常に希薄な存在に成り下がり、それに代わって英語を操り、自分の専門知識を生かして世界各地で働いて生活する超エリート層が生まれると思うのである。世界は、こうしたコスモポリタンと各国内でしか生活できない一般大衆との両極に別れていくのではないだろうか。

 これは、見方を変えれば、世界のアメリカナイゼーションといってもよい。200有余年前にアメリカは全国民平等ということで出発したが、自由競争を進めた結果、いまや上位1%の人口が国富の41%を占めるという不平等社会となった。新世紀のコスモポリタンたちは、その1%に相当するものになるであろう。第二次大戦後の日本は、国民が一丸となって戦争で荒れた焦土を復興し、高度経済成長を達成して、しかも世界でも稀な平等社会を作り上げた。ところが、21世紀には、もはやその成長モデルは通用しないのではないだろうか。国民はあまりに豊かになりすぎて、かつてのようなハングリー精神はなくなっているし、高齢化や少子化も進み、技術面でも強みがなくなってきた。しかも旧共産圏諸国が市場経済に参入してきたことで、安い働き手は世界にいくらでもいる。もはや経済的な比較優位を維持することは困難なのである。このうえは、世界に通用するコスモポリタンをひとりでも多く生み出し、彼らが日本での生活と仕事を楽しめる環境を確保することが、日本の経済と生活水準を維持するうえで大切なこととなってくる。

 東南アジアの華僑は、もともと中国南部の広東省、福建省、あるいは客家と呼ばれる漢族の一部から成る。要するに出稼ぎであったが、二代目、三代目と世代を重ねるたびに、その住む国への帰属意識を強めつつあるが、やはり移民意識を常に有している。彼らの中でもいろいろな人がいるが、優秀な者は、アメリカへ留学をして英語と専門知識を学び、そのままアメリカで働く者もいれば、その生まれた国に帰って現地で医師、弁護士、ジャーナリスト、政府内のテクノラートなどの専門職として活躍している。同様にアメリカに移住した日本人の二世には、親が一生懸命働いて子供の教育に力を入れた結果、やはり弁護士や医者などの職についている割合が高い。これは彼の地へ移住した一世の人々の子孫の話であるが、これからはこのようなコスモポリタンで、かつパワー・エリートが世界を駆けめぐることであろう。

 その意味では、たとえ東大を出てそのまま日本にとどまっているようでは、新世紀を動かす人材にはなれないのである。私は大学生には、国内で医師、弁護士、公認会計士、金融、証券あるいはバイオやIT技術者などの専門職の資格をとり、そのうえで、必ず外国特にアメリカに留学することを勧めている。その場合に、まず日本で資格をとれというのには、それなりの理由がある。私がこれまでいろいろな若い人に会った経験では、20歳前に留学したような人々は、その考え方や行動が日本人離れしているというか、私にはいささか違和感を覚えたことが多い。つまり、日本人でもなく、アメリカ人にもなりきれないという中途半端な存在を感じてしまうのである。これでは結局いずれの国でも生活したり働いたりするのに不便であり、得てして不幸な結果となる。これは、まだ人格を確立する前に向こうの文化に触れてしまうからである。したがって、まずは日本において日本人としてのアイデンティティを確立してから、英語と専門知識を磨くために留学するのが一番よいと考えるのである。

 これは、コスモポリタンという観点からは一見矛盾するかのように思えるが、決してそうではない。およそ人格がつまらない、薄っぺらな人間は、どこの世界でも相手にされないものである。また、それなりの社会的常識や知識のない人間もまた、魅力に欠ける存在である。若い頃から留学をしているのでその発音だけを聞いていると、英語ができるように見えることがある。ところが、中途半端に向こうで成人したような場合には、よほど努力しないとその人間は、アメリカ人というには常識に欠けるし、日本人とみるには、これまた通用しないという悲しい存在になりかねないのである。こういうことは、その人間と少し話すだけで簡単にわかってしまうものである。日本国内で、子弟を英語に強くしようとアメリカン・スクールに入れる親もいる。中学に相当する期間、そうしたアメリカン・スクールに入れてみて反省することがあり、途中で日本の高校や大学に入れようとしても、本人や回りがなじめないというが、それと同じである。バイリンガルも一見すばらしいことのように思えるが、母国語とそれに基づく立ち居振る舞いや思考が身に付いていないと、どの言葉であってもそれは中途半端となるのである。

 これからの日本は、こうしたコスモポリタン向け人材の供給国となるか、それとも受け入れ国となるか、それが問題である。また供給国となったとしても、これらコスモポリタンたちが好んで日本に住みたくなるような環境を作ることができるかということも重要である。これができなければ、日本は現在のような高い生活水準を新世紀でも維持することは、かなり困難であると思う。それに加えて、日本という国の良さは、国民の中流・平等意識であったが、残念ながら他の国と同様にこれからは不平等の度合いが増してくるであろう。これに伴う社会的摩擦をいかに処理するかは重要な課題である。さらに身の回りを見渡してみると、住宅環境は改善されつつあるが、まだまだ狭くて高い。公立学校の教育は問題が噴出しつつあり、財政赤字は経済に重くのしかかりつつある。少子高齢化は容赦なく進む。通信や放送などの規制緩和の歩みが遅く、しかもまだまだすべきことがたくさんある。市場経済の荒波にさらされていない分野があり、早急な開放が必要である。新世紀初頭の日本の政治と行政の責任は、とても重いと思うのである。日本がこれらの問題をいかに迅速かつ完全に解決するかが、21世紀にも引き続いて繁栄できるかどうかの大いなる分かれ道ではなかろうか。



【後日談】

 上記4にて、私は、21世紀はテロの時代となるだろうと書いた。平成12年(2000年)12月30日の夜のことである。しかし、悲しいことに、翌年9月11日には、ビン・ラディン率いるイスラム過激派アルカイダによって、それが現実のものとなったのである。当日の午前7時45分から8時10分にかけて、ボストン、ワシントンそしてニューアークから飛び発った4機の旅客機が、合わせて19人のイスラム過激派テロリストによって乗っ取られた。このうち2機はニューヨークの世界貿易センタービル南北2棟へ、1機はワシントンのペンタゴンへとそれぞれ突っ込み、残る1機は乗客の抵抗にあって、途中のペンシルバニアで墜落したのである。各旅客機の搭乗者266名(犯人たちを含む)、世界貿易センタービルにいた民間人約3,000名、警察消防関係者300名、それに国防総省関係者123名の、総計約3,600人が犠牲になったといわれる。そしてこれを契機として、アメリカと同盟国はアフガン戦争とイラク戦争に突入し、イスラム過激派も、アメリカ軍などを相手とする自殺爆弾攻撃が日常茶飯事となった。私は、予言はしたものの、現実はその予言の域を超えて、本当におそるべきものとなってしまった。まさに、21世紀の幕開けは、テロの時代を印象付けるものとなったといえよう。


(2000年12月30日著、2001年 1月 1日加筆、2005年5月15日後日談執筆)




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