悠々人生のエッセイ



白鷺の舞





 つい一昨日の日曜日には、東京の各地で「よさこい」だの「琉球エイサー」だの、「江戸芸かっぽれ」やら果ては「阿波踊り」などが大乱舞を繰り広げているのを見て、びっくりしたばかりである。ところが今日の文化の日にも、また浅草で珍しい舞とパレードがあるという。それは何かというと、浅草寺境内での「白鷺(しらさぎ)の舞」と「東京時代祭」である。とりわけ東京時代祭は、浅草寺境内から出発して馬道通りと国際通りをぐるりと一周するほど大規模だという。ふむふむ、一昨日にはまるで「踊る阿呆に見る阿呆」だと我ながら思ったばかりだけれど、この日は最初から「見る阿呆」に徹しようと、朝から浅草二丁目行きのバスに乗った。言問通りを通って15分ほどして到着すると、もうそこには時代がかった衣装を着て集まる人でごった返している。その中を、白鷺の舞が舞われるという五重塔前広場へと歩いて行った。私も家内も、この舞を見物するのは初めてである。

 浅草観光連盟のHPによると、「白鷺の舞は慶安5年(1652年)の『浅草寺慶安縁起絵巻』の祭礼行列の中にある『鷺舞』の姿を浅草観光連盟が昭和43年に東京百年の記念行事として復興したものです。鷺舞の神事は京都・八坂神社の祇園祭りが起源で千百年以上の昔から悪疫退散の為に奉納伝承され、非常に盛んであったと云われますが、いつしか中絶し、やがて慶安2年(1369年)に大内引世が京都から山口に八坂神社を勧請建立するにあたり山口の祇園祭りの神事として登場させ、更に天文11年(1542 年)島根県津和野の城主吉見正頼が山口から移し、今日では全国的に有名となっています。浅草寺の『白鷺の舞』は京都の正統を基本に慶安縁起の遷座供養祭礼行列を復元したもので、武人3名、棒ふり1名、餌まき1名、大傘1名、白鷺1 名、楽人19名、守護童子、その他、『白鷺の唱』を演奏しながら舞い、練り歩く」とある(ちなみに、このHPでは「白鷺1 名」とあるけれど、実際には8名だったと思う。また楽人は19名とあるが、実際にはもっと少なくなっている。

白鷺の舞を踊り終わって仲見世へ


 さて、本堂にて参拝をした舞姫たちの一行が、五重塔前にしずしずと進んで来て、所定の位置についた。プォーー、チャーンチャーン、ドーンドンと優雅な平安朝の笛と鉦と太鼓の音色が響き渡り、いよいよ神事の舞が始まった。と・・・なかなか、動き出さない。しばしの間そのままで立っていて、待ちくたびれた頃にようやく動いた。舞子さんたちは、頭の上の白鷺をかたどった冠り物が重そうで、そんな装束を着けているだけで大変そうなのに、その上で踊るから、どうしてもゆっくりしたテンポになる。しかしかえってそれが、優雅な印象を与える。全体の舞の構図は、大傘を差し掛ける人の前に立つ「餌まき」とおぼしきお姉さんが真ん中に立つ。その両脇で各4名の白鷺の舞子さんたちが輪になって踊るという仕組みである。中でも、舞子さんの白鷺が両手を広げると白い羽が美しく、見事なほど優雅な姿になるので、これは一見の価値が大いにあると思う。これを見ていると、しばしの間、浅草寺境内に鈴なりとなっている大勢の見物人を、平安朝の昔の雅び(みやび)の世界へと連れて行ってくれる。踊りは、案外早く終わり、それが終わった後、そのまま舞子さんも餌撒きのお姉さんも、笛や鉦や太鼓の人たちも全員、宝蔵門をくぐって仲見世へと出て行った。

 さて、もうお昼となったので、家内と2人で昼食を摂ろうと天ぷらの大黒屋に向かった。しかし、そこでも大勢の客が列を作っていて、ざっと50人もいるではないか! これでは時代祭の見物どころではなくなりそうなので、方向転換して、甘見処の桃園に入った。そこで、この店の名物の甘い物を横目で見つつ、おでんを食べて簡単な昼食を済ませた。それで、地図を見ながら、どこで時代祭りのパレードを見ようか色々と考えた末、パレードが出発したばかりで、まだ参加者の皆さんが元気そうな馬道通りに陣取ることにした。待っていると、私たちの周囲には外国人観光客が多かった。試しに隣の中年の外国人女性に「どちらから?」と聞くと、アメリカからで、こんなパレードは初めてだから、とても興奮しているとのこと。

金龍の舞


 そうこうしているうちに、パレードの前触れとして「金龍の舞」の一行がやってきた。何でも、浅草寺のHPによれば、「浅草寺の山号『金龍山』から名をとったこの舞は、『浅草寺縁起』に、観音示現の時『寺辺に天空から金龍が舞い降り、一夜にして千株の松林ができた(現世利益ともなる五穀豊穣の象徴)』とあることから創作されたもの」だという。そして、8名の元気のよい若い衆たちが、長さ約18メートル、重さ約88キロ(HPの記載による。パンフレットには150キロとあった)のこの大きな龍の体を自由自在に操作している。そして、道を蛇行しながら進み、ときおり、道の両脇の見物人にちょっかいを出す。見物人は慣れたもので驚く風でもなく、龍の鼻先をなでるという具合である。龍の金色の鱗が西日に当たって、きらきら輝き、それが体を左右に振って進んでいく様は、一幅の絵のような感じがした。

 それから、パレード本体がやってくるまで、しばらく待たされたのであるが、その間、今の場所では写真が撮りにくいことがよくよくわかった。というのは、もう日が傾いてきた結果、パレード参加者の顔が日陰になる一方で、その背景の家々に強い西日が当たってしまうから、これから時間が経つとますます参加者の顔が暗く写ってしまうのである。そこで、道の西側から東側の東武鉄道浅草駅に近いところへと移動した。その場所は、光の具合という点では悪くなかったが、後から撮った写真を見てがっかりしたのは、パレードの背景に、古びた看板が写り込んでいたことである。被写体がちょうど良い撮影ポイントに来たら必ずその古びた「駐車場」という看板が背景になるというのは、どうもよろしくない。とりわけ、やや遠目から撮ると、全面フォーカスとなってしまうからその看板もはっきり写ってしまう。だから、望遠レンズで拡大して映すことにより背景がぼけるように工夫したりして、なるべくその看板を撮らないようにした。

在原業平


 東京時代祭の始まりを告げる「本旗」がまず通り、十童子のかわいい幼稚園児たちが続く。それから浅草観音示現の三社様の出番となる。三社様とは、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟と郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも)の3人で、飛鳥時代、兄弟が江戸浦(隅田川)に漁をしていたときに、一躰の観音さまを網の中から発見し、郷司はこれを聖観世音菩薩として祀ったというのが浅草寺の縁起話であるが、それを表現した3人が舟に乗って登場した。在原業平は、平安時代に都からはるばる東国のこの地まで至り、「名にしおば、いざ言問はん都鳥、わが思う人はありやなしやと」と詠んだ人物だが、それをこの日は、なかなかの「イケメン?」が演じていた。

源氏の武将


 次いで時代は平安の昔から鎌倉の世に移り、源頼朝が源平合戦の折りに安房の国の豪族とともに隅田川に陣を張ったときの様子を表す武者の行列になる。ちなみに、源頼朝はもちろん、妻の北条政子も浅草寺に祈願したり参詣したりしたそうだ。北条政子さんはなかなかの美人ということだったが、残念ながらこの日は、頬に垂れる髪が分厚くて、表情も何もまったくわからなかった。これは、メイクの失敗作かもしれない。そのあたりで。浅草寺の三社祭で実際にかつがれる舟渡御として奉納される神事「びんざさら舞」や「白鷺の舞」が紹介され、一連の三社大権現祭礼が次々に通る。

徳川家康の江戸入府


 いよいよ江戸時代となり、最初はもちろん江戸の開祖たる太田道灌の一行で、例のやまぶきの歌のエピソードが紹介される。徳川家康の江戸入府の前に行われた江戸城の石曳きは、大がかりでなかなか面白かった。さて、徳川幕府が安定してきたことを示す大奥御殿女中のご一行と、浅草神社を寄進した徳川家光、参勤交代大名行列が続く。特に参勤交代は、会津の奴さんたちが顔を赤く塗って、大活躍をしていた。一昨日に、丸の内でよさこいを演じていた人たちらしい。

大奥御殿女中のご一行


元禄風の色彩豊かな衣装を着た大勢の女性


 世は元禄期に入り、元禄風の色彩豊かな衣装を着た大勢の女性たちか一斉に紅葉の枝をかざして踊りを披露した。中には・・・いやその大半が、必ずしもお若いとは言い難い人たちだったが、この際、そんなことはどうでもよくて、まあ参加することに意義ありということだ。次は、もちろん赤穂浪士討ち入りで、さらに江戸の町火消し、奉行所の同心たちと続いた。

歌舞伎の助六


魚屋はもちろん一心太助


 華やかな芝居衣装の人たちが来ると思ったら、浅草市村座七福神舞と、猿若三座江戸歌舞伎である。助六の由来を聞いて、庶民のヒーローだから人気があったということを初めて知った。ああっ、あれは大久保彦左衛門、とするとこちらの魚屋はもちろん一心太助か・・・。今の若い人には、なんのことやらわからないだろうなぁ。おお、助さん格さんを連れた水戸黄門ご一行のお出ましだ。江戸の芸者の綺麗どころが来る。黒い着物も、なかなか粋なものだ。

黒船来航のペリー一行


新撰組隊長、近藤勇


 あのナポレオンのような帽子を被った外人さんたちは何かと思ったら、黒船来航のペリー一行で、横須賀基地米海軍諸君が演じてくれているらしい。ここから幕末の動乱期に入る。ああ、新撰組隊長、近藤勇だ。日野市の有志が演じている。特に近藤勇役は、これこそ当たり役だと思う。その次に、あまり顔は似ていなかったが、徳川慶喜が現れた。引き続き山岡鉄舟、官軍と続いて、明治の世の中になったらしくて、文明開化で鹿鳴館時代が訪れた。巡査、郵便配達人がおもしろい。それから今度は、浅草の芸人さんたちになる。飴売り、唐辛子売り、お面売りで、いずれも本業の人たちのようで、なかなか様になっている。最後は、わざわざ岡崎の細川小学校からやってきた岡崎の三河万歳で、生徒たちが熱演していた。ご苦労様なことである。

浅草の芸人さんたち


岡崎の三河万歳


 そういうわけで、今日もまた文字通り「見る阿呆」になってしまった。



(平成22年11月 3日著)
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