悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



弘前城天守の御三階櫓




 秋田・弘前・青森への旅( 写 真 )は、こちらから。


1.プロローグ

 東北の3都市を、例によって駆け足で走り抜けてきた。仕事づくめなので、観光どころではない。スケジュールの隙間の早朝や夕方などに、慌ただしく公園などを眺めに行った程度である。そうでもしないと、せっかく行った甲斐がない。秋田では久保田城跡である千秋公園、弘前では天守閣が引っ張って移された弘前公園、青森では昭和大仏のある青龍寺を、それぞれ30分程度だったが、何とか見てきた。

 まず秋田へは、羽田空港から飛行機で一気に飛んだ。快晴の日で、秋田空港の近くまで、雲ひとつない。加えて、私の聞き間違いでなければ、飛行機は高度6,000メートルの上空を航行していた。国際線の普通の飛行機の高度は10,000メートルであるから、これはかなり低い高度だ。でもそのおかげで、地表に近いから地上の様子がよくわかる。出発直後、富士山が良く見えた。


機内から見えた富士山


 東京都から埼玉県にかけては、荒川と思われる大きな川の流域に街並みが広がる。もう少し進んで栃木県に入ると、大きなゴルフ場がある。奥羽山脈に入った。緑豊かな山また山の間に、碧い水をたたえた湖があったりする。秋田までもうすぐだと思ったところで、三角形に立派な山容をした鳥海山が見えた。「着陸します」というアナウンスがあった。ところが、鳥海山を越えた後で、平地の方ではなく山の方に向かうので、逆ではないかと思っていた。すると、その山中に忽然と滑走路が現れたので、びっくりした。こんな山の中を均して飛行場を作ったらしい。秋田市の中心部まで、50分ほどかかるようだ。


2.秋田市千秋公園


秋田県庁のギャグなのか不真面目なのかわからない「あきたびじ(ょ)ん」


 秋田には、一昨年に家族で竿灯を見に来たことがある。泊まったホテルでの余興にナマハゲがいて、幼稚園児だった孫がそれを見た瞬間、慌てて反対方向に逃げ出したのも、懐かしい思い出だ。今回は、秋田市の中心部にいて、周囲を散歩した。すると、県庁と市役所が道を隔てて向かい合っている。県庁の正面に、赤い地に色抜きで「あきたびじん」と書いてある。お米の銘柄の宣伝かと思って近づいたら、何と「」の字が小さく書かれていて、「あきたびじょん」となっている。「Akita Vision」のつもりらしい。少し痛々しい冗談を聞かされたときのような気がした。

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 その真向かいの秋田市役所は、新庁舎が完成し、つい2週間前の5月6日から業務を開始したそうだ。バルコニーの裏に、秋田杉がふんだんに使われている。最近の新しいビルのほとんどは、ガラスと鉄パイプでできていて、味気ないことこの上ない。その点、この新庁舎は、秋田杉のおかげで暖かい雰囲気がするので、立ち寄りやすい。ただ、そのせいで建物が古く見えてしまうから、良し悪しである。新庁舎の中に入ってみると、秋田らしく、竿灯がある。秋田市と姉妹都市になっている世界の都市もある。なんでこの都市と?と聞いてみたいところもあるが、よくわからない。

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 秋田市のHPによると、「秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国でも古い歴史を持つ大名です。関ヶ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣は久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設しました。以来、秋田市は久保田城下町を中心として近世・近代都市として発展してきました。

 久保田城は、慶長7年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。築城は慶長8年(1603)年5月に開始され、翌年の8月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃といわれています。久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています。現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として、また、桜の名所としても親しまれています。」
とある。


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 その久保田城跡である千秋公園に行ってみたら、このような掲示があった。「この公園は秋田20万石 佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。久保田城は慶長7年(1602)、常陸から国替となった初代秋田藩主 佐竹義宣が翌8年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。明治23年(1890)に城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治29年(1896)に秋田県に移管され、造園家 長岡安平の設計により整備された。昭和28年(1953)に再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和59年(1994)に、15代 佐竹義榮氏の遺志により秋田市に寄贈されて名実ともに市民の公園となった。千秋公園の命名者は秋田出身の漢学者・狩野良如で、『千秋』の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。」

御隅櫓


 千秋公園では、桜の季節はもう終わってしまって、ちょうど躑躅の季節となっていた。躑躅は、広い範囲に一斉に咲いて、しかも原色そのものだから、本当に見事だ。赤や白、紫や黄色の躑躅を見つつ、公園内に久保田城御隅櫓なるものがあるというので、それを目指してどんどん進んで行って、やっと見つけた。秋田市のHPによると、「久保田城内には八つの御隅櫓がありましたが、市政100周年を記念して復元された御隅櫓は本丸の北西隅に位置していたものです。櫓とは、見張り場としての役割と『矢倉』すなわち武器庫としての役割を持っていました。近世の櫓は、隅櫓と多聞櫓(多聞長屋)に分けられますが、土塁や石垣等の城の囲いに沿って建てられる多聞櫓に対して、城の囲いのコーナー部に建てられる櫓を隅櫓と呼んでいます。久保田城御隅櫓は、21世紀に向けて秋田市の発展を願い、史料に記されている2階造りを基本とし、その上に展望室を加えて復原されたものです。」とある。

 なお、千秋公園の入り口近くに、戦前から戦後にかけての国民的歌手だった東海林太郎の銅像があり、彼の歌が流れている。髪の毛が斜めに突き出していて、ロイド眼鏡で燕尾服、直立不動のスタイルで歌っていたので、私も覚えている。


東海林太郎の銅像



3.弘前市弘前公園


弘前公園から岩木山を望む


 弘前には、やはり一昨年、東北の三大桜の地ということで訪れて、弘前公園の夜と昼の桜を見にきたことがある。そのときは、「天守閣の御三階櫓」を支えている石垣が崩れそうなので、10年をかけて修理することになったばかりで、当初の位置にある見納めの年だった。

弘前公園の牡丹


弘前公園の天守閣


弘前公園の天守閣


 さて、それからどうなったかが気になる。東門から入り、美しい牡丹園を抜け、躑躅が咲き誇る所を通り、120年ものの染井吉野の古木の脇を通って下乗橋に差し掛かる。前回は、そこから「天守閣の御三階櫓」が、桜越しに見えたが、もう無くなっている。櫓は、市民に引っ張られて移動し、新しい場所に移っていた。そこに行ってみた。すると櫓の脇に木製の展望台があり、そこに立つと、櫓の脇に岩木山が見える。なかなかの演出である。感心した。その櫓の中には、どうやって動かしたかというビデオを見せていた。

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 弘前公園のHPによれば、津軽藩をめぐる歴史が記されている。それを要約すると、こういうことになる。

「津軽平野は、戦国時代、南部氏の支配下にあった。その中で、家来の数が300に満たない大浦氏の大浦城は孤立していたが、永禄10年(1567)、大浦為信(後の津軽為信)が18歳で婿養子に迎えられたことが、勢力を拡大するきっかけとなった。その為信の母は、岩手県久慈市の城主の後妻となって、為信を産んだとされる。ところが母は、先妻の子に家を追われ、14歳だった為信を連れて家を出た。母子は大浦城に身を寄せ、そこで為信は同じ年の大浦為則の娘、阿保良と相思相愛の仲となった。為則は2人の結婚を許したが、2人が結婚した翌月に父の為則が急死した。そこで、為信と阿保良は、『いつか主君である南部氏をしのぎ、津軽を手にしたい。』と津軽統一の野望を持つようになった。

 大浦為信は元亀2年(1571)に南部高信を討ち、ここから為信の津軽攻略の進撃が始まった。為信は、合戦に敗れた落ち武者や流れ者の中から有能な人物を召し抱えることで強力な側近武士団を作り上げた。 賭博場で見つけたならず者83人を手勢に加えたり、あるいは敵方の婦女子を襲わせるなどの卑怯な手を使ったりした。この出撃に当たり、阿保良はならず者たちに花染めの手ぬぐいに強飯を包んで与え、その士気を鼓舞した。 あるいは、戦で火薬が不足したとの急報が届くと、大浦城の留守を守る阿保良は、狼狽する家臣を尻目に侍女を集めて錫類の器物を持ってこさせ、自ら指揮をとって合薬を精製、戦場へと届けさせたという。こうした苦労の末、遂に為信は、天正18年(1590)、津軽地方の統一を成し遂げ、豊臣秀吉から津軽3郡の領有を認められた。慶長8年(1603)には関ヶ原での功績によって、徳川幕府から外様大名として津軽領有を承認され、高岡の地(現在の弘前)に町割りを行い、城の築城を計画したが、城が完成する前に、慶長12年(1607)に亡くなった。
(現代の津軽人と南部人の気質の差がしばしば話題になるが、こういう歴史があったのかと納得した。)

 その後を継いだのが三男の信枚(信牧)である。信枚は慶長15年(1610)から築城を始め、翌年には五層の天守閣を擁する高岡城が完成した。併せて城下町も整備されて、町の名称も、寛永5年(1628)に「高岡」から「弘前」へと改められた。信枚は、天海大僧正に導かれて天台宗に帰依改宗し、その縁で慶長16年(1611)、家康の養女の満天姫を正室に迎えたとされる。

 家康没後の元和3年(1617)、日光東照宮が建立されたが、この東照宮に津軽家が真っ先に城地を持つことが許され、これにより万一の場合でも東照宮を盾にすれば幕府さえも手出しができず、徳川の天下が続く限り藩の安泰が約束された。高岡城が完成してから16年後の寛永4年(1627)、不運にも落雷により天守閣が炎上した。翌年3層の櫓を再建し、これをとりあえずの天守閣とした。その際、天海和尚の命名で、城名を「高岡」から「弘前」へと変えた。天台密教の真言「九字の法」から選んだとされる。

 ところで、石田三成は関ヶ原の合戦で徳川に敗れ、刑死となったが、その遺児が津軽に逃げてきた。それが信枚の妻となる辰子とその兄である。その後、津軽が本州最北端にあることから、幕府は防衛上、津軽家との絆を強固なものとしようと考え、徳川家康の養女の満天姫を信枚の正室へと送り込んだ。そうすると、石田三成の子の辰子は身を引くしかなかった。しかし、辰子を大事に思う信枚は、辰子を現在の群馬県太田市に隠し、江戸と弘前を往復する際には必ずその大舘の地に逗留し、後に嫡男が産まれた。その子が5歳になった元和9年(1623)、辰子は病没したが、それまでの12年間、信枚の寵愛を受けたという。

 家康の姪であり養女である満天姫は、信枚とは再婚になる。大名家に嫁いだ徳川の女の多くは将軍家の威光を笠に威張っていたが、満天姫はその逆に、控え目な人柄で、むしろ嫁いだ家を第一に考える女性だった。 子供連れの再婚で、その子は岩見直秀と名乗り、家老の婿養子となった。津軽家では満天姫に子が授からなかったことから、辰子が生んだ子を引き取り養育することになった。満天姫は辰子の子を元服させ、信義を名乗らせた。信枚が寛永8年(1631)に没すると、その信義が3代目藩主の座に就き、満天姫は信義の母として津軽家を守ることとなった。ところが、最初の嫁ぎ先である福島家の子の直秀の福島家再興運動が信義の害となり、津軽藩の命取りになることを危惧しはじめた。

 寛永12年(1632)、実の息子の直秀が、満天姫がいくら自重を求めても聞き入れずに、9月24日、江戸に発とうと母を訪ねてきた。どうしても行くと言ってきかない息子に、満天姫は別れの盃をとらせた。その盃には、毒が入っていたので、直秀は絶命した。つまり、満天姫は、自分が腹を痛めて産んだ子を毒殺することで、婚家である津軽家を守ったのである。何とも凄まじい歴史であるが、徳川の敵だった石田三成の血を引く藩主を、その徳川の女が守ったことで、津軽家は安泰となり、来るべき太平の世に繋げることができたという。」


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 いやもう、本当に劇的な歴史である。驚いてしまった。あの美しい染井吉野の桜の陰に、こんな歴史が隠れていたとは、想像もしなかった。

青森銀行記念館


 ところで、弘前には、たくさんの歴史的建造物が残っているようだ。弘前公園の周りには、青森銀行記念館、旧図書館があったし、古い建物のミニチュアまであり、いかに市民に愛されていたかがわかる。


4.青森市の青龍寺・昭和大仏


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 青森にも、一昨年に家族でねぶたを見にきた。だから、今回はワラッセには興味がなく、代わりに早朝6時に起きて、青龍寺・昭和大仏を見学に行った。このお寺は昭和57年の建立で、いただいたパンフレットによれば、「開祖の織田隆弘師の『伽藍が無言の説法をする』という信念のもと、豊かな自然の中に昭和大仏、金堂、五重塔、開山堂、大書院、大師堂が整えられた。」そうな。

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 金堂から眺める枯山水の庭と、その向こうに立つ五重の塔は、なかなかの風景である。石庭の中の一つの石が、まるで牛のように見えるから面白い。庭の周囲も杉木立に囲われて、雰囲気がある。これが京都だと言われても、おかしくない。

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 さらに奥へと進んだところにある昭和大仏は、昭和59年に造られた日本一大きな青銅座像(大日如来)で、奈良や鎌倉をしのぐ21.35メートルとのこと。下からお顔を見上げると、同じ大日如来でも、奈良や鎌倉の大仏とは違って、優しげながらも少しくっきりとした表情もみせ、モダンな感じである。頭の上の宝冠にも色々な仏様のレリーフがある。この宝冠だけを見ていると、大日如来というよりは、観音様のような気がしないでもない。胎内にも入ることができて、自分の十二支に応じてお詣りする不動明王などの像が決まっている。私は、いつもの通りおみくじを引いてみたら、やはり「中吉」で、これもいつも通りであった。







(平成28年5月19日著)
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