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目 次 |
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| 1 | 長良川鵜飼の伝統芸能 | ||
| (1)鵜飼観覧船 | |||
| (2)宮内庁式部職 | |||
| (3)鵜匠のほか二名 | |||
| (4)鵜匠たちの出立ち | |||
| (5)鵜飼に使われる海鵜 | |||
| (6)鵜飼客へのおもてなし | |||
| 2 | 川原町の町並みの散策 | ||
| (1)長良川水運の中心 | |||
| (2)歴史ある大店ばかり | |||
| (3)泥棒よけと屋根神様 | |||
| (4)長良川の長良橋の陸閘 | |||
| (5)織田信長は尾張の人なのに | |||

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1.長良川鵜飼の伝統芸能 (1)鵜飼観覧船 おもしろうて、やがて悲しき鵜舟かな 松尾芭蕉が45歳のとき、「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」、この句を詠んだそうだ。 今回、私も芭蕉と同じように鵜飼観覧船に乗った。すると暗闇の中を、パチパチと勢いよく燃える篝火を焚きながら、鵜を操る鵜匠の鵜舟(うぶね)が一列縦隊で目の前を通り過ぎる。「狩り下り」だ。舟の舳先では、鵜匠に紐で繋がれた10羽ほどの鵜が水に潜り、鮎などの魚を咥えて水面上に上がってきて、魚の向きを変えて頭を下に飲み込む。ほんの一瞬のことだ。それが何羽も同時並行的に水に潜ったり水から上がったりしている。 そういう鵜舟が5隻、目の前を次々に通り過ぎる。結構な早いスピードであるし、しかも風向きがこちらに向いているから、篝火の火の粉が飛んでくる。目の中に火の粉が入ってもたまらない。だから、火の粉を手持ちの厚紙で避けながらの見物だ。これも一興かもしれないと、思わず笑えてくる。
その縦に連なった5隻の鵜舟が通り去ってあと、今度は「総がかり」といって鵜匠が「ホウホウ」と声をかけながら5隻が横になって鮎を浅瀬に追い込む漁が行われ、興奮は文字通りの坩堝に達する。それを潮に、次の瞬間、誠に呆気なくすべての鵜舟が暗闇の中を消え去っていった。すると「ああ、終わってしまったのか。」と、今度は急に虚脱感に襲われて、とっても寂しく物悲しくなる。なるほど、これが芭蕉も味わった「やがて悲しき鵜舟」の心境なのだと納得した。
(2)宮内庁式部職 乗船時にいただいたパンフレットによると、「鵜飼は鵜を使って魚を捕る伝統漁法で、長良川では1300年以上前から行われていました。かつては時の権力者に保護され、川の様々な権限が与えられていましたが、明治維新以降、特別な保護もなくなり鵜匠をやめる人が続きました。その後、明治23年からは宮内庁に属し、現在に至っています。岐阜市に6人いる鵜匠たちの正式な職名は宮内庁式部職鵜匠といい、世襲で受け継がれています。」とのこと。私が行った日は、平日だったので、6隻ではなく5隻の鵜舟が出た。
(3)鵜匠のほか二名 また、そのパンフレットによると、鵜舟は全長13メートルで、3人が乗船する。主役はもちろん一人の鵜匠であり、船首にいる。二人目は操船責任者である「とも乗り」で、その名の通り「とも」(船尾)にいて、舟を操る。三人目は「中乗り」で、舟の真ん中にいて、鵜匠やとも乗りの助手を務める。鵜舟の舳先には、篝棒(かがりぼう)の先に篝(かがり)という鉄製の籠を付け、それに赤松の割り木を入れて火を付け、これを照明とする。一隻当たり10〜12羽の鵜に、それぞれ手縄(たなわ)という2メートル半ほどの縄を付けて、鵜匠がこれを操る。 (4)鵜匠たちの出立ち
(5)鵜飼に使われる海鵜 鵜飼いの鵜には、体力のある海鵜を使う。茨城県日立市の海岸で野生の鵜を捕まえるそうだ。注文すると、その数だけ捕まえてもらう。鳥獣保護管理法第9条第1項第1号に規定する環境大臣の許可を規則第5条4号に基づいて得ているようだ。 鵜匠は、我々の眼の前で鵜に鮎を捕まえてさせて見せてくれた。鮎を咥えた鵜は、器用に獲物の方向を変えて魚の頭を下にして、一気に飲み込む。頭から飲み込むのは、鱗で食道を傷つけないためだ。ところが、飲み込んでも首に手縄(たなわ)が掛かっているので、魚はそこで引っかかってしまう。鵜匠は、首のその所に手をやって魚を吐き出させる。これが鵜匠の技だ。ただ、鵜も人間に横取りされるばかりでは生きていけないので、その手縄の締め方をある程度緩めることにより、小さい魚は呑み込めるようにしているそうだ。なるほどと納得した。 ちなみに、この鵜飼で採った魚には、鵜の嘴によってできた筋があり、これが鵜飼の獲物の証だそうだ。高級料亭で供されるそうな。こういう技を見て、いつも思うのは、最初に考え出した人は凄いということだ。しかも、それで、1300年間以上も食いつなげるというのは、さすがに発明した人は考えつかなかっただろうと思う。
(6)鵜飼客へのおもてなし
2.川原町の町並みの散策 (1)長良川水運の中心 ところで、鵜飼観覧船は、長良橋の南端から出る。その近くに、芭蕉と川端康成の碑がある。芭蕉の方は冒頭の句で、川端康成の方は恋人の伊藤初代さんを追って岐阜に3度ほど来たことがあるので、そのゆかりの地ということらしい。観覧船に乗る前にそこから南西へと続く湊町、玉井町、元浜町(まとめて「川原町」という)の街並みが、素晴らしいというので、ぶらりと歩いてきた。 案内人は、シルバー人材センターの方だ。この辺りは、かつて長良川の水運の中心だったようで、木材や美濃和紙、茶、関の刃物などの諸々の商品を扱う大店が連なっていて、大いに栄えたそうだ。なるほど、昔ながらの古い町家が並んでいる。家々の格子造りが、いかにもレトロな雰囲気を醸し出している。いずれも、狭い間口に長い奥行きだ。京の町家もそうだった。
(2)歴史ある大店ばかり 道の左手にまず現れるのが、美濃和紙と竹に柿渋を塗って作る伝統工芸品の「岐阜渋うちわ」の住井冨次郎商店である。涼しげな団扇が並んでいる。次いで、岐阜銘菓の「鮎菓子」の玉井屋だ。これは品が良くて美味しいお菓子で、私もお土産に買ってきた。道の左手には、1860年創業の旅館十三楼である。その前には手湯が設けられて、向いの建物に水琴窟(すいきんくつ)があり、良い音がするというが、この日は入ることはできなかった。そこでふと金華山の方角を見ると、建物の間に岐阜城が忽然と見えた。
(3)泥棒よけと屋根神様
(4)長良川の長良橋の陸閘
(5)織田信長は尾張の人なのに なお、私は岐阜駅に降り立ったのは30年ぶりだが、今昔のあまりの変化に驚いてしまった。駅は最近流行りのガラスとパイプでできている建築物だし、駅前広場に立っているのは金ぴかの織田信長像である。だいたい、信長は尾張の人である。今川義元を討ち取るために出陣したのは尾張の清洲城である。徳川家康との盟約の地も清洲城だ。斎藤一族を滅ぼして信長は岐阜に移ったが、岐阜にいたのは48年の生涯中で10年間にすぎない。それで岐阜が信長で売り出すのは、尾張贔屓の私としては、どうにも納得のいかないところである。 確か十数年前には、岐阜は古田織部の地だと言っていたような記憶があるから、ご当地の偉人というのは、いい加減なものだ。それにしても、駅頭に立ってみたら、昔の柳ヶ瀬の雰囲気はどこに行ってしまったのかと寂しく感じる。これでは、日本全国ミニ東京駅ができるばかりだ。情緒も何もあったものではない。
(平成28年6月4日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |

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