悠々人生・邯鄲の夢エッセイ








 彦根城への旅( 写 真 )は、こちらから。



 私は大学時代に彦根城を訪れたことがあるが、それはもう半世紀近くも前のことである。彦根城は、最近でこそ、キャラクターの「ひこにゃん」で少しは有名になったが、その頃は日本全国のごくありふれたお城の一つに過ぎなかった。しかし、江戸時代の天守閣がそのまま残っているという意味では、姫路城、松本城、犬山城、松江城と並ぶ国宝5城の中に入る。それに、何よりも、江戸末期に大老として開国を決断し、桜田門外の変で水戸浪士たちに暗殺された井伊直弼の居城である。もう一度、行ってみたいという気持ちが募っていた。そこで今回、三連休を利用し、祇園祭りの見物後に、彦根に行ってみることにした。帰りは、彦根から米原に出て、東海道新幹線で帰京すればいい。便利になったものだ。

 彦根駅の西口から、彦根城が遠望できる。駅近くのホテルに投宿し、美味しそうな夕食を食べたいと、駅前を歩きはじめた。ご多分に漏れず、こちらも駅前は寂しい。もう少し向こうのキャッスルロードの方に行くと、少しは賑やかな区画があるようだ。歩くにしてはやや遠いかなと思いつつ、そちらに足を向きかけた時、「先祖は、彦根藩御馳走奉行」という看板が目に入った。私も歴史好きの端くれだから、こういう文句には弱い。お店に入り、愛想のよいお嬢さんに、うな重を注文した。それなりの値段である。かなりの時間待った。炭火でじっくり焼いてくれているらしい。焼きあがって持ってきてくれたが、いかにも食欲をくすぐるようなタレの香りがブーンとして、鼻腔いっぱいに広がる。私はその日の午前中の祇園祭りの見物で、暑くて疲れきっていたから、これで元気回復だ。この鰻、実際に食べてみて、美味しいかというと、もちろん美味しいに決まっているが、まず蒸してから焼くという関東風の調理法に慣れていると、特に尻尾の近くは硬めに感じる。こちらは関西風だから、蒸さないでそのまま焼いているらしい。肝吸いも品良く仕上がっていて、たいそう満足した。彦根城には、翌日の午前中に行くことにした。チェックアウトは正午でよいというので、お城を見学して大汗をかいても、ホテルに帰ってきてシャワーを浴びればよいという心積もりである。


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 いただいたパンフレットによると、「慶長5年(西暦1600年)、関ヶ原の合戦時の功績により、井伊直政が石田三成の佐和山城とその所領を徳川家康から拝領した。慶長9年、直政の子直継が彦根山で普請を開始し、慶長11年にとりあえず完成した。その後、大阪夏の陣のあと、引き続き普請が行われ、元和8年(1622年)に今の形が出来上がった」そうだ。彦根城が明治維新のときになぜ残ったかというと、「彦根城は、維新後の明治5年に陸軍の所管になったものの、同11年に解体の決定がされた。そこで、参議大隈重信が天皇に上奏したところ、解体を中止することになった」と、城近くの石文に書かれていた。危ないところだった。

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 復元された馬屋の前を通って表門から入った。登り石垣の近くのまるで木のトンネルのようなところの階段を通って登っている。大したことのない階段なのに、登るのが結構大変だ。なぜだろうと思ったら、解説によれば敵の侵入時に疲れさせるため、わざと階段の幅や高さを変えたりして、工夫しているそうな。太鼓門、続櫓と過ぎて、やっと国宝に指定されている天守閣前の広場に出た。真近で仰ぎ見る天守閣は、実に美しい。正面の入母屋風破風、その直ぐ下の左右にピンと跳ね上がる唐破風、さらに下の三角形の形をした左右の優雅な三角形をした切妻破風が、見事に調和している。彦根城の中に入る。切り立った崖のような急な階段を何回か登って、最上階に着いた。まあその眺めがよいことといったらない。眼前には琵琶湖とその中の竹生島、そして市街地が広がり、眺めて飽きない。反対側には、佐和山城がある。隠し部屋まであって、いざという時には、城主を隠したのではないかと思われる。

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 天守閣から出て、近くの国名勝「玄宮園」に向かった。こちらは回遊式庭園で、江戸時代には下屋敷兼隠居所の槻御殿(けやきごてん)があったという。藩主の14男に当たる井伊直弼は、ここで産まれたそうだ。着いて池の回りを歩きだしてみて驚いた。よく手入れされた松といい、池の趣向といい、和歌にちなんだ国内の名所を模した橋などの造作といい、背景のちょうど良い位置に天守閣が見えることといい、東京の六義園のような著名な大名庭園にも勝るとも劣らない素晴らしい庭園である。いやいや、それ以上である。だから、どこから見ても写真になる。これには、驚いた。

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 「玄宮園」から、お堀に沿ってグルリと回り、彦根城博物館に入った。赤地に金色で「井」と書いた井伊家の旗、井伊家の兜、甲冑、刀剣、茶道具、能面や能装束などをじっくりと鑑賞した。また、帰り際に、お茶菓子付きの抹茶をいただいた。井伊直弼が父の死をきっかけに中堀に面した屋敷に移り、「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠んでそれを「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けたそうだが、時間がなくて行けなかったのは心残りである。

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 午前10時半から「ひこにゃん」が天守閣前でパフォーマンスをするらしい。それに間に合うように再びお城に戻って、待っていると「ひこにゃん」が出てきた。30度を超える猛暑の中で、あの縫いぐるみを着て30分間、演じるようだ。ご苦労様なことだ。さて、その「ひこにゃん」のパフォーマンスは、ちょっと体を傾けたり、手の先だけを動かしたりと、徹底的な省エネスタイルだ。それでも、上手に可愛らしさを醸し出していて、感心した。また、「ひこにゃん」に限らず、地元の人たちが、いかにこのお城を大事にして次の世代に引き継いでいこうとしているかが、よくわかった。それやこれやで、なかなか印象深いお城だった。

ひこにゃん公式HPによるプロフィール

 彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる"招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター。愛称の「ひこにゃん」は、全国よりお寄せいただいた1167点のなかから決定。また、巷ではひそかに「モチ」という愛称も……。

(注) 「ひこにゃん」が誕生して、今年で10周年になるそうだ。




(平成28年7月18日著)
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