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![]() 1.高岡御車山会館
2.菅野家住宅 高岡御車山会館から歩いて数分のところにある。家の前で一見してわかった。これは、川越の蔵造りの町屋とそっくりである。2階の窓には、分厚い観音開きの窓が付いている。大火の後に、このような町並みができることが多いと思ったら、やはりそうだった。いただいたパンフレットによると、 菅野家(すがのけ)は、明治初頭に5代に伝右衛門が北海道との通商などで家業を広げ財を築いた。明治22年(1889年)には、高岡銀行を設立、36年には高岡電灯を創立する一方で政界にも進出して、木津家や荒井家と並んで高岡政財界の中心的な存在として活躍した。 (2) 重要文化財菅野家住宅 母屋は、明治33年(1900年)の大火直後に再建された。土蔵も同時期の建設と推定される。大工棟梁に室田直助、左官には壁長が携わり、当時10万円という大金を投じて建てられたという。母屋は土蔵造り、2階建て、平入りの町屋で、黒漆喰仕上げの重厚な外観と正面庇の天井飾り、軒を支える鋳物の柱などの細部の華やかな装飾に特徴がある。土蔵は2階建てで蔵前も土蔵造りとし、大火の教訓を生かして防火に念入りにそなえた造りとなっている。当住宅は、質の高い伝統的な町屋が多く残る高岡市の中でも、大規模で最も質の高いもののひとつとして貴重であると評価され、平成6年12月27日に重要文化財に指定された。(ご子孫の方がまだ住まわれているらしい。) (3) 母屋の意匠 [構 造] 明治32年の富山県令51号「建築制限規則」により、繁華街における建造物は土蔵造りなどの耐火構造とすることが義務付けられた。菅野家は、2階には観音開きの土扉を備えた窓があり、両袖には防火壁が立ち上げられているほか、1階正面道路側と中庭に面する縁には、鉄板を張った防火扉が設けられ、一朝有事には貝が蓋を閉じたようになるなど、防火に配慮した構造としている。防火壁は釉薬を施した煉瓦で造り、屋根の小屋組みには土蔵造りとしては珍しい真束(しんづか=トラス構造の骨組み)の手法を用いるなど、時代を反映して洋風建造の要素を取り入れた構造となっている。 [意 匠] 外観は黒漆喰仕上げで、太い出桁とその先に何段もの厚い蛇腹を巻いている。また、棟には大きな箱棟を造って鯱や雪割りを付けるなど、全体として重厚な意匠となっている。一方では、防火壁正面の石柱、正面庇の天井飾りの鏝絵(こてえ)や軒を支える鋳物の柱などの細部の要所には、細かな装飾が施され、華やかな意匠としている。内部は、土蔵造りでありながら、柱や長押の部材が細かく、土蔵を意識させない。特に、ホンマなどの外向きの部屋は、数寄屋風で木割りが細かく全て白木の柾目の檜とし、天井板も屋久杉等の厳選された銘木をふんだんに使用している。壁は自然石を砕いた粉を混ぜた鮮やかな朱壁で、年月を経ても色落ちしていない。」 3.土蔵造りのまち資料館 菅野家住宅の少し先に、高岡市土蔵造りのまち資料館(旧室崎家住宅)がある。菅野家住宅に比べれば規模は小さい。やはり土蔵造りで、当時の商家はこんな感じだったのかと、その繁栄ぶりの一端が偲ばれる。綿布の卸売りを営んでいたそうだ。ここでも、いただいたパンフレットによると、 慶長14年(1609年)、加賀藩第二代藩主である前田利長が高岡に隠居城と城下町を作り、高岡の町が開かれた。そのときに商家町として町立てされたのが山町である。慶長19年、利長が築城5年で没し、さらに元和元年(1615)年の一国一城令によって高岡城が破却され、武士団が金沢に引き上げたために高岡は城下町としての存在意義を失ってしまう。高岡の窮状を憂えた第三代藩主の利常は、町人に他所転出を禁じて町年寄(町人の自治組織)を発足させ、魚問屋、塩問屋、米蔵、塩蔵を設けるなど、高岡を商工業の町へと転換させる政策を進め、以来、高岡は越中における米や綿などの集散地として繁栄した。中でも山町は長らく商都高岡の中心地として隆盛を極めた町である。 「山町」の呼称は国の重要有形民俗文化財・無形民俗文化財である7基の高岡御車山を保存、継承する十ヶ町に由来するもので、特に「山町筋」と呼ぶ地域は旧北陸道に面した町筋を指すものである。御車山祭は4月30日の宵祭に始まり5月1日の町内を曳き回される。 室崎家は、現当主で九代目となる歴史のある町で、明治初期にこの場所に移ったものであり、それ以前は道路を挟んで向かい側の小馬出町60番地に住んでいた。当家は昭和20年まで綿糸や綿布の卸売業を手広く営んでいた高岡でも屈指の商人である。現在は石油商を営んでいるが、室崎氏の転居に当たって市がこの土蔵造りの民家を資料館として整備し、一般に公開している。 山町筋の土蔵造りの建造物は、明治33年(1900年)の高岡の大火後の復興に当たって、防火に配慮した耐火建築として建てられたものである。土蔵造りの特徴は、外壁を黒又は白の漆喰で塗り込み、隣家境には延焼防止のための防火壁を設け、屋根は桟瓦葺きにして大きな箱棟や鬼瓦を乗せ、2階窓には観音開きの土扉を付けて、全面に下屋庇とそれを支える鋳物の鉄柱があるなど、外観は重厚な印象を与える意匠としている。一方、内部の意匠は外観とは対照的に繊細な数寄屋風に仕上げ、主屋と土蔵の間にある中庭は市街地にあって静謐な空間を創出している。旧室崎家住宅の主屋は東西道路に北面して建ち、その後方には中庭を挟んで土蔵が建っている。・・・その間取りは典型的な3列3段の通り土間型の町屋である。また、山町筋においては珍しく前庭があることや2階窓の観音開きの土扉のないことを除けば、山町筋の土蔵造りの特徴をよくとどめている。内部はザシキの壁を赤壁とし、柱や長押に銘木を使用して木割を細かくして仕上げている。また、土蔵造りの特徴の一つである通り土間が改造されることなく残されている数少ない町家である。 4.国宝 瑞龍寺 高岡駅前のホテルにいったん戻り、そこから南へ10分ほど歩いた。途中、農地があった。そこに見慣れない花が咲いていると思って、その場にいた農家の方に聞くと、ジャガイモの花だそうだ。それからすぐに瑞龍寺に着いた。伽藍がすっきりとしていて、門や建物の形が伸びやかである。こちらも、駅前の観光案内所でいただいたパンフレットによると、 5.高岡大仏 やはり、パンフレットによると、「奈良、鎌倉と並んで日本三大仏に数えられている高岡大仏は、伝統ある高岡の鋳物技術の粋を集め、30年の歳月をかけて昭和8年(1933年)に青銅大仏として完成しました。その出来栄えは素晴らしく、日本一のイケメン大仏様と言われています。総高15.85m、重量65t、すべて地元の手による大仏は、銅器日本一のまち高岡の象徴である。」とのこと。確かに、高岡大仏のお顔は、正面から見ても横から見ても、非常に均整がとれていて、非常に美しい。 6.雨晴海岸の名勝 義経岩 前日、富山からくっきりと見えた立山連峰 運が良ければ背景にこのような立山連峰が見えるのだが・・・ (平成29年5月21日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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