悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



川が生活の中心にある。




1.母の近況

 人間、それなりに歳をとると、来し方が懐かしく思うものである。現に私自身も、つい最近、小さい頃から高校時代を過ごした神戸北陸名古屋という全国各地の都市を順に訪ねて、思い出に浸ったものである。これらは、「なつかしの旅」として、このエッセイに収めている。

 ところで、私の父が7年前に亡くなった後、もうそろそろ90歳になる母が、北陸で、一人暮らしを続けている。昨年の春には、公民館の入り口で転倒して首筋を痛め、一時は歩くのもやっとという状態だったが、何とか回復して、とりあえずは歩き回れるようになった。ただ、そのせいかどうかはわからないが、やや耳が遠くなってきて、話し掛けるときは、少し大きな声でなければ聞こえなくなった。

 日常生活が心配なところだが、週に3度のデイ・サービス通いがあるほか、幸い、私の妹たちが近くに住んでいて、代わる代わるおかずを持って行ったり、買い物して冷蔵庫に入れたり、話し相手になったり、病院に連れて行ったり、ケアマネジャーと打ち合わせたりと、本当に良く面倒を見てくれているので、深く深く感謝している。

 ただ、それでは妹2人の負担が大きいので、私の義理の両親のように有料老人ホームに入ってもらおうと思って、妹たちの同意を得て、母に話を向けたのだが、「お父さんが建てたこの家に出来るだけ長くいたい。」という。加えて、当地はやや保守的な土地柄で、「親の面倒は子供が見るのが当然」という発想があるせいか、東京のような至れり尽くせりの有料老人ホームが、そもそも見当たらないという問題もある。さりとて、東京に連れて来るのは、妹たちと分断することになり、好ましくない。そういうことで、前に進めずにそのままとなっている。私と同様に地方に住む高齢の親を抱えている友達も、同じようなことを言っている人が多い。

 先日、東尋坊と永平寺を訪ねた帰り、実家に立ち寄ったところ、妹の一人が、母を連れてカラオケに行こうと言う。先日、母と初めて行ったところ、「北国の春」を熱唱していたそうだ。私は、カラオケは何十年ぶりだったが、行くことにした。姪っ子を交えて、親子三代と私である。母が慣れ親しんだ1945年から75年までの古い曲を選んで、母に一緒に歌おうとし向けると、テンポは緩いものの、一生懸命に歌っていた。私も、こんな歌の時代に、育ててもらったのかと、目が潤んできた。母も、何十年も前の歌詞を思い出して、ご満悦である。姪っ子が、最近の歌を歌いだすと、手拍子まで出てきて、絶好調である。これは、いわゆるボケ防止によいかもしれない。


2.行きたい所は生まれ故郷

 翌日、母に「どこか、行きたいところがある?」と聞くと、「生まれ故郷を見てみたい。」という。それは福井県の山深いところにあり、北陸自動車道を走って約3時間のところだ。私は、小学校6年生と大学生の時に、両親とともにそこへ行ったことがある。檀家だったお寺さんの裏庭に石ころがいくつもあって、これらが全て先祖のお墓だといわれたことを覚えている。

 母の家は、この地に代々住んでいた名主の家だったようだが、終戦前後の混乱期に戸主の放蕩や病死、農地改革や新円切替えの混乱で一挙に没落したそうだ。しかも母の母親は3歳の時に婚家で病死し、父親は田舎暮らしが性に合わず一家で都会に出たものの終戦直前にこれも病で亡くなり、母は祖母と妹を抱えて、未成年ながら戸籍上の女戸主になったという。それで終戦直後の混乱期を生き抜いたのだから、大したものだ。その頑張りのおかげで、我々があるので、感謝しなければならない。

 母自身は、その生まれ故郷には7歳までしかいなかったそうだが、このたび、その地を見たいというのである。もうすぐ90歳なので、その希望を叶えてあげないと、もうチャンスはないだろうと思って妹たちに意向を聞いた。すると、両手を挙げて賛成してくれて、しかも一緒に行ってくれるという。これは、絶好の機会だ。是非とも行かなければならない。

 山深いところゆえ、現地での宿の予約が鍵となる。調べてみると、母が通った小学校の跡地がたまたま旅館になっていて、幸い、そこを予約できた。次に、先祖代々お世話になったお寺を訪ねたい。十数年前にそこのご住職に来てもらって墓を移し替えたが、その時のご住職はもう亡くなり、その息子さんの時代となっている。電話をし、立ち寄って、お話しを願えないかとお聞きしたところ、快諾を得た。


3.祖母の実家の探索

 「他に立ち寄りたいところはありませんか。」と母に聞いたところ、自分の母親の実家だという。母は、「自分が3歳の時に亡くなったし、その後の戦中戦後の混乱期を挟んで、幼くして生まれた土地を離れ、それ以降生まれた田舎とは全く別の土地で生きてきたこともあって、交流は長らく途絶えているが、いつか訪ねてみたかった。」というのである。その実家は、母の生地の隣の集落で、姓はわかるが、住所は知らないとのこと。

 集落名と姓だけで、分かるものかと思ったが、もう一つの手掛かりとして、戸籍があった。父が亡くなったときに取り寄せた原戸籍が、手元にある。そこの祖父の欄を見ると、妻の欄があり、更にそこにその父親の名前と住所があった。ただ、達筆すぎて非常に読みにくい。さすがに名前はわかったが、番地が難しい。写真に撮って拡大し、「崩し字」事典と対比しつつ解読したところ、番地を何とか読むことができた。次に、グーグルで集落名と姓を重ねて、検索してみた。すると、その集落で当該姓を名乗る家は2軒しかない。しかも、その住所と電話番号が出てきたではないか。そのうちの一軒の番地が、先ほど戸籍から読み解いた番地と一致している。間違いない。この家だ。こんなに簡単に分かるとは思わなかった。インターネット時代の威力である。

 そこで、そのお宅に電話をしてみた。こちらの名前を伝えて、「親戚に当たるお宅を探しているのですが、そちら様のご先祖に、こういう名の方はいらっしゃらないですか。」と、先ほどの戸籍の名前を挙げたら、「確かに、それは私の先々代の名前です。」という話になり、そこから色々とお話をさせてもらい、今度、母を連れて行くことになった。そちらに行く道を確認するために、その住所をグーグル・ストリート・ビューに入れて検索したところ、あれまあ、何と、その方のご自宅まで拝見することができた。地方議会の議員をされている方のようだが、とても立派なお宅だった。


4.お寺さん訪問

 お寺さんでは、住職とそのお母さん(御新造さん)が待っておられた。まず本堂で読経をしていただいたのには、恐縮した。次に庫裏にて、過去帳とそこから抜き出した我が家の先祖の法名の一覧表をいただいた。その表に載っている最初の先祖は、文化13年(1816年)5月12日没で、次が文政元年(1818年)8月13日没である。残念ながら俗名はなく、戒名しか書かれていない。没年は、今から200年も前のことである。ちなみに、この頃に生まれた有名人としては、島津斉彬(1809年)、井伊直弼(1815年)、亡くなった有名人としては、喜多川歌麿(1806年)、杉田玄白(1817年)、伊能忠敬(1818年)などがいる。


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 それから、天保、弘化年間に亡くなった先祖が何人か書かれていて、明治期に入る。この辺りからは、戸籍上でも追跡できる。戸籍の最初に載っていた人物は明治17年没であり、この人は戸主で、確かに過去帳にもその年に亡くなった人物が載っている。ただ、過去帳では戒名しかわからないし、その一方で戸籍には俗名しか載っていないので、名前から確定することはできない。しかもこの人の場合、過去帳の没年は9月23日だが、戸籍ではそれが11月10日となっていて、ズレがある。ただこれは、役場への届出の遅れか、戸籍制度が始まったばかりの記帳の混乱によるものと考えれば、まず間違いなく同一人物だろう。現に明治29年と35年に若くして亡くなった兄弟については、過去帳と戸籍の死亡の日付けが一致している。間違いない。この辺りから、両方の文献の死亡の日付けが、一致又は近接してきている。戸籍制度がようやく確立したのだろう。

 それにしても、過去帳からよくこれだけの数を抜き出して一覧表にしていただいたものだ。もう90歳を超えた御新造さんがされたそうだが、心からお礼を申し上げておいた。お寺の裏手にある竹藪の一角に、我が家の先祖代々の墓がある。もはや苔むした石ころにしか見えないが、ご住職にそこまで案内いただいて、参拝をしてきた。途中の小道に、黄色い網がかかったような珍しい模様の蛇がいて、驚いた。


5.蕎麦打ち体験



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 名残惜しみつつ、厚くお礼を申し上げながら、そのお寺を辞した。午後の約束までまだ時間がある。たまたま、近くに蕎麦打ちを体験させていただけるお蕎麦屋さんがあった。そこで妹たちと3人で、蕎麦打ちに興じた。私は以前、蕎麦打ちをやってみたことがあったので、今回は主にカメラマンに回って、妹たちの蕎麦打ちを見守った。お師匠さんの指導の下、まず、蕎麦粉8、小麦粉2の割合で混ぜた粉を撒き、それに用意の水を半分注ぐ。それを、指先を下に曲げて左右にかき混ぜる。手のひらで混ぜてはいけないそうだ。ある程度混ざったら、残る水のうち8割方を撒き、また同じように混ぜる。最後にまた、わずかに残った水を打って全体をまとめ、今度は両方の手のひらで押すようにしていくと、丸まって横に広がり、クロワッサンのようになるので、それを縦にして同じように押す。これを何回か繰り返す。そして、両端を丸めるようにして内側に入れ、それをまた数回繰り返して、盛り上がった丸餅のような蕎麦球にする。それを、手のひらの手首側で押し付けながら回す。そうすると、綺麗な波形の模様がつくので、それをひっくり返して再び数回、同じようにする。

 近くの蕎麦打ち台では、小学生が数人混ざっていた。わあわあ、きゃあきゃあ言いながら作業している。ちょうど同じように蕎麦をこねる場面らしくて「美味しくなあーれ、美味しくなあーれ。」と、可愛い声で大合唱しているから、笑ってしまう。

 いよいよこれからが伸ばす工程に入る。麺棒を両手で爪を立てるようにし、真ん中から両端に向けて広げるようにして、蕎麦球を徐々に潰すように押し広げていく。当然、広がったものは丸い形をしている。このまま切ってしまうと、極端に短い麺と長い麺になってしまうので、「角出し」といって、伸ばしながら四角にする。これは結構難しい。麺棒を傾けながら押し、何とかそれらしくするが、厚さにムラが出来て、このままだと火が通らないと、師匠からダメ出しが入り、やり直してもらう。この工程は確かに難しい。師匠曰く。「昔はこんな工程はなかったが、全国蕎麦打ちコンテストが始まって、単に丸く広げるだけでは差がつかないので、この技法も腕自慢の対象として評価されるようになり、それで全国に一気に広まった。」

 蕎麦生地がようやく綺麗に薄く広がった。これからカットに入る。生地に片栗粉を振り掛ける。師匠は粉を摘んで一振りすると、白い粉が美しく均等に広がる。我々がやると、濃淡がひどくて、しかも数回に分けてやる羽目になる。それを折り畳んで、蕎麦切りの台にセットする。蕎麦包丁は手前まで刃が付いているので、注意するように言われる。白い木の板で作られたブリッジのようなガイドに当てながらその包丁で蕎麦生地を切っていくのだが、力は要らないものの、切る幅を揃えるとともに、食べごろの太さにする必要がある。これが細すぎるとまるでソーメン、太すぎるとあたかも名古屋きしめんになってしまう。コツは、切ったあと、包丁で進行方向にちょっと押し、そのときに必要な幅が出るようにすることだそうだ。まず師匠がお手本を見せてくれて、我々が続いたが、妹2人はなかなか上手だったが、私がやると、細すぎたり、太すぎたりで、これでは蕎麦屋になるのはとても無理だと感じた。


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 さて、所要時間50分で出来上がった。それで蕎麦を茹でてもらい、大きなザルに入れてもらって、ネギのみじん切り、鰹節、大根おろしを添えて、母も交えてツルツルと食べた。自分で言うのもなんだが、非常に美味しく感じた。蕎麦打ちは、大成功だ。


6.日本の原風景での人生の禍福



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 そのお蕎麦屋さんを出て、周りを車で一周した。この村をじっくり観察する。山間の河岸段丘に広がる典型的な中山間地である。川の両脇に広がる田圃には、たわわに実った稲が植わっていて、所々に曼珠沙華の赤い華が彩りを添えている。鮮やかな赤色をしたキノコもある。田圃が切れたところには美しく杉の木が植林されている。そのバックには、なだらかな山があり、さらにその背景には、蒼くけぶる遠い山々が連なる。まるで日本の原風景とも言える佇まいである。川の側の遊歩道を歩くと、川の色がライトブルーで美しい。川の周囲の崖からも、湧き水が次々に流れてくる。これが、水量が多い原因のひとつなのだろう。川の中ほどに、吊り橋が掛かっている。揺れるし、踏み板の隙間が大きいから、女性の中には途中で立ち往生する人もいる。これだけの急流の川だから、昔から水の事故があったのだろう。川のほとりには。観音様の像が建てられていた。

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 そこから更に山奥の方に、車を走らせる。途中、道の傍らには、お地蔵さまが道行く車を見守っている。山の中に分け入っていくと、栗もたわわに生っている。突然、大きな滝が現れた。水量も多く、それが左右に拡がっているからとても迫力がある。道路から、滝の流れのところまで降りられるので、見上げることができる。

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 「私たちの先祖は、こういうところで、少なくとも250年はいたのだなあ。幕末に開国しなければ、この幸せな農村でずーっと暮らしていたかもしれないね。」と、妹たちと語り合う。先祖代々の血と汗の結晶で、見渡す限りの田畑や山林を所有していたそうだが、我々の祖父の代でたまたま都会に出た終戦前後の混乱期に前述のような出来事がいろいろとあって家運が傾き、一挙に没落したと聞いている。仮に祖父がそのまま田舎に留まって普通の暮らしをしていたならば、その子孫の我々は今頃一体どうなっていたのだろうかと思う。そういえば、先程の蕎麦屋さんにも、昔々の我々の家の分家の流れをくむ人が働いていたし、近くの観光施設の切符のモギリをしていた人も、そういう我が一族の方のようだ。

 考えてみると、祖父があのままこの田舎に住み続けていたのなら、私も田畑や山林を守って伝統的な生活をしていたに違いない。それが母の時代になり、終戦直後の混乱期、父親が病に倒れた後に徒手空拳で都会にとどまり、母は父とともにその生活を確立した。それが、ひいては東京での今日の私の時代における発展につながっている。これと言うのも、祖父が田舎暮らしを嫌い、好き放題やってくれたからだと、むしろ感謝しなければならない。でなければ、今頃は猫の額のような田畑を耕したり、あるいはそれでは食べていけないのでこの地のどこかのお店で働いていたのかもしれないのである。世の中が封建時代のままだったら、それも悪くはないかもしれない。ところが、幕末にペリー提督がやって来て開国を迫られ、日本という国そのものが弱肉強食の列強国家群の前に投げ出された。その結果、国民を挙げてその力を結集しなければ、国として立ち行かなくなり、戦前は軍事強国として、戦後は経済大国としての道を歩んできた。私の父母も、私自身も、いわば田舎から呼び出されて、経済大国を作り上げるのに邁進してきたようなものである。そして、無一文のどん底の状態から、親子で努力に努力を重ねて、ようやく浮かび上がって来たというわけである。そう考えると、「人生、いや一家の禍福は、正にあざなえる縄のごとし」だと思えてくる。


7.母の実家

 さて、母の実家を訪ねる時間となった。カーナビに住所を入れると、懇切丁寧に案内をしてくれるので、直ぐに着いた。途中の田圃の畔に固まって咲く曼珠沙華の華が美しい。お宅では、ご当主と奥様がにこやかに迎えてくださった。私が当方の戸籍の祖母の欄をお見せすると、ご当主もわざわざ家系図をこしらえて用意しておられて、それが完全に一致していた。そこで、母のよもやま話を交えて話が弾み、時を忘れるほどだった。応接間の隣の仏壇の間で先祖の霊に拝ませていただき、その間の長押に掛かっていた写真の一つが、母の祖母だった。

 この地区は、終戦直後に大火に見舞われ、先祖代々の資料が全部焼失してしまったので、昔はどうだったかということは、村の古老も亡くなった現在、もはや知りようがないそうだ。そういう残念な歴史はあったものの、未だに伝統を守って、村の神事を行っているという。しかし、人口は、終戦直後には8,000人あったものが、今ではその3分の1になってしまったという。加えて、高齢化率も半分近くにまで上がってきたとのこと。そういうわけで、まだまだ話し足りない雰囲気ではあったが、おいとまする時間となった。


8.一般財団法人の宿

 この町には、一般財団法人が運営する和風旅館があり、4人でそこに泊まった。温泉があり、お湯は透明で、とろりとしている。妹たちは、「この温泉から出て来ると、お肌がすべすべになる。」と話している。夕食も、朝食も、なかなかのもので、大いに満足した。何よりも、母が出された食事のほとんどを平らげたのには、驚いた。日中の訪問では、折り畳み式の車椅子を用意したのだが、かなりの距離を歩いてくれたから、良い運動になってお腹が空いたのかもしれない。

 ともあれ、母にとっても、我々にとっても、記念すべき旅行となった。家に帰り着いてほっとしていると、母がポツリとこう言った。「次は、新婚時代を過ごした神戸に、行ってみたい。」・・・「うむむ・・・わかりました。」


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 母と神戸なつかしの旅








(平成30年9月25日著)
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