悠々人生エッセイ



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 恐竜と天空の城( 写 真 )は、こちらから。


1.福井県勝山市の恐竜博物館

(1)新型コロナウイルス禍の恐竜博物館

 入院した母を見舞いに北陸までやって来たが、急性期を過ぎてリハビリのために転院してからは面会禁止である。ここに居ても意味がないし、さりとてこのまま帰京するのも芸がないので、この際、近くを観光してくることにした。今年の2月中旬以来、新型コロナウイルスが猖獗を極めていたことから、全く旅行する気が起こらなかった。その点、今回は母の顔を見るためせっかく北陸まで来ていることから、少しくらいならまあ良いだろう。前回、福井県を訪ねたときは、永平寺と東尋坊への旅をしたので、今度は、永平寺の先の勝山市にある福井県立恐竜博物館と、更にその先の大野市の越前大野城を訪ねることにした。新型コロナウイルス禍だから、観光客はこんな所まで、まず来ないだろう。


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 最初に、福井県勝山市にある福井県立恐竜博物館に向かった。特急しらさぎで福井駅に着き、そこから「えちぜん鉄道」に乗る。よくこんなローカル鉄道が残っているものだと感心するほどだ。かつては木材と人絹織物を運んでいたトロッコ列車だったようだ。山間部を縫うように進んで、周囲の田園や山々という単調な風景にいささか飽きた頃、ようやく勝山駅に到着した。

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 何の変哲もない田舎の小さな駅だと思ったら、駅前のロータリーの芝生に親子の恐竜がいた。背景に日本家屋などがあるのは妙な気がしないでもないが、結構リアルな造型で、それを眺めているうちに、だんだん恐竜の里に来たという実感がしてきたから不思議である。そこからマイクロバスで川を越えて12分ほど乗ると、いよいよ博物館だ。遠くから銀色に光った卵状の半球ドームが見える。あれらしい。その直前の田圃の端に、大きなティラノサウルスの像がある。ただし、白いから妙な感じだ。これから、色を塗るのだろうか。

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 恐竜博物館に到着した。新型コロナウイルスのためか、入場に整理券を必要とするようになっていたが、この日は平日だったこともあって、ガラガラもいいところ。入口で入場料を払おうとしたところ、大人730円で、小中学生ですら260円だというのに、70歳以上は無料とのこと。わざわざ東京から来ているからというわけでもないが、これは有難い。遠路はるばるやって来た甲斐があったというものだ。もっとも、後述するように、ミュージアム・ショップで6710円も支払ったから、まあ借りは返したと思う。

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(2)動いて吠えるティラノサウルスは大迫力


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 ところで、この博物館の総工費は140億円、今年で20周年だそうだ。2018年の来場者は約93万人で、福井県の人口が約76万人だから、それ以上の人がやってきたことになる。まず、地上3階に当たる入口から長い長いエスカレーターにずーっと乗って、地下1階へ降りていくところから始まる。

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 降りたところにあるのは、ティラノサウルスのロボットだ。これは実に迫力があった。ウォー、ガオーとライオンのような遠吠えをしたかと思うと、頭や尻尾をそれらしく動かす。ロボットとはいえ、こんなものが時速60kmで襲ってきたら、人間など、ひとたまりもないと想像するだに恐ろしい。ちなみにこのロボット制作費は、2000万円という。案外、安いものだ。

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 この博物館には、44体の恐竜骨格の化石があり、そのうちカマラサウルス、アロサウルス、エドモントサウルス・アネクテンスなど10体が実物とのこと。例えばカマラサウルスは、1億5000万年前のジュラ紀後期に生息した草食竜である。この全長18mの全身骨格は、2億5000万円でアメリカの業者から購入したそうだ。また、日本で見つかっている恐竜の骨格8種のうち、1989年以降、福井県でフクイラプトル・キタダニエンシスなど5種で見つかっている。まさにこの建物にほど近い勝山市北谷の手取層群(てとりそうぐん)は、富山県、石川県、福井県、岐阜県にまたがる中生代ジュラ紀中期から白亜紀前期にかけての地層であり、恐竜や植物等の化石が多く発掘されることで有名である。


(3)恐竜の全身骨格の展示方法が変わる

 ところで、恐竜の全身骨格の展示方法は、最近の研究の成果で、昔とはかなり異なっている。例えば、上野の国立科学博物館のアロサウルス(1億5000万年前のジュラ紀後期に生息)は、かつて長い尻尾を引き摺る形で展示されていた。昔のゴジラのようなスタイルだ。ところが今では、重たい頭とバランスをとるために尻尾を地面とほぼ平行に展示するようになった。さらにティラノサウルス(6600万年前の白亜紀後期に北アメリカに生息)も、最近は鳩のように屈んだ形で展示されることがある。これは、コンピュータによる骨格の解析により、両脚と巨大な恥骨の3点で身体を支えることで、安定して座ることができたことがわかったからだという。例えば、獲物を待ち伏せたり、寝る時などは、この姿勢だったらしい。


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 ということで、色々と見物して、感心して出てきた。中には、私が興味を持っていた翼竜の化石が展示してあった。それは良いのだけれども、このなんの取り柄もない化石だけでは全然迫力がない。翼竜のロボットを作って、地上3階から吊るして飛ばしてみたらどうかと思う。南米大陸のコンドルのように優雅に飛んで、時々、翼を畳んで巣に戻り、そこには子供の翼竜が数羽待っているというのは、どうだろう。

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クリックすると、恐竜ロボットのビデオ・ファイルが自動的にダウンロードされるので、それを開いてください。


(4)栄螺の壷焼き

 その日は、勝山市内のホテルに泊まって、翌朝、タクシーで大野市に行くつもりだった。ところが、ホテルズ・ドットコムで予約しようとしたら、そのホテルはもう満室になっていた。この時期に満室になるなんて、一体どういうことだろう。不思議だ。まあ、それはともかく、勝山市からいったん福井駅に戻らなければならない。これは、駅前のホテルを直ぐに予約できた。

 午後6時過ぎにチェックインし、お腹が空いたのでその辺で食事することにした。カメラを持って出ると、まあこの福井駅前にも恐竜がいる。駅舎にトリケラトプスやティラノサウルスの絵が描いてあるが、それがとっても真に迫っている。また、駅前広場には、動いて吠えるカマラサウルスなどがいる。面白いと思う。

 せっかくだから海鮮料理が食べたくなり、居酒屋に入った。こんな時間だから、お客さんはほとんどいない。メニューを眺めて、いちおう「高級」と名打った海鮮丼と、それに栄螺(サザエ)を注文した。私がまだ小学生だった頃、一家でよく、三国や東尋坊の辺りの海岸線沿いにドライブし、冬はゆでたての越前蟹、夏は栄螺の壷焼きを食べたものだ。その時の美味しかった記憶があるから、メニューを見たとたん、栄螺を食べたくなったというわけだ。


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 目の前のコンロに栄螺を乗せて、自分で焼くそうだ。説明書きによると、(1) まず、栄螺のトンガリ帽子を上に、口を下に向けて、7分ほど焼く。(2) 濡れている表面が乾いてきたら、トングでひっくり返し、栄螺の口の蓋辺りに浜醤油を垂らす。(3) そのまま数分焼いて皿の上に持って来て、(4) 大きな爪楊枝様のもので蓋を外し、ぐるっと回しながら中身を引き出して食する、とある。その通りにやろうとしたら、そもそも蓋が外れない。とうとう、爪楊枝の先が折れてしまった。我ながら不器用極まりない。結局のところ、店員さんにやってもらった。身を口に入れる。すると、醤油の味が香ばしくて、美味しい。そうそう、まさにこの味だと、懐かしくなった。


2.大野市の佇まいと天空の城

(1)七間通りは江戸の雰囲気


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 翌朝、今度はJR越美北線の九頭龍湖行きに乗って、大野市に向かった。昔懐かしいディーゼル気動車だ。トイレがあるとは知らなかった。1時間に1本、1日に9本しかないので、乗り遅れると大変だ。2両あるが、後ろの車両は越前大野駅止まりで、そこで先頭車両を切り離して、九頭龍湖駅まで行くようだ。途中、朝倉氏遺跡が発掘された一乗谷を通り、山間部を駆け抜け、越前大野駅に着いた。勝山駅よりは大きい。でも、ガラガラと引っ張ってきていた小型スーツケースを預けようとすると、駅員が「ここにはロッカーがないので、あちらのバス待合所に行ってください」と言う。どうやら、公共交通機関で観光に来るのは、少数派らしい。「ロッカーが小さいと困るなぁ」と思いつつ行ってみたところ、案に相違して大型のスーツケースも入る大きさだった。


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 そこを出て、iPhoneのGoogleマップを見ながら、七間通りを目指す。朝市が開かれるという目抜き通りだ。左手に日吉神社がある。とても古い社だが、まずは中心部を目指そう。この通りは、六間通りというそうだ。かつて大火があり、その際、防火のために拡張された通りだという。龍光寺のところで右に曲がり、美登里旅館を過ぎると、目指す七間通りだ。そこに、弥生旅館という、黒い格子に囲まれた、ちょっと江戸の雰囲気のある建物があった。

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 左に曲がり、七間通りを歩き出すと、両脇の建物が、それと同じようなデザインだ。なるほど、統一した街並みにしたらしい。後ろから、ガタゴトと音を立てて車がくる。うるさいなと思って振り返ると、道路が花崗岩のブロックで、そこを車が通過するものだから、こんな音を立ててしまうらしい。ここまで江戸の雰囲気を残したいのなら、車の通行を制限すべきだろう。おやおや、この地方の有力銀行の北陸銀行も、いつもの赤と白の大きな看板が控え目となり、黒い格子に囲まれた江戸時代の大店(おおだな)のような建物になっていて、笑えてくる。その向かいの南部酒造は、スズメバチの丸い巣が掲げてあったりして、いかにも老舗という雰囲気だ。しっかり、卯建もある。

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 いただいたパンフレットによると、七間通りは、「400年以上も続く大野の名物『七間朝市』が開催される通り。江戸時代、越前と美濃を結ぶ『美濃街道』に当たり、多くの店が軒を連ねていました。現在も往時を偲ばせる老舗が立ち並ばます」とのこと。かつては、毎日、市が立っていたが、今では土日だけだという。

(2)自称「北陸の小京都」の十割蕎麦

 「越前おおの」は、「北陸の小京都」と言われるほど、歴史的な風情があるというのが地元の「自称」であるが、その後、一周した感じでは、それはちょっと褒め過ぎかもしれない。しかし、後述する幕末の藩政立て直しなど、小藩とはいえなかなかのものだと思う。人間、絶体絶命かと思いきや、知恵と工夫で何とでもなるという見本のようなものだ。それがこの山奥の小藩が成し遂げたというところが面白い。

 七間通りの右手に十割蕎麦屋があったので、開店直後に入ってみた。胡桃とおろしで2玉を食べるコースを選んだが、美味しい。どんどん食べられる。途中でもう1玉を頼んで、おろしで食べた。これが福井県の山間部の越前蕎麦の特徴で、たっぷりの大根おろしに薄く醤油を掛けたものに葱の輪切りと鰹節を用意して、蕎麦に一緒に掛けて食べるというものだ。素朴で実に美味だ。


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 その斜め向かいの店、朝日屋菓子舗に、名産「けんけら」という幟が立っていたので、何かと思って入ったら、大豆と水飴で捻ったように作ったお菓子で、きな粉で香ばしく味が付いている。確か、子供の頃に食べたことがある。懐かしくなって、少し買い求めた。色々な菓子類が氾濫している現代では、まず省みられない絶滅危惧種のお菓子の類だろう。

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 市内各所に、お清水(おしょうず)がある。清潔に管理されていて、そのまま飲めるそうだ。大野市は周囲を1000m級の山々に囲まれているので、その伏流水だという。まさに天然の恵みだ。

 なお、天正元年(1573)に、織田信長に負けてこの地に逃れてきた朝倉義景は、従兄弟の朝倉景鏡のすすめでこの地大野に逃れたが、その景鏡の裏切りにより義景はここで果てたという。その墓所があったが、いささか疲れたので、行くのは止めた。


(3)天空の城 越前大野城


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 東西に走る南北通りは、南北に走る本町通りに突き当たって終わる。そこで左に曲がって更に右折すると、「越前大野結ステーション」なる特産品販売所・レストラン・無料休憩所・駐車場がある。なるほど、ここが観光の拠点らしいが、新型コロナウイルス禍で、人がほとんどいない。駐車場には、木製灯篭があり、ちょっとそれらしき雰囲気を醸し出している。おお、そこから亀山(249m)の上にそびえる「越前大野城」が見えるではないか。惜しむらくは、思いのほか小さい上に、城の周りの木々が茂って全体が見えないことから、ますます小さく見えることだ。

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 写真家の間では、「天空の城 越前大野城」として有名である。ほど近い戌山(324m)に早朝登ると、10月から4月にかけて、市街地を覆う雲海の上にちょこんとその天守閣と天狗櫓が顔を出しているのが見え、その写真を撮ると、まさに「天空の城」になっているというのだ。ただ、自然現象なので、なかなか見られないそうだ。私はそこまで熱心でも暇でもないので、聞きおくだけだけれども、HPがあるので、それを見ていただきたい。それにしても、最初にこれを撮って紹介した写真家は、大したものだ。もっとも、途中はかなりの山道で、時として熊も出ると言うから、命懸けだ。

 越前大野城は、天正3年(1575)に織田信長の小姓衆・赤母衣衆であった金森長近により築城された。しかし安永4年(1775)の大火で焼失してしまった。寛政7年(1795)に再建されたものの、明治になって廃藩後、取り壊された。その後、旧士族の寄付によって、昭和43年(1968)に天守閣と天狗櫓が鉄筋コンクリート造りで復興された。いま我々は、それを見ている。


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 では、お城を間近に見るためにちょっと登ってみようと、亀山北登り口から歩き始めた。緑いっぱいの苔むした道を上がっていく。途中で小公園があり、子供の遊具があったりするが、誰がこんな所に子供を連れて遊びに来るのだろうと思う。この道では、それこそ熊が出でもおかしくない。よいしょ、コラしょと登り、初代城主「金森長親」の像のところに出た。なかなか威厳のある顔をしている。

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 そこを抜けて更に行くと、やっと越前大野城が目の前に現れた。あまりに近すぎて、なかなか全体像を撮りきれない。広角レンズを持ってくればよかった。やっと、左右の木々の間から、何とか全体像が撮れた。新型コロナウイルスの影響を受けたのだろうか、残念ながら城は閉まっていて、「越前大野城御朱印」を買い損ねた。

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 城の周囲を見渡そうとしたが、木々が育ち過ぎてあまり良く見えない。木立の間から何とか市街地がある東の方を見ると、美しい碁盤の目のように家々が並んでいる。次に西の方を見ると、田圃が山の際まで迫っていて、爽やかな風景だ。


(4)幕末の大野藩主「土井利忠」


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 文化8年(1811)、江戸に生まれ、わずか8歳で土井家7代目藩主となった土井利忠の像があった。そこにあった四阿の「幕末の大野藩の偉業」と題する顕彰の言葉を引用したい。

 「土井利忠は、文政元年、わずか8歳で大野藩主となった。当時の藩財政は苦しく、洪水、火事凶作など度重なる災害によって多額の借金をかかえていた。そこで、利忠による藩政改革は、天保13年(1842)、『更始の令』とあうかつてないほどの倹約令ではじめられ、まず、藩財政の建て直しと、有能な人材の登用及び養成を柱にしてすすめられた。


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 天保14年、藩校『明倫館』を開設し、内山隆佐ほか数人を世話役に抜擢した。藩の収入の百分の四を学費にあて、武士の子弟のみならず、庶民の子供たちも入学できるようにした。教科書には、朱子学を学ばせるため、四書五経が使われた。その他、武術、砲術などの訓練も含められていた。

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 また、藩が力を入れたものに蘭学の研究がある。安政3年(1856)には、藩校『洋学館』を開設し、緒方洪庵の適塾の塾頭伊藤愼蔵を教師に招いた。洋学の翻訳や出版された書物は多数にのぼり、さらに教えを受ける者は全国各地から集まった。

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 藩の財政を少しでもゆとりあるものにするため、内山七郎右衛門(良休)は、大野の産物を大阪やその他の都市へ売り出して利益をあげることを提案した、そこで、安政2年、大阪に『大野屋』を開店した。翌年には、北海道の函館、翌々年には、大野城下一番町に『大野屋本店』、さらに全国各地に店を出した。商品は煙草、生糸、麻、漆などの大野の物産、また面谷鉱山の銅、金銀を売り、藩の財政を助けた。

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 時同じくして安政2年、幕府より諸藩に対して、蝦夷地(北海道及び樺太)開拓を志願するものは申し出るようにというお触れが出された。そこで、幕府に伺いを立て、翌年、内山隆佐、早川弥五左衛門、吉田拙蔵らは、蝦夷地探検へ向かった。探検の結果を幕府に報告し、口蝦夷開拓許可願を申し出たが、許可は得られなかった。安政4年、再び蝦夷地の探検に向かい、奥蝦夷地(樺太)の西海岸での開拓を許され、早川は屯田司令となった。

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 このときに、早川らが最も不便を感じていたのは、藩に船がないことであった。そのため、内山隆佐は、利忠の許可を得て、江戸で長さ18間、幅4間、深さ3間の西洋型2本マストの帆船『大野丸』をつくらせた。そして、幕府の海軍所で操縦術を学んだ吉田拙蔵が船長となり、安政6年以後、敦賀〜函館を航行し、奥蝦夷地開拓に活躍し、奥蝦夷地が大野藩の準領地として幕府に認められるまでになった。

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 この頃、蝦夷地における大野藩の勢力を背景にして、大野屋の商売は先にも述べたように一段とのびていった。このほかに、他藩に先駆けて、福利厚生の面でも優れた治世ぶりで、安政元年に広く一般に種痘をすすめ、安政4年には『済生病院』を開設し、いろいろな治療にあたり、現在に通じる医療書を揃え、研究も怠らなかった。また、利忠は家臣のものに最新の高島流砲術を学ばせ、弘化3年(1846)に、領内で大砲を作らせた、そして、鉄砲も盛んに作られ、江戸にも数十挺が送られ幕府の警護にあてられた。

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 このように大野藩の洋式の軍備がよく整っていたことは広く知れ渡り、慶応4年(1868)には朝廷から函館戦争に参加するよう命じられ出陣するきっかけとなった。

 病を得た利忠は、函館に出兵した大野藩兵の無事を案じつつ、明治元年12月3日、大野に没した。享年58歳。」


(5)武家屋敷

 大野城下には、見学ができる武家屋敷が2軒ある。そのうち、まず幕末の大野藩家老として活躍した内山家の旧宅を訪れた。この二階建ての建物自体は明治15年に建てられたものだが、大野藩時代の武家屋敷の様子をよく遺しているという。

 藩主土井利忠に関する上記(4)に掲げた顕彰文にもあったように、「内山七郎右衛門(良休)とその弟の隆佐は、藩政改革に尽力し、殖産興業や人材育成など各種の事業で成果を上げました。七郎右衛門は特に、藩営商店の『大野屋』を開設、銅山経営など経済面で手腕を発揮し、多額の借財に苦しんでいた藩財政を立て直しました。万延元年(1860)、家老職に就きました。隆佐は蝦夷地開拓の推進、洋式帆船「大野丸」の建造、蘭学の振興、軍備の刷新等を行いました」大野市HP


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 床の間、仏間、台所などはごく普通の家だが、やはりお庭が立派である。この縁側に座って、全国三十数箇所に及んだ大野屋の経営や、蝦夷地や樺太の開拓に思いを馳せたのだろう。金勘定をするのはそろばん侍などと軽んじれた時代に、家老自らが藩の産品を全国に売りさばく一大チェーンを作り上げてこれを経営するなどというのは、普通の人にはできるものではない。内山良休の写真が残っているが、非常に意思の強そうな聡明な顔をしている。

 次に「旧田村家」を訪ねた。こちらは、大野藩家老だった田村又左衛門の屋敷で、文政10年(1827)の大野大火の後、近くの村から農家を移築して、これを武家住宅に改築したものである。庭園の築山が、実は大野城外堀の土塁であり、ここだけに残っている貴重な遺構だという。


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 元農家の建物だったと思わせるのは、囲炉裏の1mほど上に、竹を並べた棚のようなものがあり、棚として使っていたのかと思ったら、そうではなくて火の粉が飛ばないようにする防火設備だったようだ。色とりどりの風車が回っている。インスタ映えを狙っているのかもしれないが、いささか場違いだ。湯殿は、蒸気で身体を拭くものらしい。

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【後日談】恐竜のぬいぐるみ争奪戦

 息子のところには、孫娘ちゃん(小2)と直系くん(4歳)がいる。ご多分にもれず、この新型コロナウイルス騒ぎで、今年のお正月以来、直接会うのは控えている。週に1度、Skypeで顔を見ながら会話するくらいだ。二人とも、この夏は虫取りに熱中し、また最近は恐竜に凝っているとのこと。だから、福井県立恐竜博物館に行った時にそのことを思い出して、恐竜のぬいぐるみをお土産に買った。ティラノサウルス(茶と濃いピンクの2体)、トリケラトプス(緑)1体、海龍(薄いピンク)1体の合計4体である。ピンクは孫娘ちゃん、その他は直系くんのつもりだった。


恐竜のぬいぐるみ


 この4体のぬいぐるみを段ボール箱に入れ、恐竜博物館で撮った写真を何枚かと、私が平仮名で書いた手紙を添えて送った。息子の家にその段ボール箱が到着し、開いた時の様子を撮ったビデオが送られてきて、ビックリした。いやもう大騒ぎが起こっていたのである。

(段ボール箱から出てきた4体のぬいぐるみを前にして)

直系「このセットみーんな、ボクのものだ。」(おいおい、それは欲張りな)

孫娘「えぇーっ、ぜーんぶ? ちょっと、そーんな。いいから、わたしは、これとこれがいい。」

直系「だっめーっ。だめーっ。」

ママ「ほら、これは2人のだよー。おじいちゃんからのお手紙に、『きょうりゅうはくぶつかんに 行ってきました。ぬいぐるみを買ってきましたので、ふたりに送ります。なかよく分けてあそんでください』ってかいてあるわよ。」

ママ「ボクは、どれがいいの? 4つあるから、2つずつね。」

孫娘「これとこれ(と、ティラノサウルスを指さし)、それともトリケラ?」

直系「うーん、ティラノとトリケラ」

孫娘「じゃあ、、、私はこのティラノと海龍」(と、どちらもピンクを選ぶ。予想通り。)

直系「そのティラノは、ぜんぜん強くないよ。」
(と、妙な負け惜しみを言うので、笑ってしまう。)

(孫娘ちゃんは、さすがに歳上だけあって、ピンクの2つを確保して胸と膝の間に挟んだ後、『ちょっとこれ見せて』と、トリケラトプスのぬいぐるみを手に取ろうとすると)

直系「だめ、だめ、ギヤーーーーーーーー。」

 とまあ、、、凄い騒ぎになっていた。これが毎日だから、パパもママも大変だ。子育て、本当にご苦労様です。









(令和2年9月16日著、20日追記)
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